放浪

第69話 心

 花琳の体が稲妻のように駆けた。


 その速度と体重とを拳に乗せ、剣を持った男の顔面にめり込ませる。


 男は一度宙に浮いてから逆さになり、頭から地面に落ちた。そのままピクリとも動かなくなる。


 周囲にはまだ十人、剣や槍を構えた男たちがいた。初めは突然の乱入者に思考を停止させていたが、すぐに立ち直って一斉に花琳へと襲い掛かる。


 花琳は上手く下がり、踏み込みして、同時に複数人を相手にしないようにした。


 舞うようにして立ちまわりながら、一人一人に拳、肘、膝、蹴りを叩き込み、次々に行動不能にさせていく。最後の一人は投げ飛ばして昏倒させた。


 男たちが全員倒されると、小芳が駆け寄ってきた。


「お嬢様!」


 涙目で胸に抱きつく。


 花琳はそれを受けてめてから、優しく頭を撫ででやった。


「小芳、大丈夫?怪我はない?」


「はい、誰も怪我はしていません。でも、今回ばかりはもうだめかと思いました」


 小芳たちは洛陽から逃れる道中で、山賊に襲われていたのだった。


 そこへ遅れて洛陽を脱出した花琳と許靖が追いつき、間一髪のところで救い出した。


 しかし、洛陽脱出にあたって護衛の者も手配していたはずだ。それが一人も見当たらない。


「あなたたちだけなの?護衛は?」


 その問いには小芳の夫である陶深トウシンが答えた。


「申し訳ない、護衛は全て習平さんと女性・子供たちに付けてしまった。あちらの道中の方が危険らしくて、護衛の人数的にそちらに全員つけなければこれ以上同行できないと言われたんだ」


 周毖シュウヒの親族と小芳たちは一緒に洛陽を脱出して豫洲よしゅうに入ったが、最終目的地は違っていた。


 周毖の親族たちは美雨の家族と共に、花琳の実家がある汝南じょなん郡へと向かっている。


 大店おおだなの主である王順ならばこの程度の人数を世話してもさほどの負担にはならないので、保護を頼むことにしているのだ。


 しかし、許靖の家族には実家に帰れない事情がある。


 許靖が逃亡して罪人になった以上、王順に面倒を見てもらえば罪が実家にまで連座する可能性があるからだ。


 汝南郡のある豫州を治める孔伷コウチュウは反董卓連合の一員なので、すぐに捕縛されることはないだろう。


 しかし、もし戦に負けて豫州が董卓の勢力圏に入ってしまえば、罰を受けることになりうるのだ。


 戦の勝敗などは分からない。希望的観測で実家に帰るわけにはいかなかった。


 それで建前上、許靖と花琳の夫婦は王順と絶縁することにした。習平に持たせた手紙には周毖の親族たちを頼む旨と共に、絶縁状も添えている。これで迷惑は掛からないと思いたい。


 そして許靖たちは汝南郡からそう遠くない、陳国ちんこくという地へ向かうことにしていた。


 許靖の従兄弟である許瑒キョトウが陳国の相(陳国の実質的な長官)として働いているからだ。 


 許靖が董卓に殺されそうになった一因はこの許瑒が反董卓連合に加担したことにあるが、この際それを頼ることにした。


 花琳はいったん許靖と共に洛陽に残ったが、隙を見て脱出するつもりだった。だから小芳たちとは後で合流する予定にして、許欽を連れて陳国へ向かってもらっていたのだ。


「それほど距離がないので大丈夫だろうとたかをくくっていたんだが……見通しが甘かった」


 そう言ってうなだれる陶深の手には、剣が握られている。


 しかし陶深の細腕ではまともに振り回せそうにはない。その細く長い指は驚くほど器用で宝飾品の職人としては大変に優秀だったが、山賊に襲われて役に立つような指ではなかった。


「母上、お怪我はありませんか?」


 花琳が声をかけられた方を振り向くと、許欽キョキンも片手に剣を持ち、片手には芽衣を抱いていた。


「花琳ちゃん……」


 芽衣はそれだけを口にすると、ぼろぼろと涙を流し始めた。


 緊張の糸が切れたのだろう。その頭を許欽が撫でた。


 花琳も歩み寄って同じように撫でてやった。


「もう大丈夫よ。怖い思いをさせたわね。欽がもう少し頼りになればよかったのだけれど」


 そう言って笑う花琳に、芽衣が首を横に振った。


「ううん、一回目の山賊は欽兄ちゃんのおかげで助かったの。頼りになったよ。かっこよかった」


「一回目?じゃあ、この山賊は二回目なの?一回目は欽がやっつけたということ?」


 意外な事実に花琳は目を丸くした。


 許欽は幸か不幸か父親に似て、人を傷つけることに対して強く恐怖を覚える感性を持っている。


 花琳が武術を教えようとしていた時期もあったのだが、練習でさえ人に拳を向けるのを嫌がった。結局ものにならなさそうなので、すぐにやめてしまったのだ。


 花琳としては少し残念ではあったが、父親に似て優しい子に育ったことが何よりも嬉しかった。


「母上、私が山賊をやっつけられると思いますか?」


「思わないわ」


 即答する母親に、息子は苦笑いした。


「……そうですよね、やっつけられはしません。なので、『荷物は全て渡すから、我らには指一本触れるな。もし傷つけようとするなら、刺し違えてでも一人目を殺す』と脅してから荷物を置き、剣を構えながらその場を去りました」


 相手にもよるだろうが、対処方法としては正解だろう。人身にも十分な価値はあるが、山賊も荷物が手に入る以上、危険を冒す選択をしなかったのだろう。


「なるほど、それで剣以外は手ぶらなのね」


「はい、食料も水もありません。申し訳ありませんが、母上たちの分を分けてください」


 言われて荷物があるはずの方向を振り向いた花琳は、驚きに目を見開いた。


 そこにはうずくまって胸を押さえる夫がいた。


 遠目にも顔面が真っ白で、荒い呼吸をしているのが分かる。


「あなた!」


 花琳がすぐに駆け寄った。


 許靖の肩に手を置き、背中をさする。


 許靖は短い呼吸を繰り返しながらも、花琳へ笑って見せた。


「大丈夫……ちょっと、動悸と息切れがするだけだから」


 許欽、陶深、芽衣も駆け寄ってきた。許靖はそれを見て苦しげにつぶやいた。


「欽、陶深……その剣を、しまってくれないか……刃を見ていると、苦しいんだ」


 言われて二人はすぐに剣を鞘におさめた。


「あなた、ゆっくり息を吐くようにして」


 花琳はそう言って背中をさすってくれた。


 言われた通りにしていると、だんだんと呼吸が静かになってきた。しばらくすると顔色も戻ってくる。


 許靖は額に浮かんだ脂汗をぬぐうと立ち上がった。


「すまない、もう大丈夫だ」


「まだ座っていてください」


 心配そうに肩をおさえてくる花琳の手に、許靖はそっと自分の手を重ねた。


「いや、大丈夫だ。体の病ではないと思うし、気持ちが落ち着けば問題ない。それに荷物もないんだろう?許瑒のところへ急ごう」


 花琳は心配そうに許靖を見つめた。


「無理はなさらないで」


 陶深も心配そうに許靖の顔を覗き込んだ。


「花琳さんの言う通りだ、無理しないでくれ。よく見ると顔もずいぶん腫れているじゃないか。一体どうしたんだ?」


 陶深の言葉に花琳はうつむいた。地面を見ているようで、どこにも焦点が合っていない。


 道中、こまめに冷やして膏薬も塗っていたのだが、許靖の顔はまだ明らかに腫れている。


「いや、これは……まあ、大丈夫なんだ。少なくとも顔は大した怪我じゃない」


 許靖はできるだけ元気に見えるよう笑って見せたが、苦笑いにしかならなかった。


 陶深は怪訝そうに眉根を寄せたが、許靖も花琳もなぜか答えたくなさそうだ。それ以上は聞かないことにした。


 代わりに、洛陽を出る時からずっと気になっていたことを尋ねた。


「……我々は本当に許瑒という人のところへ向かっていいんだろうか。いくら許靖の従兄弟とはいえ、許靖が政権の中枢にいることを知っていて、何の連絡もなく反董卓連合に加わったのだろう?」


 陶深の心配はもっともだった。


 親族が反乱を起こせば、当然その罪は連座する可能性がある。それを分かっていて事前に何の連絡もなかったのだ。頼っていい人間なのだろうか。


 許靖は首を縦に振った。


「ああ、許瑒のところでいいんだ。大切な用事がある」


「用事……一体どんな?」


 その問われた許靖の顔を見て、陶深は『おや』と思った。


 許靖にしては珍しく、人の悪い笑みを浮かべている。


「たかってやるんだ」

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