水の中の泳ぎかた

雨世界

1 水の音。波の音。……海の音が聞こえる。

 水の中の泳ぎかた


 プロローグ


 水の音。波の音。……海の音が聞こえる。


 本編


 ……あの、先輩。私です。


 八月。


 ……蒸し暑い、夏の日。


 懐かしい思い出。

 ずっと昔に見た夢のお話。

 それを今、思い出すのはどうしてだろう?


 高校生になった加藤らむねは朝、ベットの上で目覚めるときに、そんなことを思った。それはらむねが中学生のときの思い出だった。らむねの初恋の思い出。

 らむねが好きになった相手は、中学の先輩で、らむねと同じ水泳部のエースだった人だ。

 らむねはその人に憧れて水泳を始めた。

 今はそれだけが水泳を続ける理由ではないけれど、始めは確かにあの人のことが目的だった。なかなか不純な動機だと自分でも思う。

 らむねが好きになった相手の名前は秘密だ。

 それは高校生になった今でも、らむねだけの大切な思い出だった。

 その人の名前を、自分以外の誰かに告げるつもりは今のところ、らむねにはなかった。

 らむねは三年間、ずっとあの人に告白をすることができなかった。毎日毎日、今日こそ告白をしよう、今日こそ自分の思いを全部あの人に告げようと思っていたのだけど、結局最後まで、らむねはあの人に自分の思いを告げることができなかった。

 らむねはあの人とは違う高校に進学した。

 らむねは憧れのあの人から逃げたのだ。苦しくって、辛くって、こんな思いをするくらいなら、いっそ、あの人から遠く離れた場所に行こうと思ったのだ。

 その選択をらむねは後悔していない。

 その選択が今も正しい選択だったと、高校二年生になったらむねは思っている、……はずだった。

 でも、もしそうなら、なんでこんな夢を見るのだろう?

 らむねは思う。

 今も思い出すのはあの人の顔ばかりだった。

 らむねの中にあるのは、あの人の思い出だけだった。

 らむねはベットから抜け出すと、水玉模様のパジャマ姿のまま窓際に行って部屋の窓を開ける。すると、蒸し暑い夏の八月の風が、らむねの部屋の中に吹き込んできた。

 昨日、偶然、街であの人とすれ違った。

 あの人はらむねに気がついたようだったけど、一緒にいた、おそらくあの人の恋人のことを意識して、らむねのことを無視した。

 それが、思った以上にきつかった。

 だから今日、私はあの人に水の中の泳ぎかたを教わっていたころの夢を見たのだと思った。

 あの人がいなくなって、私は泳ぎかたを忘れてしまった。

 中学生のころはもっと上手に泳げていたはずなのに、今はもう、そんなに上手にらむねは水の中を泳ぐことができなくなってしまった。

 水の中にいると、らむねはいつもあの人のことを思い出す。

 きっと、生涯忘れることはないのだろうと思う。


 らむねは目を閉じて、あの人のことを思い出す。

 あの人の目、あの人の耳。あの人の口。

 ……そして、あの人の泳ぎかた。

 美しいフォーム。


 らむねは目を開ける。

 それかららむねは窓を閉めると、青色の空を見て、にっこりと微笑んでから、着替えをして、部屋を出て、急いで、自分の家から街に出る。

 少し離れたところにある自然公園に着くと、らむねは携帯電話から、あの人の番号に電話をかけた。

 数回の呼び出し音ののあとに、「はい。もしもし」とあの人が電話に出てくれた。

「あ、あの先輩。久しぶりです。私、加藤です。加藤らむね。中学のときの水泳部の後輩のらむねです」らむねは言う。

「知ってるよ。それがわかってるから電話に出たんでしょ?」とあの人は言う。

「……それに、もしかしたら、かかってくるかなって思ってた」

「え?」らむねは言う。

「昨日、街でらむねとすれ違ったから」あの人は言う。

「……あ、は、はい。確かに昨日、先輩とすれ違いました」らむねは言う。

「無視してごめん。昨日はちょっと、一緒にいたやつと少し、……まあ、いろいろあってさ」とあの人は言う。

「いえ、別に全然構いません。本当にただ、すれ違っただけですから」らむねは言う。

「……らむね。今日は暇なの?」

「暇? ……え、ええ、もちろん暇です。ずっと暇です」

「ならさ、今から、ご飯食べに行こうか? もちろん、こっちのおごりで」あの人が言う。

「……は、はい。いきます」らむねは答える。

 それから約束の時間と場所を決めてから、らむねは「それじゃあ先輩。失礼します」と言って電話を切った。

 その瞬間、らむねはその場で「よし!」と言って、ガッツポーズをする。


 らむねは自然公園を駆け出して、憧れのあの人に会うために、そのまま街の中を全力で走り抜けていく。

 自然と体が軽い。

 いくら走っても疲れない。

 今なら、どこまでも走っていけそうな気がする。 

 らむねはずっと忘れていた自分の水の中の泳ぎかたをその風の中で思い出す。

 そして、もう絶対に忘れないと、そう自分の心に決めたのだった。


 らむねは大地の上を走っているが、その心の中では透明な水の中を泳いでいる。

 透明な水の中にいる、魚になったみたいな自分のイメージ。

 そんなことをらむねが空想することにはちゃんとした理由がある。


 だって加藤らむねは、今も、ずっと、昔から、あの人に憧れて始めた、……水泳が大好きだから。


 水の中の泳ぎかた 終わり

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