第12話 馬泥棒

「花琳さん、そろそろ帰られた方がいいのではないでしょうか」


 許靖は役所近くに居を構える外科医、毛清穆モウセイボクの診療所奥で花琳にそう促した。


 そろそろ日が落ちる刻限が近づいてきている。花琳であれば例え女の夜道でも危険はなさそうではあったが、やはり想い人のことは心配だった。


「いいえ、大丈夫です。それにもしかしたら賊がここに来るかもしれないのでしょう?なら、許靖様のお側にいさせてください。私が危険を排除いたします」


(これ……半年前に朱烈シュレツ殿をかくまっていた時にも言われたな)


 涼しげな顔で窓の外を見ながら答えた花琳を、許靖は複雑な表情で眺めた。


 夕日に照らされた横顔が息を飲むほどに美しい。


 花琳の言葉が男として情けないのは確かだったが、それでも好きな女性が自分のためを思ってくれているのだ。嬉しくないかと問われれば、否定はできない。


 小芳はそんな二人を見ながら、勝手にやってくれ、というようにため息をついた。


 許靖が兵に提案したのは、峻が暴れた場合を想定した監視網を張ることだった。


『馬に怪我をさせられた時に受診しそうな外科医や、外傷の膏薬を売る薬種商へ人を配置してはいかがでしょう?そこへ馬に噛まれたり蹴られたりした者が来れば、帰り道を尾行するのです』


 提案を受けた兵はその効果に半信半疑だったが、陳覧の強い勧めで街の主だった外科医、薬種商に人を二人ずつ配置することにした。


 が、どうしても人数の関係で一人分の都合がつかない。


 そこで毛清穆の診療所だけは言い出しっぺの許靖が兵と共に待機することになったのだ。


 それに、毛清穆と許靖とは仕事柄ちょっとした顔見知りでもあった。役所に最も近い外科はここなので、仕事で怪我をすれば自然とここを受診することになる。


 許靖自身は馬の扱いが上手いのでめったに怪我などしなかったが、同僚の付き添いで何度か来ていた。


 その際に毛清穆は許靖の様子を見て、


『お前さん、怪我はしとらんようじゃが筋肉痛がひどいじゃろう?ほれ、これを持って行け』


などと、頼まれもしないのに筋肉痛の膏薬などを無料で渡してくれることがあった。よほど世話好きの医師らしい。


 毛清穆はもう七十に手が届こうかというような老人で、いつもニコニコした好々爺といった人物だった。


 しかしその処置の的確さ、素早さには目を見張るものがあり、治療は鮮やかな芸を見ているようだ。


 つまり、人が好くて腕も良い。


 自然、人気が高く厩舎で馬に噛まれたり蹴られたりした者が出ると『とりあえず毛先生の所へ』という話になった。


 その毛清穆が、いつも通りの穏やかな笑顔で許靖たちのところへ歩いてきた。


「もうそろそろ診療所を閉める時間じゃよ。こちらには来なんだな」


 落ち着いた声音でそう言った。


「分かりました、先生。お邪魔をいたしました」


 そう言って頭を下げつつ、許靖は毛清穆の瞳を見た。そこに映るのは、かなり特徴的な「天地」だった。


 柳の木が一本、風に揺れてたたずんでいる。それだけの「天地」だ。


とらえどころがないな)


 そのように感じた。この「天地」を理解するには、許靖はまだまだ生きた年数が足りないのかもしれないと思った。


 ただ、この老人はどんな風が吹いてきても柳がしなやかに揺れるように、全てを上手く受け流せるような人物に思えた。


 毛清穆は細い目を花琳に向けた。


「花琳ももう帰りなさい。お父上が心配する」


「先生のところでしたら祖父の家にいるようなものです。泊まっても心配はいたしませんわ」


 何の脈絡もなく親しげな会話を始めた二人を、許靖は驚いて見比べた。


「……え?二人はお知り合いだったのですか?」


 二人はここを訪れた時にも事情を説明している時にも、そのような様子を全く見せなかった。


 入ってきた時に軽く会釈をしていた程度だろう。むしろ、顔見知りだったからあの程度の挨拶だったのか。


 毛清穆は意外そうに答えた。


「おや、知らなんだか。許靖殿は花琳と良い仲だと聞いていたのに」


「先生は私の武術の師匠なのです」


 茶化そうとした毛清穆を花琳が遮るように答えた。


「先生が?武術を?」


 許靖には意外なことだった。


 これまでも武術家の「天地」は何人か見てきたが、大抵どこか強そうな印象を受けた。花琳の壮麗な桜も、一見すると力強さを感じさせる。


 しかし毛清穆の瞳の柳にはそのようなところがまるでない。


 毛清穆は愉快そうに笑った。


月旦評げったんひょうの許靖殿でも儂が武術をやることは分からなんだか。よく意外だと言われる。まぁ大した腕でもないがの」


「よくおっしゃいます。先生は私十人分ぐらいのお力はおありでしょう。私はこの辺りで先生より強い方を見たことがありません」


 許靖は真顔でそう答えた花琳を見て、内心首を傾げた。


(花琳さんも普通の兵士十人分ぐらいの武力はあるだろう。そうすると先生は百人分の計算になるが……)


 そんなことを考えた。


 毛清穆は相変わらず穏やかな好々爺の顔で笑った。


「なんの、儂くらい。世の中には儂十人分ぐらいの力を持った武人がおる。そういった人間は『一騎当千』などと呼ばれていたりするが」


(百に十かけて千だ。計算が合う)


 許靖が妙な納得の仕方をしていると、奥の椅子に腰かけていた兵が立ち上がった。


 そして毛清穆に頭を下げ、礼を口にした。


「先生、ありがとうございました。ここはハズレでしたが、こういった地道な捜査が犯人捕縛の一歩となります。ご協力感謝します」


 兵の名は高承コウショウという。


 いかにも真面目な青年兵で、ハキハキと話し礼儀も正しい。ピシリと音の聞こえそうな一礼をしていた。


「ここは犯行現場の役所からあまりに近すぎますし、恐らく無駄足にはなるとは思っていたのですが……」


 その発言に、許靖は少しだけ首を傾げた。


(そうだろうか。峻の馬体はかなり目を引くほど大きい。目撃者がいれば簡単に足がつくし、それを避けるにはいったん役場の近くに潜ませるのが良いと思うが……)


 そんなことを考えていると、玄関の方から何やら騒がしい声が聞こえてきた。


 バタバタと物音がした後、診療所の手伝い娘が駆けてくる。


「先生、急患です。馬に腹を蹴られて息ができないそうです」

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