真夏のクリームソーダ。

cancan

『 真夏のクリームソーダ 』


 ――いつまでも忘れられない約束がひとつだけある。


 僕には慣れない花束を買い、両手で持ちながらそのことを考えている。

 

 結構いい加減な性格で一晩寝ると嫌なことはだいたい忘れる。

 過去も未来もあまり気にしない人間。

 

 それでもその約束だけはきちんと覚えていた。


 気にしすぎなのかもしれない。

 当の本人は忘れていた可能性もある。

 ――どうでもいい話として。


 2020年もいつも通りだ。

 見上げると夏の空は平常運転。

 僕の悩み事なんて深く偉大な空の知ったところではないんだろう。

 

 今までずっと世界に存在してきた雲という存在。

 これからも、きっと同じかたちの雲はない。

 変わり続ける。

 

 どのようにも姿を変える雲の色は首が痛くなるまで見ていることができた。

 子供の時と同じだ。

 変わらない。今までもこれからも。

  

 けれども――

 空と違い僕自身の人生は大きく変わっていた。


 彼女との最後の約束。


「最後に夏のおおきな雲がみたかったな」


 入道雲が見たい、それが僕達がした最後の約束。



 去年の春の出来事。

 もう少し……夏が来ればきっと見れる。

 そう思った。

 

 でも彼女にとって残された時間は有限だった。


 僕たち人間は最終的には死ぬ。

 それは誰にでも同じで。平等で公平だった。

 でも生きられる時間は平等ではない。

 明日死ぬかもしれない。今日死ぬかもしれない。いや今死ぬかもしれない。

 彼女に残された時間は恐ろしく短かった。


 死を迎える彼女に対して僕はあまりにも未熟で駄目な人間だった。

 何もできなかった。

 

 夏の雲がみたいという願いに対してできたのは「きっと見れるよ」という、ありきたりな安っぽい言葉のみ。

 それに対して――


「見せてくれる?」


「……」


「やっぱりできないんだね」


「きっと見れるよ」


「約束してくれる?」


「約束する」


 何もできない。

 ――果たせない約束だった。

 

 あの時こうすればよかった。ああすればよかった。

 誰にでもあるだろう。

 仕方のないことなのかもしれない。

 僕はあの時にどうすれば、何と答えればよかったのか?

 正解は今もわからない。


「わからないよ」


 独り言を呟くと、彼女の好きだった場所が見えた。

 駅の近く、裏通りにある少しだけお洒落しゃれな喫茶店。

 店の前に植えられた木の葉の緑は力強く太陽に照らされていた。


 そういえば……ひさしぶりに前を通った。

 長い間、何となく足が遠のいていたのかもしれない。

 そして、何となく足が店に向き入ってしまう。

 

 手に持った花が目立つが仕方ない。

 

 昔ながらの喫茶店を軽く今風に改装したお店。

 椅子やテーブル、カウンターは年季が入っていたが、照明はLEDだし壁紙はモダンな感じ、店の外装とドアは普通に新しかった。


 店の外には木のテーブルが置いてあり、夏にはそこでよく話した。

 

 マスターは結構若い男性で人当たりもよく気さくな感じだった。

 他のスタッフは2、3人。

 いつも忙しそうなのだけれど、マスターがうまく仕切って皆テキパキ動いているのが好印象だった。


(……変わってないな)


 ここに来た時に彼女が頼むものは決まっている。

 パンケーキとクリームソーダ。

 店の定番であり、それらは僕らの定番でもあった。


 店の造りと同じで用意されたメニュー表もこだわっていた。

 ページの端っこには透明感のある花のイラスト。

 変わっていない一番最初のページに載せられたパンケーキの写真。

 上にバターが乗せられたシンプルな一品。


 パンケーキはじっくり焼き、注文してから軽く30分は待たされる。

 分厚い生地の上に、たっぷりのバター。

 しっとり滑らかな触感で奥深い甘さは何ともいえない――

 結構なボリュームなので彼女はいつも食べきれなかった。

 残った分を食べるのが僕の仕事だった。


 それでこの店で一番人気のメニュー。

 いろいろな種類が選べるクリームソーダも出来合いのものではなく、シロップを入れてからソーダを注ぎ作られている。

 上に乗っているバニラアイスもおいしい。

 

 何より見た目がよかった。

 グラスに注がれた色のついたソーダ水のグラデーションは美しく、幻想的で飲むのが申しわけなくなるような立ち姿。

 少々お高い値段なのだけれど、彼女がおいしそうに笑って飲んでいるのを見るとあまり気にならなかった。


 手に持っていた花はテーブルに立て掛けた。


 久しぶりのこの店で、やはり何となくクリームソーダを頼んだ。

 待っている間は窓の外をぼんやり眺めているだけ。


「やあ、ひさしぶり」


 マスターに声をかけられた。

 コルクで作られたコースターをテーブルの上に置いた。

 

 手には銀色の長いスプーンと青いクリームソーダ。


「――」


 そこには空があった。


 ああ、なんでこんな簡単なことがわからなかったんだ。

 どうして思いつかなかったんだ。

 簡単なことじゃないか。


 あの約束。


 どうすればよかったのか?

 本当のところは今でもわからない。


 それでもこうすればよかったのではないか。

 これも一つの答えだったんじゃないか。


 あの時の問いかけに対する回答。

 彼女にかける言葉の正解。

 ――見えた気がした。



「僕にクリームソーダの作り方を教えてもらってもいいですか?」



 いきなりこう話されても普通は何のことかわからないし、どうしたらいいのかわからないだろう。

 けれどもマスターは教えてくれた。


 アイスを丸くするためのディッシャーや、ソーダ用のグラスも貸してくれた。

 作り方をメモした紙もくれた。


 シロップやアイス、サクランボは自分で用意した。

 小さなクーラーボックスは家にあったものを使った。


 花は喫茶店に忘れてきた。

 でも、そんなことはどうでもいい。

 空だ。

 クリームソーダで空なんだ。


 例え過去に戻れたとしても――

 これが正解だったのかどうかわからない。


 でも。それでも、ただ終わるのを待っているより。

 何もしないよりも前向きだったはずだ。

 

 材料と道具一式。用意ができたら彼女の家に向かう。

 今日は彼女の誕生日だった日だ。


 行く話はしてある。

 少し遅くなったがおばさんがいるはずだ。


 呼び鈴も鳴らすのを忘れて、人の家のドアを勢いよく開ける。

 

「おばさん! ひさしぶり」


「あらぁ」


 少し驚いた顔。

 何か話そうとしていたけど僕の声がさえぎる。


「キッチン借りていい?」


「いいけど、何するの?」


「作りたいものがあるんだ」


 キッチンの場所はわかっている。

 テーブルの上にクーラーボックスを置く。


 開けると道具と材料が一式。


 まずは計量カップを三個。

 青いシロップを20㎜と赤いシロップを5㎜。


「そして炭酸水を適量」

 

 そこに二つのシロップを混ぜる。

 次はロックアイスをグラスの上まで積み上げる。

 そこから、

「ゆっくりソーダを注ぎ……」


 浮かべるのではなく氷の上に乗せる感じで。

 ディッシャーですくったアイスを乗せる。

 

「最後にサクランボをはしに乗せて完成」


 素人にしては上出来だ。

 僕なりに空を表現した。

 こぼさないように気をつけてゆっくり運んだ。


 コルクできたコースターを下に。

 銀色のスプーンは手前に。

 空色をしたクリームソーダを仏壇にお供えする。


「…………」


 言葉が出ない。

 少し落ち着いてから想いを言葉にする。


「誕生日おめでとう。真夏まなつが見たがっていた空だよ」


 ソーダ水が空でアイスが雲。

 サクランボが太陽。

 僕ができるのはこれくらいだけど……

 

 手を合わせた。


 もう遅いかもしれないけど。

 自己満足かもしれないけど。

 

 これが僕の答えだった。

 

「真夏との約束?」


「うん。遅いかもしれないけど」


「そんなことないよ。ありがとう。きっとあの娘も喜んでいる」


 おばさんは僕の肩にそっと手を置いた。

 

「うん」


「あの娘から預かっていたものがあるんだ」


 そっと差し出されたのは手紙だ。

 表には僕の名前。

 しっかり封がされており、裏には彼女の名前が書いてある。

 

 丁寧に開ける。

 

 真夏の文字だ――


『ひさしぶり。さとるは元気にしてるかな? 私は元気ではありません。なので君はこの手紙を受け取っていると思います。まあそんなことは置いておいて……とりあえず『わがままな私のお願いを聞いてくれて本当にありがとう』律儀な君は私に対してのどうでもいい約束を気にしているかもしれないと思い、念のためこの手紙を残しておきました。正解だったでしょう? 動画とかでもいいかなと思ったけど、やっぱり手紙にしました。きっと君の持ってきてくれた『夏の空』はとてもきれいな想い出だったと思います。実際に見れなかったのだけが残念だったかな。あと最後にもう一つだけ……私を覚えてくれていてありがとう。これからもたまにでいいので思い出してくれるとうれしいです――真夏』

 

 もう涙なんて枯れてなくなってしまったと思っていたんだけれど……

 そんなことはなかった。

 

「……」

 

 鼻をすする。 

 

 グラスの中の氷が音を立てた。

 一瞬だけ、この場所に真夏がいた気がした。

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