第9話 恋

「ねぇ小芳ショウホウ許靖キョセイ様は私のことがお嫌いなのかしら」


「はぁ?」


 花琳カリンの着替えを手伝っていた小芳は、思わず素っ頓狂な声を上げた。


 ちなみに先ほども花琳から『湯浴みしたい』と言われて同じ声を上げたばかりだ。主人と客が待っているのに、湯浴みするような時間があるわけがない。


「あの顔のどこをどう見たら嫌われているように見えるんですか」


 使用人としては失礼な言い方かもしれなかったが、花琳と小芳はもう十五年も共に過ごしている。


 花琳が七歳、小芳は一歳の時から一緒なので、使用人とはいえ幼馴染のような関係だった。


「だって、出会ってもう半年も経つわ。しかも、ああやってたまにお父様ともお話しする関係なのに……」


 それ以上の言葉は濁らせた。


 小芳にはそういう花琳の気持ちがよく分かる。そろそろ求婚の一つもあっていいのでは、ということだろう。


 世間一般で出会いから半年の求婚が早いかどうかはさておき、花琳はもう二十二になる。結婚の早い時代なので、相手としてもそれを察して早めの縁談を考えてくれてもいいはずだ。


 しかも二人はちょっと考えられないぐらいの頻度で会っているから、密度の低い半年ではない。


 父親の王順も小芳から話を聞いて、早い時期から許靖と顔を合わせていた。今回のように茶に誘われるのは初めてだが、結構な頻度で話はしているのだ。


「今日は武術の鍛錬も見られてしまった……もう嫌われたかもしれないわ」


「いえいえ、建物の中から遠めに見ていましたけど、それはありえません。むしろあの顔は惚れ直してましたね」


 きっぱりと断言された花琳は顔を赤くした。


「ええ?でも、殿方は武術をする女なんか嫌いなものでしょう?」


「まぁ殿方にも色々いるということでしょう。というかお嬢様、それを分かっていながらこれまで縁談の度に武術を披露していたんですか」


 小芳はあきれ顔で鏡越しに花琳の顔を見た。


「その時はありのままの自分を見てもらった方がいいと思って……特に結婚したいと思う方もいらっしゃらなかったし……」


 むしろ体良く断るためにそうしていたのかもしれない、と小芳は思った。そのくらいの頭とわがままは持ち合わせたお嬢様だ。


 しかし、許靖は『自分を偽ってでも結婚したいと思う男』ということなのだろう。


「ですが、今のままでは求婚は無理でしょう」


 小芳は花琳の滑らかな髪をかしながら、ため息混じりにそう言った。


「無理?なぜ?」


 花琳が突然振り向いたので、小芳の手元からくしが落ちそうになった。


「っとと……分かりませんか?馬磨きのお給金ではお嬢様のような大店の娘を養っていけるわけがありません。求婚なんて、どれほどの恥知らずでも出来ませんよ」


 花琳は意外そうな顔をした。


「そんな、私はお金なんて気にしないのに」


 小芳はまたため息をついた。お嬢様は決して世間知らずではないが、たまにこういうことがある。


 もしかしたら想いがあまりにも強すぎて『相手さえいればそれでいい』ということが自分の中で当たり前になり過ぎているのかもしれない。


「お嬢様はそうでも、世間の感覚はそうではないんですよ。許靖様も十分盲目になっているとは感じますが、そのくらいの感覚はお持ちでしょう」


「そう……じゃあお金さえ解決すれば求婚してくださるのかしら」


 いとも簡単そうにそう言う花琳が、小芳は可笑おかしくなった。


「そうですね。お金さえ解決すれば、明日とは言わず今日にでも求婚してもらえるかもしれませんよ。それくらいのお気持ちは間違いなくあるはずです」


 小芳は花琳の言い様がツボに入ったらしく、櫛を持つ手が小刻みに震えた。


「……今日にでも……」


 笑う小芳とは対照的に、花琳は真顔で虚空の一点をじっと見つめている。


「……求婚……してもらえる……」

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