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ミナさんの願望を叶えるには矢沢を振る必要があるのだが、奴は自信がないのか、形勢が傾くのを待っているのか、あちらからは誘いもしてこない。となると、こちらが誰かと付き合っているという噂を立ててやるしかない。失恋したばかりでそんな気にもなれないが、失恋したことを知らずに攻撃され続けるのもキツい。
いっそ、ねー君と付き合ってみるか。いや、それは無い。
ミナさんと飲み明かした後、ネオン街の片隅にある喫煙所を通りかかると、タバコを吸っている若い女がいた。紅音はぎょっとして立ち去ろうとした。それは悠の元カノだったからだ。面識はなく、悠のスマホの壁紙で顔を知っているだけだが、個性的なファッションのせいで間違いないと思った。どんな性格の女か、興味はある。酔った勢いで話してやろうと、気分が悪いふりをして壁際にしゃがみ込んだ。
髪の長い女は、紅音を気にも留めずにタバコをふかしている。女のスマホが鳴り、電話を始めた。
「ん? 悠? いま? 飲んだ帰り。タバコ? バレた? ああ、で、何の用? 用がないなら切るから。バイバイ」
あっさりしたものだ。かわいそうな悠。ポケットにスマホを仕舞うと、彼女は初めて紅音に気付いたかのように視線を向けた。無視するかと思いきや、声をかけてくる。
「おねーさん、だいじょぶ?」
「うん、飲みすぎただけ」
「タバコ吸うの?」
「まあ。持ってないの思い出したけど、癖で」
嘘をついた。でないとここにいる理由がない。
「フーン。これでいいならあげよっか? 安物だけど」
いわゆるギャルの話し方だ。二十代後半か。服装はハード系で、ライダースとレースアップブーツがおそろしくよく似合っている。
「ありがと。いまは要らない」
「とりあえず水飲んだ方がいいっしょ? 買ってきたげる」
「いいの? 助かる。じゃ、これ」
小銭を渡すと、彼女は表通りの自販機の方に歩いて行き、クリスタルガイザーをずいと突き出した。
「はい」
「ありがとね」
「おねーさん、愛知の人?」
「そ。良くわかったね」
「私の友達も、ありがとねって、よく言うんだよね。なんかカワイイ」
「へー。でも私は親が転勤族だったから、いろいろ混じってるよ。そういうあなた、北海道じゃない?」
「当たり〜」
ゆるいテンポで会話が続いていく。彼女がタバコを吸う合間に話すからだ。
「あっちだと、この時期に酔ってしゃがんでたら、死ぬよ」
「ウソ」
「ホント。一回やってみ?」
「やめとく」
何となく、話していて落ち着く相手だと思った。このテンポは心地いい。悠の話すスピードと似ている。旦那の話すスピードとも。
彼女はもう一本を箱から取り出した。あの銘柄は、あの人がよく吸っていたものだ。洗濯するときにポケットの中身をチェックすると、五回に一回は出てきた。
「それ、あたしの旦那と同じ」
「フーン。夫婦で吸ってんの? いいね」
「なんで?」
「カレシとタバコのことでケンカして別れた」
「あらまー」
「私が吸ってる間、ひとりなのがやなんだってさ。やろっかなっていうけど、三十からとか、やじゃん」
「あー」
「元から吸ってりゃいいけどさ、なんか罪悪感あるからね」
意外にも、よく喋る女だ。
「あたしも、それは嫌だね」
「でしょ」
紅音は立ち上がった。
「あたしの旦那、吸いすぎて死んだから、あんたもそのうちやめたほうがいいよ」
「……そっか。おねーさんもね」
紅音は手をひらひらと振ってその場をあとにした。髪にあの煙の匂いがまとわりついている。懐かしい匂いだ。
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