ちいさな世界の俺と悪魔とコーヒーと

@NatsumeHiromoto

1.

 人生。それは昔の誰かがいったように一寸先は闇である。

 いつ自分の身に災厄が降りかかってくるかわからない。ゆえに、いついかなる時も油断は禁物である。 仮にも西アンツ王国第二調達部隊の兵士ならば、なおさらだ。そう――……分かっていたはずだった。

 なのに俺は今、断崖絶壁にぶら下がっている。




「それにしてもな…あまりにもベタな状況だよな、これ」

 軽口をたたいてみるものの、いいかげんに体力が限界が近づきつつあるのを感じていた。壁はやけにつるつるしていて足をかける窪みすらないのだ。

 とにもかくにも耐えてくれ、俺の上腕二等筋。何のために今まで辛い訓練を乗り越えてきたんだ。……こんな時のためじゃないのは確かだ。

 不幸にも選ばれた、食料調達の任務。簡単そうに聞こえるが、調達先を聞けば誰でも震えあがるだろう。 この世でもっとも邪悪な種族……忌まわしい史上最悪の怪物――その巣である。

 怪物は天をも突くでかさで家も馬鹿でかい。ついでにグルメだ。どれくらい昔からなのか、その記録すらないほど昔から、俺たちは怪物の食糧をくすねながらなんとか生活を続けている。いまや民の生活と怪物は、切っても切れないのだ。

 その任務の帰り道に俺は足をすべらせ、今の状況に至る。隊ともはぐれてしまったし、せっかく手に入れた食料も水底深く沈んでしまった。

 だが、もうそんな事どうだっちゃいい。ちらりと下を見た。遥か先は深く、暗く、たゆたう水。落ちたら最後。だって俺、泳げない。



「あれ。こんなところに死ぬ寸前の蟻んこが」


 ふいに頭上から、このうえなく気の抜けた声がした。 なんとか首をひねって見上げてみれば、同じ年くらいの男がひとり、くっちゃくっちゃと口を動かしながら俺を見下ろしている。 背中には巨大チーズ。それをむしりながら食っているのだ。

 いくらなんでもこんなでかいチーズは普通ない。しかも王国兵の制服を着ていて、胸元の名札には鈴木と書いてある。知らない顔だが、まあいい。助け舟だ。

「よかった、おまえ見たところ調達部隊の兵士だろ? 俺は同じ調達部隊の佐藤だ。助けてくれ! 見りゃわかると思うが今にも落ちそうなんだ」

「また器用にぶら下がってんなあ」

「つつくな! 限りなく微妙なバランスでぶら下がってんだよ。早く手を――」

「男じゃイマイチやる気が出ねーなぁ。まあいい、十万円で手を打とう。もしくは性転換してから出直してこい」

 気のせいだろうか。なんか今、すごく鬼畜な言葉が聞こえた。ちょっと常軌を逸した言葉が聞こえた。

「いやいやいや、見りゃ分かるよね。そんなこと言ってる場合じゃない状況、」

「人生は時にピリリとせち辛いものさ。ってことでギブ&テーイク」

「お前が一番せち辛いんだけど!」

「ギブ&テーイク」

 なんだ、こいつ。鬼か。悪魔か。はたまた単に英語を使いたいだけなのか。

「わかった、とりあえず先に引き上げてくれたら、」

「さらば友よ」

「待て待て待て!」

 なんなんだ、なんでこんな危ない奴にこんなタイミングで出会うんだ。いや、こんなタイミングじゃなくても出会いたくなかったけど。

「そ、その背中のチーズ、そりゃ民に配給するためのもんだろ。もっさもっさ食ってやがるが、それを俺が隊長にばらしたらどうなるか――よくて罰則、悪くて免職、女王の気分しだいじゃ打ち首獄門の刑だぞ」

「なるほど」

 必死に言い募れば鈴木は感心したように頷いた。こんな卑劣な手はとりたくなかったけど、これもせち辛い世の中とこいつが悪いのだ。

「助けてくれたら黙っててやる。な? だから手を、」

「なるほど。ここで君が死ねば全てまるっと解決するな」

 その発想はなかった。

「じゃあ心苦しいけど……死ねゴルァ!」

 心苦しいとか、絶対に微塵も思ってない勢いで奈落に突き落とされる……!

「待て待て待てウェイトォ!」

「いるよなあ、tomorowもまともに書けないくせに、無駄に発音いいやつ。一丁前に巻き舌とかするやつ。むかつくわー」

「いや、おまえこそまともに書けてないんだけど。“r”一個ぬけてんだけど。気にするな、よくあるミスだ」

「……。なんだってんだ、もう! 人の揚げ足ばっかり取って。君のお母さんの苦労を察するね俺は。察するに涙するね」

 おまえに俺のお母さんの何がわかるというんだ。

「あんたそんなだから間抜けに足滑らせたりするのよってね。その上腕二等筋は何のために鍛えたのってね!」

 おまえに俺の上腕二等筋の何がわかるというんだ。

「そんな親不孝な下衆野朗を助ける気ないから、俺もう行くわ」

「待てって! 助けてくれなかったら、あの、あれだ。呪う」

「は?」

「マジ呪うから。おれの呪い、学校じゃバファ〇ン並みに効くって評判だから。 三代先までおまえの一族郎党、偏頭痛もちにしてやるから!」

「俺はボラギ〇ール派なんだよ。バ〇ァリンは効かないんだよな」

「いやいや頭痛薬なんてどれも大して変わんねー。……って、 ポラギノールって、それ痔の方じゃねーか!」

「……うそだろ。じゃあ今までのは一体、」

 真剣な面持ちで悩みだした鈴木を見上げながら、己の不運を呪った。 唯一の希望が、「ボ〇ギノールってもしかして万能薬なんじゃね? 賢者の石じゃね?」なんて結論をだすアホだなんて。

「ちくしょう! 助けろよ助けてください馬鹿野朗!!」

「まともに対価も払わないで、そうそう世のなか思う通りにいくと思うなよ。そんな甘くねえのさ。……悲しいことにな」

 ハードボイルド調に言ってはいるが、口元にチーズのカスがついてるんだよこの野郎……。

「死にさらせ、鬼畜」

「はは、今にも死にそうな奴がいうと洒落になんねー」

「まじで死ね。三輪車に轢かれて死ね」




 思いつく限りの罵詈雑言を並べ立てていると、ふいに鈴木の顔色が変わった。注意深くあたりを見回しながら、 全身を緊張させている。

「おい、やばいぞ。アレがやってくる」

「アレっておい、まさか」

「そう、この世でもっとも邪悪な種族……あの、 社内旅行の七日間で女風呂をことごとく覗きつくした課長とその部下――」

「ちょっと待て」

 ほんとにちょっと待て。

「どこのどいつだよ、その課長。邪悪っつーか、邪まなだけだろうが!」

「俺の親父だけど」

「うわーサイテー。子が子なら親も親だな」

「ちなみにそれがきっかけでお袋と結婚しました」

「どんなきっかけ!?」

「『お母さん、男の人にあんなにドキドキしたのは生まれて初めてだったのよ』 って」

「それ、明らかに違う意味でのドキドキだって。恋と正反対に位置してるドキドキだって!」

「末っ子の俺が生まれてからはな、昔の青春を再び求めてふたり旅に出ちまってね。 聞いた噂じゃあ、盗んだチーズで走り出しては、売りに出したりなんたり」

「わかった。もうお前らが間違いなくこの世でもっとも邪悪な一族だよ」

「まあ、それはいいとして」

 鈴木はさっくり仕切りなおすと巨大チーズを背負いなおした。

「こうなっちゃ俺も危うい。悪いが、ずらかるよ。じゃ、よい旅を」

「旅ってなんだ。あの世への旅路のこといってんのか!」

 すがりつく断末魔も虚しく、鈴木は驚くべき速さで姿を消した。とすぐに、ぐらりと崖全体が土台から揺れる。

 ――ここまでか。思えば短い人生だった。女王のため、王国のために、なけなしの勇気と筋肉を使ってここまで頑張ってきたが……。 父さん、母さん、兄さんたち、姉さんたち、弟たちに妹たち、どうか達者で――。



**************



『きゃあ! やっだ、蟻!』

『なあに、どうしたの?』

『カップの縁に蟻がついてんの。もーさっきお母さんがテーブルに粉チーズこぼしたせいだよ、絶対』

『うるさいわねえ、蟻一匹で。ほら、取ったげたわよ』

『もう飲みたくないよう。冷めちゃってるし』

『うるさいわねえ、文句いうんなら自分で片付けなさい』



**************



「――おい、おい。あちゃー死んだか?」

 誰かが揺さぶっている。俺はどうなったんだっけ。確か怪物の片方にぴんっと――。

「お。生きてた生きてた」

 見れば、横に鈴木がいる。意識が戻るとともに全身の痛みも自覚するが、どうやら生きているらしい。鈍く痛むのを我慢して起き上がれば、奴はにっこりと笑った。

「よかったなー潰されないで」

「飛ばされたけどな……。なんで俺、生きてんだ?」

「感謝しろよ、俺とこのチーズに」

 見れば身体の下にあの巨大チーズがあった。どうやらこれをクッションにして助かったらしい。恩着せがましくいっているが、こいつが俺を助けたとも思えないので、大方すたこらと逃げていたこいつの背中に運よく落下したのだろう。

「もっと早くに助けてくれてたら、もっと早くに感謝してた」

「馬鹿いっちゃいかんよ。男だった君の落ち度でしょーよ」

「ホントに一回、地獄巡りしてこい。頼むから。商品券あげるから」

「死にぞこないがいう台詞かね」

「まあいいや、とにかく助かった…」

 と、その時。爆裂音と共に熱風が頬を撫でた。




『もう、何やってんのあんたは』

『ごめーん、手がすべっちゃった』

『せっかく新しいの淹れてやったのに。全部こぼしちゃって、もう』




「…………おい、うそだろ」

 背後を振り向けば黒い波が迫り寄ってきていた。さっきより遥かに危険度を増した、マグマに等しい黒茶の液体。 鈴木が無表情で呟く。

「ドジッ子キャラってさー始末悪いよな。だから俺は熟女が好きなんだ。ちょっと肌が黒ずんだ白髪交じりの中年なんか最高だ」

「いってる場合かァ! あと知りたくねえよその性癖!」



 本当に人生、一寸先は闇である。

 そう、まるであのコーヒーのように。




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