第72話 孔伷
年季は入っているが立派な屋敷で、陶深が装飾品を製作する工房も屋敷内に十分用意できた。
ある程度の生活費も出してくれるとのことだったが、戦で物入りなことは分かっていたのでそれは断った。
「経済的な支援は不要とおっしゃられますか……分かりました。ですが、許靖殿にはぜひ人を
孔伷はそう言って、さっそく許靖を伴い行政上の重要人物と面会して回った。さすがにこの辺りは州の刺史として抜かりはない、ということだろう。
許靖を州の役職に就けるという話もあったのだが、それも断った。世の状況がどうなるか分からないので、ひとまずは身軽でいたいと思った。
その代わり、許靖は一つお願いをした。
「息子の欽を孔伷殿の付き人にしてもらえないでしょうか。そろそろ色々なことを体験して、学んだ方がいい齢だと思うのです」
孔伷は許欽としばらく話をしてから、気持ちの良い笑顔で快諾してくれた。
毎朝早くに自宅から孔伷の元へ通う許欽の背中は、幼子だった頃からは想像もできないほどに大きく感じられた。
許靖は息子の出勤を見送ってから屋敷の庭へと回った。
「はぁっ!」
気合の声が、その庭の方から聞こえてくる。
その種の声は花琳の鍛錬で聞きなれているのだが、今響いた声は花琳のそれよりもずっと可愛らしい声だった。
「芽衣の調子はどうかな?武術の才はあるだろうか」
許靖は芽衣と花琳の二人に歩み寄りながら尋ねた。
花琳は突きを繰り返す芽衣から目を離さないまま答える。
「良い筋をしていると思います。少なくとも欽よりは」
許靖は苦笑した。息子の武術不得手は自分の遺伝だ。息子は目元以外、性格も含めて自分に似ていると思う。
花琳は武術家としての評を付け加えた。
「小芳と陶深さんの子供だし、あまり力はないけれど。その代わり、器用な上にとても体が柔らかいんです。それは武術を身につける上で、とても大切なことです」
なるほど、と許靖は思った。
花琳の武術を見ていると、どう考えても人の力では無理なことをやっているように思える時がある。
あれはきっと筋力ではなく、相手の力などを上手く利用しているのだろう。
「しかし、芽衣ももう年頃だ。武術よりも花嫁修業でもした方がいいと思うのだが」
芽衣はもう十代の半ばだった。結婚の早いこの時代としては、もう花嫁修業をしていてもおかしくはない。
言われた芽衣は、つい最近始めたとは思えないような蹴りを宙に放ってから息を一つ吐いた。
「……私も花琳ちゃんみたいに大切なものを守れる大人になりたいの。平和な時なら花嫁修業もいいんだろうけど、これから戦が増えてくるんでしょ?そしたらこの間の山賊みたいに悪い人も増えるから」
顔つきも言葉遣いもまだまだ少女らしさが抜けない芽衣だったが、考えることは大人よりもよほど立派だった。
しかし花琳にはその温度差が可笑しいし、愛らしい。
笑いながら、少しの自嘲を含めて口を開いた。
「でもその花琳ちゃんは、武術ばかりやって行き遅れてしまったのよ?」
「遅くなっただけで、ちゃんと好きな人と結ばれたんでしょ?今の笑い方だって、余裕のある笑い方じゃない」
花琳は少女にからかわれて頬を赤く染めた。
(口は芽衣の方が一枚上手だな。小芳さんに似たんだろう)
許靖は芽衣の横顔にそんなことを思った。
「それに、私の結婚相手はもう決まっているからいいの。約束したんだから」
空を見上げてにやにやと笑う芽衣に、花琳が驚いて尋ねた。
「えっ、約束?誰と?」
「花琳ちゃんも許靖おじさんも、その場にいたじゃない。私の五歳の誕生日の時」
言われた二人は顔を見合わせて、必死に記憶をたどった。
(そういえば……いつだかの誕生日の祝いの席で、芽衣が欽に結婚をせがんでいたような気がするな)
「……でも、五歳の時の約束だろう?」
そう言う許靖に対して、芽衣は拳を突き出して見せた。
「五歳でも、約束は約束だよ。それにあの時、嘘ついたら拳骨を千回くらわせるって約束もしているんだから。花琳ちゃんとの鍛錬のおかげで拳骨にも威力が出そうだし」
そう言って、また突きを繰り返す運動を始めた。
武術の稽古を始めたからではないだろうが、言うことが花琳にも似てきた気がする。
(花琳直伝の拳を千回くらったら、死ぬな……)
許靖は息子に同情した。
そういえば今日の許欽は孔伷に付いて、州の有力者との宴に出席すると言っていた。
もしかしたら美女が酌をしてくれるような宴かもしれない。下手な遊びを覚えたり、羽目を外しすぎたりしなければよいが。
(息子よ……ちょっとした出来心は、時として命を奪うこともあるぞ?)
許欽が帰ってきたら女傑妻の夫として、息子にそう教訓をたれてやろうと思った。
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