天上の導

宮守 遥綺

天上の導

 ひゅう、と細い風が吹き抜ける音がした。

 よく聞け、とでも言わんばかりに鳴らされる軍靴の高い音が、耳障りに廊下に響く。


「よう、ソバカス。お前もようやく軍令本部入りか」


 笑いを含んだ低い声を背中からかけられて、クラウス・バルトは眉を顰めた。

 五年前。諜報部の特殊部隊に配属になった際に「もう二度とこの声を聞かなくて済む」と安堵した自分を殴りたくなる。

 聞かなくて良いどころか、これからは毎日顔を合わせることになるのだ。考えただけでで吐き気がする。


「少佐から二階級特進で一気に大佐か。素晴らしいことだな」


 大げさな賞賛の言葉はあまりにも白々しく、クラウスのささくれだった感情を一層鋭くした。

 常日頃、人に相対するときに貼り付ける愛想笑いもどこかに放り投げたまま、クラウスはくるりときびすを返した。これでもかと言うほど高く、鋭く、軍靴のかかとを鳴らしてやる。


「ご無沙汰しております。ディヒラー大佐」


 殊更にゆっくりと告げ慇懃無礼に頭を下げたクラウスに、白の軍服を纏った男――ルーカス・ディヒラーはニヤニヤとした笑みを向けた。


「そうたけるなよ、野良犬」


 深々と下げられたクラウスの後頭部に向かって吐き出された、嘲りの言葉。

 それを聞いた瞬間、クラウスの頭に血がのぼった。


 折り曲げていた体を跳ねるように起こす。

 勢いのまま、思い切り脚を振り上げた。

 脛のあたりに熱い衝撃が走る。

 そのまま、力任せに横薙ぎに振り抜いて、重い熱を吹き飛ばす。


「がっ……」

 

 短い呻きとガツリ、と壁に重いものがぶつかる音。 

 床に倒れた白に、クラウスは容赦なく磨かれた軍靴を落とした。

 いきなりの衝撃に目を丸くするルーカスをクラウスの真っ黒な瞳が睨み付ける。

 ギラギラとした獰猛な目つき。

 力任せに命を刈り取ってしまいそうな動物にも似たその瞳に、ルーカスは笑みを深くした。


「どれだけ俺を睨み付けようが、お前がどこの馬の骨かもわからない野良犬であることは変わらないだろう?」

 

 なお続く嘲りに、しかしクラウスは反論する術を持たなかった。

 ギリギリと奥歯を砕けそうなほどに噛み締めて、それでも何も言えずにいるのは、彼の言ったことが客観的な事実であるからだ。

 無様に床に倒れ踏みつけられているにも関わらず、ルーカスはどこまでも勝者だった。

 戦いにおける勝者は、いつだって恵まれた者だ。

 それは国同士が争う戦争とと同じ。

 より持っているものが多い方が勝つ。それだけだ。

 

 ルーカスは初めから持っていた者だ。

 クラウスは勝ち取ってきた者だ。

 

 持っていないなら自力で手に入れればいい。

 そう思って死に物狂いで努力をしてきた。手に入れるための努力を。生き残るための努力を。そして実際に、手に入れてきた。

 しかし最初から持っていた者とそうでない者との間には、深い深い溝がある。それは周囲の評価であったり、自分の心持ちの問題であったり、様々に形を変えて今でも襲いかかってくるのだ。

 同じ軍の中にいて同じ軍令本部に配属になっても、この先はクラウスの方がずっと辛い道を歩まねばならないだろう。

 それはクラウスが、本来は持たざる者だからだ。

 固く拳を握り黙り込んでしまったクラウスの足下で、ルーカスが短く息を吐いた。


「……どれだけ努力を重ねたところで、お前がスラム育ちのガキだったことは変わらない。過去は、誰にだって変えられない」

 

 低く落ち着いた声だった。

 嘲る色はなりを潜め、それはただクラウスを宥める色だけを乗せている。


「生まれは誰にも選べない。だが、軍の中で上に上がれば上がるほど、その選べない生まれが重要視されることも事実だ。頭がいいだとか、戦術を立てるのが巧いだとか、情報をとってくるのが巧いだとか……そんなことよりも、どこの家の血を引いているのか、そればかりが大切にされる」


 ルーカスの言う通りだった。

 どれだけ無能でも、家柄さえよければ容易く上に上がっていける。

 どれだけ有能でも、後ろ盾のない者はその才を発揮する場すら与えられずに死んでいく。

 クラウスはそのどちらも、掃いて捨てるほど見てきた。

 そのたびになんとも言えない靄のようなものを抱え、未来の自分もそうなってしまうのかと恐怖に駆られた。


「お前は本来なら、一兵卒として一生を前線で終えていただろう。だがお前は、家柄さえも力尽くで手に入れた。子のいなかったバルト家のご当主に取り入り、その軍才を見せつけた。そして、養子としてバルトの名を名乗ることを許された」

 

 ルーカスがどこに向かって話をしているのか、その着地点がわからない。

 クラウスは黙って続きを促した。


「お前はすごいよ」

 

 漏らされたルーカスの言葉に、クラウスは息を呑む。


「お前はすごい。自分で上に行くことができる。それだけの力を持っている。だから」

 

 ルーカスの金色の瞳が、クラウスを捉える。

 見上げてくるそれは穏やかで、凪いだ海のようだった。



「周りの声に惑わされるな。『野良犬』なんて言われたくらいで激高するな。何を言われても胸を張って、ただ上を目指せ」



 完全な敗北だった。

 やはりこの男には敵わない。

 

 クラウスはルーカスの胸のあたりを踏んでいた足を退ける。

 そして、廊下に寝転がっている彼に手を差し伸べた。

 黙ってその手を取ったルーカスを、力任せに引っ張り上げる。


「ったく……お前と違って、俺の軍服は白なんだ。足跡が目立っちまう……」

「自業自得だろう」

「今回はそういうことにしておくよ。煽ったのは俺だし、お前はもう部下じゃないからな」

 

 ルーカスは何もなかったかのようにいつも通りだ。しかしクラウスは、彼の目を見ることができなかった。

 遠くから、ざわざわと声が聞こえる。

 下級士官たちの訓練が終わったようだ。

 そんなことを考えてから、ふとここが軍令本部の廊下であったことを思い出した。

 昇進で同じ階級になったとはいえ、大佐を蹴り飛ばして踏むだなんて、下の者に見られたら大変な騒ぎになるところだった。


「いつまでそんな顔してるんだよ。ビシッと前向け、ビシッと。お前はこれから、諜報部の部長だろ。そんな顔してるやつに部下がついて行かないのは、お前が一番よく知ってるんじゃないか」

 

 自信の無い上官に、部下はついては来ない。

 それはその通りで、彼の言う通り、クラウスはそれを一番よく知っている。

 何よりクラウス自身が、そうであったのだから。

 下がっていた頭を上げ、前を見る。

 ルーカスがにやりと笑い、わずかに唇を尖らせた。 細い風の音が、ひとつ。


「よし、いい男だ。頑張れよ、ソバカス。俺はこれでも、お前がようやく特殊部隊なんていう張り合いのないところから出てきてくれて、嬉しいんだよ」


 諜報部特殊部隊は、その名の通り特殊な部隊だ。

 諜報部は外部の情報を収集する機関だが、特殊部隊はそうではない。

 特殊部隊が監視し、情報を集めるのは軍内部。 

 裏切り者を探し、監視し、情報を集めて糾弾する。 

 軍の瓦解を阻止するために重要な機関であり、規律の番人として大きな権限を持つ。それ故に昇進には制限がかけられ、少佐までしか上がれない。

 

「お前がこっち側に復帰してくれて、ようやく張り合いが出る」

「俺はあそこから出たくなかったんですけどね」

 

 クラウスの憎まれ口に、ルーカスは「冗談だろ」と笑った。


「お前はあんなとこで終わるタマじゃねえ」

 

 ルーカスの目に、好戦的な光が宿る。


「勝負だぜ、ここから。どっちが元帥の座を射止めるか」

 

 そう言ってルーカスは背を向けた。

 カツリカツリと、穏やかな軍靴の音が去って行く。


「どっちがって……ほかにも将兵は大勢いるだろうが……」

 

 元帥の座を目指し、戦っている者たちは大勢いる。

 そのほとんどは、ルーカスと同じように家柄に恵まれた、幕僚家系の者たちだ。 

 その中で自分は同じように戦っていくことができるのだろうか。

 一抹の不安を覚える。


「あ、そういえば」

 

 カツリ、と足音が止まる。

 顔を上げると、ルーカスがこちらを振り向いていた。

 彼の黒い革手袋に包まれた指が、おもむろに自分の鼻の上あたりを示す。


「ソバカス、キレイに消えたんだな」

 

 クラウスは思わず自分の鼻梁びりょうに触れた。そういえば、子どもの頃から鼻と頬にあったソバカスは、いつの間にか消えていた。 


「いい食事といい寝床を手に入れた証拠だ」

 

 ルーカスはそれだけ言って、クラウスに再び背を向けた。

 

 そうだ、とクラウスは思う。

 自分は、手に入れてきた。

 これまでも、自分の力で戦って手に入れてきたのだ。

 そして、これからもそうやって生きるだけだ。

 何を恐れることがある。


 廊下に響く軍靴の音に、細い風の音が混ざる。

 高くなったり、低くなったりとその音は安定しない。

 クラウスの口元に自然と笑みが浮かんだ。


「へったくそな口笛」

 

 隙間風のような口笛が、廊下の奥からまだ聞こえている。




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天上の導 宮守 遥綺 @Haruki_Miyamori

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