Iに関する幾つかの出来事(短編連作)

三村小稲

第1話Iに関する幾つかの出来事(短編連作)

 1、

藤沢トモヤは繁華な通りを避けるように路地裏を歩き、一軒のバーの扉を押し開けた。時刻は午前0時を少しまわったところだったが、店内は適度に混みあっており、カウンターの中では背の高いマスターが忙しげに立ち働いていた。


 藤沢トモヤはわずかにひるんだが、見知った顔ぶれを認めるとすぐにほっとしたかのようにすんなりと椅子に腰かけた。壁にはアル・パチーノとジーン・ハックマンの写真。煙草の煙と喧噪でぼやけて壁に同化している。


「おつかれ」


 マスターがコースターと灰皿を藤沢トモヤの前に置いた。


「なんか、今日忙しいっすね」


 藤沢トモヤは店内に視線を走らせながら言った。

「いや、そんなでもないよ。終電過ぎたら誰もいなくなるよ」

「ふーん? あ、とりあえずビールください」


 とはいっても平日の割には混んでいるなと藤沢トモヤは思った。自分がバイトしている居酒屋も、今日はやけに忙しかった。まるで争うかのように次々と客が入り、食い散らかして行った。グラスを運び、無限に続くかに思われる皿洗いをやりながら、明日地球が滅びるわけでもないのにどうして今日という日に人が集中してやってくるんだろうかと舌打ちでもしたい気持ちになった。おかげでひどく疲れた。


 目の前に置かれたビールのピルスナーに口をつけると、魂が漏れ出てしまいそうな溜息がこぼれた。


 藤沢トモヤが煙草に火をつけると、さっきから談笑していた数人の顔見知り達が、

「おつかれー」

 と、それぞれのグラスを軽く掲げた。藤沢トモヤもそれに応えながら、

「なんか珍しいですね、こんな時間に会うなんて」

「トモヤ、知ってる? もう聞いた?」

「なにが?」

「Iのこと」


 そう尋ねたのは、この店でしょっちゅう顔を合わせるスパイラルパーマの女だった。よく喋り、よく飲み、明るくて社交的。だが、口が大きくて笑い声がでかい。藤沢トモヤは前々から、この女はきっとベッドでも声がでかいんだろうなあと思っていた。あんなでかい口とキスしたら噛みつかれてるような気分になるんじゃなかろうか、と。


 もちろん想像にすぎないしそんな態度は微塵も見せないが、ようするに心の中で悪態をつくのも藤沢トモヤがこの女に少なからず関心を持っているという証明だった。


「Iが、なに?」


 煙を吐きながら女の方を見やった。すると女の隣に座っていたこれもしょっちゅう顔を合わせる、太った体に仕立ての良いスーツを着た男が俄かに声を潜めて言った。


「死んだんだって」

「えっ」


 あまりに唐突な言葉に藤沢トモヤは思わず大きな声を出してしまった。

「いつ? え? なんで?」


 ピルスナーの中では絶えず細かい泡がたちのぼり、消えていく。BGMが途切れ、一瞬の静寂の後マスターが音楽をかけかえた。


 途端、冷水を浴びせられたように、衝撃をぶちやぶるようにシェリル・クロウの奥歯を噛みしめるような歌声が流れだした。藤沢トモヤはどうにか心を鎮めようと深く息を吸い込んだ。


 スーツの男のそのまた隣には眼鏡をかけた学生風の若い男が座っていて、やはり顔見知りの彼も陰鬱な面持ちでこちらを見ていた。


「僕もこの前聞いたんですよ」

「そんなん全然知らないよ。つか、この前会ったばっかだし……」


 藤沢トモヤは抗議するように言った。すでに喉の奥に飴玉を誤飲したような苦しさがあり、鼻の奥が痛かった。


Iはいつも静かに微笑んでいる、決して人の悪口だとか悪態をつくことのない男だった。その人柄の良さは周囲の者を和ませる力があり、だから誰からも好かれていた。けれど、積極的な社交性があるような性質ではないから、いつも一人でグラスを傾けていた。そんな静かな男だった。


その姿は藤沢トモヤとは対極にあった。藤沢トモヤは明るく社交的だが、口が悪く生意気で、自分がちょっとばかり整った容貌をしているのを承知している分だけその魅力を乱用し、夜と女の間を渡り歩くのが常だった。彼を知る者はその軽薄さを憎むか、あるいはその単純な欲望と朗らかな若さを笑って許した。


そんな二人がたまたま同じ店で飲んで、隣り合わせることで親しくなっていったことは一つの奇跡と言えたかもしれない。でなければ二人が出会って親しくなる可能性など他にこの世のどこにもないのだから。


 俯き、黙り込んでしまった藤沢トモヤに女がそっと声をかけた。

「大丈夫?」

 しかし、藤沢トモヤは女の顔を見ることができなかった。その代り、スーツの男に向かって訊ねた。

「なんで死んだんですか」

 我ながら自分のものとは思えないほど声はかすれ、震えていた。

「事故だってさ」

「……車で?」

「いや、バイクだって聞いたけど」

「……」

「君ら、仲良かったんだろ」

 藤沢トモヤはその言葉に曖昧に頷いた。


 果たして自分たちは仲が良かったのだろうか。傍目にはそうだったかもしれないが、そもそもいつだって偶然にバーで隣り合わせるだけで、所謂「友達」のように映画を見に行くだとか、約束してどこかへ遊びに出掛けるだとかはしたことがなかった。ただそこにいるから言葉を交わすだけ。一期一会といえばずいぶん美しいし、行きずりといえばそれまでだったように思う。


 しかし、それではまるで心を許さなかったかというと、そうではない。少なくとも彼は藤沢トモヤに心を許していた。事実、藤沢トモヤは酔っぱらった彼の口から仕事の悩みや恋愛の相談を聞いていた。藤沢トモヤならば例えどんなに泥酔しようとも誰にも話すことのないような内容を。


 あれが信頼なら、恐らくそうなのだろう。藤沢トモヤはそれについてなんの感慨も持たなかったことを後悔した。


「バイク乗るなんて知らなかった……」

「意外だよね」

 女もしんみりと呟いた。


「I、バイクの話しなんて全然してなかったじゃない?」

「うん、どっちかっていうと、バイクより自転車ってイメージだった」

「ああ、そうね。そんな感じよね。自転車、似合うよね」

 すると学生メガネが口をはさんだ。

「事故のこと、新聞に出てたらしいですよ」


 藤沢トモヤは、あの地味で控え目でいつもひっそり微笑んでいるような男が新聞にその名を載せる快挙が死亡記事であることに耐えがたい寂寥を覚えた。


 勢い、ビールを飲み干すとマスターにウィスキーを頼んだ。彼の好きな酒だった。

「最後に会ったの、いつだった?」

「いつだったかな……」


 藤沢トモヤはグラスに口をつけながら、明瞭な答えを避けた。それは覚えていないのではなく、最後に会った時彼の口から出る話題の七割が目の前の女のことだったから、そのことがせつなくて言葉が見つからなかった。


 そう、彼はこの店によく出入りしている口の大きなスパイラルパーマの彼女に恋をしていた。おとなしい性質だった彼はどうのようにして恋を打ち明ければいいのかいつも思案していた。そして、それを知っていたのは藤沢トモヤだけだった。


 藤沢トモヤは彼と違って軽薄な女関係の持ち主だったので素朴な疑問や悩みを聞くには決して適任ではなかったのだが、だからこそなのか、彼は藤沢トモヤの経験に頼るようにして質問を浴びせるのが常だった。


 どうやって女をデートに誘うか。メールはどのぐらいの頻度ですればいいか。電話はしてもいいだろうか。思春期の高校生のような質問に藤沢トモヤは半ば呆れもしたが、彼が真面目な分だけ目の前で笑うことはできなかった。


「そんなめんどくさいこと考えなくても、好きなら好きって言えばてっとりばやいのに」

 そんな軽口をたたく以外に言えることはなかった。


 恐らく藤沢トモヤは正しかっただろう。いい年をして恋愛の手段のなに一つも持たないのは想像力の欠如。彼はそんな質問によって他人から嘲弄されても仕方ないぐらいだ。が、藤沢トモヤは彼の話しを珍しく真面目に聞いた。


 彼の話は眩しかった。藤沢トモヤは恋愛の概念そのものを理解しかね、恋愛というものは体でするものだと思っていたし、実際、具体的に女というものを体でしか感じたことがなかった。有体にいえば、セックスだけが女を知る唯一の手段だった。だから恋する男の他愛もない相談は藤沢トモヤにある種の衝撃を与えた。想いを伝えるなんてことそのものが、初めて聞く外国の言語のように感じられた。藤沢トモヤは本人さえも与り知らないところで、彼が羨ましかったのかもしれない。


藤沢トモヤも馬鹿ではないのだが、自分の内部に生じる感傷を深く考察したことはなかった。故に、彼にとって胸の痛みやせつなさはそのまま体調不良でしかなかったし、欲情と肉体の交接が彼の恋愛のすべてだった。


 それも無理からぬことで、藤沢トモヤは早くから女たちに愛されて、自ら望まずともよかったし、あまたの女たちが彼を欲した。そして彼もまた若い男の健全さで欲望を満たせればそれでよかった。それを悪いとも思わなかった。そうやって成長した今、藤沢トモヤは致命的なまでに情緒の欠如した男になっていた。


 藤沢トモヤは恋愛というものが分らないからこそ、彼の恋の行方に密かに関心を寄せていた。

「大丈夫?」

 あまり黙り込んでいるのを心配した女が、そっと藤沢トモヤの顔を覗き込んだ。藤沢トモヤは我に返り、

「びっくりして……」

 と、言い訳のように小声で呟いた。


 こちらを見つめている女の睫毛がおそろしく長く、力強く孤を描いている。彼はこの女の頬に影を落とすような睫毛や肉感的な唇に焦がれたのだろうか。そして、あのもどかしい片思いの果てにはやはり粘膜の交感も望みのうちに含まれていたのだろうか。


 藤沢トモヤはふと唇の端に笑いを漏らした。


 ならば、あの男はどうやって女と寝ればいいのかも自分に相談しただろうか。それならいくらでも教えてやれたのに。これまでに経験した数々の性行為を酒の肴に、面白おかしく話して笑いあうことができたのに。車検のように女の体を検分し、裏返したり、持ち上げたりして、最後はスローイン、ファーストアウトだと言ってやれたのに。どうしてそんなことを聞いてくれなかったのだろう。肉体のことであればいくらでも言葉を尽くしてやれたのに。そんな機会も待たずこの世から消えさるなんて。藤沢トモヤは漏らした薄笑いの分だけ、胸が詰まった。


「そうだよね」

 女が優しく頷いた。


 人の死はいつでも突然だ。その後には喪失の悲しみと後悔があるだけ。藤沢トモヤは一息に酒を飲み干した。


「最後に会った時、いろいろ話して楽しかったんすよ。いや、もちろんいつも楽しかったけど」


 口にすると、途端にその夜のことが鮮明に思い出された。特別なことはなにもない。それはいつもと同じように始まり、いつも通りに終わったに過ぎなかった。


 最後に会ったのは、いつもの店でたまたま出くわし一緒に飲んだ後、腹が減ったといって深夜営業の中華料理屋へ行った時だった。


 二人は向いあって座り、ビールを注文した。藤沢トモヤが懐かしいラベルのついた瓶から小さなグラスに酌をした。


「うまいな」

「なにがっすか?」

「ビール注ぐのが」

「ああ、これね」


 ビールはグラスの中で細かな泡を盛り上げており、液体とのバランスもよかった。


「コツがあるんすよ。こうやって、グラスの底の中心を狙って、細く、ある程度は勢いよく注ぐ……。そしたら自然に中心から泡が螺旋を描きながら湧きあがってくる……、で、様子を見ながら調整してやる……」


 藤沢トモヤは言いながら自分のグラスに手酌で注いで見せた。彼は関心したように嘆声を洩らした。


 グラスに満たされたビールからは絶えず静かに泡が立ちのぼり、弾けていた。一瞬、二人はその平和な、完璧な調和に見とれた。そこにはなにものをも寄せ付けない厳粛な空気があった。


 が、それもほんの数秒。二人はすぐにグラスをかちりと打ち鳴らし、ぐいと呷った。


「なに食います?」


 藤沢トモヤはメニューを開いた。周囲には水商売の勤めを終えた女たちが煙草を片手に皿の中身をいたずらに箸でこねくりまわしていた。


「トモヤ、酢豚にパイナップル入ってるの許せるタイプ?」

「いや、無理っす」

「俺も」

「理屈はわかるんですけどね」

「なに、理屈って」

「肉が柔らかくなるんでしょ」

「あ、そういうことか」

「なんだと思ってたんですか」

「なんていうんかな……、酢豚にパイナップルっていうのはさ、なんか、唐突だろ? とってつけたみたいじゃないか?」

「はあ」

「その不自然さが、やだ」

「やだって……」

「中華にパイナップルって! 中国四千年の歴史のどこにパイナップルが!」

「はあ」

「そういうのが、不自然なんだよ」

「とりあえず酢豚頼みましょう」


 藤沢トモヤは片手をあげて店員を呼んだ。


 二人の会話はいつもこんな調子で始まるので、藤沢トモヤはなんの違和感も覚えず、彼もまたなにを期待するでもなく、淡々とした調子で店員に餃子や春巻きを注文した。


 その日、藤沢トモヤはいくぶん疲れていた。前夜、コンパの頭数を揃えるために呼び出され、なまじ興味もなかっただけに仲間からその中で一番ブスな女の相手を押しつけられ、席替えするも常にブスの右か左に座らされた。


 しかし女が本当にブスだったかというとそうではない。美醜というものは主観的なものだ。藤沢トモヤは単純な外見だけで女を選別することはしない。というより、藤沢トモヤにとって女はどれも穴があいていれば皆同じなのだ。だから、ブスといったのは彼の好みではなかったという意味ではない。


 ブスはその他の女たちと同じように黒々としたアイラインを引き、マスカラをこてこてに塗って、安い香水とシャンプーの入り混じった匂いをさせ、メンソール煙草を吸っていた。ぴったりしたジーンズに包まれた脚や腰が、細さの分だけ無機質で色気はまるで感じられなかった。その女の話し方、笑い方、食べ方、動作のすべて。どんなに表向き取り繕っても、清潔さはまるで感じられなくて、藤沢トモヤは根性の悪そうな女だと思った。


 藤沢トモヤはコンパごときで高尚な話題など求めていないが、どの女も同じ語彙で、同じような話をするのに飽き飽きしていた。ブランドネームのついた鞄の話しと、他人の噂と悪口と、愚痴。


 いったいそういう中でどうやって女の美点を見出せばいいのか、藤沢トモヤには分らなかった。となると、彼がその中から女を選ぶ時、真実として信じられるのは穴ひとつしかなかった。そして、穴があったらその穴を埋めたいと思うのが本能だと思った。


 なんで自分はここで美味くもない酒を飲んで、女に気を使いながら一生懸命気持ちを引き立てているのだろう。どうせ誰のことも好きにならないというのに。


 そう考えた時、藤沢トモヤの脳裏には恋する男のことが浮かんだ。面倒でくだらない悩みだと思ったけれど、悩める分だけすごいと思った。


 藤沢トモヤは今、目の前で餃子を食べている男をじっと見つめた。


「なに見てんの? どうかした?」

「や、なんでもないっす」

「トモヤさあ」

「はい」

「前の話しなんだけどさあ」

「前?」

「好きなら好きって言えばいいって、そりゃあ単純なことかもしれないけどさ」

「ああ、その話」

「でも、もし、相手に彼氏とかいたらどうすんの?」

「え、彼氏いたんですか」

「分んないけど」

「なんだ、分かんないこと考えても始まらないじゃないですか。つか、聞けばいいのに」

「聞いて、いるって分かったらショックだろ?」

「もー、それじゃあどうしたいんですか」

「彼氏いたら言えない」

「そんなん関係ないっすよ」

「ええ? そうかあ?」


 藤沢トモヤはビールの追加を注文すると、彼のグラスを満たしてやった。


 好きな女に恋人がいるかどうかも知らないで、この人は他に女のなにを知っているんだろうか。藤沢トモヤは男の片思いを妄想でできた思い込みのように感じ、しかしなぜか微笑ましくて小さく笑った。


 酢豚がテーブルに運ばれてきた。甘酢のいい匂いが鼻先をくすぐる。

「パイナップル、入ってますね」

「許せんな」

「あの人のどこが好きなんすか?」

「ん?」

「あの人のこと、実はなんも知らないんじゃ……」

「ダメか?」

「え?」

「なにを知ってれば、知ってることになるんだよ」

「……」

「彼氏がいるかどうか、とか?」

「まあ、情報としてはそれも必要かと……」

「人を好きになるのは一瞬のことだから、情報とか関係ないよ。情報は結局条件を満たすってことだからな。情報に左右されるのは良くないよ。そういう恋愛って打算的だと思う。俺、人を好きになるのは自分にしか分からない瞬間を捉えることだと思うんだ」

「なんすか、それ」

「具体的なことかもしれないし、もっと感覚的なことかもしれない。ただ、本人にしか分らないことで、他人からは理解されないだろうけど。ああ見ちゃった……って思う特別な瞬間があって、たった一つだけのことなんだけど、でも、その時にはもう好きになってて、それがすべて。自分にしか分からない特別なこと以外はなにも重要じゃないと思うんだ」

「ああ、なんか、それは直観というか、ツボにはいるというか。そういうの?」

「そうそう」

「俺、そういうのないっすよ」

「それはお前が自分を知らないからだろ」

「えっ」

「お前は自分のツボがどこにあるのか分かってんの?」


 藤沢トモヤはふと口を閉ざして、昨夜の合コンのブスを思い返そうとした。自分にしか分らない決定的な瞬間を見てしまったら、あのブス相手でも恋に落ちたりするのだろうか。自分にとって特別な瞬間、特別な相手を見つけられるのだろうか。そんな気持ち想像もできない。


 そんなことを思っている間にも酢豚の皿の中でパイナップルがより分けられ、夜はふけていく。


水商売の女たちが無残に食べ残した皿を後に席を立った。どの女もさすが職業柄身奇麗で隙がなかった。恐らくは美人の部類に入るであろう外見。しかし藤沢トモヤにはやっぱり穴しか見えなかった。


「大口開けて笑うところがさ」

「え」

「なんとも爽快で、見てて気分いいんだよな。まあ、可愛いっていうのもあるけど」

「……」

「彼氏いんのかなあ」

「だから、聞けっつーの」

「トモヤ、聞いてよ」

「聞いたらショックなんじゃないんすか」

「いなかったらチャンスじゃん」

「どっちなんすか!」


 料理はどの皿もきれいに空になっていたが、酢豚のパイナップルだけはやはりぽつんと取り残されていた。


「なんか、楽しそうでいいっすよね」

「そういや、お前はどうなんだよ」

「昨日コンパ行ったんすけどね。でも、いないんすよね、誰も」

「コンパ? コンパ行って女の子のどこ見てんの?」

「顔、それから乳」


 藤沢トモヤの言葉に彼は笑った。優しい笑顔だった。まるで目の前の未熟な若い男を慰めるような温かさがあった。


「んー、まあ、それも大事かもしれないけど、それだけで女の子選べないだろ」

「はあ」

「もっと見ろよ」

「どこを?」

「いいところを」

「だから、どこ?」

「考えろよ。だいたい、お前、自分のことも好きじゃないのに他人を好きになれるわけないだろ」

「俺、自分好きっすよ」

「へえ? 自分のどこが?」

「えっ」

「だから、お前は自分を分かってないんだよ」


 藤沢トモヤはちょっとばかり整った顔立ちの貞操観念の希薄な男だけれど、反抗的な性質ではなく、むしろ素直に彼の言葉を受け止めた。確かに自分は自分のことさえも知らない、と。どんな女が好きかも自分では分からないし、ここから先自分が何になるのか、どうしたいのかも明白なビジョンは浮かんでこない。


 ともすれば批判的な言葉だったが、まったく嫌な気持ちはしなかった。藤沢トモヤはそれは彼の性質がそうさせるのだと思った。無償で相手が自分に対して真摯な言葉を投げてくれたことが今さらのようにじんわりと温かく広がるのを感じていた。


「まあ、時間はたっぷりあるんだから、お前はもっと自分本位になってもいいよ。自分のこと、よく考えてみ?」

「俺、今でも結構自己チューっすよ」

「いや、トモヤは案外真面目で、人に気を使うタイプだと思うよ」

「それは自分のことでしょ」

「ははは。とりあえず、俺も頑張るわ」

「そうっすよ。直球投げりゃいいんすよ」

「おお。うまくいったら祝杯あげよう」

「ダメだったら、奢りますから」


藤沢トモヤは彼の手が肩を叩くのをまるで子供のような気持ちになって受け止めた。いい人だな。そんな単純な感想が胸にふんわりとした灯りを点す。この人を選ばない女がいるなら、それはきっと女に「見る目」がないのだ。藤沢トモヤは別れ際に片手をあげて去っていく彼の後ろ姿を見ながらそう思った。その夜の勘定は彼が奢ってくれた。それが最後になった。


 ……一人、また一人、客が帰っていく。一人の男が死んだというニュースを携えて。スーツの男が帰り、学生メガネが帰り、見知らぬカップルが帰っていったが、藤沢トモヤはいつまでも黙ってグラスを傾けていた。


 とうとうスパイラルパーマの女も鞄から財布を取り出した。恐らく彼女はなにも知らない。自分が死んだ男の想い人であったことなど。


 藤沢トモヤは今一度考える。女の美しい輪郭。手を伸ばせば届くであろう柔らかな曲線。それから自分の胸の内を。


「トモヤ、本当に大丈夫? 顔色悪いわよ……」

「そうっすか?」

「……お腹すいてるんじゃない? なんか食べに行こうか?」


 女は勘定をすませ財布を鞄にしまうと、椅子からするりと降り立った。藤沢トモヤは見るともなしに女の胸のあたりに視線をさまよわせた。


「ラーメンとか食べに行く? 奢るわよ」

「……中華といえば、酢豚にパイナップル入ってるのってどう思います?」

「なあに? 酔ってるの?」


 女は微笑みながら、藤沢トモヤの肩に優しく手をかけた。女の手のひらが温かかった。女が体を動かすたびに白いシャツの下の胸が揺れる。目が離せない。


 藤沢トモヤはふと考える。あの純朴な恋に悩む男が生きていたら、この場合自分はどんな行動にでるだろう。女について行くだろうか。女との距離を縮めたりするだろうか。


「私は好きよ」

「……」

「酢豚、食べたいの?」

「や、違うけど……」

「どうする? 行く?」

 藤沢トモヤは煙草の箱に手を伸ばした。

「……前から聞きたかったんですけど」

「うん?」

「彼氏、いるんですか?」

「ううん、いない。この前別れたところ。どうして急にそんなこと聞くの?」

「……聞いてほしいって頼まれたから」

「誰に」

「……」


 指先が煙草の箱に触れる。触れた途端、脳裏にIの顔が浮かんだ。藤沢トモヤはくしゃりと音をたてて煙草の箱を握り潰した。

 

 2、

 立花ユキオはイライラしながら腕に嵌めた時計をもう一度確認した。遅い。バイトが終わってからという約束だったのに、友人である藤沢トモヤは電話にさえでなかった。明日は休みだからバイトが終わってから飲みに行こうと言いだしたのは、もともと藤沢トモヤの方だったのに。


 待ち合わせはいつもの店。せまい路地を入ったところにある古いビルの二階。朝までやっている小さな居酒屋。昭和の雰囲気を纏った店は妙に居心地がよく、二人はカウンターに座ってだらだらと飲み続けるのが常だった。


 カウンターの椅子は中途半端な硬さだが臙脂色の別珍の手触りで、立花ユキオは長い脚を窮屈そうに折り曲げてグラスを傾けた。ちょうど見上げる位置にテレビがあり、音を消して深夜のバラエティ番組が映し出されていた。


「あいつ、遅いな」


 この店に通って三年。すっかり顔馴染みになった店主が煙草に火をつけた。時刻はとうに二時になろうとしていた。


「たぶんもう今日は来ないと思う」

「もっかい電話してみたら?」

「電源切ってんですよ」

「なにやってんだろうな」

「どーせ女ですよ、女。あいつ、いつもそうなんだから」


 立花ユキオは忌々しげに携帯電話を投げだした。すると椅子二つ隔てたところで飲んでいたカーゴパンツにエンジニアブーツの女が笑いながら、


「ユキオ、すっぽかされたの?」

「そうらしいな」

「トモヤにも困ったもんね」

「そっちはどうなんだよ」

「どうって?」

「I、待ってるんだろ?」


 立花ユキオはいくぶん体を斜めにするようにして女に向きなおった。女は長い髪を一つにまとめていたが、夜の深さの分だけほつれた髪が額やうなじにこぼれていた。


「もう来るわよ」

「ほんとかよ」


 女はいくぶん拗ねたように唇を尖らせた。それを見た立花ユキオは不意に意地悪な気持ちがめきめきと湧き上がってくるのを感じた。


 女が待っている相手のことは立花ユキオも知っていた。いい加減な男だ。友人である藤沢トモヤも女癖は大概だが、その男はさらに上をいく。


 ひとくちに女たらしだの畜生だのと言っても、それにも品格のようなものがある。藤沢トモヤにとって女は天然自然のものであり、愛だ恋だと高尚な理由をつけるようなものではない。まるで動物の営みのように、求めたり、求められたりするだけだ。それが結果として彼を「女にだらしない」男にしているわけだけれど、不思議と彼を恨む女は一人もいない。それはもともとの彼の性質によるものかもしれないが、実際、藤沢トモヤは女を選ばないし、傷つけない。どんな女にも等しく優しい。優しさはそのまま関心のなさでもあるのだけれど。


女たちはたいていの場合藤沢トモヤの貞操観念の希薄さも、誰も愛さない子供じみたところも、最後は苦笑いと共に許す。馬鹿な男、と。しょうがない男、と。


 立花ユキオは時々友人のそういう側面を羨ましく思った。誰も愛さず、誰からも憎まれないのはまるで存在が空虚なもののように思えるが、ふわりふわりと漂うような生き方こそが実は立花ユキオにとっての憧れだった。


 女は立花ユキオが店に来る前から一人で飲んでいた。酒に強いので少しも乱れない様子をかわいげがないと思った。


「約束してんの? ほんとに?」

「だって、ここで待ってろって言ったんだもん」

「じゃあいつ来るわけ?」

「だから、もう来るってば」

「あんまりムキになるなよ~」

 立花ユキオはからかうような口調でさらに続けた。

「また他の女と遊んでんじゃないの? あいつ、そういうヤツじゃん」

「それはトモヤでしょ」

「でも、トモヤは女に貢がせたり、二股かけたりしねえよ」

「………」


 女は一瞬押し黙った。思い当たるふしがあったらしい。不愉快そうに眉間に皺を寄せた。


立花ユキオはこれまでに幾度もIが他の女と腕を組み歩いて行くのを見たし、ホテルへ消えていくのも偶然とはいえ目撃したことがあった。


 女は自分ではそうとは知らないようだが、せまい街のこと、誰もが彼女がIに金を渡してやっているのを知っていた。


 女の視線が手元に落ちたかと思うと、空になったグラスを掴むとずいと店主に差し出した。


「もう一杯ちょうだい」

 立花ユキオもグラスを掲げ、

「俺も」

 と、お代わりを頼んだ。


 店主は冷凍庫から氷を取り出し、大きな塊をごろりとグラスに入れ、上から透明な強い酒を注いだ。


 立花ユキオは女が強い酒を飲んでいるのを哀れに思った。恐らくその酒は美味くもなんともないだろう。少なくともこんな夜に飲む酒は。


 女は新しいグラスに指を突っ込み、呆けたような眼をしながらぐるぐると氷をまわした。


 店主はそれから立花ユキオの酒を作った。

「まあ、本人がよければいいじゃないか」

 女の様子から何事か察したのか、店主はたしなめるように立花ユキオに言った。

「Iくんも、あれはあれでそう悪いやつじゃないんだよ。たぶん」

「や、悪いやつなんて言ってないっすよ」

「恋愛っていうのは、当事者にしか分らんしな」

「そりゃそうだけど」

 女は二人のやりとりを聞きながら、終始無言だった。


 やむなく二人は話題を変えた。店主は長身の背中をまるめるようにして流しで皿やグラスを洗いながら、最近見た映画の話しをした。


 立花ユキオは映画が好きだった。昔から時間さえあれば映画を見ていた。それは趣味というよりも生活の中心で、自分から映画をとったらなにも残らないとさえ思っていた。


 レンタルはもちろんのこと、映画館にもよく足を運ぶ。二時間。長ければ三時間近く、じっと画面を見つめる。立花ユキオは単純に映画を好きだというよりも、映画を見ることのできる集中力と凝縮された時間が好きだった。数時間心を無にして、何者にも邪魔されることなく映画を見ることのできる時間そのものを愛していた。


 これまでに大量のドラマを見てきた。泣きもすれば、笑いもする。しかし、それらはすべて映画に向かって感覚のすべてが束ねられているからこその感動であり、感情の推移だ。現実において立花ユキオはあまり感情を露わにすることがない。映画の中以上にリアルなものを感じないし、他人に心を開く事もなければ、他人の心に触れることもあまり好きではなかった。


 かつて彼は決して幸福な家庭の子供ではなかった。父親はアルコール中毒で暴力的で、働かなかった。酔って暴れるか大鼾をかいて寝ているかのどちらかしかない父親との暮らしは立花ユキオにとって「忙しい」ものだった。


 彼にはいつだってやらなければならないことが山積みだった。家は荒れ放題で、父親からの気まぐれな鉄拳からも逃げなければならなかった。映画どころではなかった。テレビのアニメ番組の三十分ですら、彼は集中してじっくり鑑賞することはできなかった。彼の心はいつもアイドリング状態にあり、いつ何時でもすべてを投げ出して逃げるだけの用意が必要だったのだ。物語の入り込む余地はなかった。感動を覚える暇もなかった。


幼いながら立花ユキオは、自分の存在が透明人間のように見えざるものであったならと思った。誰も自分にかまってほしくなかった。近隣の住人の親切も、福祉施設からの手出し口出しも必要なくて、ただ、自分という人間が空気のようなものであればもっと落ち着いて、誰にも邪魔されず映画を見られる。それが立花ユキオの願いだった。


 そんなある時父親が飲みすぎた挙句、血を吐いて動かなくなった。血は恐ろしいほど鮮やかで、父親の衣服を染め、畳に飛び散った。あたかも花が咲いたように。

立花ユキオは死を思った。と同時に一番に頭に浮かんだのは、これで映画をゆっくり見れるということだった。


 ……そのことを思い出すと今でもふと自分は人間的に欠陥があるのではないかという不安が頭をよぎる。父親が倒れても心配より映画への渇望が勝ってしまった自分は、どこかが壊れているのではないか、と。あの時もっと取り乱したり泣いたりすべきだったのではないだろうか。それこそ映画の中の登場人物のように。


でも、できなかった。父親が心配じゃないわけではなかった。映画と現実は違うものだと分かっていればこそ、あの場面で子供らしい自分を演じることはできなかったのだ。だから至って冷静に救急車を呼び、静かに、運ばれて行く父親を見送った。


そして立花ユキオは子供の頃に願った「存在感のない自分」を夢みながら、人々の干渉を恐れ、自分の心ひとつを守りながら大人になった。


 立花ユキオが軽薄な女関係の持ち主である藤沢トモヤを好きなのは、彼に「映画」を見ているからかもしれない。映画、即ち他人のドラマを見ている時だけが、彼をすべての過去から遠ざける。父親の嘔吐も、巨大な拳もまるでそちらが架空の出来事であるかのように彼の中から流れ出ていく。現実が辛く厳しいほど、映画は立花ユキオを夢の世界へ連れて行くのだ。


「……ダメだわ」

 店主と立花ユキオが話している間、終始無言だった女が不意にぽつりと呟いた。

「なにがダメって?」

 立花ユキオが女を顧みる。


「昨日お金貸したんだった」

「……」

「だから、今日はもう来ないわ」

「どういうこと?」


 立花ユキオが尋ねると、女は微かに笑った。

「お金持つと遊びに行くに決まってるじゃない」

「でも約束したんだろ?」

「あの人にとって嘘をつくことも約束をやぶることも、なんてことはないのよ」

「……」


 そんなにはっきり分かっているなら、なぜ……。立花ユキオはそう言いかけて、女の横顔に妙に見覚えがあるような気がしてはたと黙った。


 無論、女のことは知っている。以前からよく同じ店で顔をあわせる「馴染み」だ。が、そんなことではない。有体に言えば、懐かしい顔なのだ。くたびれた、そのくせ艶っぽい顔。自虐的な笑いとひそめた眉に漂う哀愁。こんな女を自分は知っている。


 立花ユキオは静かに記憶を辿り始めた。その間も女は独り言のように、しかし、堰を切ったように喋りだした。


「本当は分かってるの。あの人もう私のこと好きじゃないのよ。みんなが私のことなんて思ってるかも分かってるわ。愚かな女だと思ってるんでしょう? 彼氏が他の女の子に使うの分かってて、お金渡してるんだもんね。馬鹿よね。けど、貸してほしいって言われたらイヤって言えないのよ。たぶんあの人は断ったらそのまま私の前からいなくなってしまうから」


 女は再び店主にグラスを突き出した。

「おかわり」

 店主は頷いてグラスを受け取りながら、訊ねた。

「それだけ分かってて、別れない理由はなに?」

「好きだからよ」

「……」

「彼が私を好きじゃなくても、私が彼を好きだと思ううちは別れることはできないわ」


 一瞬、照明を受けてグラスの中身が冴えた光を放った。女はきっぱりと顔をあげるも、そのくせ泣き出しそうな顔をしていた。

「あいつはそれを分かってんのかな」

「分かるわけないじゃない」

「……」

「分かるわけないのよ。私がどれだけ好きかなんて知るわけないわ」


 カウンターの上に置かれた女の手が人知れず堅く拳を握り締めた。店主は女が泣きだすのかと一瞬身構えた。


 が、女は泣かなかった。泣かない代わりに新たに手渡されたグラスの中身を一息にあおった。店主はその勢いに思わず「あっ」と声をあげそうになり、かろうじて堪えた。強い酒なのだ。店主は女が卒倒しないか、顔には出さないよう気をつけつつ、固唾を飲んで見守った。


 立花ユキオは気がつくと、女に向ってこう言っていた。

「別れろよ」

「……」


 立花ユキオは酔った父親が母親を罵倒している時も、部屋の片隅で映画を見ていた。時にはテレビにヘッドフォンをセットして、その世界に没頭した。それもこれも現実から逃避するために。


 そんなだから分かることがある。所詮は現実あっての「逃避」であり、逃避し続けることはできないということを。ひきこもって映画ばかり見ていても世界は自分の与り知らぬところでまわっており、その輪の中から逸脱することなどできはしないのだ。どんなに現実の世界で誰にも心を寄せられなくても周りに人間が存在する限り無視し続けることはできないのだ。ひきこもろうが、何しようが、社会の一部であることから逃げられはしない。それこそ死なない限りは。人間は一人ではないとかそういうしょうもない手垢のついた言葉ではなく、この世界で生きて、何かを食べ、眠り、排泄する生命活動を行っている限りは、必ず世界のどこかと繋がっていなければいけないのだ。繋がっていないと思うのは、それは当人が知らないだけなのだ。単純なこと。屋根の下に住み、水を使い、電気を使い、どこかの工場で誰かが作ったものを食べる。それだって世界の一部に参加する行為だ。逃げられないのだ。何からも。誰からも。


だから、その証拠に、こうしてたまたま居合わせた女の恋愛事情に口を挟んだりする。


立花ユキオはもう一度はっきりと言った。

「あいつ、もうお前を好きじゃねえよ」

「ユキオ」


 店主が戒めるように、遮るように彼の名を呼ぶ。しかし、立花ユキオは女の目をまっすぐに見つめていた。


「お前が金渡してやっても、なにしてやっても、屁とも思ってないぜ。なあ、別れろよ。お前のやってること馬鹿みてえだ」

「……」


 あまりの言いように女も半ば唖然としていた。これまでもそんな進言を受けたことはある。が、誰もこんなにはっきりとした言葉で言いはしなかった。なのにこの男ときたらどうだ。真剣な顔で、そのくせどこか悲しげな顔で、ずけずけと言いたいことを言う。


 女は自分がすでに相手から愛されていないことを承知していた。浮気を黙認し金を渡してやるのも見栄のようなものだった。物分かりのいい女のフリであり、「全部分かってて、敢て遊ばせてやってるのよ」とばかりに平然とした顔をし、愚かな自分を誤魔化して、小賢しい顔をしていた。「大人の女」のような顔をしたかったのだ。それこそが愚かとは知らずに。


「お前の言うことも分かるけど、どちらか一方が愛を失った時点でその恋愛は終わりなんだよ。認めろよ。誰もお前を責めないから」

「だって悔しいじゃない」

「それでも現実を認めるんだな」

「……」


 店主は二人のやりとりをはらはらしながら見守っていた。この二人は似ている。二人とも心の中にひどく膿んだ傷を持っている。まるで今夜はそんな二人が互いの存在を呼びあったようではないか。


立花ユキオはジーンズのポケットからすっかりひしゃげてしまった煙草を取り出すと、灰皿の横に置かれていたマッチを擦って火をつけた。


「今は金をせびって、浮気するぐらいですんでるかもしれないけどな……」

「……けど? なに?」

「そのうち女を殴ったりするんだよ。そしたら、どうする? それでも好きでいられんの?」

「彼は女に手はあげるような男じゃない」

「馬鹿じゃねえの? あいつがそんなまともなこと考えてると思ってんの? ろくに働きもしねえで、酒と女とパチンコばっか。クソバンドでギター弾いてる自分が格好いいと思ってるけど才能ゼロ。そんな男の行く末ぐらい想像できるだろ」

「……ひどい言い方」

「悪いことは言わないから、別れるんだな。すぐに。そんで、もうちょっとましな男を探しに旅にでも出ればいい」


 面白いことを言うつもりなはなかったし、言ったつもりもなかった。なのに女は立花ユキオの言葉にぷっと吹き出した。

「旅ってなによ」

「例え話しだよ」

「映画じゃあるまいし」

「……。とにかく別れろよ。このまま付き合って良いことなんてなんにもない」

 女は咄嗟に「なんで分かるのよ」と言い返したい衝動に駆られた。が、あまりにもその通りなので、むっとしつつも、堅く引き結ばれた紐がほぐされていくような気がした。


 そして、とうとう小さく漏らした笑いがダムを決壊させるように、大笑いを溢れさせ始めた。

「ねえ、どうしてそんなこと言うの? なんで彼が暴力ふるうようになるって確信してるの?」

 女は笑いすぎて眼尻ににじんだ涙を指先ではらいながら、尋ねた。

「……そういう男を知ってるから」

「なあに、それ、トモヤのこと?」

「ちがうよ」

「じゃあ、誰?」

「……誰でもいいだろ。だいたい、映画でもそんな展開だし」


 立花ユキオは煙草のフィルターを噛みしめるように口に咥え、鼻先で笑った。人の恋愛に首を突っ込む趣味はないし、これまでそんなことしたこと一度もなかった。なのにこの女にわざわざ苦言を呈してやるのは、女が母親に似ているからだった。たった今そのことに気付いた立花ユキオはどうあっても女を別れさせたくなったのだ。


 いや、本当に似ているかどうかは定かではない。立花ユキオはそうとはっきり言えるほどには母親のことを覚えていなかった。彼の母親は、父親の酒と暴力に耐えきれず、とうの昔に家を出ていた。だから彼が思うところの母親と目の前の女が似ているというのはあくまでもイメージなのだが、そのイメージが一致するのは女の愚かさと、恋による盲目さと、優しさのせいだった。ようするに「耐える」女の姿だ。


母親が出て行ってからその後どうなったのかは知らない。出て行って、まずどこへ行ったのかも知らない。会いに来たこともないし、祖父母や親類も母親の話題を徹底的に避けていた。しかし実際的に母親がいないことで強調される家の中の暗く冷たい空気は隠しようもなかった。


立花ユキオは今でも思う。幼かったとはいえ、もしも自分が母親をかばってやったなら、彼女は自分を置いて出ていくことはなかったのではないか、と。結局、母親を一番傷つけたのは父親ではなく、無関心な顔をしてすべての問題から顔を背けようとしていた自分だったのではないだろうか。子供だったとはいえ、耳を塞ぎ、目を閉じようとしていたことがどうしたってやむをえなかったとは思えない。幼いからこそ母親を慕ってやるべきだったのに。自分は映画が見たくて、現実から逃れたくて母親から目を逸らしていた。


 もし、母親が一度でも連絡をくれていたなら。こんなにも暗い後悔が胸を渦巻くこともなかっただろう。出て行かざるを得ないほど殴られた母親と、なにも言えなかった自分。罪の意識から逃れたいが為にすべてを忘れてやっぱり映画を見ていた自分。


 立花ユキオは煙草を灰皿に押し付けると、固い声で言った。

「俺からIに言ってやってもいいよ」

「……」


 女は呆気にとられていた。たぶんこの男は親切で言ってくれているのだと思った。が、なんて馬鹿げているのだろうとも思った。現実は彼の見ているような映画みたいなものではないのだと言ってやりたかった。映画は予定調和のドラマだ。でも現実はそんなになんでも都合よく思った通りに進んだりはしない。


 それに。女は秘かに胸の中で呟く。それに、まだやり直すチャンスはある、と。それは軌道修正するチャンスだ。女のポケットにはIの部屋の鍵がちゃんと収まっている。それはIを取り巻く他の女たちの誰一人として持っていないものだ。


 二人の間に奇妙な沈黙が流れた。それをひしひしと感じていた店主は自分の手元に置いたグラスにウィスキーを注ぐと、はっとして立花ユキオを見た。まさか、もしや、立花ユキオが女に好意を寄せている? 店主はこの深夜の厄介な客に頭を抱えたい気持ちになった。


 カウンターで二人の男女は今もグラスを手に、俯いて、それぞれの思案に耽っている。


3、

 斉藤洋子はブーツを履いてこなかったことを心底後悔していた。黒いタイツの下の脚はすっかり冷えて感覚が鈍く、ハイヒールの足先はもう痺れていた。


 こんな時、斉藤洋子は自分が女であることに無性に腹が立った。女として美しく装うことは全然実用的じゃない、と。そのくせ美しく着飾らなければ男の関心を寄せることもできないのだと思うと、今こんな深夜になってまで男を待っている自分がかわいそうで仕方なかった。


 大判のストールをがっちりと巻き直す。男は一向に帰ってくる様子がない。思わず大きく息が漏れる。それは白く視界を曇らせる。


 約束をしたわけではなかった。斉藤洋子は自分のしていることがどれだけ芝居がかっていて、少女漫画じみていて、一歩間違えばストーカー的かは十分承知していた。


 男のアパートへ来たのは今夜をいれて四度目だった。初めての時はコンパの帰り。二人とも酔っていた。酔っていたから、そうなった。二度目は素面だった。素面だからこそ、そうなった。三度目は酔おうと素面だろうとどうでもよかった。ようするに、どんな状況下にあっても斉藤洋子は男と関係を持つことになったということだ。


 男は魅力的だった。整った顔をしていて背は高く、手足は長く、優しかった。しかし斉藤洋子は知るべきだった。優しさは愛ではないということを。


 斉藤洋子が今夜男が帰ってくるのをこの寒空の下、アパートのドアの前で待っているのはちょっとしたサプライズのつもりだった。明日は仕事も休みだし、金曜の予定も前もってそれとなく聞いておいた。準備は万端だった。その為に脚の線が美しく見える靴を履き、繊細な下着を身に着けてきた。


 それならそうと相手にその旨を言えばいいのに、はっきりと言わなかったことが斉藤洋子が馬鹿馬鹿しいほどロマンチストで少女趣味であることのダメ押しの証明のようなものだったが、本人はこのわざとらしい猿芝居をいかに自然に、屈託なく、かつ、魅力的に演出するかシュミレーションするので精一杯だった。


 おかえりなさいだとか、待ってたのだとか、来ちゃっただとか、どれもこれも使い古された手垢のついたわざとらしいセリフだったが、斉藤洋子は恋する女特有の愚かさで自分だけはそんな言葉も新鮮に響かせることができると信じていた。


 男のアパートは今時珍しいほど古びていて、ドアはいかにも安普請な合板だった。蹴りでもいれれば簡単に壊して侵入できそうなほどに。


 斉藤洋子は過去の訪問の時から、なぜ男がこんなボロアパートに住んでいるのか不思議だった。部屋の中もレトロといえば聞こえはいいが、いかにもボロくて、壁は薄く、流しのステンレスに水が垂れる音がやたら大きく響くので空気を殺伐としたものにしていた。家賃が安いというだけの理由にしてはあんまりな古さ、汚さ。酔狂なことだと思った。思ったからこそ、知りたかった。知りたいと思った時から、すべては始まっていた。


 男の帰りを待ち始めて一時間はたとうとしている。斉藤洋子は冷えた手をトレンチコートのポケットに突っ込み、ドアにもたれた。携帯電話の電源が切れているのか電波の届かないところにいるのか、とにかく電話はつながらなかった。


 この文明の利器に見放された以上、できることは原始的な人力しかない。斉藤洋子はもはや意地になっており、こうなったらいくらでも待ってやると顎先をいくぶん上に持ち上げて目の前の暗闇に満ちた歩道を睨み下した。


 斉藤洋子が少し体を動かすたびに、脊中を預けたドアはみしりみしりと音を立てた。


 前々から気になる存在だったのだ。酔ったはずみというのは単なるきっかけであって、心の中ではあらかじめ「そうなっても、いい」と思っていた。いや、もっとはっきり言えば「そうなるつもり」の策略の末の酔っ払いだった。


 時として好奇心は恋心を上回る。好きとかどうとかよりも、未知なるものへの好奇心と探究心が頭をもたげて自分の衝動を突き動かす。今回の場合がそうだ。恋はその後にやってきたものだ。


 男前に目がいくのは当然として、しかし、それよりももっと気になったのは男の裸だった。明るい性質でずいぶんモテるらしいが、果たしてどんなセックスをするのだろうか。上手いのだろうか。体はどんな具合なのだろうか。天は二物を与えずというがどうなんだろう。斉藤洋子は真剣に考えていた。


 そんなだからこれが恋愛なのか性欲なのか判別がつきかねたが、経験して初めて分かることもある。恋愛というものは必ずしも手順を踏めばいいというものではないのだ。現に今こうしている限りでは斉藤洋子は男の体に合格点を与え、さらなる好奇心を掻き立てられている。恐らくそれは満たされるまでは続くであろう欲望だった。


 その時、通りの向こうからこつこつと夜の空気を震わせるよう明晰な靴音が近付いてきた。


 斉藤洋子は俄かに緊張しながら、じっと階段をあがってくる気配に耳をすませた。ポケットの手を出し、素早く髪を整える。斉藤洋子の長い髪はすっかり冷えきっていた。


 而して錆びの浮いた鉄の階段をあがってきたのは、一人の女だった。


 斉藤洋子はがっかりしつつ、すっと視線をそらした。自分が不審者に見えるのは承知していたが、この場を動くこともそれはそれで怪しく、かといって笑いかけたり挨拶をするのも妙だと思い、できるだけ女を見ないようにした。


「……なにやってんの」

 驚くべきことに、斉藤洋子の思惑を無視して女は低い声で尋ねた。

「えっ」

 斉藤洋子は顔をあげて女を見た。


 女はカーゴパンツにエンジニアブーツを履き、ピーコートを着込んでいた。ニットキャップを目深にかぶっていたが、大きな目と長い睫毛ははっきりとこちらを見据えており、斉藤洋子をたじろがせるほどの堂々たる姿勢だった。


「なにって……」

 斉藤洋子は口ごもった。目の前の女が妙に挑戦的な目つきでこちらを睨んでくる。


 若い女だと思った。服装のせいだけではなく、肌はつやつやしく、シミも皺もない。ぽってりとした唇とちょっと上向きの鼻先が生意気そうな印象を与える。斉藤洋子は俄かに動揺していた。


「ははーん、もしかして、待ってんの?」

 女はしたり顔をしながら、指先で薄いドアを示した。斉藤洋子は気圧されつつ、こくりと小さく頷いた。

「なんか用?」

「……あの、あなたは……?」

「カノジョ」

「えっ」


 女の言葉が衝撃波となって、斉藤洋子は弾かれるようにドアから背中を離した。その拍子に扉は一際大きくみしっと音を立てた。女はにやりと笑ってさらに言った。


「あのねえ、彼がなんて言ったか知らないけど、あの人の女は私だけなのね。ご苦労さまだったけど、帰ってくれない?」

「……彼女がいるとは聞いてないけど」

「聞いてなくてもいるんだからしょうがないじゃない」


 斉藤洋子は女の態度にむっとした。が、両腕を組みできるだけ冷静になるよう自分に言いきかせた。こういった場合、感情的になった方が負けだと思ったのだ。

狭い廊下で二人は真っ向から対峙していた。冷え込みが厳しくなってきていた。斉藤洋子はますます冷えていく身体が痛いほどで、背筋がぞくぞくしていた。目の前の女の実用的な温かそうな格好が羨ましかった。それは寒さだけではなくすべての攻撃から身を守るような堅固な様子だったし、若さと美しさを持つ者の自信の表れのようでもあった。


 女はポケットに手を突っ込み、顎先を上に持ち上げるようにふんぞり返って斉藤洋子を睨んでいた。


「これだけははっきり言っておくけどね」

「なによ」

「彼にちょっかい出さないでよ」

「そんなの本人に言えば? それに私が先に誘ったわけじゃないし」


 斉藤洋子は正直なところ後ずさりしそうだったが、どうにか踏みとどまり女を睨み返した。


 女は間近に見れば見るほど肌理の整った肌が青白く、透明な色をしていた。薄暗い廊下の灯りがその頬に長い睫毛の影を落とす。その様はぞっとするほど静かで美しかった。が、美しさの分だけ無機質で、まるで温かみを感じられなかった。斉藤洋子は女を精巧にできた人形のように思った。そう思うとまた背筋がぞうっと冷たくなった。


「どっちが先とかいう問題じゃない。そんなことに意味ない」

「じゃあ、あなたが彼女だってことにも意味はないわね」

「どういう意味よ」

「だってそうでしょ。あなたが先に付き合ってたってことだって、同じじゃない」

「屁理屈」


 女はいかにも小馬鹿にしたようにふんと鼻を鳴らした。


 互いの立場はともかくとして、こんなにも礼節を欠く態度は大人のすることではない。斉藤洋子はそう思い、しかし、すぐにそんな自分がおかしくなって図らずも唇はうっすらと微笑してしまった。


 こんな状況に礼節を考える方がどうかしている。それに元々ここにいること自体がすでに大人のすることではないし、もう、極端に言えば好奇心で始まるような、肉体を道具にするような男との付き合い方そのものが愚かでガキっぽい。


 この女は正しい。この挑戦的な、威嚇するような態度こそ恋する女の姿勢なのだ。自分はまだこの域にいない。ただ欲望に従っただけでそれ以上の気持ちはない。


 彼女の方が純粋だわ。斉藤洋子は素直にそう思った。しかし、女は斉藤洋子の浮かべた微笑を自分に向けられた嘲笑と誤解した。


「なにがおかしいのよ」

「別にあなたを笑ったわけじゃないわ」

「帰ってよ」

「……いやよ」

 本当はもう帰ってもよかったのだが、そう言われて帰っては格好がつかない。

「帰れ!」


 女は怒鳴りながら、斉藤洋子の肩を突き押した。細い体の割に鋭い力があった。

 斉藤洋子は軽くよろめいた。が、華奢な靴の踵でぐっと持ちこたえ、反射的に女の胸のあたりを突き返した。

「あなたが帰ればいいでしょう」

「あいつと寝たの?」


 今や女の目はぎらぎらとした怒りに燃えていた。言葉は奥歯でかみしめるようにして吐き出され、まるで縄で繋がれた猛った猟犬のようだった。


 なんの為の事実確認なんだろう。斉藤洋子は質問の真意を量りかねて、じっと女の瞳を見つめた。


 相手を好きだと思う気持ちだけで密やかに続けていけるような恋愛は高校生の時でもう終わっている。片思いというやつだ。ただひっそりと相手を物陰から見つめているだけのような、淡い、しかし、不気味な自己満足の恋。


 あれを純愛だとか、プラトニックだとかいう言葉でまとめることはできない。精神だけの恋愛は時としてさも高尚なように語られるけれど、実際のところは絵に描いた餅のようなものだ。触れることも叶わない、実態のないものは所詮妄想にすぎない。


即ち、斉藤洋子にとって恋愛というものはとにかく実体がなければならないものだった。風向き次第で心などいくらでも形を変える。が、肉体は正直だ。男が斉藤洋子を欲する時、斉藤洋子は初めて恋を信じられたし、男に対して欲望を感じた瞬間にだけ愛を覚えた。


 そんなわけだから寝ないと始まらないのだが、ここでわざわざそんなことを説明する義務はない。だから斉藤洋子はなんの回答にもならないと分かっていながら答えて言った。


「あなたに関係ないでしょう?」


 女は寒さのせいか、はたまた昂ぶっているせいなのか、赤くなった鼻をさっと拭った。そんな動作は若さよりも子供らしさを内包していて、こんな修羅場でなければ女をずいぶん可愛くみせるだろうと思った。


「……自分だけだなんて思わないでよね」

「……」

「あいつ、あちこちで色んな女と寝てるんだから。これまでも何度もそういうの、あった」

「……へえ」

「……どうせ今も他の女と一緒よ」


 斉藤洋子は女が泣くのかと思った。勢いは言葉を紡ぐほどに急降下していき、声は力を失い始めていた。


 例え彼女の言っていることが事実であったとしても、それを述べている女が自らの言葉に傷ついているのが分かった。


 男はほどよく鍛えられた身体をしていて、美しい骨格の持ち主だった。斉藤洋子の脳裏にフラッシュバックする交接の記憶。それと女の険しい表情がダブる。


 優しいキスはやがて激しさを伴い、すべての神経が研ぎ澄まされたようになる。体中の毛穴が開いてしまうような、めくるめく陶酔。あんな良いセックスをできるなら女にモテるのも無理ない。と、同時に、女から求められるのも仕方ないだろう。斉藤洋子は不実な男の肉体を讃美する気持ちの下に、裏切りや嫉妬を忘れた。

 女とういう生き物は恋愛と肉欲を混同する傾向にある。寝てしまえば情が移る。相手を好きになってしまう。斉藤洋子も当初はそうなるかと思った。思えばこそ、夜中に男を待ち伏せしたりしているわけだけれど。恋と肉体の間には錯覚がバターサンドのクリームのように挟まっているのだ。甘い。ただひたすら甘い。中毒をも引き起こさせる恋という錯覚。


 そのことに斉藤洋子は今気づいた。いや、前々から分かってはいたけれど、決定的にしたのは目の前の青白い顔の女だった。


「もう会わないでよね。待ち伏せもやめてよ。今度見たら警察呼ぶから」

 女はそう言いながらポケットをごそごそと探ると、鍵束をひとつ取り出した。

「どいて」


 女が取り出した鍵束にはビクトリノックスのポケットツールナイフがついており、それと共にいくつかの鍵がぶらさがっていた。


 斉藤洋子は咄嗟に、

「ちょっと、まさか合鍵持ってるんじゃないでしょうね」

 と、女を見咎めた。


 同時に、斉藤洋子の動揺を女も見逃さなかった。

「あら、あんたは持ってないの?」

 女は俄かに勝ち誇ったような顔でせせら笑った。手の中でちゃりちゃりと鍵束が鳴る。

「ね、分かったでしょ? 私は他の女とはちがうの。あんたに用はないのよ」

「……それはあの人が決めることだわ」

「負け犬の遠吠えね」


 斉藤洋子はその言葉に思わずかっとなり、右手を振りかぶった。いきなり切り札を出されたのと、口汚い言葉はとても聞き流せなかった。


 小気味よい音をたてて女の頬が鳴った。斉藤洋子は憤然としてもう一発お見舞いしてやろうかという気持ちと、早く落ち着かなくてはという焦りの波の中にいて、それはあたかも嵐の中を頼りなく揺れまくる小舟のようだった。


「誰が負け犬だって?」


 斉藤洋子は今にも怒鳴りつけてしまいそうになるのをかろうじてこらえながら、できるだけ静かに言った。こんな場面だからこそ勝ちだの負けだのと言うんだろうが、いったい何が勝ちで何が負けなのか。年齢も美醜も学歴もキャリアも、どうして競って勝ったり負けたりしなくてはいけないのだろう。


女は打たれた頬を押さえながら、斉藤洋子を睨んだ。こんな場面でひるむような女ではなかった。これまでも男の浮気のせいで修羅場を演じたことはある。相手の女を殴ったこともあるし、男を殴ったこともある。


 女には怖いものなどなかった。自分が殴る分だけ当然殴られたこともあるし、こういった時に拳を揮うことにも自信があった。そうやって勝ち上がってきたのだ。どんなに争っても別れないのだから、自分たちの恋愛こそが本物だと思っていた。

 それなのに、今、目の前にいる相手には奇妙な威圧感があり、いつもなら即座に殴り返すところを気圧されて言葉もでなかった。


 それは、相手が美しい巻き髪と完璧な化粧をしているせいかもしれなかった。低い声で落ち着いて話す、こんな大人の女を相手に拳で戦っても意味がない。無論、そうなれば勝つ自信はある。が、勝った瞬間に永遠に恋人を失うだろう。今度は。今度こそ。


 戦いの最中だというのに闘争心が萎えてしまうその理由は「男の浮気相手は常に自分と正反対の女」だからだった。


 そういう女が選ばれる時点でもう自分には用がないのだ。さっき自分が発した言葉はそのまま自分へ向けられる刃でもある。隙のない身ごなしといい、思慮深い瞳の色も、男が選ぶだけの理由はあげられる。どれも自分にはないもの。


それでも男にしがみつくのは情けないが、自分の恋愛を守りたかった。まだ好きだから。それ以上の理由などない。まだ負けるわけにはいかない。


 斉藤洋子は年若い女を相手に先に手をあげてしまったのは大人げなかったが、もしも女が反撃してきたならそのまま応戦して大いに殴りあってやろうと思っていた。そうでもしなければ行くことも退くこともできないし、納得もできない。


「私が負け犬かどうか、彼に決めて貰いましょう」

「……どういう意味」

「こうなったら、どっちを選ぶのか彼に決めてもらえばいいのよ」

「……」


 もし斉藤洋子が自分と同じタイプの女なら、恐らく許せただろう。寝ようが、なにしようが自分のことのようにすら思えたかもしれない。けれど、こんなにも自分とかけ離れたタイプなんて認められない。絶対に。認めるわけにはいかないのだ。

 女がそう考えて暗い気持ちで胸が塞がれている一方、斉藤洋子も男に「試された」ような気がしてみじめな気持ちになった。違うタイプの女と寝てみたかっただけで、本当は魅力さえ感じていないのかもしれない。それは虚しく、せつないことだった。


 「もう男は自分を選ばないかもしれない」。奇しくも女二人はそれぞれの胸の中で同じことを思う。飽きてしまったのなら仕方ない、と。戯れなら仕方ない、と。

斉藤洋子はこんな鉢合せをしてしまうなんて想像もしなかったので、自分の命運が尽きたように思った。


「……それじゃああの人が戻るまで待ってようか。部屋の中で」

「だめよ」

「なんでよ」

「だって私は鍵持ってないもの」

「私が持ってるじゃない」

「それを使うのは、彼が選んだ方よ」

「馬鹿じゃないの、この寒いのになんで外にいなくちゃいけないのよ」

「いいから開けないでちょうだい」

「いやよ。だいたいあんた馬鹿じゃないの。こんな時間に部屋の前で待ってるなんてさ。思いこみ激しいんじゃないの」

「なによ、あんただって合鍵なんか持ってる割には簡単に浮気されて。ちょっと鈍いんじゃないの?」

「そんなのあんたの知ったことじゃない」

「ちょっと、なにやってんの! 開けないでよ!」

「うるさいわね!」


 部屋の扉の鍵を開けようとする女に斉藤洋子は喰ってかかった。そう簡単に開けられてしまうと寒空の下を男を待っていた自分が本当に間抜けで哀れに思える。それをしみじみ実感させられるのは避けたかった。


 二人の女は廊下で壁や扉にぶつかりながら、一つの鍵をめぐって揉み合いになり始めた。


 開ける、やめろと言いあう声も次第に高くなっていく。斉藤洋子の靴音が鳴り、女のベルトループから垂れたウォレットチェーンがじゃらじゃら鳴った。


「いいかげんにしてよ!」

「それはこっちのセリフよ!」


 二人は怒鳴りあい、髪を掴み、一時は回避しかけた拳での争いに突入しようとしていた。


 その次の瞬間。突然すごい勢いで隣りの部屋のドアが開き、毛玉のついたジャージを着たおばさんが半身を乗り出して女たちに怒鳴った。


「うるさい!! 今、何時だと思ってんの!!」


 女二人はおばさんを顧みた。

「お隣りなら引っ越しましたよ!」

「えっ?!」

「えっ?!」


 二人は同時に叫び、ぴたっと動きを止めた。おばさんは象が踏んでも乱れなさそうながちがちのパーマヘアに手をやると、あきれたように首を振った。


「今朝、荷物運び出してたわよ」

「ええっ……」

 女は驚きのあまり魂の漏れ出るような声を出した。斉藤洋子は女の胸倉をつかんでいた手をおそるおそる離した。


「もう遅いんだから帰んなさい」

 おばさんはそう言うと扉をばたんと閉めた。

「嘘……」

「……引っ越しってどういうこと……」

「なんで、そんな……」

「……鍵、開けたら……?」

「いやよ……」


 あれほど開けろ、やめろと喚きあったのに、二人の女は顔を見合わせた。笑っていいのやら、泣いていいのやら分らなかった。遠くでパトカーのサイレンが鳴っている。気が遠くなるほど、月が明るい。


4、

 優一は気がつくと学校の教室のようにずらずらと机の並べられた部屋にぽつんと一人で座っていた。三面ある窓の外には鬱蒼とした緑の生い茂る木立が薄靄の中に見えていた。


 部屋の出入り口は前後に二つ。黒板はなかったが、後ろには掲示板が据えてあった。


 優一は首を傾げながら机をそっと撫でた。懐かしい木製の天板。落書きや傷はなく、ひんやりと冷たい感触が心を静かにさせる。かつて親しかったが今は遥か遠くにいってしまったものたち。記憶の奥底深くに仕舞いこまれ、果たして現実か夢かも分らなっていく曖昧な感傷。室内はそんな空気に満たされていた。


 ……夢だな、これは。優一は大きく息を吐いた。ここがどこかも分らないし、いつからいるのか、どうやって来たのかもまるで覚えがないし、見当もつかない。この部屋の静けさと庭の様子は現実離れしすぎる。だから、これは夢で、自分は今頃バーのカウンターに腰かけて酔っ払って、眠っているのだ。優一はそう結論づけた。


 これまでも酔っ払って眠りこけて、気がついたら明け方の駅のホームに座っていたこともあるし、人と話しをしながら気がつくと意識がぶっとんでいることもある。それは失礼な振舞だが、酔っ払いというのはそういうものなのだ。仕方ない。

 優一は納得すると初めてくつろいだ気持ちになり、椅子に預けていた背中をぐんと反らせ両腕を持ち上げて思いきり伸びをした。それから立ち上がると窓辺に近づいてガラスに顔を寄せようとした。


 それにしてもこの部屋は懐かしい。室内にある机や椅子は小学校の時の物のように小さく、軽い。が、掲示板、あれは高校時代に教室にあったものだ。男子校だったので掲示板にはいつも週刊誌のグラビアが切り取って貼られていた。それから扉と窓枠の剝げかけた白いペンキ。これは中学校の校舎だ。古い学校だった。差し込み式の鍵はネジが馬鹿になっていて、するんするんと空回りするばかりだったのを覚えている。


 ようするに、夢なだけあってすべては優一の思い出、イメージの集合なのだ。このイメージがなにを意味するのかは、目が覚めて覚えていたら夢判断とか深層心理でも調べよう……。優一はそう思い窓ガラスに手をかけた。


 が、かけてみて、はっとして手を離した。窓外に靄と思ったのはそうではなく、実は窓ガラスが徹底的に汚れているせいだったのだ。優一はぎょっとして思わず後ずさった。ガラスには優一の触れた指先の後が点々としていた。


 優一はジーンズの腿のあたりで指先を拭うと、てれてれと歩いて掲示板に近づいた。


 掲示板にはグラビアではなく白い紙が押しピンで留められていて、読み上げると「落し物、忘れ物のないように注意」と題されて、それから「もしもの場合は相談センターに連絡すること」となっていて電話番号が書かれていた。


 優一は学生の頃からよく電車などで忘れ物をしたが、探したりしたことはなかた。失くすのはやはり傘が一番で、その次は帽子やマフラーといった小物類。本や漫画の類。どれもこれといって特別大切なものではなかった。だから探しもしなかったのだけれど、それ以前に優一は「物の役目が終わった」のだと考える傾向にあった。


 なぜかは分らない。物心ついた時からそうだった。すべての物はいずれ傷つき、色褪せ、損なわれていく。失うこともすべて自然の摂理だと思っていた。そして役目が終わったと感じられた時に初めて成長できたように感じた。その発想は輪廻を思わせる仏教的な思想だった。


 優一はそのことについて、もしかしたら自分は坊主にでもなって所有するということの欲望や願望をもっと捨て去った境地で生きていくのがいいのかもしれないとおぼろげに考えていた。


 とはいえ、急に仏門に入るつもりはなかった。早々に俗世を捨て去ってしまうには優一はまだ若かった。もちろんその若さもいずれ失われていくのは分かっている。だから今はその若さを楽しむべきで、それこそまだ「役目」は終わっていないと思っていた。


 窓の外は風があるのか、孤を描いているざくろの枝もゆらりゆらりと揺れていた。


 失われていくもの。優一は傍らにあった机に尻を乗せかけた。なにもかもが失われていくのなら、愛とか恋はどうなるのだろう。やはり役目を終えたら消え去っていくのだろうか。


 となると、恋はいつでも終わりを前提にしていることになる。だからせつないのだろうか。だから尊いのだろうか。でも、終わりがあると思うと熱中するのも虚しくなったりしないだろうか。優一はぼんやりとそんなことを考えていた。


 物思いには理由があった。優一は馴染みのバーでよく顔をあわせる女に恋をしていた。女は明るく、屈託のない性質で見ているだけで眩しかった。まるで夏の花のように鮮やかな表情をしていた。友達が多く、彼女の周りにはいつも人であふれているような気配があった。人は自分にないものに焦がれるという。まさにそんな女だった。


 隣り合わせに座って酒を飲む時、彼女はにこやかに話し、気持ちのいい飲みっぷりでグラスを重ねた。それを見ているだけで幸せだと思えるのだから、優一の消極的さが窺われる。


 しかし優一がただの飲み友達のポジションに満足しているのかというと、必ずしもそうではなかった。彼女と恋愛を前提にした付き合いができればどんなにいいか。そんな当たり前の願いも持ってはいた。ただその願いをどうやって実現したらいいのかその方法が分からず、自分の恋を持て余しているのも事実だった。


 友達に相談したりもしたけれど、誰もが優一の内向的な性格からはとても不可能と思われるような大胆な手段しか教授してくれなかった。


 いや、誰も無理難題を言ったわけではない。けれど「好きなら好きって言えば、話し早いじゃないっすか」なんて言われても、そういう事こそが一番難しいのであって、単純な言葉なのに自分には永遠に手に届かないように思えた。人によっては簡単なことでも自分にはできないこともある。優一は自分の不甲斐無さ棚に上げて、こういうのは「得手不得手」「向き不向き」なのだとひっそりと言い訳のように思った。


 そんなことを考えていると、不意に後ろの扉ががらがらと開いて一人の男が入ってきた。優一は驚いて机から降り立った。男は優一よりもいくつか年下だろうか、ソフトモヒカンがよく似合っていて整った目鼻立ちをしていた。


「あ、ども」

 男が首をすくめるようにひょこっと会釈をしたので、慌てて優一も、

「あ、どうも」

 と、頭を下げた。男はジーンズに紺色のパーカーを着ていて、室内の中央あたりにやってくると、ぐるりとあたりを見回して独り言のように言った。

「うわー、なんか懐かしい感じー」


 優一は突然現れたこの登場人物が誰なのか、必死で思い出そうとしていた。


 夢に出てくるのだから知りあいなのかも。もしかしたら芸能人の類いかも。自分では意識しないうちにテレビか何かで見た情報が脳に刷り込まれていて、こうやって夢に出てくるのはよくあることだ。バンドマンかも。こんな感じの男、まだデビューしたての気取らない男らしい3ピースバンドでギターボーカルなんてやってそうなの、よくいるじゃないか。


 男は優一のプロファイリングをよそに、ポケットから煙草を取り出し100円ライターで火を点けた。


 こんなところで煙草なんて吸っていいのだろうか。優一は一瞬面喰らったけれど、ここが教室であるという証拠もないのだから、まあ、いいのだろうと即座に思い直した。


 煙草の煙が静かに室内を流れていく。教室ならば壁に掛け時計の一つもあるはずだが、ここにはなかった。


 男は煙草を咥えたまま腰を曲げて机を検分してまわっていた。時々、机の中に手を差し込んだりもしていたが、どの机も中は空っぽらしかった。


 優一は話しかけるかどうか迷っていた。なにを話せばいいのか分らないというのもあったが、それ以前にやっぱり男が誰なのかが分らなくて困っていたのだ。もし相手が自分を知っているのに、自分が忘れていたら失礼だし、知っているふりをして初対面だったら恥ずかしい。優一はこんな時も自分は自ら事を

起こす手段を持たないのだと自嘲気味に笑った。


 すると、うまい具合に男の方から、

「あのー」

 と、話しかけてきた。

「はい?」

「あの、俺ら、どっかで会いましたっけね?」

「……え……」

「や、なんか会ったような気がして……。でも、思いだせないから……。すんません。失礼だけど、俺のこと、知ってます?」


 優一は男の話すのを聞きながら、自分とは正反対の性質の持ち主なのだな……と半ば感心していた。自分が言わんとして迷っていたことを、さらりと訊ねる勇気は素晴らしいとさえ思った。


 優一は素直に、

「ごめん。俺も覚えてないから……」

 と答えた。

「あ、そうすか?」

「どっかで会ったような気はするんだけど……ごめん、思いだせない」

「そんなん全然オッケーっすよ。俺も覚えてないもん。でも、そうっすよね? 絶対一回会ってますよね?」

「たぶんね」

「煙草、吸います?」

「うん、ありがとう……」

 男は煙草を箱ごと寄越した。


「名前、なんでしたっけ? たしか、ユウさんって呼ばれてませんでした?」

「あ、そうそう。やっぱ、会ってるな、俺ら」

「ですよね。あー、どこだっけなー。ここらへんまで出かかってるんだけどなー」

 男は首のあたりを掌で示しながら、笑って、優一の咥えた煙草に火をつけてくれた。

「バンドやってなかった?」

「やってる。もしかしてライブに来たことあるとか?」

「もしかして君のカノジョ、君のことリョーチンって呼んでなかった?」

「呼んでた。うわ、俺ら絶対会ってますよね?」


 二人は向かい合う形で椅子に腰かけた。

 言葉を交わすほど断片的な記憶がこぼれだしてくるのを感じていた。まるでもつれた糸をほぐし、するすると引き出すようだった。けれど、優一は言葉にした割にはやはり男の、恐らくは見たのであろうバンドのライブもカノジョの姿もまるで頭に浮かんでこないことが薄気味悪く、男に嘘をついているような感覚があるのも否めなかった。


 言葉がすらすらとついてでたのは、確かに嘘ではない。自分はこの男を知っている。そして男も自分を知っている。それはこの夢の中で重要な意味を持つような気がした。


「で、ここにはいつ来たんすか?」

「……さあ。気がついたらいたから」


 男は煙草を床に捨て、靴の踵で丹念に踏み消した。


 すると今度は部屋の前の扉ががらりと開いて、一人の老人が入ってきた。優一とリョーチンは顔を見合わせた。


「おっ、先客がいたか。邪魔するよ」


 老人は風呂敷包みを携えて、さも当然のように優一たちの傍へ寄ってきて「よいしょ」と言いながら椅子に腰を下した。紺色の着物に揃いの羽織、黒い別珍の足袋に下駄を履いているのが老人の佇まいによく似合っていた。


 窓の外は汚れたガラスに遮られ灰色に見えたが、風が木々を揺らす様子からしてどうも雨が降るらしかった。窓ガラスの灰色はそのまま空の灰色だった。


 この老人も自分の知人だろうか。優一の祖父はとうに他界しているし、こんな和服を着る粋な老人でもなかったからとりあえず身内ではないと判断した。


 老人は机の上で持参の風呂敷を解き、なにやらごそごそと広げ始め、

「ここ、だいぶ待たすみたいだからな」

 と、誰にともなく呟いた。

「はあ」

「お兄ちゃん達、酒飲めるだろ」

「酒持参なんすか?」

「まあな。家族が持たせてくれたからな」

「へえ」


 優一にはなんのことだかさっぱり分からなかったが、二人の会話がかみ合っているところをみると、この夢にはどうも自分の与り知らぬ設定……というか、共通認識があるらしかった。


 ここは黙って様子をみよう。優一はそう決めると黙って老人から差し出されたワンカップを受け取った。リョーチンもワンカップを受け取り、「ども」と頭を下げた。


 老人はぐいと勢いよく酒を呷ると、大きく息を吐いた。そして、

「ちょっと待ってな、なんかツマミもあったと思うんだけど……」

 と、解いた風呂敷の中から柿の種を取り出した。

「まあ、こんなもんでもな。ないよりマシだからな」

「いただきます」

「お兄ちゃん達はいつここに来たんだい?」

「今さっき来たばっかりっすよ」

「ふーん……そうか。いや、でも、あんたら若いのにねえ」

「人生って分かんないもんすよね」

「まあなあ……」


 リョーチンは煙草を老人に差し出した。老人は手刀を切って箱から一本抜きとった。リョーチンはそれに丁寧に火をつけてやった。老人の短い髪は白く、首筋は痩せて筋張っていたが、着物の上からでもそうと分かる肩の逞しさやワンカップを持つ手が武骨でよく鍛えられているのを見逃さなかった。優一はその手になんとなく見覚えがあるような気がしたが、やはり思い出すことはできなかった。


「俺も年だから、今のうちにきっちり仕事も片つけとくつもりだったんだけど」

「仕事って? その年まで仕事してたんすか?」

「だって、俺は定年なんかないから」

「へえ?」

「漁師は船があって、体が動くうちは休まねえのが本当だよ」

「おじいさん、漁師なんですか?」

 優一は驚いて聞き返した。優一の曽祖父も漁師だったのだ。

「まあな」


 もちろん曽祖父になど会ったことはないのだが、優一はこの老人が登場したことの意味がここで初めておぼろげに理解できた。どうやらこの夢には自分に「繋がる」人が登場してくるらしい、と。


「そんでも今までやれたんなら大したもんじゃないすか」

 リョーチンが柿の種を一つかみ無造作に口に入れて、ぼりぼりやりながら言った。

「体には自信あったからな」

「跡継ぎとかいるんすか?」

「ああ、息子がな」

「じゃあ、安心っすね」

「いやあ、それがまだまだ……」

老人は煙草の灰を落としながら、苦笑いして首を振った。


 優一のうちでは、祖父が漁師を継がなかった為、廃業した。優一のうちがサラリーマン世帯になったのはそこからのことだ。まだ新しい、浅い歴史。それ以前の漁師としての系譜の方がよほど長く、古く、尊い。が、それを知るものはもういない。


 手の中のワンカップは透明な光を湛えており、時々ゆらゆらと揺れた。男三人ですでに半分ほど飲んでいたが、まだ誰も酔っている様子はなかった。


 窓の外ではまだざくろの枝が揺れている。なにげに視線をそちらに向けた老人が、

「こんな風のある日は沖じゃ大荒れだよ」

 と、目を細めた。


「大変な仕事なんでしょうね」

「大変っていうかねえ、なんていうんかねえ、ああいうのは……」

「危険も多いでしょう」

「大変っちゃあ大変だし、危険っちゃあ危険。けど、そんなもん全部当たり前のことだと思ってたからな」


 老人の口ぶりはまるで利かん気な子供のことを話すように優しかった。優一も柿の種に手を伸ばし、これはリョーチンとは対照的にぽりぽりと控えめに齧るだけだった。柿の種は香ばしく、ぴりりとした辛味が美味かった。


「だって、親父もその前もその前も、ずーっとずーっと漁師だったんだから」

「……僕の曽祖父も漁師だったんですよ」

「へえ?」


 老人は風呂敷から新しいワンカップを三つ取り出し、それぞれの前に置いた。いったいそんな小さな風呂敷からどれだけワンカップが出てくるのか、優一は不思議に思った。


 思っていたら、今度はスルメが出てきた。老人はそれを丹念に裂きながら、

「お兄ちゃんとこも漁師なの?」

「いえ、僕の祖父が継がなかったから」

「そうか……。俺も別に漁師になるつもりなかったけどな」

「そうなんですか?」


 老人が裂いたスルメがまたしてもそれぞれに配られる。老人は「俺が作ったスルメ」と言うと、食べるように促した。


 細く裂かれたいい匂いのするスルメを口にいれると、瞬時にその旨みに呼応して唾液が口中をほとばしった。絶妙な固さは噛むことに喜びさえもたらす。

「うまいです」

 優一は素直に言った。リョーチンもスルメをしゃぶりながら、

「マジ、うまい……」

 と、感嘆したように呟いた。


「親父が早くに死んでなあ……、もう、漁師になるしかなかったんだよ」

「廃業とか考えなかったんですか」

「考えたけどね、俺は五人兄弟の一番上だったから、弟や妹を食わせなくちゃいけないわけよ。そしたら、もう、親父が死んだその日から金がいるもんだからとにかく漁師になるよりほかなくってなあ……」

「それ、何歳ぐらいの時でした?」

「親父が死んだのは俺が学校出てすぐだったかな……。ガキの頃から漁を手伝わされて船に乗せられてたんだから、すぐ働けるっていったらそれしかないわな」


 室内がスルメとワンカップと、煙草の匂いに満ちているのが分かった。小学校の教室みたいなこの部屋にこんな安い居酒屋みたいな匂いは似合わないし滑稽だった。


 老人がスルメをしがむ口元に老いが色濃かった。頑丈そうな体躯、明晰な言葉と瞳からは浮き上がるほどの老いだった。


「大変だったんですね」

「いやさ、だから、それも当たり前。俺が長男なんだから、下の面倒みるのは当然だろ。今はもうそんな世の中じゃないけど」

「はあ」

「でもなあ、当たり前だと思っていいのは俺だけなんだよ」

「え?」

 優一は老人の言葉の意味が分からず、思わず聞き返した。

「どういう意味ですか?」

「お兄ちゃんたち若いから分らんだろうけどな、親が子供にしてやることはみんな当たり前のことだし、子供が年取った親をみてやるのも当たり前。俺が兄弟を食わせてやるのも、当たり前。でも、してもらう方はそれを当り前に思っちゃ駄目だ。嫁だろうが親だろうが、そんなことは関係ねえ。相手が誰であろうと、人になにかしてもらったら感謝しなくちゃいけないし、謙虚な気持ちにならなくちゃいけないよ。それが人の道ってもんだよ」

「……」

「俺はそんなして若い頃から漁師やって、船も二艘作って、家も二軒建てた」

「へえ! すごいですね」

「漁師って儲かるんすねえ」


 優一とリョーチンは声を揃えた。が、老人は首を振りながら、

「魚が獲れりゃあな。獲れなきゃ、船出すだけで赤字だよ」

 と、苦々しく返した。


「妹三人も嫁に出した。もちろん、俺が全部支度してやったよ」


 若者二人はもう黙って老人の話しを聞くだけだった。老人はいくぶん酒がまわってきたようで、語尾が最初の頃より微かに揺れるようになっていた。


 優一は内心、おかしな話しになってきたな……と雲行きの怪しさを感じていた。老人の話は自慢のようでいて、まるでそんな空気を感じさせず言葉は重く失速していくようだった。


「弟も大学まで行かせた。独立する為の資金も出した」

「……」

「けどな」

「……」

「だーれも、なーんも言わねえの」

「……」

「俺がこの年になるまで、いっぺんも、なんも言わねえ」

「……」

「俺は、自分は当たり前のことをしたと思ってる。やるべきことは、やった。自分の人生だ。これでよかったと思ってるよ。でも、あいつらはなんで俺の人生のなにもかもを当り前だと思ってるんだ」

「……」

「俺が苦労すんのも当たり前で、自分たちが食わせてもらうのも当たり前なのか」


 優一とリョーチンは顔を見合わせた。目の前で、ワンカップを手にしたまま老人は泣いていた。


 窓の外でざわめいていた風はいつしかやみ、雨が降り出していた。汚れたガラスに雨の滴があたり、つらつらと流れて一筋、二筋と埃を洗い流していく。まるで老人の涙のような雨だった。


 正直言って優一は困惑していた。こんな時どうしていいか分からなかったし、自分よりずっと年上の、それも男が泣くということは重く、慰めなど到底及ばないと思った。


 優一はこんな涙を見るのは初めてだった。祖父も父親も優一に泣くところを見せなかった。泣かなかったということはないだろう。人間なのだから彼らだって泣くことはあったろう。が、家族の誰にも見せることはなかった。優一はそのことを疑問に思ったこともなかったし、彼らが泣くということについても深く考えたことがなかった。泣くことはプライバシーのように感じていたし、家族でありながら遠くの出来事のようにも感じていた。そう考えると、老人の気持ちはそのまま彼のプライバシーだと思った。家族の誰も触れることの叶わない、彼だけの秘密にも等しい。そこには誰も触れられない。


「なんで、そう言わないんすか」


 不意にリョーチンが口をはさんだ。


 優一は驚いて、リョーチンの横顔を見た。リョーチンは真剣な顔をしていたが、手の中のワンカップは空になっていた。


「言ってやればいいんすよ」

「そんなことは言えねえよ」

「なんで? 思ったことは言えばいいじゃないすか」

「思ったことなんでも言えばいいってもんじゃねえんだよ」

「俺なら言う」


 リョーチンはきっぱり言い放った。その言い方は老人の為というより、どこか自分に向って言っているような、子供じみた頑なさがあった。


「俺は、思ったことは言うよ」

「それがいつでも正しいとは限らんだろうよ」


 老人は着物の袂から手拭いを出すと、鼻先を拭った。どうもこれは二人とも酔っ払っているらしかった。


「俺ね、好きなもんは好きっていうし、無理もんは無理っていう。気に入らないもんは、どうしたって気に入らねえし、気になるもんは絶対に気になるし」

「……」

「でも、それは相手を好きだからであって、どうでもよかったらなんも言わねえっすよ。家族とか、兄弟だって同じだと思う。どうでもよくないなら、やっぱ自分の気持ちはちゃんと言わなくちゃ」


 優一はその言葉にぎくりとした。これと似たような言葉を、つい先日聞いたばかりだった。

「……本当にそうなのかな」

「え?」

 優一はぽつりと呟いた。


「思ったことを口に出して、相手を傷つけることもあるんじゃないの?」

「まあ、そうだな。お兄ちゃんは優しいんだね。優しくて、でも臆病なんだな」


 老人の言葉を受け、今度はリョーチンが熱を帯びたように言う。優一は図星を指されたようで思わず押し黙る。


「そりゃあ、傷つけないにこしたことはないけど……、でも、そんなしてまで自分を押し殺す必要ってあるんすか?」

「押し殺すわけじゃないけど、言い方ってあるだろ」

「言葉を変えても言ってることは同じなら、相手を傷つけることも同じじゃね? もちろんわざと傷つけはしないけどさあ。悪気はないっていうか。でも、傷つけたくないから自分の気持ちを言わないっていうのもね、極端だよね」

「ふうん、お兄ちゃんはずいぶん正直で我儘なんだねえ」

「……」

「……」


 老人はまたまた風呂敷包みからワンカップを取り出し、それぞれに渡した。


「どっちも正しいし、どっちも間違ってると、俺は思うねえ……。人間には、言いたいことを言わずに黙らなきゃいけないこともあるし、言いたくないことでも言わなくちゃいけないこともあるだろうよ」

 

雨は激しさを増したようだった。室内は空気がぬるく、酔っているせいか肌は汗ばんでいた。


 リョーチンは着ていたパーカーを脱ぐと、無造作に隣の机に投げ出した。

「なんか暑くなってきたっすね」

「うん。あれっ、Tシャツに血がついてるよ」

「あ、これ?」

「大丈夫? 怪我でもしてんの?」


 優一がリョーチンのシャツの胸についた血をよく見ようと身を乗り出した瞬間だった。前の扉が開き、黒いスーツを着た男が顔を覗かせた。


「どうもお待たせしましたー」


 黒スーツの男は紙挟みを一部携えて室内に入ってくると、三人の前にちらばった柿の種やスルメ、ワンカップを見て苦笑いしながら、

「宴会ですか」

 と、言った。


 黒スーツはよく磨かれた皮靴をこつこつと鳴らし、紙挟みを開きながら胸ポケットから万年筆を取り出した。


「荷物はこれだけですか?」

 黒スーツが風呂敷包みを指し示す。

「うん、でも、今だいぶ飲んじまった」

「ははは」


 老人が立ち上がる。

 黒スーツがリョーチンに向って、

「ああ、そのシャツ。着替えはあとで届きますから」

「うっす」

 リョーチンも立ち上がる。


 優一は最初から感じていたことが再び今度は大きくなって頭の中をふくれあがってくるのをもはや無視することはできなかった。


 老人もリョーチンも初めからこの場所に疑問を持たず、会話もどことはなしに噛み合っていた。自分だけがなにも知らず、なにも分かっておらず、状況も把握できないどころかここがどこなのかも分かっていない。夢にしても、あんまりだ。


いや、でも、これは現実でも同じことが言える。自分はいつも、なにも分かってなどいない。好きだと思う相手のことも、周囲が自分をどんな目で見ているのかも、自分自身さえも。優一は急速に気分が落ち込んでいくのを感じていた。恐らく、この夢はそういった自分の不甲斐無さを投影しているのだ。心の奥底で眠っている、自分への叱責であり、嘆きなのだ。


 老人はすでに風呂敷をきっちりと結び、リョーチンはパーカーを着直している。優一だけが怪訝な顔で事態を見守っていた。


「じゃ、確認します。えーと、Iさん」

「はい」

「はい」

「はい」


 三人同時に返事をした。三人は驚いて互いの顔を見合わせた。どういうことだ?

 黒スーツも目を丸くし、それから紙挟みにさっと目をやった。そしてぺらぺらと紙をめくって一人で「あー、はいはい、なるほどね」と頷いた。


「みなさん同じ苗字ですね。Iさん。それじゃあ、ええと、失礼してお名前で呼ばせて貰いますね。源蔵さんは心臓発作ですね」

「ああ」

「お疲れさまでした」

 老人はふむと重々しく頷いた。


「良太さんは、痴情のもつれによる刺殺……」

「あ、やっぱそうなるんすか」

「法的なことはこちらに関係ないので」

「事故っていうか、手違いっていうか、やりすぎちゃっただけなのになあ」

 リョーチンは机の上の煙草とライターをポケットにしまった。優一だけが呆然と椅子に腰掛け、彼らの顔に幾度も視線をさまよわせていた。


「優一さんは、交通事故ですね」

「はっ?」

「享年二十八歳」

「ええっ?」


 黒スーツの淡々とした言葉に優一はのけぞった。


 交通事故? 享年? 聞きなれない言葉が脳内で変換されるのに数秒を要するほど、優一は愕然としていた。そんな優一を老人とリョーチン二人が心配そうに覗き込んでいた。


「大丈夫っすか?」

 リョーチンが恐る恐る声をかけた。


「え……ごめん、話しが見えないんだけど……」

「だから、おじいさんは心臓発作でー、俺はカノジョと別れ話で揉めてー」

「え? ますます意味分かんない」

「刺されたんすよ。ほら、これ。この血。これね、刺されたから」

「ええ?!」


 優一は今度は椅子から転げ落ちそうになった。

「女に刺されるなんて、お兄ちゃん、思ったことを思ったままに言ったんだろ」

「そんなことないけど。そんなつもりじゃなかったんだけど」

「だから、思ったことなんでも言えばいいってもんじゃないんだって」

「もう遅いっす」


 老人とリョーチンとの掛け合いは話しの内容からはおよそ似つかわしくなく、能天気だった。なんでこんな物騒なとんでもない話しを吞気に喋っているのか。優一は言葉を失っていた。


「優一さん」

 椅子の上で石のように固まっていた優一に、黒スーツがそっと話しかけてきた。

「急なことだったので、まだご自身で理解されてないんですね」

「……あの、ほんとに、なんのことなんだか……」


 雨は今や完全にガラスの汚れを濯いでいた。に見えているのは美しい森。青々とした下草と雨に濡れた木々。それは生命力に溢れ、眩しいほどの色彩だった。


「お気の毒ですが、あなたはこちらのお二人同様にお亡くなりになったんです」

「ええ!?」

「あなたはバイクで家に帰る途中だった。あなたのミスではありません。ウィンカーもつけずに突然左折してきたトラックに巻き込まれたのです」

「ええっ……」

「即死でした」

「えええっ……」


 老人とリョーチンが悲しそうな視線を投げているのが、優一にも分かった。しかし優一は、それでは一体ここはどこで、これからどこへ行こうとしているのかが聞きたくてたまらなかった。


 が、震える唇から漏れ出た言葉は、

「それじゃあ、おじいさんも君も死んでるんだ……?」

「俺は心臓発作だったよ。寝てる間に急にぽっくりな。まあ、年だからな。しょうがないよ」

「俺は女に包丁で刺されて。自業自得と言われたらそれまでっすけど」

 気がつくと黒スーツがポケットからハンカチを取り出し、優一に差し出していた。優一は顔をあげた。


「泣いてもいいんですよ。それは恥ずかしいことではないのです」

「……」

「もうあなたはなにも考えることなく、誰にはばかることなく、自分の為だけに、自己中心的になって生きていいのです」

「今、死んだって言ったじゃないですか」

「確かにあなたの肉体は死滅しました。が、これから先、あなたの精神は生き続けます」

「……」

「ただし、永遠にたった一人きりで、ですが」

「……」

「さあ、Iさん、行きましょう」


 黒スーツが一同を促す。


「俺ら、みんな同じ名前なんてすごいミラクルっすよね」

 リョーチンがやはり吞気に言う。なんだ、ミラクルって。優一は腹立たしい気持ちになった。


 老人が誰にともなく「俺が死んで、うちの猫はどうしたかな」と呟いた。


「猫飼ってんですか」

「俺同様に年寄り猫でなあ。飼い主が先に死んだんじゃあ可哀そうになあ。こうなるって分かってたら孫に頼んだのに……」

「夢枕に立つとかできないんですかね」

「さあなあ」


 なんだ、夢枕って。優一はますます腹立たしい気持ちになる。


黒スーツはまだハンカチを差し出している。優一はそれを受け取るべきなのか、それともそのまま立ち上がるべきなのか、いずれも迷った。ましてや「行きましょう」と言われてすんなり素直について行ってもいいものなのか。分からない。やっぱり何も決められない。胸の中ではただ一心にこの夢から早く覚めたいと願っていた。


5、

繁華な通りを避けた路地裏のバーはその夜も適度に混みあっていた。時刻は午前0時を少しまわったところで、常連客がカウンターに並びいつものように談笑していた。壁にかけた写真の中でアル・パチーノとジーン・ハックマンが煙草に火をつけて静かにこの店の様子を窺っているようだった。


 服部道彦の仕事はこの店で客の相手をし、愚痴を聞き、冗談を言い、時々は真面目な話をすることだった。が、それより最も重要で本質的なのは「酒を作る」ことだった。


 バーテンとして酒を作る。結局のところ、それが彼のすべてだった。


夜のバーには様々な人種が現れては、去っていく。人の数だけニュースがあり、ドラマがあり、トラブルがある。小さないざこざもあれば、派手な喧嘩も巻き起こるし、狡猾な策略だってめぐらされる。そのすべてを見ていると、彼はたとえ意見を求められたとしても、最終的には常に自分はここにいる限り一介のバーテンであらんと思うのだった。即ち、酒を作るだけのマシンともいえるような傍観と中立の視線であれと。


 その為に服部道彦は氷の純度、酒の温度に気を配り、水を選び、道具を確実に使いこなし、空調から音楽、照明に至るまですべてに心を砕いて自分の職務に忠実であろうとしていた。


 この店に雇われてから数年。果たして、一体どれほどの人がこの店を訪れただろう。服部道彦はふと考える。もしかしたら自分は「人が人に出会う」という奇跡を他のどんな職業の人間よりも多く味わっているのではないだろうか、と。それも老若男女、年齢も社会的身分も、職業も種主雑多な人との出会いを。


 人間一人が生涯出会うことのできる人間の数に際限はあるのだろうか。一人あたりの出会う人数には定員があるのだろうか。それは当然目に見えない、なにか神がかったものの力を想像せずにはおけないのだが、なんにせよそんなものがあったならば自分はもうそれをとっくにオーバーしてしまっているだろうと思った。


 それでもこの店にいる限り常に新しく人に出会い続けるのだとしたら。彼は、思う。それは自分の与り知らぬところで誰かの持ち分である奇跡を掠め取ってしまっているのではないだろうか、と。


 その日はなぜか遅い時刻になっても客足が途絶えなかった。こんな日に限って。彼は溜息をつきたい気分だった。ひどく疲れていた。


 無理もない。今、こうして酒を作り、客と話し、夜を過ごしているが、今日は母方の祖父が亡くなりその葬儀に参列したばかりだった。


 母方の祖父は漁師だった。近年は漁獲量も減り、船を出す方が経費がかかって赤字になるようなこともあるようだったが、祖父には何か不思議な力があるらしく、それは経験とか勘と呼ばれるものだけでなく、魚群探知機に頼らずともどこに魚がいるのかが分かるので漁師仲間の尊敬を集めていた。


 腕は一流。苦労人で、情に厚い人だったので葬儀は思いのほか盛大なものになった。会葬者が大勢集まり、皆一様に涙にくれた。


 死因は心臓発作だった。持病があったわけではない。医者の話によれば、たとえ若かったとしてもそういう突発的な心不全などの可能性はあるらしいが、夜中に寝ている間にわずかに苦しみ、そのまま息を引き取ったのはいい意味では大往生と言えた。


 すでに祖母は他界しており祖父は一人暮らしだったので、祖父の船と古い家、それから猫が一匹残った。


 船は処分されることが決まっていたし、家も法に基づいた形での相続がなされることを親類たちの合意のもとに平和的に解決していた。が、猫の行く末については誰も口にしなかった。


 もとはといえば、祖父宅の猫を拾ってきたのは服部道彦だった。まだ子供の頃に、弟と二人で瀕死の子猫を見つけ、家で飼うことはできなくて、二人で泣きながら近くに住んでいる祖父のところへ運びこんだのだ。子猫は目ヤニをいっぱいつけて、洟水を垂らし、ぶるぶる震えていた。あのまま放っておけば確実に死ぬだろうことは子供でも分かった。


 服部道彦と弟は二人して祖父に猫を家においてくれるよう頼んだ。自分たちが世話をできるわけでもないのに、毎日会いに来るとか、面倒みるとか言って。祖父はしばし黙って考え、それから「しょうがないな」と呟いた。猫は祖父宅で命をつないだ。


そのことについて自分は今まで深く考えたこともなかったが、思えば猫も高齢だ。まだ元気そうだし、毛並みも悪くない。が、老いは見えざるところに現われているだろうし、祖父でさえ突然ぽっくり死んだのに年老いた猫だっていつ死ぬとも限らない。だから誰も引き取るとは言いださない。老いて行くものを看取るのはそれが猫であっても大変なことだと分かっているからだ。


「死」について考えた時、服部道彦がいつも思い出すのは祖母が死んだ時のことだ。あれは、人生で初めて遭遇した「死」だった。


祖母が死んだのは服部道彦が中学生の時で、ずいぶんと可愛がってもらった。だから思春期の照れもなく泣いた。


 葬儀は近くの葬儀場で行われ、花と香華に彩られて、遺影も普段割烹着を着て忙しく立ち働く姿ではなく、いつ撮ったんだか取り澄ました顔で、知らない人のように見えた。


 服部道彦は死というものがこんな風にして人と人とを分つのだと思うとやりきれない気持ちになった。


 時間というものは一筋の流れとして繋がっていると思っていたし、今日と言う日もそのはずだったのに、祖母は死によってその流れを断ち切り、もはや自分達とは遠い存在となっている。


 死を間におくだけで、こんなにも何もかもが違ってしまうというのを服部道彦は初めて知った。


 通夜の晩、棺を据えた会場には誰もおらず、大人たちは控室で弁当を食べていた。服部道彦は食欲もなくパイプ椅子に腰かけてぼんやりと祭壇を眺めていた。

 安全のためか蝋燭の代わりに蝋燭の形をしたランプが灯り、線香だけが絶え間なく静かに燃え尽きて、また新しく点けて、燃え尽きて、それだけを繰り返し時と刻んでいた。


 すると祖父が控室から出て、ビール臭い息を吐きながらやって来た。

「ここにおったんか。メシは食ったんか」

「……」

「いらんのか」

「……」

「……」


 服部道彦はうんともすんとも言わなかった。

「道彦、こっち来てみろ」

 突然、祖父が棺の横に立ち手まねきをした。

「え?」

「いいから来てみろ」


 服部道彦は言われるままにのろのろと立ち上がり、祖父の傍へ寄って行った。

 棺の中には祖母が死んでいる。白い着物を着て、死化粧でも施しているのだろうか生きていた時よりも妙に顔が白くつやつやしい。肌理もこまかくて陶器のようでさえある。


 金色の縁どりのある布団みたいなものをかけられ、胸の上には数珠が置かれていた。


 服部道彦は祖母を好きだったにも関わらず、この時、正直言って死んだ祖母が怖かった。


 厳密には祖母が怖いのではなく、死んでいるのが怖かった。


 見れば見るほど思わず目をそむけたくなるような、決して気持ち悪いとかではなくて、ほとんどうろたえるような感じでどうしていいのか分からなかった。死んだ人間を前にして、何を思い、何を言えばいいのかさえも。


 なんとなく焦点をあわせないようにあらぬ方向を見ていると、祖父が、

「さわってみろ」

 と言った。

「え」


 その言葉に服部道彦は驚き、困惑した。が、それより先に祖父は素早く手をつかむとぐいと棺の中の祖母の顔に手のひらを押しつけた。


 その瞬間、服部道彦は全身総毛立った。文字通り、ぞっとするほど祖母は冷たく、固かった。


 思わず祖父の手を振りほどいて逃れそうになったが、祖父の手はがっちりと服部道彦を捕まえて放さなかった。時間にしたらわずか数秒のことだが気が遠くなるほど長く感じられた。


 祖父の手から力が抜けた時、服部道彦はゆっくりと祖母の顔から手を離した。心臓が縮こまり、緊張と恐怖で早鐘を打っていた。


 祖父は棺の中の祖母を見つめながら言った。


「死んだらこうなるんやぞ。覚えとけ」


 服部道彦はまだ手のひらに残る感触と、どうしようもない悲しさに耐えきれず泣き出してしまった。


 祖父は棺の蓋を閉めると、服部道彦の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。


 料理が上手くて、手作りのおやつをふるまってくれたこと。働き者で、手まめであることを証明するような、いつも濡れて赤味を帯びた手。その手にはどういうわけだか常に輪ゴムがはめてあり、あれは一体なんに使うんだか、使っているところは一度も見なかった。


質素倹約を旨とし、時々は飲みすぎる祖父を叱り飛ばし、松平健の隠れファンだった祖母。思いだせるのは笑顔ばかりだった。服部道彦は胸に去来する思い出の数々に泣けてしょうがなかった。


 しかし、棺桶の中にも遺影にもそんな姿を偲ぶものは何もなく、ただ型通りの遺体と葬儀があり、「死」が横たわっているだけだった。


 服部道彦は悲しさと同時に悔しさみたいなものを感じていた。その時、祖父も同じ気持ちになったのだろう。翌日の葬儀の後、斎場での待ち時間の間に祖父は言った。


「儂が死んだらなあ」

「……」

「こういう葬式はせんでおいてくれよ」

「……」

「家でやりゃあええ。近所の人も来やすいしな。花も香もなんもいらんからな。お経も一番安いやつにしとけよ」

「……」

「頼んだからな」

 と。


 そうだ。頼まれたんだった。服部道彦ははっと我に返った。


 祖母の死を生々しく刻みつけた祖父は、あの時何を言わんとしていたのだろうか。死んだらこうなるのだという言葉の重さは、実感があってこそのものだった。祖父は服部道彦に「死」を教えてくれた。と、同時にそれは「生」を教えてくれるのと同じことだった。


 祖父の葬儀は型通りに行われた。あの時、祖父が言っていたような質素なものではなく、無論、自宅で執り行ったわけでもなく、それこそ祖父の望んだようなものではなかった。結局、祖父の頼みはなにも果たさなかったことになる。


 服部道彦は自分の中で一つの答えがすでに出ているのを、無視しようとしていた。その分だけ、客席にいつも以上に気を配り、丁寧に酒を作り、グラスを磨いた。


テーブル席には五人の若い男が賑やかにグラスを重ねていた。

 若いということは時として馬鹿だということと同義だ。彼は自身もかつてやらかしてしまった馬鹿げた失敗を思うと、恥ずかしさのあまり頭を抱えて転がりまわりたい衝動に駆られる。


 酒の上での失敗もどれだけあっただろう。一体どれだけの人に迷惑をかけてきただろう。


 酔った上での失敗の恐ろしいところは、本人はすべてを忘れてしまうところにある。が、それを上回って恐ろしいのは、本人は忘れても周囲の人間は決して忘れないことだ。それはどんなことよりも恐ろしく、恥ずかしいことだと思う。彼は自分の記憶にはないのに、他人の記憶に永久に刻まれてしまった馬鹿な行動のすべてを抹消できるのならどんな代償でも払っていいような気がしていた。


 いっそ宇宙人にさらわれて記憶を操作されればいい。そんなことも考えることがあった。宇宙人がどこにいてどんな操作を施すのかは知らないけれども。


 恥の記憶を持って生きることは反省を促す。そういう意味では間抜けな失敗の数々も必要であるといえるが、いつか自分がこの世から消え去った時、酔っ払って階段から転落したり、見知らぬ人の靴にゲロを吐いてしまったり、トイレに籠城したことも、化け物みたいな女と寝てしまったことも、すべてすべて誰かの記憶に残り続けるのだとしたら、死んですべてがチャラになるとか、土は土に灰は灰に帰るとは到底思えなかったし、もっと違った意味で死を恐れる気持ちにもなった。


 とかく人というものは悪いことばかりを鮮明に記憶する。良い思い出、美しい出来事より忘れてしまいたいことの方を強く記憶する。ならば、自分は過去の失敗の分だけ人々に覚えられることだろう。馬鹿で間抜けな男として。


 彼が今バーテンとして真面目に働くのは、無意識かでそのイメージを少しでも払拭するためだったかもしれない。


 彼にとって生きている「今」という時間はすべてを「過去」にする為にある。即ち「今を生きながら」同時に「今を死んでいく」ようなものだった。


 若い男五人はさっきから大きな声で喋り、なにが面白いのか時々どっと一斉に笑う。その明るさと朗らかさはこの店のこの時間に似つかわしいものとは言い難かったけれど仕方なかった。彼はやむなく音楽をかけかえる。インディア・アリーのアコースティックソウルから、メイシー・グレイのドスの効いた歌声へ。


 するとその時、扉が開いて藤沢トモヤが入ってきた。

「いらっしゃい」

 服部道彦は常連である髪の長い若い男に声をかけた。

「うわ、今日も混んでますね」

「今日も?」

「だって、この前も混んでたし」

「偶然だよ」


 カウンターに腰かけた藤沢トモヤの前に灰皿とコースターを置く。

「とりあえずビールください」


 彼は伝票をつけると、ビールサーバーからビールを注いだ。


 藤沢トモヤにも失敗があった。彼はそのことをふと思い出す。いや、藤沢トモヤ自身は酔ってはいなかった。が、彼が連れてきた女の子がひどく泥酔し、カウンターに突っ伏して寝入ってしまったのだ。無論、それぐらいなら大したことではない。大変だったのがその後で、女の子が椅子から転落し額が割れて流血したことで事態は突然悲劇的な展開になった。藤沢トモヤは困りはて、やむなく女の子を担いでタクシーで病院へ行った。


彼はこと女関係に関してお世辞にも誠実とは言い難い男だったが、浮世の義理は果たす性質らしく、翌日菓子折りを持って詫びにきた。病院で女の怪我の説明をするのに骨が折れたと話す様子は実にきまり悪そうだった。藤沢トモヤはその女のと寝ておきながら名前も知らなかったのだと言った。


「トモヤ、今、バイト終わったの?」

「今日は休み」


 藤沢トモヤの隣りに座っていたこれも常連の女が声をかけた。二人は軽く乾杯し、それぞれのグラスに口をつけた。女はスパイラルパーマがワイルドだったが、彼の目にはいつ見ても鳥の巣のようなもじゃもじゃ頭にしか見えなかった。鳥が卵を産むのに最適そうなもじゃもじゃに。


「休みなのに一人なの? 女の子連れてないなんて珍しいわね」

「ユキオと待ち合わせしてるから」


 藤沢トモヤは整った顔立ちで女にモテる。それを利用して女をとっかえひっかえする。それは若い男の武勇伝のようで、しかしいつかは若気の至り、即ち恥の記憶に変わるものだろうことを彼は知っていた。


 彼は次の注文をこなしながら、藤沢トモヤの死について考えた。今、トモヤが死んでも自分は彼を忘れない。もちろん恥の記憶も、そうしたら彼は少なくとも自分の中では死なないような気がする。それともトモヤは忘れられたいだろうか。


「ねえ、トモヤ」

「ん?」

「Iのことなんだけど……」


 二人は声をひそめて顔をつき合わせるような格好になった。彼はその様子から聞いてはいけない内容なのだと察し、自分の仕事に集中することにした。


 バーテンというものはすべての会話を聞くのと同時に、すべての会話を聞いてはならないものなのだ。秘密に精通しておきながら、一切に関知してはならない。人々はここへ来て、去っていく。通り過ぎていく。彼も店も人々の通過点に過ぎない。彼は自分の人生を切り刻んで、人々の人生へとスクラップしているような気がしていた。


 藤沢トモヤ達が話していると扉が開き、立花ユキオが入ってきた。痩せて切れ長の目をしているのが特徴で、彼もどちらかというと端整な顔立ちをしていた。が、どこかに影があり、これも彼がカウンターをはさんで感じていたことだけれど、立花ユキオは一人でグラスを傾けて、不意に黙り込む瞬間に心の奥底にうごめくような暗いものを見せることがあった。口を開けば冗談ばかり言うような男だが、彼は立花ユキオの本質はもっと陰惨で、どうしようもないほどの絶望感に塗りつぶされていると半ば確信していた。しかし、彼はバーテンとして立花ユキオの中に潜む暗闇を誠実に無視していた。 


「遅えなあ」


 藤沢トモヤが立花ユキオを不満げに睨んだ。立花ユキオは隣に腰掛けると、

「なに言ってんだよ。お前はこの前はすっぽかしたくせに」

「あー、あれね」

「お前、あん時の借りがあるんだから今日は奢れよな」

「ああ、ああ。もう、俺が悪かったよ。なんでも飲んでくれよ。バイト料出たとこだし」

「よし、一番高いヤツ飲んでやる」

「馬鹿、お前はビールでいいよ。ハットリさん、ビールいれてやってください」

「ざけんなよ。ハットリさん、なんか一番高いやつにして」

「ユキオ、どうせ死ぬほど飲むんだから、とりあえずビールからにしとけ」

「しょうがねえな、その代り思いっくそ飲むから覚悟しとけ」


 スパイラルパーマの女は二人のやりとりを微笑みながら聞いていた。


 今はこんな大人の女の顔でゆったり飲んでいるけれど、彼女にだってすべての人に忘れてもらいたい過去がある。服部道彦それも知っている自分にふと心づいた。

 彼女のことは学生の頃から知っている。自分は当時他の店で働いていた。それはダンスフロアのあるクラブで、週末はひどく混雑し、丁寧に酒を作るよりもとにかく数をこなしていく肉体労働だった。


彼女はその頃から豪快なスパイラルパーマで、目が大きくて睫毛が長くて、唇が厚かった。今も風貌は変わらないが、若い頃の無機質な美しさは失われ、今は女らしい色気と自信に充ち溢れている。今の彼女からは想像もつかないが、かつて、彼女は眼の前で大乱闘事件を起こしたことがあった。


 彼女は学生のくせに不倫していた。「恋は盲目」を地で行っていた。相手の男の顔は今も覚えている。四十代半ばですでに額は後退しつつあった。その男の妻が浮気現場を押さえに店へやってきて、口論の末に彼女を張り倒したのだ。そして彼女はそれに対し拳で反撃した。


 あまりの見事な右ストレートに、思わず店中がボクシング世界タイトルマッチのリングサイドのように湧きあがった。彼女が傷害で逮捕も告訴もされなかったのは、友人たちの入れ知恵のおかげと、他ならぬ彼自身が裏口から彼女を逃がしたおかげだった。


 彼は今でも彼女を見ると、心の中でロッキーのテーマを口ずさみたくなる。完璧な化粧とエレガントな身のこなしをマスターした彼女からは血の匂いはもう感じられない。でも、決して忘れることはないだろう。彼女が流した血と涙と、情けない洟水のことを。


 立花ユキオにビールを出すと彼らの間で再び乾杯が交わされた。顔見知りに会う度に彼らはグラスを掲げる。そうして夜が深まっていく。


「あ、そうだ。死ぬほどで思いだした」

「なに」

「Iのこと、聞いた?」

「……うん」

「まさかあんなことになるとはなあ」


 立花ユキオは腕を組み、頭を振りながら言った。藤沢トモヤがその言葉に呼応して一瞬きだしそうな顔になったが、周囲の目を気にしてかわざと無関心な顔をしてみせるのを彼は見逃さなかった。


「死ぬなんて思わなかったよな」

「うん……」


 スパイラルパーマの女も煙草に火をつけ、しんみりと煙を吐き出した。


「人の死って、いつも突然よね……」

「でも、ショッキングすぎっすよ」

「いい人って、みんな早くに死んじゃう」

「まあ、なんだかんだいって憎めないキャラだったしな」


 三人はグラスに手を伸ばすと、口をつけ、溜息のように息を漏らした。それがほとんど完全なシンクロだったことに、カウンターの内側からその光景を見ていた彼は目を丸くした。


 なんということだろう。本来なら大した接点のない彼らを一人の人間の「死」が結び付けている。彼はそう思うと不意に胸が苦しくなり手元に置いていた自分用のグラスに酒を注いだ。


「憎めないっていうより、あの人を嫌いだった人なんていないだろ」


 藤沢トモヤは呟いた。それは隣りに座っている女に聞かせる為の言葉だった。


 好きな女にはっきり好きだと言えず、好意的な言葉で婉曲に想いを伝えようとしていたこと。その努力が、彼の生きた軌跡。藤沢トモヤは自分がシャイな男にしたアドバイスの数々を思い出していた。こんなに急に死んでしまうのなら、もっと違うアプローチを薦めてやればよかった。少なくとも後悔しないように。


 しかし、立花ユキオは煙草を揉み消すと不満の声をあげた。


「ええ? そうかあ? そりゃあ、悪気のないのは分かるけど……。でも、やっぱり女と揉めるっていうのは、問題あったんじゃないかなあ」

「Iが? 女の子と揉めてたの?」

 女が驚いた声をあげた。

「んー、まあね。惚れっぽいんだよ。で、気が多い。しかも変に優しいから別れられないっていうか」

「ちょ、ちょっと待って。Iってカノジョがいたの?」


 女が藤沢トモヤを中に挟みながら、ぐっと身を乗り出してきた。


 その剣幕に立花ユキオは面食らった。が、それと共に、もしやこの女も騙された口なんだろうかと思った。


 あの男はバンドやってるせいか明るくて、社交的で、子供じみていたけれどいいヤツだった。でも、ちょっといいなと思った女の子には次から次へと好きだと言ったり、思ったことを思ったままに口にする癖があった。素直といえば、素直だが、馬鹿といえば馬鹿の部類に入るだろう。無論、いい加減なところがあったとはいえ、それだけの理由で死んで当然だなんて思わないけれど。


 立花ユキオは本当のことを言ってもいいのか、一瞬ためらった。言えば目の前の女を傷つけるかもしれないと思ったのだ。やむなく立花ユキオはもごもごと弁解するように呟いた。


「まあ、あんまり上手くいってるって話しではなかったけど……。いたよ、カノジョ」

 すると藤沢トモヤが割って入った。

「カノジョの話は俺も初めて聞いた」

「え? なんで? 知らなかったのか? 嘘だろー」

 今度は立花ユキオが驚く番だった。

「もしかして別れたって言ってた?」

「つーか、そんな話し自体まったく知らなかった」


 背後のテーブルで一際大きな笑い声が起こった。藤沢トモヤは思わずイラっとした。関係ない人間とはいえ、今、この瞬間に笑っていることが許せなかった。


「じゃあ嘘ついてたのかもな。あちこちに」


 立花ユキオは煙草に火をつけ、長々と煙を吐き出した。女が抗議するように言う。


「Iが? Iはそんな人じゃないわよ。ねえ、トモヤもそう思うでしょう?」

「うん」

「嘘か何かは分かんないけどさ。あんまりね、いい事はしてないんじゃねえの。悪く言いたくないけど、でも、そうでなきゃあんな死に方しないよ」

「あんなって、だって事故じゃない」

「事故じゃないよ」


 人々の通過点であるバーテンの彼は気づくと自分の職務を一瞬忘れ、三人の前に立ち会話をしっかりと聞き耳を立てていた。妙なスリルが胸を満たしていく。新たなドラマとの出会い。またしても誰かの奇跡の持ち分をピンハネしたような後ろめたさが胸をよぎる


「明らかにわざと……つーか、殺意ってのがどの程度本気のものか分かんないけど、でも結果として人を刺したら殺人だろ」

「そんな!」


 二人が同時に叫ぶ。立花ユキオは真面目な顔で言葉を継ぐ。


「同時に複数の女と付き合うなんて、無理なんだよ。あちこちに嘘つくわけだろ。そんなんどっかでバレるに決まってる。人間そんな器用にはできてないし、信用っていうのは実績の上に成り立つわけだしさ。あいつの普段の行動を知ってたら、刺されても無理ないよ。こんな言い方したくないけど。そういう結果を引き起こしたのは自分のせいでもあるんだし。かわいそうだとは思うけど……痴情のもつれなんて、しょうがないじゃないか」

「ちょっと待って!」


 女が立花ユキオを制した。藤沢トモヤはすでに言葉を失っていた。


「……ねえ、さっきから誰の話ししてるの?」

「誰って、Iに決まってるじゃん」

「だってIはバイクの事故で死んだのよ」

「事故? 違う違う。女に刺されたんだってば」

「だから、それ誰の話しなの?!」


 カウンターの中、彼は扉の開く気配にはっと我に返った。


「いらっしゃいませ」


 反射的に、職業的に、扉に向って言う。


 次の瞬間。テーブル席の五人の男が一斉に叫んだ。


「I! 遅いよ!」


 カウンターの三人は猛烈な勢いで「I」を振りかえった。「I」はテーブルの男たちに片手をあげながら、すんなりと椅子におさまるところだった。


 彼は三人の前をそっと離れ、胸の中で呟いた。誰も、誰かのことを本当に分かったりはしない。本当のことなど知りもしない。ただ夜と夜の間をすれ違っていくだけだ。そしてそこには酒があるだけだ。けれど、自分は覚えておこう。彼らが確かに生きていた時間を。


 彼はバーテンとして襟を正しカウンターを出て、新たに出現した「I」の注文をとるべく、近づいて行った。


 服部道彦はやはりあの年老いた猫は自分が引きとろうと思った。いずれ死が訪れるその時まで。面倒みるといって拾ったはずだったのに何もしなかったのだから、最後はその責任をとらなければいけないだろう。そのことについて祖父と一度も話さなかったことが悔やまれた。礼も言わなかった。労うこともしなかった。ただ当たり前のように、祖父が猫と暮らすのを遠巻きに見ていただけだった。祖父はそれについて何を思っていただろうか。今となってはもう考えても詮無いことだけれど。


 そういえば。彼はカウンターでまだごちゃごちゃと話している三人を振り向く。彼らの話している、死んだ人々も「I」だが、亡くなった祖父の名も「I」だ。そして今やって来たのも「I」。


 服部道彦は引き続きバーテンの仕事をこなしながら「I」に関するいくつかの、自分が知る限りの出来事について思いを馳せていた。



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Iに関する幾つかの出来事(短編連作) 三村小稲 @maki-novel

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