第79話 揚州
「久しいな
「お、おう。体は特に問題はないぞ」
許貢は会うなり矢継ぎ早に質問を浴びせてくる許靖に
しかも片手で握手をしながら、もう片手で体のあちこちを叩きながら尋ねてくる。どこか悪いところがないか探っているようだった。
初めは何だろうと思った許貢だったが、すぐにこの奇行の理由に思い当たった
「……あぁ。そう言えば
事前に許靖からもらっていた文で、その辺りのことは知らされていた。そうでなくとも孔伷と陳温は地方の行政長官なのだから、亡くなった事情くらいは伝わってくる。
許貢は許靖を安心させるように笑った。
「俺はいたって健康体だよ。特に体調が悪くなくても医者には定期的にかかっている。まず自分が元気でなくては、守るものも守れんからな。以前に体調を崩した時にそう思ったことがある」
「そうか。それはありがたい。私はともかく、家族たちがな。こうあちこち転居を繰り返すと、やはり精神的に負担が大きいようだ。ようやくこの呉郡で腰を落ち着けられそうだよ」
許靖は安堵のため息をついた。
実は今回の呉郡への避難も、その必要性について家族内で多少の議論になっていた。積極的な避難に関して、花琳と小芳には抵抗があるようだった。
一般的に、女性は男性に比べて生活上の安定を求めがちだということがよく言われる。その真偽はなんとも言えないところだが、確かに子供のことなどを考えると頻回の転居は負担になりうるだろう。
ただ現実として、許靖の耳には戦の足音が聞こえていた。陳温死後の揚州をめぐり、袁紹と袁術で争いが起こる見通しがあったのだ。
(とにかく戦から逃げたい)
許靖のその感情は、心的外傷が引き起こす強迫観念にも似たものだ。許靖自身にも止められない。
それにより避難が強く主張され、結局は許貢のいる呉郡へと移ることになった。
「呉郡はお前の働きで治安も良いと聞くしな。それに海もある。息子たちに海を見せてやりたい。ぜひ末永く世話になりたいものだ」
「あー……それなんだが……」
嬉しそうに話す許靖とは対照的に、許貢の眉根は困ったように曇ってしまった。
許靖は嫌な予感がした。
「……私たちが呉郡に住むのには、何か問題があるのか?」
「いや、問題は呉郡ではなくお隣りだ」
「隣り、というと……あぁ、なるほど」
許靖は許貢の短い言葉だけで、おおよその事態が想像できた。
許貢もその様子だけで、許靖が大体のことを理解できたであろうことが分かった。
許靖の頭の回転の速さや人間に対する深い洞察力には、過去に何度も驚かされている。この男ならそれくらいの頭の働き方はするだろう。
「
許靖の言葉に許貢は大きくうなずいた。
「そうだ。苦戦というか孤立、といった感じかな。あれはああいった男だから、誤解を受けがちだ」
会稽郡は許貢が都尉を勤める呉郡の南隣りにある郡で、そこの太守をしている王朗は許靖、許貢とは旧知の仲だった。
太守といえばその郡の長なので結構な権力者だったが、許貢の得ている情報ではかなり苦労しているとのことだった。
「あいつは言動に少し気が利かないところがあるからな。それで一部の役人たちから嫌われているらしい」
太守といえども、現場の役人から嫌われてしまえば当然仕事が回らなくなる。
許靖は王朗の瞳の奥の「天地」を思い浮かべた。
(鉄でできた
堅く、ぶれず、非常に合理的なものの考え方をする。恐ろしいほどに頭の回転が早く、全ての言動が理にかなっている。
ただし柔軟性に欠け、他人の気持ちや社交辞令というのもに対する感覚が希薄だ。
自然、良かれと思ってとった言動が人の神経を逆なでしてしまうことが多かった。
「あいつは民思いの良い太守で、本来仕事もできる。もちろんそこを理解して好いてくれる者もいるらしいが、全体的には嫌われ者の太守という話だ」
「王朗は有能なだけに、残念だな。周囲から嫌われてしまったら能力を十分には発揮できないだろう」
「そうなんだ。しかも地元豪族に馬鹿なのがいるらしくてな。そいつは王朗を倒して自分が郡を治めると豪語しているらしい」
「それは……」
暗殺にせよ、反乱にせよ、穏やかな話ではない。さすがに許靖は王朗のことが心配になった。
「だから申し訳ないが、お前には郡を一つ南下してもらって、会稽郡で王朗を助けてほしいんだよ」
「うーん……」
許靖は別に許貢の頼みを渋るつもりはなかったのだが、家族のことを考えると唸り声の一つも上げたくはなった。
「許靖よ、頼む。俺が何とかしてやりたい気持ちはあるが、この乱世に都尉などやっていてはとても動けない。友人を守りたいんだ」
(友人を守りたい、か。許貢らしいな)
目に力を込める許貢に対し、許靖は笑って頷いた。
「分かった。私だって友人を助けたい気持ちはある。どれだけ力になれるかは分からないが、やってみよう」
「行ってくれるか、ありがとう!」
許貢は嬉しそうに目を細めた。笑うと猫のように愛嬌のある顔になる。
許貢は王朗とは対象的に郡内で好かれているという話だったが、この笑顔も武器の一つなのかもしれないと思った。
「では早速その準備をしよう。とりあえず家族に話を……」
「待て」
許貢は踵を返しかけた許靖の肩をぐっと掴んだ。
「なんだ?」
「呉郡にもしばらく滞在していけ」
許貢は手に力を込めた。
「……?しかし、王朗が困っているのだろう?」
「それはそうだが、少しくらいここでゆっくりして行ってもいいだろう。そうだ、家族に海を見せてやったらいい。小旅行の護衛もつけてやるぞ」
「いや、会稽郡にも海はあるしな」
「まぁそう言うな。呉郡の海と会稽郡の海は違うぞ」
許靖はあまり海のそばで暮らしたことがないから、違いというのがよく分からない。海とは地域によってそれほど違うものなのだろうか。
「そうなのか?」
「多分」
「……多分って」
許貢の適当な返事に、許靖は怪訝な顔をした。しかし許貢はそれに構わず明るく笑ってみせる。
「とにかくまぁ、少しぐら呉郡にいてもいいいだろう?半月……いや一月くらい休んでいけ」
許靖には許貢の考えていることがあらかた理解できた。
「呉郡に滞在するのはいいが……お前、私を休ませる気はないだろう」
許貢はさらに目を細めて、人の良いのか悪いのか分からないような笑顔になった。
「正直に言うと、会稽郡に行く前に呉郡でもひと働きしてもらいたい。お前に鑑てもらいたい人間が山ほどいるんだ。不正の疑いのある役人や幹部候補の若手、何を考えてるか分からん民間の商人たち……挙げれば切りがない」
(王朗も当然守る対象だが、呉郡にも守りたいものがたくさんあるのだろう)
許靖はそう思った。だから許靖の能力を少しでも活用したいのだ。
「守るものが多いと、大変だな」
(許貢はいつか、何かを守るためにその身を損なうのではないだろうか)
それはずっと以前からの懸念ではあったが、改めて心配になってくる。
許靖は労りの気持ちを込めて友人の肩を叩いた。
ただ、この男にとって守り続けることが自らの癒やしでもあることは理解していた。
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