第85話 太守襲撃
一瞬、許欽は王朗が何を言っているのか理解できなかった。しかしそれは本当に理解できなかったわけではなく、脳が理解することを拒否していたのだろう。
絶句する許欽の代わりに許靖が口を開いた。
「太守付きの護衛は……帰したよな?」
「あぁ、この店には信頼できる若い衆がいてくれるという話だったので、帰したな。もう帰路の半ばだろう」
この店に来た時、店からの申し出でそうしたのだった。
その時に護衛の兵たちも、
「この店は行政に協力的な地元の名士が経営しておりますから、安全上心配いらないと思われます」
と言っていた。加えて、
「帰りは店の者に街まで送ってもらって下さい」
とも。
「護衛の兵たちが言っていた、この店は信頼できる、という話は嘘だったのか?」
「いや、それはあながち嘘でもない。確かに
許靖は王朗に付いて
記憶をたどり、謝煚の瞳の奥の「天地」を思い浮かべる。
「……確かに。あの方の店ということなら信頼して良さそうだが、実際に経営しているのは息子だったのか」
許欽は二人の話を聞きながら、自分の顔色が次第に青ざめていくのを自覚していた。
「申し訳ありません、私の危機感が足りないばかりに……」
王朗は首を横に振って許欽の言葉を否定した。
「危機感が足りないという点では私も、護衛の兵たちも同じだ」
「まぁ、この乱世にやっていいことではなかったな」
許靖も王朗に同意した。
平時ならいざ知らず、今は乱世だ。そもそも郡の乗っ取りなど、乱世でなければ成立しないだろう。
地元の豪族が太守を
考えてみると、いかにもありそうな下剋上の図式だった。
「仮に、あの秘書が私を
「順当に考えると実力行使、だろうな」
許靖が王朗の言葉を継ぎ、許欽は絶望的な気持ちになった。
「……し、しかし、必ずしも今日仕掛けてくるとは限らないのでは?」
許欽の望みを王朗は言下に切って捨てた。
「希望的観測だな。精神衛生上はいいかもしれんが、現実問題の解決には繋がらんことが多いだろう。どれ、ちょっと確認してみるか」
王朗はおもむろに立ち上がると、個室から廊下へと顔を出して従業員を呼んだ。
すぐに従業員が駆けてくる。
「お呼びでしょうか?」
「今日は気分が良いから酒を過ごしてしまいそうだ。出来ればここに一泊させてもらえないだろうか?」
「は、はい喜んで!!では夜具の用意もしておきましょう。どうぞ、ごゆるりとなさいませ」
従業員は顔を明るく輝かせて、厨房の方へと駆け戻っていった。
王朗はそれを見送ると、人差し指を立てて許靖と許欽に静かにするよう求めた。部屋の窓と廊下の窓から聞こえてくる音に耳を凝らす。
初めは川の水音しか聞こえていなかったが、しばらくすると人の話し声やバタバタとした物音がかすかに聞こえてきた。
何を言っているのかまでは分からなかったが、店の周囲をそれなりの人間が固めていることだけは推察できた。
「……間違いなさそうだ。この店は囲まれているな」
王朗は相変わらずの無表情で結論を口にした。
許靖もそれに同意した。
「あぁ。少なくとも普通には帰られそうにないな。とりあえず今ので夜半までは時間を稼げたと思うが……」
許靖が窓の外に目を向けると、落ちかかった夕日が川の水面に反射していた。もう少しすれば完全な暗闇に包まれて、灯火なしでは食事もできなくなるだろう。
許欽は目を白黒させながら年長者二人の会話を聞いていた。
突然の事態にも二人は全く取り乱した様子が見えない。しかし状況としては、いつ命を落としてもおかしくはないのだ。恐ろしくはないのだろうか。
許欽はその疑問を直接口にした。
「ち、父上たちはどうしてそこまで冷静でいられるのです?こ、こんな危険な状況で……」
許靖はどもる息子を落ち着かせるために、優しく微笑んでから答えた。
「私はもともとが臆病者だ。当然怖い。だが、私が落ち着いていられるのはお前がいるからだよ、欽。子供の前では、親は自然と頼れる大人でいようとするものだ」
その言葉の通り、許靖は正直に言えば恐ろしかった。だが、息子がいることで取り乱さずに済んでいる。それどころか、出来るだけ落ち着いて見せなければという義務感すら感じていた。
これは親にならなければ分からない、不思議な感情だろう。この心の働きで親になれば誰でも大人びるし、少なくとも許靖は親になって初めて大人になれたと思っている。
微笑む許靖とは対照的に、王朗は表情をピクリともさせずに答えた。
「私はもともと、いつもこんなものだ」
王朗らしい答えだった。そしてそれこそが、王朗が王朗である
許欽は無理やり苦笑いをするしかなかった。
「……夜半までは安全なのですか?」
「ここに一泊すると伝えたからな。起きているうちに襲うよりも、寝ている間に襲ったほうが確実だろう。だからその伝達で外がバタバタしていたのだ」
王朗は従業員に泊めてくれと頼むことで、包囲されていることの確認と夜半までの時間稼ぎをしたのだ。
そして許靖もすぐにその意図に気づいたようだった。
(この人たちはどういう頭の構造をしてるんだ……)
危機的状況で、この頭の回転の速さ。許欽は今後成長しても、この二人のようになれそうな展望を持てなかった。
王朗は席に座り直すと、箸を手にした。
「さて……なんにせよ、いただく物はいただくとしようか。食べながらどうするか考えよう」
そう言って食事に再度手を付け始める。
許欽は平然と料理を咀嚼する王朗に再び驚いた。
「だ、大丈夫でしょうか?毒など入っているのでは?」
「毒殺するなら店を囲んだりはせんだろう」
許靖も王朗に同意して食事を再開した。
「そうだな。こんな良い食事には滅多にありつけん。欽、せっかくの王朗の馳走だ。お前もしっかりいただいておけ」
許欽は父に促されて箸をとったが、食が進まない。
命の危険が迫っているのに、味など分かるわけがなかった。
ごく普段通りの様子で、汁物が絶品だとか、魚の味付けがどうだとか言っている父と王朗が、だんだんと憎たらしくなってきた。
今さら反抗期でもないだろうが、父の横顔を上目に睨んでみる。
不思議なもので、腹を立てるにしたがって徐々に冷静になってくる自分を感じた。普通なら怒りなど冷静さとは真逆の感情であるはずだが、恐怖にかられている時には精神安定剤になることもあるらしい。
許欽は人の感情についての不思議に思いを巡らせながら、冷めかけた汁椀を取って口をつけた。
「……美味いな」
その汁物は、確かに絶品だった。
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