第82話 王朗

「太守様……今、人員を三分の一削るとおっしゃいましたか」


 戸籍管理部門の長である中年の男が、絶望的な感情を声に乗せて王朗オウロウにそう確認した。


 王朗は無表情にうなずく。


「私は『この部門の人員を三分のニにする』と言ったのだが、要はそういう事だ。三分の一は治安維持や軍の管理部門に回ってもらう」


「……しかし、それではここの仕事が回りません」


 男は食い下がったが、王朗の返答はにべもなかった。


「では太守として、人員削減後も仕事が回るようにするための仕事をするよう、申し付ける」


 男の表情が絶望から怒りに変わっていくのに多くの時間はかからなかった。王朗の言いように歯を食いしばり、目が釣り上がっていく。


 王朗はつい先ほど部屋に入るなり、戸籍管理の業務行程を説明するよう命じた。そして聞き終えると、すぐに人員削減を言い放ったのだ。


 男と王朗との間に険悪な雰囲気が流れた。


 許靖は自分の背後に立っている息子が冷や汗をかいているだろうと思った。


(これでは孤立して当然だ)


 許靖は肺に溜まった空気とともに、重苦しい感情を吐き出した。


 それから出来るだけ穏やかな声音を心掛けて口を開く。


「王朗、さすがにいきなり三分のニは無理じゃないか?」


 それを聞いた王朗は、一つ間を置いてから許靖見やった。


「何を言っているんだ?業務行程を聞いたのだから、お前の頭なら分かるだろう。それに昨今の情勢も考えられないお前では……」


 許靖は王朗の言葉を遮って男に質問した。


「こちらの戸籍管理は、かなり厳重に確認作業が行われていますね」


 男は突然の見知らぬ部外者を明らかにいぶかしんでいたが、それでも明快に答えてくれた。


「誤りがないよう、三度確認するようになっています。戸籍は徴税や兵役、福祉など、国民管理の最も重要な情報です。絶対に間違えられませんから」


「なるほど。王朗、やはり十分な確認をするためにはこの人数が必要なんじゃないか?」


 王朗の回答はまた一つ間を置いてからだった。おそらく許靖の意図が理解できないのだろう。


「……そんなもの、一々答えなくてもお前なら」


「いいから答えてくれ」


 強い語調で許靖に促され、王朗は言われた通りにした。


「……平時なら確かに今の体制でもいいかもしれないが、今は乱世だ。目に見えた戦の予定がなくとも、準戦時と言って間違いないだろう。実際に治安は悪化している。人員には限りがあるのだから、今は多少のことを犠牲にしても治安維持や軍に人、物、銭を回さざるを得ない。それに、確認回数を増やせば誤りが減るのは当然だが、二重・三重・四重と回数を重ねるごとに費用対効果はどうしても落ちる。三重の確認は二重の五割増で労力がかかるわけだが、減る誤りはそれほどは多くないはずだ。確認回数はどこかで妥協せねばならないが、少なくとも乱世という世情を鑑みるに二重の確認が精一杯だろう」


 王朗の説明は理路整然としていた。


 それだけに、許靖は心中でため息をつかざるを得ない。


(王朗の言動は、よくよく考えると必ず道理が通っている。それを説明しないことがままあるから厄介な誤解を受けるのだ)


 理屈・道理という点で、王朗はこれ以上ないほど明晰な頭脳を持っている。


 戸籍管理の長も、それまでなんの説明もしなかった王朗の流れるような言葉に唖然としていた。


 許靖はもう一つ尋ねた。


「分かった。では、先ほどお前は『人員削減後も仕事が回るようにするための仕事をするよう申し付ける』と言っていたが、要は三重の確認は取りやめて二重の確認での業務行程を組み直せ、ということだな」


「そうだ」


「ならば今までのやり方に慣れたこの方より、誰か他の新しい人間に組み直させた方がいいんじゃないか?」


 男は許靖の言葉にぎょっとした。


 要はこの部署の長を入れ替えたらどうかと言っているわけで、場合によっては左遷につながる可能性だってあるだろう。


 しかし王朗は首を横に振った。


「いや、現状の業務行程を考えると、この男は決められた人数で最大の効果が出るように業務行程を組めている。それに確認表を作って漏れを防いだり、必ず別々の人間が確認する決まりにしているなど、随所に効果的な取り組みも見られる。人員削減後も、その人数で最大の効果が出るような業務行程を組み上げるだけの能力があると見ていいだろう」


 男は突然の褒め言葉にハッとして王朗を見た。


 王朗は気にせず言葉を続ける。


「そして何より、先ほども口にしていたが、国家における戸籍管理の重要性をよく理解している。これは仕事を任せる上でとても大切なことだ。この男以上に適切な人材は、少なくとも現在の会稽郡にはいないと私は考えている」


 男は太守の意外な言葉に目を丸くした。


(自分の事をそこまで見ていたのか、自分の事をそこまで評価してくれていたのか……)


 先ほどまで王朗に対する印象が地まで落ちていた分、逆にこの言葉でこれ以上ないほどに好感度が上がった。


 許靖はそれを見て取って、男に優しく声を掛けた。


「そういう事らしいのですが……やっていただけますでしょうか?」


 男は二度、大きく首を縦に振った。


「は、はい!喜んで!必ず太守様のご期待に添えるよう尽力いたします!」


 この様子なら、あとは任せておけば良いように計らってくれるだろう。


 許靖と許欽は緊張を緩めて安堵の息を吐いたが、王朗は何をどう思っているのか相変わらず表情一つ変えなかった。

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