第80話 揚州

「あなた、これから行く会稽かいけい郡で本当に最後なのですよね?」


 許靖はやや不満げな花琳をなだめるべきだとは思ったが、下手な嘘をついてしまうと後でろくな事はない。


 正直に答えた。


「この乱世だ。どこでも戦は起こりうるし、最後の避難になるとは言い切れない。辛い思いをさせて申し訳ないとは思うが……」


 許靖一行は呉郡から会稽郡へと繋がる街道を南下していた。


 許靖、花琳、許欽、陶深、小芳、芽衣の六人に加えて、許貢が十人の護衛をつけてくれている。


 呉郡と会稽郡は隣接しているとはいえ、道中何事もないとは言い切れない。護衛がいるにこしたことはないだろう。


(今回は前回のように護衛たちから襲われることはないだろうな)


 許靖はその点、あまり心配していなかった。


 あの時の護衛たちは命令を発した陳温がすでに亡くなっていたが、今回は都尉の許貢が健在だ。


 護衛の兵たちは今後も軍で働かないといけないのだから、下手なことはできないだろう。


「もちろん私はあなたが行くところなら、どこへでもついて行きます。でも、こうもあちこち移ることがあなたにとっても、家族にとっても良いこととは思えません。世の中には色々な民族があると聞きますが、漢民族は基本的に定住の民族です。それで幸せになれるような文化の中で生活しているのですから」


 花琳は育ちが良いだけに、民族論や文化論まで持ち出してきた。


「まぁまぁ、そう言わないでくれ。海への小旅行も楽しいものだったのだろう?ここまで来たから行けたのだし……私は仕事で行けなかったが」


 許靖は結局二ヶ月もの期間、許貢に働かされた。


 多くの人間に会ってその評を許貢に伝えるのはもちろんのこと、それ以外にも役所のあらゆる部門や民間の店舗・工房などを見せられて、意見を求められた。


 許靖はもともと中央政府の高官で、行政の実務上も特に重要な地位にいた人間だ。


 月旦評の許靖という人物鑑定家としてだけでなく、役人としての経歴も重宝された。


 その二ヶ月の間に、李浩やその部下たちの家族も呉郡へと移ってきた。郡の福祉政策の一環として、許貢の主導で戦災者などを住まわせる場所がいくつか用意されていたのだ。


 許靖一家もそれを多少手伝った。厳しいことを言っていた花琳も許欽も、いざ実際に困っている人間が来ればあれこれと世話を焼いてやるのだった。


(しかし、許貢は思いのほか人使いが荒かったな……)


 当初の話通り、花琳たちが護衛付きで海への小旅行をするということになった時、許靖は当然自分も行けるものだと思っていた。


 が、許貢は当たり前のように当日許靖の仕事の予定を入れていた。


 芽衣などは海がこれ以上ないほど楽しかったらしく、しばらくはその話ばかりだった。


「許靖おじさんも来ればよかったのに。ほんっとうに楽しかったよ!」


 芽衣はこれまでに何度も聞かされた言葉を今も繰り返した。許靖だって行けるものなら行きたかった。


 小芳が嬉々として大声を上げている娘を横目に見ながら、鋭く注意した。


「芽衣、言葉遣い」


 母親に叱られた芽衣は肩をすくめて黙った。


 花琳がそれをかばう。


「いいじゃない、今のままで。私は可愛くて好きよ」


「お嬢様がそうやって甘やかすからこの歳になっても子供みたいな言葉遣いが抜けないんです。いい加減ちゃんとしないと」


 最近になって、小芳は娘の言葉遣いに関してうるさく注意するようになっていた。


 今はまだ可愛いで済むかもしれないが、いつかそうもいかない時が来るだろう。きちんとしつけるには少し遅いほどだ。


 可愛いと庇う花琳自身、息子の許欽には小さい頃からしっかりとした言葉遣いを身に着けさせている。この辺りは自分の子供かどうかという点で、視点と責任とが違うだろう。


 父親の陶深が二人の間に入るように言葉を挟んだ。


「でもまぁ、確かに海は良かった。水平線まで広がる水面、美しい貝の散らばる浜辺、いつまでも打ち寄せる波の音……ああいった感動を作品に乗せられれば、いくらでも良い物が作れる」


 陶深はもともと住居を移動することに対して、何の感情も持ち合わせていなかった。危険があるなら動こうか、という程度の気持ちだ。


 しかし色々な場所の様々な風景・文化を見るにつれ、次第に旅が好きになっていった。今回の移動に関しても、まだ見ぬ風景や文化への期待の方が大きかった。


「旅はいい……本当に、いい」


 陶深は宝飾品の職人だ。美しいものに対する感性が鋭い。自然、旅をしても他の人よりも感動することが多く、それが自身の作品への創意・意欲へと昇華されるという職業上の利益にも繋がっていた。


 小芳も夫への良い影響については理解しているが、今は娘の将来について話しているのだ。


「あなたはものづくり以外に興味がないから芽衣の礼儀作法も気にならないんでしょうけどね。普通の人にとっては大切なことなのよ」


「いや、僕もそれは分かっているつもりだが……」


 その言葉は半分以上が嘘だった。


 陶深は良くも悪くも職人気質の人間で、仕事と美的感覚以外の部分に対するこだわりがひどく希薄だった。


 礼儀作法が不要だとは思わないが、言葉遣いなど人それぞれに違った方がその人の個性が出て面白いのではないかというのが正直なところだった。


「嘘おっしゃい。礼儀作法よりも個性があった方が面白いとか思ってるくせに」


 妻に図星を突かれた陶深は黙り込むしかなかった。良くも悪くも、妻は自分のことをよく理解してくれている。


 許欽が陶深に助け舟を出すために口を開いた。


「まぁ、言葉遣いなんてものは一朝一夕には直らないでしょうし、そう急ぐ必要もないんじゃないでしょうか。そのうち身につきますよ」


 芽衣は横を歩く許欽を見上げるように上目使いで尋ねた。


「……やっぱり欽兄ちゃんも、言葉遣いはちゃんとしていた方がいいと思う?」


「別に私に対して気を遣う必要はないと思うけどね。やっぱり外部の人に対しては大切だと思うよ」


 小芳はその言葉に素早く反応した。


「欽君も奥さんになる人はちゃんとした人の方がいいと思うでしょ?」


「え?えぇ、まぁ……」


 許欽の回答はやや不明瞭だった。


 しかしそれでも芽衣にとっては動機付けに十分だったようで、口を真一文字に引き結んで一つうなずいた。やる気を出したのだろう。


 結局そのやる気は三日坊主に終わるのだが、小芳はそんな娘を見て満足そうに笑った。


 陶深はその様子にやや複雑な感情を覚え、許靖は見通せない息子の心情に思いを巡らせた。


 それから父親二人はよく晴れた空を見上げ、その思考を雲のように霧散させていった。

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