第83話 王朗

「要領はだいたい分かりました」


 許欽がこの言葉を使った時、大抵はその仕事を安心して任せられるだけの理解ができていた。


 仕事をほぼモノにできたことの印のようなものだと言える。


(そもそもこの子は、要領がいい)


 許靖は親のひいき目だけではなく、客観的にもそう思っていた。


 小さい頃からそうだった。器用で、物事の要点をよく理解している。


 今回その許欽がこの言葉を使ったのは、王朗オウロウの秘書のような仕事を始めてから十日目の帰り道だ。


 この十日間、許靖と許欽は王朗に付いて様々な部署を回った。そして、どの部署でも似たようなやりとりを繰り返した。


 王朗が何かを命じる。説明不足で職員が反発する。許靖が王朗に上手く質問することで、間接的に王朗の説明を聞かせる。この時、可能なら職員への高評価や感謝の言を引き出す。職員は納得し、太守への好感度を上げる。


 ざっくり言えば、こういった流れだ。


 ここ最近は許欽も上手く質問している。若い許欽が質問した方が、許靖が質問するよりも自然だった。


 王朗の意図や組み上げた道理が分からなければ上手く質問できないわけだが、許欽は多くの場合ある程度だが理解できていた。


 ただし、道理の把握・組み立てに関しては、王朗は抜群の能力を持っている。説明前からそれを完全に分かれというのは無理な話だ。


(私でも王朗の説明が想定の斜め上をいっていたことが何度もあった。理屈では王朗には叶わない)


 許靖は改めてそう思い知らされた。


 だが完全には理解できなくとも、そう遠くない質問をすれば王朗は理路整然と説明してくれる。若く経験不足の許欽でも、地頭が良いので何とかなることが多かった。


「王朗様のことを好きになってくれた方もだいぶ増えましたし、仕事もやりやすくなっていきそうです」


 それに関しては許靖も同感だった。この十日間で、意外なほどの改善が見られた。


 役人たちの王朗に対する印象は急激に良くなっている。初めのひどい態度が嘘のようだった。


「おそらくだが、温度差が大きいことが原因だろう。これまでの好感度があまりに低かったため、その反発でとても良い人間に見えるんだ。実際に王朗自身は善人で、私利私欲も極めて小さい。行動力もあり、必ず理屈の通った善行をする。我々はそれを周囲の人間にも分かるように誘導してやればいい」


「はい、王朗様が職員の方々に好かれるように計らいます」


 許靖は息子の言葉に対し、首を横に振った。


「いや。当面はそれで良いかもしれないが、先々まで考えるとその認識は少し改めたほうがいい」


「……と、言いますと?」


「好かれるようにする必要はない。最も重要なのは、役人や民に王朗の本質を理解してもらうことだ。『道理にかなった行動をする善人で、抜群に頭が良い』『ただし説明が足らないことが多く、理屈も難しいことが多いため、積極的に質問をしてもらう必要がある』。そういった欠点や必要な接し方まで理解してもらうことが大切だ。そもそもが能力の高い善人なのだから、周囲が扱い方さえ間違えなければ放っておいても善政が布けるだろう」


「……なるほど」


(私は、一生父上には敵わないのではないか)


 許欽は横を歩く父親に対し、重い石像が倒れてかかってくるような重圧を感じた。


 自分もここ数年で世間を知り、一端の人間になったつもりでいた。しかしこの人には勝てる気がしない。


 自分は目先のことだけを考え、人に好かれるのは良いことだという甘味の強い認識しか持っていなかった。


(要は、若造なのだ)


 自分でそう思えるだけの心根があればこれから困ることも少ないだろうが、少なくとも許欽はそう考えて自省した。


 一方、許靖は許靖で息子の成長と能力を眩しく感じていた。


 横目で息子の瞳の奥の「天地」を見やる。そこには豊かな動植物に満たされた森が広がっていた。


 木々は天に向かって勢い良く葉を茂らせ、その木漏れ日の中に彩り豊かな花々が咲き競っている。花には蜜を求めて虫たちが集い、水辺には兎や鹿などの動物たちが憩っていた。


 美しい森の光景だが、許欽の「天地」の肝はこれではない。それは、森の中でたたずむ一人の人間だ。


 この人間はただ森の中に立っているだけではない。木が茂りすぎて日差しが弱まれば、枝を間引く。そうしなければ、根本の草花に日が届かないからだ。


 草花が茂り過ぎればそれも刈る。風通しが悪ければ病気の原因にもなるからだ。


 この人間は森の調整者なのだ。森が健全に栄えられるよう、均衡を整えるのが仕事だった。


(この子は産まれながらにして、均衡を整える調整者だ)


 許靖はそう評していた。


 他人の気持ちや社会的状況を敏感に感じ取り、なるたけそれらを崩さぬよう動いていた。さらに言えば、それが出来るだけの賢さと倫理観・世間的な一般常識を持っている。


 これまで孔伷コウチュウ陳温チンオン許貢キョコウの付き人のような仕事をさせてもらい、今も王朗を支えるような仕事をしているが、ある意味でそういった仕事に最適な能力と言えるだろう。


(どのような場でも、その環境・状況を上手く調整してくれる人間は重宝されるはずだ)


 許靖はそう思い、息子のこれからが楽しみだった。


 とはいえ、初めから上手くそれができたわけではない。


 許欽の「天地」がまだしっかりとしていない少年時代、許欽の通う私塾で一部の友人たちが集団になって教師に反抗を始めたことがあった。


 教師があまりに生徒に対して高圧的で理不尽だったことが原因だが、彼らは親をも巻き込んでその教師を辞めさせることに成功した。


 そこまでは良かったのだが、彼らは後任の人の良い教師に対しても好き勝手を始めたのだった。


 許欽は初め、友人たちを応援していた。教師とはいえ過ぎた理不尽は許せなかったのだ。


 その頃の許欽の瞳の奥の「天地」では、森の中の男が兎や鹿などの小動物をとても可愛がっていた。


 しかし、その小動物たちは次第に数を増していき、気づけば森の草木を食べ尽くしてしまいそうなほどに増えていた。その頃、現実世界では反抗していた友人たちが、新任の教師に対する嫌がらせを始めていた。


 許欽は悩んだ。許靖と花琳も、家で今までにないほど無口でいる息子を心配していた。


 そしてある日、許欽は私塾でその友人たちの一人を殴って帰ってきた。


 許靖と花琳は驚いた。息子がよその子に手を上げてしまったことよりも、息子が人を殴れるような心の芯を持っていたことに対してだ。


 その日の許欽の瞳の奥の「天地」では、人間が泣きながら動物たちを狩っていた。そうしなければ植物が食べ尽くされてしまうことを理解したのだろう。


 そのようして許欽の「天地」の調整者は成長していき、常に美しい森の楽園を築けるに至った。


 許欽はどこへ行っても大抵の環境で上手くやっていけるし、その場に『安定』という恩恵をもたらすことができる。状況の変化にも柔軟に対応できるだろう。


 ただ、その器用な息子がどうも上手くやれていないように思える事案が最近目についた。


 許靖は父としてそれがずっと気にかかっていたが、今日この帰り道に口にしてみることとした。


「なぁ、欽。お前と芽衣のことだが」


 許欽の体がギクリと固まった。明らかにこの話題に動揺している。


「な、なんでしょうか?」


「いやな。お前が一体どういう気持ちでいるのか、これからどうするつもりなのかを一応確認しておきたいのだが」


「どう、と言われましても……」


 許欽があまりはっきりと物を言わないので、許靖ははっきりと聞いてみることにした。


「芽衣と結婚する気があるのか?……というか、薄々感じていたのだが、もしかして芽衣とはもう男女の関係なのか?」


 兄妹のように育ってきた二人に対してこのような質問をするのは気が引けた。しかし、もしそうならば親としては色々と考えておかなければならない。


 許欽は宙に視線を漂わせながらしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「薄々感じていた、ですか……」


 許靖には息子の言葉の意図が分からなかった。


「……?ああ、そうだが?」


「いえ、やはり母上はすごいなと思いまして」


 許欽はため息をつくようにそう言った。


「花琳が?どういうことだ?」


「いえ、母上にはその翌日に見抜かれていたものですから……あぁ、でも小芳さんにもすぐにバレていましたから、母上がすごいというよりは女親がすごいと言うべきなのかもしれません」


 息子の言いように許靖の頭は多少の混乱をきたしたが、だんだんと理解してきた。


「な、なるほど。すでにもう、か……」


 つまりは、そういう事だろう。花琳から何も聞いていないことに釈然としない部分もあったが、それはそれだ。


 しかし、それならそれで父親として息子に言わなければならない事もある。


「分かった。しかしな、お前たちはまだ正式に結婚しているわけではない。一応、物事には順序というものがあってだな……」


 許靖としては一々そのような事を言いたくはなかったが、そういう時代なのだ。儒教的な倫理観もある。


 しかし、息子の反応は許靖の予想だにしていないものだった。


「そんな事、私に言われても知りませんよ!」


 許欽は不貞腐ふてくされるように叫んだ。


 これもまた許靖の頭を混乱させたが、少しずつ状況の想定が組み上がってきた。


(芽衣は許欽よりも積極的なようだった。そして女とはいえ、許欽よりも腕っぷしが数段は強い。と、なると……)


「欽、お前まさか芽衣に手ごめに……」


「違います!男の矜持にかけて、それは断じて違います!確かに酔った芽衣に組み敷かれはしましたが、ちゃんと合意がありました!」


 許欽は大きく首を横に振って、過剰とも思える否定をしてみせた。


 組み敷かれた上での合意とはどのようなものだろう。色々と気にはなったが、親としてそれ以上は立ち入らないことにした。息子にも男としての気持ちもあるだろう。


「それに私は……きちんと芽衣を愛しています。それは自信を持って言えます」


 一番大切な部分は問題ないようだ。許靖はそれについては安心した。


「しかし……それなら結婚についてはどう考えているんだ。芽衣はそれこそ今すぐにでも結婚したそうじゃないか」


「それは分かっていますが……」


 許欽は言葉を濁して嫌な顔をしたが、許靖はそれを追求した。


「なんだ、何が気になる?」


「……結婚したら、自分の青春が終わってしまいそうな気がして」


 まだ若い息子の考えを、許靖は理解できないわけではなかった。


 だからそれに関してはとりあえず置いておいて、もっと重要なことを伝えようと思った。


「お前の気持ちは分かった。しかし、私からも一つ助言をしておきたいのだが……」


「助言など、言われなくても分かっていますから結構です。要は早く結婚しろと言うんでしょう?」


 許欽はうんざりした様子で拒絶しようとしたが、許靖が言いたかったのはそれではない。


「違う。それよりも重要なことだ」


「……何でしょうか?」


 許欽の口調からは、すでに父の助言を聞くつもりなどサラサラないという心情がうかがわれた。どんな言葉をかけられようとも、それを気にかけようという気持ちが感じられない。


 しかし、許靖の次の言葉でその態度は一変した。


「他の女にうつつを抜かしていると、死ぬぞ」


 瞬間、許欽の表情は凍りついたようになった。暑くもないのに汗が吹き出てくる。


 芽衣は以前、浮気に対しては拳骨千回だと言っていた。それに最近は花琳にも似てきている。


 これは真剣に息子の身を案じた助言だった。そして、それはどうやら息子の心に刺さったらしい。


 許靖は青ざめていく許欽の顔色を見やりながら、その心情に共感を覚えるのだった。

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