第10話 今日は厄日だろうか。


「駄目ですよ、秋田先生ももう良い御歳なんですから」


「気をつけます」


 校内での成瀬先生はもはや別人の域を超えている。誰しもオンとオフを使い分けるとは言うが、ここまで来ると特技と言えるのではなかろうか。


「それにしても……」


 口元に手を当て小さく笑う女性らしい姿からはあの豪快な姿を想像するのは難しい。それにしても、どうして彼女は私にあの姿を見せてくれるのだろうか。偶々教育係になった程度の私に。


「帰るときに転けて顎を強打するなんて、先生らしくありませんね」


「成瀬先生の仰る通り、私ももう歳ということでしょう」


「そんなこと言わないでくださいぃぃ!」


 社交辞令で苦笑すれば、話している相手とは真逆の方角から悲鳴があがる。


「やっぱり……、やっぱり病院に行きましょう!! 大丈夫です! 俺が一緒に付いていきますから!」


「少し打っただけで大げさですよ」


「先生にもしものことがあったら……!!」


 少し赤く腫れた顎をそのままに出勤したのが間違いだった。宮尾先生との掛け合いはすでに五回目である。まだホームルームすら始まっていないというのに。

 とはいえ、湿布を貼っていれば貼っていたでより大変なことに繋がっていたことは目に見えるためどうすることも出来ないのだが。


「宮尾先生も……、それ以上言うと秋田先生が困ってしまわれますよ?」


「成瀬先生ぇ……」


「とはいえ」


 胸の前で小さく手を合わせる。

 どうも……、嫌な予感がする。


「宮尾先生は大げさですけど。生徒たちが心配するかもしれませんね、なにせ秋田先生は人気者ですから」


「そんなことは」


「ということで今から保健室に行きましょう! 付き添いは私が致しますので、秋田先生のホームルームは宮尾先生にお任せ致しますね」


「お待ちくださ……」


「大事な秋田先生の生徒さんをお任せ出来るのは、やはり宮尾先生じゃないと!」


「ですから」


「お任せください!!」


 その前に私の話を聞いてほしい。


「不肖宮尾健太郎!! 秋田先生の代役をこの身に代えても果たしてみせます!!」


「さぁ、行きましょう!」


 成瀬先生に腕を取られる。優しく組まれているはずの腕から、確固たる彼女の意志が伝わってくるようで。

 ……やはり、なにかしらの処置を行ってから出勤すれば良かったと後悔した。



 ※※※



「で?」


 確か、これはなんと言っただろうか……。壁、壁……、そうだ、壁ドンとクラスの女生徒が言っていたはず。もう数年前の話ではあるが。

 なるほど。かなりの至近距離で相手の顔を見ることになる。加えて、壁と腕でほとんど全ての行動範囲を制限されるのだから、一種の胸の高鳴りを覚えてしまうのか。


「ぜってぇ関係ないこと考えて逃避行してっだろ」


「分かりますか」


「伊達にあんたと付き合い長くねえからな」


 予感というものは嫌な時ばかり的中してしまう。なんてことはないのだが、そう思えてしまうのはある。

 逃げられないように腕を組まれてやって来た先に保健室などありはせず、用がなければ誰も来ることがない理科準備室へと連れ込まれてしまった。

 日光が入るとまずいモノが多数ある準備室の遮光カーテンは優秀であり、薄暗い教室で男女が密着状態にあるというのはなんとも体裁が悪い。


「昨日、何を知った」


「何を、とは?」


「あんたがあんな短時間で調査を終えるはずがないし、そもそもそんなしょうもねえ怪我を負うわけがねえ」


「そんなことは……」


「ある」


 どうして彼女も私の話を聞いてくれないのだろうか。

 当の本人がそうだと言っているのだからそれで終わってくれると助かるというのに。


「自信をお持ちの所申し訳ないが、本当に何もなかったんですよ。ああ、転けたという意味ではありましたね」


「……」


「睨まないでください」


 短時間で調べるのを止めないのも、しょうもない怪我をしないのも私のような人間ではなく成瀬先生のような方にこそ当てはまる言葉である。


「私ももう五十を超えたただの老人でイッ!?」


「何かあったら言えよ」


 噛みつかれた鼻を抑えてる間に、成瀬先生は準備室から出て行ってしまった。


「……保健室……、行かないと」


 また宮尾先生に騒がれでもしたら堪ったものではない。

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