待ち人来る(まちびときたる)短編

三村小稲

第1話待ち人来る(短編全文)

 神埼みちるが死んだ。享年三十三歳。


 その日はひどい大雨で、病院までの道のりは大渋滞。幸生はみちるの最期に間に合わなかった。


 ようやく辿りついて病室に駆け込んだ時にはもうみちるは事切れていて、痩せて肌の色も土気色になってしまった体にみちるの母親が縋りついて号泣していた。


 幸生は呆然と立ち尽くしみちるの死に顔を見つめながら、まるでデートに遅刻した時のように申し訳ない気持ちでいっぱいで言葉も涙も出なかった。


 みちるが死ぬことは半年以上も前から分かっていた。癌だった。


 「なんか調子悪い」と言い出してからのらりくらりとやっているうちに手遅れになってしまったことを思えば、なぜもっと早く病院に行かなかったのかと悔やまれるが、それもこれもみちるの病院嫌い故に今となっては詮無いことだった。


 入院することになった時、みちるは自分の状況を知らなかったせいもあるが猛烈に入院を拒否した。それはただ単に病院嫌いというだけではなく、もっと彼女のアイデンティティに関わる重大な問題からだった。


 みちるが入院を嫌がった理由は「病院の食事がまずいから」だった。


 なにを馬鹿なと思うがみちるの場合それはもう命がけの大問題で、彼女にとって絶対に許すことができない人生の最重要事項。常日頃から「まずいもの」を食べることをどうしても受け入れることができず、どんなに空腹であってもまずいものを食べるぐらいならば食べずともよいというほどの「食欲の女」だからだった。


 それは贅沢で我儘な性質とも言えるが、みちるにとって「美味しいもの」とは決して高価な物や希少な物を指すのではなく、ただ彼女にとって「美味しい」と思えるならばそれがどんなに安価なものであっても、ぞんざいなものであってもよかった。要は彼女が満足して「美味しい」と思えればよいわけで、熱いものは熱く、冷たいものは冷たくして食べられればそれでよかったし、食べる時の雰囲気であるとかサービスであるとかも含めて納得できるのであればそれだけで彼女は「美味しい」と思い、喜んだ。


 屋台のたこ焼きだって縁日に浴衣がけで賑やかに食べればその空気ごと美味く、あらたまった席で食べるフランス料理もべらぼうな値段に権高なサービスではどう食べたところでまずいのだ、と。


 ようするに、神埼みちるは食べることを人生において相当大切なものに数えて生きていて、自分の好きな物を食べられなくなることを猛烈に恐れていたのだった。


 しかし、といって末期癌の患者がなんの治療も受けずにすむはずもなく、みちるは病院に「収容」された。


 入院してからのみちるの食に対する執着は、健康な時よりもめざましいものがあった。それはまるで自分に残された時間のすべてを自分の最も大切なことに充てたいという本能の表れのようで、食欲はそのままみちるの闘病だった。


食べるこだわりなくして生きるこだわりは持てない。食べることに工夫をこらせるのは人間だけなのだから、この知恵を追及しなければ人間らしく生きることはできない。ただ食べられればいいなんて言う輩は畜生と同じだ。みちるは悉くそう息まいて、手術だの化学療法だので傷み、衰えて食事そのものがままならなくなっても、例え体が食事を受け付けなくなってもその強靭な精神力だけで常に幸生に「なんか美味しいもん食べたい」と訴え続けた。


 幸生はそれがみちるの口癖であるのを充分知っていたが、余命いくばくとなるとそう聞き流すこともできず、みちるの言葉を真に受けて、会社の帰りや週末は必ずみちるの好物や評判の店の何某やら、お取り寄せグルメのなんたらだのを携えて面会に通った。


 幸生はそんな自分をまるで雛に餌を運ぶ親鳥のようだと思い、一人ひっそりと笑った。


 行けば病室でぴいぴいと大きな口を開けて餌をねだる。そして、食べればひとしきり口を閉じ、反芻し、美味ければ美味いと相好を崩す。幸生はそういうみちるを愛していた。


 幸生とみちるの出会いは「えん屋」という雑居ビルの中にある小さな小料理屋だった。


 ちょっとした惣菜を中心に酒が飲めて、小腹が空けばご飯も食べられる小奇麗で気の利いた店で、女店主一人で商っていた。


 みちるはその店の近くの花屋に勤めていて、仕事帰りにちょいちょい飲みに来るついでに売れ残りや咲き終わりの花を持ってきていた。


 そして幸生はというと、これは会社の上司に連れてこられたのが最初で、明るくて居心地のいい清潔な店と女店主のこざっぱりとした気性が気にいって週に一度は立ち寄るようになっていた。


 「えん屋」の「えん」は人と人を繋ぐ「縁」を意味する。二人はまさにこの店の名の通り「えん」あって出会ったと言える。が、幸生はその縁は決して赤い糸のようなロマンチックなものではなく、あくまでも「えん屋」の料理が「縁」であり、二人を出会わせた「縁」そのものだと思っていた。


 みちるはあちこちの美味い店、流行りの店といった情報に恐ろしく敏感で、確かな目利きができる女だった。そのみちるが気にいって通っていたのだから、「えん屋」の味に間違いのあろうはずがなく、だからこそ二人が出会えたのも「えん屋」の料理があってこそだった。


 春は菜の花。丁寧にひいた出汁であっさりとした煮浸しに。初鰹。夏はざくりとした作りのところてん。懐かしいラベルの瓶ビール。茹で上げたばかりの枝豆は枝付きのまま。胡瓜にはたっぷりの金山寺味噌を。秋は茸汁。寒くなれば一人鍋。熱燗もいいが、梅酒をお湯割りもまた甘酸っぱくて優しい。その時々に、みちるがいた。


 あれほど食べることが好きで、うるさい人間がどうして料理の仕事につかなかったのか不思議だったが、本人が言うには「料理が仕事になると、純粋に食べることを楽しめない」かららしかった。


 仕事となると何を食べてもその材料の出所から値段から、売値から、しつらえのすべてが気になるだろうし、恐らくは料理に対する見る目も変わるだろう。職業ではないからこそ、即ち無責任な素人、ただの客であればこそ感動もできるし、ケチもつけられる。そしてなによりも、ただ好きでただ食べれば良いのだということ。なにを気にすることもなく。みちるは食を追及するというよりは、己の満足を、悦楽を追及することを選んだのだ。そして自身の職業は、これは子供の頃からの憧れであったという花屋を選んだのだった。


「植物学者か花屋か、これでも悩んだんだけど、やっぱり花屋。理由? そりゃあ綺麗なものに囲まれていられるんだもの」

 とはみちるの弁。専門学校に行き、後はずっと花屋勤めを貫いた。


 冬は寒いし、手が荒れるし、バラの棘が刺さるし、思わぬところで花を枯らせてしまったり、鉢ものをうまく育てられなかったりもしたが、みちるはアレンジメントを学び、経営を学び、配達の為に車や原付を走らせて真面目に働いた。


 みちるの夢は自分の花屋を持つことだった。それも街で高価な花をキャバクラに活けるだけでなく、ホステスに貢ぐ花束を作るのでもなく、普通の人の普通の生活を彩る、小さな花を売る店。


 日常生活のほんの少しのこだわり。ささやかな贅沢。なくてもいいが、あればちょっと幸せ。季節を感じられ、生き物の息吹を匂わせてくれること。全部、みちるにとっては「食べる」ことと同じことだった。


 みちるが「えん屋」に持ってくる花は決して仰々しいものではなく、一輪ざしや小さな花立てに活けられるだけのものだったが、それこそが「旬」のもので、みちるにしてみれば儚さがすでに食べることと同じ感覚で、ほんの少しの工夫でいくらでも美味しく幸せになれるのなら、花もまた同じであると思っていた。


 幸生はみちるに出会うまで花の名前など桜とひまわりとチューリップぐらいしか知らなかった。


 そう言うとみちるは笑って、たいがいの男の人はそうだと言った。が、

「けど、それってつまんないと思う」

 とも言った。


「そりゃあ花の名前なんて知らなくても生きていけるけどね。でも、知ってると知らないではやっぱり違うのよ。なんていうのかな、人生がね、豊かになるの」


 この時もみちるは花と食を同列に話した。


「野菜も魚も名前やその育ちや、食べ方を知っているのといないのでは違うのよ。鯛ならみんな鯛で同じ味ってわけじゃないんだから。季節の味もあれば、養殖と天然ではまるっきり違うし。もちろんそれも知らなくても生きてはいけるけどさ。知ってると食べることがもっと楽しくなるの。ということは、生きることが楽しくなるのよ」


 幸生は最初からそんな風に饒舌で明朗なみちるを魅力的だと感じていた。大きな口をさらに大きく開けて笑うような屈託のなさも、食欲旺盛で酒にも強いのも気に入っていた。気がつくともう好きになっていた。


 しかし、みちるの方では当初はそういう意識はなかったらしく、「えん屋」でよく会う男であるという認識しかなく、電話番号やメールアドレスを交換するも連絡をすることはなかった。


 幸生の方では距離を縮めようと懸命で、会えばみちるの気を引くような食べ物の話……会社の近くのカレー屋が美味いとか、出張で行った先の名産だとか……をしては深夜まで一緒に酒を飲み、「えん屋」以外にも互いの気にいっている店へ案内しあった。


 が、飲んだり食べたりする以外の場所で二人で会うことはなかった。幸生がサラリーマンで土日が休みなのに対し、みちるは花屋で土日も働いていて、勤務時間も夜遅かったせいでデートと呼ぶべき逢瀬は実現が難しかった。


 幸生は内心焦っていた。どちらかというとおっとりしていて真面目で、人当たりのいい素直な性質の幸生は学生の頃から女の子たちに「いい人」で通っていて、測らずも「男として意識されない」タイプの「お友達」で終わる男だったから、このままみちると「仲の良い、ただの飲み友達」の地位が確立されてしまうと、もうそれは永遠に覆すことができないと思っていた。


 それに、みちるときたら社交的な性格で男友達もわんさといて、しかと確かめたわけではないが幸生と同じように想いを寄せている奴は他にもいるだろうことが推測された。


 時々、深酒をし酔っ払って別れる時、みちるも酔っ払いながらタクシーで帰る幸生に手を振るのだが、幸生にしたら誰にも先を越されたくなくて、もうどうしてもみちるに実力行使に及びたくて泣きそうなほどだった。


 赤いフレームの自転車にまたがり、紺色のナイロンの鞄を肩から斜めにかけてジーンズでこぎ出す姿を幸生は時間をとめて、このまま切り取って額縁にいれて閉じ込めてしまいたいような、そんな気持ちになった。


 ようするに、幸生はみちるをひどく恋していたということだ。


 そんな幸生がみちるをデートに誘えたのは、桜も終わり新緑の季節が訪れた頃、有給休暇をとってみちるの休みに合わせた時だった。


 この時幸生はみちるに気を使わせまいと有給休暇を取ったことは黙っていた。ただ「出張で土日働いたから代休」なのだと話し、「えん屋」のカウンターで焼酎を飲みながら「もしよかったら、どっか遊びに行かない?」と言った。


 緊張のあまり何を食べても味が分からなかったし、その緊張を和らげる為にいつもより早いペースでグラスを空けた。


「どっかって、どこ?」


 みちるはイエスともノーとも言わず、まずそう尋ね返した。


「どこでも。行きたいとこ、ある? 映画とかでもいいし」

「……そうねえ……。幸生くんは? どっか行きたいとこあるの?」

「……」


 幸生は一瞬悩んだ。


 個人的に幸生は折よく開催中の美術館の展覧会へ行きたかったのだが、みちるに絵画鑑賞の趣味があるのかどうかを知らなかったし、それにせっかくのチャンスだからみちるともっと自由に語り合えるような場所へ行きたい気持ちがあった。


 そして答えたのが、

「……植物園」

 だった。


 みちるはその瞬間ぱっと顔を輝かせ、

「いいねえ! 今いい季節だよね。いいよ、行こう行こう。おにぎり持って行こう」

 と、即決した。


 幸生は心の中で万歳三唱をした。


 植物園に行きたかったわけではなかった。そう言えばみちるがオッケーしてくれると踏んで答えただけだった。でも、みちると行けるならどこでもよかったのも事実だった。


 幸生は当日車でみちるを迎えに行き、みちるは予告通りおにぎりを作って持ってきてくれた。


 新緑の美しい季節。風は爽やかで木漏れ日が優しく、まさにそれは心躍る休日だった。


 植物園は山の中にあり、広大で静かで、なにか満ち足りた雰囲気で、幸生は舗装されていない砂利道や遊歩道を歩くのは何年ぶりだろうと考えていた。

通勤は電車で、都会の整備された道を歩き、その足元だって革靴に武装されている。それはあたかもスパルタの重装歩兵を思わせる。ひたすら脇目もふらず行軍するような毎日。それに比べて木々の間を風が渡り、スニーカーを泥で汚しながら行く傾斜した道筋はどうだ。見上げれば楠が丈高く、楓は今は緑の手を広げ、遠くに鳥が鳴くのも聞こえる。幸生はこんな風に目的もなくぶらぶらと歩くことをずいぶん長いことしていなかったのだなと改めて感慨深かった。


 そういった意味で植物園を選んだのは意図しなかったとはいえ正解だった。


 みちるは花屋に勤めるぐらい植物が好きなので、樹木にも詳しく、時々幸生に目につく花や木の名前や特性を教えてくれた。


 幸生は素直に関心しながらそれを聞き、これも正直に、

「こういうとこ来るの子供の頃の遠足以来かも。来てみると案外楽しいな。緑が気持ちいいよ」

 と言った。


「マイナスイオンが出てるからね」

「うん。癒される。つーか、活性化されるような気がする」

「普段の生活がやっぱりねえ。忙しいだろうし、不節制だろうし」

「……不節制かな? やっぱり」

「私にはそう見えるけど?」

「例えば、どこが?」


 幸生が尋ねるとみちるはしばし腕を組んで考えてから、言った。

「幸生くん、野菜食べないでしょ」

「えっ」

「いつもえん屋で頼むのって、揚げ物とか塩気の強いものでお酒のアテばっかりじゃない? 食べたとしても、生野菜をちょろっと食べるだけでしょ。一緒にごはん行っても、幸生くんの頼むものって偏ってるし」

「……」

「あれ、よくないなあっていつも思ってたんだよね」

「……」

「よく野菜食べないとって言って生野菜のサラダ頼む人いるけど、あれって本当はそんなに体にいいわけじゃないんだよ。生野菜は体冷やすし、淡色野菜ってそんなビタミンないし。緑黄色野菜を温製で食べるとかの方がいいの。でも、男の人ってだいたいそういう料理は好きじゃないのね。で、肌も荒れて、口内炎出来て、目の下はクマがあって、イライラしてる」

「俺、イライラしてる?」

「ううん。けど、お腹の具合悪いでしょ」

「えっ」

「お酒飲むしさ。余計冷えるんだよ」


 ここまで言われて幸生は思わず大きな声を出した。

「なんで知ってんの?!」


 みちるの言う通り、どうしても酒を飲むことを前提に外食するので、肉気のものばかり食べてしまうし、味の濃いものが中心になる。下手したらほとんど何も食べないで酒ばかり飲むこともある。そのせいもあって実際腹はたいがい下し気味の傾向にある。が、なぜ、みちるにそんなことが分かったのだろう。幸生はあんまり驚いたので、まじまじとみちるを見つめた。


 するとみちるは幸生の目を見返しながら、

「幸生くん、時々だけどトイレ長いよね?」

「……」

「たまにトイレが長いから飲み過ぎて具合悪いのかなって思ったりしてたの」

「……」


 幸生はその言葉を聞いて、驚きの次に恥ずかしさが襲いかかってくるのを感じた。自分でも顔が赤くなるのが分かったし、このまま叫びながら山の中に分け入ってしまいたいぐらいだった。


 するとみちるは幸生の精神的な打撃を屈辱的な怒りかと思い、幸生の顔色を窺いながら、

「ごめんなさい……」

 と詫びた。

「そりゃあ体調悪いこともあるよね。ごめんなさい。失礼なこと言って……」

 その言葉に幸生は慌てて、

「謝んなくていいよ! ちょっとびっくりしただけだから! いやあ、でもなんでそんな分かんの? もしかしてみんなそう思ってんのかな」

「どうだろう……」

「普通分かんないよな?」

「うん。たぶん」


 林の中の遊歩道を抜けて庭園に出ると、噴水を囲むように花壇が配置されており大ぶりな薔薇が鮮やかに咲き乱れていた。


 噴水の水が陽光を受けて煌めき、飛沫が小さな虹を作っている。幸生はそれを目にするとなにか奇跡のような閃きが自分の中をかすめるのを感じた。


 それは本当に一瞬の、思考でも感情でもないような突発的な思いつきで、脳裏にぱっと浮かんでかき消すように飛び去るものだった。が、その分だけ強烈な印象で、幸生の衝動を突き動かすには十分な残像を残していた。


 従来の幸生は何事においてもそう積極的なタイプではない。こと恋愛に関しては最もその性質が顕著に表れていて、だからこうしてみちるを誘うのにもずいぶんと時間がかかってしまった。その間にだって想いを告白するチャンスはいくらでもあったのに、できなかった。戯れに紛らせることさえも。そういった意味でこのどかんと開けた美しい庭園に出た瞬間の、世界のすべてが祝福されているような明るさと清々しさに幸生は天啓を授けられたと思った。


 次の瞬間、幸生の口から出たのは思いもよらないほど勇気に満ちた言葉だった。


「そんな観察されてるってことは、もしかして俺のこと好きなんじゃないの?」

 するとみちるは、すんなりと答えて言った。

「そうだよ」

「え」


 幸生は思わずのけぞった。我が耳を疑い、仰天のあまり口を半開きにしてみちるを凝視した。


 みちるは間抜け面の幸生に涼しい顔を見せながら、さらに、

「知らなかったの?」

 と言った。


 もう幸生には言葉の継ぎ穂がなかった。


 好きな人が自分を好きだと言うその言葉を、幸生はどう受け止めてどう返せばいいのか、混乱にはまりこみ、それでも夢のようで、嬉しくて噴水に飛び込んで水をめちゃくちゃに撥ねちらかしてやりたい衝動で胸がいっぱいだった。


 しかしみちるは平然とした様子で花壇の薔薇を指さしながら、

「あの一重の薔薇、モッコウバラっていうんだけどあの花が一番日本的でしょ。イヌバラともいうのよ」

 と教えるだけで、まるきり普段と変わらない横顔を見せるだけだった。


 幸生が恐る恐る手を握ると、みちるも自然とその手を握り返した。二人の交際が始まったのは、その時からだった。


 恋人として付き合ってみると、みちるは思ったよりも冷静で理路整然としたタイプだった。いつも酒の場で見せる社交的で朗らかな側面も嘘ではないが、普段の彼女はどちらかというと物静かで、落ち着いていた。


 二人が恋愛を前提とした関係になった時、周囲の者はみな一様に驚き、それから祝福してくれた。


 幸生に恋人がいなかったのは一年ほどだったのだが、みちるはもう五年も「ひとり」だったらしい。「えん屋」の女店主もみちるの報告を聞き、心から喜んでくれた。


 幸生は周囲の対応や言葉尻から、どうもみちるは過去の恋愛があまりよくなかったらしいことを察した。


 しかし幸生にしてみれば過去はどうでもよかった。みちる本人が一度ちらと過去の恋愛に失敗したのは相手を好きすぎて全力投球しすぎてうっとうしがられたのが原因だったと漏らしたことがあるが、興味はなかった。


「食べ物の趣味もあわなかったし」


 みちるはそう言って笑った。この時もみちるにとって「食べる」ことが重要な位置を占めており、幸生はその主義主張だけを黙って謹聴した。


 みちるが言うには、

「どんなに好きでも、仮に相手が外国人で言葉が通じなかったとしても、それではセックスはできても恋愛はできないのよ」

 ということだった。幸生はそれを興味深く聞いた。


「食文化が違いすぎるとデートで食事もろくにできないわけでしょ。ただ食べられたらなんでもいいんじゃあ、あんまりにも愛想がないし。恋愛には言葉と文化とロマンが不可欠なのよ。食事って大事だよ。食べることを間にはさんで、お互いを知るんだもの。それに、だいたい考えてもみてよ。どんなに男前でもコンビニの前でパンをかじったり、座り込んでカップラーメン食べるようなデート、許せる? 私は無理だわ。それは大人だからってことじゃないの。そりゃあ私だって学生の時はコンビニで買ったアイスを彼氏と食べながら帰ったりしたよ。でも、それと私が今言ってるのは意味がちがう。分かるかなあ。食べ物を無造作に扱う男は女の扱いもいい加減なのよ」


 みちるにはあまり食べ物の好き嫌いがない。かつての恋愛で「食べ物の趣味があわなかった」というのは、恐らくみちるが言うような食べることのこだわりが折り合わなかったのだろう。


 幸生はみちると付き合うようになって初めて食べたものがいくつもあった。そしてそれ以上に初めてのシチュエーションがあった。


 ドレスアップして出かけるホテルのフランス料理も、アフタヌーンティーも、早朝に山を登って峠の茶店で出されるトーストとコーヒーも、場末のホルモン屋も、みちるにかかれば「恋愛」だった。それこそ恋愛に不可欠は文化と言葉とロマン。食欲に姿を変えて実践される彼女の生き方そのもの。


 みちるとの恋愛関係は五年に及んだ。


 その間もみちるは真面目に花屋に勤め、ウエディングブーケや装花を任されるようになり充実していた。


 お互いの部屋を行き来していたが、幸生はみちるの部屋が好きだった。みちるも調理道具や食材が思うままに揃う自分の部屋を好み、合鍵は幸生の方が頻繁に使用した。


 初めての植物園でのデートで指摘されたように、腹具合の悪かった幸生の腹をみちるは文字通り「あたため」たし、幸生もまたみちるの言うところの「恋愛」のあるべき姿を守る為に食べることに真面目に取り組んだ。


 二人の五年間は幸福だった。


 みちるの病巣が発覚したのは冬のことだった。


 夏よりも冬の方が甘いものが美味しいといつも言っていたみちるが、その年に限って「なんか調子悪い」を連発し、食欲も減退してじわじわと痩せているのに気付いた幸生は、嫌がるのを無理に病院に送り込んで検査を受けさせた。


 みちるは忙しい時期で疲れているだけだと言い張って聞かなかった。それを強引に病院へ行かせたのは心配だったせいもあるが、なによりも幸生はクリスマスあたりにいよいよみちるにプロポーズしようと計画しているせいもあって、みちるにもコンディションを整えていてほしかったのだ。その結果が癌とは思いもよらなかったのだけれど。


 当初、幸生はこの結果を知らなかった。みちるにとって幸生はまだ他人だったので、病院からの連絡は当然みちるの両親が受け取った。そして、母親からの電話で知らされた。


 幸生はプロポーズの後に両親を訪ねるつもりだったのが、こんな形で初対面を果たすことになるとは想像だにせず、なにかとても皮肉な運命に巻き込まれたようで呆然としていた。


 連絡を受けて初めて会ったみちるの両親は実に上品で、知的な人たちだった。話しには聞いていたが、父親は大学教授で母親は専業主婦で、どちらも「文化的」な人だった。ようするに、みちるが食べることにあれほど熱心になったのももっともと思えるぐらいに、彼らの佇まいは凛とした意思の塊のようだった。


 待ち合わせたのは料理が評判の小さなホテルのティールームだった。


 「みちるのことで大事なお話しがあるんです」と言われた時はぎょっとしたが、その後に続く「あの子の体のことで、ちょっと」という言葉を聞くとたちまち冷たい汗が額から噴き出て、いやな予感で目の前が暗く塗りつぶされるような気がした。


 而して会見に臨んだティールームで、みちるの両親は実に丁寧に幸生に挨拶をした。


 この時幸生を驚かせたのは、母親だけならまだ分かるが、縁の細い眼鏡をかけた痩せて背の高い父親までもがホテルの豪華なデザートの皿をたっぷりの紅茶と共に楽しんでいることだった。


 幸生は緊張のせいもあってコーヒーしか頼めなかったし、それだってまともに飲みきることができなかったというのに、二人は優雅に甘いものを食べ、母親に至ってはあまつさえお代わりまで注文していた。


 そこで繰り広げられた絶望的な会話を幸生は生涯忘れることができないと思った。


 みちるの両親はまずは日頃の交際について「いつも仲良くして頂いているようで、ありがとうございます」だの「これまでお会いする機会がなかったのでご挨拶もしませんで、申し訳ありません」と幸生が言うべきはずだった言葉を全部述べた。


 そして仕事のことやなんてことはない雑談を前置きにしてから、父親の方がおもむろに口火を切った。


「あの子、この前病院に行ったそうですが」

「はい……」

「その結果が出ましてね」

「はい……」

「良くないです」

「……」


 父親と母親が代わる代わるみちるの病気について説明し、今後の治療について話している間、幸生はじっと二人の前に並んだ金色の模様の描かれた皿を見つめていた。


 若いから進行が早いとか、転移だとか幸生の耳には遥か彼方でノイズ混じりのラジオが鳴っているようにしか聞こえず、その代わりにティールームのBGMの「美しく青きドナウ」が壮大なフルオーケストラで朗々と耳に注ぎ込まれるのを感じているだけだった。


 その様子がみちるの両親にはまるで放心しているように見えたのだろう。不意にみちるの母親がテーブルに置かれた幸生の右手をそっと握った。

 ひんやりとした冷たい手だった。

「大丈夫ですか?」

 幸生は何か言おうとした。すみませんとか、大丈夫ですとか。しかし言葉がでなかった。咽喉の奥に飴玉を誤飲したようなごろごろした異物感があるだけで、息苦しくさえあり、小さく頷くのが精一杯だった。


 みちるの母親は優しく言った。

「こんなお話しをしなければいけないのは申し訳ないと思って悩んだんですけど……。でも、黙っているのはあなたを騙すことになるんじゃないかと思って……。本当にごめんなさい」

「……」

「あの子、もう長くないです」


 その瞬間、幸生の咽喉の奥から熱い塊がぐうっとこみあげてきたかと思うと、溢れ出し、幸生はみちるの母親に手をとられたままの格好で嗚咽を漏らして泣きだしてしまった。


 みちるの余命は半年か一年。どれだけのことができ、どこまで引っ張れるかは手術してみてからの判断。それら事実を聞かされる間も幸生は泣き続けた。


その後もこの時の会見のことをみちるが知ることはなかったし、みちるは自分の病状も余命も最期まで知ることはなかった。


 遅すぎたのだ。なにもかもが。ただ言えるのはそれだけだった。


 幸生はみちるの両親と秘密裏に連絡を取り合うようになり、口裏をあわせ、互いのとてつもない喪失感を慰めあった。


 毎年、冬になるとみちるは紅玉をワインで甘く煮て、サワークリームをごっそり付けて食べるのだが、その冬は作ることができなかった。


 入院したみちるを待ち受けていた最初の苦痛は、案の定、食事だった。


 無味乾燥としたプラスチックの皿に出されるぬるい惣菜。みちるの言葉で言うところの「お茶風味のお湯」。米も味噌汁もみちるの気に入るはずもなく、三日でみちるは無口になり、不貞腐れたように布団をかぶって丸まるようになった。


 この時はまだ身体の痛みであるとか、食欲減退だとか、嘔吐だのはなく、まだ文句が言える程度には元気だった。


 幸生はみちるの余命を知らされた夜、一人で街に出かけて正体をなくすほど酒を飲んだ。馴染みのバーのマスターや顔馴染みたちから怪訝な顔をされ、なにかあったのかと心配されても「なんでもない」と言い張り、ぐでんぐでんになるまで飲んだ。


 途中、みちるを呼ぼうかと言われたがそれには全力でやめてくれと言った。……というより、最後はもう泣きながら「呼ばないでくれ」と懇願した。それにより誰もが幸生がみちるにフラれたのだと思った。


 飲まずにはやってられないとはよく言ったものだと、幸生は思う。あの日から幸生は泥酔しないまでも、酒量は明らかに増えたし、酔って何を忘れられるわけでもないのに酔えば少しでも気持ちが軽くなるかと思って、強い酒ばかりを選んで飲んだ。


 走馬灯というものは死にゆく人が最後に見るものだというが、この時の幸生はみちるとの思い出の数々がまさに走馬灯式に脳裏を巡っていくのを感じていた。


 みちるの部屋に初めて行った時のことは特に鮮明に覚えている。


 さんざん飲んでいたのにも関わらず、招じいれられた部屋でさらに冷凍庫から出してきたジンをショットグラスに注いで二人でぐいぐいと飲んだ。


 ジンは透明な青の美しいボトルで、霜がついて、中身は半分凍っていた。


 酔っ払っているから手元が覚束なくて、テーブルに酒をこぼしては馬鹿みたいに笑った。


 みちるの部屋は巨大な鉢植えがいくつもあって植物園の温室みたいだったが、「あんまり鉢植えが多いから大麻栽培でもしてんのかと思われて、警察がきたことがある」と本当とも冗談ともつかないことを言って、また笑った。


「緑があると安心する。生きてるって感じがするから。学生の時、オフィスの事務職みたいなバイトしたことあるけど、パソコンだのプリンタだのばっかりな上に、働いてる人も誰も本当には仲がいいわけじゃなくて、やたら静かで、エアコンの音まで聞こえそうなぐらいで、生き物の気配がまるきりしなくて怖かった。『天空の城ラピュタ』で主人公の女の子が言うセリフ知ってる? 人は土を離れては生きていけないっていうの……。あれだよ、あれ」


 病院には生き物の気配などないだろうと思うとみちるがかわいそうでやりきれなかった。なにも空中に浮かぶ城を探しているわけでもないのに「土から離れ」なくてはならないみちる。


 天井近くまで育った巨大なドラセナやオリーブ、月桂樹の下で床にみちるを組み敷いて耽るセックス。濃密で泣きたくなるような恋情。あんな脳天の痺れるようなセックスはしたことがなかった。事がすんだ後のみちるの肌はしっとりと汗ばんでいて、そのまま溶けていってしまいそうだった。それもこれも覚えている。忘れられない。


幸生はカウンターに突っ伏して泣き、泣きやんでは引き続き酒を飲んだ。こんなことになるのなら思い出など何もいらない。記憶などなくてもいい。すべて忘れてしまえるなら。そうしたら自分はこの先も平然として生きていけるだろう。幸生は無遠慮に幕を下ろそうとするこの恋の後で、自分はどうしたらいいのかまるでわからなかった。


 入院中のみちるの不満をどうにかするべく、みちるの母親がおかずや佃煮を持ってきては無理にでもみちるに食事をさせた。


みちるの美学で言うと「まずいものを食べるぐらいなら、食べなくてもよい」のだけれど、さすがに病人が食べないというわけにはいかない。


 自分が深刻な状態にあるとは知らないみちるは「早く帰りたい」とばかり言った。


「ごはんがまずくてやってらんない。お米がまずい。お米が。炊き方が悪いのよ。おかずなんてこんな何品もいらないから、とにかく米を美味く炊いてほしいよ! そしたら後は漬物かなんかあればいいんだからさ!」


 幸生は、元気な時ならば笑って聞き流せたそんな言葉も今はせつなくて、涙を誘い出す一つでしかなく、だから毎日のように病院に顔を出すも食事の時間だけは避けるようにしていた。あのみちるがざっぱくない食事をしているのを見ることが辛かった。


 そうして幸生が病院を訪ねる仕事の帰りと、土日。

「調子どう?」

「まあまあ」

「そうか」

 そんな挨拶。それから、雑談。まだ笑顔が見れた頃。そして最後は決まって「なんか美味しいもん食べたい」だった。

「なんかって、例えば?」

 幸生が尋ねると、みちるはその都度、

「マカロン。チョコレートのやつ」

 とか、

「小海老と三つ葉のかき揚げ。揚げたてのやつ。抹茶塩で食べたい」

 とか、

「ブルーチーズに蜂蜜かけて、赤ワイン飲みたい」

 と、明確に答えた。


 それだけでなく、どこそこの店のなにが食べたいとはっきり言うこともあった。


 みちるの頭の中に自分だけの地図があって、そこに美味い物好きな物ががっちり書き込まれて世界を形成している。普段のみちるはどちらかというと方向オンチで地図が読めないタイプだが、気に入りのレストランや蕎麦屋やバーは狂いなく網羅されていて、みちるはどこへ行くにも、人に道を示すにも必ず「新富鮨の横の道をまっすぐ」とか「通りの向こうにアメリカンな感じのハンバーガー屋さんがあって……」といった具合に常に目印は食べ物屋だった。彼女の目にはコンビニも銀行も郵便局も入ってはいなかった。あるのは気に入りの、あるいは気に食わない店だけだった。


「ハーゲンダッツのミッドナイトクッキーアンドクリームが食べたい」

 ある時、みちるはそう答えた。


 それは通常バニラがベースであるはずがチョコレートのアイスクリームをベースにし、ココアクッキーが入っていて、さらに濃厚なチョコシロップがまざっているもので幸生は食べたことはなかったのだけれど、みちる曰く「一口食べただけで鼻血が出そう。だけど、濃厚で美味しい。絶対一億カロリーぐらいあって、確実に太るし肌にもよくないと思うから余計美味しい」と評するものだった。


 幸生はふとそうしてみたくなって、ベッドに身体を起こして枕を背もたれがわりにしているみちるの頬に手を伸ばした。


 幸生の手がみちるの頬を包むように挟み込むと、みちるは無言で目を閉じた。まるで幸生の掌の感触を味わうように、静かに。


 触れた感触で幸生にはみちるが痩せ衰え始めていることが、ひしひしと伝わってきた。以前よりも顔が小さくなって、頬のふっくらとした弾力もいくらか萎んでいるようだった。


 幸生はそのままの姿勢で言った。

「買ってきてやるよ」

 するとみちるはぱっと目を開けて、

「本当?!」

 と声をあげた。


 この時、幸生に残された使命が決定した。幸生はみちるの好きな物を食べたい物をことごとく運ぶ、「幸福な王子」に登場する燕のような役になったのだった。


 次の週末。幸生はあちこち探しまくってどうにか件のアイスクリームを買うと、ドライアイスをたっぷり用意してスチロールの箱に詰め病院へと運んだ。


 病院ではみちるが前夜から突然発熱したといって、氷枕をして寝ていた。土気色をしていた頬に皮肉にも火照りがみられ、目が濡れたように潤んでいた。


 幸生はベッドの横の椅子に腰かけると、寝たままでこちらを見上げるみちるの乱れた髪をかきあげてやりながら、囁いた。

「買ってきたぞ」

「……ほんと?」

 幸生はこくりと頷いた。


 二人はなぜかひそひそと小声で、まるで秘密の取引でもしているような、ある種の後ろ暗さとスリルみたいなものに包まれてほくそ笑みあった。


 みちるは嬉しそうに、本当に目を輝かせて幸生に手を伸ばした。

「食べる」

「今?」

「うん。食べたい」

「……カーテン引こうか」

「うん」


 幸生は立ち上がって周囲を憚るようにベッドの周囲にめぐらされたカーテンを閉めた。


 するとみちるはぐったりしてはいるものの起き上がり、今一度手を伸ばした。


 幸生は子供みたいに催促するのと、その癖、禁断症状でも起こしているかのように目が欄々としているのとがおかしくて、

「まあ、ちょっと待てよ」

 と笑いながら箱を開けた。


「幸生」

「待てったら」


 幸生はアイスクリームをみちるのベッドに置き、サイドボードの引き出しからスプーンを取り出し「ほら」と差し出した。


 そしてひょいとみちるを見ると差し出されたスプーンを握り、アイスクリームの1パイントの容器を抱え込みながらじっと幸生を見つめていた。


「どうした?」


 幸生が尋ねると、みちるの手が幸生のシャツの胸に伸びぐいと掴んで自分へと引き寄せた。


 強い力ではなかった。むしろ縋るような弱さだった。かつて花屋の肉体労働で鍛えた健康な力に満ちていた頃とは比べ物にならないほど脆い力で幸生の胸は俄かに痛んだ。


 幸生はその時みちるの手がなにを意味して自分を引き寄せたのかが、目を見て即座に理解できた。


 キスだ。みちるは幸生にアイスクリームと共にキスをねだったのだ。みちるの唇は熱で干涸びていた。


「溶けるから、早く食べろよ」

「うん」


 幸生は椅子にまた座り直した。


 みちるは容器を開けてスプーンを突っ込み、うふふと一人笑いを漏らしながらいかにも嬉しそうに、美味そうにアイスクリームを食べ始めた。


 一口、口に入れたみちるはあたかも歯に沁みるような顔をして「んー」と唸り、唇を真横にぎゅうと引き伸ばしてまたうふふふふと笑った。


「美味い?」

「うん」


 みちるはこくりと頷いて、それから後はもう、うふうふ笑いっぱなしで、強烈な甘さのアイスクリームをすいすいと難なく口に運んだ。


 それは見ていてなんだか不思議な光景だった。もりもり食べ進む割には、あくまでも静かに、ゆるやかに、アイスクリームがみちるへと吸い込まれていくように自然に減っていく。みちるはなんの苦もなくスプーンを口へもっていき、食べる間もいつもと変わらぬ調子で、

「アイスは冷え固まりすぎても駄目なのよ。冷たく凍りつつも滑らかな口どけを味わえる適温と状態があるの」

 とか、

「アイスのキモはやっぱり脂肪分ね」

 と、ひとしきりアイスクリームについて語っていた。


 その間、ほんの十分か十五分。気がつくとアイスクリームは半分以上なくなっていた。


「おい、もういいだろ。いっぺんに食わなくてもいいんだよ。腹壊すから」

「大丈夫、大丈夫」

「なにを根拠に大丈夫なんだよ」

「このぐらいどうってことないよ」

「やめとけ。こういうのは一気食いするようなもんじゃないだろ」

「もうちょっと……」

「駄目だってば」

「だって、今度いつ食べられるか分かんないもん」


 容器を取り上げようとする幸生にみちるは抵抗して、身体でアイスクリームを抱きしめる格好になり幸生に背を向けて最後のあがきとしてせかせかとスプーンを口に運んだ。


 幸生はみちるの言葉に一瞬ぎくりとし、何も言えなくなった。


 みちるは自分の余命を知らない。今度いつ食べられるかというのはアイスクリームがレアな種類であることと、幸生がいつ買ってくれるか分からないという意味だろう。そうであるはずだった。が、今の幸生には内臓を抉り出すほど辛い言葉だった。


 幸生はみちるの肩を掴んで腕ずくでアイスクリームを取り上げた。

「また買ってやるから!」

「あああ……アイス……」

「今日はもうおしまいっ」

 恨めしそうに幸生を睨むその手からスプーンをひったくると、残りを元の箱に戻し、その勢いでしゃっとレールの音をさせてカーテンを開けた。他のベッドの患者や、見舞客などが怪訝そうな顔でチョコレートの匂いをさせている二人を見ていた。


 万事、そんな具合だった。幸生はみちるの為に、即ちみちるの生命の為に食べ物を運んだ。そしてみちるはそれを待っていた。


 晩年になると病院の看護師たちまでもが同情をひやかしでくるみこんで、病床のみちるに、

「あら、神崎さんお待ちかねの彼が来ましたよ」

 と声をかけた。


 死というものがみちるを完全に掌握し、意識が混濁したり、鎮痛剤で眠り続けても幸生は美味い物を運ぶことをやめなかった。


 それはもはやほとんど食事を受け付けなくなったにも関わらず、それでもみちるが例の如く「なにか美味しいもの食べたい」と言うせいだった。


 一体あの情熱はどこからくるのだろうか。幸生は不思議でならなかった。食欲などすでに失われているはずなのに、単なる口癖とも思えない熱っぽさで訴えてくる姿は執念さえ感じられて無視することはできなかった。


 実際、持って行った品が無駄になることも多かった。それこそ最後の一カ月は九割が結局は「禁止されてるのは知ってますが、捨てるのもなんですから」とナースステーションに置いてきた。みちるの為に買ったものをすごすごと自身で持ちかえって食べるのはあまりにもやるせなくて。


 看護師や医師たちも当初はひどく困惑していたが、みちるの余命と幸生の献身に折れて、素直に「これ、前にテレビで紹介されてましたよね」「これ、すごい人気で並ばないと買えないんでしょう」と言って幸生の持って来る品々を断らずに受け取ってくれた。


 もう残すところあとわずか。数日のうちには……という時になっても、幸生はみちるの枕辺に特に好きだった菓子や惣菜を運んだ。意識のないみちるに匂いだけでも届けばと思い、そうしていればふと目を覚ますのではないかと願っていた。


 無論、現実はそんなに甘いものではなく、危篤の知らせを受けて急いで駆け付けたが別れの言葉も聞くことはできなかった。


 幸生は通夜にも葬儀にも参列したが、目につくのは祭壇に供えられたお決まりの果物の籠や菊の花で、どれもみちるの好きなものではないのが悲しかった。


 出棺の際、他の参列者と一緒に玄関に並んでみちるを見送る時、幸生は肩をぶるぶる震わせて泣いた。頭の中を「なんか美味しいもの食べたい」という言葉が渦を巻いて離れず、棺の中にみちるの好きなものがなにも入っていなかったのが泣けてしょうがなかった。みちるの死を嘆くことよりも、みちるの為にしてやれなかった数々のことが自分を責め立て、唇を噛みしめて嗚咽が漏れるのをこらえた。


 その日から、幸生の生活からは一切の食欲が失われていった。


 みちるを失った今、幸生はもう「えん屋」へ行くこともしなくなり、食べることへの興味もなく、なにもかもがどうでもよかった。


 そんなことはみちるが絶対に許すはずのないことだったけれど、なにを食べたいとも食べようとも思えず、朝はパンを齧り、昼は社員食堂で定食を食べ、夜は駅で立ち食い蕎麦を啜って帰宅した。


 しかし不思議なことに食べたいと思う気持ちはないのに人間の体の生理というべきか空腹は常に感じていて、食べても食べても満たされなかった。


 まるで腹の中にブラックホールができたようだった。熱いも美味いもなく、ごおごおと食べ物が吸い込まれていき、無限に膨張し続ける。満腹中枢がおかしいとさえ思う。けれど、過食症のように嘔吐をしたりすることはない。食べたものは全部自分の中に取り込まれてしまう。それでも充実感はないし、充足感もない。ただ「食べた」というだけで、何も感じない。みちるがもうどこにもいないという冗談みたいな現実が自分の身体を薄い膜で覆っている。そんな気分だった。


 覚悟はできていたはずなのに。いずれ来る日であったというのに。幸生の心は不甲斐なかった。

 覚悟も決心もなんの役にも立ちはしない。十分、想像できたことだったのに、幸生はその想像以上の悲しさに晒されているだけにすぎなかった。


 幸生は少しずつ痩せていった。みちるが病気で痩せ始めた時のように。食べても痩せるという現象をみちるは「お腹に虫でもいるのかしらね」とふざけたものだが、本当にいくら食べても幸生は太ることがなく、頬がこけてげっそりと眼窩が落ちくぼみはじめた。腫れぼったい瞼は夜毎布団の中で泣いてしまうせいなのは分かっていた。


 初七日がすぎ、四十九日がきても悲しみが癒えることはなかった。むしろみちるの存在が心の中で大きくなるようだった。


 そんなある日のことだった。


 会社に行こうと仕度している気忙しい朝。スーツの内ポケットに入れた携帯電話がぶるぶると震えた。


 幸生は玄関で靴を履き、部屋を出てから、歩く道すがらおもむろに携帯電話を取り出して着信を確かめた。


 その瞬間、思わず「ええ?!」と声をあげて立ち止まってしまった。


 通勤途中の道行く人が幾人も幸生を振り返った。幸生は信じられない気持ちで大きく目を見開き、携帯電話の画面を見つめていた。そこにはなんと信じられないことにみちるからのメールが届いていた。


「先日のお通夜とお葬式、お疲れ様でした。今まで色々とありがとう。ゆっくりお礼を言う暇もなくてごめんなさい。つきましては、お詫びというわけでもないのですがル・コントに席を取りました。金曜の七時。直接お店で待っています」


 文面を読み終わっても幸生にはなにがなんだか訳が分からなかった。メールはみちるの携帯電話のアドレスから送信されている。


 みちるの死後、携帯電話をどうしたのかまでは幸生は知らない。告別式の知らせを出す為に、みちるの両親に乞われて携帯電話から友人や知人の住所や電話番号、メールアドレスを見たけれど、無論電話はその場でみちるの両親が持っていったし、その後は携帯電話どころではなかった。


 それに幸生はみちるの携帯電話のことなどすっかり忘れていたし、自分の携帯電話のメモリから消すはずもないのだからそのままになっていて当たり前だが、だからといって今日までメールが来たことはない。いや、来るはずがないのだ。みちるは死んでいるのだから。


 そう思うと、幸生は携帯電話をポケットに入れて再び歩き始めた。


 きっとこれはみちるの両親が送ってきたに違いない。彼らは幸生の電話番号は知ってもメールアドレスなど知りはしない。だからみちるの携帯電話からメールで……。幸生はふと思い立って今一度携帯電話を取り出して、手早く返信を打った。


「どういたしまして。お役に立てず恐縮です。それに、お心遣いありがとうございます」


 ……断ろうか。微かに脳裏を迷いがよぎる。みちるの両親と会って、みちるの思い出話しをするのはせつないことだし、泣かない自信もなかった。


 ル・コントというのは二人でよく出かけた気に入りのフランス料理店で、堅苦しすぎない雰囲気と季節感のある料理がみちるには馴染むらしく、事あるごとに訪れた場所だった。


 幸生はさらに歩くスピードを上げる。電車に乗り遅れない為に。最後の一文を打ちこむと、送信ボタンを押して携帯電話をまたポケットへ入れた。

「それでは金曜日に」

 人ゴミの改札を抜けて、電車に乗り込む。


 みちるの両親にしてみれば娘の恋人に対する礼心と同時に、何か話したいこともあるのかもしれない。みちるのことで。そうならば幸生にもその気持ちは理解できた。


 彼にも友達はいるし、みちるとの共通の知人だっている。今、彼らに会えば誰もが一様に幸生を労り、慰めて、優しくしてくれるだろう。それは確かに幸生の心を温めるに違いない。でも、それだけだ。


 誰も幸生の気持ちを本当に理解できるはずがないし、かといって話したところで「分かるよ」とも言われたくなかった。この痛烈な孤独と喪失感。途方もなく長い夜のこと。砂を噛むような日々が誰に分かるというのか。そもそもこの気持ちを言葉にすることなどできはしない。言葉にすればするほど、思う事からは遠くかけ離れていくようで、まるで砂漠の蜃気楼にように鮮明でありながら遠い感情なのだ。


 しかし、幸生はこうも思った。長い交際期間を経て、歩み寄り、確かめ合ったみちる。本当に自分の気持ちが分かるとしたら、それはみちる本人に決まっている。おかしなことだけれど、幸生はみちるだけが今の自分を理解してくれると思った。


そのみちるがいないということ。幸生は電車の車窓から外を眺めながら、涙ぐみそうになるのを朝日の眩しさのせいにして眉間に皺を寄せてむっつりとした表情で電車に揺られていた。


 而して、金曜はすぐにやってきた。


 幸生は仕事を早めに切り上げて、ル・コントに急いだ。ひどく冷え込む夜で、幸生はスーツの上から紺色のダッフルコートを着ていた。


 寒い季節の方が食欲が増すとみちるが言っていたことを幸生は思い出していた。季節としては夏の方が好きだけれど、食べることが楽しいのは冬。寒さをやりすごす為には沢山食べないといけないから、これは動物的な本能なのだと言って、冬だけは太ったのダイエットだのとは一言も言わなかった。


 みちるは食べることに命がけだっただけあって、決してモデル並みにスマートというわけではなく、つくべきところに脂肪がついていた。それなりにスタイルに気を使う側面もあったけれど、痩せることや容姿の美醜よりも食欲が上回っていた。


 幸生は冬になってちょっとばかり体重を増やすみちるが実は好きだった。なにもそれは太った女が好きだということではなく、全体的につやつやと脂肪をのせたみちるはふくふくとして、触れれば柔らかくて女らしい色気があった。太れば自然と大きくなる乳房も、腰のまわりの綺麗な肉付きも幸生にはただただ女性的で、官能的である以前に神秘的で神々しくさえあった。


 だからというのではないが幸生自身は冬が好きだった。寒さから身を守る為にする防寒には奇妙な充実感があったし、身を切るような北風も凛として気持ちがいいと思えることもある。空気が冷えれば冷えるほど、みちるとつなぐ手は温かかったことが懐かしかった。


 ル・コントは昔ながらの古びた建築物がまだ大事に残された区域の一画にあり、そのせいかちょっとクラシックな雰囲気を漂わせる落ち着いた店だった。


 入口には数段のステップがあり、中に入ると焦げ茶色のカウンターを備えたウェイティングバー、その奥は白いクロスのかかったテーブル席。幸生は店に入ると「神埼の名前で予約がしてあると思うんですが」と出迎えてくれた店員に尋ねた。

「はい、承っております」

 店員は頷いて幸生からコートと鞄を受け取った。店の奥から顔馴染みの店長が出てきて、幸生を見るとこれも笑顔で、

「いらっしゃいませ。お久しぶりでございますね」

 と挨拶をした。

「こんばんは」

「今日は冷えますね」

「ええ、本当に」


 幸生はさっと店内に目をやった。まだみちるの両親は来ていない。時計を見ると時刻は丁度約束の時間を指していた。


 みちると待ち合わせをする時はいつもカウンターで飲みながらお互いを待ったものだ。幸生はそのことを思い出して微かな痛みを感じつつテーブルへと案内してもらった。


 が、案内された幸生は「おや」と足を止めて、

「予約、三人じゃなかったですか」

 二人掛けの用意がされたテーブルの前で店長を振り返った。


 すると店長はポケットからさっと手帳を取り出すとぱらりとめくり、すぐに、

「いえ、お二人で窺っておりますが……」

 と答えて言った。


 二人。幸生は困惑を覚えた。では、どちらが来るのだろう。父親か、母親か。


 店長が怪訝な顔をしているので、幸生は慌てて「ああ、そうですか。すみません。どうも」と席に着いた。


 今からでも電話で確認しようか……。幸生は内ポケットの携帯電話をそっと押えた。


 店内には若いカップルや仕事帰りと思しきOL二人組などがちらほらと入っていて、それぞれメニューを開いて見ているところだった。


 初めてみちるとここへ来た時、自分は緊張していたし、食べつけないフランス料理に気後れしていたせいもあってパンばかりお代わりしてしまった。食べていなければ間が持たないような気がしたのだ。それに対してみちるはさすがの食道楽で、料理やワインを選ぶ姿からして堂に入って落ち着いていた。


 幸生の視線の先にいる恋人たち。彼らもきっと同じだろう。無論、幸生よりずっと若い。でも、その緊張はひしひしと伝わってくるし、相手の女の子の落ち着きはらって取り澄ました顔も幸生には見覚えのある光景だった。あれは、かつての自分達だ。幸生はそう思った。


 あの頃はこんな別れがくるとは想像もしなかった。いや、想像などできるはずがないのだ。仮に別れる日がきたにしても、死をもってする結末など誰が考えるだろう。みちるの死は早すぎるという言葉で言う以上に、早すぎた。


 幸生はぼんやりと窓の外に目をやった。暗い街並みに街路樹のイチョウの葉が風に舞い飛んでいるのが、時折走る車のライトに照らし出される。今夜はますます長い夜になりそうな予感がしていた。

 十五分も待っただろうか。店の入り口の扉が開き、店長が「いらっしゃいませ」とにこやかに客を出迎えたので、自然と幸生の視線もそれに連なって入口に向けられた。


 果たしてそこに現れた姿に幸生は度肝を抜かれ飛び上がり、叫んだ。

「みちる!!」

 周囲の客の視線が一斉に幸生に集められた。


 それは驚くなんて生易しいものではなかった。入口で店員にコートを預けているのは間違いなくみちるで、彼女が死んだことも揺るがし難い事実なのだ。幸生は立ち上がったままこちらへまっすぐにやってくるみちるを凝視するより他に言葉もなかった。


 みちるはそんな幸生の姿に苦笑いしながら、先ほどから不審そうに幸生を見守っている人々に軽く会釈をした。


「いやあね、そんな大きな声だして」

 みちるだ。幸生は信じられない気持でいっぱいだったが、その第一声によっていきなり確信した。

「遅くなってごめんね。だいぶ待った?」

 そう言いながらみちるは自然な調子で椅子を引いて腰かけた。そして、まだ馬鹿みたいに突っ立っている幸生に、

「座りなよ」

 と促した。


 みちるはチャコールグレイのツイードのスーツに同色のツイードのハイヒールを履き、真珠のネックレスをしていた。いずれもみちるの一張羅であり、お気に入りのものだった。


 店長がメニューを持ってくるとみちるはそれを受け取り、笑顔で挨拶をして今日のおすすめを尋ねた。


 なにもかもが自然だった。自然すぎて怖いぐらいに。幸生は目の前にいるのがみちるであることの不可解で恐ろしい現象よりも、みちるが生前と同じ振る舞いをすることの方が受け入れ難かった。


「幸生、なに飲む?」

「えっ?」


 問われて幸生は初めて我に返った。

「待たせちゃったし、呼びつけちゃったから、今日は私が御馳走するからさ。なんでも好きな物頼んでよ」

「……」

「今日寒いから、ホットワインでも貰おうか? それとも食前酒になにか飲もうか」

「……みちるはなに飲む?」

「うーん、まずシェリーかな。アモンティリャード、ありましたよね?」

 みちるは店長に向かって言った。

「……同じものを」


 これまでにこの店で何度食事をしただろう。みちると何回ぐらいこの酒を飲んだだろう。その時々でいろんな話をしたし、今でもはっきりと思い出せることだってある。しかし今は何を話せばいいのかまるで分からなかった。


 運ばれてきたシェリー酒は華奢なグラスで、みちるは細い首をのけぞらせて美味しそうにグラスを傾けた。


 死を迎えるまでの間に痩せ衰えていたにも関わらず目の前にいるみちるはかつて健康だった頃の姿をしていて、化粧の加減もあるのだろうがふっくらした頬はほんのりと明るい色に染まっていた。


「ごめん、驚かせて」


 グラスをテーブルに置くとみちるは素直に謝った。

「怒ってるの?」

 みちるは顔色を窺うように上目づかいに幸生を見つめた。

「いや。びっくりしてる」

 幸生は初めてまともにみちるに言葉を返した。するとほっとしたようにみちるは息をつき、

「そりゃあそうだよね」

「あのメール、なんだよ。俺、てっきりお父さんとお母さんが招待してくれたんだと思ったよ」

「だってああいう風に書かないと来ないような気がしたんだもん」


 シェリー酒のグラスを前にみちるはメニューを開いた。生前同様に文字を拾う目が嬉しそうに輝き始める。


「ああ、カキがあるよ。カキ食べようかな。タラの白子、これもいいなあ。メインは何にしよう? 鴨か仔羊か……。ああ、鹿も鳩もある。こっちも捨てがたい」


 死んでも食欲はあるのか……。幸生は不意に笑いだしたいような衝動に駆られた。


 痛み止めを打たれて眠りっぱなしで、持続点滴で生命を維持させた最後の日々。目を覚ましてもみちるはもう何も欲しがりはしなかった。幸生はみちるが死ぬことは最初から知っていた。けれど、みちるがもう何も食べられなくなった時に初めて、みちるの死を具体的な現実として受け止めた。


 それまではまだ心のどこかに希望……というか、願望があったのだろう。もしくは、残された時間がまだあるような気がしていたのだと思う。現実を知っていながら否定したい気持ちはそのままみちるへの恋情だった。


 食べることが好きでたまらなかったみちるが何も食べなくなったことが、どれだけ幸生を傷つけていただろうか。みちるの衰えがそのまま幸生を絶望へと浚っていたことを、みちるは知らない。


 それなのに。死んだみちるが旺盛な食欲を見せるのは皮肉なことだったし、狂おしいほどの愛しさを募らせる。


「生牡蠣のシャンパンジュレ仕立て。これで白ワイン飲もう」

「うん、美味そうだな」


 続いて前菜にたらばがにと野菜のタルト、オニオングラタンスープ、鳩のロースト赤ワインソース。幸生はタラの白子のポワレ、オニオングラタンスープ、鹿ロースのステーキ。


 ぱたんとメニューを閉じて店長に返しながら、みちるはにっこりと微笑んだ。注文をメモしているからには、彼にも無論みちるの姿が見えているのだろう。恐らくはこの店の中のすべての人にみちるの姿は視認されているに違いない。それは即ち、みちるの姿が幸生にしか見えないゴースト的なものや幻覚の類ではないということ。と同時に、彼女の死を知るのも幸生だけということだった。


 シェリー酒のグラスが下げられて白ワインと牡蠣が出された。みちるは殻付きの生牡蠣の上にかけられた透明なシャンパンの柔らかいゼリーのふるふると打ち震える様に歓声をあげた。


「美味しそう! 牡蠣食べるの久しぶりだね」


 牡蠣にはゼリーの他にグリーンのソースがかかったものもあり、何かと尋ねるとクレソンとセルフィーユのクーリだと店員が答えた。幸生にはそれがなにかは分かりかねたので、みちるの方を見やった。


「ハーブをミキサーにかけたようなもんだよ」

「ああ、なるほどね」


 幸生は牡蠣に手を伸ばし、殻を一つつまみあげた。潮の匂いと華やかな葡萄の香りが鼻先をくすぐる。


 殻から身をすするように喉に流し込むと、冷たさが食前酒で温められた胃袋に心地よい刺激を与えた。


「うん、美味しい」


 みちるは納得するように頷きながら牡蠣を食べ、白ワインを口に運んだ。

「なあ、みちる」

「なに?」

「お前、なんでここにいるの?」

「いちゃ悪い?」

「悪いとかじゃなくて。なんでかって聞いてんの」

「心残りがあったのよ」


 二つ目の牡蠣を取る。

「いろいろとね、あるのよ」


 幸生はみちるが余命宣告をされなかったことを暗に非難しているのかと思い、申し訳なさそうにうなだれた。


 告知を避けたのは、みちるの両親の意向だった。彼らにとってみちるは何歳になろうとも「子供」であることに変わりはなく、すでに十分成長し大人になって分別のある人格に育っていても自分達が守るべき小さなものだと考えていた。すべての痛みから、恐怖から、遠ざけてやりたいと。


 親ならば当然の考えだったかもしれない。みちるに限ったことではなく、人は誰でも死を前にして冷静でいることは難しい。死の受容への過程は五段階。第一段階は否認と孤立。運命を、事実を否定する。第二に怒り。なぜ自分が死ななければならないのか、その問いに答えのあるはずもなく、ただ怒りだけが浮き彫りにされる。第三は取引。死を認識すると今度はそれを回避する可能性を模索したり、条件付けをすることで死の受容を考え始める。ピラミッドに登れたら死んでもいいとか、または財産をすべて寄付するから死なないようにしてほしいとかが「取引」だ。第四は抑鬱。どんなことをしても逃れられない運命。なんの希望もない状態。果てしなく深い絶望は猛烈な落ち込みを連れてくる。そうして最後に訪れるのが「受容」だ。暗澹とした状態の中から何かを悟るのだろう。恐らくそれは諦観だとか、自然の摂理を理解することだとか、もと宗教的なことかもしれないし、スピリチュアルなことかもしれない。人によってさまざまだろう。


 この過程は誰も避けることができないという。なるほど、そうかもしれないと幸生は思う。しかし、この過程を通って果たして本当に誰もが最終的な段階へ辿りつけるのだろうか。最期まで自分の死を「受容」できない人だっているだろう。即ち、本当に最期の最期まで嘆き、もがき苦しみながら死ぬ人もいるのではないかということ。それを思えばみちるの両親が告知を避けたのも理解できる。彼らはみちるを親という目線から、到底、精神的な苦痛には耐えられまいと判断したのだ。と、同時に、仮に耐えられたとしてもみちるに残された時間から逆算した時、本当の意味で「時間がなかった」のだ。


その選択が正しいとか間違いだとかは言えない。ただ幸生の立場からは出過ぎたことは言えなかったのだけれど、教えておいた方がみちるの為だと思っていた。


 幸生の目から見えていたみちるは自分というものを相当しっかりと確立した理知的な女で、確かに人としての弱さも情けなさも、わがままさだって持ち合わせていたけれど、きっと最後は持ち前の聡明さと冷静さで運命を受け入れるだろうと信じていた。


 いや、受け入れられなかったとしても、幸生は自分がいるのだからきっと彼女を受け止めてやれると思っていたのだ。


 どんな苦境に落ち込もうとも、自分はみちるを支えてやるのだという決意があった。その気持ちは今も変わらない。


「心残りって、なに?」


 幸生は尋ねた。みちるが告知を避けたことを責めるなら、責めればいいと思った。文句を言うことがあるのなら全部言ってほしかった。


「だって、私、全然身辺整理できなかったんだもん」


 そう言うとみちるはさっと片手をあげて、いつの間にか空になったグラスを示しおかわりと頼んだ。


 機嫌のいい時のみちるは酒を飲むペースが早いのだ。幸生は自分のグラスにまだ半分かた残っているワインにそっと口をつけた。


「遺言も残せなかった」

「意識なかったんだからしょうがないだろ」

「そうだよ。でも、そうなるの分かってたんならもっと前に書き残すことだってできたじゃない」

「それはまあ、そうだけど」

「まあ、幸生に文句言ってもしょうがないけど」

「ちなみにその遺言っていうのは?」


 牡蠣の皿が下げられて、次の皿が運ばれてきた。みちるの前にはたらばがにのタルト。香ばしく焼けていい匂いが漂っている。幸生にはタラの白子。焦げ目がついていて、これも美味そうな匂いを放っていた。


「ねえ、一口ちょうだい」

 みちるが早速タラの白子を要求した。

「ん」

 幸生がナイフをいれると白子はとろりとしてクリームのように流れてしまいそうな危うさがあり、フォークですくうようにしてみちるへと差し出した。

「熱いよ」

 幸生が注意を促す。

「うん」

 みちるはフォークの先の白子を口で迎えにいき「あつあつ」と唇を喘がせて咀嚼し、嬉しそうに、

「美味しい!」

 と言った。


 幸生も料理を口に運び始めた。焦がしバターのかかった付け合わせの温野菜も甘みがあって美味しかった。みちるはタルトを切ると、幸生の皿の端に一切れ乗せた。


「こっちも美味しいよ」

「ありがとう」

「美味しいもの食べるの久しぶりな気がする」

「病院じゃあどうしてもなあ」

「うん。それに、お葬式の時のあれ、なあに?」

「お供えのこと? あれはしょうがないよ。お決まりっていうか、勝手にあれこれできないし、宗教的に駄目なものもあるし……。俺としてはもっとみちるの好きなものとか棺桶にもいれてやりたかったんだけど、今は火葬の関係でなんでもいれたら駄目なんだって。なにかと現代式になってるんだよな」

「ううん、そうじゃなくて」

「え? なに?」


 みちるの皿のタルトがさくさくとした欠片でいっぱいになる。みちるはそれを丹念にかき集めて食べている。


「お供えの果物とかそういうのはこの際しょうがないの分かってる。お花だって菊や胡蝶蘭で、私、全然嬉しくなかった。どっちも好きじゃないんだもの。せめてマーガレットぐらいにしてくれたらいいのにと思ったよ。でもねえ、そんなことよりも一番気になったのはねえ……」

「うん?」

「精進落としの幕の内!」

「ええっ?」


 俄かにみちるは声を大きくした。が、目はおかしそうに笑っていて、幸生の目をまっすぐに見つめていた。


「仕出し屋さんだか、葬儀場だかが用意するやつ。よくもあんなまずいものを私の葬式で……」

「……」

「あんなもん出すなんて、来てくれた人に悪いじゃない。私の為に集まってもらって、あれじゃあねえ。もっと他になんかなかったの?」

「……あれはそういうもんだから……。来た人もメシ食いに来たわけじゃないんだから仕方ないよ」

 幸生は心の中で「残された者はそれどころじゃなかったんだよ」と思ったけれど、黙ってみちるの話しを聞いていた。

「斎場でも待ってる時におにぎりが出たの。でも、それもいかにもまずそうだったわ」

「あそこでどんな上等なおにぎりが出ても、誰も美味いとは思わないと思うよ」

「……それもそうか……。けど、葬式饅頭。あれもねえ、他になかったの?」

「そんなん配ってたっけ?」

「来た人に渡すじゃない」

「俺は貰わなかったなあ」

「貰わなくていいよ。まずいから」

「それじゃあ、みちるは葬式に何を出せばよかったわけ?」


 よもやそんなことを言うとは想像だにしなかった。死んだ人間がその葬式に参列する人の食べるものまで気にかけるなんて。食欲など失われ、忘れ去られているような場だというのに。自分の死というものはそんなにも客観的なものなのだろうか。


 わずかにみちるは考え込むような素振りをし、言った。

「ビュッフェにしてほしかった」

「は?」

「例えば、こう、お庭にテーブルを出して……。カクテルとか飲みながら……」

「それは葬式じゃなくてガーデンパーティーだろ……」

「分かってるよ。でも、そういう雰囲気がよかったの。みんな綺麗な服着て、賑やかにお喋りしながら私の思い出を語り合うの」

「……法事ならともかく、葬式では笑えないと思うけど……」

「斎場で食べるならおにぎりでもいいけど、もっとお米は上手に炊いて、上手に握ってもらいたい。本当に美味しいおにぎりはお鮨と同じぐらい難しいのよ」

「職人雇うとか言うんじゃないだろうな」

「それもいいわね」

「そんならお茶もいいお茶を丁寧に入れてもらいたいよな」

「そうだよ。あんなまずいお茶、なによ。ああ、それから饅頭ね。別に饅頭じゃなくてもいいんじゃないの? なんでいつも饅頭なの? 和菓子でなきゃいけないんなら、虎屋の落雁とか、もっと洒落たものがあるでしょ。それか洋菓子でもいいなら絶対マカロン」


 落雁もマカロンもみちるの好きな菓子だった。

死んだ本人は、残された者がどれほど自分を愛しいていたか知らない。その嘆きを、痛みを。今、この瞬間も幸生はみちるの言葉に泣きそうだった。当たり前に現れていつもの通りに食事をし、笑っている。


「そこまで考えてたんなら確かに一筆書いておくべきだったな」

「それだけじゃあないのよ、心残りは」

「……」


 前菜が片付くと、ぐつぐつと煮えたぎるオニオングラタンスープが出された。店長が「熱いから気をつけて」と注意してくれる。


 これも玉ねぎの甘い匂いが漂い、さらに溶けだしたグリエールチーズが独特の匂いを放っている。


 みちるはすでにスプーンを握って、スープの上に浮かべられたカナッペをじわじわとスープに漬け込んでいる。このスープはカリッと焼けたカナッペを再び麩のように水分を吸わせてはふはふ言いながら食べるのが美味い食べ方なのだ。


「私の遺品」

「うん」

「親が整理するんだろうけど」

「だろうな」

「どうするのかな」

「……どうって? 形見分けをどうするかってこと?」

「うん」

「俺からそれとなく伝えてみようか?」


 聞いたところで伝えるのは難しい伝言だったけれど、文字通り「故人の遺志を尊重」するのが残された者の使命なら、やはりできることはしてやりたかった。


 みちるは熱いスープにふうふう息を吹きかけながら口に運び、

「あったまるね」

 と言った。


「それで、なにを誰に渡したいって?」

「あのね、まずマーガレットハウエルのワンピース」

「……メモっていい?」


 幸生はのっけからとても覚えられそうにない長い名前に苦笑いした。女は横文字を覚えるのが得意だ。人の名前もブランドネームも、洋服のデザインも模様も。すらすらと口から出るのは「こだわり」とかいうものであることに違いはないが、聞いているこちらにしてみれば「呪文」のようにしか聞こえない場合もしばしばあった。


「それじゃあ私が自分で書くわ」

 みちるはさっと手をあげて店員を呼ぶと、紙とペンを借りた。


「まさに遺言状だな」

「まあね。でも弁護士立ててるわけじゃないから法的な力はないかもね」

「一応それは俺が預かってたことにするけど、金のこととか書くなよ」

「書かないわよ、そんなの。だいたいなによ、その金のことっていうのは」

「貯金の分配とか」

「そんな大層な貯金があるわけないでしょう」


 スプーンとペンを交互に持ち替えながらみちるは次々とメモに走り書きしていく。ワンピースは従妹に、アクセサリーは女友達に、レコードは男友達に。誰に何をというのをみちるはよほど前もって考えていたのだろう。その手は淀みなく、迷いなくメモを埋めていく。


 書きながら、

「なんでお金のこと書いちゃいけないの」

「俺が指図したと思われたくないから」

「なるほどね」

 幸生はみちるが将来花屋を独立開業する為にこつこつ貯金しているのを知っていた。だからそれをここで触れられると、自分がなにか工作を働いたり、悪事を企んでいると思われかねないと思ったのだ。


 みちるにとって公明正大な真実の恋人であること。そう思われたくて、幸生はみちるの親にも礼を尽くしてきたのだ。


「幸生にはね、本。画集も洋書も全部幸生にあげる」

「……ありがとう」

「それからこれはあげるというより、ぜひ貰ってほしいというか……」

「なに?」

「私の部屋の植木。家に置いといてもいいんだけど……幸生が貰ってくれると嬉しいな」

「俺そういうの育てる自信ないよ」

「ううん。幸生は大丈夫。優しいし、真面目だもん。育てられるよ。園芸の本も植物図鑑もあるし」

「……」

「いらない?」


 空になったスープの器を前に、幸生は椅子の背にずるずるともたれかかった。


 健康だったみちるが一人で暮らしていた部屋にはいたるところに植物があった。病気が発覚し部屋を引き払って実家に戻る時、それらの多くは処分したり人に譲ったりして、幸生もそれを運ぶのを手伝った。鉢植えの一つ一つがみちるには大切なものだったのを幸生は知っている。


「みちる」

「なあに」

「形見に本くれるのは嬉しいよ。でも、植木は正直言って欲しくない。少なくとも俺は欲しくないよ」

「……」

「だって植物は生きてるじゃないか」

「……」

「なのにお前はもう死んでるのに。なんかそれはすごくつらい。枯らしちゃったら余計に。俺はこれ以上みちるを失いたくない……」


 店員が皿を片づけに来た。二人の不穏な空気に割り込んで。


 みちるはメモを折りたたむと幸生に差し出した。幸生も素直に受け取った。


 肉の皿が運ばれてきたのでみちるは赤ワインを頼み、じっと皿の上の料理を見つめていた。なにを考えているのか、幸生にはさっぱり分からなかった。

 が、おもむろにみちるはナイフとフォークを取り上げ、口角をきゅうっと引き上げて笑いながら皮のぱりぱりに焼けた小ぶりな鳩の丸焼きにぐっさりとナイフを入れた。


「幸生はなにも失わないよ」

「……」


 切り開かれた鳩の腹の中からは黒米や栗が出てきて、ほくほくと湯気を立てている。それを見て幸生は図らずもごくりと唾を呑んだ。


「枯れてもいいじゃない。私だって死んだんだし。永遠は存在しないってことでしょう」

「そんなこと分かってるよ。でも、そんな早く死ぬなよ」

「それは悪いと思ってる。……食べる?」

 みちるはフォークに肉を突き刺して幸生に差し出した。

「うん」


 幸生も当然のようにそれを受けて、みちるの手から柔らかくて甘いソースのかかった肉片を口で迎えた。


「美味しいでしょ?」

「うん、美味い」

「幸生」

「……」

「私、幸生が来るの毎日待ってたよ」

「……」

「幸生だけが私を満たしてくれるから」

「食い物配達係だからな」

「それだけじゃないのよ」

「……」

「私、知ってるの。幸生が私の為に色々持って来てくれるのは、私を好きでいてくれてるからだってこと」

「そりゃあまあ」

「それが一番嬉しかった。でも私は幸生に何も返せなかったし、その上、結局死んでしまった」

「……」

「一口ちょうだい」


 今度はみちるの手が伸びてきて幸生の皿から鹿肉を切り取って持っていった。

「美味しいね」

 咀嚼するみちるの口元が脂に濡れて光っている。


赤ワインを啜ると、さらにみちるは続けた。

「私、なにかしたいのよ。幸生になにかしてあげたいの。幸生がしてくれた分だけ、私だって同じ気持ちを返したいの」

「……」

「だから会いに来たの」

「……」

「好きだったの。本当に」

「過去形で言うなよ!」


 この二人の会話は周囲の客にはもしや別れ話に聞こえたかもしれない。咄嗟に声を荒げた幸生はみちるを睨んだ。


 怒っているわけではなかった。ただ悲しくて、不毛で、やりきれないだけで、しかもそれが全部みちるのせいではないのも分かっていてたまらない気持だった。


「私たち、すっごく仲良しで、すっごく愛し合ってたよね」

「今も。今もだろ」

「うん、そうだね」

「……だったら死ぬなよ」

「ごめん。ねえ、さっきも言ったでしょう。幸生はなにも失わないって」

「それってあれか? 俺の心に生き続けるとかクサいこと言うつもりじゃあ……」

「そんなわけないでしょ。身体がないと恋愛なんてできないんだから」

「……」

「私が幸生を失ったんだよ。だって私の身体もうないもん。でも幸生は生きてるから何も失わない。そこに私がいないっていうだけ」

「それが一番イタイんだろ」

「……もっと一緒にいたかったね」

「……」

「もっと一緒に美味しいものもたくさん食べたかった」

「……みちる、他に俺に頼んでおくことないか?」

「お墓参りに来ることがあったら、チョコレート持って来て」

「分かった」


 パンで皿のソースを丹念に拭って食べながら、次第に満腹になるうちにあれほど寒くて冷えていた心も体も温まり、この途方もない絶望的な会食が今はもうさほど辛いとは思わなくなっていた。むしろ今一度みちるに会えたことを良かったと思っていた。死んだはずの人間が目の前にいるという不条理さはさておき。これが夢であっても、もしや実は一人で独り言を言いながら食事をしているのであっても、幽霊でも、そんなことはまるで問題ではなくて、料理が美味くてみちるが幸生を好きだということを確認できたことだけが救いだった。


 デザートを食べ、エスプレッソを飲み、食後酒を頼むとすっかり満足して、みちるも大きくため息を吐きながら、

「スカートがきついわ。食べすぎた」

 とお腹のあたりをさすってみせた。


 幸生は念のために尋ねた。

「もう会えないのか?」

「……うん」

「お盆は? お盆には帰ってくるんだろ?」

「あれは実家に帰るものだから」

「俺んとこにも帰ってこいよ」

「だから、もう身体がないんだから無理だってば。今日のは特別だよ。最初で最後だよ」

 二人は互いの顔をじっと見つめあった。


 こうして美味しいものを食べて、語り合い、見つめあうことがどれだけ幸福だったことか。果たして、これまでも二人は知っていただろうか。


 食事を終えるとみちるは支払いをしようとする幸生を押しとどめて、自分の財布からカードを取り出して会計をした。幸生はカードがまだ使えることに驚いた。


 店長がみちるにコートを着せかけてくれ、みちるはそれに笑顔で礼を言った。店長も常連客である二人に、

「ありがとうございました。来週から紅玉のタルトや洋梨の赤ワイン煮もご用意できますから。お好きでしたよね?」

「そうそう、紅玉のタルト。熱いやつにアイスクリームを添えるの美味しいんですよねえ」

「お待ちしておりますよ」

「ええ、ありがとう。ごちそうさまでした」


 店の扉を開けると酔いも吹き飛ぶような冷たい空気が頬を差した。


 丁寧に送り出されながら幸生は、

「待ってるってさ」

 と、みちるに囁いた。

「みんな誰かを待ってるのよ」

 鼻先で微かに笑いながら、みちるの手が幸生の手を捕らえた。


 いつもそうであったように二人は手をつないで歩き始めた。


 幸生はもういっそこのまま「連れて行かれて」もいいと思った。みちるのいない世界でこれから一人で食べて、生きていくのはとてつもなく困難に思える。実際、みちるの死から今日までなにを食べても味がしなかった。


 でも今日は。今日は違ったのだ。みちるがいるから、美味しく食べられた。こんなにも悲しくて泣きそうなのに、やはり美味いものは美味かった。一瞬そのことに自分を世俗的で薄情に感じて罪悪感がよぎったけれど、それは間違いだとすぐに気付いた。みちるだ。すべてはみちるがいるから。好きな人がいるから、美味しかったのだ。


 生きて行くこと。食べること。そして人を好きになること。それらがすべて絡まりあって一つの道を作っているのだ。幸生はみちるの手を強く握りしめた。


「駅まで送るね」


 みちるは北風に髪をなぶられながら、まっすぐ前を向いて言った。

「みちるはどこ行くんだよ」

「どこって……決まってるでしょ」


 決まっていると言われても幸生にはそれがどこかは分かりかねた。天国なのか、地獄なのか。もっと茫漠としたあの世とかいうものなのか。そこはどんなところで、メシは美味いのか。好きなものはあるのか。花はなにが咲いているのか。質問しだしたら止まらなくなりそうで、聞けなかった。いや、正確には「聞きたくなかった」のかもしれない。辛さより、怖くて。


 駅に着くとみちるは改札まで幸生を送ってくれた。白っぽい照明の下、みちるの顔はワインと料理のおかげかつやつやしく、頬はほんのりと赤くなっていた。


 乗客の行き交う改札口で、幾人もの人が二人の傍を通過していく。

「今日はごちそうさま」

「どういたしまして」

「……」

 幸生はぺこりと頭を下げた。

「来てくれてありがとうね」


 みちるも真似しておどけて頭を下げて見せる。そして互いに笑いあった。みちるが死んでさえいなければこんな光景は当然のものであり、また何度も繰り返した場面だったのだけれど、今はもう言葉の継ぎようがなくて幸生は黙ってみちるを見つめていた。


 するとみちるが不意に大きく両腕を広げたかと思うと、幸生の首に手をまわしぎゅっと抱きついた。


 思わず幸生もみちるを抱きしめる格好になったが、その耳元でみちるが囁いた。

「大好きだよ」

 みちるの声は涙で湿っていた。

「うん……」

「今度は私が待ってるから」

「うん……」


 みちるの身体は生前と同じ重量感で、厚いコートやジャケットに阻まれても懐かしく確かに感じられる「幸生の恋人」の感触だった。


 二人が抱擁を交わしたのはほんの数秒のことだった。みちるは泣いていた。

「でも、そんな早く来なくていいからね」

「……」

「元気で長生きして。私の代わりに美味しいもの沢山食べて」

「……」

「それじゃあ」


 幸生は口を開けば嗚咽と涙が飛び出しそうで、必死で唇を噛みしめ、みちるの言葉にただ頷いた。


 もう一度この腕に抱きしめたら、二度と離れたくなくなってしまう。そのことがみちるにも分かったのだろう。みちるは幸生のコートの胸をそっと押して促した。

「じゃあね」

「……」

「ほら、電車来ちゃう」


 幸生の手はみちるの涙を拭くことさえためらい、とうとう「じゃあ」と片手をあげた。


 みちるも涙をこぼしながら手をあげる。さよならは言わなかった。その代わり奥歯を噛みしめるような顔で手を振った。


 幸生はその手に送られて踵を返し、改札を通り抜けた。もう一度振り向きたくて、その姿を見たくて、でも、振り向いた時には消えているのではと思うと怖くてできなくて、わざと大股で地下鉄のホームへと降りる階段を下りていった。


 みちるの好きだったもの。ボンベイサファイア。シャンパントリュフ。ゴーフル。山羊のチーズ。海老の天ぷら。焼き鳥の肝の生焼けのやつ。大黒正宗。キリンビール。瓦せんべい。アンチョビのピッツァ。宇治金時。きつねうどん。ハモンセラーノ。胡麻豆腐。レバーペースト。サングリア。いちごのショートケーキ。公園の散歩。オールドローズ。チェックのシャツ。キス。幸生。


 幸生はホームまで降りた途端、猛烈な勢いでまた階段を逆戻りして駆け上がった。


 仕事帰りであろう人々が幸生を奇異な目で見たが、そんなことはどうでもよかった。


 待つと言っても一年やそこいらじゃない。きっと何十年も。週末の差しいれを待つのとはわけがちがう。それなら待たなくてもいい。待たせたくない。いっそ今すぐにでも。幸生はそう言ってみちるを抱きしめたかった。


 みちるは「永遠など存在しない」と言った。確かにそうだろう。でもこんな終わりは望んでいない。少なくとも二人はまだ一緒にいられると信じていた。その希望の分だけでも、もう少し、せめて。


 息をきらして駆け上がったコンコースから、改札へ目を走らせると、そこにはもうみちるの姿はなく、家路を急ぐ人々がいるだけだった。


 幸生の目から、涙が一滴流れた。幸生はそれを手の甲でぐいと拭うと、おもむろに口元に持って行き舐めてみた。涙は軽い塩味がしていた。



                          

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待ち人来る(まちびときたる)短編 三村小稲 @maki-novel

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