塩泪
七夕ねむり
第1話
「そうなの」
洗濯物から顔を上げずに、珠綺は淡々と言った。白い滑らかな手の甲が視界を行き来している。
「うん、決めたの。決めたことだから」
私が言葉を重ねると、彼女は手を止めて私の目をまじまじと見つめた。上手く感情の読み取れない瞳。そこに映った小さな私は、自分が思っていたよりもうんと意志の強そうな顔つきをしているように見えた。
「ふうん」
一言だけ発して珠綺は再び忙しない元の作業へと戻った。折り目正しく一定の速度で私のブラウスや彼女のTシャツが畳まれていく。
「これは私の問題だから。珠綺のことは関係ないの」
「そうだね。花歩の問題だよね、うん」
フリルのレースが付いたお気に入りの下着が二つに折られて積み上げられる。私は自分の下着がぐらぐらしたタワーの天辺で揺れているのを暫く見ていた。
歯医者さんと似たエントランスは清潔で明るい。聴いたことのあるような無いようなクラシックが心地よい音量で流れている。予約より早い時間に到着した私は、適当なファッション誌を手に取ってパラパラと目を通した。めぼしい記事を粗方読み終えた頃、よく通る声で名前を呼ばれる。数秒後、スカートの左ポケットが1度だけ震えた。反射的に軽い端末を取り出す。画面には、
“今日はエビフライ”
と出ていた。メッセージを開かずに電源を落として、小綺麗な部屋へ向かう。今から何を言われるかなど解りきって出来ていたけれど。
「本当に構わないのね?くどいようだけど、決して小さな選択ではないわ」
困ったような呆れたような、憐れむような表情をして先生は言った。最初の通院から何度聞いたかしれない言葉だった。私は母親が聞き分けのない子供にゆっくりと尋ねるような音を頭のどこかで聞いていた。今更の話だ。こんな直前になってまだ帰途を示してくれる彼女は、親切なのか臆病なのかわからなかった。或いはひどく残酷なだけなのかもしれなかった。
「もちろん。構いません」
目蓋を下ろして微かな痛みを待った。チリリと走った痛みがやがて眠気を連れてやって来る。そういやエビフライは結局食べられないじゃないかと間抜けな考えが過って消えた。
良いように言えば簡素だとかレトロだとか言える我が家に帰ってきたのは二週間後だった。ほぼ手ぶらで当然のように迎えに来た珠綺は、よたよた歩く私を見つけて黙って手を引いた。本当のところ痛みは随分ましになっていて、ただの寝過ぎで生活のリズムが乱れているだけだったのだけれどされるがままにしておいた。傍目からはどう見ても退院した少しばかり不自由な友人を迎えに来たとしか映らないだろう。
マンションの扉の前で珠綺は片手をポケットに突っ込む。使い込んだキーケースを取り出してたった一本の鍵を抜き出すと、静かに鍵穴へ差し込んだ。カチャリと耳慣れた音がする。先に私を押し込んで、自分も玄関に入るとゆっくりと鍵を閉めた。私が居た時よりも片付いている部屋になんだか不思議な感覚がした。
「花歩」
唐突に名前が呼ばれて、そろりそろりと下腹部を撫でられた。ぽすんと背中に小さな重みが落ちて来る。
「痛かった?」
「………いつ?今?」
彼女がどんな表情をしているのか私は知ることが出来なかった。質問に答えずに、珠綺はゆっくりと傷跡を辿る。全く痛くないと言ったら嘘になるが、その手を退ける気にはなれなかった。
「ごめんね」
ぽつりと溢れた声は柔らかくて甘くて、そのくせとても悲しい。その言葉のあまりの痛さに視界を閉じた。頬を伝う水滴は塩辛い。すごく、すごく。彼女に掛けるべき言葉はどこにでも転がっているようで、何一つ見つけることが出来ない。背中に少しずつ染み込んでいく温かな水は、冷えて小さな水溜りを作るだろう。
口の中が塩辛い水分でいっぱいになった頃、掠れた声で問うてみる。
「今日の、晩ごはんは?」
くたくたの言葉に彼女はくすりと笑う。
「エビフライ、だよ」
ああ、やっぱり。塩辛い唇が僅かに弛んだ。まだ目からは水滴を流しているのにそう思った自分は少し愉快だった。
「タルタルソースはパセリ入りにしてね」
我儘。もう大分いつも通りの声色で、彼女が不貞腐れる振りをする。私はもっと愉快になって袖口に涙を吸い込ませた。抱きしめられたまま玄関を上がる。もうすぐ美味しい夕飯を、私たちは囲むのだ。
塩泪 七夕ねむり @yuki_kotatu1
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