第7話 恋

 この時代の街では多くの場合、店舗の区画と住居の区画とが分かれていた。


 街には店舗の集まった市場の通りがあり、ある程度似た業種の店が固まって並んでいることが多い。


 王順オウジュンの店もご多分にもれず市場通りの、それも最も大きな通りの端に位置していた。通りの一番端なので、道路を挟んで向こう側は住居が並んだ居住区だ。


 王順の祖父はそこにかなり大きめの住居を構え、商売の用にも供していた。住居の一部を倉庫として用いるだけでなく、従業員の居住空間や業者が休める部屋まであった。


 予備の在庫はこちらに置いてあるため、店舗の倉庫を狭くできている。おかげで他店に比べて売り場面積が広く、品揃えが良かった。従業員も業者も仕事がしやすいとすこぶる評判だ。


 つまり王順の屋敷は倉庫、住居、事務所などを兼ねられるほど広壮なものなわけで、それが端とはいえ大通りに隣接しているのだからその財や推して知るべし、といったところだ。


 実際、王順はこの街有数の大商人だった。


 許靖キョセイはその豪邸の中庭へと案内された。


 ここは接待で用いられることも多いため、美しく整備されている。風流な東屋まで建てられていた。


 今は春という季節柄、色とりどりの花が咲き競っている。


 そんな中庭に、風流な光景とは相いれない気合の入った声が響いた。


「はぁっ!」


 許靖が目を向けると、花琳カリンのまっすぐ伸びた背中が庭の隅に見えた。店に出ている時とは違い、武術用の白い道着を着込んでいる。


 花琳は布を巻いた太い丸太と向き合っており、そこへするどい突きを放っていた。拳と木材がぶつかり、小気味の良い音が気合と重なって響く。


 許靖はその姿に思わず見惚みとれた。


(なんと凛々しい……)


 王順はその様子を横目で見ながら、あきれるほどの若さにため息をつきたい衝動に駆られた。が、さすがに大店の主らしくそこはぐっと堪えて笑顔を向けた。


「いや、お恥ずかしい。娘はこのように武術にのめり込んでおりましてな……こうお転婆では嫁の貰い手もなく困っております。縁談の話も少なからずあったのですが、皆さんこの様子を見ると固まるか後ずさるかのどちらかでして」


「固まる?後ずさる?それはまたどうして」


「一般的な男性は、女性が武術をすることに引いてしまうのですよ」


「そんな馬鹿な。これほど凛々しい光景を見て引くなど……」


 許靖は後ずさるどころか、身を乗り出しそうな勢いでつぶやいた。熱っぽい瞳で花琳を見つめている。


 それを見た王順は、


(今ならどうせ気にも留めないだろうから)


と、今度は我慢せずに盛大なため息を漏らした。


 実は花琳の縁談話は少なからずどころか、山のようにあった。


 街屈指の大店の娘である。嫁にもらいたいという人間はいくらでもいた。


 しかも花琳は見目良い。年頃になると、それこそひっきりなしといってよいほどに縁談の申し込みがあった。


 しかし、どの話も実を結ばないまま立ち枯れになってしまった。原因は主に花琳の武術好きにある。


「一生を共にする相手なのです。方便で取り繕った自分を見てもらって、後から後悔させることになったら気の毒です」


 花琳はそう言って、出来る限り素の自分を縁談相手やその家族に見てもらうように努めた。そしてさらに、


「私を形作る大切なものです」


と、武術鍛錬の様子まで縁談相手に見せたのだ。


 妻は夫に従順であることが求められた時代である。強さなど求められない。


 護身術を習う程度の例ならあったが、花琳の武術はそのような段階ではなかった。


 当然、ほとんどの相手は引いてしまう。


 たまに武術自慢の男などがそれでも是非、と求婚してきたが、その手の男は必ずと言っていいほど花琳と手合わせをする流れになった。


 そして皆、こっぴどくやられてしまう。大抵の場合は、その翌日には断りの使いが届くのだった。


(一時など『王順の娘は自分より強い男にしか嫁がないらしい』という噂になっていたな)


 王順はその時のことを思い出して苦笑した。


 それで武術自慢の男がまるで道場破りのように店を訪ねてくる、という馬鹿馬鹿しい事態にまでなっていたのだ。


 そうして徐々に縁談の話は少なくなっていき、ここ最近はパタリと途絶えてしまった。


 花琳も今年で二十二だ。結婚の早い時代だから、他の娘に比べてずいぶんと行き遅れてしまっている。


(そんな中で、ここまで娘に惚れてくれた若者がいるのは喜ばしいことだが……)


 武術の様子を見ても動じるどころか、この食いつきだ。その感覚に多少の不安と呆れはあるものの、喜ぶべきことなのだろう。


 王順は気を取り直して娘に声をかけた。


「花琳、鍛錬はその辺で切り上げてこちらに来なさい。茶にしよう」


 花琳は振り返りもせず答えた。


「お父様、あと少し」


 言いながら、丸太に鋭い蹴りを入れる。


 王順はまた一つため息をついた。


「今日は許靖様が来てくださっている。待たせるんじゃない」


「あ、いえ私は別に……」


 そう手を振る許靖へ、花琳の首が素早く振り向いた。


 許靖をその目にとらえた花琳は、気の毒なほど慌てた様子で武術用の道着をおさえて後ずさった。


「あっ……こ、こんなところを……着替えてまいります」


 そう言って、人一人ぐらいの重量がありそうな丸太を地面から軽々と引き抜き、それを小脇に抱えて建物のほうへと走っていった。


 王順はその姿を見て小首をかしげた。


(あの娘が、武術の鍛錬を見られるのを嫌がったのか?これまでの縁談相手にはむしろ積極的に見せようとしていたが……)

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