変奏曲

増田朋美

変奏曲

変奏曲

須田桂子は役に立たない人間と言われて、もう何十年もたっている人間である。最近になってやっと、家族が障碍者と自分のことを認めてくれて、少しは落ち着いてきたとおもわれるところだった。そういえば、彼女の去年の夏は、病院にいた。家族は、できればずっと病院にいてほしいと主張していたらしいが、法律で一年以上入院してはいけないと言われているからと、病院の関係者にいわれて、しぶしぶ家に帰ってきただけであった。でも、家族と一緒にいられるのも、ほんの数日で会って、須田桂子はすぐに暴れて、また病院に戻って一年を過ごす。そうする一年であった。

まあ、そういうわけであるから、彼女は自殺というものを恐れていなかった。そうすることが、実は社会的に彼女ができることであった。というか、役に立つことであった。ただ、彼女の家族が、自分がいる限り生きていてほしいというから、彼女はしかたなくいきているというようなもの。彼女は、自分が生きていてはいけない存在であるということ、生きていなくてもいい存在であるということも知っていた。どうせ社会に訴えられるような特技も趣味もなにもない。学校でいい成績を収めたわけでもない。ただ、親が生きていてほしいというから、それだけで彼女は生きているというだけのことであった。親が死んだら、すぐに自殺して、一生を終えよう、と、須田桂子は心から誓っていた。

その日は、なぜか、自宅にいた。たまたま病院で入院の期限が過ぎてしまっただけである。でも、この年は、発疹熱が流行していて、病院に簡単に戻れそうもないのであった。できれば、病院でまた一年過ごしたいと思っていたが、病院は其れを許してくれないのだった。

須田桂子は、そういうわけで、何もしないで自室で過ごしているしかなかった。本を読みたくても図書館もやっていないし、スーパーマーケットも休業になっている。やるとしたら、自分を傷つけるか、何かに当たり散らすか、それだけである。そういうことをして、彼女はようやく、心の安定というものを見つけるのだった。

そういうことを繰り返しているうちに、とうとう国が非常事態宣言を出した。そうなると、無断で外出すると、法律で罰を与えることが可能になるわけだ。それに応じて、東京とか千葉とか、埼玉とか、そういう地域から、人が往来しなくなる、ということだと思うのだが、なぜか、他県ナンバーの車も走っているし、スーパーマーケットの買い物も行われているし、さほど日常生活は変わらないようだった。

何とも、変な命令だなあと、須田桂子は思った。命令が出たのだから、もっと物々しい感じ、お巡りさんが外出禁止と叫びながら、パトカーで走っていくとか、そういうことを想像していた桂子だったので、ちょっと、この命令はおかしいのではないか、と思うのだった。テレビのニュースでは、発疹熱で何百人の人が死んでいるのに、なんでこの地域に習志野とか、野田とか、そういうナンバーがあるんだろうか。桂子は、そういうところが理解できなかった。

その日、彼女の父方の祖母が亡くなったと知らせが来た。死因は今はやりの発疹熱ではないというが、葬儀をやりたいと父の兄から電話があった。父は、こんな時に、何を言っているんだと言っていたが、末っ子だから、それに従うしかないとため息をついていた。そういうわけで、母も父も、いつも通りに行われる仮通夜に向かうために、支度を始めたが、ここで一つ問題があった。千葉の野田というところに、父の姉が一人いた。千葉は、非常事態宣言がいち早く出た地域であった。彼女も、祖母の娘だからそういうわけで呼ばなければならないということになったが、桂子は、千葉から呼ぶのは危険すぎると主張した。父も母もそのようなことを言える立場ではないといった。どうせ、衣食住すべてを親にまかせっきりの桂子には、そういうことを言うことは許されないのだった。父母は、そそくさと仮通夜に行ってしまった。いつもなら、自分をやってしまうのが桂子であったが、桂子はこの時ばかりは、自分が間違っているとは思わなかった。それよりも、彼女はあることを思いついた。葬儀の会場なんて、そのくらいパソコンで調べてみればわかる。そこへ千葉からくる人を入せないようにすればいい。桂子の家は、趣味で農業をやっていたから、道具はなんぼでもある。よし、家を守るために決行だ!と桂子は思いついた。


「へえ、お葬式で集団感染とは聞いたことがあるが、そんな事件が起きたのは初めて聞いたよ。」

と、蘭は、カレーを食べている華岡に、そういった。

「いやあ、テレビで見れば、よくワイドショーで話題になっている事件だよ。お葬式で集まった時に飲んだ酒に毒が入っていたことははっきりしているんだが、犯人らしきてがかりは、なにもないので。」

と、華岡はカレーを口に運びながら、そういうことを言った。

「ああ、ごめん。僕はテレビを見ないものでね。アリスがたまに見てるけど、今はテレビ見ると気分が悪くなるから、ほとんど見ていないんだ。一体どんな事件なのさ?」

蘭は、華岡にそう聞いてみた。

「まあ、蘭は、もともと静かに生きるタイプだからな。まず事件の概要はこうだ。ある人物の葬儀で何人か人が集まったのだか、その払いの膳のビールに農薬のようなものが混入されていてね。中年の女性と男性が、中毒を起こしたんだ。犯人につながりそうなものは、まだ、見つかってないけど。」

と、華岡は言った。

「まったく、のんきな人たちだなあ。非常事態宣言まで出ているのに、葬式を普通にやるなんて。せめて、クラスターが発生しないように何とかするべきではなかったのかなあ。」

と、杉ちゃんが、カレーを食べながらそういうことを言った。

「まあねえ、静岡は、東京ほど人が多くないしね。そんなに電車も混雑しないし、まあ、そこまで危機意識があるやつは、少ないんだろう。」

「バカだなあ蘭は。そういうこと言うから、クラスターが出るんだ。冠婚葬祭とかそういうことは、なるべく後回しにしなくちゃいけないよ。」

蘭がそういうと、華岡はそういって、またカレーを飲み込んだ。

「そうだねえ。どこかの国では外出すると、ぶん殴られることだってあるらしいぞ。日本もそのうちそうなるんじゃないの?」

「そうだねえ、、、。」

と、蘭は、うーんと考え込む。

「まあ、非常事態宣言が出るってことは僕らも気をつけなくちゃ。僕らにできることは本当に、限られているけどさ。」

「そうなんだよ。実はな、その葬儀の前日に、被害者のパソコンに脅迫状のようなメールが届いていることもわかっているんだ。これは、被害者の息子の証言なんだが、その時は、ただのいたずらだと思って消してしまったと言っていたが、明日の葬儀に来ると、ひどい目に会うという、脅迫状のようなメールが来ていたという。」

「脅迫状?」

蘭と杉ちゃんは、顔を見合わせた。

「そうなんだよ。被害者は、千葉県の野田市に住んでいたそうだが、その野田市から、富士市へ葬式に来た時に、殺害されているんだ。」

「なるほどねえ、、、。」

と、杉ちゃんは頭をかじった。

「つまり、ほかの家族に、その人が葬儀に出ることをわかっていたということかなあ。それで、感染が増えるのを、阻止するために、殺害した、、、。」

「杉ちゃん、そんなことあり得るかな?」

蘭はまだ信じられない様子だったが、

「いや、今の事情なら、あり得る話しかもしれないぞ。」

と、杉三は言った。

「そうだねえ、、、。」

華岡も、ふうとため息をつく。

その次の日のことである。華岡がまたしょんぼりした顔をして、杉三の家にやってきた。杉三が今度は昨日のカレーとは違うルーのカレーを出してやると、華岡は、申し訳なさそうにカレーを口にした。

「今日は、捜査が、ちょっと進んだぞ。と言っても、俺たちが変わったわけではないがな。まあ、被害者二人が、死亡したということだ。それ以外に進んでいないけれど。」

「なるほどねえ。」

と、蘭は華岡の話に相槌を打った。

「で、その殺人鬼は、どんなやつなのか、わかったのかい?」

杉三が聞くと、

「ああ、少なくとも、彼女たちに対して、恨みを持っているという人間は参列者の中にはいなかった。あの葬儀に参加していたのは、亡くなった人の息子三人の家族と、被害者夫婦だけだからなあ。その中で、被害者が、ほかの人達と違うところは、千葉県の野田市からきているというだけである。」

と、華岡は、言った。

「それでは、外部のやつらがということもなかったの?」

「うん、払いの膳を調理したやつも、葬儀を企画した葬儀屋も、故人の息子たちも、劇物をビールに混入した覚えはないという。」

「変な事件だなあ。」

と、蘭ははあとため息をついた。

「しかし、誰も犯人につながるものがないというのが怖いところだなあ。誰か該当するやつはいなかったのかよ。」

「まあ、その場に居合わせた人たちも、人数は少ないし、一人ひとりの事情を聴けば、犯人も見つかるのではないかと思うんだが、でも、千葉とか、そういうところからきているからと言って、殺されなければならないという事件が起きるのが、恐ろしいよ。それに、その二人の息子のパソコンに、二人の葬儀は、人を呼ばない直葬にしろという脅迫文も届いているんだよ。」

華岡はそういうことを言った。確かに、自分を守るのに、今は必死になっている時世だから、もしかしたら、そういうための殺人ということが起きてしまうということも、あり得るかもしれない。

蘭も杉ちゃんも、華岡も、あーあとため息をついた。もしかすると、戦時中のような生活が待っているのかもしれないと、杉ちゃんがつぶやく。


数日後、須田桂子は、製鉄所にいた。何も知らない彼女の両親が、彼女をここへ預けたのだ。彼女の父には、千葉の野田市に姉がいるという。その姉が、急になくなったというのだが、その息子の進言により、彼女たちの葬儀は、人は呼ばない、直葬という形をとるということになったと、彼女の両親は、預かってもらう前の面接でそういうことを話した。それを聞いたジョチさんは、まあ、今の時期ですから、仕方ないですね。なんていって、あまり気にも留めなかった。多分、須田桂子がここで預けられている間に、両親は、姉の弔いをするのだろう。

須田桂子は、製鉄所に預けられても何もすることがなかった。ほかの利用者たちは、みんな勉強したり、仕事をしたりしていたが、彼女は何もすることがない。ただ、思いついたことを、紙に書き散らして、彼女は時間をつぶしていた。

そんな中で、須田桂子は、何もすることがないまま、薬だけ飲んで数日間過ごした。この製鉄所には、働かざる者食うべからずというものはいなかったが、もし、現実世界だったら、殺されてもかまわないと思われる身分のような気がした。

須田桂子は、製鉄所で何もすることはなく、ただただ太り続けている日々を過ごしていた。そんなある日の午後である。ほかの利用者に頼まれて、ちょっと庭はきをやっていた時のことであった。近くの部屋から、小さな音ではあるけれど、でもはっきりと、ピアノの音が聞こえてきたのである。

一体何の曲だろうと思ったが、すぐにメンデルスゾーンの厳格なる変奏曲だと分かった。須田桂子は、ちょっとだけピアノをならっていた時期がある。須田桂子は、その時期が一番輝いていた時期であった気がする。あの後、精神を病んでしまった須田桂子は、もう、音楽なんて、二度と触らないと心に決めていたはずなのに。なぜか、彼女は、庭を掃く手を休めて、その音がするほうへ行ってしまったのである。そして、そっと障子に手をかけて覗いてしまった。須田桂子が中をのぞくと、見事にきれいな人が、一人でピアノを弾いていた。でも、その人は、げっそりと痩せていて、顔が紙よりも白かった。それでも、その顔は本当に白い顔で、きれいで美しく、とても男性とは思えないほど綺麗だった。

桂子が、覗いているのに気が付いたのか、彼はピアノを弾く手を止めた。

「一体、何をのぞいているんですか。」

と、彼に言われて、須田桂子は、すぐに逃げようと思ったが、太ったからだがそれをできなくさせた。その人は、ピアノの椅子から降りて、障子を開けてしまった。桂子が驚いている間に、その人は、障子の前に座る。

「一体どうしたんですか。」

彼女は、ちょっと、返答に困ってしまって、ああ、と声を上げた。

「いい、いいえ、ただ、ピアノが素晴らしかっただけのことです。それだけのことです。」

とりあえずそれだけ言っておく。

「須田桂子さんですね。一応、理事長さんから、新しい利用者さんが来たというのは、聞いておりました。」

と、いわれて、須田桂子はびっくりしてしまう。なんで私のことを知っているのだろうか。

「ああ、すみません。いきなりそんなこと言われて、びっくりしましたよね。すみません。」

というその人は、普通の人とちょっと違う気がする。なぜか、威張り続けている、家族や親せきとは違うような気がする。

「いいえ、そんなことありません。どうせ。あたしなんて、いてもいなくても損はしない人ですから。」

と、須田桂子は、そういった。

「あたしが、この世から消えても、きっと邪魔がいなくなってくれてよかったとしか、思わないと思いますよ。」

「そうでしょうか。」

と、彼は、須田桂子に言った。

「でも、人が逝くということは、それまでずっといた人が突然消えてしまうということだから、それは何とも言えない寂しいものだと思いますけどね。」

「そうかしら、あたしは、きっと悲しむことはなく、喜ぶと思います。」

須田桂子は、自信満々にそういうが、

「そうですか。じゃあ、僕と一緒ですか。」

と、その人はいきなり言った。

「僕と一緒?」

「ええ、僕も、きっと、逝っても悲しまれることはないでしょう。そういう人間だからです。長年、穢多とかえったぼしとか、そういう風に言われていたから、そうなってしまうのです。」

須田桂子がいきなりそういうと、彼はそういうことを言った。

「いいえ、あなたはそんなことありません。そこまでピアノが弾けるんですから、きっと必要としてくれる人はいるでしょう。あたし、さっき聞きましたよ。厳格なる変奏曲。」

と、須田桂子はそういうが、

「いいえ、そういうことはありません。穢多の人間は、そうなるのが当たり前なんです。いつの時代もそうなってしまうのが、僕たちみたいな人間なんです。いくら、個人的に、好きだと言われたって、社会的には、穢い人間として生きていくしかないんですよ。どんなことをやっても、これだけは取り除くことはできはしません。」

と、彼は言った。

「でも、あたしよりずっとすごいことが。」

と、須田桂子がそういうことを言いかけると、彼は、倒れこむようにしてせき込んだ。口に当てた手が、赤く染まってしまった。

「あ、、、。」

と、須田桂子は思う。そうか、そういうことだったのか。普通の人だったら、今の時代、簡単に治せるようなものが、この人は理由があって治せないんだ、、、。

「ごめんなさい、、、。」

と、須田桂子は、涙をこぼした。と同時に、あの二人はどうしているだろうかと思った。私は、うちの家族や、周りの人を守るために正しいことをしたと信じ切っていた。でも、あの二人の周りにも、こういう風に、いなくなって寂しいと思った人はいたのではないか。だってこの人が逝ってしまうことはもう確実視されているのに、あたしは、その人に逝ってもらいたくないと思っている。それはなるべくなら、避けたい気持である。でも、それをあたしは、あたしの手で、周りの人たちにさせてしまったんだなと思う。

「薬取って。」

と、彼がせきこみながら言った。須田桂子は、彼の言う薬というものが、どこにあるかわからなかったが、彼が血まみれになった指で、枕元を指さしたので、そこに、吸い飲みがあるのに、やっと気が付く。急いでそれを取り、彼に渡すと、彼は、必死な形相で、せき込みながら、口に流し込んだ。すると、せき込むのは、だんだん減少していって、あとは、ひゅうひゅうと息をする音だけが残った。

「どうもご迷惑を掛けました。本当にごめんなさい。」

と、彼は、息継ぎをしながらそういうことを言うが、須田桂子は、本当にどうしたらいいのかわからなくて、自分が、何をするべきなのか、まったくわからずにそこにいるしかできなかったのである。

でも、ここで彼が、ごめんなさいというべきではないというのは、間違っていない気がした。

「ご、ごめんなさい。あたし、庭掃きの仕事しないと。」

と言って、須田桂子は、庭へ戻ってしまった。彼がそのあとどうなってしまったかは、須田桂子は知らない。でも、ここにいたのが自分だけなのが良かったとも思う。だって、ほかの利用者さんにああいうところを見せてしまったら、ほかの人たちは、彼の死を恐れて、不安定になるような気がする。

だけど、こういう不安は、できるだけ体験させないほうが、みんな幸せであることも知っている。そういう不安を与えてしまうことは、よいことではないということも知っている。

ああ、悪いことをしたんだな、私。

須田桂子は、そう思った。


「犯人の手掛かりが少しつかめたよ。あの葬儀の故人には、四人の子供がいた。つまりあの被害者は、兄が二人、弟が一人いた。兄は、二人とも結婚しているが、長兄も次兄も子供はない。子供がいるのは、弟一人だけで、その子は受験に失敗したか何かで、引きこもっているようなんだ。」

と、華岡はまた杉ちゃんから出されたカレーを食べながら、そういうことを言った。

「で、その弟の子が、怨恨で殺害したということ?」

と、杉ちゃんが聞くと、華岡は、たぶんそうだと思う、と言って、なすびをがぶっと食べた。

「まあ、そういうことだ。動機は、姉夫婦が野田市から来たことだと思う。」

「しっかし、それだけで、事件を起こすということはあり得ることだろうか?」

と、蘭は、ちょっと考えたような顔で、そういうことを言った。

「いや、殺人が肯定されることはいけないが、たぶんそういうことだと思う。それ以外、動機らしきものがない。それに、ほかに、親せきを恨むような理由が見つからない。」

華岡は、またなすびをかぶっと食べた。

「そうか、この流行に乗って、突発的な犯罪か。でも、なんだかわかる気がするな。こういうときってさ、ちょっと人間がおかしくなったりすること、あるからな。」

杉ちゃんは、納得したようであるが、蘭は、まだうーんと考え込んでいる。

「それでも、その犯人を止める手段とかそういうものはなかったのだろうか?その人が、毒物を混入させるのを止めるようなことはなかったのか?」

「いや、それさえないのが、今の大流行だ。それくらい、みんな余裕がないんだよ。そういうことだと思って、俺は彼女に向き合うことにするよ。」

蘭がそういうと、華岡は、ふうとため息をつく。蘭は、そういうこともあるか、、、とちょっと納得したような顔をして、華岡に聞いた。

「で、彼女の名前は?」

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変奏曲 増田朋美 @masubuchi4996

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