第73話 孔伷

孔伷コウチュウ殿の病は、それほどまでに重いのか……」


 許靖のつぶやきを、許欽はうなずいて肯定した。


 目を閉じて、辛い光景を思い浮かべる。


「今日もひどく血を吐かれました。熱も高く、下がりません。痰に血が混じる程度だったこれまでとは、素人目にも違います」


 許靖は息子の言葉にため息をついた。


 そして息子も父と同じようにする。


「驚くことに、そんな状態でも周囲を笑わそうと冗談を口にされています。そういう様子なのでまだまだ長生きされるのではないかと錯覚してしまうのですが……医師に言わせると『もう一月もたないだろう』とのことでした」


「……孔伷殿らしい」


 許靖は笑った。笑ってやることが、孔伷のためでもあると思った。


「惜しい人を亡くしてしまうな……」


 孔伷の元へ避難して二年足らず、本当に明るく、楽しい好人物だった。


 人を知るのに二年は十分な期間とは言えないが、それでも心から死を悼むには十分過ぎるほど好きになっていた。


 それに、性格が良いだけではなく仕事もできる。行政官としても、政治家としても、知人としても、本当に惜しい人が消えてしまうと思った。


「しかし父上、嘆いてばかりもいられません。後任もはっきりしませんし、我々も身の振り方も考えませんと」


 許欽の言うことはもっともだった。


 乱世はより混迷を極めている。


 つい先日、後に陽人ようじんの戦いと呼ばれる董卓と反董卓連合との大きな戦があった。


 両者押しつ押されつしたが、最終的には孫堅などの活躍によって反董卓連合が勝利をおさめている。


 この報が届いた時には街中が歓喜に沸いた。


(これで戦乱の時代は遠のくはずだ)


 誰もがそう思った。


 しかし、事態は民の希望通りにはならなかった。


 負けた董卓はなんと、首都たる洛陽を焼き払っていたのだ。


 比喩表現ではない。文字通り、都市一つをまるごと焼き払った。


 その上で、自分の本拠地により近い西の長安へと帝を連れて撤退した。


 董卓は前もって周囲の反対を押し切り、長安への遷都を公表してはいた。


(とはいえ、まさか洛陽を焼くほどの大胆な焦土戦術に出るとは……)


 それがこの国のほぼ全ての人間の感想だった。


 半董卓連合の将兵たちは廃墟と化したかつての首都を目の当たりにして、絶望した。誰もが洛陽の奪還を目指して戦っていたのだ。


 洛陽の焼失は詰まるところ、董卓を討って得られるはずだった都での栄華が消えてしまったことを意味する。


 しかも反董卓連合の将たちには長安まで長征するような想定がなかったから、準備などしていない。補給などを考えると、現実的にこれ以上の追撃戦は難しかった。


 目的の大部分を失った連合軍は、長安の董卓を放置して散り散りになってしまった。武将たちは自らの軍事的な基盤のある地に帰り、それぞれが半ば独立した形で立つこととなった。


 つまり世は『群雄割拠』の時代を迎えたのだ。これからはそれら群雄が支配地をめぐって争う、完全な乱世となる可能性が高かった。


(洛陽を焼き長安に遷都するなど、董卓は最悪の選択をしてくれた。まさかという選択で、やはり董卓も尋常の人ではないという事はよく分かったが……)


 許靖は絶望しながらも、董卓の大きさを感じざるを得なかった。それが良いにせよ悪いにせよ、ということではあるが。


 董卓が討たれてしまいになれば、それで乱世が遠のく可能性があったのだ。しかし、結局は平和な時代を望む者にとって最悪の状況になったといえる。


「欽、次の豫州刺史についての話は全く聞いてないのか?」


 許欽は二年足らずとはいえ、刺史の孔伷に付いてその政務を助けている。


 どうやら許欽は仕事が出来る方だったようで、孔伷は様々な仕事を振ってくれたらしい。


 まだ若く役職こそなかったが、それらをこなした息子は親から見てもずいぶんと頼もしくなった。役所でも、若年ながら発言力があるという噂だった。


 そのような立場であれば、自然と次の長官候補くらい耳に入っているはずだ。


「役所の噂では、袁紹殿と袁術殿がそれぞれ別の人間を指名するという話です。しかし、そうなると……」


「おそらく戦になるな」


(戦は嫌だ……!)


 許靖は自分の脈と呼吸が早くなってくるのを感じた。


 目を閉じて、ゆっくりと息を吐くようにする。そして花琳のことを思い浮かべ、左手の薬指にはめた指輪を回した。


 指輪は陶深が作ってくれたものだ。花琳にも揃いの物を作ってくれている。


 指輪の内側には小さな文字を彫ってもらった。許靖の指輪には花琳の名が、花琳の指輪には許靖の名が刻まれている。


 息をゆっくり吐き、花琳のことを思い浮かべ、指輪を回す。この一連の動作で、許靖がたまに起こす発作のようなものは大体の場合治まった。


 許欽も父が心の病を抱えていることは知っているので、落ち着くまでじっと待ってくれた。


(そういえば……心の病のことは家族に話しているが、自らの手で十人を殺したことはいまだに話せていないな……)


 許靖はふと、その事について考えた。最も近しい花琳にすら話せてないのだ。


(機会がなかったこともあるが、私自身が受け入れられていないからかな……だから口にする気になれない)


 許靖は自分の心をそう推量した。


「……すまない、もう大丈夫だ」


 しばらくして落ち着いた許靖は目を開けた。


「無理はなさらないでくださいね。それで次の刺史ですが、袁術殿の指名されるのは孫堅殿という噂があります」


「なに?あの孫堅殿か……ならば戦は孫堅殿が勝ちそうだな」


 許靖は数年前に見た孫堅の瞳を思い浮かべた。


 虎に率いられた海賊の「天地」。戦にはめっぽう強く、董卓軍が敗れた先日の大戦でも孫堅の働きが大きかったと聞く。


「孫堅殿ならば父上と知らぬ仲ではないでしょう。我らを保護してくれるように思いますが、いかがでしょう?」


 孫堅が許靖宅を訪ねてきたあの日、許欽は孫堅から戦の時にかぶっている赤い頭巾を手渡されていた。


 優しい孫堅の印象が強く残っているのだろう。そういえば、息子の孫策とも仲良く遊んでいたようだった。


 息子の問いに、許靖は首を縦にも横にも振らなかった。


「保護はしてくれるだろう。それどころか、きっと良い待遇で陣営に加えてくれようとするだろうな。しかし、孫堅殿は本質的に武人だ。今後も必ず戦に巻き込まれることになる」


(戦は、嫌なのだ……)


 許靖は再び強くそう思った。


 董卓に植え付けられた心の傷。それが許靖の心を大きく蝕んでいる。


『戦を学べ』


 そう言って董卓は許靖の前で殺戮をなし、許靖自身にも殺戮を行わせた。


 それ以来、許靖は戦のことを考えたり、剣の刃を見ただけで激しい動悸と息切れに見舞われるのだ。


「南の方へ避難しようと思うが、どうだろう?」


 苦しそうな表情を浮かべた父親の問いに、許欽はうなずいた。


「父上がそうおっしゃるなら、私は従います。中央から離れれば離れるほど安全だとは思いますし。ですが南といっても、どこへ行かれるおつもりでしょうか?」


「揚州刺史の陳温チンオンも私の知人だ。頼めば保護してくれるだろう」


 陳温は許靖と同郷の人で、旧知の友人だ。


 向こうも過去に許靖の能力を見込んで人物鑑定を依頼してきたこともあったので、政務に協力すれば厚遇してくれるだろう。


(とにかく、戦に巻き込まれるのだけは避けなければ……)


 許靖は薬指の指輪を回しながら、そればかりを考えていた。

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