とても参考になるお話でした。
ちょうど数字の表記をどうしようか迷っていたのですが、読みやすさ優先でアラビア数字を使う決心がつきました。小説は漢数字じゃないといけないのかな?みたいなことを考えていて、自分でも読みにくいなと思いながら漢数字を無理に使っていました…。
描写に関しても悩むことが多いので勉強させていただきます。
ありがとうございました。
作者からの返信
>松島立秋 様
初めまして。
コメント、ありがとうございました。
創作の方法、描写の表現は、人によって色々あります。
本編での記述は、私なりの『 推薦 』を選択したものだと解釈下さいね。
大切なのは、創作する作品を通し、「 何を訴えたいか 」です。
『 テーマ無きものは、創作にあらず 』
誰が何と言おうと、この事だけは譲れません。
こだわりは、個性に通じる… 強いて言えば、オリジナリティーにも影響する、と私は考えます。
共に、これからも創作を楽しんで行きましょう!
想像した【映像】のカメラワークを、そのまま文章で『 トレース 』
だいたい妄想は映像として頭に浮かぶから、映画の映像に落とし込む方式は
実践しやすいかも!
作者からの返信
>春眼 兎吉(はるまなこ ピョンきち) 様
意外に、情景描写を第三者的に捉えやすく、カッコよく書けたりします。
妄想を具現化するチャンスです。(笑)
こんにちは。
私は情景描写は『五感で描く』ということを心がけています。
どうしても視覚に頼ってしまいがちなのですが、視覚だけだと質感が伝わってこないのです。
例えば、朝のにおいと夕方のにおいと夜のにおいはそれぞれ違います。肌に当たる風の硬さや柔らかさ、耳にする音も場所や環境を表すのに重要です。
それらの感覚をフルに動員することで、その場にいる、という没入感を描くことが(やっと)出来ます。
参考までに。
作者からの返信
>宵待なつこ 様
コメント、ありがとうございます。
視覚のみに頼らないのは、良い事ですね。
・・しかしながら、慢性的な蓄膿症を患い、臭覚を失ってしまった方もおられます。
先天的に、聴覚が無い方も・・・
小説を書かれる方は、多分に、視覚が正常な方が多いですから、目で見える感覚を重点的にお勧めした次第です。
ごくまれに、視覚が無い方でも、タイピングをされる方はいらっしゃいますが・・・
( 拙作:『 瑠璃色の街 』は、実際に知り合った視覚障害の方をモデルにしています )
世の中には、色んな方がみえます。
善人もいれば、悪人も・・・
ただ、悪人は、生まれた時から悪人だったワケではありません。 その考えが、更なる広い視野に立つ考え方につながります。
『 余計な 』お世話、再三にて失礼致しました・・・
編集済
>やや、西に傾いた夕日
「やや」だと、まだ夕日じゃないですね。せいぜい、「昼下がり」。午前十時と同じくらいの感覚です。
「かなり」とか、むしろ「やや」を削除するのをお勧めします。
>橋は、木製? 鉄製? コンクリート製?
それこそ、情景描写で「語らなくてもわからせる」べきですね。
主人公らがいるのは都会ですか? 田舎ですか? 未開の土地ですか?
時代は現代? 過去? 未来?
それらがはっきり描かれていれば、語らずに伝わる類のものです。
「描かない」というのも、十分に価値を持ちます。
【追記】
残念です。言い訳で逃げるのではなく、描写を直していただけたらそれで済んだのですが。
>例文として提案させて頂いた、極めて短い『 文章 』です。
「今日は時間がないから短い文章で返せない」と書いたのは、どの文豪でしたっけ?
短い例文だからこそ、その言葉の一つ一つが重要になります。そこを疎かにするようでは、受講生の方が気の毒すぎます。
>「 語らなくてもわからせる情景描写 」は、非常に高度な文章力が必要
それを例示することこそが、「講師」であるあなたの役割では?
生徒たちはプロを目指していなかったのでしょうか?
なんとも非常に残念です。
作者からの返信
>原幌平晴 様
ヒトの感覚は、人それぞれだと思います。
10人中、7~8人ほどの方が、違和感なくご理解頂けたなら、それは『 適切 』だと、私は判断致します。
これは、ある程度のボリュームを持った物語ではありません。 例文として提案させて頂いた、極めて短い『 文章 』です。
読者に伝えるべく、必要最低限な事項は何か?
その条件下に対する、私なりの答えを、記させて頂いた次第です。
あと一つ。
「 語らなくてもわからせる情景描写 」は、非常に高度な文章力が必要でしょう。 プロでもない生徒たちに、それを奨励する事は、私には出来ませんでした。
希望論は、時によっては、非常に抽象的になる事をご理解頂けると幸いです。
【追記】の、ご返信
短い文章だからと言って、疎かに考えた事は一度もありません。 また、言い訳をしたつもりもありません。
説明に一番重要だったのは、『 そこ 』では無く、それ以前の観点であった事は、お分かりですよね?
生徒たちに伝えるべき事項の、優先順位です。 その場で創作した稚拙な文章でも、生徒たちは納得してくれました。
お答えで記した通り、10人中、7~8人が認知して頂ければ、私はそれで適切と判断しています。
私と原幌平晴 様とでは、表現に関する感覚の違いが随分とあるようですね。
同じように、他の方とも、感覚は違う事でしょう。
文法的に間違いであれば構いませんが、感覚の領域である事柄に関しては、『 選択すべき、他の表記方法 』としてコメントされた方が宜しいかと存じます。
あと、物事には、必ず『 順序 』があります。
若い学生たちに、中里介山の『 大菩薩峠 』の感想を書け、と言っても、目が点になるだけですよね? オーウェルの『 1984年 』は、おそらく興味すら示さないのではないでしょうか。
彼らの半分以上は『 プロ 』を目指していません。 趣味の延長にて、『 作品 』の仕上がり状態をアップさせたいと希望している者がほとんどです。 社会人になるまで、もう少し『 自分の世界 』に浸っていたいと考え、漫然と入学して来る者も多くいました。
…でも、私は、彼らの思想を拒否したくはありません。 むしろ、そんな考え方も、長い人生の中での2~3年は、許されると思っています。 今でも。
従って、自身のセンスを見つけ、磨き、プロを目指すように導いて行く事が、私の使命だと思っておりました。
その為には『 順序 』があるのです。
まずは、基本的な描写の確立・認知です。 だからこそ、高度な創作技術は説明を避けていました。
残念ながら、今の若い学生たちは、センスがあっても、程度を超えた技術向上を促すると、創作を辞めてしまいます。 全員が、そうならないように、私は大変に気を遣った記憶があります。
真実でも… 正論でも、順序を無視した講義は、誰もついて来てくれないのです。 何校の講師を務めさせて頂きましたが、事実、名門大学の文学部卒で、それなりに有名な評論家や編集者の方の授業は、あまり続かず、講師の交代を余儀なくされていました。
「 私の説明は、あくまで、私自身の判断によるものです。 描写の仕方は、無限にありますから、参考の1つと考えて下さいね 」
私は、講義の中で幾度となく前置きしました。
頼りない発言かもしれませんが、生徒たちは理解してくれ、非常に嬉しく思いました。
創作とは、そう言うものなのだと、今でも、私は想う次第です。