第8話 恋
茶はこの時代まだ一般的でない。一部の上流階級を中心に飲まれているが、世間一般の庶民が口にするようなことはあまりなかった。
許靖も実家はそれなりの家なので初めてではなかったが、この貧乏暮らしでずいぶんとご無沙汰だ。
久しぶりに飲む茶は、心を落ち着けてくれるようで美味い。
「美味しゅうございます」
「それは良かった。最近、少し茶に凝っていましてな」
茶に戸惑いを見せなかったな、と王順はめざとく確認した。それだけでも多少の育ちは分かる。
王順は茶の談義をしてみることにした。
「同じ品種でも産地によってずいぶん違います。製法でもかなり香りが変わりますな。それに、時には遠方からの交易で摘まれてから時間が経ち、変色してしまったような茶が不思議と良い香りを出すこともあるのです」
「それは面白いですね。こちらも少し時間がたっているのですか?摘んで間もないような若々しい感じが抑えられて、落ち着いた感じがしますが」
「分かりますか。これは摘んだ後、一度蒸してから天日干しにしたものです」
「色々と加工するのですね。私はただ干したものを煮出して飲んだことがあるぐらいで、新しいか古いかくらいの違いしか感じたことがありませんでした」
「わざと低い温度で炒ったりすることもあります。香りが良くなりますな。旧知の職人が、様々に試したものを送ってくれるのですよ」
王順は嬉しそうに笑った。
人間は自分の趣味を他人と共有したり自慢したりできることに、無上の幸せを感じる。茶がまだそれほど普及していないだけに、話をできる人間は少ない。
王順は素直に嬉しかった。
が、喜んでばかりはいられない。今日は娘のため、許靖について見極めるために茶に誘ったのだ。
まだ茶について語りたいのをぐっと堪え、それとなく一番聞きたい所へ一歩踏み込んだ。
「許靖様は馬磨きがお仕事でしたな。暖かくなりましたし、汗をかいたら茶の一杯も飲みたくなるでしょう」
「ええ。しかし、私どもの給金では茶など買う余裕はとてもありません」
(素直に答えたな)
恥じ入るようにうつむく許靖に、王順はさらに一歩踏み込む。
「しかし、失礼ながら
『馬磨きなど』
と王順はあえてそう言った。
失礼かもしれないが、それでこちらの聞きたいことを察して、話せる理由なら話してくれるだろう。その程度には頭の回る若者だと評価していた。
許靖は特に隠すつもりもないので、正直に答えることにした。
「私の従兄弟である
「もちろん。共に月旦評を主宰され、今は郡の功曹(人事を司る役職)としてご活躍の方ですな」
「はい。その許劭が私のことを『腰抜け』と申しておりまして」
「なんと」
「私を雇いたい、士官させたいという方は、従兄弟だからということで許劭に仲介を依頼することが多いのです。しかし、その評価を聞かされて沙汰止みになるそうです。一部では、許靖は人物鑑定こそできるものの仕事では使い物にならないらしい、と噂になっているとか」
「そのようなことが」
王順は許靖についての経歴や街の評判などを一応調べさせていたが、そのような噂は聞かなかった。
名士を雇おうというような限られた人々の間だけの噂なのかもしれない。
「あまり仲が良ろしくないのですね」
集めた評判の中に『許劭と仲が悪いらしい』という噂はあった。
従兄弟同士とはいえ、許靖の方が少し年上のはずだ。それをこうも堂々と批判するとは。
が、許靖は苦笑して首を振った。
「いえ、世間ではそのように言われるのですが、仲が悪いというわけではないのです。少なくとも私は悪いとは思っていません。確かに月旦評その他で意見がぶつかることもありましたが、それは従兄弟同士の気の置けない仲といいますか……」
「なるほど。確かにそのようなこともあるでしょうな」
王順はうなずいた。世間の噂ではよくありそうな話だ。
「許劭は人物評論家として舌鋒の鋭いことで有名な男です。駄目だと思う部分は厳しい表現で包み隠さず言ってしまう。それはそういう人物評論家だというだけで、悪い男ではないのですよ」
王順は被害を受けている側の許靖が許劭をかばっていることがおかしかった。
おかしがりながらも、腹の中では、
(この人の
と計算している。
「なるほど。では誰かに雇われず、一人の人物評論家として世に立つという方法もあるのではないでしょうか?あなたほどの知名度なら、評価を書面にして手数料を取ってやれば馬磨きなどよりはずっと稼げるはずだ」
聞かれた許靖はさらに苦笑した。
「それはそうなのですが……人物鑑定を受けたがる方は、基本的に自分を大きく評価されたがっている方です。正直な評価など下したら、稼ぐ手立てとしては成り立ちません」
許靖は月旦評を閉じて以来、あまり人物評論を口にしないことにしていた。その理由がこれだ。
誰もが自分の望む評価を得られるとは限らない。人によっては悪い評価を下されることを恐れ、人物評論家とされる人々を避けるようなこともある。
それでも許靖は優しい方で、昔から駄目な人間でもその可能性の部分にまで言及し、出来るだけ良いように、良い方向に行くように、助言も含めての評価を口にしていた。
そして、それも許劭とぶつかる原因になった。
「そうですか。なかなか難しいのですね」
王順はいったん黙って茶をゆっくりすすった。
(しかし、それでもこの知名度だぞ。上手くやろうと思えばできないことはないはずだ。人物評だとて、当たり障りがない範囲で上手く言ってやればいいだけだろうに……)
王順のように海千山千の商人からすれば、自分がやりたくない事は稼ぐためでもしたくない、という子供っぽいわがままのように感じてしまう。
最も気になっていたことは大体分かった。王順は気を取り直して、もう一点確認したかったことへ話を切り替えた。
「では、その正直な評価というのを聞かせていただけませんか。人物評をお聞かせ願いたい者がいるのですが」
「どなたに対してでしょう?」
許靖は多少身構えた。王順や
「うちの使用人に対してです。一番番頭の
王順や花琳でなかったことで、許靖は内心ほっと安心した。
三人とも店先に出ていることも多いため、何度も顔を合わせている。瞳の奥の「天地」もしっかり見ていた。
王順は許靖へ笑いかけて促した。
「茶の席の座興としてお答えいただければ結構です。軽い気持ちでどうぞ」
正直なところ、王順は人物評論などというものをあまり当てにしていない。深く関わりもしないで人間の人格や器が分かるとは思えないし、人間など結局のところ結果でしか評価できないのだ。
日々いくつ物が売れた、いくら銭が入った、という『結果』を受け取っている商人にとって、人物評論など本当にただの座興でしかなかった。
許靖は茶を一口含み、舌を潤わせてから話し始めた。
「では、座興としてお聞きください」
そう一言断ってから、一人一人の瞳の奥の「天地」を思い出そうとした。
(白佑さんの「天地」は広大な美しい庭園のようだったな。よく整備されて、白い遊歩道がゆったりと続いていた。花も木も美しく、小鳥や兎など生き物の種類も多かった)
許靖は頭の中でその光景を思い描いた。一度見た「天地」は、かなりの精度で脳裏に再現することが出来る。
(美しく整備された庭から、管理や世話が上手そうなことが分かる。それに動植物の種類が多いのは、物事の多様性を認められる人だということだろう)
「まず白佑さん。この方はまさに一番番頭として店を取り仕切るのに不足のない方とお見受けしました。店全体の管理はしっかりできますし、世話好きで面倒見が良いので人から好かれるでしょう。加えて本質的に寛大であり、様々な従業員、客、商品をありのまま受け入れられます。美しいものが好きでしょうから、商人同士の趣味の繋がりなどもそつなくこなせるでしょう。白佑さんがいれば、それだけで店が回るような方です」
「……ほう」
王順は面食らった顔をして、それだけを答えた。
(驚いたな、当たっている)
王順は内心の驚きを隠せなかったが、許靖はその様子に構わず次の江浩の「天地」を思い浮かべた。
(江浩さんの「天地」は静かな雪原にたたずむ寺院だったな。寒く厳しい雪原や、厳しい修行をする寺院の「天地」は自分や現実への厳しい目を持つ人が多い。それを介しての確実な仕事ができそうだ。それに、この「天地」は欲が小さい。商人としては立ち位置次第だな)
「二番番頭の江浩さんは、商人にしてはやや社交性が低いと思われることもあるかもしれません。しかし根がまじめで確実に仕事をこなすので、時間をかけて知ってもらえれば誰からも慕われるでしょう。二番番頭という位置も絶妙です。一番番頭の陰で静かに、しかし的確に仕事をこなして上の人間を補助できる方です。ご本人も一番上の位置で働くのは望まれないように思えます」
王順はまた驚きつつも、黙って許靖の言葉を聞いている。
許靖は最後に習平の「天地」を思い浮かべた。が、そこで眉根を寄せた。
(習平さんの「天地」は、砂漠に建てられた街だったな。人々や商人がせかせかと忙しく立ち働いていた。商品も活発に動いていたが、その割に誰も満たされた顔をしていない。それに町の風景もどこか乾いた印象を受ける。こういう人は……)
「三番番頭の習平さんは……そうですね、商人らしく目端の利く方だと思います……俊敏というのか、仕事も早いでしょうし、熱心です。商い自体が好きですし……それに……」
三番番頭に対してだけ言葉を濁らせる許靖を、王順はじっと見つめた。
「どうぞ、お続けになられてください」
「そうですね……えー……」
なおも言いづらそうにする許靖に対し、王順はポツリと言葉を漏らした。
「賄賂」
許靖がはっと顔を上げる。
「……ご存知でしたか。この手の方は、賄賂を受け取りやすい性質を持っています。心の奥底にどこか乾いたものがあり、満たされないのです。実際に受け取っているかを私は存じ上げませんが、ご注意された方がよろしいでしょう」
王順は腕を組み、しばらく口を真一文字に引き結んでいた。やがて茶を一口すすって口を開いた。
「……なるほど、月旦評があれほどの評判になっていた理由がわかりましたよ。いや、恐ろしいほどだ」
ため息混じりの感嘆を漏らした。
「習平は商人として大変機転の利く人間なのですが、小銭をせしめるようなところがありましてな……賄賂というほど大きなものではありませんが、業者から多少の金品をもらって口を利くようなところがあります。一番、二番番頭も知っており、目を光らせてはいるので派手なことにはならないのですが、困っているのは確かです」
王順の店に限らず、多くの店では番頭の仕事に精が出るように多少の役得を黙認していることが多い。
が、習平はそれを多少逸脱するような額で無理な口利きを行うことがあった。
許靖としては望まれた通り人物鑑定をしたし、問題に対しても忠告はした。普通の鑑定家ならここで終わりだろう。
しかし、ここからが許靖が他の人物鑑定家とは違うところだ。
「習平さんはご結婚されていますか?」
「いえ。もう三十を過ぎていますが、独り身ですな」
「では、王順さんからぜひ良い方をご紹介ください。ご結婚されれば落ち着くかもしれません」
王順は意外な顔をした。
「そうでしょうか。家庭を持てばより銭が必要になります。それでもあの悪癖はおさまりますか?」
「習平さんの渇きは物や銭で満たされるものではありません。もちろん相手の女性と上手く合えばですが、きっと良い方向に変われるはずです」
許靖は人物評論を口にした時、出来るだけその人物が幸せを増しつつ、世間で生きていくのにも良い方向に変われるよう助言をするようにしていた。
『自身の感じる幸福』と『社会との関わり』、この二点を両立させて改善することが、人を良い方向に変えるためのコツだと思っている。
「どのような女性がよろしいですかな?」
「そうですね……雨に濡れたように、水の
王順は思わず吹き出した。
「許靖様は意外と隠微な表現を使われる」
許靖は自分の口にしたことを再認識して顔を赤くした。
「いえ、何というかその……砂漠に雨をもたらして、草木を生えさせてくれるような女性といいますか……」
「はぁ。よく分かりませんが、了解いたしました。合いそうな娘を探して話してみましょう」
そう答える王順の顔はまだ笑っていたが、大商人として内心の顔は厳しく引き締まっていた。
(これは驚きだ。使える)
許靖の人物鑑定がこれほどまでだとは思ってもみなかった。
三人とも王順が長年かけて持った評価と寸分も違わない。しかも、三番番頭にいたっては思いもよらない改善案まで出してきた。
王順は手元の茶を全て喉に流し込み、茶碗を置いた。そして許靖へ改めて向き直り、居住まいを正してから声に力を込めた。
「許靖様、この店で働かれませんか」
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