薄月
江戸川台ルーペ
薄月
始発に乗らなければならなかった。
俺はバッシュやユニフォーム、その他諸々を詰め込んだボストンバッグを肩に担ぐと、家を出た。外はまだ薄暗く、夏だというのに肌寒かった。朝食を特別早く用意しておいてくれた母は「頑張ってきなさい」と言葉少なく、俺を送り出してくれた。「多分、今日は試合に出られるよ」と言うと、少し泣きそうになった。高校生活最後の試合に、俺はこれから向かうのだ。
ずっと補欠だった。
特に強豪校って訳でもない。そもそも俺が始めたきっかけだって、中学時代に友達のコウスケがバスケが得意で、俺にそのやり方を教えてくれたからだった。コウスケは背が高くて朗らかで運動神経が良い。しかも教え方が上手い。性格は違ったけど、ほとんど親友だった。もっとも俺は写真部で、コウスケは帰宅部だった訳で、授業や休み時間を使ってバスケを嗜む程度だった訳だけれど。
俺達は同じ都立高校に入学して、どちらから誘うでもなくバスケ部に入部した。青春がしたかった。入部者は十名程で、部活は総勢四十名程のちょっとした規模になった。
一年の頃は、練習の厳しさに根を上げそうになったが、上達が実感できて楽しかった。だが公式試合には、俺はもちろん、同学年の奴らもただ一人を除いて出場させてもらえなかった。その特別な一人は際立って技術と身長が高く、先輩たちを悠々と超える卓越さを見せつけている、誰もが認めざる得ない「特別」な人間。コウスケの事だ。
奴は一年の中でも特にメキメキと頭角を表していた。同学年の雄。バスケ部の希望。期待のエース。なのに、コウスケは二年生になると突然部活を辞め、吹奏楽部に籍を移した。「チューバの演奏者がいないらしい」と奴は言った。「俺はチューバの演奏が得意だし、本当はバスケより音楽が好きなんだ」
バスケ部は混乱し、大勢が引き止めようと躍起になったが、結局奴は進級と同時にバスケ部からすっかりと姿を消してしまった。後から、初めて出来た吹奏楽部の綺麗な彼女(先輩の部長らしい)の熱烈なラブコールに応えたという噂を聞いた。俺は一人、取り残された。
一度、剣道部を全国大会に送る壮行会で演奏を聴いたことがある。大勢が勢いよく演奏する中で、奴は端っこの方で周囲とは不釣り合いな大きな身体で楽器を抱えていた。伴奏に合わせて頬をパンパンに膨らませて演奏しているようだったが、どれ程耳を傾けてもその音は俺の所までは聴こえて来なかった。周囲の演奏に音をかき消されてしまうのだ。居てもいなくても一緒じゃないか、と俺は思った。どうして「お前だけ」が必要とされるバスケ部を辞めてこんな所に入ったんだ。でも、コウスケは幸せそうに見えた。
二年になると、後輩たちが入ってきた。
部活動において、特にバスケ部は上下関係を重んじなかったが、その代々受け継がれた美しき伝統は軽々と損なわれた。入部した一年生達がふてぶてしく、先輩達にことごとく反抗的な態度を示すようになったのだ。いわゆる、「上をナメる態度」という事だ。
その一年の扇動者は態度こそふてぶてしかったが、バスケの技術は普通に下手だった。自分のダメ加減を隠す為に攻撃的な態度を周囲にアピールしているような臆病者だった。ミスした人間の悪口を聞こえるように言うなど、部内の雰囲気は日に日に刺々しくなっていった。悪口の標的はしばしば俺の時もあったが、心優しい先輩が軽く笑いに変えて取り繕ってくれたおかげで、殴り合いには発展しなかった。先輩は控え室から出る時、「気にすんな」と小さく声を掛けてくれたが、俺は一層惨めな気分になっただけだった。
二年になっても、俺は試合に出場できなかった。扇動者は入学して半年後に学校を辞めた。理由はわからないし、その話題について口にする者はいなかった。
三年になると、対外試合が更に増えた。俺は辛抱強く補欠として在籍していた。技術も、練習量も申し分なかったが、俺より上手い奴が少なくとも5人以上はいたのだ。バスケは5人チームだから、4、5人が潰れなければ出番はない。そして、そんな事態などあろうはずもなかった。
「最後の試合は全員出場させるってよ」
練習が終わった後、隣のロッカーの二年生が着替えながら言った。一度だけ交代要員として出場したが成果を上げられず、それ以降俺と同じくベンチを温め続けていた奴だ。
「ありがたいね、まったく。記念出場ってか」
俺はシャツのボタンを止めながら何も言わなかった。
三年生の中で、一度も試合出場を果たせていない者は俺以外にもう一人いた。異様に色が白く、常に髪型を気にするような奴だった。そいつも俺と同じく、言いようのない屈辱的な気分を抱いている筈だった。移動の際には自然と一緒に行動していたし、その間には不思議な、諦観にも似た仲間意識さえ漂っていたのだ。下手ではない。だが、特別上手くもない。ただ、単に視界に入らない、ガード下の雑草のような俺ら。
「全く、冗談じゃねーよ」
「俺は行かねえ! 辞める!」
乱暴にロッカーの扉を閉めると、更衣室から出て行った。そうして、二度と部室に現れなかった。それ以降、廊下ですれ違う時はまるで違う人間のように、目も合わさず通り過ぎて行った。後から追ってきた風に汗の匂いはなく、きつい制汗剤のものだけが残った。俺はまた、取り残された。
どれくらい時間が経ったのだろう。モノレールが出発して、スピードを上げた。大きなビル群を超え、滑らかな高速道路と並走した。ヘッドライトを点灯させて走る車が染みのように同じ場所にへばりついていたが、やがてモノレールはそこから離れ、車は斜めに小さくなっていった。それからやや明るくなってきた倉庫街を見下ろし、誰もいない電気ばかりが明るい駅を勢いよく通過すると、モノレールは突然物静かな海の上に出た。空はもうすぐ晴れ渡るだろう。俺は雲の合間に、未だ留まり続けている朝の月を見つけた。それがいつからそこにあったのかは分からない。新しい朝と引き換えに、月もやがてその姿を消してしまうだろう。
アナウンスの機械音が次の駅名を告げた。
ふと、引き返そうかと思い付いた。急に自分が惨めに思えたのだ。同時に辛い練習や、いなくなった部員達や、親切な先輩達を思い出した。「頑張れ」と言ってくれた人達を思い出した。眠る前に何度も繰り返し夢想したあの動きを、身体の律動を、体育館に響く特別な歓声と、ネットを揺らす音を思った。交代の名前が呼ばれる。きっとコートから出る奴はハイタッチをしながら「頑張れよ」と俺に言うだろう。恐らく、動ける時間は五分間。俺はそのたった五分間の為だけに、ずっとバスケをやってきたのだろうか。俺はそのハイタッチを交わす時に、一体何を想うのだろう?
結局、俺は試合会場の前に立っていた。
大きな体育館だが、入り口は封鎖されている。
俺は知っていた。世界に疫病が
陽はすっかり登り、朝の静謐な空気が夏を感じさせた。知らない花の匂いと、時折耳元を通り過ぎる羽音がする。今日は暑くなるだろう。俺は念のため入り口の大きなガラスがはめ込まれている扉を引っ張ったが、さっきと同じ冷たい音を立てただけだった。ガラスには俺の顔の輪郭だけが映った。近くの自動販売機でスポーツドリンクを買って、広場のベンチに座って一人で飲んだ。
「今日は中止ですよ」
後ろから声を掛けられた。すっかり声変わりを終えたコウスケの低い声だ。
「知ってるよ」
と俺は言った。
「でも、ここに来ないと夏が始まらねえからさ。2020年の」
「お前はそういうやつだ」
クスクス笑いながら、コウスケが背もたれを乗り越えて俺の隣に乱暴に座った。肩にチューバのドでかいケースを引っ掛けている。俺は何でここにお前がいるのか聞こうと思ったが、やめておいた。
「ずっと練習してたじゃん、中止なのに一人で」
まるで俺の頭の中を読んだかのようにコウスケが言った。
「これは、お前行く気だなって思ったんだよ」
のどかな青い空が広がっていた。東京の空気が綺麗になったのかも知れない。
「試合、出たかったなぁ」
俺は空を仰いで大声で言った。
「泣いてもいいんだぞー」
コウスケが同じ声のトーンで大声で返した。
「馬鹿言ってんじゃねー」
俺は言い返して、ネットからバスケットボールを出してバウンドさせた。建物に反響するやや間抜けた音が遅れて響いた。
「久しぶり、やるか?」
「ゴールもねーし。そういう青春みたいのはノーサンキュー」
コウスケはのんびり言うと、チューバをケースから出して言った。
「俺にはこれがある」
愛おしそうに抱えて、音を鳴らした。
ブッブッブ〜。ブブッ。
低い音がする。
「それ、何の曲?」
「ミスチルの『ヒマワリ』。聴けばわかるだろ?」
「下だけじゃ分からねえよ!」
俺は白けた気分で、ドリブルや、相手のガードをすり抜けて切り込む動きを続けた。シャツに汗が滲んでくる。タイルの地面はボールを普段より勢いよくバウンドさせて、気持ちが良い音を出した。
「なあ!」
俺はしばらく身体を動かした後、演奏を続けるコウスケに声を掛けた。
「俺、ゴールしたって事にしておいてくれよ!」
レミファソラ〜
「どっちだよ!」
ブッブー
「ケチくせえな」
コウスケが子供みたいな笑顔をみせた。
世界には俺達しかいなかった。だから俺は透明なゴールを目指して、ロングシュートを放った。ボールが青い空に浮かぶ太陽と日蝕のように重なって、俺は眩しさに思わず目を閉じた。
やがて、ゴールの網の音。
大きな喝采。
ほんの少しの、涙。
(了)
薄月 江戸川台ルーペ @cosmo0912
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