第11話 馬泥棒

「盗まれた?シュンが?」


 許靖は思いもよらない知らせに椅子を蹴倒して立ち上がった。


 先ほど店先を掃いていた小僧が息を切らせながら中庭を走ってくる。


「はい。兵隊さんが店に来てそう言っていました。管理していた許靖さんに話を聞きたいから急いで連れてくるように、と」


 峻の世話を終えて厩舎に戻したのが一刻(二時間)ほど前だ。その間に盗まれたとしたら、まだそれほど遠くには行っていないだろう。


 馬泥棒に対して許靖にできることがあるかは疑問だったが、とにかく急いで行った方がよさそうだ。


「王順さん、申し訳ありませんがお話はまた今度。失礼いたします」


 許靖は頭を下げて玄関の方へ駆け出した。


 残された王順はその背中を見送りながら、


(意外と俊敏に動く)


と、脳内における許靖の評価に一つ加点した。


 花琳の方はというと、小僧へ殺気に満ちた視線を送っている。


 あと少しで自分の望む最上の結果を得られていたのに、理不尽に水を差されたのだ。やり場のない怒りが小僧へと向けられた。


「ひぃっ?」


 これまで経験したことのないような殺気を浴びて、小僧は背筋に冷たい汗を流した。


 いつも優しいお嬢様が、なぜ。自分は何か悪いことをしたのだろうか。


「やめなさい花琳。人でも殺しかねないような顔をしているぞ」


 しかし、父親にたしなめられた程度ではおさまらない感情が体内を渦巻いている。


 それが口から漏れるのか、花琳はしばらく唸るような声を出していた。


 やがて、弾かれたように立ち上がった。


「私も役所の方へ用事を思い出しました。ちょっと出かけてきます」


 そう言って足早に玄関へと向かう。


 小芳が慌ててそれを追いかけた。


「えっ?お嬢様、ちょっとお待ちください」


 王順は二人の背中を眺めながら止めるべきか迷ったが、結局何も言わないことにした。


 あの様子では止めても無駄だろう。


(どうしても今日、結果を得たいのだろう。おあずけを食らった犬のようだ)


 我が娘に犬とはあんまりではあるが、そんなことを思ってしまう。


 その横で殺気から解放された小僧がへなへなと膝から崩れ落ちていた。



***************



「おう、来たな許靖……と、なんで王順さんとこの娘さんがいるんだ?」


 陳覧チンランは許靖と花琳、小芳の三人を前にして怪訝な顔で尋ねた。


 なんで、と言われても許靖にもよく分からない。途中で花琳が追いつき、そのままついて来たのだ。


 かなり走ったので、かわいそうに小芳は汗だくで息を切らしていた。花琳は全く澄ました顔をしているが。


「お気になさらず」


 その澄まし顔であっさりとした答えを返した。


「まぁ……いて困るもんじゃないが」


 陳覧は不得要領だったが、とりあえず話を進めることにした。


 厩舎には兵が二名と馬の世話係が集められていた。


「聞いているとは思うが、太守様の馬が盗まれた」


 許靖はこくりとうなずいた。


「盗まれたのはこの一刻(二時間)程度の間だ。お前が峻を厩舎に戻してからだな。戸締りがちゃんとしてあったことは確認しているから、お前に非はない。聞きたいのは今日一日、またはここ数日で怪しい人間を見なかったか、ということだ」


「怪しい人間ですか……」


 許靖たちがもう少し詳しく話を聞くと、盗んだ人間の人相や背格好などはすでに分かっているらしい。


 日中堂々と盗んでいったのだ。峻は目立つし、当然何人にも見られている。逆に堂々としすぎて誰からも怪しまれなかったようで、これもある意味名人芸かもしれない。


 すれ違う人間も新しい馬の世話人か、業者か、馬医者か、という程度にしか思わなかったとのことで、実際に役所を出ていくときの警備兵も、


『馬医者です。蹄の治療に特別な設備が必要なので連れていきます』


と言われて、何の疑問も持たずに通してしまったらしい。


 峻は嫌がっているように見えたが、基本的に人に懐くことが少ない馬なので特に違和感も感じなかったということだ。


 多くの住民や業者が出入りする役所では、いかにもありそうな事態だった。


「だが何かあった時のために仲間が一緒に入っていたり、下見で前もってここに来ていた可能性もある。怪しい人間を記憶していたら教えてほしいんだが」


 陳覧にそう言われて必死に記憶を手繰ったが、何も出てこない。


 役所内ではいくら知らない人間を見ても、それが日常茶飯事なので記憶には残らないのだ。


「申し訳ありませんが、特に思い当たりません」


「そうか」


 陳覧もあまり期待はしていなかったようで、さらりと受け流した。


「じゃあ、もう大丈夫だ。急がせて悪かった。もし見つかったら連れ帰るのに暴れられても困るから、お前に声がかかるかもしれん。その時は頼む」


「それはもちろんですが……」


 許靖は陳覧から兵へと顔を向けた。


「あの、捜査の方はどうなっているのでしょう?」


「ん?それはもう太守様の馬だ。もちろん全力を挙げている」


 二人のうち、特に真面目そうな印象を受ける兵が一つうなずいてから答えた。


「主に周辺の聞き込みと人海戦術での捜索だ。白昼堂々の馬泥棒だからな。馬体も目を引くほど大きいし、目撃証言は出てくるはずだ。それを伝っていけばじき見つかるだろう。それに最悪の事態を考えて、街の出入り口の警備も人を増やしている。街から出られたら捜索は困難だからな」


 ただの馬泥棒ならここまでやらないだろうが、盗まれたのは太守の馬だ。


 人の口にも多く上るだろうから、捕縛できなければ軍の面子にも関わる。治安上、捕まえないわけにはいかない。


(しかし、わざわざ日中に盗んでいくような泥棒だ。普通の捜査では捕まらないように、何か特別な計画を立てていそうなものだが……)


 許靖は心配だった。心から峻の無事を願っていた。


 峻には他のどの馬よりも思い入れがある。


 もちろんあれほど立派な体格の馬はそうそういないだろうが、許靖はそれよりもあの気高い内面を愛していた。馬の心に無理解な人間から、ただの暴れ馬としてひどい扱いを受けるようなことがあったら不憫だ。


「あの……差し出がましいようで恐縮なのですが」


 許靖はおずおずと声を出した。


「なんだ?」


「もし割ける人数がいましたら、薬種商と医者、特に外科医の所へ何人か回していただけませんか?」

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