第14話 馬泥棒
診療所の裏口から表の方へ回ると、男の背中が少し離れたところに見えた。
「いい距離だ。このまま尾けるぞ。雑談でもしながら自然に行こう。もし振り向いても焦らないで、たまたまこちらに用があると思わせるように」
許靖は緊張した表情でうなずいた。
生来の臆病者だ。もし振り向かれでもしたら、きっと挙動不審になってしまうだろう。
瞳を見るために表に出たのは間違いだったのかもしれない。向こうがどれほど認識していたかは分からないが、おそらく顔を見られているはずだ。
(いや……間違いといえば、そもそも私に尾行させている
そんなことを思いながら、高承のどうでもいいような天気の話に相槌を打ちつつ男を尾けた。
男は幸いにも一度も振り返らず、診療所から十軒ほど離れた武術道場に入っていった。
「この道場は……確か先月の初め頃に当主が死んで、しばらく休みということになっていたはずだが」
高承は足を止めずに横目で建物を眺めながら歩いた。道場は高い土壁の塀に囲まれていて、中までは見えない。
「許靖さん、このまま足を止めずに建物をぐるっと回ろう。もし、中が見えそうな所があれば覗いてみる。実際に馬が確認できれば完璧だ」
そう言って建物を一周回ってみたが、何も発見はできなかった。塀の合間からちらりと見えた建物も、すべて雨戸が閉まっている。
「よし、建物の中を覗いてみよう」
高承は無造作に道場の敷地へと入ろうとした。
驚いた許靖がその袖を掴む。
「高承殿、さすがにそれは危険では」
高承は許靖が恐れるのを見て、逆に調子に乗ってしまった。
自分は訓練を受けた兵だ。この怯える一般人に、治安維持や捜査の専門家の働きを見せてやろう。
そんなことを思った。
「大丈夫、任せておけ。庭には人の気配はなかったから建物には近づけそうだ。それにずっと気になっていたんだが、盗難現場にあまりに近すぎる。確信が持てないから応援を呼ぶ前に馬を確認しておきたい」
(いやいや、わざと近くにしたんですよ!ここで間違いありません!)
許靖は心の中でそう叫んだが、この場であまりしゃべり過ぎるのはどうかと思い、首を振るだけで抗議した。
だが高承は気にも留めない。
「大丈夫だと言っているだろう。幸い盗まれたのは馬で、素早く持ち運べるものじゃないから持ち逃げはされない。騒ぎになれば人も集まるだろうし、最悪二人とも捕まらなければこっちの勝ちだ」
高承は素早く辺りを見回し、忍び足で門から中に入っていった。
(わ、私も入る必要があるのか?峻を判別できるのは私だから入らざるを得ないか?いや、しかし峻はとびきり大きいから別に私が見なくても……)
そんなことを考えている間にも高承はどんどん奥へと進んでいく。許靖は仕方なくその背中を追った。
高承は玄関から一番近い雨戸に近づき、耳をそっと当てた。
まず音だけを頼りに中を探る。それで特に危険を感じなかったようで、雨戸をかすかにずらした。
高承はしばらくその隙間に目を当てていたが、やがて許靖を手招きした。
許靖もかすかな隙間から中を覗いてみる。
(……峻!!)
薄暗い道場の柱に、峻が括り付けられていた。後ろ向きで顔は見えなかったが、あの迫力のある尻は間違いない。
許靖は雨戸の隙間から顔を離し、高承にうなずいた。
高承もそれにうなずき返す。
そして次の瞬間、二人の耳に立て付けの悪い木材が強く擦られる音が飛び込んだ。
「二名さん、ご来場だ」
先ほどまでわずかでしかなかった雨戸の隙間が、全開に開かれていた。
道場の中では屈強そうな男が数人こちらを見下ろしている。
許靖と高承は男たちに服を掴まれ、声を上げる暇もなく道場へ引き上げられた。
それからしばらくはどこをどうされているのかも分からないまま、全身に圧迫感だけを感じていた。
そして気づけば両手両足ともに縛り上げられている。縄目は痛いほどきつく、ピクリとも動かせない。
(最悪だ!二人とも捕まった!)
二人を拘束した男たちは素早く雨戸が閉め、わずかな時間明るくなっていた道場内がまた薄暗くなった。
男たちの中でも特に屈強そうなのが高承の髪の毛を掴み、顔をぐいと引き上げてにやりと笑った。
「おい兄ちゃん。さっき玄関先で『最悪二人とも捕まらなければ』とか言ってたな。じゃあこれは何だ?そう、最悪だ」
許靖が思ったのとほぼ同様のことを口にしながら、男が笑い声をあげた。つられて他の男たちもどっと笑う。
許靖は薄暗い道場の中を見回した。
雨戸は閉まっているが、所々で油が燃やされている。目が慣れれば十分な視界があった。
道場の中には許靖たちを縛った男たちが六人、そして少し離れたところにもう二人ほど男がいた。他は柱に繋がれた峻だけだ。
八人の馬泥棒と、許靖と高承、それに峻が道場の薄闇に同居している。
許靖が高承に目をやると、ちょうど目が合った。
高承はさすがにバツの悪そうな顔をしたが、それを振り払うように男たちに向かって声を上げた。
「……す、すぐに別動隊がこちらに来る。お前たちはもう終わりだ。観念して自首した方が罪も軽いぞ」
その言葉に、男たちの笑いがピタリと止まった。
が、すぐにまた可笑しそうに唇を歪め始める。高承の髪の毛を掴んだ男が口を開いた。
「ただの馬鹿かと思ったが、ハッタリを思いつくほどには頭があるんだな。だが俺たちもこの道で食っているんでね。尾行には警戒してる。付き添いの二人以外にもう一人医者の所へ行かせていたんだ。そいつに尾行するお前たちを尾けさせていたんだよ」
高承の表情が氷のように冷え固まった。
「お前たち以外には尾行者はいなかった。他の人間がそのうち探しに来るだろうが、どこに入ったかまですぐには分からんだろう。もうすぐ夜になる。暗くなったら上手く逃げられる手はずは整えてるんだよ」
男は言いながら、腰にはいた剣をすらりと抜いた。
飾り気の一つもない実用的な剣だ。ただ人を斬るために存在するような剣だった。
「だがその前にお前たちの処理はしておかないとな。なに、騒がれると困るから出来るだけ楽に殺してやるさ」
笑っていた男の顔が、急に無表情になった。
仕事をする職人の顔だ、と許靖は思った。おそらく普段から
許靖はなぜか、昨日包丁で豚肉を切って料理したことを思い出していた。
花琳が『保存食ばかりでは体に良くないから』と差し入れてくれた新鮮な食材だ。あの豚肉のように、自分の肉も無造作に切り分けられるのだろうか。
それから花琳の姿を想い浮かべた。
あの瞳の奥の桜の樹。凛々しく、美しく、どこか儚げなものを感じさせるあの壮麗な大樹。
あれをもう見られないのかと思うと、どうしようもなくやるせない気持ちになった。
許靖にとっては目の前で刀身が鈍く光っていることよりも、花琳にもう会えなくなるということの方がよほどの重みをもって胸中に暗い影を落としていた。
男がゆっくりと剣を上段に構える。
そしてそれが下ろされるかどうかといった瞬間に、どこか聞き覚えのある声が飛んできた。
「待て」
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