第84話 太守襲撃

 結局、許欽が結婚を決意しないまま半年が経った。


 許靖としては子供にそういった事をうるさく言いたくはなかったし、実際にそのような話をすることはほとんどなかった。


 しかし息子一人の問題ならまだしも、相手がいることなのだ。しかもその相手は家族同然で過ごしてきた娘のような子で、決して傷つけるわけにはいかない。


(本当なら、今日のように息子と酒を酌み交わすついでに話したいものだが……)


 許靖はそう思いながら、王朗の杯に酒を注いでやった。


 息子とサシで飲んでいるならともかく、今日は王朗と三人だ。身内の恥を晒すようで、話題にしづらい。


 三人は街から少し離れた隠れ家のような店で飲んでいた。


 周囲に民家はなく、虫の声や鳥のさえずりがよく聞こえる。店のすぐ下に川が流れており、その水音も公務に疲れた体に心地良く沁みいった。


 多少値は張るが、料理も酒も雰囲気も上等な店だった。


 普段は贅沢などあまりしない三人だったが、今日は王朗が許靖たちの働きへ感謝して席を用意したのだ。王朗は表情や感情の変化が乏しい男だが、決して礼や思いやりがないわけではない。


(王朗になら身内の話を聞かれてもいいか。恥を気にするような間柄でもない)


 許靖はそう思い直した。それに、王朗なら面白がって他人に吹聴するという心配も皆無だ。


 部屋には許靖、許欽、王朗の三人しかいない。護衛すらいなかった。


 この店は郡に協力的な地元の名士が所有している。従業員も含めて安全とのことだったので、護衛の兵たちは一足先に帰してやっていた。


 許靖は許欽の結婚に関する話題を口にしようとしたが、その前に王朗が口を開いた。


「お前たちのおかげでまともに仕事ができるようになった。本当に感謝している」


 そう言って深々と頭を下げた。


 太守に頭を下げられて、許欽は恐縮した。


「王朗様、顔をお上げください。私たちの力ではなく、周りの方々が王朗様自身を正しく理解できた結果です」


 許欽はそう謙遜してみせたが、実際のところ許靖親子が来ていなければ会稽郡の行政は早々に崩壊していたことだろう。


 二人が来てからこの半年の間に、王朗の会稽郡での立場は劇的に改善した。


 だがある意味、許欽の言ったこともあながち間違ってはいない。二人はあくまで王朗の良さと扱い方を、役人や民に知らしめることを主眼に置いて動いてきたのだ。


 多少扱いにくいとはいえ、そもそも王朗が善良で高い能力を持っているからこそ好かれることができたわけだ。


 許靖は息子への話をいったん諦めて、王朗にずっと気になっていたことを尋ねた。


「欽の言う通りだ。だがずっと思っていたのだが、お前はあそこまで言葉の足らない人間だったか?」


「……?過去にもお前から、言葉が足らないと何度も言われた記憶があるが」


「確かにそうだが、それはお前の頭の回転が早すぎて周囲がついていけないから、その分をきちんと補足しろということだよ。しかし、ここでのお前はまるで初めから話すのを拒否しているようだった」


 王朗はなるほど、と一つ相槌を打ってから杯を傾けた。


「お前たちが来た前日に秘書辞めたと言ったのを覚えているか?」


 許靖は半年前の記憶をさかのぼって視線を宙に漂わせた。


「……あぁ、そういえばそんなことを言っていたな」


「あれは私が赴任した当時からの秘書だったのだが、初めの頃にそうするように言われてな。『太守ほどの立場の人間が逐一説明すべきではない。理由がどうあれ太守の命令は絶対でなければ組織が保てないし、太守が細々とした説明などしていては小さく見られる』と。前任者の時からいた役所付きの秘書だったので、郷に入っては郷に従えとはこういうことかと思って言われた通りにしていた」


 その秘書も秘書だが、言われたまま行動する王朗も許靖はどうかと思った。


 学問や理屈ならば強い男だが、太守などのように通論のない事案に関しては、むしろ思考が硬直してしまうのかもしれない。


「……その秘書は、程度というものを考えなかったのかな。いや、それよりも自分も辞めるほどに事態が悪化しても、訂正しなかったのか?」


「説明しないことに関しては、私も何度かこのままで良いのかをその者に確認した。が、そのままで良いと言われた」


 許靖たちが来てからの王朗は、それ以前と比べて随分と説明をするようになっていた。もちろん許靖にそうするよう強く言われたからだ。


 ただ、それでも一般人と比べて頭の回転が早すぎるため、許靖や許欽が質問を挟んでやる必要がかなりあったが。


 それでも最近は役人たちも『質問をしなければ分からない』、『きちんと理由を聞けば必ず道理が通っている』ということが分かってきた。


 だから『進んで質問をする』か、『質問せずとも、どうせ正しいのですぐに実行する』かのどちらかになっていた。


「あの、その秘書の方に関してなのですが……」


 許欽がおずおずと口を開いた。


 しかし言おうかどうしようか迷っているようで、そこで言葉を切ってしまった。


「なんだ?」


 許靖は言いづらそうにしている息子に先を促した。


「……確度に自信のない話なので言うべきか悩んでいたのですが、その元秘書の方に関して良くない噂があります。何でも郡の豪族であるシャ氏のドラ息子と繋がっていて、郡の乗っ取りを画策しているとか」


 許靖は目を丸くした。郡の乗っ取りとは穏やかでない。


「なに?それは聞き捨てならない話だが……お前が今まで黙っていたということは、情報の出どころが不確かなのか?」


「はい。役所の職員の噂話や、街の市での噂話程度のものでして……話している人間に尋ねても情報の大元がはっきりしないのです。そういう噂だ、ということしか」


「しかし、その噂を耳にする頻度が多い、と言うことだな」


「おっしゃる通りです。もうかれこれ五度も同じような話を別々のところで聞いたので、そろそろ本腰を入れて調べた方がいいかも知れないと思っているところです」


 許靖は不穏な情報に眉を曇らせたが、王朗は全くの無表情でいた。


 無表情のまま、なんの感情も読み取れない口調で言った。


「なるほど。それは分かったが、もう少し早く教えてもらった方が良かったかもしれない」


「申し訳ありません。今後はこのようなことがあった場合、速やかに……」


 萎縮して頭を下げようとする許欽を、王朗は手を上げて制した。


「確認だが、謝氏のドラ息子というのは謝倹シャケンという男のことで間違いないか?」


「はい、その方です」


「この店は、その謝倹が経営している店だ」

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