第70話 心

 許瑒キョトウは旅塵にまみれた許靖を前にして、さすがにバツの悪い思いにかられた。


 なんと言葉をかけていいか分からず、首を掻いたり鼻をこすったりしている。


 いろいろ考えた挙句、とりあえず間をもたせるために口を開くことにした。


「大変だったな」


 言ってから、我ながらあまりに他人事な言葉を選択してしまったことを後悔した。


(誰のせいで大変だったと思ってるんだ!)


 許靖ではなく、許瑒自身が自分でそう思った。


 許瑒が反董卓連合に加わった時には、親戚の繋がりなど大義に比べれば何ほどのものかと思っていた。それに、悪逆な董卓政権に加わっている許靖が悪いのだとも思えた。


 だが後から聞くところによると、反董卓連合のかなりの部分が許靖によって見出された人間という話だった。つまり、周毖と共に董卓打倒のための第一級の働きをしていたということになる。


 それが自分の挙兵も一因で董卓に殺されそうになり、命からがら逃げ延びてきたというのだ。


 しかも山賊に襲われたとかで荷物もほとんどなく、ひどくボロボロの格好でやって来た。暴行を受けたのだろう、顔もずいぶん腫れている。


 これで何も感じるなという方が無理だった。


(せめて挙兵前に連絡の一つもしておくべきだった……)


(……きっと、挙兵前に連絡しなかったことを後悔してるだろうな)


 許靖は許瑒の心中を正確に理解しながらその瞳を見た。


 許瑒の瞳の奥の「天地」では、せんと呼ばれる煉瓦れんが作りの建物が職人たちの手によって建てられている。


 緻密に計算された、いかにも頑丈そうな作りの建物だ。許靖はここに、許瑒の慎重な性格と政治家としての優れた計画性、知性が現れていると見ている。


 挙兵前に連絡が来なかったのは情報が漏れることを恐れてのことだろう。それ自体は慎重な政治家の判断として決して間違ってはいない。


 ただし、許瑒の「天地」はどうも地盤が弱いらしい。


 昔から予想外のことが起こるとその瞳の奥ではグラグラと地震が起き、建物の一部が崩壊してしまうのだった。煉瓦は強い建材だが、地震の多い土地にあまり向かないようだ。


 今も許靖に対する罪悪感が地震に変わり、煉瓦がバラバラと崩れていた。


(実は服はわざとボロを着てきたのだが、それくらいは許されるだろう)


 許靖はそう思った。この服以上の被害を自分は受けているはずだ。


「大変、か……本当に大変だったんだぞ。董卓に呼びだされて行ってみたら、何があったと思う?周毖の生首だ。それを董卓が私に投げつけてきて、私は思わず抱きかかえて転んだよ。それから……」


 それから許靖はあの日あったことを丁寧に説明していった。


 恐ろしく聞こえるよう脚色してやろうかとも思ったが、実際にあったことをそのまま話すだけで十分恐ろしい話になった。


 許瑒の顔色がだんだんと悪くなっていくのが分かる。瞳の奥でも地震が大きくなっていった。


 しかし、許靖自身の顔からも血の気が引いていくのが感じられる。正直自分でも辛すぎて、特に自らの手で殺したという話は口に出来なかった。


 許靖は語りながら、ふと許瑒が腰にはいていた剣が目に入った。


 なんとはなしに、剣へ手を伸ばす。許瑒は話にのまれていたせいで、それを取られることに何の抵抗も示さなかった。


 許靖は剣をすらりと抜いてみた。


 花琳が山賊たちを倒したあの時、剣の刃を見ると急にひどい動悸がして、呼吸が乱れてきた。自分が犯した殺戮の光景、肉を斬る感触が脳裏に蘇ってきたのだ。


(剣の刃を見れば、また同じことになるのだろうか?)


 ふとそんな事が気になって、半分無意識にとった行動だった。


 案の定、あの時と同じ症状に見舞われた。


 心臓が早く鼓動し始める。胸が圧迫され、ひどく息苦しく感じて、呼吸が早くなってきた。


 急に苦しみ始めた許靖に焦った許瑒は、部屋の外に控えていた使用人を大声で呼んだ。


 使用人は部屋に入って許靖を見るなり、すぐに医者を呼びに駆けていった。


 先ほどの道中では、許靖にとって一番の精神安定剤である花琳がいてくれたので、すぐに症状は治まった。しかし今回はその花琳も近くにおらず、なかなか治まる気配がない。


(息をたくさんしているのに、息苦しい……)


 許靖は視界がだんだんと白くなるのを感じていた。許瑒の動揺した声が遠くに聞こえる。


 脳裏には殺戮の光景が浮かんでおり、手には肉を斬る感触が蘇っている。血や臓物の匂い、その温かさも感じられた。


(死ぬにしても、このような気持ちで死にたくはないな……)


 許靖がそんな絶望を浮かべている時、耳元で声がした。


「ゆっくりと息を吐いて」


 突然かけられた言葉に、


(そういえば花琳にも同じことを言われた)


と許靖は思い出し、言われた通りに実行した。


 苦しいのでどうしても体が息を吸おうとするが、それをぐっと我慢して、出来るだけゆっくりと吐いた。それを繰り返している内に、少しずつ息苦しさが落ち着いてきた。


 初めは余裕がなくて誰に声をかけられたのかも分からなかったが、どうやらその人は医師らしい。かすかに生薬の匂いがする。


 えらく早くに来てくれたが、何かありがたい偶然で近くにいたのだろう。


 胸はまだ苦しかったが、なんとか言葉を出す余裕がでてきた。


「……ありがとう、ございました。おかげさまで落ち着きました」


 初老の医師は許靖の背中をさすりながら、安心させるために笑顔を見せた。


「こういう事はよくあるのかね?」


「いえ、つい先日から。少し辛い経験をしまして……ちょっとしたきっかけで、それが脳裏に浮かぶのです」


「それは心の病だな。冷や汗をかいて、心臓が早く脈打ち、呼吸が荒くなる」


「おっしゃる通りです」


「根本的な解決方法はない。まず、心を落ち着かせる術を身につけることだ。自分にとって幸せな記憶や大切なものを思い浮かべるのも良いし、何か落ち着くための簡単な動作を決めておくのも良い」


 許靖は医師の言葉にうなずいた。


 医師は許靖の背中をさすり続けながら助言を続けた。


「呼吸が早くなりすぎて苦しくなったら、先ほどのようにゆっくりと息を吐くように意識しなさい。一回吸ったら二回吐くぐらいの気持ちで。口と鼻を袋で覆うのも良いが、あまりきつく袋を当てると窒息する事もあるので注意すること」


「分かりました、そのようにします」


 対処法は分かった。


 花琳の事を思い浮かべて、ゆっくりと息を吐くようにすればいい。後で何か単純な動作を考えておこう。


 医師としばらく話しているうちに、許靖の脈も呼吸もだんだんとゆっくりになってきた。


 許靖が完全に落ち着いてから医師が部屋から出ていくと、また許瑒と二人きりで顔を突き合わせることになった。


 許瑒はもはや許靖と目も合わせられない。見ている方がいたたまれなくなるような様子だった。


 許靖もそろそろ助け船を出してやろうという気持ちになった。


「許瑒。私たちは今後、孔伷コウチュウ殿のところにお世話になろうかと考えているのだが」


 その言葉を聞いた許瑒の表情は、見るからに明るくなった。


 孔伷は許靖が選んで豫州よしゅうの刺史(長官)に任官された男だ。許瑒が相を勤める陳国も、花琳の実家がある汝南郡も、共に豫州の一部なのでかなり広い範囲を治めていることになる。


 豫州全体を治める州治所は沛国はいこく譙県しょうけんという地で、陳国の東だ。


「そ、そうか。あの方なら人徳者だし、保護を願うには最適だな。そうでなくとも豫州刺史という立場もお前のおかげで得られたわけだし、無下にはされまい」


 このまま自分のところにいつかれるのは精神的に辛い、というのが間違いなく本音だろう。


 許靖としてもそれは分かっていたが、別に構いはしなかった。ただ、いただく物はいただかねばならない。


「しかし、いくつか問題があってな」


「なんだ?」


「……いや、ちょっとな……」


「言ってみろ。出来ることならするぞ」


 許瑒は言葉を濁す許靖へ詰め寄るようにして急かした。心変わりをされてはたまったものではない。


「……実は命からがら洛陽を脱け出しただろう?それに、山賊にも襲われたから、先立つものがない。護衛を雇うどころか、移動中の食費さえ無いのだ」


 許瑒の顔はぱっと明るくなった。


「なんだ、そんなことか。俺がいくらでも用意してやる。移動中の護衛も、うちの兵から出そう」


「そうか、助かる。……しかし、孔伷殿のところに着いても生活費まで面倒を見てもらうのは申し訳なくてな。董卓との争いが落ち着くまでと思ったら、相当な期間世話になると思うし……」


「大丈夫だ大丈夫だ。先々のことも考えて、十分なものをちゃんと用意してやる。お前は安心して孔伷殿の元へ向かえばいい」


 まくし立てる許瑒に、許靖は外面だけは申し訳なさそうな表情を作って見せた。


 本当に申し訳ないと思う気持ちも無いわけではなかったが、このくらい罰は当たらないだろうとも思っている。


 それに、家族たちのことを考えれば特に経済的な点では善人ぶってばかりもいられない。


 今日あらためてはっきりと分かったことだが、許靖は今回の件で心の病を抱えてしまった。


 それは許瑒のせいばかりではなかったが、家族のためならそれを利用することにためらいはない。


(心の病がなんだ。私は転んでも、ただで起きるつもりはないぞ)


 心は病に侵されても、それで全てが駄目になるわけではない。心にはその分だけ強くなる部分もあるのだった。

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