第2話

 コンコンと、牢獄の扉が控えめにノックされる音で、彼女は眠りから――いや気絶から、目覚めた。

 今までこの扉がノックされた事など無かった。この扉はいつも一方的に、そして無遠慮に開けられるものだったのだ。


「入ってもよろしいでしょうか、ジャンヌ様」


 それは、この牢獄に相応しいとはとても思えないか弱き女性の声だった。


「ええ、構いません。私は逃げも隠れも致しません」


 ジャンヌはそう言ったあと、自嘲気味に微笑んだ、この牢獄の何処に逃げ隠れる隙間があるのだろう。

 自分は囚われの身であり、度重なる拷問の結果、例え扉が開け放たれていたとしても逃げる事は不可能だっただろう。


「それでは、失礼いたします」


 その言葉と共に、カチャリと鍵が開く音がして、ゆっくりと扉が開かれる。

 そこにはひとりのシスターの姿があった。

 彼女はランプを片手に、暗く不潔な牢獄に、たったひとりで入って来た。


「貴方は……」

「あらあらお可哀想に、そんなに傷ついていらっしゃる」


 シスターは、困惑するジャンヌを他所に、おっとりとした口調でそう喋りながら近づいて来た。


「少し、我慢してください、応急処置を致しますね」


 シスターはそう言うと、不潔な床に跪きベッドから起き上がる事の出来ないジャンヌの治療を開始した。


 ★


「ありがとうございます、おかげで大分楽になりました」


 全身を包帯まみれにしたジャンヌは、そう言ってシスターに微笑んだ。


「いえいえ、わたくしのしたことなど些細な事。ジャンヌ様の献身に比べればお恥ずかしいものでございます」


 シスターはそう言ってゆっくりと首を横にふった。


「貴方は、教皇の命により私を説得しに来たのではないのですか」


 ジャンヌは包帯に包まれた体をさすりつつも、いぶかしげにそう尋ねた。


「いえいえうふふふ。わたくしは貴方様にお会いしたかっただけでございます」


 シスターはそう言ってにこやかにほほ笑んだ。


「私に?」

「ええ、街では貴方様のお話を聞かない日はございません。

 わたくしもシスターの端くれとして、聖女と謳われる貴方様に一目お会いしてみたかったのです」

「聖女ですか……私はそんな」


 ジャンヌはそう言って自嘲気味に微笑んだ。

 彼女のその表情に、シスターは興味深そうに目を輝かせた。


「では、貴方様は聖女では無いと?」

「ええ、私は幸運にも啓示を聞くことが出来た単なる小娘に過ぎません」

「幸運……で、ございますか」


 シスターはそう言って、全身至る所傷だらけの少女を眺め見た。

 ジャンヌはその視線を受け、困ったような笑みを浮かべた。


「神はおっしゃいました、私が旗を取るという事は、いずれこう言う運命になるだろうと」

「では、貴方様は自らの最後を覚悟したうえで、戦う道をお選びになったのでございますか?」

「ええ、それでも歩みを止める訳にはいかなかったのです」


 傷だらけの聖女は、穏やかな表情でそう語った。

 

 ★


 ジャンヌは何処にでもいる田舎農家の娘だった。人と変わった事と言えば、ほんの少し信仰心が強かったというだけだ。

 そんな彼女が住む村にも飢饉の波はやって来た。

 人々は重税と飢えに苦しみ、道端にゴロゴロと死体が転がっていた。

 だが、国は何も手を差し伸べてはくれなかった。それどころか、税が足らぬと剣を持って押しかけて来た。

 食料に困った村民は、木の根をかじり、泥水を飲みながら耐え忍んだ。

 だが、我慢にも限界というものがある。

 反乱の火は、彼女が住む村の隣村で起こった。


「始めは、何が起きたか分かりませんでした」


 ジャンヌはそう言って過去を振り返る。

 

 徴税人が押しかけて来て、大人たちをいたぶっていた。

 その時、突如として、徴税人たちが血を吹いて倒れた。

 彼らの首筋には矢が突き刺さっていたのだ。

 犯人は直ぐに姿を現した。それは、農具や弓矢で武装した隣村の人たちだった。


「始めは皆混乱していました。国に逆らってどんな目にあうか恐怖に震える人たちも居ました」


 だが、一たび燃え上がった反乱の火はあっという間に周囲へと広がっていった。

 みなとっくの昔に限界は超えていたのだ。

 しかし、勢い任せの反乱は直ぐに頭打ちとなった。

 ろくな武装も無い反乱軍と、十分な装備と練度を持った正規軍とでは最初から勝負にならなかったのだ。

 不退転の決意で村を後にしたはずの者たちが、血塗れで、あるいは死体で戻ってくる。


「そんな中、私は神の声をお聞きしました」


 ジャンヌはそう言って、手を組み、祈りをささげた。


「私が戦いに身を投じる事で、反乱は勝利に終わるだろう。だが、その代償として、私は炎に焼かれる事となる、と。

 そのお言葉を聞き、私の決心は固まりました。

 私の身一つで皆の幸せが約束されるのなら、その程度のことなんだと言うのでしょうか」


 ジャンヌの表情は澄み渡っており、正しく万人が認める聖女のそれだった。

 シスターは、その告解を聞き、目を伏せながらこう言った。


「貴方様は終わりを受け入れていらっしゃるのですね」


 その問いに、ジャンヌはゆっくりと首を縦に振りこう言った。


「私には後悔も恨みも何もありません。全ては神の思し召しです」


 全てを受け入れる覚悟がある。いや、そんなものは当の昔、戦旗を手に持った時に終わっている。

 全てを理解したシスターは、にっこりとほほ笑みながらジャンヌの耳に何事かをささやいた。


 ★


 次の日、牢獄を訪れた拷問官が見たものは、包帯をロープ代わりに首に巻き、だらりとだらしなく天井からぶら下がった聖女の姿だった。

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