バビロンの淫婦
まさひろ
第1章 ルスタッドの聖女
第1話
「あああああああああ!」
薄暗くかび臭い牢獄に、悲痛な声が鳴り響いた。
その声の主はまだうら若き少女のものだった。
少女は雑巾と見間違えるような不潔なボロ布を身にまとい、天井から伸びた鎖によって宙に吊るされていた。
「認めろ! 貴様は啓示など受けちゃいない! ただの血に飢えた狂人だ!」
「違います……わたしは」
「まだ言うか貴様ッ!」
「くあッ!」
拷問官は口角泡を飛ばしながら鞭を振るう。
空気を切り裂く鞭の一撃に、脆弱な囚人服は耐え切れず、もはや衣服としての機能を有してはいなかった。
かつては純白だった少女の肌には無数の血が滲み、今では見るも無残な有様であった。
「貴様は買女だ、ただの淫売だ」
拷問官は下卑た笑みを浮かべ、あらわになった少女の乳房をもみしだいた。
「くうッ!」
鞭で打たれ、幾条もの血のにじむそこを握りしめられたところで、快楽がおよぶ故も無い。
少女はじくじくとした痛みに顔を歪ませる。
「くはははは。いい顔だ、俺はいいんだぜこの生活が永遠に続いても」
拷問官は粘ついた口調でそう言うと、自らが刻み込んだ傷跡を執拗に刺激した。
「あああああああああ!」
「げははははは、いいぞ、いいぞ、その声だ! もっとだ、もっと泣き叫べ!」
ガシャンガシャンと鎖が震える音と共に少女の叫びが狭い牢獄に木霊した。
★
「奴はどうした、まだ口を割らないのか」
豪奢な服を着た恰幅の良い眼鏡の男は苛立ちで眉をしかめながらそう言った。
「どうもすみませんピエール様、奴めなかなかに強情でして」
報告に訪れた男は、消え去るような声でそう言った。
「高々小娘ひとりにいつまで遊んでいるつもりだ!」
ピエールはそう言って机に拳を叩きつけた。
「もっ、申し訳ございません。ですが……」
「ですがもくそもあるか! 大衆の前で奴自身に自分が異端者だと認めさせる! そのシナリオで全ての予定が組まれているのだ! そのとっかかりで何時まで時間を浪費しておる!」
ピエールはそう言って声を荒げた。
「いいか、奴は異端者だ、それ以上でもそれ以下でもない。何処にでもいるイカレ女だ」
「はっ、はい、それは了解しております」
「農民どもは奴を聖女だと祭り上げている。そんな浮ついた空気を見過ごすわけには行かん」
ピエールは苛立ち気にそう言った。
前年から続く天候不順は大飢饉となって国を襲った。
重税と飢餓にあえぐ農民たちは、不退転の決意で反乱を起こした。だが、装備と練度に勝る正規軍相手に反乱軍は容易く刈り取られて行った。
その時に現れたのが彼女であった。
神の啓示を受けたと自称する少女は、圧倒的なカリスマを発揮して、全滅寸前だった反乱軍をまとめ上げ怒涛の反撃を成し遂げた。
ロワール川の戦い、サン・ルー砦の攻略、ル・ブラン要塞の占拠、そしてオルレアンの解放。
少女は数々の激戦の中、旗手として味方を鼓舞し続けた。
反乱軍の兵士たちは、降り注ぐ矢玉をものともせず、戦いの最前線で旗を振り続ける少女に神の姿を見た。
「大局を見る事の出来ん農民どもの愚行によって国を亡ぼす訳にはいかん」
ピエールは苦々しげにそう呟いた。
マルニーの戦いによって運よく少女を捕縛することに成功したものの、農民たちの少女への狂信めいた支持はいまだ健在である。
これ以上国を混乱させないためには、どんな手段をとっても、少女の正に神がかり的な人気を落とす必要があった。
「奴は魔女だ。人民を堕落させる淫売だ」
ピエールの呟きには焦りがにじんでいた。
少女の人気はそれすなわち、王家の不人気を示している。
今はまだ少女を失った反乱軍は混乱状態にあるが、このまま手をこまねいていては、少女を奪われた反乱軍の怒りが何処までも高まり、最悪の形で表れてしまうだろう。
象徴たる偶像を取り戻すため、死をいとわぬ狂信者の群れとの戦い。
そんなものを相手にするのは、まさに悪夢と言うより他は無かった。
一刻も早く少女のメッキをはがさなければならない。
少女が聖女などでは無く、ただの異端者であることを証明しなければならない。
だが、少女を追い込み過ぎて殺してでもしまえば最悪だ。
殉教者として手の届かない場所に逃げ出されてしまえば、それこそまさに手におえない事になってしまうだろう。
ピエールは自らに課された指令の重さに、胃の傷みがおさまらない日々を送っていた。
★
ピエールが執務を終え、我が家に帰る暗い夜道の事だった。
「もし」
と、女の声に彼は呼び止められた。
商売女が声をかけて来たのかと、彼は無視して進もうと足を踏み出し――
「もし」
再度、一言。
その声は囁くような小さな声だったが、彼の耳に妙にこびりついた。
彼は、声の方向へとジロリと視線を向ける。
そこには小さな教会の前にたたずむ、シスターの姿があった。
「もし、そこのお方。何かお悩みの事がおありでは無いですか」
彼女は温和な笑みを浮かべ、甘く、どこまでも甘く、染み渡る様な声でそう語り掛けたのだった。
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