第71話 孔伷
許靖たちが
それほど日数のかかる旅程ではないのだが、途中に花琳の実家がある
王順とは絶縁したのだから本来なら寄るわけにはいかないのだが、王順から『絶縁の挨拶に来い』という文が届いたためそのような仕儀となった。
(絶縁するのに挨拶というのもおかしい気がするが……いや、絶縁を会って伝えることもあるだろうから、おかしいことではないのか?)
許靖としては罪が連座してはいけないので会わないほうがいいと思ったが、娘や孫たちに会いたいということが切々と書かれた手紙を目にすると、無下に断るわけにもいかなかった。
それに、
許靖たちは汝南郡へ寄ってから孔伷の屋敷に向かうことにした。
(しかし、娘や孫に会いたいというのは理由の半分だったな)
許靖は王順の元で過ごしてからそう思った。
王順はもちろん娘家族に会えて喜んでいたのだが、翌日には許靖を連れて取引先を回り歩いた。
要は仕事相手の人柄を許靖に鑑定させて、今後の参考にしようというのだった。
取引先の人間だけではない、店の従業員やこれから雇用する予定の人間なども鑑定させられた。
王順はもう髪の毛も白く、結構な年齢のはずだったが、いまだに商人としては抜群の働きをしているようだ。
(まぁ……周毖殿の親族たちの面倒をみてもらっているのだから、このくらいは働かないと)
許靖はそう思い、王順に頼まれるままに人を鑑てはその人柄を義父に伝えた。
周毖の親族たちは王順の好意で屋敷を一つ与えられ、十分な生活費を出してもらっていた。ただ世話になるだけでは申し訳ないと、本人たちの希望で働ける者は王順の店に出たり、王順の屋敷の家事を手伝ったりしているとのことだった。
以前に母と妹を守ると宣言した少年が店の前を掃いているのを見て、許靖は胸が締め付けられる思いがした。
王順は商人として有能だし、商売に掛かる費用には敏感だが、決して銭にがめついわけではない。困っている人間がいた時には、損得抜きで助けてくれることも多かった。許靖にとって、尊敬できる義父だ。
そうこうして許靖は王順の思う通りに働かされ、花琳たちは久しぶりの実家を堪能した。
数日後、いざ孔伷の元へ去る段になってから、王順からかなりの財貨を渡された。
許瑒からもひと財産といえるほどのものを受け取っているので断ろうとしたが、王順は、
「今回の報酬というだけではない。娘や孫たちのためにも」
と言って引かなかったため、頭を下げて受け取ることにした。
確かにこれから先のことは分からないのだから、家族のためにも資産は多ければ多いほどいい。
気づけば許靖一行は結構な銭持ちになっていた。
しかし、世情は乱世といってよいほどの状況に近づきつつある。いくら富豪になったところで、誰かに保護してもらわなければすぐに奪われるだろう。
許靖はその保護者として孔伷を選んだのだった。
***************
「許靖殿、ご安心ください。少なくともこの
孔伷はそう言って、愛想の良い笑顔を許靖に向けた。
孔伷の執務室で二人は面会している。
豫州刺史ともなれば、さすがに執務室の調度品も結構なものだった。しかし孔伷自身は清廉な男で、権力があっても利を
「ありがとうございます。なんとお礼を言ってよいやら……」
頭を下げる許靖を、孔伷は手を振って制した。
「何をおっしゃる。そもそも私がこのような豪勢な部屋で仕事をしていられるのも、元はといえば許靖殿のおかげです」
「いえ、そんなことは……しかし、確かに豪勢な部屋ですね」
おそらく前任者がそのような趣味だったのだろう。細かい彫刻の施された家具や玉の飾り物など、分かりやすく高価な品が並んでいた。
孔伷がわざわざこのようなものを買い揃えるとは思えない。
「見るからに銭がかかっておるでしょう?こういうものが好きな者もいるのでしょうが……今度、私自ら質屋に持っていきましょう」
「質屋?」
許靖は州の刺史からはあまり聞けないような言葉を耳にして、思わず繰り返した。
「ええ、質屋です。漢帝国の歴史には数多の刺史がおりましたが、私ほど質草に詳しい刺史もおりますまい。貧乏の経験も時として力になる」
そう言ってカラリと笑った。
許靖はその笑顔を見て、思わず釣られてるようにして笑ってしまう自分を感じた。
孔伷の笑顔は周りの者に伝染する、そんな笑顔だった。
「許靖殿は質屋から薪代をかすめる方法を知っていますか?」
「薪代、ですか?……いえ」
質屋というものは品物を預かって銭を貸し、その銭が期限までに帰ってこなければ品物を売りさばく。銭を返しに来た場合でも貸した日から返された日までの日数に応じて利息を取るのが普通だ。
薪代をかすめられるような商売ではない。
首を傾げる許靖に、孔伷は身振り手振りを加えながら巧みに話をした。
「朝、鍋に
「当日の昼過ぎに、ですか?」
「そうです。当日中に返済するわけですから、まだ利息は付きません。すぐに返済に来るとは思っていない質屋は、たいてい鍋の中の粟を煮て昼飯に食べようとしています。それを鍋ごと……」
孔伷は滑稽な仕草で飯をかきこむ真似をした。
その表情がまた絶妙で、許靖は声を上げて笑ってしまった。
孔伷の清談には定評があり、『孔伷が語りかければ枯れた木も花を咲かす』と言われていた。
話し方に独特の拍子があって、つい引き込まれてしまう。文章にするとつまらない話でも、孔伷が読み上げるとたちどころに笑い声が上がるのだった。
(素敵な「天地」だな)
許靖の見る孔伷の瞳の奥の「天地」には、大道芸や手妻などで人を楽しませようとする芸人たちがあふれていた。
人を笑わせるのが好きなのだとよく分かる、そんな「天地」だった。
そして許靖が何よりも孔伷に好感を持ったのは、その芸人たちが彼ら自身、皆気持ちの良い笑顔でいることだった。本人の心の明るさが、周囲をも明るくしてくれる。とても素敵な「天地」だと思った。
こういった人間なので孔伷は誰にでも好かれ、何か問題が起こったときには部下の役人たちが進んで助けようとしてくれる。孔伷が赴任してからの豫州は、これまでないほどに良く治まっていた。
許靖も初めて会った時からこの笑い声が好きで、今もずっと聞いていたいと思った。
が、気持ちの良い笑い声は、突然起こった咳き込みによって遮られた。
「……ゴ、ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ」
激しい咳でなかなかおさまらず、背を丸めて苦しそうにしている。咳の音が、普通の風邪とは違うように感じられた。
許靖は孔伷の背中をさすってやった。
「大丈夫ですか?」
「……失礼、もう大丈夫です。最近は齢のせいか、咳き込むことが多くなりましてな」
そう言って卓に置かれた湯を喉に流し込んだ。
「いや、調度品を質に入れるというのはあながち冗談でもないのですよ。董卓との戦で、銭がいくらあっても足りません」
孔伷は少し真面目な顔でそう言った。
戦は装備に兵站に、銭を食う。いくらあっても足りないだろう。
反董卓連合の一員として、孔伷はその手を挙げている。しかし孔伷は軍事に詳しくない。戦のできる武将に兵を預け、自らは出戦していなかった。
それも許靖が孔伷を保護者として選んだ理由の一つだった。
(自ら戦に出るような人間よりも、戦を遠ざけられるだろう)
そう考えていた。とにかく戦を避けたい。許靖は強くそう思った。
「許靖殿は董卓の下で働かれていたが、どう思われます?」
許靖は孔伷の問いの意味を測りかねて首を傾げた。
「どう、とは戦のことでしょうか?恐らく強いのだろうとは思いますが、戦となると私には何とも……」
「いえ。戦だけでなく、何というか……董卓が民に対して何をもたらすか、といったことをお聞きしたいのです。民に笑顔をもたらす為政者なら結構ですが、笑顔を奪う為政者なのだと私は感じました。私も戦は嫌いですが、そう思って反董卓連合に加わったのです」
許靖は大きくうなずいた。孔伷らしい考え方だと思った。
「間違いなく、笑顔を奪う方の為政者でしょう。そこの認識は間違っていらっしゃいません」
許靖の言葉に、孔伷は安心したように息を吐いた。
戦は民の笑顔を奪う。そこへ踏み込んでしまったことに関して、孔伷には迷いとも後悔ともつかないものがあった。
許靖には孔伷の気持ちがよく分かる。
(ただ、それでも戦で解決するのが良いことだとは私には思えないが……これは董卓から教え込まれた戦への恐怖がそう思わせているのだろうか)
董卓は許靖に戦を学べ、と言った。そして、戦を起こす気をなくせ、と。
人が人を殺す異常さ、恐怖、血のヌメリや臭い、死体の表情……
戦を忌避させるに十分な体験を許靖は与えられた。それは心の奥底で傷になり、平静でいる時でさえ胸に小さな疼きが感じられるのだった。
(戦は、嫌だ……)
許靖がそう考えていると、孔伷がまた咳き込み始めた。
許靖は使用人にぬるめの湯を持ってくるよう伝えてから、孔伷の背中をさすってやった。
許靖は別段、医学の心得があるわけではない。しかし、それでも何となくだが良くない咳のように思えた。
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