第15話 馬泥棒
制止の声は暗がりの中から発せられた。それは道場の奥に鎮座していた一人が上げたものだった。
振り上げた剣を上段で止めたまま、男がそちらを振り返った。
「なんだ、用心棒さん。あんたが斬りたいのか」
用心棒と呼ばれた男はつまらなさそうな顔をして答えた。
「誰が斬ったところで変わらん。死体は臭いぞ」
言われた男のほうは、はたと気づいて剣を下した。
うなずきながら剣を鞘に戻す。
「……確かにな。暗くなるまでの間、血や内臓や便の臭いが道場にこもるのは勘弁だ。柱にでも縛りつけておくか」
そう言ってから許靖の首根っこを掴むと、柱の方へ引きずっていった。
二人は柱にくくられながら安堵のため息をついた。
が、次の言葉が二人をまた絶望へと突き落とす。
「じゃあ、ここを出る直前に殺すことにする」
二人はこの言葉にまた目の前が暗くなった。力なく柱に寄り掛かかる。
が、またも用心棒の男が希望の言葉を吐いてくれた。
「やめておけ。兵は身内をやられると捜査が執拗になるぞ。それに、もし捕まった場合は扱いが極端に悪くなる」
この発言自体はありがたかったのだが、許靖はどこか心に引っかかるものがあった。
(この声……聞き覚えがある)
隣の高承を見ると、目を見開いて男の方を凝視している。驚愕の表情だ。
(高承さんも知っている人間なのか?暗くて顔の判別まではつかないが……)
許靖は目を凝らしたが、誰かまでは分からなかった。
用心棒の言葉を受け、その隣りに座っている男が声を上げた。聞き取りづらいだみ声だった。
「元・県尉さんよ、おたくの言っていることはもっともだ。だが俺はここの頭として、それを許すわけにはいかねぇな。こいつらには俺たちの顔を見られてる。殺さねぇってのは無しだろう」
(県尉……?今、県尉と言ったか?)
頭だという男のおかげで、許靖は用心棒の正体に思い至った。
頭の男は言葉を続ける。
「それにな……俺にはどうもあんたが元のお仲間に情をかけているように見える。あんたは悪党に雇われた用心棒で、雇われた以上はあんた自身も悪党だ。悪党になったんなら、情なんてもんは捨てちまえ」
「
頭の言葉を遮るように、高承の声が道場に響いた。
しかし次の瞬間、高承のみぞおちに蹴りがめり込んだ。大きな声を上げるな、ということだろう。
高承はしばらくせき込んで苦しそうにしていたが、やがて喘ぐように声を絞り出した。
「……やはり朱烈様ですね。なぜこんな賊のところへおられます」
朱烈は無言で立ち上がって二人に近づいてきた。
途中、許靖と目が合った。朱烈はそこで初めて許靖の顔を認識したのか、一瞬だけ歩みが止まった。が、すぐにまた歩き出した。
朱烈は二人の前まで来ると、下らないものを見る顔で見下ろした。
「高承だな。相変わらず間の抜けた男だ。私の言ったことを覚えていなかったのか?二人一組で現場に踏み入る場合には、二人同時に活動不能になるのを防ぐためある程度の距離を置くよう指導したはずだ」
「……申し訳ありません」
「それに状況を鑑みて、私がここにいる理由が分からんのか。私は「用心棒」とも、「悪党」とも呼ばれた。お前が今言った「賊」という言葉も当てはまるな。いくら間の抜けたお前でも、私の立場が分かるだろう」
かつての尊敬する上司から冷たい視線と言葉を浴びせられ、高承はすぐに物が言えなかった。しばらくはパクパクと口だけを動かしていた。
やがて、うなだれて泣き始めた。
「朱烈さま……兵の中にはまだ朱烈様の冤罪を信じている者が多くおります。きっと
涙がポタポタと床に落ちる音がした。
韓儀というのは、朱烈を冤罪に陥れたと噂されている腐敗官吏の名だ。
高承の切々と絞り出すような声と対照的に、道場中にわっと笑い声が上がった。
男たちは皆、いかにも面白いことを聞いたという顔をしている。
「おい、静かにしろ」
頭がそうたしなめたが、言っている本人も顔が笑っている。
高承は笑いの止まらない男たちへ怪訝な目を向けた。
そんな高承へ頭がかけた声は、多少の憐れみを含んでいた。
「おい、韓儀ってのは
「……そうだが、それがどうした」
「今回の馬泥棒はあの方の命令だぞ」
「何だって!?」
高承は頭の言葉に目を剥いた。
その顔がまた可笑しかったらしく、頭は喉の奥を鳴らして笑った。
「くっくっく……そう言えば朱烈の脱獄事件があった後、韓儀様が冤罪の黒幕だなんて噂で街が盛り上がっていたな。だがな、お前の尊敬する朱烈様はその黒幕と言われてる韓儀様の命令だと知っていながら、その悪事の片棒を担いでいるんだよ。それで大体のことは分かれ」
口を半開きにしたまま目を白黒させている高承を見て、男たちはまた笑い声を上げた。
許靖は韓儀という男についての記憶をたどった。
(韓儀……中央から派遣された郡の次官。汚職が酷いという話だったが、賊まで使っているとは)
韓儀は馬を好まないので許靖は仕事上あまり関わりがなかったが、それでも悪い噂はよく聞いていた。
賄賂の強要、職権乱用、役所の職員や一般人への横暴、派手な金使いなど、ろくでもない噂ばかりが耳に入る。
朱烈はそれを真っ向から批判し、不正を追及する捜査まで行っていたということだ。自然、二人は水と油の仲だった。
そんなこともあり、朱烈の脱獄後には韓儀真犯人説がまことしやかに噂されていた。高承の口ぶりからすると、兵の間でも冤罪だろうという意見が多かったようだ。
「お前の元上司はうちの用心棒として雇われているんだよ。しかも今回の働きはそれだけじゃない。犯行計画はほぼ朱烈が立ててくれた」
朱烈は頭の言葉に何の反応も見せなかった。否定しないということは、その通りということだろう。
「盗む方法からわざと近くに隠すという手法、警備の弱点、警戒網が引かれた際にできやすい穴とその抜け方まで丁寧に教えてくれたよ。さすがは元・敏腕県尉様だ。良くできた計画を出してくれたもんだよ」
「そんな」
「しかもだ、今回の馬泥棒は韓儀様のちょっとしたうさ晴らしに過ぎないんだぜ?なんでも太守の
朱烈はそれにわざわざ付き合って犯罪を起こしているのだから、朱烈の逮捕が韓儀による冤罪ではないのは分かるだろう。
頭はそこまでは言わなかったが、要はそういうことだった。
呆然とする高承をひとしきり見物にした後、頭は朱烈の方を向いた。
「朱烈さんよ、こいつらはここを出る時に殺すぞ。いいな?」
「……好きにしろ」
朱烈は無表情にそれだけ言うと、また元いた場所へと下がって、どかっと腰を下ろした。
「おい、騒がれたら困るから猿ぐつわだけはしとけ」
頭が手下にそう声をかけたが、少なくと高承は騒ぐ元気などなさそうだった。首をガクリと落としてうなだれている。
それでも手下たちが命令を実行するため二人に近づいてきた時、雨戸の外から言い争う声が聞こえてきた。
女の声が混じっているようだった。
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