恋愛小説抄

金村亜久里

恋愛小説抄

 彼と初めて顔を合わせたのは四月の終わりで、それでも思い返せばそれは見覚えのある顔ではあった。つまり四月の終わりに彼と出会ったその時は、華にとって彼をその目に映した最初の瞬間では決してなかった。

 アメリカ出身のひとりの留学生が高校に入学してくることになって、偶然家が隣で通う高校も一緒だった彼は、その留学生とよく一緒に行動していた。留学生は顔立ちこそ西欧風だったけれども、片親が日本人ということで、日本語も英語と遜色なく使うことができた。上背もあって、いかにも才媛という感じだった。そういう留学生がよく目立って視線が集まったから、隣にいる彼も多く人目につくようになった。華も、その留学生に遠くから注目していた大勢のうちのひとりで、だから華はそのとき、そう意識しないまでも、同時に彼を見ていたひとりではあった。それでも彼をはじめて正面から見、彼の持つまだ誰も見つけていないものを愛おしんでいるのは彼女だけだ、と彼女は思っている。

 華が彼を見つけたのは、そうやって留学生の隣にいるのを目にしてではない。漢字でも英語文化圏でもない地域について学ぶ部活動、ゆるいサークル活動のような部活が高校にあった。そこに入ろうと思ったのは、ただほんの少しだけ興味があったからで、それは四歳のときに見た古いドイツの絵が頭に残っているからだった。

 陰鬱な版画……黒い馬に乗って森の中を進んでいる騎士が、甲冑の面鎧をあげ、顔を見せている。騎士の後ろにふたり人影が見える。ひとりは山羊のような頭をしていて、服に隠れていないところはすべて毛が生えていた。もうひとりはにっこりと笑って、騎士にほほえみかけているのだ、あごひげが細く長くのばされていて、版画の中でとりわけ明るみを欠いていた。暗がりにいるのか、たぶんそうではないのだけれど。

 そういう絵を見た記憶だけが華にあって、引き寄せられるように部活動の見学会に参加した華は、そのまま入部して、そして彼に出会った。

 はじめましてと挨拶をする彼は、その黒い瞳の奥に、天高く輝く星を収めていた。べつだん大きな目ではなかった。隣にあの留学生が来るとむしろ小さくさえみえた。まぶたの陰になって白目がわずかに青白くなって、瞳はほとんど塗りつぶしたような黒をしていた。わずかに癖毛があった。北方人種の血の流れる肌に比べると、蜂蜜の色をしているのがよくわかった。上背は華より少し低いくらいで、年齢に不相応なくらい鍛えていて、四角い印象の体だった。にこやかに笑う彼の目に、暗い青い火が見えたような気がした。


   *


 はじめてみる人だった。彼のような人間に華はいままで逢ったことがなかった。

「平川は」彼は言った。「どうしてこういう、珍しい部活に入ったの?」

 英文と対照して蟹文字を読んだ。読みながらそうやって雑談もした。華は答えた。「昔、白黒の絵を見たことがあって……」

 彼は蟹文字を見ながら、ときたま華に目をやって、頷いた。瞳をかこう白がこちらに剥く。瞳が動いて、すぐに紙の上へ戻る。指に持ったペンの先が蟹文字の流れをなぞっている。じっと見ている。小さく口が動く。ペンで書き写された文字を読み上げる。

 その、黒い、馬、走る、の上を、その、野。その、遠い、森、沈む、に、その、暗がり。

 黒い馬が野原を走っている。遠い森が暗がりに沈む。

 日が暮れる。黒い馬が走っている。夕映えを吸い込んで宵の色に光りながら沈んでいる。青い草は一本のこらず露にしとどに濡れている。清澄としているのは通り雨が抜けた直後なのか。涼しかった。澄んだ空気がこれから秋に傾いていく晩夏であるのか、暑い盛りの日が終わる間際にふと立ち現れる涼しさなのかわからなかった。ただ日だけが、鑢で削るようにゆっくりと、しかし刻一刻とたしかに落ちていった。低い草叢を石臼のような蹄が打つ、その一歩ごとに巨体が跳ぶ。黒馬の毛並みのように暗い髪と目をした少年が、馬の胴に跨って走らせていく。少し前まで強い光が差していた額は、鷹のそれのように小さく鋭かった。日が沈んでいく向こうに山並みが見える。夜が迫る。黒い森が揺れている。馬は森へ向かう。夕映えの残照が山並みを透かして殆ど桃色に射している。明け色の光線を残して森の奥へと馬を走らせて向かう。逆照射した太陽の光が、彼の瞳の中で、鮮やかに光った気がした。

 彼は窓を背に、華と向かい合って座っていた。反射したのは蛍光灯の光で、昼の長さは一日ごとに長くなる一方だった。紙を見ながら話すともなく話していた華の声を聞きながら、彼の目はときおり華を見る。その目の、瞳のふちを覆っている黒い環と、短い髪の生えた頭の円周が、同じように白い環を描いて光ったように見えた。

「おれは」入部の理由を訊かれて彼は答えた。「読まなきゃいけない、読みたい本があるから」

 読まなければいけない、義務として課されている或る本があって、その本は同時に彼みずからの意欲によって読み進まなければならないものであり、そのように進みたいと彼自身思っている、そういう含みのある言葉だった。読みたい本があるから、そう言ったとき、ほんの少しの間だけ視線が動いた。あとになって、その向かう先を確かめてみると、そこにいたのは、おそらく、あの留学生だったとわかった。

 その日の帰り際、一人で帰る華は、門を出たところで街道を駅に向かうほうへと曲がった。彼も留学生も住宅が立ち並ぶ逆の方へ歩いた。いくらか歩いて、また振り返って手を振ったときに、並んで歩いている二人の背の高いほうが、別れたこちらに手を振りながら、もう片方の手を拳にして、彼の肩を小突いているのを見た。文化の差は、もちろんあるのかもしれない。知り合ってからの期間の差、付き合いの差も、隣同士に住んでいる向こうのほうが上には決まっている。それでも、そんな風に、軽口をたたくようにふれあえることが、たまらなく羨ましかった。

 上背の差で、留学生の方が腕も長かったし、手や指ももしかすると彼より大きく、長いだろう。短い腕や手は、切り出された石塊のような、内部に力をふくんだ凹凸に満ちている。それはあの留学生にも、華自身にも、ないものだった。

 彼が通っていたのは月に一度は救急車かパトカーが来るような中学で、受験勉強を始めるまでのあいだ喧嘩に明け暮れていた。体を鍛えたのもその頃だ。華はそれを留学生や彼を知る同じ部活の生徒から聞いた。そんな風に荒れた中学は華には想像もつかない。華がその話をにわかには信じられないのは、彼自身がまとう雰囲気のようなものが、荒々しい暴力の影とは無縁なせいでもあった。静脈の浮いている首や、袖からのぞく腕は、さながら彫刻のようで、それがかつては人に襲いかかる身体であったとは思えない。笑顔や、はにかむさまを見ることはあっても、彼が青筋立てて人に歯を剥くのを思い描くことさえできなかった。かつて荒れていた時期があるのだとしても、今ではすっかり穏やかになって、ほほえみを欠かさない人。もしかしたら、わたしがあのひとの目の奥に感じている吸い寄せられるような青い光は、華は思う、今は封じ込められた荒々しい力が内側で逆巻いて返る波濤の、無数の飛沫のひとつがみせる反射ではないのか。

 数学の問題を読むのは楽しいと彼は言った。

 指、太い腕がそのまま小さくなったような岩のような指。

 手、物を掴み紙を這い で記す手。

 頬、かるく笑うと音もなくえくぼが浮かぶ頬。

 目、鳥に似たかたちをした、黒い星に青い火をやどした目。

 額、流れに逆らった幾筋かの髪が、黍のひげをおもわせて舞っている額。

 髪、馬の鬣、貂の毛艶、狐の髭。

 机に向かっている彼を、後ろからそっとだきしめたら、……



   *


 品川の水族館に出かけることになった。当日になると来たのは華と彼のふたりきりだった。前日までに三人、当日になってまた一人辞退していた。あの留学生の差し金だった。

「せっかくだから、彼と二人で行けるように根回しをしましょうか」

 華が彼を好いていることは少し前に打ち明けていた。それを聞いた留学生はけたけた笑って、赤くなった華の背をたたきながら、別に自分とひそかに恋仲にあるなんてことはないからアタックするといい、自分も応援すると請け負ってくれた。今回もその流れでの協力姿勢というわけだった。

 捕まえられた深海魚の展示を見に行くというのがはじめの目的だった。暗い部屋で冷たい明かりに照らされた生き物を眺めに行くのだ。顔を合わせたふたりとも、それは大勢でないからといって値打ちを減らすものでは決してないと同意した。

 その前日に彼はあの留学生とおおよそこんな軽口を交わしていた。

「明日は二人きりで出かけるのでしょう?」

「うん」

「デートじゃないですか! ええ!」

「いや、違うよ。部の他の人間も来るって言ってるんだから」

「華さん以外誰も来なくなることに賭けますからね」

「来るさ、そんなことはない」

「じゃあもし来なかったら? もし全員来なかったら、それでもデートじゃないって言えます?」

「女子と出かけるくらい普通のことじゃないか」

「もし向こうが自分を好いているとわかっていても?」

 ……それを信じないとしたら自分はもしかすると残酷なのかもしれない。

 よく晴れた。日向にいると汗ばむほどの日だった。ふたりは入場券を買って暗い部屋に這入った。



 暗い橙色の外套をはおり、ふたつの鰭のついた巨怪な山高帽をかぶった六脚の蛸。



 骨組だけによって生存する魚。



 ゼリー状の感光器を有する白い風船。



 戯画的な顔の下顎部に持つ二対の発光器で、薄緑色の光を放つ、歪んだ正八面体。



 円盤の円周部から、褐色の斑点のある細い腕をのばした、石炭紀の節足動物。



 銀色に反射する薄い膜を着込み、瓶底眼鏡さながらの肥大した眼球を載せた頭の、細い歯を覗かせる口の端から扇子状の鰭を生やす黒い鱛。



 脚に環状の煤けた模様を付けた白い蟹。



 暗い光に照らされ、小さな水槽の中に浮かんでいる深海魚たちを観察するのを終えて、フードコートで昼を食べた。合成着色料で色付けされたアイスクリームが売っていた。鮮やかな水色と緑色だった。ふたりしてそれを買った。華は水色、彼は緑を選んだ。

 舌に色が移っているかもしれないと気付いたのは半分ほど食べ終わってからだった。口を開いたとき口の中が陰惨な色に染まっていないか、舌が緑に染まっているとしたら彼は自らそれを見せびらかしたがるだろうか。目がせわしなく動いて、彼の口元と、どこでもない位置と、自分のカップをしきりに往復した。していた。後からそうだったと気付いただけで、実際に往復していたときにはそこまで俯瞰していたわけではなかった。

 彼もアイスクリームを食べながら、どこでもない位置を見ていたのが、ふとにっこり笑って、ねえ、と呼び止めるように言って、舌を出した。

 ちょこんと、舌先を第一関節あたりまで出してみせただけだった。はっきりと緑色に染まっていた。

 緑色の舌を見せて、彼は笑った。部室で見せているものより、ちょっと子供っぽい笑いだった。華も笑って、張り合うようにちろりと舌を出してみせた。水色だった。それでまた彼は笑った。歯を見せて笑いながら、残りの半分も食べ終わった。

 同じ路線で、高校の最寄りの、彼の降りる駅まで一緒に乗って行った。隣同士に座った。肩がすこしふれるくらいの距離で、暗い部屋で眺めた魚たちを思い返して、ふたりで話しながらの家路だった。


   *


 浸かっている水はぬるい。どこからか熱い泉が湧き出ているのかもしれない。くすぐるような細い水草の生えた底に腰をおろして、岸の苔むした石のうえに頭をあずけて、腕も両脇になげだして上を見ると、森の間隙のちょうど中心に、満月が、信じられないほど大きく輝いている。絵本の中のように黄金色はしてはいない。木々の間隙を埋め尽くすほど大きな月は、どこか冷めたうすい黄色で、その光には色がなく、水面を覆っているもやは月あかりを浴びてもくまなく白い。水面からもやが沸き立つ。もやは湖面を覆って、奥まった森の深いところを満たしている。

 どこの森だろう。わからない。まわりの木が広葉樹なのか、針葉樹なのか、見えているのにぼやけている。月の見える空は夜にふさわしい暗さで、高い木々の頂のくろぐろした輪郭から切り離された深青色をしている。星は見えない。一つの月だけが空に浮かんであり、それが地上を照らして、水面に立つもやが白く光っているようにさえ見える。

 ぬるい泉の岸辺に、生き物の姿もない。水鳥や羽虫のひとつもありそうなものなのに、自分だけがこの泉に浸かっているかのようだ。肘掛け椅子のような滑らかな傾斜があり、そこに腰かけていて、水から出している胸より上も寒さをまるで感じていないから、今は冬ではないのだろう。まわりの木がどんなものなのか、判断材料のひとつがこれで消える。

 自分が裸であることには疑問を抱かなかった。ひっそりとした森の中で落ち着いていた。もしもここがおとぎばなしの森の中で、私が沐浴をしている森の妖精であるとか、白馬の王子さまを待っている誰かだとしたら、ずいぶんだらしない恰好をしているなと思った。人を待っている感じだけははっきりしていた。

 はたして待ち人は来た。白馬に乗ってもいなかった。よろいも、きらびやかな礼服もまとってはいなかった。かわりに体から森の匂いがした。

 彼は履きものも持たなかった。苔むした往古の森の中を、裸足でここまで歩いてきた。

 彼は黒い襤褸を纏っていた。森の地衣類に覆われて、森の匂いを吸いつづけてきた襤褸だった。

 彼は頭巾を被っていた。体を覆うきれと同じ布地で、鼻まですっぽり隠れていた。

 彼は太い腕をしていた。ぼろの隙間から見える腕で、おのずと体つきが理解できた。

 彼は黄色い布を持っていた。森の中でもよく映える布だ。手に掲げ持って、露にぬれていた。

 恋い焦がれた腕、恋い焦がれた人の腕が、襤褸のかげになって暗い中で見える。腕が黄色いきれを掲げている。

 見上げている私に、きれをおろす。細く黄色い布が目隠しになって岸に垂れる。視界をくまなく覆って、月の明かりも見えなくなる。途端に風の音が騒々しく聞こえてくるのを感じる。目を塞がれた今、五感の四つがにわかにさわぎはじめて、吼えるような遠い風鳴りがまぢかに聞こえる。それからきれをおろした両腕の静かな熱も。剥き出しの口吻から洩れてくる息も。

 きれをおろす動作で、彼は苔のうえに素足でひざまずいた。膝が受けた重みで苔を圧して、濃く匂った。目を隠した顔を隠すように、上から私の顔を覗き込んだ。

 長い息が眉間にふれる。森の隙間に這い込んでくる息のように。

 彼は捧げ持つように私の頭にふれた。持ち上げるのではなく、添えるように手指を触れさせるだけだった。きれのために見えなくなっている指を。岩のように荒く太い指を。羽のように軽く触れた指で、静かに、そして確かに、私の頸を固める。そこが基準点であるかのように。世界すべての不動の基準点であるかのように。

 彼は自ら首をわずかにねじるように曲げる。そして頭巾の下の目を閉じる。唇から暗い舌が這い出て触れる。汲み上げた泉の水をおごそかに飲み込むように。

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