第10話 恋
東屋で話をしている
花琳は娘らしく綺麗な服装に着替えていたが、どことなく硬い表情をしている。
許靖は立ち上がり、笑顔で挨拶をした。
「こんにちは、花琳さん。先ほどは良いものを見せていただきました」
が、花琳は許靖の言葉には答えず、挨拶もしないままじっと許靖の顔を見つめている。そのまま数秒が過ぎた。
許靖はこの間がどういう間なのか分からず、困って小首を傾げた。
そんな娘を、王順が眉根を寄せて叱った。
「こら花琳。どうしたんだ、失礼だろう」
それに答えたわけではないだろうが、花琳は突然大きな声を上げた。
「許靖様っ」
「は、はいっ」
許靖は思わず体を固めた。
「お金でしたら私がなんとかして稼ぎますから、何も心配はいりません」
「……は?」
突拍子もない言葉に唖然とした許靖のそばで、小芳と王順が全く同じ姿勢で頭を抱えていた。
(お嬢様はたまにこんなことがある……)
(娘はたまにこんなことがある……)
二人の心の嘆きが重なった。
「お金のことなら、大丈夫ですから」
「花琳、いいからとりあえず座りなさい」
念を押すように言い募る花琳に、王順が椅子を指さした。
花琳は許靖から目を離さないまま、すっと椅子に座った。何かを待つように、じっと許靖を見つめ続けている。
許靖が何と言ったらいいものか分からず沈黙していると、花琳は言葉を重ねてきた。
「私たちが初めてお会いして、もう半年になりますね」
「あ、はい。そうですね。そういえば半年前に脱獄した
それは花琳の望んだ台詞ではなかったが、話のきっかけを掴めたと感じた許靖はそう答えた。
どうしたものやらと見守っていた王順も、これ幸いとその話題を広げることにした。
「ああ、一時は街がその話題で一色でしたな。県尉(警察署長)朱烈の部下殺害と脱獄事件」
半年前、脱獄犯が逃げたあの後、許靖は花琳と小芳に冤罪の可能性を説いた。二人がすぐにでも兵の詰め所へ届けると言い始めたからだ。
許靖は脱獄犯のために、できるだけ時間を稼いでやりたかった。
瞳の奥の「天地」のことはあまりにも突拍子がないので言わなかったが、男が家に侵入してからの紳士的な立ち振る舞いなどを伝え、凶悪犯であるはずがないと説いた。
許靖自身、説得力のある話だとは思えなかったのだが、花琳に関しては不思議なほど簡単に信じてくれた。
「拳を合わせると、たまにですが不思議と相手の人格的な部分が伝わることがあります。確かに遺体の顔を潰すような方には思えませんでした。それに私には……あなたがこんな嘘をつくような人には見えません」
小芳は半信半疑ながらも花琳に説得され、
『もう遅いし、犯人も逃走して危険がないので明朝に届ける』
ということで渋々納得した。それに小芳も月旦評の許靖の名を聞いたことはあったようで、それも多少影響したのかもしれない。
翌朝、許靖たちは一番番頭の
脱獄犯の名は朱烈。県尉という、この時代の警察署長に当たる役職に就いていた。許靖たちが届け出た兵たちのまさに長だ。
事件としては朱烈が部下五人を殺害し、しかもその遺体を損壊したというものだった。
現場の遺留品や目撃者の証言などから朱烈が犯人と断定され、速やかに逮捕された。しかしほどなく脱獄し、許靖宅に逃げ込んだ後、山中へと逃れた。
街は騒然とした。朱烈は県尉として人望のある男で、言ってみれば街の人気者だった。
県尉は街の治安を守るための役職であるから、本来は民の味方であるはずだ。
しかしこの時代は科学的な捜査もできず、物証も取りづらい。治安維持に望む者は、捜査上も捕縛上も強い態度で臨まなければならない場合が多かった。
結果、どうしても横柄になりがちで民からは嫌われてしまうのが普通だ。
そんな中、朱烈は過度に威圧的な態度をとらず、問題のある人間とも粘り強く話をして治安を維持することに腐心した。捜査も自白に頼らず可能な限り証拠を集め、誰もが納得する形で犯人を挙げた。
『法に厳正』というよりも『法に潔癖』といえるほどの性格で、有力者の賄賂も受け取らなかった。人気が出るのも当然だろう。
そんな朱烈が部下を、それも特に可愛がっていた腹心の部下を五人も殺害し、あまつさえわざわざ顔を潰したというのだ。許靖でなくとも、街では早くから冤罪の噂が絶えなかった。
特に話題になっていたのが、少し前に中央から赴任してきた
韓儀はひどく腐敗した官僚で、賄賂や職権乱用などで朱烈とは相当にやりあっていたらしい。その罠にはめられたのだろう、という意見が多かった。
しかし現場からは本人の所持品がいくつも見つかっており、さらに朱烈らしき人物が現場から去るのを見たという証言や、犯行時刻に朱烈が飲んでいたと主張した店の店主の否定が重なり、捕縛されるに至っている。
王順は花琳から「冤罪らしい」という話を聞いていたが、証拠が多いこともあり半信半疑だった。
が、先ほど許靖の妖術のような人物鑑定を聞いて、
(この人物鑑定家が言うのなら、確かに冤罪かもしれないな)
と、考え直した。それに王順自身、朱烈とはそれなりに面識があったが、確かにあの潔癖な男のやりそうな事件ではない。
「やはり朱烈様は冤罪ですかな」
「私はそう考えています。どこかで元気でいてくれればよいのですが」
許靖は茶をすすりながらそう答えた。
(優しい男なのだ)
王順は改めてそう思った。
殺人は冤罪だとしても、許靖は強盗に入られて食料を盗られている。この男は人を恨んだりすることがあるのだろうか。
花琳は話題が自分の望んでいた事とずれてしまったことで不満そうな顔をしていたが、粘り強くまた口を開いた。
「あの、お金を稼ぐのでしたら私が……」
「やめなさい」
ぴしゃりと父に遮られる。
「ですが」
「いいから。ちょうど今、許靖様にこの店で働いてくださらないかとお話をしていたところだ」
「えっ」
花琳は意外な提案に驚いた。
父は商売に対しては厳しく、たとえ親類縁者であっても店のためにならなさそうな人間は働かせない。助けが必要そうであれば他で仕事を紹介してやるくらいはするが、自店舗や関連店舗には絶対に入れなかった。
王順は
「許靖様の人物眼はちょっと異常なほどだ。店にとって、必ず利益になる」
言われた許靖の方は決めかねているようで、しきりに茶をすすりながらつぶやくように漏らした。
「しかし……私に商いが勤まりますでしょうか」
「確かにあなたは商人になるには人が
王順は正直に答えた。
「商いの基本は安く買って、高く売ることです。言い方を変えれば、安く買い叩き、足元を見て値を上げる。もちろんそれを全肯定する商売は長続きしませんが、相手のためを考え過ぎてしまうと商売などできません」
「……やはり厳しい世界ですね」
許靖は自分の性格をよく分かっているので、商いの世界というものに尻込みしていた。
「ですが、私があなたに望むのは安く買うことでも高く売ることでもない。人事です」
王順は許靖の目をまっすぐに見た。
「あなたには商品の管理ではなく、人間の管理をしていただきたい。利益になる従業員の見極めや、その育成などです。組織というものは正常に働く機構が整い、動かす人間が健全であれば、それだけで継続した実績と成長が得られます。あなたにはその人の部分を担っていただきたい」
王順の言葉は次第に熱っぽくなっていった。
これは長年商人として働いて得られた価値観と倫理観から築き上げられた、いわゆる経営哲学だった。
「どうでしょう?私には息子もいますし、商売としての働きはそちらに任せればよろしい。あなたにはあなたの出来ることをやっていただきたい」
そしてちらっと花琳に視線を向け、愉快そうに目を細めた。
「そうすれば、少なくとも娘の心配しているお金うんぬんは解決しますしね」
許靖は顔が熱くなってうつむいた。
一方の花琳は、父へ感謝と尊敬の眼差しを向けている。
王順は花琳が産まれてからの二十二年、娘のこれほど輝いた視線を受けた記憶がない。
これはもはや親公認、結構前提で花婿を家に迎えようとしているようなものだ。
許靖はしばらく黙っていたが、やがて意を決したように口を開いた。
が、その言葉は突然中庭へ駆け入ってきた小僧の大声にかき消されてしまった。
「許靖さんはいますか!?すぐに役所の
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