第86話 太守襲撃

「なかなか良い身体をしているな。鍛えているのか?」


 王朗は許靖の裸体を見て、そう感想を漏らした。


「鍛えているというほどではないが、妻の勧めで健康のために多少体を動かしている」


 許靖は服を脱いで、下着一枚になっていた。


 下着は特鼻褌とくびふんと呼ばれるもので、いわゆるフンドシのようなものだ。この当時としては一般的なものだが、人によっては下着を着用しない者もいた。


 王朗の言う通り、許靖の身体は文官にしては引き締まっていた。それなりに筋肉もついている。


「昔、馬磨きで食っていた時には今よりいい身体だったんだがな。その時せっかくついた筋肉が落ちるのが嫌だった、というのも運動している理由の一つだ」


 身体を鍛えている人間が、それを継続する理由の大きな所がここだろう。一度引き締まった身体や筋肉を身につけてしまうと、それを失うことが惜しくなる。


 結果として健康の増進にもつながることが多いので、悪いことではないだろう。


「馬磨きか……そう言えばそんなことを言っていたな。月旦評の許靖が、馬磨きか。面白い」


(この男でも面白いと思うことがあるのか)


 そう思いながら許靖が王朗に目を向けると、王朗も許靖と同じように服を脱いで特鼻褌一枚になっていた。


「お前もがっしりした体つきをしているな」


「私のは生まれつきだ。意識して運動はしていない」


 王朗の身体は特別筋肉がついているわけではないが、骨格が太くて強そうな印象を受けた。生まれつきこれなら、鍛えれば兵としても優秀な男になれたかもしれない。


 許欽は二人の体つきを見て、自分は裸にならなくても良いことに安心していた。一番若い自分の体が一番貧相だろう。


 実際には別に貧相というわけでもなかったが、母に勧められた運動も父と違ってサボりがちで長続きしない。その負い目が自分の身体に対する自信を失わせていた。


「王朗様、服を拝借いたします」


 許欽はそう断ってから王朗の脱いだ服を手に取り、自分の来ている服に重ね着した。暑そうだったが、王朗の方が大柄なため重ね着した方が違和感なく見えるはずだ。


「私の服を着るのか?」


「はい、その方が王朗様が残っているように見えるでしょう」


「そうだが……やはりお前だけ残して行くのは気が引けるな」


 三人はそういった計画を立てていた。といっても提案したのは許欽で、それがほぼそのまま通った。


 計画はそう難しいものではない。


 王朗と許靖が店の前の川を流れ下って脱出する。川は窓のすぐ下を流れており、しばらく流されれば街まで行けるはずだった。


 許靖も王朗も別段泳ぎが上手いわけではないが、浮いているだけなら体力が続く限りできる。


 そしてその間、許欽は夜具の用意された部屋で物音を立てて、まだ起きているふりをする。


 もし謝倹シャケンの部下が襲ってくるとしたら、寝入ってからだろう。起きている振りをしている間はおそらく襲ってこないはずだ。夜通し起きている振りをする予定だった。


 許欽が店に残って注意を引きつけ、その間に王朗と許靖が脱出する。二人のうち一人でも街に着くことができれば、急いで兵を連れて帰ってくる。そういった計画だ。


 許靖は当然、息子の身が心配だった。


「欽、無理はするな。もし危なそうなら、すぐに我々が川から逃げたことを言うんだぞ。王朗がいないことが分かればそれ以上危害を加える意味はなくなる」


「大丈夫です。お二人もお気をつけて」


 許欽は喋りながら、窓の外に向かって石を投げた。水面でポチャ、っと軽い音がした。石は店の従業員に持ってこさせたものだ。


 酔ってそういう遊びをしている、ということにしていた。これで許靖と王朗が川に落ちた時の音をごまかそうという意図だったが、どこまで効果があるか。


 今夜はありがたいことに曇り空で、月の光は届かない。音さえごまかすことができれば窓から抜け出せそうだった。


 王朗は部屋の灯火を消した。


 部屋が一気に暗くなって、何も見えなくなる。ただし廊下には小さな明かりが灯っており、そこからごく弱い光が漏れていた。目が慣れてくると、うっすらだが物の輪郭は把握できる。


 明かりを消してすぐは敵も注意しているだろうから、しばらく時を置いた。その間も話し声や笑い声を立てたり、川へ向かって石を投げたりした。


「……そろそろ行くか」


 王朗は小声でつぶやくと、窓辺へにじり寄った。許靖もそれについて行く。


 窓から水面までの高さは人が一人半弱だ。手を伸ばしてギリギリ水面に足がつく。


 王朗と許靖はゆっくりとした動作で窓辺にぶら下がった。川の冷たい水が足先を濡らし、鳥肌が立った。


 許靖は心臓が早く脈打つのを感じながら、王朗と顔を見合わせた。呼吸を合わせて、窓から手を離す。


 ドボン、と思っていたよりもずっと大きな音がした。


 一瞬水中での静寂に包まれた二人が水面から顔を上げると、やや離れたところから人の声が聞こえた。


「今の音は大きかったぞ……火を持ってこい、確認する!!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る