さよならのかわりに

三村小稲

さよならのかわりに(全編)

 バスが砂埃をあげて走り去って行くのを見送りながら、夏はずいぶん遠くへ来てしまったと思った。


 長距離バスのターミナルを出るとそこは美しく舗装された広い通りで、道を渡れば雑貨屋や理髪店、カフェなどの小さな店舗がおもちゃのように並んでいる。街路樹には百日紅。ピンクや白のフリルのような花がかたまって咲き、アールを描いて頭上に垂れていた。


 典型的な南部の田舎町だと夏は思い、ポケットから一枚のメモを取り出して確認すると紺色のトランクを引っ張りながら歩きだした。


 田舎だけれど、なんと可愛らしい町並みだろう。夏は個人商店の並ぶ、恐らくはそこが町のメインストリートであろう通りを進む。小さな本屋、小さなアイスクリームショップ、小さなブティック。思わずため息がこぼれる。


 太陽が真上にあってひどく暑かった。けれど空気が乾いているせいか汗で肌がべたべたするということはなく、夏はこれまで住んでいた大都会のネバつく空気に比べるとずっと気分がいいと思った。


 通りに立てられた標識を確認する。道はこれであっている。信号を待つ間、夏はまたため息をついた。そして道の向こう側にあるレンガ造りの教会から黒い服を着た人々がぞろぞろと吐き出されてくるのに目を奪われた。黒いスーツ、黒いワンピース、黒い帽子。


 お葬式だわ。夏は涙を拭きながら教会を離れて行く人たちを見つめた。知らない町へやってきて初めて見るものが人の死であるということ。喪失の悲しみは夏には親しい感情だった。


 死んだのは一体どんな人だろう。あんなに沢山の人が集まって悲しみにくれているのだからきっといい人だったに違いない。愛されていて、惜しまれている。


 信号が変わった。今の夏にはどこの誰とも知らないがその死んだ人が羨ましかった。死んで尚も愛されているから。その考え方は自分自身を傷つけるものだったが、そう思うのだから仕方がない。背中で教会の鐘が鳴っていた。


 夏がこの南部の小さな町へやってきたのは友人であるサラに前々から話しに聞いていたからだった。


 サラは夏がアメリカに来て最初の友人だった。銀縁の眼鏡をかけていて雀斑のある顔に大きな口。明るくて優しくて、典型的なアメリカ女性らしくよく太っていた。


 体の大きなサラがチェロを抱えるといつも楽器が小さく見えた。けれど彼女の奏でる音はとても繊細で美しかった。


 オーケストラの一員として演奏するサラは南部の出身で、自分が育った町を愛していた。そして夏にしょっちゅう故郷の話しをしては、いつか必ず連れて行ってあげると言った。


 そりゃあ暑いわ。南部ですもの。それに田舎よ。でも、緑が濃くて美しい町なの。小さな町だからみんな顔見知りよ。それが嫌だって人もいるけど、私は好きだわ。都会にいてみんな他人に無関心で自分のことしか考えないようなのよりずっといい。南部の人はみんないい人ばかりよ。なんて言うのかしら、情が深いって感じ。とっても心が温かいの。私の音楽の原点はすべてあの町にあるのよ。


 サラが熱心に語るのを夏はいつも感心しながら聞いていた。夏の両親は子供の頃に離婚していて、生まれた町を離れたのでサラのような自分の原点と言える場所は持っていなかった。


 夏はサラが話していた白い壁に赤い屋根の家を目指していた。そこはサラの言葉を借りると「食事が最高」で「小さいけどクラシックで居心地がいい」そうで、「何日だって滞在したくなる」ホテルらしかった。


 ホテルという言葉は間違いかもしれない。客室は四つしかなく、階下は南部料理を出す食堂で、日本なら民宿とでもいうのかそんな規模のもので、夏が部屋が空いているかを電話で尋ねたところずいぶんカジュアル…といえば言い方はいいが、おおざっぱな対応で、電話に出た女性は「空いてることは空いてるんだけどね! でももうずいぶん長いこと泊まり客はいないのよ! 近くにホリディ・インができたからねえ。あなた、そっちじゃなくていいの? うちは古くてボロだよ!」と笑って言った。


 夏はホリデイ・インのようなところに泊って賑やかで幸福で明るい人々の中に身を置くよりは古くてもボロくても一人でいる方がずっといいと思った。夏はどのぐらいの滞在になるか分からないがと前置いてから、とりあえずは一週間の予定で部屋を頼んだ。電話口で女性は大きな声でメモを用意しろと言った。


 今、夏が手にしているのはその時のメモで「マリ―ズゲストハウス」への住所と道順だった。


 而してそのマリ―の宿へは長距離バスのターミナルから歩いて二十分ほどだったろうか。すでにささやかな商店街は途切れ、周囲は住宅街になっていた。芝生の前庭とガレージ。南部風のポーチ。百日紅だけがずっと等間隔に街路を連なっている。


 どの家もポーチや玄関前に綺麗な花壇を作っていて、芝生の手入れもよく、緑の出方がベルベットのように美しかった。その家並みの中でももっとも美しい芝生と白い石を玄関まで敷き詰めたアプローチ、玄関へあがる数段の階段からポーチの柱、二階のベランダにまでほとんど暴力的といっていいほどの勢いでツルバラが這い上がり絡みつき、雪のように白い花をたっぷり咲かせているのが「マリ―ズゲストハウス」だった。


 夏はステップをあがると汗を拭き、木製の扉を押し開けた。中は焦げ茶色の木の床で、玄関マットは臙脂色の分厚い織物だった。入ってすぐ脇がサラの言っていた食堂で、庭に面して大きなガラス戸が取り付けてあり、幾人かの客がテーブルでおだやかな午後を過ごしていた。


 仮にも泊まり客を受け入れるのだからフロントがあるのかときょろきょろと室内を見回したがそれらしきものはない。夏はトランクを手にしたままそっと食堂へ首を伸ばした。


「すみません」

 夏は白いエプロンをかけたスタッフと思しき女の子に声をかけた。

「あの、部屋を予約したワタナベですが……」

「ああ、聞いてるわ。ちょっと待って」


 縮れた髪をアップに結った彼女は食堂脇のスイングドアを勢いよく開けて、中に向かって「マリ―! お客様よ!」と大きな声で叫んだ。


 そこはどうやら厨房になっているらしく、ちらりと垣間見えたガスコンロには大きな鍋がかけてあり、もうもうと湯気を立てていた。


 気がつくと食堂にいた数人の客が夏にそっと視線を投げていた。夏はぐっと背筋を伸ばした。それは弱っている時ほどいつもそうするポーズで、弱さを見せてはならないとい悲しい虚勢だった。


 スイングドアが開くと、中から想像していた通りの大柄なおばさんが現れた。

「待たせたわね!」

「こんにちは。私、先日予約させて頂いたワタナベです」

「よく来てくれたわね。迷わなかった?」

「ええ、大丈夫」

「前はフロントデスクをそっちに置いてたんだけどね、もう泊まり客はほとんどとってないのよ。だから、こっち、こっちでカードの記入してもらえる?」


 おばさんは一番手前のテーブルに座るように指差した。むっちりと肉付きのいい手。木製のテーブルを示す指がソーセージのようにぷりぷりとしている。エプロンにはソースのシミがついていたが、それがちっとも嫌な感じではなく、たぶん彼女の佇まいがそうさせるのだろう、なにかとても心和むものとして夏の目に映った。


 夏が椅子に腰かけるとおばさんは「あなた、日本人?」と尋ねた。夏はそうだと答えた。

「南部は初めて?」

「ええ。友人がこの町出身で、すごくいいところだって聞いたから」

「へえ? 誰?」

「サラ・コナーズって人なんですけど……」

「ああ! サラ?! あなた、サラと友達なの?」

「ご存知なんですか?」

「ねえ、ちょっと! 彼女、サラの友達なんだってさ! コナーズのうちの、ほら、眼鏡のみっともなかった子よ!」


 おばさんはテーブルでそれぞれコーヒーを飲んでいる客達に向かって、大きな声で言った。夏はびっくりして、言うべきではなかったのかと彼らの反応をどきどきしながら窺った。と同時に、本当に小さな町なのだなと思った。町中の誰も知らぬ者などいないというほどに。


 窓際のテーブルにいた作業服姿の男が読んでいたタブロイド紙を置くと、

「サラ・コナーズか! ボストンに行った娘だな」

「そうよ。あの子、ヴァイオリンか何かやってたのよね」

「チェロです」

「おとなしい子だったのよ。それに眼鏡で醜かった」

「今は太ってはいるけど、でも、醜くはないわ」

「大人になったってことね」


 おばさんは感慨深げに頷き、さっきの縮れ毛の女の子に向かって「宿泊カードを持ってきてちょうだい」と言った。

 作業服の男が、

「サラの友達ってことはあんたも楽器をやるのかね?」

 と尋ねた。

 夏は首を振った。

「いいえ」

 夏は自分では気づいていないが余裕を見せるように微笑んだつもりがそれは硬質で冷たい印象を与えるもので、彼女の痩せた頬から顎のシャープな線さえも暗いものにしていた。


 さっきの白いエプロンの女の子がカードとペンを持ってくると、夏はすぐにペンをとって書き込み始めた。

 手元を見ていたおばさんが眉間に皺を寄せる。

「ナツ、よ。ナツって読むの。ミセス・マリ―」

「マリ―でいいよ。ここへはバカンス?」

「そのつもりです。……あの、身分証明書が必要ですか?」

「いいよ、いいよ。そんなの。サラの友達なんでしょう。あの子は臆病で用心深かったからね。不法滞在だの身元が知れないなんてのと親しくなったりはしないもの」

 夏はカードをマリ―へ渡すと少しほっとした。

「疲れたんじゃない? 部屋へ案内するわ」

 マリ―は立ちあがり、夏を促した。


 玄関ホールの脇にある階段をマリ―は先に立って上って行く。一段進むごとに階段がみしみしと軋む。壁には無数の額入りの写真がかけられていて、それがここを訪れた人々であり、彼女の友人であり、家族であるのが分かった。

「マリ―、これもあなた?」

 夏は踊り場にかけてある写真を指差した。古いアメリカ映画のようにソフト帽をかぶった男と細いラインのワンピースを着た美女が寄り添って写った古びた写真。

 マリ―は振り向くと「そうよ。美人でしょ」とにっと歯を見せて笑った。夏は感心したように目を見開いた。確かに面影はあるが別人だ。体積なんて今の三分の一だわ。再び階段を上がりながら夏は小さく笑った。


「ここよ」

 マリ―はポケットから鍵束を取り出すと、輪から鍵を一本はずして夏に手渡した。


 夏は鍵を受け取ると自ら扉を開けた。扉には真鍮のプレートが取り付けてあり、201とナンバーが打たれていた。


 古くてボロいとマリ―は言ったが、入ってみると鎧戸のついた大きな窓が中庭に面していて明るく、キルトのカバーのかかったベッドも同じ色合いのライティングビューローも古くはあったが落ち着いた風情で、クローゼットの中も綺麗に掃除されていた。


「狭いでしょ」

「平気よ」

 夏はトランクをベッドの脇に置くと満足げに頷いた。

「こっちがバスルーム」


 マリ―が扉を開ける。白いバスタブと白いシャワーカーテン。備え付けのタオルも白だ。

「時々お湯の出が悪くなるんだけど、使えないことはないわ」

「ありがとう」

「食事は朝は8時から下の食堂が開いてるから、いつでも来てちょうだい。南部料理は食べたことある?」

「いいえ」

「じゃあ食べなきゃ駄目」

「ええ、そうするわ」


 夏は窓辺によって中庭を見下ろした。矢車草やダリアが塀に沿って植えられていて、眩しいほど鮮やかだった。


「玄関の鍵は夜はオートロックになるから心配しなくていいわ。私は一階にいるし」


 相槌を打ちながら窓の外を見ている若い日本人を、マリ―は内心なんて悲しそうな目をした子なんだろうと思っていた。鏡みたいによく映る真っ黒な目をしているからそう見えるのかしら。それとも日本人ってみんなこんな風におとなしいの? でも、身なりはいいし、上品そうだし、悪人ってわけでもなさそうね、と。


「それじゃあ、何かあったらなんでも言ってちょうだい」


 一通りマリ―の説明を聞くと、夏は向き直ってにっこり微笑んだ。

「ありがとう」


 マリ―が部屋を出て行き階段がみしみし音を立て、再び静けさが訪れると夏はいきなりベッドにどさっと仰向けに倒れ込んだ。


 疲れたんじゃないかだって? 疲れたに決まっている。夏は目を閉じた。投げ出した手足が気だるく、胸には鉛の塊が乗っているかのように重かった。


 また一つ嘘をついてしまった。夏は泣くまいと歯を食いしばる。それから今一度、ずいぶん遠くへ来てしまったと思った。


 しばらく天井を眺めてから起き上がり、トランクを開けて小型のノートパソコンを取り出してサラにメールを打ち始めた。


 サラ、私が今どこにいるか知ったらあなたとっても喜ぶと思う。このメール、マリーズ・ゲストハウスで書いてるのよ! あなたが言ってた通りとっても素敵なところね。しばらくゆっくりできそう。あなたは夏の間ずっとニューヨークにいるつもりなの? こっちで一緒に過ごせたらいいのにね。


 短い文章を送信してしまうと夏はしばらく放心したように頬杖をついていた。


 夏は留学生として初めて訪れたボストンよりもニューヨークの方が好きだった。ボストンは緑の多い落ち着いた美しい街で住み心地はよかったし、学生だった自分にとっても環境がよくて気に入っていた。けれど、卒業してニューヨークに移り住んでからはニューヨークの方が性に合っていると思うようになった。


 ニューヨーク、マンハッタン。あの狭い小さな島にぎゅうぎゅうにビルがひしめき、人で溢れた喧噪の街。無秩序と言いたくなるほど様々な人種に満ちていて、誰もが「よそもの」であるということ。みんなが「よそもの」だから奇異な目で見られることもない。自分のアイデンティティなど塵にも等しいと思えるほどに。それから、成功を夢見て田舎から出てくる人間の多さ。みんな自分のことが一番大事で、必死で、他人にはひどく無関心。それは無味乾燥として悲しいことかもしれないが、誰からも顧みられることのない寂しさは同時に誰からも傷つけられることのない固い殻に守られたような安堵を覚えさせる。


 ようするに、外国人である自分を意識させられることもなければ、それでいて自分が何者かを証明するのは本人の技量や才能でしかなく、プレッシャーも大きいが、流れに流されてしまえば誰からも見向きもされず落ちるだけ落ちていくことができ、実に気楽に暮らすことができる場所なのだ。


 夏はニューヨークで暮してみて自分がいかに何者でもないかを知り、誰も自分になど目もくれないという事実の前にそれまでチャンスを求めて必死にあがいてきた日々から急に解放されたように自由で平穏な気持ちになった。


 初めてボストンにきた時は大学の授業についていくのに必死だったし、周りの才能あふれる学生たちの中で劣等感と負けん気の挟間にいてぎりぎりと締め付けられ苦しくてたまらなかった。それを思うと卒業してから暮らすことになったニューヨークは夏には住みやすい街なのだが、でも、どちらが幸せだったかというとそれは夏にも分らなかった。


 夏は日本にいる時から、それこそ子供の時からずっとピアノを弾いていた。中学の時にジャズに出会ってからは、ジャズピアノ。日本の音大を出てからボストンへ留学することができたのも、懸命な努力と情熱のおかげだった。ピアノを弾いていられれば幸せだったし、上達する為と思えばいくら厳しいレッスンでも耐えることができた。むしろ練習を重ねることは夏には文字どおり「研鑽」であり、研ぐほどに切れ味が増すことは快感でもあった。


 ボストンの大学には自分より数倍、いや数十倍も上手で、才能のある生徒がたくさんいた。しかし夏はやめようとは一度も思わなかった。弾く以外のことは何も思いつかなかったし、弾いてさえいればそれでよかったから。もちろん夢や野心はあった。そして何度も挫折が訪れた。それでも夏は立ち上がり、変わらぬ情熱を傾けていた。他のものは何も目に入らなかった。


 今思うとあの頃の情熱は盲目的な恋と同じだった。夏はほろ苦い気持ちで自分を笑う。ひたすら夢中で恋い焦がれた日々。なんの悩みもなかった頃。


 夏は立ち上がり、窓を開け放ち眼下に広がる美しい庭を見下ろした。恋というものは熱狂的な陶酔に酔いしれているうちだけが幸せなのであって、一度亀裂が入り始めるとあれよあれよという間に崩れ去ってしまう砂の城なのだ。あとには何も残らない。庭にはさっきのウェイトレスが休憩なのかコーヒーカップを片手に薔薇の木の下に置かれた椅子に腰掛けている。咲き乱れる花の下、あそこはさぞいい匂いに溢れて気持ちがいいだろうと思った。


 

 夜になって夏は階下の食堂へ行き、窓際のテーブルに腰掛けた。ウェイトレスにビールを頼み、メニューもろくに見ないで「オススメはなに?」と尋ね、彼女が「ポークビーンズとコーンブレッド」と答えると迷うことなく「じゃ、それ」と注文した。


 店内には仕事帰りと思しき汚れた作業着の若い男の子のグループと、食事を楽しむ夫婦などで賑わっていて、一人きりで食事しているのは夏だけだった。


 一人の食事に慣れている夏だったが、それでもこの田舎町では自分が外国人であることから好奇の目に晒されていることを充分知っていて、だからつんと取り澄ました顔で運ばれてきたビールを飲み、視線は庭へと向けていた。


 この国ではニューヨークのような大都会なら外国人など珍しくもなければ、誰もが他人同士だから誰がなにをしていようと気にも留めないのだが、田舎へ行くほど「よそもの」は好奇の目、時には冷淡な視線の洗礼を受ける。保守的な町ほどその傾向は強い。差別的な発言をされたこともある。でも、夏はそんなことは気にしないことにしていた。自分は確かに「よそもの」で「日本人」だけれど、彼らは日本の車に乗り、日本の電化製品を使い、日本の漫画やアニメを喜んで見ている。少なくとも日本人である自分はエイリアンではないのだ。そう考えれば夏は心静かにしていることができた。


 時々そっと店内の様子に視線を走らせる。壁際に寄せた小さなサービステーブルに氷水の入ったガラスのピッチャー。庭から切ってきたとすぐに分かる野性的なバラが一輪挿しに生けられ、カップボードにはアンティークめいたティーセットがいくつか並んでいる。そのすぐ傍にひっそりと小さなアップライトピアノ。ピアノの上には写真立て。その古びたピアノは夏に子供時代を思い出させた。夏もこんなピアノを持っていた。くぐもった音のする、古い古いピアノ。それが夏とピアノの出会いであり、始まりだった。


 夏は唇の端で微かに笑った。ピアノが自分を追いかけてきたようで。そんなことあるはずもないのに。


 料理が運ばれてきた。スパイスの香りが食欲を刺激する。カゴに入れられたコーンブレッドは手に取ると思いがけないほど熱く、夏は突差にその金色の香ばしいパンを取落してしまった。


 スプーンを取り、ポークビーンズを口に運ぶ。ほろほろに崩れるほど柔らかく煮込まれた豚肉に複雑なスパイスの絡み合うソース。ほっくりとした豆が口の中で甘く、いかにも滋味豊かな味わいをもたらす。夏は静かに飲み下し、そのおいしさ、熱さに涙ぐみそうになった。


 栄養があって美味しくて、ほっとするような味の食べ物。咽喉を通って胃袋へ落ちていき、そこでもまだほかほかと自分を温めてくれるようにじわじわと体中へ沁み渡っていく。


 こんな美味しいもの食べたの何年ぶりだろう。夏は大袈裟ではなく本気でそう思った。


 ニューヨークの洗練された高級な店ならいくらでも知っている。素材を吟味し、技を駆使して創り出される最高の料理も。確かにそれらは素晴らしく美味で溜息がでるほどだ。でも、こんな風に心も体も水に解き放つかのようにほぐれされるものはどこにもなかった。


 たった一口で夏は満足げな溜息を漏らした。そしてビールのグラスに手を伸ばした。考えてみたら昨日からろくに何も食べていなかった。いや、正確にはここ数カ月、何かを食べた記憶もない。食べなかったわけではないが、食べ物のことなど考えてもいなかったし、何を食べようと関心もなかった。デリのサンドイッチもベーグルも、バタークリームの強烈なカップケーキも、ピザもタコスも夏の中にごうごうと吸い込まれただけで美味しいどころか何の味も感じなかった。そういった意味では夏はこのポークビーンズによって自分が生きていることを思い出したような気さえしていた。


 ビールを飲み、またポークビーンズに取り掛かろうとした時だった。さっきからちらちらとこちらを見ては何か言い合っていた若い男たちの一団から一人こちらへやってくると夏を見下ろしながら、

「一人で食事?」

 と尋ねた。


「そうよ」

「一人だと退屈だろ」

「そうでもないわ」

「いや、食事は誰かと話しでもしながら食べた方が旨いに決まってる。マリーもいつも言ってるよ。悲しい時は悲しい味。笑わないと、最高の料理もゴミだって」

「……」

「ここ、座ってもいいかな」

「……どうぞ」


 男はペンキの付着したカーゴパンツを掃き、Tシャツから伸びた腕は日に焼けてよく引き締まっていた。向こうで仲間たちの歓声にも似た声があがり、彼は片手をあげてみせた。まるで何かに勝利したかのように。


 途端に夏はさきほどの衝撃的と言っていいほどの幸福がみるみるうちに醒めていくのを感じた。

「ここらへんじゃあ見かけない顔だね。どこから来たの?」

「ニューヨーク」

「ニューヨーク! そんな都会からこんな田舎に旅行なんて変わってるね! こんな何にもないとこへ来るなんて!」

「そう? 静かでいいところじゃない」

「まあね。でも、静かすぎる。刺激がなさすぎる」

 夏はコーンブレッドをちぎって口に放り込んだ。


 典型的な田舎町の青年だなと思った。都会に憧れる純朴な青年。仲間たちと賭けでもしているのだろう。一人で食事などしているよそ者の女を落とせるかどうかや、ナンパする勇気を示せるかどうかなどを。


 彼らの目に自分がどう見えているのかは考えるまでもなかった。きっとずいぶん若い女のつもりなのだろう。


 夏の目に目の前の青年はひどく幼く見える。世間知らずの若者だ。そう考えて夏は一体いつから自分は、自分よりも年若い者とそうでない者とを見た目だけで判断できるようになったのだろうと不思議に感じた。渡米した当初はこの国の人々の年齢がまるきり見当つかなかったのに……実際大学には同じクラスといえども年齢はまちまちで、そのくせ見た目は誰も変わりはしなかった……今はちらと見ればそれが二十歳そこそこの若者なのか、三十過ぎなのかが分かる。見慣れたといえばそれまでだが、夏はそのことを自分こそが年をとったからだと思った。自分にあって彼らにないものが分かるのだ。例えば、人生の中で味わう彼らがまだ知らない苦渋などについて。


「それで、こんな田舎でなにするつもり?」

「……なにって?」

「ここにはクラブもないし、ビーチもない」

「けど川や池はあるんでしょ」

「もちろん。釣りもできる。ニューヨークじゃできないようなアウトドアライフが楽しめるよ。もしよかったら案内するよ。明日は? どう?」

「……」

「大丈夫! 俺、釣り得意だよ。ガキの頃からやってるし。危ないとこには連れて行かないからさ」


 追い込みにかかったな。夏は急にテーブルに身を乗り出すようにしてきた青年に、ふふと小さく笑った。そして思わせぶりに「そうねえ」と曖昧に返しながら、おもむろにビールのグラスを手に取ると咽喉をのけぞらせ唖然とする青年をよそに一気にぐびぐびと飲み干して見せた。


「残念だけど、ニューヨーカーは釣りなんてしないのよ」

 ニューヨーカーという部分に嫌味なアクセントをつけ、にっこり笑った。

「……じゃあ、もしやりたくなったらいつでも言ってくれよ」

「ええ、そうね。万が一そんな気分になったら、お願いするわ」


 青年は精一杯虚勢をはって「ナイスガイ」な笑顔と鷹揚な態度で席を立ち、仲間たちのところへすごすごと戻って行った。仲間たちが彼をこづいたり、からかうのが聞こえたが、夏は無視して再びポークビーンズを口に運んだ。


「ビールのお代りは?」

 気がつくとウェイトレスが笑いながらそばに立っていた。

「ありがとう。お願い。ええと……?」

 夏は彼女の名前を聞くように目で問いかけた。

「エレンよ。あんなガキ共相手にすることないわ。あいつらみんなただヤりたいだけなんだから」

「そうみたいね」

「でも、あなたが田舎の若い男と羽目をはずしたいっていうんなら別だけど」

「そういう時はパリにでも行くわよ。そっちの方がロマンチックだわ」

 夏が言うとエレンはぷっと吹き出した。

「言えてる」

 エレンはウィンクをするとカウンターへと歩いて行った。


 実際、町育ちの夏は釣りなんてしたことがなかったし興味もなかった。が、それ以前に何かしたいような気分ではなかった。ここへきたのもバカンスよりは逃亡の気持ちだったし、それこそ男と遊ぶぐらいな気概があればパリじゃなくてもよくて、あのままニューヨークにいればよかったのだ。結局のところ夏は「なにもしたくない」からここへ来たのだった。


 ビールが運ばれてくると夏は食事を続けた。その時だった。さきほどの青年たちが入口に一人の男が入ってくると一斉に慌てたように立ち上がった。

「先生!」

 他の客たちも男の姿を認めるとみんな立ち上がり、口々に、

「レイ、どうしたんだ」

「大丈夫か?」

 と彼を取り囲んだ。


 エレンが厨房に駆け込むとマリーも出てきて驚いた顔で彼に手を差しのべた。

「レイ、まさか今夜来るとは思わなかったわ」

「ああ……、どうも落ち着かなくてね」

 レイと呼ばれた男は髪は白く、顔には無数の皺が刻まれていたが、頑丈そうな体をしていてまっすぐにカウンターへ向かった。


 あのナンパな青年たちはおずおずと彼に向い、

「先生、なんて言ったらいいのか……」

「なんだ、こんな時間まで遊んでるのか。明日も仕事じゃないのか」

「ええ、まあ……」

「子供は帰る時間だろう、ほら、私のことはいいから」

「子供じゃありません」

「じゃあガキだ。トミー、お母さんに来週からまたレッスンに来るように伝えておいてくれ。サボらず練習しておくようにって」

「はい……」

 追い立てるように若者たちを帰らせてしまうと、今度は自分の周りに集まった他の連中に、

「みんなも今日はありがとう」

 と言った。

「レイ、なにかできることがあったらいつでも言ってくれ」

「ああ、ありがとう」


 男は片手をあげるとエレンにポークビーンズとコーンブレッドを頼んだ。傍らにいたマリーが頷いて彼の肩を叩き、また厨房へと戻って行った。


 夏は空になった皿を押しやり、残ったビールを静かに飲んだ。カウンターで同じようにビールを飲む初老の男を眺めながら、先生と呼ばれてはいるけど現役って感じではないな……と思った。でも、どうやら人望があるらしい。あの若造たちがこぞって立ち上がって取り囲むぐらいだから、きっと人気のある先生だったのだろう。けれど、今はくたびれたような落ち込んだ目で肘をついている。


 夏は不意にその目を知っているような気がして、観察するように彼の様子をじっと窺った。


 節くれだった指は長く、使い込まれたような力強さを湛えている。でもあれは労働者の手ではない。そういう使い方をした手じゃない。あれは、そう……。

「エレン」

 夏はエレンを呼び止めた。

「あの人、あのカウンターの人……」

「レイ? 彼は地元の高校の先生よ。元、だけど」

「もしかして……音楽の先生じゃない?」

「あら、すごい。どうしてわかったの? そうよ、彼は音楽を教えてた。で、今は個人教授専門」

「楽器はなにをやるの?」

「ピアノとチェロ」

「ねえ、それじゃあ、もしかして……サラ・コナーズの先生だったんじゃない?」

「ああ、そうね。そういえばそうだわ。レイが教えた生徒で都会の大学に行ったのなんてサラだけじゃないかしら。きっと覚えてると思うわよ」


 頷きながら夏の視線はますますカウンターの男から離すことができなかった。どうりで知っているはずだ。いや、彼自身をではない。音楽をやる者の手。ひたすら鍛え研ぎ澄ます肉体の美しさと力強さをもうずっと長いこと身近に見ていたし、自身もかつてそうであったことを思い出し、そっと夏は自分の指に視線を落とした。


 真面目な人なのだろう。その指を見ただけで分かる。ストイックで、繊細で、そして冷たい。

「ちょっと待ってね」

 エレンは夏が何か言うよりも早くカウンターへ行くと、男の肩に手をかけその耳元に囁きかけた。

 すると男は夏の方を振り返った。


 二人の視線がぶつかった。男は灰色がかった茶色の目でまっすぐに夏の目を見つめた。


 夏はこんな風になんの思惑もなくまっすぐな視線で見つめられることがずいぶんと久し振りで、微笑むべきなのか会釈でもするべきなのか迷い、視線をそらすことさえもできずにいた。


 その動揺と困惑が伝わったのだろうか、男は立ち上がると夏のテーブルへ近づいてきた。夏は慌てて立ち上がった。

「サラ・コナーズの友人だそうですね」

「え、ええ。ボストンで同じクラスをとっていて、それで」

「彼女は私の最高の生徒だった」

「サラの才能ならよく知ってます」

「今はどうしてるのかな、もうずいぶん長いことこっちには帰ってない」

「オーケストラのメンバーです。素晴らしい演奏家です」

「そうか。それはよかった。あの子は本当に真面目で、心から音楽を愛していたからね。成功したんならそれは本当によかった」


 心から安心したように男は頷くと、思い出したように夏に向って右手を差し出した。


「自己紹介が遅れたね。レイ・ブラックウィング。以前は高校で音楽を教えててね。今は引退して個人レッスン専門の隠居じいさんだ」

「ナツ・ワタナベです。サラにここを紹介してもらって休暇で来たんです。ゆっくりしようと思って」

「君はなにをやるの?」

「え?」


 握手を返しながら夏はぎくりとして思わず体が強張った。一瞬、ほんのわずかにためらい、微笑む。いつもそうであったようにやはり「ノープロブレム」であると自分にも周囲にも思わせる笑顔で。

「ピアノです。でも私はサラみたいに才能のある演奏家じゃなくて、今は趣味でちょっと弾くだけ」

 夏は肩をすくめて見せた。すると、


「才能なんてのはね、誰にも決められないんだよ」


 レイはかつて自分が現役の教師であった頃、何度も生徒にそうしたように目の前の日本人の黒い瞳をじっと覗き込んで諭すように言った。


「有名なオーケストラに入って演奏すること、ソリストとして活躍すること、グラミーをとること……。それは才能と呼ばれるものかもしれないけれど、世界には無名の、でも彼ら以上に才能のある音楽家はいくらでもいる。大事なのは音楽を愛し、聴く者を感動させることだ」

「……」

「やあ、これは悪かった。教師の頃の悪い癖だ。すぐにお説教しちまう」

「……いいえ、そんな。いいんです。ありがとう、そう言って貰えるとほっとするわ。私の努力は無駄じゃなかったって思えるもの」

「そうさ、無駄なことなんて何もない」


 夏は面喰らったものの、返した言葉に嘘はなかった。自分は確かに努力してきた。でも今はそんなものなんの役にも立たないし、結局自分は何者にもなれなかった。ようするに、少なくともサラのようにプロの演奏家として胸を張ることはできなかった。「ちょっと趣味で弾くだけ」の生活は自分で選んだ道だったはずなのに胸に熱い塊がせりあがってくるのを感じ、慌てて視線をそらした。


「レッスンは続けないといけないよ」

「はい」

「練習だけが自分に勇気を持たせてくれる」

「……はい」


 レイは夏の肩をぽんとひとつ叩くと「それじゃあ」と自分の席へと戻って行った。ちょうどエレンが彼の注文を運んできたところだった。


 夏は伝票にサインをすると部屋に戻ることにした。勇気。それは夏が自ら捨ててしまったものひとつだった。



 朝、目が覚めると気持ちのいい青空で眼下に見下ろす庭でマリーがバラを切っているところだった。


ふんだんに咲き誇るバラはいくら切っても平気なようで、マリーは見事な花を何本も切っていく。夏はその背中を眺めながら、大きなお尻を妙に頼もしく思った。黒人特有の、体は肥え太っても足だけはアンバランスに細い姿だった。


 着替えると夏は階下におり、食堂に入った。朝だというのにお客はたくさんいて、仕事に行く前にコーヒーを飲む者や朝食をとる者で活気に溢れ、ラジオからは朝のニュースが流れていた。


 夏はカウンターに腰掛けるとエレンにコーヒーを頼んだ。

「朝食は? なにを食べるの?」

「朝は食欲がないの」

「駄目よ、少しでも食べないと。人間は朝が一番大事なんだから。朝しっかり食べて元気を出さないと一日ハッピーじゃいられないって私の母親がよく言ってた」

「それじゃあこのマフィンをひとつもらうわ」

「オーケイ、その調子。いい子ね、ハニー」

 エレンは満足そうにウィンクして他の客の注文を聞きに行った。


 ガラス皿に盛り上げられたマフィンはまだほの温かくふかふかで、二つに割るとバターのいい匂いがした。


 げんきんなもので急に食欲が湧いてくるのを感じた。食べ物の力ってすごいわ。夏は単純に驚くと共に、なにか説得力のようなものがあるなと思った。丁寧に作られた食事は美味しいという以上に力を与えてくれる。心をこめるなんてただの言葉だけのことだと思っていたが、そういうわけではないらしい。だって今手にしているマフィンはこんなにも自分の心に活力を与えてくれている。ほの甘くて優しい口当たり。なにも自分のためだけに作られたものではないのだけれど、自分にとって特別な何かを知らせてくれる。このマフィンには嘘や誤魔化しがない。それはレシピのことではなく、もっと本質的な意味で人を裏切らないものがある。夏は周囲を見渡した。こんなに繁盛しているのも当然だ。美味しいから客がくるのではない。きっと作る人の心が彼らを呼び寄せるのだ。食べ物は嘘をつかない。そして作り手は嘘をつかせない。


 楽しげに、しかし慌ただしく朝を過ごす人々の様子を一渡り眺めてから、夏は庭に目を向けた。マリーがバラを抱えてテラスから入ってくるところだった。


「おはよう、ナツ」

「おはよう。綺麗なバラね。バラって育てるの難しいんでしょ」

「多少はね」

「すごく見事なバラだわ。あなたみたいな人を緑の指をしてるって言うのね」

「面倒みてくれたのは他の人なの、私はちょっとお手伝いしただけ」


 バラをサイドボードに下ろすとマリーはポケットからリボンを取り出し茎をひとまとめに縛った。

「バラ造りがすごく上手な人があれこれ世話してくれて、教えてくれたのよ」

「ふうん」

 夏はコーヒーを啜りながら透明感のある大ぶりの白いバラをまじまじと眺めた。


「ナツ、今日の予定は?」

「別になにも……」

「週末になればファーマーズマーケットや蚤の市もあるんだけどねえ」

「いいのよ。私は休暇に来たんだもの。なにもしないのがバカンスよ。今日は近所をちょっと探検してみるわ」


 マリーはにっこり笑うと再びバラを抱えて「じゃあ、またあとで」と他の客たちにも同じように挨拶をしながら出て行った。

「ねえ、エレン」

「なあに?」

 夏は通りがかったエレンに尋ねた。


 エレンはコーヒーポットを片手に立ち止まり、夏のカップにもお代りを注いだ。


「近くにドラッグストアはあるかしら」

「バスターミナルまで行く道は分かるわね? あの通りに行けば一通りのものは揃うわ。もちろん田舎の店だから、アレキサンダー・マックイーンはないけどね」

「そんなハイブランド用事ないわ」


 エレンからメモを一枚貰ってペンを借りると、当座の消耗品ぐらいは少し買おうと思いメモに書き込み始めた。


 備え付けのアメニティはマリーには悪いけれど質も悪く、シャンプーも安っぽい強い匂いがして使う気にはなれなかった。


 思えば学生の時に休暇を利用して仲間とバックパッカーめいた旅行をしたことがあったっけ。あの時もシャンプーや石鹸はもちろん洗濯洗剤も持参して旅の合間にランドリーで洗濯したものだ。ユースホステルの二段ベッドに下着を干したりもした。共同キッチンの冷蔵庫に食品を入れておくのに名前を書いておいたりしたのも覚えている。名前を書いたにも関わらず、牛乳やチョコレートバーがなくなってしまって腹が立った。それでも毎日が輝かしく、ただ楽しかった。あんな旅は二度とできはしないだろう。あの行きあたりばったりな旅がなんの不安もなかったのは仲間がいたからだし、結局は帰るところがあったからこそ楽しめたのだ。今の自分にはそのどちらもない。仲間も、帰る場所も。それが分かっていて出てきたとはいえ、夏はうら寂しい気持ちになった。


 コーヒーを飲み終え買い物リストを作ると、夏は食堂を後にした。


 エレンが出かけるなら日焼け止めと帽子をかぶれと忠告してくれたけれど、どちらも持っていなかったのでそれもリストに付け加えることにした。


 外に出て五分も歩かないうちに焼けつく陽射しが体から水分を奪っていくのがはっきりと分かった。吸い込む空気が熱く、咽喉が干からびるようで昼間に誰も通りを歩いていない理由が改めてよく分かった。ただ、百日紅だけは勢いよく咲き誇り、ところどころに影を落としていた。


 この小さな町のメインストリートには両サイドに小さな商店が並び、夏はまずドラッグストアで目当てのシャンプーや石鹸の類いを買った。それから日焼け止めも。そして数件先の衣料品店でつばの広い麦わら帽子を買った。


 流行とは一切関係のないようなクラシックな麦わらで、紺色の幅広のリボンがついていた。鏡の前で試着すると、痩せた背の高い店員が、

「よく似合うわ。スタンダードなものだから、どんな服にもあわせられるし」

 と言い、夏が曖昧に頷くと、

「ニューヨーカーには物足りないかもしれないけどね」

 と付け加えた。


「どうして私がニューヨークから来たって知ってるの?」


 鏡の中からそばかすの散った彼女を見ると、店員は腕を組み、

「だって、ここはこんなに田舎なのよ? よそ者が来ればすぐに知れ渡るわ。それにあなた、サラ・コナーズの友達なんですって?」

 そう言って店員はにやりと笑った。

 夏は帽子をとると、彼女に向き直った。

「サラってずいぶん有名なのね」

「まあね」

「でも、それってネガティブな意味で有名みたいね」

「そんなこともないけど」


 嫌な笑い方だなと夏は思った。なにか含みのある、意地悪な笑い。夏は自分がアジア系の留学生であるというだけでそういう視線をぶつけられたことをふと思い出した。あの時の感じと似ている。なんの権利があるのかしらないが人を貶めようとする、卑劣な心だ。確かにマリーもサラを「みっともない」と形容したけれど、彼女には悪意はなかった。同じ言葉を口にしても、悪意のあるなしは分かるものだ。なまじ悪意に傷ついた経験のある者ならすぐに。


「サラはこの町は素晴らしいって言ってたけど」

「へえ? 自分は出て行ったきり一度も戻ってこないのに」

「忙しいのよ」

「誰もそうは思ってないけどね」

「……どういう意味?」

「なんていうのかしらね、サラって高校では決して人気者ってわけじゃなかったから」

「ようするに、負け犬だったってこと?」


 店員は肩をすくめて、言った。

「高校ってそういうとこでしょ? やっぱりみんなお洒落でかわいくてさばけた子が好きじゃない。例えばオタクやデブやブスってはみだしちゃうもの。サラはクラシックなんてやってるメガネのダサい子だったから」

 聞いていて夏は心の奥底からめらめらと怒りが湧いてくるのを感じた。


 世界中どこに行ってもそういうのってあるのね。子供には子供の価値観でヒエラルキーを構築し、徹底的に身分を分けてしまう。頂上にいるのはこの国ではさしずめアメフトのクォーターバックとチアリーダーだろう。教室のおとなしい子たちはみんな声なき少数派。彼女が言うようにクラシックをやるような子はいじめとからかいの的になるのだろう。


 夏はサラの十代の頃を思いやり、せつなく、そして腹立たしい気持ちでいっぱいだった。


 ボストンで最初に夏に声をかけてくれたのがサラだった。同じ寮に入っていて、まだ英語も下手で、慣れない外国の暮らしに右往左往するばかりだった夏に優しい言葉をかけ、食事や買い物につきあってくれ、授業に関する書類の申請も手伝ってくれた。ボストンで学生としてやってこれたのは全部サラのおかげだったし、どんな時も変わらない友情を示してくれたのもサラだった。夏はサラがいつも優しかった理由が分かったような気がした。


 おもむろに夏は両腕を組み、帽子の下から斜めに目の前の店員を見つめた。それは夏の特徴的な、ある時にはクールだといわれるまなざしであり、ある時は高飛車で意地悪だと言われる冷たい視線だった。


「彼女、ボストンでも大学を首席で卒業した才能の持ち主よ。こんな田舎じゃ知らないかもしれないけど、彼女は世界的なソリストなのよ。一体あなたたちの高校から何人そんな人がでたのかしら。年月って残酷よね。かつてのチアリーダーだって今じゃ田舎町のショップ店員かもしれないじゃない? 一生そこで暮らしていく、負け犬人生。みんな見る目がなかったのね、きっと。サラが帰ってこないのはもうこの町に用がないからじゃないかしら」


 店員は唖然としていた。それでも夏は構わず、

「この帽子、とっても気に入ったわ。田舎っぽくて」

 と、にっこり微笑むんで会計をし「それじゃあ」と優雅な足取りで店を出た。


 サラの敵を打ったような気がして気分はすっきりとしていた。帽子が気に入ったというのは嘘ではなかった。ショーウィンドーをちらと横眼で見ると、そこには古い映画にでも出てきそうなクラシックな麦わらに、痩せた横顔の自分が映る。それは夏を上品で繊細に見せていた。


 その時夏はウィンドーの向こうから自分を見ている視線に気がついてはっとした。


 ウィンドーは小さなベーカリーのもので陳列棚にはフランス風のデニッシュやライ麦パンが並んでいた。その棚の間に立って夏を見ていたのは、マリーの食堂で果敢にも夏をナンパしようとしたトミーとかいう青年だった。


 トミーはやっぱりペンキの付着したパンツにTシャツという出で立ちで、紙袋を腕に抱えて立っていた。


 夏は気がついた以上無視するのもと思い、片手を挙げて見せた。するとトミーはすぐに扉を開けて顔を出し、

「その帽子、素敵だね」

 と言った。

「やっぱりニューヨーカーは違うな」

 とも。

 夏は苦笑いしながら、扉の前に立った。

「あなた、仕事中じゃないの?」

「ランチタイムだよ。ここのパン、美味いんだ。なんせ職人がフランス人だからな」

「へえ?」

 トミーは夏を店内へ誘い入れるように大きく扉を開いた。

「コーヒーも飲めるのかしら?」

「ああ、テーブルもある」


 夏は帽子をとると冷房の効いた店内へ足を踏み入れた。途端、香ばしい匂いに反応し、胃袋がぎゅうっと胃液を絞り出すような痛みにも似た感覚が走った。小麦の匂い、バターの匂い、果物の匂い、コーヒー、それもエスプレッソの香り!


 アメリカ風の薄いコーヒーもあれはあれで美味しいけれど、学生時代に徹夜で仲間と音楽談義に耽り、練習と称した愉快なセッションにはいつもマキネッタでいれたエスプレッソを眠気覚ましに飲んでいた。無論、サラとも。サラはエスプレッソに砂糖をたっぷり入れてかき混ぜずに飲んで、最後にカップの底に溜まった砂糖をスプーンで嘗めるのが好きだった。砂糖を嘗めるなんてとたしなめると、コーヒーの染みた砂糖は脳を刺激していい演奏ができるなんて妙なことを言っていた。ストイックなレッスンの次に必要なのは刺激なのだ、と。それを交互に繰り返すことで才能が開いていくんだとも言った。その効果が本当だなんて誰も思わなかったけれど、今となっては信じざるを得ない。


 トミーはレジに立っていたコック服の男にコーヒーを頼むと「君は? コーヒー?」と棚の上のパンを吟味している夏に尋ねた。


「エスプレッソをお願い」


 夏はコック服の男に向って言った。それからトレイにパン・オ・ショコラを取りレジへ持って行った。


「いい選択だよ。それ、最高に美味いから」


 トミーはコーヒーカップをテーブルへ運ぶと、椅子に腰かけた。夏もパンを片手にテーブルに着く。


「あなたは? 食べないの?」


 さっそくパンにかぶりついた夏はトミーの言葉がまったくの真実、それも紛れもない絶対的な真実であると知った。本当に、美味しい。

「な? 美味いだろ?」

 夏の表情が変わったと同時にトミーがにっこり笑った。


「あなたが嘘をつかないのは分かったわ」

「そうだよ。えーと、それで、君はこの町でのバカンスを楽しんでる?」

「まだ来たばかりだから」

「君ってほんと変わってるよな。こんな田舎にわざわざ来るなんて」

「ここの人たちってみんなここを田舎田舎って馬鹿にするのね」

「馬鹿にしてるわけじゃないよ。ただ退屈な町だから」

「あなた、都会が退屈じゃないなんて本気で信じてるの?」

「そりゃあそうだよ! ニューヨークにはなんでもあるじゃないか」

「行ったことあるの?」

「ないよ」

「あのね」


 夏はパンをコーヒーで流し込むと、あらたまった調子で言った。美味しいパン屋を教えてくれたお礼とでもいうかのように、優しく。


「確かにニューヨークにはここにないものが沢山あるけど、だからって退屈じゃないわけじゃないのよ。そりゃあ私も最初はニューヨークってすごく刺激的で最高だと思ったけど。でも、刺激だって毎日続けば結局は退屈な毎日に成り下がってしまうのよ。ここもニューヨークも同じなのよ。あなたはずいぶんニューヨークに憧れてるみたいだけど、今いる場所で自分を楽しませてやれないなら世界中どこへ行っても同じなのよ」


 トミーは意外な言葉を聞いたように目を見開いて、黙りこんだ。


 世界中どこへ行っても空は青いのだというゲーテの詩を読んだことがある。あれは中学生のころだった。両親が離婚して母親と二人で暮らし始めた頃のことだ。転校先でひどいいじめにあい、一人で本を読んだり音楽を聴いたりするだけが楽しみだった夏は、いつもどこかへ行きたいと思っていた。それこそ都会に憧れているこの町の若者のように。そこへ行きさえすれば何かになれると、何かできると思い込んでいた。例えば夏にとって最初は「東京」だった。


 でも大学へ進学し町を離れて、とうとうアメリカまでやってきて結局得た真実はやはりゲーテの言うように、世界中どこへ行っても空は青く、それを確かめる為に旅する必要はないということだったし、何かになるのも、何かを成すのも自分次第でしかないということだった。場所なんてどこだっていいのだ。


 その真実が分かって初めて何にもなれなかった自分と向き合わなければならず、それは後悔という言葉では片づけられないほど夏を苦しめることになっていた。


 言葉を失ったように無言で夏を凝視している目の前の青年の様子に、夏は少々きついことを言ってしまっただろうかと心配になり、そっとテーブルの上の彼の右手を叩いた。


「大丈夫? ごめんなさい、意地悪言うつもりじゃなかったんだけど」

「いや、違うよ、そんなんじゃない。ごめん、ちょっとびっくりして」

「どうして?」

「君が言ってること、レイ先生とまったくおんなじだから」

「レイ先生?」

「昨夜会っただろ?」

「ああ、サラの先生だった人……」

「俺はそのサラって人知らないけど、先生は今は俺の母親にもピアノを教えてくれてる。先生が高校でよく言ってた。今君が言ったようなこと。世界中どこへ行っても自分をちゃんと持っていればなんだってできるんだって。ロスに行きたければ行けばいいし、ニューヨークでもどこでも行けばいい。でも、自分をしっかり持ち続けることができるのが成功の条件なんだって。それはこの町にいても同じだって」

「……あなたは都会へ行きたくなかったの?」

「俺はここが好きだから、ここに残ったんだ。そりゃあ憧れる気持ちはあるよ。でも建築の仕事はここでもできる。俺の親父も大工なんだ」

「あなた、見かけほどチャラチャラしてないのね。悪かったわ」


 油の染みた指先を紙ナフキンで拭い、コーヒーを飲みほす。トミーは今やすっかり都会から来た年上の女に慣れたのか、臆することなくテーブルに身を乗り出して饒舌に話し始めた。


「レイ先生は素晴らしい先生だよ。尊敬してる。引退して今はほとんどボランティアみたいにこの町の連中に楽器を教えてくれるんだ。例えば、音楽なんて学ぶ暇のなかった貧乏人を中心に。うちの母親なんて典型的な貧乏所帯のくたびれたおばさんだよ。高校も出てない。けど、先生がマリーの所でピアノを弾くのをいつも見てて憧れてたんだって。あんな風に弾けたらって。それをマリーに話したら、マリーはすぐに先生にそのことを聞かせてさ。そしたらもう次の日には電話がかかってきて、先生が言ったんだ。来週からいつでも時間のある時にうちにレッスンに来るようにって。もちろんレッスン料なんてとらないで。先生はそういう生徒を何人も教えてる。で、言うんだ。どんな環境にいても学ぶことを忘れてはいけないし、自分を楽しませることを忘れちゃいけないって」

「あなたの先生、マリーのところでピアノを弾くの?」

「そうだよ。週末の夜にね。この町には気の利いたジャズクラブやバーはないからさ、みんな週末はマリーの店に行って先生のピアノを聴くんだ」

「へえ……」


 夏は感心したように溜息をついた。ボランティアで町の人に音楽を教え、町の人の娯楽の為にピアノを弾く。絵にかいたような高潔な人なんだな、と。


 がっしりとした体格に大きな手。骨ばった長い指先。グレイの髪が額に落ち、その下の目は落ち着いた色をしていた。夏は彼の風貌を思い出しながらもう一度溜息をついた。


「先生のピアノが聴けるの、楽しみだわ」

「……いや……」

「週末に弾きにくるんでしょ? あの食堂のピアノでしょ?」

「うん、そうだけど……」

「けど?」

「当分弾かないかも」

「どうして?」

「どうしてって……それは…」

「それは?」


 トミーはそれまで調子よく喋っていたのが急にトーンダウンし、もごもごと口ごもった。夏は眼で先を続けるように促した。


 が、彼が口を開くより先に携帯電話の着信音が鳴り響き、弾かれたようにトミーはポケットから電話を取り出した。


「もしもし!」


 夏は肩をすくめてカウンターへコーヒーのお代わりを頼みに行った。トミーは携帯電話でどうやら仕事の話をしているらしく、大きな声でバルコニーの塗装がどうとか暖炉の上のタイルがどうとか言っている。そして、最後に早口で「オーケイ、分かった。すぐ行くよ」とも。


 それを耳にした夏はくるりと振り向いて、にっこり笑って見せた。


「さあ、仕事でしょ。行ってちょうだい」

「ごめん、せっかく君と話すチャンスだったのに」

「別にいいのよ。サボってて怒られるといけないものね」

「夕飯はマリーのところで食べるんだろ?」

「たぶんね」


 トミーはポケットから車のキーを取り出し、急いで席を立って出口へと急いだ。夏はそれを見送りながら片手をあげかけて、トミーを呼び止めた。


「待って」


 扉を開けた姿勢でトミーが振りかえる。


「先生のピアノはいつ聴けるの?」

「分らないよ。たぶん先生が落ち着いたら」

「落ち着くって?」

「……先生の奥さんと息子さんが事故で亡くなったんだ」

「えっ……」

「昨日、お葬式だった」

「……」

「先生は一人ぼっちになったんだ。しばらくはピアノなんて弾く気にならないと思うよ」


 思いもよらない言葉に夏は衝撃を受け、体の真ん中から一瞬にして急速冷凍されたように固まった。トミーが出て行ってもドアにしがみついたままで、息を吸い込もうにもうまく肺にに空気が入ってこないようで苦しくて眩暈を感じた。


 それでは、夏がこの町に来て最初に見たあの教会でのお葬式。あれはもしかして。


 喪服の人の群れ。たくさんの涙と嗚咽。夏は咄嗟にシャツの胸のあたりを鷲掴みにした。まるで心臓を病んだ人のように。一人ぼっちという言葉が矢となって夏を打ち抜いたようだった。


「大丈夫?」


 訛りのある英語が背中から聞こえた。


 ああ、例のフランス人とかいうパン職人。夏はゆっくり振り返ると「大丈夫よ」と返した。


 テーブルに戻ってコーヒーのお代わりを飲み気持ちを落ち着けようとしたけれど、もはやコーヒーの味も分らないほどに夏は動揺していた。


 そして胸の中で何度も呟いた。私は知っている。一人ぼっちの自分を。一人ぼっちになるということを。それがどのようなものかを知っている。どんな親しい友人よりもそれは自分の近くにいて、つきまとい、離れない「孤独」というもの。


 夏は半分ほど残ったコーヒーにごっそりと砂糖をいれ、かきまぜずにそのままゆるゆると飲み下した。カップの底にはかつてサラがよくしていたように茶色く染まって溶けかかった砂糖の山がこんもりと積もっていて、スプーンですくって口に運ぶと脳天が痺れるような甘さがいっぱいに広がり咽喉へ流れ落ちていった。



 マリーズ・ゲストハウスに戻ると夏は部屋で荷物を整理した。トランクに適当に詰め込んできた衣類をクローゼットのハンガーにかけ、化粧品をライティングビューローに並べる。


 夏の荷物は少なかった。それはこの「バカンス」が計画されたものではなく、突発的なものであることを表わしていて、着替えといっても僅かしか持ってきてはいなかった。


 コインランドリーがどこにあるのかエレンに聞いておかなければ。夏はそう思いながらパソコンの電源を入れた。


 メールをチェックするとサラから返信がきていた。夏は自分の頬が窪むのを感じた。


 夏、あなたが私の故郷にいるなんて本当に驚きだわ! それもあのマリーズ・ゲストハウスにいるなんて! 懐かしいわ。そこ、素敵でしょ? ミズ・マリーはどうしてる? 元気? あなた、もうポークビーンズは食べた? スペアリブは? 庭のバラが今も見事なんでしょうね。私はもう長いこと帰ってないけど、忘れたことは一度もないわ。美しい、私の育った町。でも、夏、どうして急に出かける気になったの? 私はてっきりこの夏はあなたはパリに行くんだと思ってた。何かあったの? それとも一人で羽を伸ばしたくなったの?あなたが何も話してくれなかったのが寂しいわ。ともかく、楽しい旅を。またニューヨークで会いましょう。帰ってくるのを待ってるわ。サラ。


 読み進めるうちに夏の顔に浮かんだ微笑みは色褪せていき、読み終わるとほとんど青褪めて眉間には皺が寄っていた。


 パリもミラノもウィーンも、今の夏にはなんの感銘も与えない。分かっているのはトミーに言ったように、世界はどこへいっても同じだということだけだった。肝心なのは自分自身だということだ。そしてその自分はというと、今はぺちゃんこにひしゃげていてうまく息ができないほどで、今にも土砂降りの雨が降り出しそうな雲行きの中にいる。


 夏は羽を伸ばしにきたのではなく、羽を畳んで休める為にきたのだ。でもそれをサラに話すのは難しいような気がした。夏は返信しようとして、そのまま画面を閉じた。


 これまでサラにはいろんなことを話してきた。でもそれは問題がないからできる打ち明け話であって、こと恋愛に関してはほとんど幸福なのろけ話みたいなものだったと今となっては思う。そりゃあ若いなりに悩みはあったけれど、そんなものははしかみたいなものだ。高熱。その後に回復。ちょっとした諍いも愛情があればこそやり過ごしていける。でも、それを失ってしまったら……?


 はしかも羅患して治りが早いのは若いうちだけだ。それと同じこと。年をとってからの大病は治りが遅いだけでなく、致命的なケースもある。


 自分の例えに自分で傷ついた夏は立ち上がり、大きく窓を開け放った。物思いに耽ると空気が薄くなるような気がするのだ。窓辺によって深呼吸すると熱く乾いた空気が全身を満たした。


 眼下の芝生の上を午後の水やりの為にスプリンクラーが作動し、くるくると回っている。水しぶきが陽ざしに煌いている。夏は窓を閉めると階下の食堂へと降りて行った。ここの庭を見ているとその平和な風景に気持ちがほぐれる。今は何も考えずに庭を眺めながらコーヒーでも飲もう。あのパン屋みたいな濃いエスプレッソではなく、アメリカ的な薄いコーヒーをたっぷりと。夏は自分がバカンスに来たというよりも病気を治しにきたような気がした。それは日本的にいうと湯治のようなもの。夏の心は病人のように弱りきり、冷たくうつろだった。


 食堂に行くと夏はテラスのそばのテーブルに腰かけた。


 エレンが卓上の塩や胡椒の瓶を丁寧に磨いている。客はおらず、ひたすら静かな時間が流れていた。


「コーヒーをお願いできる?」

「あら、出かけたんじゃなかったの? 買い物はすんだ?」

「ええ」

「帽子は買った?」

「買ったわ。そうそう、トミーに会ったわよ」

「またサボってたんでしょうよ」

「そうでもないみたいよ。あの子、案外真面目なのね」

「そうね、他のガキどもに比べたらね。他の連中ときたら女の尻を追いかける以外にやることがないんだから」

「若い子ってそういうもんなんじゃないの?」

「日本でも?」


 エレンの言葉に夏は思わず笑い出した。

「ガキのやることなんて世界中どこでも一緒よ!」

 のけぞって笑い声を立てる夏をエレンは仕事の手を止めて驚いたように見つめ、それからにっこり笑って、

「あなたが笑うとこ初めてみたわ」

「ええ?」

「コーヒーいれてくるわね」

 と、カウンターへと歩いて行った。


 なにを当たり前のことを。夏はそう思ったけれど、すぐに、いや、そんな風に思われるのも無理はないと思い直した。そうでなくても冷たいと思われる顔をしているのだ。こんなにも暗く沈んだ気持ちでいては笑わない女だと思う方が当然だ。


 笑わない女はブスだと、昔、日本にいる頃に仲のよかった男友達が言ったことを思い出した。


 容姿の優劣は顔の造作で決まるのではないと彼は言った。人のもっとも美しい表情は笑った顔にある。どんな美女も笑わなければブスで、笑顔の絶えない女こそ常に誰よりも美しい、と。


 それを聞かされた十代の頃は深く気にも留めないで聞き流したけれど、今なら分かる。でも「分かるよ」ともう相手に伝えることができないほど自分が遠くに来てしまったことが悲しかった。


 留学するところまではよかったのだ。誰もがいずれ戻ると思っていたし、夏自身もそう思っていた。けれどもうほとんど日本に戻っていない。仲の良かった友達とも会っていない。一生友達だと思ったけれど、縁が切れてしまえば今どこにいるのか、何をしているのかも分らない。自分が決めてこの国に残り、過去を振り切るようにして猛スピードで新しい生活、新しい人生へ走り出してしまった為、それまでの友達と連絡をとり続けるような気持ちになれなかったし、日々のめまぐるしさ、言い換えるなら恋愛の熱狂的な空気とめくるめく情熱の中ではとても自己を省みる隙もなかった。


 捨てたとは思いたくないけれど、結果的にそうなってしまった懐かしいものたち。


 エレンが「私は仕事があるから、好きなだけ飲んでゆっくりしてちょうだい」とコーヒーを置いて行った。


 コーヒーにミルクと砂糖をいれスプーンでかきまわす。ゆっくりとカップに口をつけ、ぼんやりと庭を眺める。エレンはきびきびと作業を片づけて行く。夏はそれを眼の端にちらちらと見ては、また庭をぼんやりと見つめていた。


 そうしてどのぐらい時間がたっただろうか。食堂の入口に旅行鞄を持った背の高い男が立って店内を見回し、それからサングラスをしたままで「エレン!」とナフキンを畳んでいた彼女を大きな声で呼んだ。


 呼ばれて顔をあげたエレンは次の瞬間悲鳴にも似た驚きの声をあげた。

「ダニエル!?」

「エレン、元気そうじゃないか」

 男はゆっくりサングラスをはずし、両手を広げた。


 エレンは男に駆け寄ると信じられないという顔で抱擁を交わし、男からの親愛のキスを頬に受けた。

「あなた一体どうしてたの? 今までどこにいたの?」

「ニューヨークにいたんだよ。マリーは?」

「ニューヨーク? 外国じゃないのにどうして帰ってこなかったのよ?」

「忙しくてね」

「忙しいってあなた、そんな……」

「なあ、マリーは? いるんだろ?」

「呼んでくるわ、ちょっと待ってて」


 動揺と困惑。エレンの体中からその二つが発散され、平和だった空気を一瞬にしてかき乱してしまった。夏は男を盗み見みながらポットのコーヒーをカップに注ぎ足した。


 洒落たジャケットは線が細くて都会的な印象だ。耳にはプラチナのピアスがひとつ。妙に艶のいい肌色とたくましい肩のミスマッチ。ダウンタウンあたりのギャラリーやカフェにでもいそうなタイプ。


 夏はコーヒーを啜りながらちらちらと男を見続けていた。


 エレンがキッチンへ入って行くと、マリーが飛び出してきた。


「ダニエル!」


 マリーもエレン同様に叫んだ。


「やあ、マリー。ただいま」


 男はマリーにも抱擁しようと両腕を広げ少し体を屈めた。が、マリーはそれをさせなかった。

「ただいまじゃないわよ!!」

 その声の怒りを含んだ真剣さに夏は驚き、固唾を飲んだ。


 驚いたのは男も同じだったらしく、

「なに怒ってんだよ。久しぶりに帰ってきたのに」

「一体今までなにしてたの!! どうして帰ってこなかったの!!」

 マリーの剣幕は男に殴りかかるのではと思うほど切迫していた。

「ちょっと、ちょっと、落ち着いてよ。一体なんだっていうんだよ」

 男は自分が想像していたような感動的な再会の場面ではなく、詰め寄られることに困惑しているようだった。


「ずっとニューヨークにいたんだよ。向こうでブロードウェイに出てるんだよ。忙しくてずっと帰ってこれなかったけど、やっとオフがとれたから」

「ブロードウェイ? 忙しかった? 本気でそんなこと言ってるの?」

「なんだよ、本気ってどういう意味だよ。僕が成功するとは思わなかったとでも言いたいの?」

「成功したら母親の葬式にも帰ってこないわけなの?!」

「えっ……」


 大変な事態になってしまった。夏はこれ以上ここで盗み聞きしているのが悪いような気がして席を立ちたかったけれど、そうするには彼らの前を割って横切って行かなければならず、やむなくどきどきしながら成り行きを静かに見守っているより他なかった。


 ダニエルと呼ばれた男はマリーの叫びにみるみるうちに真っ青になり、言葉を失ってただ喘ぐように苦しげに口をぱくぱくさせるだけだった。


 腰に両手を当ててマリーは続けた。


「あんたが成功してようとそんなことは関係ないよ。あんたとアレックスが喧嘩してたのも知ってる。でも葬式にも戻らないなんて、そんなことレイが許しても私は許さないよ」

「……死んだって……母さんが死んだって……?!」

「ダニエル、大丈夫?」

 エレンが今にも倒れそうに青ざめた男の体に右手をまわした。

「いつ? いつ死んだって?」

「……ダニエル、まさかあんた知らなかったの?」

「知らない……僕はなにも……」


 マリーは大きく目を見張り、それから傍らの椅子にどさりと腰をおろした。テーブルに肘をつき、手のひらで額を押さえて、

「先週、事故でね……。アレックスもジュリアも、ちびちゃんも、ケイトも……」

「……知らない……」

「そんな!」


 エレンが叫んだ。顔をあげたマリーの目に涙がいっぱい溜まっていて今にも溢れそうだった。


 男はエレンに支えられながら椅子に腰かけた。


「みんな同じ車に乗ってて……。運転してたのはアレックスよ。でも事故は彼のせいじゃない。積載量オーバーのトラックが……」

「父さんは……?」


 喘ぐように、振り絞るようにして男が尋ねた。その目にも涙がいっぱいで、こちらはもう一筋二筋と頬へ流れ落ちていた。


「レイは一緒じゃなかったの。彼は無事よ」


 マリーの言葉に安心したのか、または耐えきれなくなったのか、男はテーブルに突っ伏して堰を切ったように泣き始めた。マリーとエレンが彼の背中を抱きしめ、髪を撫で、声をかけ続けた。


 夏は一連の場面を遠巻きに見守っていたが、立ち上がるとカウンターに並べてあるカップを一つとってきてそれと一緒にコーヒーポットを彼らの泣き伏すテーブルに持って行った。


 一瞬驚いたように男は顔をあげ夏を見た。涙でぐしゃぐしゃになった顔。夏はなんと声をかけていいか分からず小さく頷き、ポットからコーヒーを注いだ。


 男は再び泣き始めた。夏はそうっと食堂を出て部屋へ戻って行った。


 夏は少し混乱していた。他人事とはいえそんなことってあるんだろうか。身内の、それも母親の死を知らせないなんて。よほどの諍いがあったとでもいうのか。


 なんとなく嫌な気持ちで部屋の窓辺により、椅子に腰をおろして頬杖をつき眼下のバラを見つめた。すでに夏にとってこの庭のバラは心の拠りどころのようになっていて、見つめると心に溜まった澱が濾過されていくのを感じた。美しいものは心を和ませるのは真実だ。花も然り、音楽も然り。


 おのずと夏は自分の両親のことを考えていた。


 夏の良心は夏が中学生の時に離婚していた。夏はその後母親と暮らし、父とはほとんど会っていない。会ってはいけないような気がしていたのだ。それは子供なりに母親に気を使ったのもあるし、多忙だった父と会って何を話していいか分からなかったせいもある。


 離れても親子であることに変わりはないとは彼らがそもそも離婚の時に言った言葉だ。夏がそれを信じたわけではないけれど、心のどこかで信じたい気持ちはあったのだろう。今でも時々は父に宛ててメールをしたりする。


 この国にきて思ったのは、比較するようなことでもないのだけれどここでは家庭内で起きる問題が複雑で深刻になりがちだということだ。離婚は親権を争い、面会の回数まで決めてしまう。法律によって統制をとられるのはそれにまつわるトラブルが多いせいだろうけれども、まさか肉親の死を伝えない法などあるだろうか。


 夏は階下の食堂で恐らくはまだ号泣しているであろう男のことを考えるとやり切れない思いだった。トミーはあの引退した音楽教師がいかに素晴らしい人格者であり教育者であるかを語ったが……。


 不意に、無性にピアノを弾きたくなった。それは久し振りに訪れる感触だった。もう長いことろくに弾いていない。弾きたい気持ちになれなかった。かつてあれほど真剣に取り組み、片時も弾かずにはおけなかったというのに。なのに、今この暗澹たる場面に遭遇してたまらなくやるせなく、無心になってピアノに向かいたい気持ちが湧き上がってくるとは夏自身信じられなかった。


 しかし弾くといっても階下のピアノを弾くわけにもいかないし……。夏はしばし逡巡し、バラを見つめ続けた。そしてはっと気がついた。そうだ、教会だ。教会には必ずピアノがある。弾かせてくれるかどうかは分からないけれど、行くだけ行ってみよう。弾けなくてもいい。ピアノの傍にいられるなら。鍵盤に触れられるなら。あの硬く冷たい感触、突き放すようでそれでいて指先にしっとりと吸いついてくるようなタッチ。美しいものの癒しの力。それを感じられれば幾分気持ちも楽になるだろう。


 夏は立ち上がるとマリーズゲストハウスを出て通り沿いの教会へ小走りに駆けて行った。もちろん買ったばかりの麦わら帽子をかぶって。


 ロビーを抜ける時に一瞬だけ食堂に目をやったが、そこではやはり三人が深刻な面持ちで頭を寄せ合っていた。



 焼けつくような午後の日差しに教会のアプローチの真白な敷石が眩しく、屋根の上の十字架は太陽を反射して強い光を放っていた。


 夏は足下からも熱気が上がってくるのを感じながら入口の大きな扉を押した。


 扉は思いのほかすんなりと開き、中からひんやりとした空気が溢れて夏を包んだ。教会の外観の古風でシンプルな佇まい同様に内部も木のベンチがずらずらと並び、正面に祭壇と十字架、その背後には素朴なステンドグラスが嵌っていた。


 なんて綺麗な教会なんだろう。静かで清潔で、素朴で、力強い。そっと足を踏み入れ背中で扉が閉まるにまかせると、夏は眼を閉じて深呼吸をした。


 ここが祈りの場であることは承知しているし、ある種の人々にとっては特別な場所なのも理解している。夏に特別な信仰心はないけれど、きりりとした緊張感と静謐な空間の持つ力のようなものはひしひしと伝わってきた。


 余所者である、しかも外国人の自分が無断で入り込んでもいい場所ではないかもしれない。入るには許可を得るべきなのだろうと思う。でも、夏は開き直ったようにこうも思った。教会というのは迷える子羊の祈りの場でしょう? 誰でも来ていい開かれた場所のはずでしょう? 汝の隣人を愛せよ、でしょう? だったら私がここにいてもいいはずよ、と。


 祭壇の左手にはアップライトのピアノが一台据えてあり、濃いグリーンの別珍のカバーがかけられていた。夏はそれに向って中央を歩きだした。


 一足ごとに靴音が高い天井に響く。祭壇の前まで来ると夏は断りをいれるつもりのように立ち止り、すっと十字架の前にひざまずいた。そして一瞬両手を組み合わせ、それから胸の前で十字を切った。


 神様、どうぞここのピアノをちょっとだけ弾くことをお許しください。心の中で呟く。しかし、祈ることはしなかった。無論、何かを願うことも。


 神と名のつくものの前にくれば人は何かを祈り、願う。夏は習慣的に詣でた神社やお寺のことを思い出した。柏手を打ち、受験の成功や恋愛の成就を、時には宝くじの当たりを願ったことを。祖父母の健康を祈り、旅に出た友人の無事を祈ったことを。それらは日本人として日常の中に組み込まれた文化のようなものだが、日本を離れて暮らす夏にはそんな風に気軽に祈る場がなく、だからもう何年も瑣末な日常の願い事から奇跡を待つような祈りまでどんな神様にも頼んだことはなかった。


 立ち上がった夏はピアノのカバーを捲り、蓋を開けて椅子に腰をおろした。願いごとがないわけではない。言い出せばおそらくきりがない。人差し指でぽんと鍵盤を叩く。透き通って明朗な音が長い波長となって響き渡った。


 私はもう知っている。神様が悪いわけではない。でも、願いごとなんて叶いはしないということを。だから願うことなど何もないし、願うことが今は悲しさを揺り起こすばかりなのだ。神様の前を素通りしないのは礼儀であって、だけど頼る気持ちはない。こんなことを考えたらいけないのかもしれないけれど、私はもう神も仏も信じていない。


 夏は一呼吸すると両手を鍵盤の上にのせた。そしておもむろに弾き始めた。


 ゆったりと気持ちを落ち着け指が動くにまかせる。頭の中の楽譜がぱらぱらとめくられ、体が自然にメロディを追う。


 「主よ、人の望みの喜びを」この曲は学生の時にサラと一緒に演奏したこともあったし、アルバイトで結婚式の生演奏をしていた時にも弾いた曲だった。


 もう長いこと弾いていなかったのに体は覚えているもので、夏の指はよどみなく鍵盤の上を行き来した。


 夏はこの時無心だった。頭は気持ちいいぐらいからっぽで、脳みその芯から染み出るように音楽が溢れ、指がそれをなぞっているだけだった。そして指先は鍵盤に吸いつくように動き、重くもなければ軽くもない微妙なタッチが全身の神経をじんわりと痺れさせるようだった。目は白と黒のコントラストを見つめているだけで、それ以外の何も見えず、感じず、耳は自分が紡ぐ音だけを聞いた。


 このまま永遠に弾き続けられたら。心の底の、さらに奥底で思う。もはやピアノに賭けて心血を注いだ自分はどこにもいない。今の自分はその頃の燃えカスみたいなものだ。でも、燃えカスだって熾火になって火を絶やさなければ無心に弾くことができる。それがどれだけ幸福なことか。


 どうして忘れていられたのだろう。こんな風に何も考えずに自分の為に弾くことを。ピアノから離れてどうして今までやってこれたのか、それも思い出せない。


 情熱を失って生きた空虚な日々は自分にとって死んだも同然の生活だった。ドアマンのいるようなアパートに住み何不自由なく暮らし、陽気な友人に囲まれていたけれど、そういう自分を不幸だとは思わなかったものの決して幸福とも言い切れなかった。かつては夢があり、それに向って全力で走り、挫折し、涙し、また立ちあがって走っていた。あの充実感は生きている証のようなものだから。


 忘れていたけど、まだ弾けるんだわ。夏はあの音楽教師が言った言葉を思い出した。練習だけが勇気を与えてくれる。それは本当だ。練習は自分を裏切らない。積み重ねた事実だけが確かなものとなり、自信を与えてくれる。今の自分はもう長いこと何も積み重ねてこなかったけれど、それでも弾くことができる。そして弾きたいと思っている。それが嬉しくてならない。死んでいたものが突然蘇り、自分を突き動かそうとしている。


 弾き終えて大きく息を吐き出すと、ベンチの最後列あたりから高らかな拍手が鳴り響いた。


 夏はぎょっとして慌てて立ち上がりその方向を見た。そこにはあの音楽教師がいて、ベンチから腰をあげて拍手をしながらこちらへと歩いてくるところだった。


 いつからいたのか、まるで気がつかなかった。音楽教師は静かに微笑み、大きな音で拍手をしながら祭壇の正面まで来るとうろたえている夏に向って口を開いた。


「君はやっぱり素晴らしい演奏家だね」

「そんなこと……」

「涙が出そうになったよ。いい演奏だった」

「いつから聴いてたんですか」

「少し前から。用事があって来たんだけど、君が弾いてるからびっくりしたよ」「勝手に入って、いけなかったでしょうか……」

「いや、あんな素晴しい演奏なら神様も歓迎なさるさ」


 夏は急いでピアノの蓋を閉めカバーを戻した。


 ついさっきマリーのところへ現れたこの人の息子だという男の号泣が目の前をちらついていて、父親の方は直視できなかった。


「今はピアノは弾いてないって言ってたね?」

「ええ、まあ……」

「今の演奏には魂がこもっていた。本当に素晴らしかったよ」

「私程度ならいくらでもいます。大学にもいっぱいいたわ」

「サラもそう言った?」

「サラ? いいえ……」


 急にサラの名前が出たので夏は音楽教師を見上げた。

「才能がある者は同じ才能を持つ者をちゃんと見抜く」

「……あの……」


 自分が口を出すべきことではないのは分かっていた。でもここで黙っているのも息が詰まるようで夏はまた音楽教師から視線を外し、

「トミーから聞いたんですが……、奥様を亡くされたとか……。お悔やみ申し上げます」

「ああ……。急なことだったんでね。まだぼんやりしているよ」

「あと、マリーのところでピアノを弾くんだそうですね」

「トミーはお喋りだな。そう、もうずっと若い頃からね。僕はこの町の出身でね、人前で弾くのは練習になるし、マリーの旦那からもぜひ弾いてほしいって頼まれて、それからずっとだからもう何年になるかな……。でも私には君のような感動的な演奏はできないよ」

「この週末も弾きますか?」

「どうして?」

「いえ……。奥様を亡くされてそんな気分でもないですよね。ごめんなさい。変なこと言って」


 音楽教師は祭壇の十字架を悲しい色の目で仰ぎ見た。夏は余計なことを言ったなと思った。でも息子のことも気になっていたし、彼らの確執が決して好奇心や野次馬根性ではなくて小さなトゲになって胸に刺さっていた。


 よそう。他人のことに踏み込んでデリカシーのない真似をするのは。夏は咽喉元まで出かかっていた言葉を飲み下し「では」とその場を離れようとした。


 すると意外なことに音楽教師はそれを制し、こう言った。


「君が弾けばいいよ。あんなに上手いんだからみんな喜ぶ。この町には娯楽が少ないからね」

「無理ですよ、そんな。私、本当に長いこと弾いてないし。練習してないもの」

「さっき弾いてたじゃないか」

「今のは誰もいなかったから。練習もなしに人前で弾くなんてできません」

「すればいい。うちのピアノで練習すればいい」

「ブラックウィングさん……」

「レイでいいよ。うちの住所を教えておこう。いつでも来て、勝手に入ってくれてかまわない。私の生徒はみんなそうしているから。好きなだけ練習するといい」


 夏が唖然とするのもおかまいなしにレイはポケットから財布を取り出し、名刺を一枚抜いて夏に差す、押しつけるように名刺を握らせた。


 レイは「じゃあ」と片手をあげて祭壇にくるりと背を向けた。そして立ち尽くしている夏を置いて出口へと向かい、真夏の熱気立ち込める外の世界へと扉を押し開けた。それから思い出したように一度だけ振り返り、

「その帽子、似合ってるよ」

 と言って笑った。


 夏の手にはまださっきまで弾いていたバッハの清らかな旋律と、レイの名刺が残っていた。



 少し散歩をしてマリーズゲストハウスへ戻る頃には食堂は夕食を楽しむ客で混み始めていた。南部の夏の夜はいつまでたっても暮れない。夕方の空が長く続く感じで、傾いた太陽が空気を淡いオレンジに染め続け、やがてインクを流したような夜が訪れる。


 二階へ続く階段を夏は部屋の鍵をちゃりちゃりと投げ上げながら上がった。すると部屋のドアの前にマリーとレイの息子が立って話をしているところだった。


 マリーは夏を見ると、

「おかえり」

 と、にっこり笑った。


「ちょうどよかったわ、ナツ、紹介するわ。ダニエル。この町出身でね、サラ・コナーズと同じこの町の数少ない成功者の一人よ。今はブロードウェイに出てるんですって。ダニエル、彼女はナツ、ニューヨークから来たサラの友達」


 夏は困ったような曖昧な顔で微笑み、「ハロー。会えて嬉しいわ」と教科書の例文のような言葉で初対面の挨拶をした。


 ダニエルはさっき見た激しい号泣とは別人の様相でいかにもアメリカの気のいい若者然としてさっと手を差し出し、

「君もニューヨークから来たの? バカンス? サラ・コナーズ、懐かしい名前だね! 彼女のこと、よく覚えてるよ。兄貴と同級生だったんだ」

「サラとは大学が同じだったのよ。彼女がここを教えてくれたから、ちょっと羽を伸ばしにきたの」

「ニューヨークに比べたら退屈な町だろ」

「そんなことないわ。いいところだと思うわ」

「ニューヨークではなにを?」

「なにって……私はもう音楽はやらないから……。それより、あなたはブロードウェイに出てるなんてすごいわね。何に出てるの? 私見たことあるかもしれないわ」

「この前までキャバレーに出てたんだけどね」

「すごい! なんの役?」

「クリフ」

「主役じゃない! キャバレーなら何度も見てるわ!」


 ダニエルは前髪をかきあげ、ちょっと自慢げともとれるような笑い方をした。

「次の役も決まってるの?」

「まあね。シーズンに入るとレッスンもあるし休めないから、その前にちょっと里帰りさ」

「次は何に出るの?」

「シカゴ。音楽監督を指揮者のウィリアム・グレインがやるんだけど、彼からの指名でね。かなり厳しい人らしいんだけど、素晴らしい才能の持ち主でもある。今から覚悟してるよ。しごかれると思う」

「ウィリアム・グレインが? オーディションじゃなくて、あなたを指名したの?」

「そう。僕の舞台を何度か見てくれてたらしくてね」

「……すごいわ……。ダニエル、あなた本当にすごいスターなのね」

「いいや、まだ僕なんて無名の新人だよ。ちょっと運が良かっただけ。これから頑張らないとね」


 横で聞いていたマリーはにこにこしながら「有名になる前にサインをもらっておかないとね」と言い、それから、

「じゃあ、私は忙しいから。またね」

 と二人を残して階下へと降りて行った。


 夏はレイのことが気になっていたが、それを尋ねるのもどうかと思いちらっとダニエルの顔を見やった。すると彼もまたこのニューヨークからやってきた外国人が気になったのか窺うように顔を見ていたので二人の視線がばっちりとあってしまった。


 夏は慌てて、

「ええと、ダニエル、あなたは家には帰らないの?」

「ああ、滞在中はここに泊まる」

「あら……、どうして?」

「……さっきはみっともないところを見せたね。聞いただろ。家族はもういないんだ」

「ごめんなさい。余計なことを……」

「君が謝ることはないよ。ちょっと事情があってね。家に帰るつもりはない」


 何を言っても何を聞いても「地雷」を踏んでしまう。こんな危険なことってない。たぶん彼と話して問題がないのはニューヨークの話だけだろう。でも夏の方がその話しはしたくない。なにしろあそこにいたくなくてここへ来たのだから。


 夏は部屋の鍵を差し込み、ドアを開けた。

「それじゃあ」

 またねと言いかけた夏をダニエルが引き止めた。


「待って。一人で来てるんだろ?」

「ええ、そうだけど」

「じゃあ、もしよかったら食事を一緒にどう?」

「え?」

「一人で食事するのもつまらないし、君がよければ話し相手になってくれないかな」


 夏は戸惑いつつ、しかし、どれだけ考えても断ることはできない気がした。この小さな田舎町で、町中の人が全員顔見知りという場所で、「地元へ帰ってきた」「成功した」男と、この町でただ一つの宿の宿泊客。しかも共通の知人がいる。危険な男でないのは見れば分かる。でも、ワケありなのが二の足を踏ませる。面倒というよりは気づまりな予感がしていた。


「私でよければ」

 やむなく夏はそう答えた。


 ダニエルはあからさまにほっとした顔で「よかった、ありがとう。それじゃあ、着替えてくるよ。もし君が先に飲みたいなら、下で待ってて」とせかせかと言い、自分の部屋へと戻って行った。


 誰かといたいのかもしれないな。夏は部屋に入ると帽子を脱ぎ、椅子に腰を下した。


 ゆったりと背中をあずけ、お行儀が悪いのは承知でテーブルに足を乗せる。お腹の上で指を組み合わせて目を閉じると、微かに階下の賑やかな様子が漂ってくるのを感じられた。


 寂しいのだろう、きっと。家族をなくして傷ついているのだろうし。そう考えると自分は気が進まなくても彼のしたい話をさせてやり、それにつきあうのも仕方がないと思った。自分にそうする義務も義理もないけれど、夏は自分が初めてこの国へやって来た時に見ず知らずの人の親切や優しさにずいぶんと助けられたので、そのことを考えるとあまりドライになりきれなかった。


 大学はもちろん、近所のカフェや食料品店の店員に至るまで夏は優しくしてもらったことを今も覚えている。カフェで酔っ払いにからまれた時助けれくれたウェイターや、食あたりで倒れた時に世話してくれた近所のおばさん、大学のコンサートに出るだけなのに花束を贈ってくれた本屋のおじいさん。夏をハニーやダーリンと呼び、見守ってくれた人々。夏はその度にいつかどこかで自分はこれらの親切を他の人に「返さなくては」いけないと思っていた。

 サラが導いた縁もあることだしね。夏はパソコンのスイッチをいれた。そして書けなかったサラへのメールの返事を打ち始めた。


 サラ、なにも話さずにいなくなっちゃってごめんなさい。うまく説明できなくて。ちょっと一人になりたかったのよ。頭の中を整理するにはニューヨークはうるさすぎるわ。ここの話を聞いておいたのは本当に正解だったわね。バラは今が見ごろよ。とっても綺麗。食事もおいしいし、ずっとここにいてもいいぐらい、ハマってる。あなた、ダニエル・ブラックウィングって人のこと覚えてる? 彼も今日からマリーズゲストハウスに滞在するそうよ。彼、ブロードウェイに出てるんですって。知ってた? この町から出た成功者はあなたと彼だけだって話よ。ここではあなたの名前は本当に有名で、そのあなたと友達だっていうだけで私も注目されるみたい。有名人と友達なんて鼻が高いわ。あなたもこっちで一緒にスペアリブを食べれたらいいのにね。


 署名と共にラブと付け加えて送信すると、夏は立ち上がり服を脱いでバスルームへ行った。濡れたタオルで汗を拭き、鏡をのぞきこむ。ブロードウェイのスターと食事、か。夏はなんだかおかしくなって一人でくすくすと笑った。こんな気持ちは久し振りだった。相手がスターだからという高揚ではなく、自分が何者でもないということの喜びがむくむくと湧き上がり、どうしたって笑いがこみあげてくる。肩書のないただの旅人だということ。ここでは誰も自分の氏素性を知らないのだ。それがどんなにか心を軽くすることか。


 また服を着ると簡単に化粧を直し階下へ降りた。食堂は混み合っていて、肉の焼ける匂いや食欲をそそるソースの香りが立ち込めていた。


 夏はエレンにダニエルと二人で食事をすると告げ、窓際の席に座った。そしてビールを飲みながらいつもそうするように周囲のテーブルを観察するべく、頬杖をついた。


 目だけを動かして幸せそうな家族の食事や老夫婦を眺め、カウンターで酒を飲む仕事帰りの男たちを眺める。


 ダニエルにとってここへ帰ってくるのは「凱旋」かもしれないが、今はどうだろう。夏はダニエルが現れた瞬間の彼らの反応を想像し、息が苦しくなった。


 半分ほどビールを飲んだところで、ダニエルが入口に現れた。夏は片手をあげ、彼に合図を送った。

 ダニエルはジーンズにTシャツという格好で、ピアスは外していて、それは最初に夏が見た「小洒落たニューヨーカー」ではなく「田舎のアメリカ人」みたいに素朴で、絵に描いたようなスタイルだった。


 なんだかわざとらしいみたい。夏は思った。あのジーンズ、絶対さっき穿いてたのと違うわ。わざとボロいの着てる。ヴィンテージって意味じゃなくて。カウボーイハットを被ってないだけマシだけど。


 それにしても妙だ。成功して故郷に帰ってきたというのに、その象徴とも言える姿を見せないなんて。


 ダニエルが夏の待つテーブルまでたどり着くのに、わずか2メートルばかり。しかし、夏に手を振り返した彼がテーブルにたどり着くのは決して容易ではなかった。


 案の定、想像していた通り他の客たち、即ち「地元の人々」がダニエルの姿に驚きの声をあげ、ほとんど一斉に彼を呼び止め取り囲んでしまった。


「ダニエル! お前いつ帰ってきたんだ?!」

「今日だよ」

「今日って、どうして! そんな!」

「分ってる。僕はひどい親不孝だよ。でも、間に合わなかったんだ」

「間に合わなかっただって? 一体なにしてたんだ」

「今、ニューヨークで舞台に出てるんだ。舞台はどうしてもはずせない。……母さんも分かってくれる……」


 ダニエルの言葉の最後は今にも泣きだしそうに震えていた。


 人々に囲まれるダニエルの肩のあたりを垣間見ながら、夏はおや? と思った。

「そうか……本当に気の毒だったな……」

「みんなは変わりない? 元気そうだね」

「それにしても! ニューヨークで舞台だって? すごいじゃないか」

「そうだよ、レイはそんなこと一言も言わなかったぞ」

「父さんは反対だったからね。仕方ないよ」

「最初は反対でも! お前が成功してるなら今は何も言わないだろ! きっとお前を誇りに思うはずだ」

「そうだといいんだけど」


 それはダニエルを囲んでのある種の興奮と熱狂だった。ほとんどすべてのテーブルから一人二人と立ち上がってきてダニエルに声をかける。彼はそれに答える。ダニエル自身がテーブルの脇を通る時も老婦人に挨拶をし、抱擁を交わす。


 夏はそれをまるで「オーディエンス」のようだと思った。彼は悲劇の主人公で、彼らは観客であると共に知らぬ間に共演者にもなり得る。自然で素直なリアクションだ。が、それなのに彼だけがどこか芝居じみている。役者にしては下手すぎるんじゃないかと思うほど不自然だ。あの格好もそうだけど。そうだ、ここに現れた彼は「不自然」なのだ。


 夏は自分一人が冷静な評論家のように感じていた。ダニエルを迎える人々の握手や抱擁、時として涙ぐみ交わされる悔みの言葉などは真実だ。なんの嘘もない。けれどそれを受け入れるダニエルの眉間に寄せられる苦悶の様子や鼻を詰まらせる様子はどうだ。彼は母親や兄の死を知らなかったはずだ。なのに彼の応対はプロ意識、役者魂によって母親の死の知らせを受けても戻ることを許されなかった悲しみと苦悩と、成功者のみが味わう孤独に彩られている。


 もしや、騙された……? 気がつくとダニエルが「彼女と食事する約束になってるから」とようやく人々の輪を逃れてこちらへやってくるところだった。


「ごめん、待たせて」


 自分は彼が適度に「芝居」するために誘われたのではないだろうか。それは長時間でも煩わしいし、いつボロが出るとも限らない。約束している相手がいると言えばいつでも「幕を下ろせる」。その為に夏を必要としたのではないか。


「いつから帰ってなかったの?」


 夏は席についてメニューを開くダニエルに尋ねた。

「ずっとだよ」

「ずっとって?」

「高校を出てから、ずっと」

「ずっとニューヨークに?」

「そう。演劇の学校に行ってた」

「ふうん……」

「スペアリブはもう食べた? あと、ジャンバラヤは? マリーはクレオール風の料理も得意なんだよ」

「おいしそうね。あなたのおすすめを注文してよ」


 すでに幾分か鼻白んだ顔つきで夏は答えた。頭の中に昼間の教会で会ったレイの顔が浮かんでいた。事情は知らないが嘘をつく息子より彼の方が断然同情できるような気がした。少なくとも彼は自分をよく見せるような取り繕いかたはしなかったし、むしろ夏の孤独を読み取るように優しかった。


 そんな夏の様子に気づかないのか、それとも気付いていて知らぬ顔をしているのかダニエルは夏の分も新しいビールを頼み、乾杯とグラスをぶつけようとした。


 夏は咄嗟に、

「乾杯なんていけないんじゃない?」

 とグラスを避けた。

「どうして?」

 ダニエルは驚いた顔で夏を見つめた。

「だって、あなた、お母さんが亡くなったっていうのに……」

「……」

「私の国ではそういう時に乾杯はしないもの」

「それじゃあ、天国の母さんと兄貴に」

 夏は頷いてグラスを軽く挙げた。

 ビールをぐいと呷るとダニエルは、

「日本人ってみんな真面目だっていうけど本当だな」

 と言った。

「みんなかどうかは知らないけど……」

「ずっとニューヨークに?」

「7年かな……。大学がボストンで、ニューヨークには卒業してからよ」

「ニューヨークではなにを?」

「なにって……別になにも……」

「なにもってことはないだろ。仕事は?」

「……秘書」


 ダニエルはエレンを呼んで料理を注文すると、急に冷たく暗い表情になった夏を怪訝そうに見やった。

「どうかした?」

「……こんなこと私が言うようなことじゃないのは分かってるんだけど……、あなた、お母さんが亡くなったのを知らなかったんでしょう?」

「……君には分らないと思うけどね、ここはニューヨークみたいな都会じゃないんだ。保守的なわずらわしいところなんだよ」

「……」

「それに、母さんが死んだのを知らなかったのは僕のせいじゃない」

「……」

「父親が知らせてくれなかったからだ」


 夏はダニエルの目の奥に暗い悲しみと怒りが燃えるのを見逃さなかった。夏は慌てて、

「もういいわ。ごめんなさい。おうちのことは私には分らないものね。余計なこと言って悪かったわ」

「いや、いいんだ。君がそう言うのも当然だ。けど、サラにでも聞いてみれば分かるよ。この町は本当に田舎で、みんなが人のうちの冷蔵庫の中身までその気になれば知ることができるんだ。なにを言われるか分かったもんじゃない。そして、それは差別や誤解といったトラブルを生む。そうなるともうここでは暮していけない。サラもここへは戻ってないだろ」

「どうして知ってるの」

「知ってるんじゃない。分かるんだ。サラはもうここへ戻ってくることはない」

「……なにかあったの?」

「サラの子供の頃のことって聞いたことある?」

「いいえ……、そういえばあんまりそういうのは話さないわ」

 ダニエルはビールに口をつけると溜息をついた。

「あまりいい家庭じゃなかった」

「……」

「サラの親父は飲んだくれでしょっちゅう母親に手をあげてた。母親が出て行ってからはサラを殴った。サラにも兄弟がいたけど、誰も彼女をかばったりはしなかった。高校でもサラはからかわれたり、意地悪されたりしてたよ。だからサラにとってこの町にいい思い出なんてないんじゃないかな」

「でもサラはこの町を愛してるって言ってたわ。ここに自分の音楽の原点があるって……」

「それは彼女の理想だよ。そうあってほしかった姿だ」

「……」

「そんな風だったからサラはよくうちに来てた。レッスンする為にね。うちに来てチェロを弾いている時だけが自由で幸福な時間だったんだと思う。彼女が今成功してるって聞いて、本当によかったと思うよ」

「知らなかったわ。サラ、そんなことちっとも……」

「言いたくないさ。言えるわけないだろ」

「……私っておめでたいわね。サラが故郷の自慢ばかりするからさぞ幸せな少女時代だったんだろうと思い込んでた」

「いや、それでいいんだ。きっと君にそう思ってほしかったんだと思うよ。僕が彼女のことを話したのは黙っておいてやってよ」

 夏はこくりと頷いた。


 サラのことを話すダニエルが優しい目になるのに夏は気がついていた。本当は優しい人なのだろう。単純にそう思えるほどに。しかし、かといって腑に落ちないことは打ち消すことはできず、夏はやむなくしたいわけではないニューヨークの話を持ち出さざるを得なかった。


 運ばれてきた料理を食べながら、

「ニューヨークのどの辺に住んでるの?」

「アッパーサイド」

「やっぱり成功した人は違うわね」

「最初はブルックリンだよ。ダイエットにもなるっていうんで自転車でマンハッタンに通ってた」

「今はセントラルパークを走ってるクチでしょ」

「まあね」

「どうしてみんな走りたがるのかしらねえ」

「君がそんなに細いのはやっぱり日本食食べてるから?」

「そんなわけないでしょ。体質よ。というか、アメリカ人の食べるものって高カロリーすぎるわ。運動よりも大事なのは食事よ」

「けど君も今こうして高カロリーの食事を楽しんでる」

「……美味しいものってだいたいカロリーが高いのよね」


 スペアリブに齧りつきながら、夏は嘆いた。ダニエルが笑ってフレンチフライをつまみ「体に悪いものは美味しいんだ」と塩のきいたじゃがいもを口に放り込んだ。


「去年はシティマラソンに参加したよ。君はスポーツはなにもしないの?」

「しない。私、鈍くさいのよ。昔から運動は得意じゃなかったし」

「アウトドアの遊びは? ここでは釣りとか川で泳ぐとかぐらいしかすることがないよ」

「どっちもやったことない」

「君さえよければ教えてあげるよ」

「釣りを? 泳ぎを?」

「両方。その調子じゃあキャンプなんかもやったことないだろ」

「ないわ」

「じゃあ、それも。焚き火で料理したり、マシュマロ焼いたりさ」

「ああ、それ、すごくアメリカっぽい」

「その前に、明日は墓参りに行くけど」

「……」


 夏は一瞬言葉に詰まった。が、すぐに「もちろんよ、ええ、そりゃあもちろんだわ」と答えた。

 それから、こうも付け加えた。


「私ね、偶然だけどここに着いた日にお葬式を見たの。あなたのお母さんのだったのね。人がたくさんいて、みんな泣いてたわ。私、それを見た時にこの人はきっとすごくみんなから好かれていた素晴らしい人だったんだろうって思った」

「うん。母さんはね、誰からも愛される人だったよ。明るくて、強い人だった。母さんもチェロをやってたんだ」

「あなたのおうち、音楽一家なのね。お母さんはチェリスト、お父さんは音楽教師」

「なんで知ってるの?」

「え?」

「父親が音楽教師って」

「あ、ええと、エレンがサラの先生だって紹介してくれたから、それで」

「あのさ」


 ダニエルはフォークを置くと急にあらたまったように真剣な眼差しで夏を見つめた。そして重い口調で言った。


「明日、墓参りに行ったらその後で家に行きたいんだ。荷物を取りに行くだけだけど」

「うん……」

「ついて来てくれないかな」

「えっ」


 周囲の和やかな空気は絶えず二人を取り巻いていたが、夏はその温かさを感じることができなかった。二人のいるテーブルだけがすべての明るさから取り残されているかのように、落ちくぼんでいる。無理に楽しげに交わす会話も、互いの琴線に触れぬように綱渡りのようにして選ぶ言葉も、暗く悲しいものだった。


 夏はダニエルの目を見つめ返した。目の色が父親と同じだと初めて気がついた。


「エレンもマリーも仕事があるし。こんなこと君に頼むなんておかしいのは分かってるけど……、他人がいてくれた方が冷静になれると思うから」

「……」

「頼むよ」


 お手上げだわ。夏は心の中で呟く。こういう時にノーを言えないのは日本人だからではない。そういう性分なのだとよくサラにも言われた。お人好しすぎる、と。


 夏はナフキンをテーブルにぽんと放ると溜息をついた。


「トラブルはごめんよ」

「分ってる。ありがとう。本当に荷物を取りに行くだけだから。すぐにすむ。そしたら釣りに行こう」


 釣りに行きたいわけではなかった。川で泳ぎたいわけでもなかった。ただ放っておけないような気がしていた。それは夏が彼ら親子に自分と同じものを見出していたからだった。失うということ、孤独の味。何度も繰り返し蘇る苦い味だ。今や悲しみは自分にとってもっとも近い友人のようなものだとも思う。


 ダニエルはほっとしたようにビールを飲み干した。夏はもう食欲を失っていた。



 翌日、夏はジーンズに白いシャツという格好でダニエルと共に朝食をとり、教会へ向かった。


 マリーが庭のバラを切ってダニエルに持たせると、

「あんたのお母さんが植えてくれたバラよ」

 と言った。

「あれも、これもそう。ほとんど全部、ジュリーが植えて面倒みてくれたのよ。ジュリーは緑の指を持ってた」

「うん……」


 夏は横で黙って彼らのやりとりを聞き、帽子を目深に被った。


 バラはずいぶん大きく成長している。どれも立派なものばかりだ。きっとずいぶん昔に植えたのだろう。そして真面目に世話してきたに違いない。庭にも歴史がある。人が関わった歴史だ。


 マリーはそのまま私たちを玄関まで送ってきて、こうも言った。

「ダニエル、レイと喧嘩しちゃダメよ。よく話し合ってみなさい。もうあんた達お互いに二人きりなんだからね」

「……分ってるよ」


 ダニエルは少し面倒くさそうに返事をし、先に歩きだしながら振り向きもせずに頭上でひらひらと手を振った。


 マリーは腰に手を当て頭を振りながら大きく溜息をついた。


「いつまでたっても子供なんだから……」

「じゃあ、行ってきます」

「ナツ、あの子のことお願いね」


 そう言われても夏は苦笑いするより他なかった。お願いされても何もできることなどありはしない。


 マリーにとって彼は「子供」かもしれないが、実際にはもう十分大人だ。他人が干渉することはできないし、ましてや子供にするように「言うことを聞かせる」なんてできるわけがない。もしできることがあるとしたら、万一彼ら親子が殴りあったりしたような時に警察を呼ぶとか救急車を呼ぶとかするぐらいなことだ。無論、そんな事態に巻き込まれるのはまっぴらごめんだ。


 ダニエルの後を追って行った夏は、教会の前でダニエルに追いついた。


「私、ここで待ってようか?」

「いや、一緒に来てくれないか」

「お墓の場所……」

「牧師に聞いてくるよ。たぶん、僕のことを薄情で親不孝な奴だって怒るだろうな」

「……ダニエル、知らなかったのは仕方ないわよ……」


 扉を開けると中は昨日と同じくひんやりとしていて静けさに満ち、祭壇には聖書と思しき分厚い書物が置かれていた。


 ダニエルは祭壇には近寄らず、右手の通路を進みドアをノックした。そこが牧師の執務室らしかった。


 ドアはすぐに開き、中から年老いた牧師が現れた。そしてダニエルを見るとみるみる眉間に皺を寄せ、不愉快を隠そうともしない厳しい口調で、

「やっと現れたな、ダニエル。主役は遅れてくるものだとでも思ってるんじゃないのか」

「ローレンスさん、僕は故意に帰ってこなかったわけじゃない」

「ふん。君がニューヨークで成功したとかいうのは聞いたよ」

「母さんのお墓の場所はどこですか」

「母さんと、アレックスだ」

「……ええ」

「墓地のずっと奥だ。墓はまだ新しいからすぐに分かる。そばにハナミズキがあるからそれが目印だ」

「ありがとうございます」

 ダニエルはすんなりと一礼し老牧師に背を向けた。その背に向って牧師が独り言のように呟いた。

「エデンの東じゃあるまいし……」


 それはダニエルにも聞こえただろう。一瞬、ダニエルは怯んだように肩をぴくつかせたが、すぐに振り切るように夏の方へつかつかと進み、

「行こう」

 とだけ言うと、さっさと扉を開けて出て行ってしまった。


 夏は慌ててダニエルを追いかけた。老牧師が夏を胡散臭そうに見ているのが分かった。


 エデンの東。夏は胸の中でその言葉を反芻した。スタインベックの小説よね。映画はジェームズ・ディーンが出てた。


 夏がその古い映画を見たのは高校生の時だったが、確か兄弟の確執を描いた話だったはず。出来のいい兄と粗暴な弟……。


 そこまで思い出して夏ははっとした。彼らもそうだったとでも言うのだろうか? そしてレイは……あの映画の父親のように息子たちを期待と無関心と愛情とで翻弄していたとでも?


 教会の裏庭からずっと続く芝生をダニエルについて歩いて行く。墓碑銘を刻んだ墓がぽつぽつと並んでいる。


「あ、あれじゃない?」


 夏は指差した。その真新しい白い墓石は太陽に照り輝き、眩しくて思わず目を細めてしまうほどだった。牧師が言った通り墓の背後にはハナミズキがあり青い葉を茂らせている。


 夏はこめかみから垂れてくる汗を拭った。墓はとりどりの花で飾られていたが、この暑さですでにぐったりと萎れたものも多く、それが一層哀れを誘う。


 墓の前に辿り着くとダニエルは無言で膝をつき、のろのろとした動作で母親の名前の刻まれたあたりを指でなぞった。


 夏はダニエルが泣くものと思っていた。だから一歩下がって彼の背後に立ち、ダニエルに触れないようにした。


 触れないようにというのは彼のたくましい肩や柔らかい髪ではなく、彼の心にだった。


 喪失の悲しみに肩を抱き慰めることは容易いことだ。けれど、夏は彼がそうされることを望んでいないのを薄々感じていた。


 彼は悲しむためにここへきたのだ。自分を責めて泣くために。そうでもしなければ彼には悲しむことさえ許されないのだ。


 あの老牧師は意地悪なことを言ったけれど、でも、それは彼にとって意地悪を超えて真実なのだろう。人は時として悲しみを受け入れるために自ら傷つくことを選ばなければならない。それも徹底的に。胸が潰れ、血の吹き出る思いをして後に、初めて甘い涙を流すのだろう。思い出と愛情の涙を。


 ダニエルは母親の墓に供えられた花の枯れたのを丁寧に取り除き、マリーに持たされたバラを手向ける間、終始無言だった。


 夏は隣に並んだ墓に刻まれた名前が「ブラックウィング」であるのを見てとると、ダニエルの顔を見ないように注意しながら膝まずいて同じように枯れた花を取り除き始めた。


 炎天下をこうして芝生に膝をついて枯草をむしるようにしていると不謹慎ながらガーデニングでもしているような牧歌的な気持ちがよぎる。夏はシャツから出た腕がじりじりと陽に焼けて行くのをはっきりと感じていた。


 親子三人の墓となっているそれはダニエルの兄だというアレックス、それから奥さんと子供の名前が刻まれ、夏は特に子供の年齢を見るやぐっと胸に迫るものがありせつなくてたまらなかった。


 この小さな魂はその父親と弟との確執や争いなどとは無関係な存在だ。無論、すべての憎しみや争いからもっとも遠いところにある存在だったはずだ。他人でもそうと思えるのだから夏はダニエルにぜひとも隣の墓にも祈りを捧げてやってほしいと思った。せめて失われた小さな生命のためにでも。


 夏がそう思ったのが通じたのか、ふと気がつくとダニエルの視線が兄の墓に注がれていた。そしてずっと無言でいたのが不意に、よく通る透明感のある声で賛美歌を歌い始めた。


 夏はびっくりしてそれまで見ないようにしていたダニエルをぱっと省みた。と同時にますます驚いて言葉を失った。ダニエルは静かに泣いていた。


 唇は「ジーザスラブズミー」を美しく奏で、目からはとめどなく涙が溢れ頬を伝って落ちていく。拭うこともせず、ただぼろぼろと零れる。


 抱きしめてはならない。夏は今一度そう思った。抱きしめたくなるほどせつなかったが、ダニエルの涙があまりに透明で美しく、絶え間なく流れるので止めてはならないもののようにも思えた。


 夏は恐る恐る彼の歌声に沿うように小声で一緒に歌い始めた。頭の中で楽譜が広げられ、ダニエルのピッチに合わせて音符を拾う。二人の影が足もとに落ちている。芝生の上をバッタが一匹飛んだ。


 二人の歌声は不思議なほど調和していた。ダニエルの歌声は涙に時折掠れたけれど、それでも最後までしっかりと歌い上げることができた。


 夏はダニエルの顔を見た。ダニエルも夏を見た。

「ありがとう」

 ダニエルは涙を拭った。

「母さんの好きな曲だったんだ」

「お母さん喜んでると思うわ」

「……兄さんは優等生でね」

「うん」

「ピアノも上手かったし、歌も上手かった。みんなに好かれていたし、才能があった」

「お兄さんも舞台を目指してたの?」

「いや……」

「……ここを出てから会わなかったのね?」

「……」

「お母さんとも、お兄さんとも。……お父さんとも」

「……」

「なのに、どうして急に帰ってくる気になったの?」

「……」


 夏は立ち上がり膝についた枯草をはらった。

「私の国ではね、大事な人が亡くなるのをなんとなく直観するの。なんていうのかな、胸騒ぎがしたり、急にその人のことを思い出したり。虫の知らせって言うんだけど……」

 ダニエルも立ち上がりシャツの袖で汗を拭う。

「残念ながら、そういうのは感じなかったな」

 自嘲気味に笑った。

「まるっきり何も感じなかった」

「……」

「行こうか」


 夏はまた余計なことを言ってしまったなと思った。この町は彼の故郷なのだ。故郷に帰るのに理由など必要ないのだろう。


 二人で並んで芝生を踏みながら墓地を出ると、ダニエルはエレンに借りたという車に夏を乗せた。

「運転なんて久しぶりだよ」

「大丈夫なの?」

「心配しなくていいよ。すぐにカンを取り戻すさ」

 エレンの車は小型のピックアップトラックで助手席側の扉に大きな傷がついていた。どうやら彼女は運転が苦手か、もしくはなかなか乱暴な性質らしい。


「どこに行くの?」

「……家」

 ダニエルは一言そう答えると、エンジンをかけた。身震いするかのように車体がぶるんと揺れる。

 車はバスターミナルへ続くこの町のメインストリートを通り抜け、百日紅の街路樹が点在する住宅街をどんどん突き進んで行く。エレンがいつも聴いているのかステレオはラジオの地元番組に合されていて、ちょっと懐かしいソウルの合間に今日の天気予報が流れた。


 広々とした前庭や、外壁を黄色く塗った可愛い家などが車窓からいくつも背後に飛んでいくのを、夏は黙って眺めていた。


 どの家も手入れされていて、芝生の緑が濃く美しい。どうやらこの辺りは比較的裕福な人たちの住むエリアらしい。


「サラの家もこのあたりなの?」

「いや、サラはダウンタウンの方」

「そう……。ねえ、あなたはサラがニューヨークにいるって知らなかったの?」

「知らなかった」

「クラシックは聴かないの?」

「あまりね」

「サラもあなたがブロードウェイに出てるのを知らないのかしら。彼女、しょっちゅう舞台を見に行ってるのよ。知ってそうなものなのにね。気づかないもんなのかしら」

「どうだろうなあ。……サラに僕と会ったこと知らせたの?」

「ええ、昨日メールしたわ」

「……そう」


 夏はおや? と思った。ダニエルの様子が暗く、相槌はどこか不明瞭で何か気になることでもあるのか言いにくそうな気配があった。


 また余計なことを言ったのだろうか……。夏は横眼でダニエルを見ていたが、そうっと視線を外した。


 それから十分ほど車を走らせたところで、ダニエルは車を路肩に寄せて停車した。


「あれが僕のうちだよ」

 ダニエルはそう言ってハンドルを握ったまま顎先でついと家の方角を示した。


 夏がその方向を見やると、南部式のポーチに囲まれた白い板塀の一軒家があり、前庭から玄関へ続くアプローチは茶色いレンガを敷いて、決して新しい家ではないけれどよく手入れのされたこざっぱりとした佇まいだった。


「バラは作ってないのね」

「ああ、外側にはね。裏庭の方に作ってあるんだ」

「……お父さんは家にいるのかしら……?」

「さあ、どうかな……」

「ダニエル」

「……分かってるよ」


 ダニエルは眉間に皺を寄せ緊張と苦痛に耐えているようだった。彼がこの家のドアを叩くのはそれは勇気のいることだろう。夏にもそのぐらいのことは予想がつく。でも、墓地でもそうであったように、夏にできることはなにもないし、また、彼自身の問題なのだから彼が自分で乗り越えなければならない場面でもある。


「待ってるから、行っておいでよ」


 夏はできるだけ優しく声をかけるとさっと車を下りて運転席側へ回り、大きくドアを開けた。


 そんな風にされてはダニエルも車を下りないわけにはいかなかった。夏は「さあ」とばかりに手を家の方へあげてみせた。


「君はなかなか強い女性みたいだね」

 ダニエルは諦めたように苦笑いをした。

「まあね」

 そんなこと言われたの初めてだけどね。夏は心の中で呟く。そして玄関へと歩きだす背中を見つめながら、車に背中をもたせかけた。


 振り仰ぐ空は恐ろしく透明でどこまでも青い。夏は自分のことを強いなどとは思ったことがなかった。どちらかというと自分は弱くて脆い女だと思っている。夢を貫くほどの強さもなかったし、苦難を乗り越える勇気もなくただ面倒なことを避け、傷つくことから逃げてばかり。それなのに「強い」だなんて滑稽だ。でも、果たして自分は初めからそんな風だっただろうか? 


 ダニエルがポケットから鍵を取り出しドアを開け、その姿が見えなくなってしまうと夏は自分が子供時代を過ごした家のことをしばし思い返していた。


 両親が離婚する前に住んでいた家。少女趣味なアイアンレースの門扉とベランダの手すり。何の悩みも苦しみもなく、毎日は平凡な幸福の中に存在し、それが繰り返されるだけだった。古いピアノを弾き、上手だと褒められ満足していた頃。恐れを知らないことはそのまま強さでもあった。


 が、しかし失うことを知ってからはいつも心が震えるているようだった。幸福な少女時代。仲がいいと思っていた両親の離婚。壊れてしまった思い出の数々。夏は大人になった今もそこから何も変わっていないと思うと情けなさにむしろ笑いだしたくなった。


 ダニエルが家を出た理由は知らないが、彼にもこの家に幸福な思い出はあるはずだった。今となってはせつない思い出かもしれないが、確かにそこにあったということ。それが人生においてどれほど重要なことか。幸福な思い出は過去のものだからこそ誰にも触れられず、汚されない。思い出だけが永遠だ。心の拠り所というのは誰にでもある。夏は知らず知らずのうちに目の前の典型的なアメリカ人の家の中を、その生活を夢想した。


 どのぐらいそうしていただろう。夏は暑さのせいか咽喉がからからに干乾びていくのに気がついた。湿気がないので空気はからりとして、日差しが強くとも案外過ごしやすいからうっかりするが、体は確実に水分を奪われていく。夏は車のそばを離れて茶色いレンガの小道を踏んでポーチに置かれたベンチに腰かけた。


 日陰に入るとぐっと涼しい。夏はほっと一息つき、脚を投げ出した。


 どのぐらいそうしていただろう。ダニエルは声もかけてこない。夏は目を閉じて待っていた。すると車のエンジン音が近づいてきて家の前で止まる気配がした。次いで車のドアを開閉する音、それと共に男の声がこちらに向けられた。


「電話をくれればよかったのに」


 目を開けるとレイがこちらへやって来るところだった。

「あ」

 夏は間の抜けた声を漏らした。

「あの車は? エレンの車だろ」

「え、ええ……」

「買い物に行ってたんだ。悪かったね。さあ、入って」


 レイはなぜ夏がここにいるのかなんの疑問も感じていないようだった。それは彼がかつて教師だった頃、そうやって迷える子羊のような生徒を幾人も無条件に受け入れてきた名残だった。


「あ、いえ、ええと」


 夏は何か言おうとして立ち上がりかけた。途端、目の前がブラインドを下ろしたようにさっと暗くなった。


 よろけて手すりに掴まると、レイはすぐに夏の腕を支えた。

「大丈夫かい?」

「大丈夫です、ちょっと暑かったから……」

「座って。急に立ち上がると危ないから。飲み物を持ってくるよ」

 レイはそう言って夏をベンチに腰かけさせ、鍵穴に鍵を差し込んだ。


 ああ、ダメだ。夏は自分に罪があるわけでもないのに激しくうろたえた。

「待って」

「いいから座ってなさい」

「そうじゃなくて」


 レイがドアを開けようとしたのと、内側からドアが開くのは完全に同時だった。


 ああ、もう本当にダメだ。夏は眩暈よりも絶望を感じて目の前が再び暗くなるのを感じた。


 然してこんな形で親子の対面となってしまった二人はドア一枚を挟んで、ぶつかりそうになったのをかろうじて回避したものの、言葉もなく唖然として互いの顔を見て立ち尽くした。


「ダニエル」

 最初に声を発したのはレイだった。


「……いつ戻ったんだ」

「昨日だよ、父さん」


 この親子の邂逅を目の当たりにして夏は気まずくて逃げ出したくてたまらなかった。喧嘩になったらどうやって止めたらいいんだろう。そればかりに意識がいって心臓はひどく早鐘を打っていた。


「……お客さんを中にいれないなんて、お前は気がきかないな」

「……」

 レイは夏に向って、

「そのまま座ってなさい」

 と再び言い、ダニエルの脇をすり抜けて家の中へ入って行った。


 ダニエルの手には荷物で膨らんだ紙袋が下げられていた。夏はそれを見咎めるとそっとダニエルの顔を窺った。


 これじゃあまるで泥棒だ。夏は思った。ダニエルにとってここは生まれ育った家でも、こんな風に戻ってきて荷物を……それがなんなのかは知らないが……持ち出すなんて決して褒められた行為ではない。でも夏はこうも思った。自分はその片棒を担いだようなものだ、と。


 ダニエルは黙ってポーチに立っていた。


 レイはすぐに戻ってくると夏に水の入ったグラスを渡し、冷たく絞ったタオルを頭に乗せた。


「ダニエル、落ち着いたら中に連れて来てやれ」

 そう言うとまたレイは家の中へ入って行った。


 夏はグラスの水をぐいぐいと飲み干すと、冷たいタオルを額に押し当てた。火照りが癒されると共に気持ちもクールダウンするようだった。


「ダニエル……」

 夏は大きく溜息をついた。

「もう逃げられないわよ、観念した方がいいわ」

「……」


 夏がゆっくり立ち上がるとダニエルは無言のまま父親に言われた通りに夏の体を支えるようにして家の中へゆっくりと誘って行った。


 家の中は妻を失った男の住まいとして想像していたのとまるで違っていて、掃除が行き届いていて清潔で明るかった。落ち着いた茶色の床に使い込まれた色合いの素朴な家具。ソファに並んだクッションにはキルトのカバーがかけられていて、暖炉の上にはいくつもの写真立てがあった。


 夏はソファに座らされると室内を見回した。本棚もきちんと整理されているし、埃もかぶっていない。台所も汚れていないし、どこに目を向けてもぴかぴかだ。


 明るくて気持ちのいい田舎家といった雰囲気だなと思った。が、口には出さずにおくことにした。妻を失った家が明るくていい雰囲気であるはずがないのだから。


 メイドでも雇っているのだろうか。夏はテーブルの上の小さな花瓶に薔薇が一輪いれてあるのを見つめた。


 レイはコーヒーを淹れこちらへ運んでくると所在なげに立っている息子に、

「お前も座りなさい」

 と言った。

 ダニエルはソファの端に腰かけ、言葉を探しているようだった。


 レイはコーヒーカップをそれぞれの前に置くと自分も一人掛けのソファに腰をおろした。


 ウィング付きのゆったりとしたそれに深々と体を預け、長い脚を投げ出したようにして座る姿を観察しながら、夏は目の前の音楽教師とその息子の似ているところを探しだそうとした。


 レイの目はグレイだがダニエルの目はブルーがかっている。髪は……レイの髪は白くなっているので同じ色かは分からない。鼻筋の通ったところは似ているような気がする。でも一番似ているのは声と手だ。


 ダニエルが母親の墓の前で歌った時、夏はどこかで聞いたような声だなと思ったが、今、ああこれだと合点がいった。大きくて指の長い、使い込まれた手もそうだ。節々の無骨な感じが特に似ている。おそらく、探せばもっと見つかるのだろう。彼らが親子であるという確かな類似点が。


 この親子の久しぶりの再会に巻き込まれ夏は行きがかり上黙っているのも妙なので、やむなくどちらにともなく喋り始めた。


「外から見るより広いんですね。レッスンはどこで?」

 答えたのはレイだった。


「そっちの部屋にピアノがあるから、基本的にはそこでやるよ。でも、チェロやバイオリンは時々庭で弾くんだ。息抜きになるし、何か新しいインスピレーションが得られることがあるからね」

「ピアノは?」

「ピアノは動かせないからね」

「ですよね」

「窓を大きく開けて外の空気をいれて弾くことはあるけどね」

「素敵ですね」

「真冬にやるとみんな嫌がる」


 夏は思わず吹き出した。外気なんていれられたら指が凍えて動かない。でも、確かに新しい刺激は受けそうだ。


「子供は特に基礎ばかりやらせるとすぐに飽きてしまう。うまく弾けなくてもいいのさ。まずは楽しむことを教えてやらないと。庭で弾いたり台所で弾いたり踊りながら弾いたり色々やるのさ」

「楽しそうなレッスンですね」

「それは他人の子供にだけだ」


 不意にダニエルが言葉を挟んだ。夏は驚いてダニエルを見上げた。


 ダニエルは眉間にさも不愉快といった風な深い皺を刻み、しかし父親を見ることはせず吐き捨てるように言った。


「よその子供にはそうやって優しい良い教師のふりをして、自分の子供には楽しむことなんて教えたりしない。ひたすら厳しい練習だけだ。そしてものにならないと思ったら見限って突き放すのさ」

「……」

「才能のない子供に用はないからね」


 才能! 夏はますます驚いて目を見開いた。一体彼らの言ってることのなにが、どれが本当なのか。才能など誰にも決められないと言ったレイの言葉は一つの光明となって夏を温めたが、ダニエルの言い方ではレイこそが才能に固執しているかのように聞こえる。第一、見限って突き放すというのはどういう意味だろう。


 レイは息子がイライラと自分に向けて言い放つのを黙って聞いていた。ただ静かに息子に視線を当てているだけで怒っている様子はなかった。


 これではまるでダニエルが子供の癇癪のように一方的にキレているだけみたいだ。それもかまってもらえなかった寂しさ故みたいな、子供っぽい理由で。


 夏はすっかり困ってしまいコーヒーカップに手を伸ばした。喧嘩しないでって言ってやりたいぐらい空気は重かったが、ダニエルからは苛立ちや怒りの感情が黒い薄靄のように立ち上っているようで到底触れることはできなかった。


 触れずにおこうと思ったのは悲しみに打ちひしがれている時であって、今は触れたくても触れられない。薄くて熱いコーヒーを啜り、溜息を洩らす。


 レイが静かな調子で口を開いた。

「ダニエル、母さんとアレックスの墓にはもう行ったのか」

「ああ」

「そうか。それで、その荷物は?」

「……」

「なにを持って行くんだ?」


 レイは問い詰めるような口調ではなくどちらかというと単純な質問をしただけなのに、ダニエルは膝の上で拳を固く握りしめていた。夏は急に怖くなって立ち上がり、ダニエルの傍に寄って引き締まった二の腕を掴んだ。


「……大丈夫?」

「ああ……」


 ダニエルは素気ない動作で夏の手を振り払うと、ソファを離れてうろうろと檻の中の獣のように部屋中を歩きまわり始めた。


「楽譜やアルバムを取りに来ただけだ」

「……今さら?」

 レイが怪訝な顔で尋ねる。


 実際、夏には紙袋に何が入っているかなんて想像もつかなかったし、ダニエルが言っていることが本当かどうかも分らなかった。でも、むきになってるのが丸わかりでかえって怪しいと思ったが、レイは黙ってダニエルを見つめているだけだった。


「なんだよ、文句があるなら見ればいいだろ。ほら、机に置いてあった犬の置物。これも気にいってたから持って行くぜ」

 ダニエルは紙袋の中から陶器でできた小さな白い犬を掴みだして見せた。


 その時だった。レイが大きな、それはもう大きなため息をついたのは。

「それだけか?」

 ダニエルは依然として父親と目を合わせようとしない。むしろ合わせることを恐れて怯えたように視線を彷徨わせている。

「袋の中を全部出してみろ」

 夏は針を刺すような緊張感で呼吸が苦しかった。ダニエルはむっとした顔で、しかし一瞬躊躇し、それから袋を掴むとレイに押しつけた。


 レイは乱暴に引き渡された紙袋を手にしたままこれも躊躇するのがありありと見てとれる様子で、でも、結局袋の中のものを一つずつ取り出してテーブルに並べ始めた。


 袋の中からはダニエルの言ったように書き込みの沢山された古い楽譜、写真立て、アルバムが順に取り出され、夏は祈るような気持ちでその様子を見守った。


「これは?」


 レイがはたと動きを止め、ダニエルを見た。レイが取りだしたのは真珠のネックレスやアメジストのブローチといった装飾品の数々と、古びた赤いジュエリーケースだった。


 ダニエルは憮然とした表情のまま黙っている。夏はダニエルに対する怒りがむらむらと身内に沸き起こるのを感じ、自分が泥棒の片棒を担いだようでひどく動揺し、そうするべきではないと分かっているのにぱっと立ちあがりレイとダニエルの間に躍り出た。


「形見が! あの、何か形見になるものが欲しいってダニエルが!」

「形見?」

「お母さんの形見になるようなものが欲しいって、さっきダニエルがお墓で話してたんです」


 この言葉に驚いたのはレイよりもダニエルだった。なぜ唐突に自分を庇おうとするのか理解できず、ぽかんと口をあけて夏の紅潮する頬を見ていた。


 夏はダニエルを庇おうという気持ちはさらさらなかった。ただ彼らが争うのを見たくなかったし、その原因を潰せるものなら潰してしまいたい一心だった。それに自分が共犯になることも恐れていた。親子といえどレイが警察を呼びでもしたら大変なことになる。夏は真剣で、必死だった。


 その様子がレイにどう伝わったかは分からないが、無言でケースを開けて中を改めた。ケースの中は古いデザインの指輪だった。


「これを形見に?」

「……それは……」

「これは婚約指輪だ」

「……」

「ダニエル。これがどういうものかお前は知っているんじゃないのか」

「……」


 プラチナにダイヤの指輪はケースの中にひっそりとした佇まいで収まり、レイの手の中で一瞬きらりと光った。その輝きに夏は身の縮む思いだった。


 大きな石ではないものの、それなりに高価そうな指輪だと思った。でも指輪の金銭的価値よりもっと大きな意味のあるものだというのはレイの言葉でいやというほど分かった。


「ダニエル、これを形見に持って行くつもりなのか」

「……悪ければ返すよ」


 不貞腐れた子供のようにダニエルがぼそりと呟いた。夏は咄嗟にダニエルを殴りそうになったが、どうにか理性を持って踏みとどまり、その代わり気持ちを落ち着けようと鼻から荒い息を何度か吹き出した。


「金か? 金に困ってるのか? ダニエル」

「……勝手に持って行こうとしたのは悪かったよ。盗もうとしたわけじゃないんだ。父さんに言ったら反対すると思って。でも、昔母さんがこの指輪は将来俺にくれるって約束してたんだ。そのことは父さんだって知ってるだろ。好きな人ができた時に使ってもいいって」

「……お前、他に何か言うことはないのか」

「……」

「指輪のことじゃなくて、他に言うことはないのか」

「……それじゃあ、聞くけど、父さんには俺に言うことはないのかよ」

「……あるさ」


 はっとしたようにダニエルは動きを止め、初めてレイの顔を見た。


 夏もレイの表情に注視した。レイの目は深い悲しみを宿したような透明な色をしていた。母親のお墓の前で号泣したダニエルの悲しみとはまた違った、長い間失意と絶望に晒されてきたような沈んだ色。森の中の静かな湖を思わせるような、風のない、底の見えない深い色。


 夏はレイが妻やもう一人の息子を突如失った悲しみよりも、もっと深い悲しみに耐えてきたことを悟った。


 レイは言った。

「今までどこでなにをしていたか言ってみろ」

「ニューヨークでオーディションを受けて、今はブロードウェイに……」

「もういい」

 レイは突如猛然として紙袋を突き返した。

「もういい。帰れ。お前のしていることはただの泥棒だ」


 猛然とレイはダニエルを突き押し、あっという間にそのまま玄関へ放りした。


 困ったのは夏で唖然としている間に一緒に来たダニエルが追い出されて、目の前でドアがばたんと閉まり、レイは夏がいるのを忘れてしまったかのようにいきなり内側からがちゃんと鍵をかけてしまった。


 夏は心の中で「えええ」と叫んでいた。一歩でも動けば肌が剃刀で浅く鋭く切れるような緊迫した空気の中にまったく無関係な人間が取り残されたこと。あまりの出来事に言葉がまったく浮かんでこない。夏はただ黙ってレイの背中を見つめていた。


 それから、ピックアップトラックのエンジン音とタイヤの軋む音を聞いた。なんということか。ダニエルは夏を置いて行ってしまったらしかった。夏はもう一度心の中で「えええ」と叫んだ。こんなことって。こんなはずでは、と。


 どのぐらい立ち尽くしていただろう。レイがこちらを振り返った。


「……悪かったね」


 レイは唇の端に苦い笑いを浮かべると、ゆっくりと夏が腰をおろしたソファへ歩み寄り、老人めいた溜息と共に腰かけた。ソファのスプリングがぎしりと揺れた。夏はもう溜息を隠すことができなかった。


「……ずっと会ってなかったんですね、本当に」

「ダニエルとはあの子が高校生ぐらいの頃から喧嘩ばかりでね」

「反抗期だったんですよ、仕方ないわ」

「高校を卒業してニューヨークの演劇学校に入学して以来、一度も会ってなかった」

「ずいぶん長い反抗期ね」


 夏がそう言うとレイは微かに笑った。

「そうだな」

「私も留学する時は母とすごく喧嘩したわ」

「娘が遠くへ行くのが寂しかったんだよ」

「母は私にピアノをやめてほしがってた」

「どうして?」

「ピアノで食べて行くのは難しいからだと思います」

「……」

「あの、ダニエルは泥棒に来たんじゃなくて本当に形見を……」


 レイはその言葉を聞くと立ち上がり、

「ちょっとこっちへ来てごらん」

 と夏を隣のピアノが置いてあるという部屋へ誘った。


 夏は素直にそれに従い、レイがドアを開けて入って行くのに後ろからついて行った。


 部屋の中央にはグランドピアノが据えてあり、壁は一面本棚で音楽に関連する本の他に写真やトロフィが飾られていた。


 チェロと譜面立てもピアノの傍にあり、裏庭に面した大きなガラス扉越しにテラコッタのタイルを貼ったテラスが見えている。そしてタイルの途切れたところからは緑の芝生。なるほどここで真冬に弾くのか。


 夏はトロフィや写真を順番に見ながら、その一つ一つが彼の生徒のものであるのに感心した。優秀な生徒は優秀な指導者によって才能を開花させる。これらの輝かしい成績はレイの教え子が素晴らしいことはもとより、レイの指導の素晴らしさでもあると思った。


「心配しなくても君を疑ったりはしていないよ。その右から三番目の写真を見てごらん」


 本棚を見ている夏にレイが指さして言った。

「これ?」

 木製のフレームを取り上げる。古い写真だ。


 レイは夏の隣にやってくると写真の中の眼鏡をかけた垢抜けない女の子を人差し指でとんとんと叩いた。


「誰だか分かるかい?」

「……あっ! サラ?!」

「そう、君の友達で私の生徒。これは中学生の頃だったかな……。初めて小さなコンクールで演奏した時の写真だ。いい演奏だった。今も覚えてるよ。彼女はおとなしい子だったけど、弾いている時はとても情熱的だった。あれが彼女の本当の姿なんだと思ったよ」

「分ります。サラの音楽って、なんていうか……ドラマチックなの。言葉以上に何かを語るような音を出すの」

「でも、私はこの頃サラに才能があるとは思っていなかった」

「……」

「もし彼女にそういうものがあったとしたら、それはきっと努力し続けることのできる才能だったと思う。彼女の努力が夢を叶えたさせたことは教師として誇りに思うよ」


 写真の少女は野暮ったいワンピースを着て楽器を抱えてはにかんでいる。おとなしそうな女の子。夏はサラの子供時代に自然と頬笑みがこぼれた。


 ダニエルはサラの少女時代が決して幸福なものではなかったと言ったけれど、この写真のサラは少なくとも微笑んでいる。嬉しさと誇らしさの入り混じった控え目な笑顔で。不意に夏はサラを抱きしめてやりたい衝動に駆られた。今度会ったらきっとそうする、と。


「音楽で食べて行くのは確かに難しいことだ」

「……」

「君のお母さんが心配したのは当然だろう」

「そうですね」

「才能があっても評価されないこともある」

「……」

「才能がなくても成功する者だっている」

「……」

「けど、そんなこと誰に分かるっていうんだ? 未来は誰にも分りはしない」


 夏は写真立てを棚に戻すと今度はピアノの方へ近づいた。


「母とは仲直りしたし、卒業式にも来てくれました。すごく喜んでた。でも、たぶん、やっぱり私がこの国に残ったことは今も許してないような気がします」

「君も帰ってないクチか」

「遠いですから」

「時々は帰ってあげなさい。親もいつまでも若くないし、元気とも限らない。そういう意味でも未来は分からないんだから」


 その言葉は今レイの口から聞くには説得力よりも悲しさの方が勝っていて、夏は黙って頷くより他なかった。


 そういえばサラもこの町には帰ってないんだっけ……。子供たちは皆自分の夢を求めてそれぞれの人生へ飛び出していく。後ろを振り向きもしないで。背中には見送る人がいるというのに。そしてそのことに気づきもしないで生きていくのだ。夏の脳裏を今となってはほろ苦い諺がよぎる。孝行したい時分に親はなし、か。


「ダニエルの写真はないんですか?」

「そっちの壁の方を見てごらん」


 言われて目を向けると棚とは反対の壁面にいくつも写真がかけられていて、なるほどそれらが彼の「教え子」と「息子」とを分け隔てているのが分かった。どちらが特別かは聞かずとも分かる。


 夏はピアノの椅子に腰を下ろすとすぐそばに迫っている壁の写真を見上げた。中には幼い息子と父親がピアノに向かっている写真もあった。


「これは……」

「そう、ダニエルだよ」

「かわいいわ」


 発表会だろうか、いっぱしにスーツなど着ている姿は人形のようにかわいらしく、やんちゃな表情の中に微かに面影が感じられる。そしてその隣にお揃いのスーツの、彼よりはもう少し年かさの少年が並んで立っていた。


 夏が問わずともレイが傍へ来て写真を見ながら、

「隣のがアレックス。このぐらいの頃は仲が良かったんだけどね」

「……」

「やっぱり高校生ぐらいからダニエルはアレックスともあまりそりが合わなくなってたな」

「でもダニエルがお兄さんは才能があって優等生で人気者だったって褒めてたわ」

「……アレックスは確かに優等生だった。成績もよかったし、女の子にもモテた。でも才能と言われると……、どうかな」

「ダニエルはずいぶん才能って言葉にこだわっているみたいだけど……。あなた自身はそういうのは関係ないって言ってたのに」

「子供というのは親の意見に耳を貸すような生き物じゃないのさ」


 レイは立ったままぽんと鍵盤をひとつ叩いた。深いピアノ線の共鳴。夏はその一音でこのピアノが「いいピアノ」であるのが分かった。使い込まれいい音を出す楽器というのはすぐにそれと分かるものだ。微かな音にも魂が宿るから。


 夏が子供の頃から弾いていた古いピアノがそうだ。祖母の代から受け継いだおんぼろピアノ。古さのあまり調律してもどこかくぐもった音がしていたが、それが独特の雰囲気を醸し、えもいわれぬ優しい音色を奏でた。音楽教育という意味でのレッスンには向かないし、無論、演奏家には敬遠されるだろうけれど、夏は今でもあのもったりとしたタッチと音こそ自分のピアノの音だと思っている。あのピアノが自分の多くの涙と喜びを知っているから。


 この家のピアノも同じだと思った。無論、手入れの行き届いた明晰な音だ。完璧に狂いのない音階で、完成された音楽を奏でるに相応しいのも分かる。でも、そんな事実よりも隠しきれない温かさがある。


 夏はなんだか嬉しくなり体の向きを変え、ピアノに向き直った。

「ダニエルには才能があった」

「……」

「でも、それを信じていなかった」


 夏は不意に頭に浮かんできた懐かしい日本の歌謡曲を即興的に小さな音で弾き始めた。レイはピアノにもたれながら聴いていた。


「才能のある子供ほど練習が嫌いなんだ。ダニエルはアレックスと違ってやんちゃな方でね。捕まえて練習させるのに苦労したよ」

「それで厳しい練習だったって言ってたのね」

「子供なんてそんなもんさ」

「……彼はもう子供じゃないわ」

 年齢的には。心の中で付け加える。

 夏はピアノを弾く手を止めて立ち上がった。

「私、もう行きます」

「送って行くよ」

「……あの」

「迷惑かけて本当にすまなかったね」

「いえ……」


 ピアノの傍を離れるのが名残惜しい気がした。この部屋はなんて落ち着くんだろう。夏はしみじみと自分が音楽を愛し、そしてそこから遠ざかっていたことを感じた。忘れていたものがここにある。壁にかけられた無数の写真の中の誇らしげな子供たちの顔。あれはかつての自分だ。


 レイに伴われて玄関を出て車に乗り込むと、

「ところで、さっきの曲は誰の曲? 聞いたことがないな」

「日本のアイドルの曲。うんと古い曲よ」

 夏は帽子を目深にかぶり直した。胸の中で「懐しい痛みだわ」という歌いだしから不思議なほどにするすると出てくる歌をなぞった。失われた恋の歌。

 なぜそれを思い出したのだろう。失われた甘い記憶が、ここにあったからだろうか。車が走りだすと夏は黙って車窓を眺めていた。



 レイにパン屋の前で車をおろして貰うと、夏はそのままパン屋でエスプレッソを飲むことにした。

 去り際にレイはダニエルに何か伝言でも言うかと思ったが、夏にもう一度息子の非礼を詫びただけだった。


 夏はパン屋の陳列棚からパン・オ・ショコラを取り、レジにいたフランス人パン職人にエスプレッソを注文した。


 金髪のフランス人は夏を見るとにっこりと微笑み、やっぱり訛りのある英語で座っているように言った。席まで運ぶから、と。


 店内には中途半端な時間のせいか客はおらず、棚に並んだ幾種類ものパンが香ばしい匂いをさせている。窓際の席に腰かけると夏はカウンターの中でコーヒーを入れるフランス人を眺めた。


 コックコートの捲りあげた袖から出た腕を覆う金色の毛が窓から差し込む光と相まって恩寵のようにきらきらして見える。使い込まれた手をしている。でもそれはやっぱりパン職人のもので、音楽家のそれではない。


 夏は人を見るといつも最初に手に目がいく。それはその人が音楽家かどうかを知る為ではなく、自分の手で自らの人生を生きているかどうかを確かめるためだった。手は、指は、それを物語る。夏は鍛えられた手が好きだったし、働く人の手が好きだった。傷のある指、力をこめる拳、それらには魂と情熱がある。そういうのを見ると夏は俄然嬉しくなる。同志のような気がして。今はもちろん懐かしい気持ちで見るのだけれど。


 小さなトレイにカップを載せ彼は夏のテーブルへコーヒーを運んでくれた。夏は小さなデミタスカップから立ち上る濃密な香りに鼻をひくつかせ、顔をあげ「メルシー」と言った。


 大学でフランス語の授業をとったこともあったけれど、結局覚えたのはこんにちはとありがとうぐらいなものだった。

「マダム」

 カップを持ち上げ口をつけようとすると、フランス人が夏の顔をじっと覗き込んでいた。


 ……発音がまずかったのかしら。夏はコーヒーを啜りながら上目づかいに彼の端正な顔を窺った。

 彼は言った。訛りのある英語で。

「あなたの顔に見覚えがあるよ」

 夏はぎくりとしてカップを持つ手が強張った。

「どこでだったかな……」

「この前来たわよ? トミーと。ほら、あの、大工の男の子」

「ノン。そうじゃない。もっと前だよ。どこかで見たことがある」

「……日本人の顔なんて見分けつくの?」

 夏はいたずらっぽく笑いながら、震えるのを悟られないようカップをテーブルに置き、パン・オ・ショコラをちぎって口に放り込んだ。


 バターの香りとチョコレートの甘さが口いっぱいに広がるも、咽喉につかえて飲み下せそうになかった。心臓が緊張のあまり締め付けられ硬直しているのが分かる。パンを頬張りながら夏は続けた。


「アジア系の顔は見分けがつきにくいって言うけど、考えてみたらフランス人とイタリア人の区別だってつかないわよね。少なくとも私には分らないわ」

「僕はフランス人だけどアイルランドの血も混じってるよ」

「アメリカには長いの?」

「五年かな。ここのオーナーにパリでスカウトされたんだ。アメリカに美味いパン屋がないからって」

「あなたのパン、本当に美味しいわ」

「メルシー」


 うまく話を逸らせただろうか。再びカップを取り上げる。コーヒーはやっぱり香高く美味しい。

「マリーのところに泊まってるんだろう?」

「ええ」

「思い出したら言うよ。本当に、絶対見たことあるよ。君みたいな綺麗な人のこと忘れたりしないはずだから」

「ねえ、それ、ナンパなの?」


 夏がじろりと視線を向けると、フランス人パン職人は笑った。

「フランス人は調子がいいって言われるけど、今のは違うよ」

 厨房でオーブンのブザーが鳴っている。彼がその場を離れても夏はまだ動悸が静まらず、カップに唇をつけてコーヒーの匂いを嗅いで気持ちを落ち着けようとしていた。


 甘いパンを食べ、コーヒーを飲み終えたところで入口の扉が開きトミーと中年の女の人が入ってきた。


 トミーは夏を見るとぱっと笑顔になり、

「ここが気に入ったんだね」

「まあね」

 夏は肩をすくめた。


「母さん、マリーの所へ来てる人だよ。ほら、話しただろ。レイ先生の生徒だったサラ・コナーズの友達だって」

 トミーは自分の母親に夏を紹介すると、カウンターの中で作業しているフランス人に「もうできてる?」と尋ね、彼と話しを始めた。


 夏は立ち上がり、トミーの母親に手を差し出した。

「こんにちは。ナツ・ワタナベです」

「あなたのことはトミーから聞いたわ。ニューヨークから来たんですってね」

 握手を交わすと夏は「今日は面倒なことばかりだわ」と心の中で呟いた。いい年をして未だに反抗期の男とその父親、ナンパ青年とその母親と対面なんて。


 トミーがどんな話をしたかは知らないが「田舎の純情な青年」との仲を疑われたくなくて、夏は極めて愛想よく、しかし一線を引くように儀礼的な態度をとることにした。


「ええ、バカンスで。サラがこの町を薦めてくれたので。ここのお店は息子さんが教えてくれたんです」

「何もない町だから退屈してるんじゃない?」

「いいえ、ゆっくりさせてもらってるわ。あなたもピアノをなさるんですってね?」

「そんな大層なもんじゃあないのよ。レイ先生と奥様のおかげ。あの二人はとっても教育熱心だったから、私みたいに高校も出てないような教養のない女にもレッスンしてくれるの」

「いい先生なのね」

「そうなのよ。だから奥様のことは本当にお気の毒だわ」

「……」


 赤毛にそばかすの浮いた顔は人の良さそうな明るい印象で、なるほどトミーの母親らしいと思える朗らかで善良な「主婦」然としている。夏はそれが眩しくて、眩しさのあまり煩わしく思えた。


 彼ら親子は「いい人」なのだろう。健やかで、心に暗闇を持つ余地のないほどに。本来なら善良な人々は夏にとって憧れの対象になるのだけれど、なぜだろう今日は明るさに苛立ちを覚える。


 レイが妻や息子を失ったことは本当に「お気の毒」だ。でも、本当に彼が気の毒なのはそのことではないような気がする。あんな悲しい目をしているのに彼らは気づかないのだろうか。彼はもうずっと長いこと「気の毒」な悲しさの中にいる。


 トミーの母親はにこにこしながら夏に語りかけてくる。


「トミーときたらあなたの噂ばかりしてるのよ。綺麗な人がマリーのところへ来てるって」

「母さん、やめてよ」


 フランス人にバケットを包ませていたトミーが慌てて口を挟んだ。が、母親は無論聞く耳を持たず、

「あなたもピアノを弾くんでしょう? レイ先生の代わりに週末弾いてくれればいいのにって。マリーの所で先生のピアノを聴くのをみんな楽しみにしてたのよ。それがなくなってみんな週末をどうしようかって悩んでるわ」

「私は……」


 私は弾きません。単なる旅行者です。夏はそう言おうとした。が、それを遮ったのは誰あろうフランス人パン職人だった。

「思い出した!」

 彼は大きく目を見開き夏を指差し、叫んだ。


「君、マエストロ・グレインの……! そうだよ、そうだ、思い出した! 彼がパリで公演した時に一緒に来たのを新聞で見たよ! マエストロのミューズ、美しき日本人って見出しだった。着物を着てただろう?!」


 興奮しきって嬉しそうに声をあげるフランス人に、トミーとその母親もびっくりして夏と彼とを交互に見た。


 が、次の瞬間、その場にいる者全員が硬直するほどの大声で夏は叫び返していた。


「やめて!!」


 夏はすっかり気が動転していた。そんなことを覚えている人間が目の前にいて自分の氏素性を暴露してしまうなんて、絶対にないと思っていたことが起きたショックに手足はぶるぶると震え、今にも彼に飛びかかりそうだった。


 その様子に驚いたトミーはできるだけそっと夏に近づき興奮させないように肩に腕をまわした。そして子供をなだめるように体を揺すりながら、

「落ち着いて。どうしたんだよ。ねえ。落ち着いて」

「私は……私は……」

 夏は何を言えばいいのか分からず、金魚のように口をぱくぱくさせながら視線を彷徨わせた。


「さあ、座ってよ。一体どうしたっていうのさ。ジャン、君が言ってるのは誰のことなんだ?」

 トミーは夏を抱きかかえるようにして椅子に座らせ、フランス人に向って尋ねた。


 夏は絶望的な気持ちで両手で顔を覆いながらも、このパン職人の名前がフランス人的平凡な名前であるのにおかしみを感じた。


 向かい合わせた椅子にトミーの母親が腰かけるとうなだれている夏の髪をそっと撫でた。


「いい子ね。大丈夫よ。誰もあなたを傷つけようと思ってないから」


 その言葉を聞いた途端、夏はこらえていたものがどっと溢れてきて、そのままテーブルに突っ伏して泣きだしてしまった。


 ジャンは自分がなんの悪意もなく、しかし結果的に引き起こしてしまった事態に呆然としながら、トミーとその母親に、そして当の本人である夏にも説明し始めた。


「父親がクラシックが好きで、特にウィリアム・グレインのファンだったんだ。それで彼がパリでオペラを指揮することになった時に一緒に見に行って……、それはもう素晴らしかったよ。生涯忘れることができないほど素晴らしい経験だった。彼はスターだったんだ。彼のニュースが何度も新聞に出たよ。彼女は……、パーティーでマエストロと一緒のところを写真に……」


 最後の方は夏の様子を窺いながら口ごもって小さな呟きとなった。


 夏はトミーの母親に労られながら「母親」というものの力をひしひしと感じていた。世界中どこへ行っても母親という人たちは特殊な素晴らしい力を持っている。それは泣く子供をあやすこと。それから抱きしめて大丈夫だと言ってやり安心させてやること。ただのワンアクション、たった一言で心に届かせることができるのは他の誰でもない。母親という人たちだ。


 夏はこの町に来た時に思った「遠くまで来た」という感想を再び、いや、一層強く感じた。最近母親に会ったのはいつだった? 夏は泣きながら思う。お母さんは私が幸せに暮らしていると信じているに違いない。けど、実際は違うわ。でも、そう信じさせたのは私。


「マエストロって? ウィリアム・グレインって誰?」


 トミーがジャンに尋ねた。しかしジャンはそれ以上説明していいのか分からず、夏に視線を注いだ。


 ジャンは悪いことをしてしまったと後悔していた。と同時に、パリで見た素晴らしい舞台が鮮明に脳裏に浮かび上がり、かつての自分が感動のあまり涙を浮かべて大きな拍手をいつまでも送ったことも思い出された。そして世界有数の指揮者であり音楽家でもあるマエストロ・グレインが誇らしげに帯同していた美しい黒髪の日本人のことも、新聞からゴシップ誌に至るまででかでかととりあげた記事のことも。


 記事の中で彼女は微笑んでいた。幸福そうに。凛とした立ち姿は堂々として自信に満ち溢れているようだった。そういう意味では目の前の彼女はかつての姿とは似ても似つかない。落ち込んだ暗い目をして、微笑みはぎこちなくわざとらしいだけで、何か後ろめたいことでもあるかのようにびくびくしている。ジャンは最近のマエストロ・グレインに関するゴシップを思い出し、本当に彼女に悪いことをしてしまったと思った。


「マダム、本当に申し訳ないことを……。余計なことを言ってしまって……。でも、僕はあなたを傷つけるつもりはなかったし、本当に彼の才能を尊敬していて……」


 夏は涙を拭うとようやく顔をあげジャンを見た。

「ごめんなさい。大きな声を出したりして。ちょっと気が動転してしまって。あなたはちっとも悪くないわ。トミーも、ごめんなさいね。びっくりしちゃって……」

「……ナツ?」

「マエストロっていうのは教師っていう意味なんだけど、指揮者や音楽家のこともそう言うの。パバロッティもマエストロって呼ばれてたでしょ。ウィリアム・グレインは指揮者で、作曲家でもある……私の大学での先生よ」

「先生?」

「……そう。私の先生で……、私の夫よ」

「夫!」


 トミーがオウム返しに頓狂な声をあげた。

「結婚してるの?!」

 夏は小さく頷いた。

「指輪をしてないじゃないか」

「トミー、よしなさい」

 責めるような口調の息子を母親がたしなめた。夏は黙って俯いた。


 嘘をついたわけではない。無論、結婚していようといまいとこの田舎の青年には何の関係もないことだ。でも、隠していたのも事実だ。夏は後ろめたい気持ちと「あんたなんかの知ったことか」という捨て鉢な気持ちの中で今すぐ消えてしまいたいと真剣に願った。


 トミーの母親は息子に向って厳しい口調で言った。


「大人には色々と事情ってもんがあるのよ。他人が口出しすることじゃないわ。おもしろがってみんなに言うんじゃないよ」

「言わないよ。でも、マリーは知ってるんだろ?」

「いいえ、知らないと思うわ。マリーはサラの友達だからってIDも確認しなかったし、質問もされなかったから……」

 とは言うものの、夏は結婚しているのかと質問されたとしても本当のことを言わなかっただろう。秘密にしたいとか嘘をつく必要があるとかではなく、言いたくないという理由で。


 夏は自分の事を人に話したくなかったのだ。話せば「自分自身」というものが誰かの付属品で「自分のもの」ではないと思えるから。自分のことを誰も知らない土地で、他ならぬたった一人の自分自身「渡辺夏」という人間になれる機会を持つためにやってきたのだから尚の事、本当のことなど誰にも話したくはなかった。


「ジャン、あなたは……知っているのね?」

「……」

「お願い、誰にも言わないで」


 夏の懇願するような目にジャンは重々しく頷いた。


 夏は自分が憐れまれているのを感じていた。それは夏を一層傷つけることだったけれど、そう思われても仕方なかった。夏は著名な音楽家の妻として裕福に暮らし、誇らしく、幸福だった。でも今は違う。ジャンの言うようにマエストロの妻としてヨーロッパへ行き、いくつものパーティーに出て、その度にマエストロの創作意欲を刺激する彼の「ミューズ」であると謳われてきたが、そんなものは幻のようなものだ。脆い砂の城と同じで風にも耐えず崩れ去って行った。夏の手に残ったのは幸福だった頃の微かな思い出だけだった。


 ウィリアム・グレイン。その人は世界的にも有名な音楽家で、素晴らしい才能に恵まれた一人だった。夏がボストンの大学にいた時、現代音楽の講義とピアノのレッスンを受け持ったのが彼だった。

 学生だった夏と短期間とはいえ教師という立場に立った彼との間には、当初、恋愛感情やその萌芽は皆無だった。夏は彼を尊敬していたし、レッスンが厳しくてそれどころではなかった。びしびしと情け容赦なく批判をくれるマエストロに夏は汲々としていた。


 もうとにかくついて行くのに必死だった。毎日猛練習をし、寝る間も惜しんで講義に備えた。サラは夏のあまりの勉強ぶりに恐れをなしつつ、苦笑いして「あなた、マエストロに勝とうとしてるみたいよ」と言うほどだった。


 勝ちも負けもないのだけれど、夏はそれを的を射た言葉だと思った。あの厳しい音楽家の批判を受けない為に完璧を目指し、いつかきっと彼の口から「ファビュラス!」という言葉を吐かせてやると思いつめていたのも事実だった。


 結果としてそれは夏を著しく成長させた。と同時に、鬼のマエストロと学生達から陰で囁かれた彼の関心を惹くことになった。


 マエストロは自分の授業に「ついてこれる」根性のある、アジアの小さな国からやってきた痩せた娘に次第に「一目を置く」ようになりつつあった。

 最終的に夏のピアノに、その魂に、伸びた背筋と美しい黒い瞳に貴重な輝きを見出したのはマエストロの方だった。


 卒業すると夏はボストンのジャズクラブでピアノを弾き、スタジオミュージシャンのような仕事をして日々を繋いでいたが、契約期間を終えたマエストロはニューヨークへ帰るにあたり夏を連れて戻ることに決め、そう申し出た。


 夏はそれを最初「スカウト」だと思い、また、「修行」だと思った。彼からは結局一度も「ファビュラス!」という言葉は得られなかったけれど、ニューヨークでマエストロの弟子としてまた勉強できると思うとそのチャンスを逃すことはできなかった。


 学生時代、恋愛に見向きもしないでやってきた皺寄せはこんなところに現れたのだ。何も知らない小娘は自分に向けられた視線が、熱心な誘いが「好意」であるとは想像もしなかったのだから。もう少し恋愛経験があったなら、夏はマエストロの言葉の端々に滲み出るものを感じることができただろう。才能のある厳しい教師の、しかし時として優しい態度はもはや「教師」のものではないということにも気づくことができただろう。


 そもそも夏は学生時代に男の子のアプローチを受けても一切をスルーしていた。魅力的な子もいたし、いいなと思う子もいた。でも、夏は誰のことも好きにはならなかった。なれなかった、というのが正しいかもしれない。今となってはそれもマエストロの授業のせいだったかもしれないと思う。彼の授業があんなに厳しくなければ夏はピアノを離れて男の子と楽しむということをしたかもしれない。不器用だったのだ。二つのことを同時になんてできないとその時は本気で思っていた。


 夏はマエストロについてニューヨークへ行き、名門大学のサマースクールを受け、その合間にウィリアム・グレインのアシスタントのような仕事もした。


 マエストロ・グレインがどのぐらい有名なスターかというのは理解していたつもりだったけれど、学校を離れて彼のホームグランドであるニューヨークへ来てみると、今さら彼の凄さを思い知らされた。


 成功した音楽家で裕福であることはもちろん、華やかな交友関係も、素晴らしい仕事の数々も、女性にモテることも、本当に「今さら」の驚きだった。

 モデルや女優のように美しい女の人が入れ替わり立ち替わり現われてはウィリアム・グレインの恋人の座を奪いあっていた。そして夏はその熾烈極まる女の戦いを恐ろしいものを見る目で見ていた。


 鈍感な女。夏は我ながらそう思う。マエストロは週に一度練習を見てくれ、その厳しさは相変わらずだったけれど、それ以外の時は夏を一人の女性として扱い、食事に連れ出し、小さなギフトを贈ってくれることさえあった。そういう姿を彼を取り巻く美しい女たちは嫉妬の目で睨んでいたけれど、夏はそれにも気づくことがなかった。いや、気づいてはいたがまったくの誤解だと思っていたのだ。


 馬鹿だと思う。でも、若いというのは、そういうことなのだ。だから夏がウィリアム・グレインの好意を認めるのには時間がかかった。そしてはっきりと彼から恋されているのだと自覚した時、夏は困惑と感動の入り混じった名状し難い状態に陥った。


 今でもその時のことをはっきりと思い出すことができる。秋の雨の午後だった。セントラルパークの木々はすっかり紅葉し、風は冷たくなり始めていた。週に一度のレッスンの日で、いつもそうするようにマエストロのコーヒーを用意し、楽譜を整え、グランドピアノの蓋を開け、彼が現れるまで指ならしをする。


 アッパーサイドの高級アパートの一室。夏は高価な調度品にもそろそろ慣れてあまり緊張しなくなっていた。無論、居心地がいいとまでは思わなかったけれど、ピアノの傍だけは別だった。


 相変わらずマエストロから「ファビュラス!」という言葉は出なかった。ちょうどその頃サラもニューヨークで演奏家として活動しており、夏は彼女の伴奏を務めることもあった。


 夏は自分の才能を信じていなかった。大勢のライバル達の中にいて凡庸で、成功することはないと思っていた。なのにピアノを辞めようとは思わないのだから不思議だった。


 結局のところ、自分はピアノが弾ければそれでいいのだ。そう言うとサラは憤慨し「無欲にもほどがある」と言い、「あなたほど努力している人が成功しないはずがない」とも言った。「才能があるからマエストロ・グレインに見出されたのだ」とも。でも、そのマエストロは決して夏のピアノを褒めたりはしないのだった。


 廊下から靴音が近づいてきてドアが開いた。夏はピアノを弾く手を止め立ち上がった。


「おはようございます」


 ウィリアム・グレインは長身でいつも気難しい顔をしているが、この日は特に怒ったように眉間に皺を寄せ、苦い顔をしていた。

「今のは?」

「え? ……ええと、ドビュッシーのソナタの伴奏をすることになったので……」

「サラ・コナーズか」

「はい」

 何か問題でもあったのだろうか。叱られるのだろうか。夏はびくびくしながら緊張して立っていた。


 マエストロは窓の傍へ行くと灰色の街を見下ろしながら、静かな調子で言葉を継いだ。


「君は伴奏ピアニストになるつもりなのか」

「……そういうことでは……。ただ、サラの伴奏は学生の時からやってましたし、彼女も信頼してくれているので……」

「ナツ」

「はい」

「これを弾いてみてくれ」


 マエストロは手にしていた楽譜を振ってみせた。夏は急いでそれを受け取りに彼に駆け寄った。


 楽譜はマエストロ直筆のもので、ごく短い小品だった。夏は音符を読み取りながら尋ねた。

「いつ書いたんですか?」

「昨夜急に思い立ってね。メロディが浮かんできたんだ」

「……かわいい曲なんですね」

「ナツ」

「はい?」

 ちょうどその時夏はマエストロと至近距離で向かい合う形で立っていた。呼びかけられて顔をあげると、マエストロが真剣な目で夏を見つめていた。


「立ち入ったことを聞くようだけど……」

「なんでしょうか?」

「君とサラ・コナーズはずいぶん仲がいいようだけど」

「ええ」

「……君たちは、その、友人以上の感情を持っていたりするのかな……」

「え!」


 夏は驚いて頓狂な声を上げてしまった。まさかそんな質問をされるとは思いもしなかったので無理もなかった。


「……どうしてそんなことを……?」

「……」


 恐る恐る尋ねるとマエストロは今度は言いにくそうに言葉を濁し、自分の唇を人差し指でとんとんと叩きながら黙り込んでしまった。


 夏はマエストロが何を聞かんとしているのか、分かっていた。すでに少しずつではあるが演奏家として成功への道を歩き始めていたサラが同性愛者であるということは、同じ音楽の世界に身を置く者たちの間では知られつつあることだった。無論、夏自身はサラの性的嗜好について学生の時から知っていた。というのは、サラが彼女にそう告白したからだった。自分は男の人に興味がないのだ、と。それから、自分が好きになるのは黒髪と黒い目をした女の子なのだ、とも。


「サラは大事な友人です。親友なんです。……恋人ではありません」

「……そう! そうか!」


 マエストロはほっとした様相で表情を崩した。

「なぜ急にそんなことを?」

「君は学生の時からサラとばかり一緒でボーイフレンドがいたという話は聞いたことがなかったからね」

「はあ……」

「その曲」


 マエストロの手がすっと伸びて夏の手の中の楽譜の最後を示した。


 夏は示された箇所を見てぎくりとした。そこには「ナツ・ワタナベに捧げる。愛をこめて」と書かれていた。


「君を見ているといつも素晴らしいインスピレーションを受ける。頭の中に音楽が溢れてくるんだ。君は僕が忘れてしまったものを思い出させてくれる、……僕にとってのミューズだ。君に男であれ女であれ恋人がいないのにほっとしたよ」


 こんな時なんと答えるのか夏にはまるで分らなかった。分かったところで何かできたとも思えなかった。緊張に委縮した心臓は今度は猛烈に早鐘を打ち始め、顔が上気するのが自分でも分かった。頭に血が上り、耳の中でわんわんと警鐘のような音がしているような感じだった。口も聞けないでマエストロの視線に捕えられ見つめ合う形となり、逸らすこともできず夏はこのまま卒倒して死んでしまうんじゃないかとさえ思った。


 マエストロは「君のことを好きだ」と駄目押しに告げ、あの指揮棒を振る手で、あの素晴らしい音楽を奏でる手で、夏の頬にかかる髪にそっと触れた。夏は背筋に電撃が走るのを感じその場に崩れ落ちそうになった。マエストロの唇が夏の唇に重なった瞬間、彼は「マエストロ」ではなく「ウィリアム・グレイン」という一人の男となって夏の前に初めて姿を現した。


 ウィリアム・グレインという人は繊細な音楽家であると共に恋多き男でもあった。音楽に関してはストイックだが、恋愛については情熱的で移り気だった。そのウィリアム・グレインが心惹かれ、彼にしてはずいぶんと慎重に育てた恋の相手が貧弱な体つきに暗い目の色をした小娘であったのは意外すぎるほど意外で、また、彼が永遠を誓ってでも手元に置きたいと思い婚姻の契約を結ぼうと思ったのが周囲の人々には衝撃の事件だった。


 彼は女から拒絶されたことなど一度だってありはしない。彼を拒絶する女などいるはずがないのだから。でも、夏に関して言えば違っていた。彼女はいつだって彼を拒絶する可能性を秘めた恐るべき存在だったのだ。その真面目さも情熱も、ストイックな姿も他の誰とも違っていた。どうアプローチしていいのかまるで分らなかった。なぜなら夏が見据えていたのはピアノだけだったのだから。


 でも夏からいくつものインスピレーションを受け作曲を始めた時、マエストロは彼女を「必要」だと思い始めた。彼女こそ自分のミューズだと思い、思い始めた時に彼は生れて初めて「結婚」について考えた。


 夏は彼に見初められ、恋に落ち込んで行くことを激流に飲み込まれるようだと思った。一人の男性として注意深く「マエストロ」を観察すると、彼は優しく魅力的だった。才能があり、男らしく、夏に対して情熱的だった。


 が、それよりも彼が巧みだったのは、夏を恋に落とし込むこと、「女性」であることを深く知らせることだった。それは夏を腰砕けにしてしまうような、骨抜きにするようなものだった。


 彼にエスコートされて行くレストランや劇場、パーティーの数々。彼が囁く甘い言葉。いくつもの抱擁と口づけ。「愛される」ということは女を開花させる。夏は自分がまるで世界に一つしかない貴重な芸術品のように扱われることに最初は困惑したものの、次第にそのお伽話のような甘美な世界に飲み込まれていき、溺れていった。


 一年ほど彼の恋人として過ごし、彼からプロポーズされた時、夏は夢を見ているようだと思った。ピアノを弾くためにここへ来て、彼に愛されるようになり、結婚しようなどとは誰が想像しただろう。


 二人の結婚はニュースとなり世界を巡った。そして夏はマエストロの生徒から妻という立場に変わったのだった。それは「渡辺夏」という一人の人間との別れであり、ピアノとの別れでもあった。世間は夏のことを現代にシンデレラのように取り上げた。

 夏はたった今、目の前で自分を見つめている人々を眺め渡しながら何度となく思ったことを再び胸の中で呟いた。ずいぶん遠くまで来てしまったな、と。


「私はもう彼のミューズではないわ」

 夏は言った。


 言葉にすると体を真っ二つに引き裂くような痛みがあった。


「もう行くわ」


 無理に口角を引き上げ微笑を作る。マエストロのミューズはもはやこの世にいない。

「送って行くよ」

 トミーが言ったが夏は首を振った。

「いいの。少し頭を冷やしたいから歩くわ」


 帽子をかぶり、彼らに「じゃあ」と挨拶をすると表へ出た。彼らは見送るより他なかった。そして残された三人は同じことを感じていた。あんなに悲しい顔で笑う人は見たことがない、と。それが三人に同じせつなさをもたらしていることなど夏には考えもつかなかった。窓の外に見える夏の後姿が歩き去ってしまうまで彼らは黙ってパンの焼ける匂いと悲しみに満ちた空気を吸い込んでいた。



 ダニエルはマリーズゲストハウスには戻って来ていないらしく、ピックアップトラックの姿はなかった。


 エレンもマリーも忙しそうに立ち働いていたので夏は声をかけずにそうっと部屋に戻り、部屋のベッドに倒れこむとぼんやりと天井のファンを眺めていた。


 トミー達、驚いただろうな。でも私だって驚いたわ。私のことを知っている人が、こう言ってはなんだけど、こんな田舎にいるとは思わなかった。


 夏はこの町へ来たのはサラに聞いていたからというのもあるが、それよりもここが田舎であることが理由として勝っていたかもしれない。


 夏とマエストロの結婚生活は幸福なものだった。彼は夏を愛し、夏も彼を愛していた。


 でも。夏は内臓を抉りだすような痛みを覚える。夏がマエストロの恋人となった時から、彼は夏のピアノの師であることをやめてしまった。公私混同したくないというのが彼の言葉だったろうか。無理もない。彼のレッスンの厳しさは夏が一番知っていたし、二人の関係が変わってしまった以上あのままレッスンを受けることなど不可能だと夏自身も思った。それでも彼は夏の「マエストロ」であることに変わりはなかったし、やはりマエストロは夏のピアノに対して「ファビュラス!」という言葉を用いることはなかった。


 サラの伴奏や、他の友人たちに頼まれて伴奏をしたりスタジオで弾いたり、時にはセッションのステージに出ることもあったけれど、一番認めて欲しいはずの人からは認められていないという事実はどこまでいっても夏を苦しめた。


 夏のピアノは少しずつ音色を変えていった。


 最初に夢見たものはなんだったろう。初めて年上の友人の家で古いジャズを聴かせてもらい音楽による陶酔を覚え、楽譜のない世界に憧れるようになった。自由なリズム、気ままなスイング。言葉よりも濃密なコミュニケーションのようなセッション。この音楽の世界にいたいと思った。その思いのままにレッスンを重ね、ひたすら弾き続けてきた。ピアノを弾いていられれば幸せだったのは本当だ。けれど、心の底で大切に抱き続けてきた夢は、憧れは、やはりジャズピアニストとして生きていくことだった。大きなホールで弾きたいとは思わない。小さなクラブで目の前の客の息遣いまで感じられる距離で、一緒になって音楽を味わいたくて歩いてきた道だった。


 マエストロはそういう夏に対して「君のピアノはジャズをやるには真面目すぎる」とよく言ったが、夏には「つまらない奴だ」と言われているようで心の底に冷たく響いた。彼女のレッスンに対する真面目さは学生たちの間でも有名だったが、それだってコンプレックスがそうさせたのであって、もしも才能があったら夏はあんなにもむきになって練習したりはしなかったと今でも思う。


 真面目にやるしかなかったのだ。それに、真面目にやっていたからこそマエストロの目に留ったのだ。そして夢と恋のいずれを選ぶのかという選択が目の前に現れた時、夏は恋を選んだのだった。


 考えれば考えるほど夏の心は自分が重ねてきたものと、ここまでの道筋とに挟まれて苦しくなる。答えなどないと分かっていても、悩まずにはおけない。自分は夢を捨ててしまった。捨てなくてもよかったかもしれないが、あのまま弾き続けることはできないと思ったのだ。実際「マエストロの妻」という立場はジャズクラブで無名のピアニストとして演奏するには重すぎたし、そんな暇もなかった。彼のスケジュールを管理し、マネジメントをしているエージェントとの打ち合わせをし、彼と食事に行き、彼の行くところへはどこへでもついて行く生活のどこにピアニストとしての人生を織り込んでいいのか分からなかった。


 それでも人生は突き進んでいく。夏がもうずっと長いこと感じていたのはそのことだった。わけも分からずうろうろしている間にも時間は飛ぶように流れ、心がおきざりにされる。そのせつなさと孤独。夏はそれを誰にも打ち明けることなく、無論サラにだって話すことなく、こんなにも遠くへ来てしまった。今となっては行先も帰る先も分らないほどに。

 今日はまったくとんだ一日だわ。夏は溜息をついた。ダニエルはどこへ行ったんだろうか。窓辺に寄って庭を見下ろす。マリーの言葉によるとこの美しいバラはみんなダニエルの母親が面倒見たものということになる。ダニエルの母親であり、レイの妻。夏は自分の胸が悲しく沈んでいる分だけ、彼ら親子の確執がせつなく心に迫ってきた。


 夜になり夏が食堂で食事をすませてもダニエルは戻ってこなかった。


 カウンターでグラスを傾けている間、エレンは「一体どこ行ったのかしら。車がないと私が帰れないわ」とぶつぶつ言い、仕事が一段落したマリーも厨房から姿を現わして心配そうに「どうしたのかしらねえ。行くところなんてそうあるわけでもないと思うんだけど」と呟いた。


「また家に戻ったんじゃないの?」

 夏は何の気なしに言ってみた。


 するとエレンもマリーも即座に「そんなわけないわよ!」と口を揃えて断言し、その勢いに夏は驚いて軽くのけぞった。


「帰れるぐらいなら初めからここに泊まったりしないわよ」

「それもそうだけど……」

「ねえ、ダニエルはなんで帰ってきたのか、何か言ってた?」

「え? なんでって……」


 エレンはカウンターに肘をつくと夏に顔を寄せるようにし、小さな声で言った。

「私ね、ダニエルはもう帰ってこないと思ってたの」

「どうして?」

 エレンはちらりとマリーに視線を投げる。マリーはカウンターの端にいる客に呼ばれてお喋りしている。

「あの子、高校の時に問題を起こしたことがあるから」

「問題?」

「女の子を妊娠させたって」

「えっ」


 エレンは手元のカップに煮詰まったコーヒーを注ぎ、眉間に皺を寄せながら一口すすった。

「本当かどうかは分からないけど」

「どういう意味?」

「ダニエルにふられた子がいてね。その腹いせにレイプされて妊娠したって言いふらしたのよ」

「じゃあ事実じゃないってこと?」

「事実かどうかなんて誰にも分らないじゃない」

「だって、そんな」

「彼は否定しなかった」

「どうして!」


 思わず夏は大きな声を出し、慌てて口を押さえた。マリーがちらっとこちらに視線を投げる。夏はグラスを呷りジントニックを飲み干す。

「どうしてそんな」

「さあ……分らないわ。でも、否定もしない代わりに肯定もしなかったけど……」

「じゃあ、町を出て行ったのはそのせいだったの?」

「いえ、それは違うわ。ダニエルはずっと町を出たがってたし、ニューヨークの学校に行くのは決まってたもの。出て行ったことじゃなくて、帰ってこないことの原因がそれだってこと」

「じゃあ、それって、レイプはないにしても女の子を妊娠させたから……?」

「ナツ、レイに会ったでしょ? 分かるでしょ? あの頑固で真面目な父親」


 エレンはナツに新しいジントニックを作り「おごるわ」と言ってため息をついた。

「レイは信じたのかしら、そのこと」

「さあ……。どう思う?」

「どうって……、親なら信じないんじゃない? 少なくとも、今日見た写真やレイの話しぶりじゃあそういう印象は受けなかったわ」


 少なくとも、憎んでいるようには見えなかった。夏はグラスに口をつけた。ライムの香りが鼻先をかすめる。


 店の中は少しずつまた混み始め、エレンは夏のそばを離れ他の客の酒を作るのにせかせかと働き始めた。


 カウンターの端に陣取っている男数人がマリーに向って「やっぱり音楽がないってのは寂しいもんだな」と話しているのが聞こえてきた。


「音楽ならあるじゃない」

 マリーは指を振りまわしながら店内を流れているBGMを指して言った。


「そんなんじゃないよ」

「なんの為にピアノがあるんだよ、マリー」

「そんなこと言ってもしょうがないでしょ」


 男たちはいくらか酔っているらしく、グラスを取り上げる動作が荒く、底の厚いロックグラスがカウンターに鈍い音を立ててぶつかる。


 店の中をアレサ・フランクリンの懐かしいナンバーが流れている。南部っぽいわ、わざとらしいぐらいに。夏は心の中で少し笑った。


「マリー、俺たちはジェイミーのいる時からここでピアノを聴いてんだぜ。分かるだろ?」

「うるさいわね、そのうちまた聴けるようになるからそれまでおとなしく待ってなさい」

 少し酔い始め、頬が火照ってくるのを感じた夏はスツールを下りるとエレンに、

「ごちそうさま、もう部屋に戻るわ」

 と声をかけた。

「あら、もう?」

「なんだか酔ったみたい」

「嘘、まだ平気そうな顔してるわよ」

「あんまり酔っぱらうの怖いのよ」

「どういう意味?」

「何が起きるか分からないから怖いの」

「臆病なのね! 何も起きやしないわよ! 私なんてタンカレー半分開けても何にも起きなかったわよ。まあ、ちょっとお気に入りの服にケチャップのシミつけて、家のグラスを全部割っちゃったぐらいなもんよ」

「それで何にも?」

 夏は笑った。


 酔っぱらってなくても人生は何が起きるか分からない。でも少なくとも自分でも制御できない衝動によって、本心をぶちまけてしまったり、なにかとんでもないことをやらかしてしまったりはしない。夏が怖いのは自分の奥底からアルコールによって何が明るみに引きずり出されるか分からないことだとも言えた。自分の中に自分でも知らないものが潜んでいる。それは未知の病原体のようでもあり、寄生虫のようでもある。グラスなら割っても買い替えられるが、絶対にリペアのないものだってあるのだから。


「あ、そうだ。ねえエレン、ジェイミーって誰? レイの他にもピアノを弾いてた人がいたの?」

「ジェイミーはマリーの旦那よ。あのピアノはもともとジェイミーのピアノなの。昔、ジャズクラブで弾いてたのよ」

「……ジャズクラブで……」


 夏はそっとマリーに視線を移した。マリーは太った体をカウンターにもたれさせ、むっちりと太い腕をせわしなく動かすジェスチャーをまじえながらまだ客と話をしている。


「癌で亡くなったの。まだ若かったのに。マリーとはすごく仲が良かったから、かわいそうだったわ」

「レイがピアノを弾くようになったのはその後から?」

「そうよ。弾いてやらないとジェイミーが可哀そうだって」

「……そう」


 食堂を出ようとしている夏に気づいたマリーが手を振っていた。夏も片手をあげる。


 みんな誰かを失ってるんだわ。夏は「喪失」の偶然に胸の底がひんやりすると同時に、同じ痛みを知っているのだという奇妙な連帯感を覚えた。


 夏は火照った頬に片手をあてがい、窓の外に目をやりつつ食堂から一歩踏み出した。暗い庭にはいくつかランタンを提げてあり、ぼんやりとした灯りが幻想的というよりも人魂のように見えた。彷徨い出て浮遊する魂の光。


 前をちゃんと向いていなかった夏はどしんと目の前に立っている人にぶつかってしまい、慌てて「ごめんなさい」と顔をあげた。と、同時に驚きのあまり声をあげた。


「ダニエル!」


 食堂の入口に立ちはだかっていたのはダニエルで、シャツのボタンを二つ目まではずしなにやら意味深な微笑みを浮かべていた。


「どこ行ってたの? 置いてくなんてひどいじゃない」

「ちょっとね」

「……酔ってるの?」


 ダニエルの吐く息からアルコールの匂いが漂ってくる。それに目がどんよりと濁って、瞼が重そうだ。夏は怪訝な顔をしながらも目の前の「反抗期」の男にそうっと尋ねた。


「大丈夫?」

 するとダニエルはいきなり夏の体に腕をまわし、ひっさらうようにしてピアノの傍のテーブルになだれこんだ。


 夏は小さく悲鳴をあげた。

「なにするの、やめてよ」

 体の小さな夏は軽々とダニエルの腕に捕えられ二人はテーブルにぶつかりながら椅子に転がり込んだ。


 周囲の客たちも驚き、二人に注目していた。


 ダニエルの大きな体は椅子からずり落ちそうだったが両腕でテーブルにしがみつくようにして支え、頭をもたげながら、

「ずいぶん静かな週末じゃないか」

「……ダニエル?」

 ダニエルは焦点の定まらない目で夏を見て、それから店中を見回しながら大きな声で怒鳴った。

「マリー! なんで今夜はピアノがないんだ!」

「ちょっと声が大きいわよ」

 夏は慌ててダニエルを静止しようとした。が、酔っぱらいはそんなことおかまいなしにカウンターのマリーに向って声を張り上げた。


「こんな静かな週末じゃあみんなつまらないだろ!」


 マリーが怒ったような顔で腰に手を当てて、ずしずしと床を踏み歩いて来るのを見ると夏は微かにふわふわと感じていた酔いがいっぺんに醒める思いだった。エレンも驚きと困惑の視線を送っている。


「ダニーボーイ、ずいぶんご機嫌じゃないか」

 マリーはぐだぐだになっているダニエルの前に仁王立ちになって言った。

「どこでそんなになるまで飲んでたの、困った子だね」

「マリー、父さんはなんで来てないんだよ?」

「そんなこと、あんたが一番知ってるんじゃないのかい。まったくしょうがない子だね。部屋へ行きな。水を持って行ってあげるから」

 母親のように頼もしくマリーはダニエルの肩に手をおいた。


 が、突然ダニエルは立ち上がりマリーの手を振り払ったかと思うと、夏の腕を勢いよく掴み、ピアノの前に引きずり出した。


 夏はどしんとピアノの椅子に投げ出され、掴まれた手の力があまりに痛くて言葉がでなかった。

 ダニエルの乱暴な振舞いは大袈裟に言うと「暴力の予感」を感じさせ、夏の胸は不安と恐怖でひどく波立っていた。


 まさかこんなに沢山人のいるところで何かされるということはないと思うが、そんな保障はどこもにもないのがこの国の恐ろしいところだ。ダニエルがピアノの蓋を開け夏の体を鍵盤に押しつけると、不協和音が押し出された。夏は小さな悲鳴をあげた。


「やめなさい。なんてことするの」


 マリーが夏からダニエルを引き離そうと割って入ると、ダニエルは今度はマリーの体に両腕をまわし、もたれかかるようにして顔を寄せながら、

「この店の週末に音楽がないなんて冗談じゃないよ。みんなピアノを聞きに来てんだからさあ」

「ダニエル……」

「さあ、ナツ、弾いてくれよ。みんなこの店でピアノを聴くのが楽しみで来てんだ。昔っからそうなんだ。なあ、弾いてくれよ」


 ダニエルの酔いにまかせた狼藉も怖かったが、この騒ぎによって人々の視線が夏に必要以上に注がれ、それもよりによってピアノの前という構図は夏をひどく怯えさせた。ジャンに自分の正体がバレてしまったように他の誰かも気づくかもしれない。


 夏は逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。が、この酔っ払いから逃げられるとは到底思えなかったし、こんな風に酔っているダニエルが悲しかった。


「ダニエル、無理言うもんじゃないよ。彼女、困ってるじゃないの」

 マリーがまたダニエルを諭そうとする。

「拍手! 拍手だ!!」


 ダニエルは自ら大きな音で手を叩きながら一際大きな声で周囲に向って叫んだ。


 絶体絶命だった。人々はダニエルの拍手につられるようにして半ば反射的にぱらぱらと手を叩いた。それに気を良くしたのかダニエルはふらつく足でピアノにもたれかかり、強張った表情で鍵盤を睨んでいる夏にこれみよがしに手を叩いて見せた。


 夏はダニエルの態度にむっとしたがこうなったらヤケクソだとも思い、ふんと鼻を鳴らすと椅子に座り直し鍵盤に両手をのせた。


「いいわ。じゃあ、私が弾くからあなたが歌うのよ。ブロードウェイのスターの歌声、聴かせてもらおうじゃないの。きっとみなさんも聞きたいはずよ!」


 言葉の最後に力をこめて言うと夏は体をねじって客席を振り返り、ダニエルへの仕返しに拍手をした。


 客たちがぱらぱらと豆粒をばらまくような拍手をして様子を窺っていた。マリーの心配そうな顔に視線がぶつかり、夏は少し微笑んでこくりと頷いて見せた。


「な……、ちょっと待てよ。なんで、俺が」

「さあ、行くわよ」


 怖さに震えた胸が今度は違った怖さにまた震えだしていた。それはかつて何度も味わった緊張。ステージに立つ時の緊張と恐怖と楽しさの入り混じったもの。怖くて逃げ出したくなると同時に踊りだしたくなるような気分の高揚。夏はすうっと息を吸い込むと、左足の踵で床を打ちカウントすると「シカゴ」のナンバー「オールザットジャズ」を弾き始めた。


 学生の時に覚えた曲だった。自分でアレンジをし譜面を起こして、アルバイトで出演していたクラブでもよく弾いた曲だ。軽快なリズムと押さえたテンポが交互に入り、陽気で、それでいてダークなイメージの曲。ずいぶん長いこと弾いていなかったのに、指は淀みなく鍵盤の上を行き来する。体が覚えているのだ。


 華麗なオープニングを叩きつけるように弾くと歌の入りどころで夏はダニエルをきっぱりとした視線で見上げた。


 驚いたのはダニエルで、その視線の強さに刺し貫かれ、酔った頭でもここで歌わないなんてことはできないと悟った。そのぐらい夏のピアノは鮮烈で力強かった。


 ダニエルはぱっと舞台に立つような半身の構えになり、肩でリズムをとりながら夏の合図で歌いだした。


 驚いたのはマリーだった。ダニエルがここで歌うなんてありえないと思っていたし、なによりも店の客たちを前にして挑発するような、それでいてなんとも言えない茶目っけのある振りで「女の歌」を歌うなんて。小さい頃はいたずらばかりで、高校時代はアウトロー気取りの拗ねたガキだったのが今はすっかり大人になって客たちから笑いと拍手を浴びているなんて。


 マリーの目に次第に涙が浮かんできた。この姿を見たかった人がいたのに。彼の才能を信じ、彼の成功を信じていた人が。神様はなんて残酷なのだろう。ダニエルがわざとオカマみたいにシナを作るのにマリーは笑いながら、そっと涙を拭いた。


 夏はダニエルの呼吸に合わせ、ダニエルもまた夏の呼吸にあわせながら二人は絶妙に曲を奏でていく。二人は慎重に互いを確かめつつも、大胆にリズムにのる。


 夏は不思議な気持ちだった。こんな曲を即興で、しかもろくに知りもしない相手と合わせることができるなんて。今まで夏は知らぬ相手と気軽に即興などしたことはなかった。綿密に打ち合わせをし、練習しておかねば、少なくとも相手の演奏を知っていなければ合わせることができなかった。ジャズの醍醐味でもあるセッションは夏にはただただ怖いしろものだった。練習で自分を奮い立ててきた夏にリハーサルなしは「もし失敗したら」という恐怖にすぎなかったのだ。でも、今はどうだろう。ミスタッチを誤魔化しながら、力強さを通り越して時には乱暴に鍵盤を叩きながらダニエルのコミカルな歌いっぷりについていくことができ、しかもそれが楽しいだなんて。


 終わりの部分をたっぷり余韻を残してドラマチックに弾き終えると、大きな拍手が二人を包んだ。夏は汗をかいていた。


「ダニエル! すごいじゃないか! さすがブロードウェイのスターだな」


 客の一人が叫ぶ。口笛と拍手の間を縫って二人のもとにバーボンソーダのグラスが届いた。


 夏は興奮を鎮めるようグラスに口をつけ、ほっと息をついた。

「君、いったい何者?」

 ダニエルが言った。

「なにって……。言ったでしょ、サラの友達よ」

「……すごいピアノだった」

「さあ、もういいでしょ。まったく今日はあなたに振り回されっぱなしね」


 夏はグラスをピアノの上に置くと立ち上がろうとした。が、それを制したのはダニエルよりむしろ周りの客たちだった。

「一曲だけなんて!」

「もうちょっと聴かせてくれよ、あんたすごい腕だな。ジェイミーやレイもすごかったけど、あんたもかなりの才能だよ」


 レイの名前にダニエルの頬が一瞬ぴくりと動いたのを夏は見逃さなかった。

「ナツ、あなたが迷惑じゃなければもう少しだけ弾いてくれない?」

「マリー」

「あなたのその弾き方、なんだかとっても懐かしいわ。私のジェイミーもそんな風に繊細で、そのくせずいぶん乱暴で、ロマンチックなピアノを弾いたのよ。あなた、似てるわ」


 カウンターではエレンが客の注文が殺到しだして悲鳴のような大声でマリーを呼んでいた。明らかに二人の演奏に客たちはノリはじめていた。


 一気に活気づいた店内は温度がいくらかあがったようで、誰もが期待に満ちた目で二人を見つめていた。

「……ダニエル、あなたの得意な曲は?」

 夏はもう一度ピアノの上のグラスを手に取ると、今度は落ち着くためではなく勢いづけるためにぐいとバーボンソーダを呷った。


 一方ダニエルは酔いが醒めるような気持ちだった。自分が引きずり出したとはいえそれは冗談のつもりだったし、無論酔った揚句の無茶ブリに過ぎなかったはずなのに、目の前の女がこんなピアノを弾くなんて思いもよらなかった。サラの友達ということは大学でちゃんと音楽を学んだということなのだろうけれど、学ぶだけなら誰だってできる。練習さえすれば誰だって弾ける。けれど才能は、違う。誰にでも与えられるものではないし、誰もが持ち得るものではないのだ。ダニエルは父親のことを考えずにはおけなかった。


 嫉妬と羨望の入り混じった苦い感情が咽喉元をせりあがってくる。ダニエルはそれを誤魔化すようにグラスに口をつけた。


「なんでも。なんでもやるさ。歌えない曲なんてない」

「じゃあ……そうね、アイガットリズムをやりましょう」

「ガーシュインか。いいね、やろう」


 この時夏は久し振りに触れたピアノと、音楽の持つ純粋な情熱と熱狂とに感覚を奪われて他のものは目に入らなかった。鍵盤の懐かしい白と黒のコントラストと音楽を奏でるパートナーの息遣いだけに神経が注がれ、食堂の入口のところにトミーが立って驚きに満ちた目でこちらを見ているのにもまるで気がつかなかったし、無論、演奏する二人を見ながらトミーが感動したような面持ちで携帯電話で撮影していることも気づくはずもなかった。


 「アイガットリズム」それからお客のリクエストに応えて「セービングオールマイラブ」「君の瞳に恋してる」など二人は次々と演奏し、汗だくになるほど夢中だった。しかしそれは心地よい疲労だった。夢中で音符を追いかけ心ごとリズムにのせていくこと。少なくとも夏には懐かしくてたまらなかったし、自分の夢はもともとこういうものだったのだと思い出させるものでもあった。


「最後の曲にしよう」


 ダニエルが囁いた。夏は頷くと静かにイントロを弾き始めた。「オーバーザレインボー」何度も弾いて細胞にまで染みついたような定番の曲。だけど決して色褪せない、いつも違う感動を引き起こす美しい曲。


 マエストロが自分に教えた言葉がふと胸をよぎる。素晴らしい曲ほど完成されることはない。いつでも、何度でも新しい発見と感動を呼び起こし、クリエイティブであり続けるものこそが名曲なのだと彼は言った。だから色褪せず永遠に様々なミュージシャンによって生まれ変わり続けるのだ、と。


 ピアニストとして才能があるならば新たな感動を自分の手で生み出さなければならない。自分の師であり、夫でもある人から突き付けられた言葉。

 不意に夏の目に涙がこみあげてきた。一体これまでに自分がどれだけピアノを弾き、その中で自分が作り出したものがどれほどあったというのだろう。なにも。なにもなかった。自分自身が作り出したものなど、なにもなかった。


 夏は鍵盤を叩きながら自分の頬を涙が伝うのに気づかなかった。心は音楽に寄り添っていた。それはダニエルにも伝わったのだろう。ダニエルは夏の伴奏の一音一音を聴き、心をこめて歌った。言葉の一つ一つを丁寧に、ただ歌うのではなく聴く者に届かせようとして。


 ダニエルもそんな気持ちになるのは久し振りだった。いつだったろう、こんな風に誰かを思って歌ったのは。歌はただ歌えばいいのではなく心を込めなければならないと教わったのに、そんなこと今まですっかり忘れていた。


 歌い終わった時、客席では何人かが感動の涙を拭っていた。ダニエルは初めて夏を見た。そして泣いている夏に驚き、しかし、何か通じ合うものがあるような気がして、理由は分からないけれども孤独に満ちた心が感じられ無言で彼女の手を取るとそのまま立ち上がらせて抱擁をした。


 大きな拍手が沸き起こった。誰も聞いたことのないような素晴らしいパフォーマンスだった。ダニエルは夏の耳元に囁いた。


「ありがとう。君は素晴らしいピアニストだよ」

「……あなたも素晴らしいシンガーだわ」


 夏は涙を拭ってダニエルの腕を離れ、にっこりと笑ってみせた。


 それから後はもう夜が更けるまで二人の間に届くグラスの数ときたら、飲んでも飲んでも尽きることはなく、夏はこの国へ来てから初めて大いに飲み、盛大に酔っぱらって最後は椅子に座ったまま眠りこけてしまうほどだった。


 マリーだけがダニエルと夏をまるで小さな子供を見るような目で優しく見守り、店を閉めてからエレンと二人でそれぞれを部屋に担ぎこみベッドに寝かせてやった。


 二人の頬にキスをしてやり鍵を閉めると、マリーは心地よい疲労に溜息をつき、階段にかけられた亡き夫の写真をぼんやり見つめていた。



 目が覚めた時、夏は自分がどこにいるのか一瞬分からなくて混乱したが、すぐにマリーズゲストハウスの一室だと分り、次いで激しい頭痛に昨夜のことが思い出され心底ぞっとした。


 私、なにをした……?


 ダニエルと演奏したのは覚えている。問題はその後。客たちがこぞって自分たちに奢ってくれるもんだから、ものすごく酔っ払って……。夏は思わず自分がちゃんと服を着ているのを確認し、下着の中をごそごそ探ってみた。


 干からびた体を無理やりベッドから引きはがすようにして起き上がり、サイドボードに置いてあった水のボトルからぐいぐいと水を飲んだ。まだ酔っぱらってるように頭がふらついていた。窓辺により隙間からそっと庭を見下ろすとおびただしいほどの光に満ちた世界が今日も広がっていて、ちょっとカーテンを開ける気にはなれなかった。時計はもうお昼を指していた。


 夏は服を順番に脱ぎ捨てていきバスルームに入った。鏡の中には青い顔をした自分が映っている。一晩で十歳も老けたような顔だった。シャワーのコックを捻り、熱いお湯をほとばしらせバスルームを蒸気で満たすと鏡の中の夏は白い湯気に消えた。


 滝のようなお湯を頭から浴びせながら夏はバスタブにしゃがみこんだ。一体、自分はなにをしているのだろう。こんな遠くまで来て。何がしたかったのだろう。それは今さらだったが、自分が抱えてきた大きな荷物だった。


 頭を整理しよう。夏はシャワーの中で、まだ痛む頭を抱えて考え始めた。


 いつまでもここにいるわけにはいかない。それだけははっきりしている。結局何からも逃げられないのだということも。でも、自分なりの答えというか覚悟のようなものを見つけないと帰ることはできない。


 ピアノを捨てて、それまで積み重ねたレッスンを捨てて、贅沢で優雅で華やかな暮らしをしてきたけれどそれが一体なんだというのだろう。夢みたいだったのは事実だけれど、所詮は夢だ。今はもう醒めてしまって目の前にあるのは現実だけ。


 髪を洗い、体を擦り、ようやくはっきりし始めた頭でバスルームを出る頃には夏は自分はやっぱりピアノを弾きたいのだということをしみじみと考えていた。


 弾くことを忘れていたが、それ以上に忘れていたのは弾く喜びだった。それを昨夜思い出したのだ。無茶苦茶な演奏だったと思うが楽しくて仕方なかった。体中に音楽が漲って、胸が弾けそうになった。


 それにしても見事に酔っぱらったものね。夏は化粧水を顔にびしゃびしゃと叩きながら、鏡を見ながら苦笑いした。酔うのが怖いだなんてよく言ったものだ。実際怖かったからあんなに酔ったことはないのだけれど、どうしてだろう昨夜は興奮していたせいかちっとも怖いとは思わなかった。


 夏はダニエルに対して不安や不信はなかった。それは彼の身元がいくらか知れているからという理由ではなく、ダニエルが夏を女性として見ていないことがありありと分かったからだった。


 夏は服を着ると勇気を出して階下へと降りて行った。


 夏の姿を見るとエレンは大きな声で笑い出した。

「おはよう……」

 夏は気まずくて恥ずかしくて小さな声で挨拶をし、おずおずとカウンターに腰かけた。


 エレンはすぐにコーヒーポットを持って近寄ってきて、

「酔っぱらいのピアニストさん、おはよう」

「ああ、やめて。私ったら馬鹿なことを」

「素晴らしい演奏だったわ」

「やめてよ。ああ、もう。迷惑かけてごめんなさい。私、ひどかったでしょ」

「ぜーんぜん。あなた、酔うとすっごくキュートね! いつもすました顔してるから、びっくりしちゃったわ」

 夏は顔から火が出そうになった。


「私、なにか言ってた? なにか変なことを……」

「あなたとダニエル、二人で音楽の話ばっかりしてたわよ」

「他には?」

「ニューヨークの話とか」

「それから?」

「なに心配してるの?」

「そうじゃないけど……。酔っ払って変なこと言ったりしてないかと思って」

「言ったでしょ。すごくキュートだったって。いつもちょっと酔ってる方がいいんじゃないの? 素直な顔して子供みたいだったわ。楽しそうだったわよ。私、あなたがあんなにイキイキした顔するとは思わなかったわ」


 エレンがカップにコーヒーをたっぷり注ぎ、優しく言った。

「あなたって才能のあるピアニストなのね」

「才能があれば今ここにはいないわ」

 夏はカップを持ち上げ、コーヒーを一口啜った。この熱くて薄いコーヒーにも慣れ始めていた。


「ねえ」


 エレンがカウンターに身を乗り出すようにして夏に顔を寄せ、声を潜めて、

「あなた、本当は何者なの?」

「えっ」

 夏はびっくりして思わずカップを落としそうになった。

「どういう意味?」

「だってあんなピアノ弾くなんていくら大学出だからって言っても素人とは思えないわ」

「素人よ。私ぐらいなのいくらでもいるもの。本当よ。何者かなんて言うようなものじゃないわ」

 夏はどぎまぎしながら答えた。

「でも素晴らしかったわ。本当に。あなた、絶対に成功するわよ」

 エレンは力強く頷くとポットを戻した。


 厨房ではマリーが魚のフライやハンバーガーを次々と仕上げていく様子が垣間見え、夏はほっと胸を撫で下ろした。夏は心のどこかでマリーに母親の姿を見ているような気がした。無論自分の母親とマリーに似ているところなど、ない。でもマリーが料理する姿をちらと見るだけで俄然「帰ってきた」ような気持ちになるのだから不思議だ。懐かしくて温かいものが溢れだし、泣きたくなる。食べ物の力ってすごい。


 ここへ来た時最初に食べたコーンブレッド。あれがすべてを物語っている。夏はサラがこの場所を薦めた理由が分かるような気がした。荒れた心に沁み入るものがあるからだ。


 ランチタイムのピークは過ぎたようだったが、店内にはまだ沢山の客がいて旺盛な食欲を見せて巨大なハンバーガーやフレンチフライを食べている。もちろんソウルフードと呼ばれる煮込み料理やコーンブレッドも。


 彼らは食事を終えて席を立つとことごとくカウンターでコーヒーを啜っている夏に目を止めて、実に嬉しそうに声をかけていく。


「昨日は素晴らしかったよ!」

「今夜も弾いてくれるのかい?」

 と。


 夏は気恥ずかしい一方でこんな風に自分の演奏が受け入れられることが嬉しくて、彼らと握手を交わしながら微笑んだ。その微笑はいつものすました顔ではなくはにかんだような笑顔で夏が本来持っている魅力を表わしていた。


 自分を鎧ってクールな顔をしている夏も精巧な人形じみて美しいが、本当の夏はアジア人特有の実年齢より若く見えるという特徴が一層有利に働く無邪気な笑顔こそ魅力だった。そのことを知る者はほとんどいないのが惜しいところだが、それは夏が進んでそうしているからだった。つまるところ夏は誰にも容易に心を開いたりしない。そのはずだったのに。


 温かい言葉に包まれながら夏は厨房から姿を見せたマリーに向って照れくさそうに肩をすくめて見せた。


「大人気じゃないか」

 人々が立ち去りカウンターに向き直ってまたコーヒーに口をつけた夏の背中に、笑みを含んだ低い声がかけられた。


 声の主は夏が振り向くより先に隣に腰を下ろすとカウンターの端にいるエレンにコーヒーを頼んだ。

「レイ」

 レイは運ばれてきたコーヒーに砂糖を入れ、静かな調子で言った。

「一晩でスターだね」


 夏は頬がかっと熱くなるのを感じた。レイが皮肉を言っているのではないのは分かっている。ただ言葉があんまり優しく響いたので夏に顔を赤らめさせたのだ。


「そんなんじゃありません。物珍しかっただけよ」

「トミーから聞いたよ。ダニエルが君のピアノで歌ったって」

「あの子本当におしゃべりね」

「興奮してたよ。君が素晴らしかったって。動画も見せてもらったよ」

「動画? 動画なんて撮ってたの?」

「仕事に行く前にわざわざ寄って見せてくれた」


 チェックのシャツの袖から出ているレイの腕は金色の毛に包まれていて、夏はその柔らかそうな光をはらんだ様子にしばし目を奪われていた。年はとっていても鍛えられた筋肉や指先はそう衰えてはいないようだった。


「ダニエルは素晴らしいシンガーです」

「……ありがとう。君はただの旅行者なのにあいつが迷惑ばかりかけているようで申し訳ないよ」

「それはまあ……、全然そうじゃないとは言えないかもしれないけど……。でもいい経験させて貰いました。久しぶりに楽しかったもの」

「昨日はダニエルとどこかへ出かけたのかい?」

「いいえ。ダニエルはあのままどこかへ行ってしまって、夜まで戻ってこなかったわ。荷物を取りに行くだけだって言ってたのに、釣りも川で泳ぐのもマシュマロを焼くのも、なし」

「そんな約束してたのか」

「約束ってほどでもないんだけど……。私はそういうのをしたことがないから」

「今日はダニエルは?」

「まだ寝てると思います。昨日すごく飲んだから」

「そうか。じゃあ、あいつの約束は私が果たそう」

「えっ」

「釣りも泳ぎも私が教えたものだよ」

「でも……」

「君のバカンスを邪魔してしまったお詫びをさせてくれないか。親子喧嘩に巻き込んでしまって、気になってたんだ」

「……」


 様子を窺っていたエレンがコーヒーのお代わりを注ぎながら口を挟んだ。

「行ってきたら? この辺りには観光客が喜ぶようなものは何にもないし、車がないとどこにも行けないしさ。一日中ここにいてもしょうがないじゃない。いい天気だし」

 エレンが長い睫毛を片方だけぎゅうっと瞑って見せる。女の子特有のけしかけるような可愛いウィンクだ。


 確かに一日中ここに引きこもっているのもなんだしな……。夏は昨晩の演奏で心が解き放たれたせいもあって、こくりと頷いた。


「よし、支度をしておいで。帽子を忘れずに」

 レイは教師というより父親の口調で言うと夏の背中をぽんと叩いた。


 カウンターのスツールを下りた夏は二階の部屋へ向かいながらダニエルのことが頭をかすめ、ドアの前でノックするべきか一瞬迷った。ダニエルに断りもなくその父親と出かけたりしていいものだろうか、と。でも、断りをいれるのもそもそもおかしいような気がするし、それ以前に親子の諍いを考えると触れないでおくのがいいようにも思える。


 ドアの前で立ち止まりはしたものの、やはり夏は何も言わずにおくことにして自分の部屋の鍵を開け、手早く日焼け止めを塗り帽子を被った。デニムのクロップドパンツにサンダルを履き、ポケットに財布を突っ込む。再び部屋を出る時にちらっと鏡に映る自分を見ると、自然に唇の端が吊り上がっていて明らかに嬉しそうな顔をしていた。


 エレンとマリーに送りだされ夏はレイの旧型のチェロキーに乗り込んだ。家に寄って釣り道具を取ってくるというレイの隣で、夏はラジオから流れる最新のヒットチャートに耳を傾けた。


 レイは釣り道具の他にもバスケットを提げて戻ってくるとさっさと車に乗り込んで「さあ、行こうか」とエンジンをかけた。


 サングラスをかけたレイは南部の眩しい町並みを抜け、整った外観の美しい住宅街を通りすぎ、三十分も車を走らせただろうか風景は木立の並ぶ田舎道になった。


「子供たちが小さかった頃よく釣りやキャンプに出掛けたよ。ダニエルは魚が釣れないとすぐに拗ねて不貞腐れて、ずいぶん困らされた」

「わがままだったのね」

「母親が甘やかしてたからな。君は兄弟は?」

「いいえ、いません」

「じゃあ君がこの国にいるのはお母さんは寂しいな」

「……ええ、まあ……」

「妻もダニエルがここを出て行ったのを寂しがってた。いつも会いたいって言ってたよ」

「会いにいけばよかったのに」

「え?」

「待ってないで、ニューヨークに会いにいけばよかったのに。彼の舞台も観なかったんですか?」

「舞台ね……」

「それに電話やメールは?」

「ああ、妻はしてたな」

「だったら、尚更会いに行けばよかったのに」

「……そうだね」

「……ごめんなさい。また私余計なことを……」

「いや、いいんだ。君の言う通りだから。私がダニエルと大喧嘩してそれっきりになってしまったから」


 レイは窓を開けると胸ポケットから煙草を取り出し器用にパッケージから唇で煙草を抜き出し、注意深くハンドルを握りながらライターで火をつけた。


「煙草は?」

「いいえ……」


 レイは窓の外に向って煙を吐き出しながら、

「昨日の演奏だけど」

「あ、あれは本当に即興で……全然弾いてなかったから……」

「ああいうアレンジは自分で?」

「ええまあ。学生の時にアルバイトでクラブで弾いたりしてたから」

「よかったよ。すごく」

 夏はレイの横顔を盗み見、その眉をちょっとひそめるようにして微笑むのを目撃すると一瞬どきりとした。


 こういうほろ苦いような甘さの笑顔は夏のマエストロがレッスンの最中に夏のピアノを冷たくけなしつける一歩手前の緊張の中で見せたものと似ているが、それとは本質的に違っていた。


 マエストロは夏のピアノにダメ出しをする時、いつも少し笑い、それからさんざんな言葉を浴びせるのが常で、夏は最初のうちは一瞬褒められるのかと期待したものだが、実際はその正反対で、彼の癖なのだろうけれど彼が微笑しながら人を批判するのは悪魔のように冷たく恐ろしかった。


 今、隣でレイは痛みをこらえるのにも似た感じで微笑する。その表情に夏は胸苦しさを覚えた。


 車は林道を抜け、突如として停止した。

「さあ、着いた。降りて」

 レイはそう言いながら先に車を下り、釣り道具やバスケットを持って歩きだした。


 夏は急いで帽子を被りレイの後を追いかけた。

 道路から少し入った細い野道は緩い傾斜で、背の高い木々に囲まれた森は太陽の光を透かして柔らかく降り注いでいた。


 夏はきょろきょろとあたりを見回しながらレイの後ろを追って行く。道の片側から涼しい風が渡ってくるのを感じる。どうやらこの道は河原へ降りる道らしい。


 町育ちの夏にこういった田舎の風景は新鮮で、道の脇に群れ咲いているなんてことはない草花を見ても感動的に思えた。


 然して夏はレイについて河原へ出ると、我知らず小さく歓声をあげた。


 そこには豊富な水を湛えた大きな川が流れ、川の中央あたりは流れが早いらしく水面が力強くうねっていた。


 レイはてきぱきと持ってきた荷物の中から日蔭を作るべく大きな布を広げ、四隅を器用に木の枝に結び天蓋のような日除けをしつらえた。そして釣り道具を取り出すと竿を組立て始めた。


「なにが釣れるんですか?」

「鱒だな」

「釣れるの?」

「釣るんだよ」

 笑いながらレイは竿を二本用意し、ルアーをつけて夏に手渡した。


 二人は並んで川のふちに立ち、まずはレイが手本として竿をひゅんひゅんとしならせてほとんど対岸めがけて釣り糸を投げた。


「あの流れの早いところを狙うんだけど、まあ、まずは一度やってごらん」


 そう言ってレイは竿の振り方を教えてくれた。


 夏はおっかなびっくりだったが言われる通りにびゅんびゅんと竿を振った。


 毒々しい色をした蚊針が猛スピードで吹っ飛ぶように川面を横切って見えなくなった。どうやら流れの手前あたりに着水したらしい。手ごたえはまるで感じない。ただ透明な糸が空を切っていくのを感じただけだった。


 不意に夏は声をあげた。


「あっ、もしかしてこれがフライフィッシングってやつ?」

 間抜けな言葉にレイは一瞬きょとんとしたが、すぐに顔を上向けて大きく笑いだした。

「そう、そうだよ。これがフライフィッシングだよ。お嬢さん」


 レイは苦しそうに身をよじって笑った。外国人だからだろうか、なんて素朴でかわいらしい間の抜け方をするんだろう。あの迫力のピアノを弾く姿からはとても考えられない。レイは釣り糸を巻いたり伸ばしたりしながら、隣りで赤くなっている夏を尻目にいつまでもくすくすと笑い続けた。


 夏は自分が馬鹿なことを言ってしまったと思ったけれど、仕方ないと開き直っていた。だって私は釣りなんてしたことないし、フライフィッシングなんてブラッド・ピットの映画で見たぐらいで知らないんだからしょうがないじゃない。


 最初の魚を釣り上げたのは当然レイだった。水の中で暴れる魚を引き寄せて素早く網ですくい上げると、魚は陽射に鱗を光らせながら尚も網の中でじたばたともがいてその身をくねらせていた。


「すごい!」

 夏は単純に感動し歓声をあげた。

「すごいわ! 本当に釣れるなんて思ってなかった!」

「君は本当に面白いことを言うね」

 針を外しながらレイはまた笑った。


 バケツに魚をいれて、レイはまた夏に竿の扱い方を説明しながら再び糸を投げた。夏もレイに従ってリールを巻きあげもう一度糸を投げる。


 陽射は強くシャツから出た腕やサンダルの足を容赦なく焼く。が、川風が涼しいのであまり汗はかかなかった。うんと高いところを鳥が円を描くように旋回していた。


「ダニエルが高校の時にちょっとした事件を起こしたことがあってね」

 おもむろにレイが言った。

「女の子とのトラブルだった。ダニエルにレイプされたとか妊娠しているとか言いだしてね……」

「……」

「彼女は私の教え子だった」

「えっ」

「もちろん私は信じなかった。ダニエルはその時すでにニューヨーク行きが決まっていたし、そんなバカなことをしでかすような奴じゃないのは私が一番分かっていた」

「……」

「でも私は教師として、どちらにも確かめなければならなかった。なにが真実なのかを」

 レイの目は川を見ていた。その手は竿を操り、糸を手繰っていたが心は遠いところにあるようだった。夏はレイの横顔をじっと見つめた。

「ダニエルは……私が彼を信じていないのだと思ったんだろう」

「それで……」

「あの子にはいつも劣等感があった。なぜかは分からない。あんなにも素晴らしい才能に恵まれていてなぜいつも卑屈にならなければいけなかったのか。私はあの子をいつも信じていたのに」

「お兄さんが優等生で人気者だったからじゃないですか」

「アレックス?」

「私は兄弟がいないから分からないけど……。でも、優秀な人がいていつも比較されたら辛いと思うわ。大学で私の先生はよく他の学生と私を比べて厳しいことを言ったけど、それを聞く度に絶望的な気持ちになったもの。一生懸命やっても、どんなに努力してもみじめな気持ちにさせられる。ダニエルはお兄さんと仲良くなかったんでしょう? それはお兄さんに対して劣等感を感じていたからじゃないかしら」

「……。劣等感を感じていたのは、アレックスの方だったよ」

「どうして?」

「言っただろう? ダニエルの方が才能があるのをアレックスも知っていたからね」


 ……また、その言葉だわ。夏は心の中で呟く。彼らを縛る呪いのような言葉。いや、自分自身もその言葉に囚われているのは分かっている。夏はダニエルの気持ちも分かるし、今はすでに亡い兄のアレックスの気持ちも分かるような気がした。才能を信じられない弟と、弟の才能に嫉妬する兄と。でも、そうさせたのはレイだ。


 夏は半ばそれを確信していた。まさか兄弟が父親の寵愛を争ったわけではないだろうが、でも、厳しい父親からの支持を得たくて、褒められたくて互いに競ったのだろうことは分かる。才能のある者はより多く愛されると信じて。


 レイにしてみればそんなつもりはなくても、幼い者達は単純に父親の関心を引きたかったのだろう。そして彼の元へやってくる生徒たちを見て思ったのだろう。才能のある者はやっぱり特別だという事実を。


「もう二度と会いたくないと言って出て行ったのに」

「……だから奥様が亡くなったことを知らせなかったんですか……?」

「まさか。知らせたよ。いや、知らせようとした。でも繋がらなかったんだ。その、なんていうのかな、電話が止められてた」


 レイの釣り竿に二回目のアタリがあった。レイは竿を引きながら、

「もうちょっと頑張らないと、昼飯にありつけないぞ」

 と夏に笑いかけた。


 夏はとうに釣りなど諦めていて見事に銀色に光る魚をぼんやり眺めるだけだった。


 レイは魚をバケツに放し、隣りで釣り糸を垂れている夏の横顔を見つめた。なぜこの子に自分とダニエルの確執についてこんな風に話す気になったのだろう。我ながら不思議だった。トミーが見せてくれた動画を見る限り彼女の才能は本物だ。テクニックは相当なものだと思うし、相当練習を積んだ者の出す音であるのも分かる。でもそれとこれとは別だ。ダニエルとの関係について誰かに話すことなどなかった。なのに彼女には話してしまう。いや、話したくなる。何もかもを。それは彼女の目が静かで透明で、何もかもを飲みこんでくれるような気がするからだろうか。自分の娘といってもおかしくないような年だというのに、自分は弱った心を抱き取ってくれる相手を求めているのだろうか。


 しかし、それは別としてもダニエルが歌うのを見たのは本当に久しぶりだった。昔より格段に上手くなっていた。見た瞬間、不覚にも涙が出そうになった。夏が言ったように、あの姿をもう一度妻に見せてやるべきだった。そう思うと自分が強硬な姿勢で親子の関係を断絶してしまったことが後悔される。口の中に苦いものが広がるような気さえする。でももう遅い。すべて終わった後となっては。


「釣れないわ」


 レイは夏の言葉にはっと我に返った。夏は困ったような拗ねたような顔で眉をしかめてレイを見ていた。


「しょうがないな。まあ、とりあえず二匹は釣ったから、一匹ずつ食べようか。腹が減ってきた」

「役に立たなくてごめんなさい」

 夏はしょんぼりしてそう言うと、レイは笑って、

「楽しみに来ただけで、なにも本気で食糧調達させようとは思ってないよ。心配しなくても食べ物は他にも持ってきてるから」

 と夏の肩を叩いた。

「よかったわ。これだけじゃあ足りないと思ったの。私に狩りとかできればいいんだけど」


 狩りだって? レイはさっきと同様に空を仰いで大笑いした。釣りもできないのに狩りだなんてよくそんなこと思いつく。ピアノしか弾いたことのないような手をしているくせに、そんなサバイバル誰も期待しないだろうに、やけに真面目な顔で言うから冗談とも取れない。負けず嫌いな性格なのだろうか。


 レイがあんまり笑うので夏は、

「そんなに笑わなくてもいいじゃない。だって、何の役にも立たないのが悪いと思ったんだもの」

 と憤慨した。


「いや、悪かった悪かった。ユニークな発想だと思ってね。じゃあ焚き火をするから役立ってもらおうかな」

「それぐらいならできると思うわ」


 実際のところ夏は自分が何もできないのを本当は知っていた。当たり前の家事程度ならできるけれど、特別に料理が上手だとかいうわけではないし、掃除や洗濯もおおざっぱなタイプ。学生の時からピアノしか弾いていないから、他の事は何も知らないし、何もできない。スポーツもまるっきり駄目だしこれといった趣味や特技もない。ピアノしかなかったのだ。本当にピアノしか。


 それにしてもユニークだと言われるとは思わなかった。夏は自分のことを無個性で平凡だと思っていたし、マエストロからも特に個性を認められたわけではなかったから、レイの言葉は意外すぎるほど意外だった。


 夏はレイの指導のもと石を拾い集めてかまどを組み、焚き火の準備をした。子供の頃だってこんなアウトドアな遊びはしたことがなかった。夏は今ここにいる自分のなにもかもが新鮮で、生まれ変わったようだとさえ思った。そのぐらい清々しく、気持ちが良かった。何もかもを忘れられるほどに。


 そんな事とは知らずに、一心に石を集めてきて焚き木を拾う夏をレイは微笑ましく見ていた。


 レイは持ってきたナイフで魚の腹を出し、串に刺して焚き火で焼き始めた。他にもホイルに包んだパンや豆の缶詰を火にかけると、ブランケットを広げた上に白ワインのボトルとチーズを並べた。


 夏はレイから栓抜きを受け取ると不器用な手つきでコルクを抜き、琺瑯のマグに注いだ。


 魚が焼けるまでの間に二人はちびちびとワインを啜り、夏はサラと過ごした大学生活について話し、レイは教師として多くの子供を教えてきた中でも印象的な思い出を語った。


 サラの伴奏を務めて大学のコンサートに出る時に着るものがなくて、結局黒いパンツに白いシャツで出たら後で古株の先生たちにはみっともないと叱られたけど、学生の間ではスタイリッシュだと褒められたこと。卒業式のガウンの下に着物と袴を穿いて出席したら知らない人たちからも写真攻めにあったこと。けど、着物が暑くて大変だったこと。どれも懐かしい思い出だ。


 レイはマリーとその夫のことも話してくれた。二人ともやっぱりこの町の出身で、今よりももっと人種差別が激しかった頃からレイとは親しくて人々の軽蔑と敵意と好奇の視線を集めていたそうで、レイがマリーと通りで世間話をしているだけで舌打ちされたり、時には侮蔑的な言葉を投げつけられたりしたと語った。


「ジェイミーはマリーと結婚してあのゲストハウスを始めたんだ。私は毎週末入り浸ってジェイミーのピアノを聴いてた。彼も素晴らしいピアニストだったよ。時々一緒にセッションしたりもしたな。妻も彼らに敬意を払ってた。私たちはいい友人だったんだ」

「マリーが私のピアノはその旦那さんのピアノと似てるって言ってたわ」

「ああ……。うん、少し似てるかな。でも君の出す音の方が明晰で正確だと思うよ。ジェイミーのピアノは完全な独学だったから……。やっぱり習った人とそうでない人の音は違うんだよ」

「でも本物のジャズだったんでしょうね」

「音楽には白人も黒人もないし、本物も偽物もない。ジェイミーが言ってたな。ジェイミーは息子たちにも優しくてね。ダニエルの歌はジェイミーが教えたようなもんだ。あの、昨夜みたいな歌は」

「ダニエルは声量もあるし音域も広いわ。それに声に深みがあって感情豊かで、さすがって感じだった」

「……さあ、焼けたよ」


 例は魚を持参していた皿に乗せると夏の前に押しやった。そして自分は煙草をつけると深々と吸いつけ、長々と吐き出した。魚は香ばしく焼け、食欲のそそるいい匂いがしていた。


 夏は急に黙って煙草をふかすレイの横顔にそっと言った。


「……ダニエルともう一度よく話した方がいいと思うわ……」

 悲しい顔だと思った。男の人はそう簡単に涙を見せたりはしないけれど、夏には彼の涙が見えるような気がした。


 串に刺さったままの魚に齧りつくと熱い湯気とほとばしるような魚の旨味に頬がたとえようもなく窪み、唾液が口中に溢れだした。


「美味しい。こんな美味しい魚食べたの初めて」

 夏が単純に感動してそう言うとレイは煙草を咥えたまま夏を見やり、小さく微笑んだ。



 二人が河原で過ごした時間はどのぐらいだったろう。のんびりと食事を楽しみ、予告通りにマシュマロを焼き、レイはポットに直接コーヒーを入れて煮出す苦味と酸味のある粗野な味わいのコーヒーまでいれてくれた。


 この時期、夕暮れまではまだまだ時間があるからとレイは言い、ブランケットの上に寝転んだ。


 静かな時間だった。とても静かな。夏は少しためらった後に自分もレイの隣に寝転んだ。帽子を顔の上にのせると麦わらの匂いがし、目を閉じれば川のせせらぎや木々のざわめき、鳥の鳴き声などが全身を包んだ。


 いずれニューヨークへ戻らなければいけないのは分かっている。考えまいとしていたけれど、避けることができないのも承知している。何もかもを投げ出してきてしまったのだから。でも今はこうして何も考えずに自然に身を任せていたかった。世界と自分とが一対一で対峙しているかのような感覚だった。これまでは世界と自分が対峙しているのではなく、世界に取り残されてしまったような孤独を感じているだけだった。が、今この瞬間にはなんの背景も持たない自分と世界とが対話するような平和な時間があるだけで、それは本当に夏が求めていたものであり、心和ませるものだった。


 夏がそうして寝転んでいたのはわずかな時間のつもりだったが、眠り込んでいたらしく、気がついたのはレイに肩をそっと揺すられた時だった。


 寝返りをうった拍子に帽子が顔の上から落ちた。

「よく寝てたね」

 レイは焚き火の後始末をしていて、すでに食器やポットは片づけられていた。

「ごめんなさい。手伝わなくて……。あんまり気持ち良くて寝ちゃってたわ」

「疲れてたんだね」

「……昨夜飲みすぎたのがいけなかったのよ」

 夏は起き上がると伸びをし、それからブランケットの端をつまみ上げて畳んだ。


「今夜もマリーのところでピアノを?」

「いいえ。そういうつもりで来たわけじゃないから」

「みんな残念がるよ」

「あなたが弾けばいいのに」

「……」

「ごめんなさい。また余計なこと言って……」

「いや、気にしなくていいよ。どっちにしても今夜は生徒がレッスンに来るから家にいる予定だし」

 レッスン! それは夏にとって今となっては懐かしい言葉だった。自分を形作る言葉だったはずが、今の自分からはもっとも遠い言葉。それで、夏は言った。

「見学してもいいですか?」

「そんな大学で教えるような高度なレッスンじゃないよ?」

「私、本当に長いことレッスンしてなくて。なんだかレッスンってものの空気を忘れてしまってるんです。邪魔はしませんから。もう一度思い出したいんです」

「思い出すって?」

「……自分を」


 夏は自分を失ったと思っていた。マエストロとの暮らしは幸福で、無論彼を愛していたのも事実だ。でも、それまでの自分と引き換えにしたのも事実だ。夏は今それを思い出したかった。そうすることでこれから先に起こるであろう事態に強い心で臨める気がした。なぜなら、レイも言ったようにレッスンだけが確かなものであり、支えてくれるものだから。研鑽は裏切らない。どんな結果になろうとも自分がやるだけやったと言えるなら後悔はしない。それがレッスンというものの本質だった。


 レイは車に荷物を運ぶと夏を連れて再び自宅へと戻った。


 夏の両腕や足は日焼けして赤く火照っていた。レイはたくさん水分をとっておくようにと言い、レッスンルームの扉を開け放して準備し始めた。


 その間夏は居間で出されたミネラルウォーターを飲み、様子を窺っていた。


 居心地のいい居間の壁にも写真がかけられていて、夏は注意深くそれらを眺めた。家族写真、恐らくは孫のものであろう新しいスナップ。それから、レイと亡くなった奥さん。


 おもてで車のエンジン音がし、次いで玄関のベルが鳴る。レイがドアを開けると小学生ぐらいの子供とその母親とが立っていて、にこやかに挨拶をして中へ入ってきた。


 彼らは夏を見ると挨拶をした。夏も挨拶を返した。そして母親が待っている間に座るだろうと思い、立ち上がってソファの片側を開けた。が、驚いたことにレッスンルームへ入って行ったのは子供ではなく母親の方だった。


 夏が明け渡したソファにはピンクのTシャツを着た可愛い女の子がちょこんと座り、母親に向って「ママ、がんばってね」と声をかけた。母親は振り向き手を振る。生徒というのはこの母親の方だったのか。夏はレッスンルームの扉が閉まるのを見届けると、再びソファに腰をおろした。


 すぐに指の運動としてハノンが聴こえ始めた。

「あなたもレイ先生の生徒?」

 女の子が夏を見上げていた。

「いいえ。あなたのママ、いつからピアノ習ってるの?」

「先月から。ママ、小さい頃に習ったことがあるんだって」

「レイ先生に?」

「うん。でもずっと弾いてなかったからまた教えて貰ってるの」

「へえ……。あなたは習わないの?」

「私はママに習うからいいの」


 なるほど。夏は妙に納得した。ピアノを離れてもまた戻ってくることができるということか。


 夏は一緒に学んだ幾人もの仲間が音楽を諦め、楽器から離れるのを見てきた。現実的になって会社員や教師などに職を得る者、競争に疲れて完全に音楽から離れる者、結婚を機に辞める者も多かった。自分もその中の一人だ。けど、またやり直せるのだ。自分が音楽を捨てても、音楽が自分から逃げることはないのだ。


「ママ、本当はピアノ嫌いだったんだって」

「えっ?」

 女の子は秘密を打ち明けるように息を潜めて言った。吐息からは甘いキャンディの匂いがした。

「レイ先生、怖かったんだって」

「へえ……」

「でもね、もう大人だからレイ先生のこと怖くないし、パパと私と三人でピアノ弾いたり歌ったりしたいからまた習うことにしたの」

「パパも音楽をするのね?」

「パパはね、ギターを弾くのよ。上手なの」

「素敵ね」

 夏が言うと女の子は嬉しそうににっこり笑った。


 しばらく夏は女の子が持参してきたノートに一緒に絵を描いたり、おしゃべりをしたりしていたが、ピアノの音がやんでレッスンルームのドアが開くとレイが顔を出して二人に向って手まねきをした。


「入って。今日のママのレッスンの成果を発表するよ」

 レイの言葉に女の子はぱっと立ちあがって駆け出し、レッスンルームへ飛びこんで行った。

 夏はノートを閉じて散らばったペンを集めて片寄せていた。するとレイが、

「君も。君も入って」

「えっ?」

「見学したかったんだろう」

 夏はゆっくり頷いた。


 レッスンルームに入るとピアノのそばに女の子が立って母親にしきりに話しかけている。母親もにこやかにそれに応じている。夏はそれを見てまるで花が咲いているようだと思った。明るくて、甘くて、優しい空気がそこには溢れていた。


 母親は夏を見ると、

「子守させちゃってごめんなさいね」

 と言った。


「いいえ、遊んでもらったのはこっちの方だわ」

「さ、エマはお姉さんと一緒にあっちに座ってママが弾くのを聴いててね」


 女の子は押し出されるようにして母親を離れ、壁際の椅子に腰かけた。夏もその横に並んで座ると、レイがピアノの上に広げた楽譜を指で示しながら、強弱の付け方や表現について注意を与えた。


「それじゃあ最初から」


 母親は真面目な顔で注意を聞き終えるとこくりと頷き、いくぶん緊張した面持ちで鍵盤に手を置いた。


 弾き始めたのは「乙女の祈り」だった。まだ少しぎこちなく、固い感じだがちゃんと地道に練習してきたという雰囲気が現れていた。


 子供がいて家庭生活を送りながらの練習は大変だろう。でも彼女の姿と奏でる音からはただ懸命さだけがあり、夏は聴いていて思わず手のひらを固く握りしめている自分に気がついた。いつの間にか彼女に心の中で頑張れと言っている自分がいた。


 曲の間レイは脇に立って指揮をとるように手を振り「そう、そこは滑らかに」とか「優雅に。いいよ。その調子だ」と声をかけていた。その様子に夏は「怖い先生」だなんて嘘だと思った。「褒めて伸ばすタイプ」の先生じゃないの、と。こんなんで怖い先生なんて言ったらマエストロなんて鬼よ。悪魔よ。地獄のレッスンで、拷問にも等しいわ。


 マエストロのレッスンを受けた者なら夏でなくても分かることだが、絶対に褒めない教師というのがいるのだ。それどころかけなしまくって泣かせるまでやる先生だっている。マエストロの場合はけなすより怖い失望のため息と、才能のなさに対する無関心で学生を恐怖のどん底に突き落としたけれど、そこから這い上がってきたのは夏だけだった。


 ミスタッチが何か所かあったけれど無事に弾き終えた時、夏は心底ほっとして、なぜか涙が出そうになった。これだ。この懸命さ。この純真さだ。


 隣の女の子がぱちぱちと小さな手を叩いた。夏も拍手をした。


「今日注意したところをよく練習して、滑らかに優雅に弾くよう意識すること。出だしのところはよかったよ」

「ありがとう、先生」


 母親は立ち上がると拍手を送る私たちに向って照れたようにお辞儀をした。娘が母親に駆け寄って飛びつく。


「ママ、上手だったわ!」

「ありがとう。でも、まだまだよ。頑張って練習しなくっちゃね」

 娘を抱き上げてキスをしながら母親は夏に向って、言った。


「下手な演奏でびっくりしたでしょ」

「そんなことないわ。とてもよかったわ」

「あなたでしょう? マリーのところで昨晩ピアノを弾いたっていうのは」

「……え、ええまあ……」

「今度はいつ弾くの? 素晴らしかったってみんな言ってたわ。次は私も必ず聴きに行くわ」

「……」


 あなたの演奏の方が感動的だったわ。夏は胸の中で呟く。一生懸命な姿、上手くなろうと頑張る姿。音楽を愛しているのが伝わってくる演奏だった。テクニックじゃないのだ。気持ちなのだ。


 親子がさよならを言って帰っていくと、夏はピアノの前に座り鍵盤にそっと触れた。乙女の祈りなら自分も昔習ったことがある。好きな曲で、上手く弾けるように一生懸命練習したのを覚えている。間違えずに弾くと母が褒めてくれたのも嬉しかった。無邪気だった頃の思い出の曲だ。人はどうして無邪気さや純粋さを忘れて大人になってしまうのだろう。それらを失わずに成長していくことはできないのだろうか。


「どうだった? 思い出したかい?」

「……ええ。思い出したわ」


 レイがワイングラスを手にしていて、夏の分をピアノの上に置いてくれた。


「今日のレッスンは一人だけ?」

「ああ。もともとそんなに生徒は多くない。それにここに習いに来る大人たちはみんな忙しいからね。仕事や家事でなかなか時間が作れない。一か月に一回しか来れない生徒もいるし、来てもまるで練習できてなくて進展しない生徒もいる」

「そういう時はやっぱり怒ったりするの?」

「まさか。相手は子供じゃないんだ。叱ったりしないさ。彼らは十分よくやっているよ」

「おちびちゃんはレイ先生は怖い先生だって言ってたわよ」

「エマが? あの子の母親に初めて教えたのは、彼女がまだ小学生の時だよ。子供には叱ることだってあるさ。でもそんなに叱った覚えはないんだけどなあ」

「叱られた方は覚えてるからそう思うのよね。私も褒められたことより叱られたことの方を覚えてるわ」

「君が? 叱られた? おとなしい子供だったのかと思ってたよ」

「一番叱られたのは大学の時よ。あんなに手厳しくやられるとは思ってもみなかったわ。私の先生は本当に厳しくて、レッスンの最中に泣いちゃう子だっていたもの。サラも言ってたけど、マエストロの授業だけは緊張のあまり手が震えるって」


 夏はワイングラスに手を伸ばした。よく冷えた白ワインは葡萄の華やかな香りがして、口に含むときりりとした味わいで滑らかに咽喉を流れ落ちていった。


「学生にはある種の緊張感を与えることも大事なんだよ。ナメられない為にも」

「そんな感じじゃなかったわ。高校生でもあるまいし。……確かにプライドの高い人ではあったけど……」

「才能があるとそうなるみたいだね」

「また才能の話なの?」


 もうこの人の口からその言葉を聞きたくなかった。聞けばダニエルのことはもとより、一度もマエストロから認められなかった自分のことを考えずにはおけないから。それはせつなく悲しいことだったし、それ以上にレイが才能など誰にも決められないといったことを信じたかった。


 レイは夏の顔を見ながらぼんやりと、息子たちのことを思い出していた。利口で従順で優等生だった長男のアレックス。それとは正反対だった次男のダニエル。彼らが仲違いしたのも「才能」故だった。


 高校時代、学校中の人気を集めたアレックスは我が世の春を謳歌していたのに、弟のような才能だけは絶対に得ることができなかった。そして気のいい兄貴の顔をしながら内心ではダニエルに嫉妬していた。レイは父親として、また教師としてそのことを知っていた。


 ダニエルは自分が嫉妬されているなどとは考えもしなかっただろう。ただ出来のいい兄と比べられることで常に劣等感に苛まれ、不貞腐れてばかりの十代だったのだから。


 一度アレックスが父親に尋ねたことがあった。自分と弟とどちらが才能があるかと。音楽でやっていくことができるのはどちらだと。レイは答えた。ダニエルだと。アレックスは、固い表情で父親の残酷な、しかし真摯な言葉を聞くと黙って高校卒業後は近くの建設会社に就職しようと思っていると言った。


 本当はアレックスも音楽の道に進みたがっていたのを知っていた。


 こんなにも早く逝ってしまうと分かっていたら。あの時お前にも才能があるから挑戦してみろと言うべきだったろうか。けれど嘘はつけなかった。レイは挫折という道から息子を救いたかったのだ。今でもそれが正解だったのかどうか分からない。この町に残ったアレックスは予告通り建設会社で働き、高校時代のガールフレンドと結婚し、やがて子供をもうけた。もう彼の生活に音楽は存在しなかった。また趣味でやってみてはどうかとは言えなかった。

 レイは夏の顔を見ていると悲しくてたまらなくなり、目を逸らした。


 二人はそれぞれに悲しい気持ちでいっぱいだった。その訳はお互いに知らないが、心が通じているような気がした。


「何か弾いてくれませんか」


 夏は沈黙に耐えかねてそう頼むとピアノの椅子を明け渡した。レイはワインを一口啜ると黙ってピアノに向かった。彼が弾き始めたのは「ピアノマン」だった。


 ピアノにもたれグラスを傾けながら、夏はレイが弾きながら低い声で歌うのをじっと聴いていた。レイの視線が鍵盤に落ちていて思いがけなく長い睫毛をしているのが見てとれた。


 アマチュアとはいえマリーのところで観客を前にして弾いていただけのことはある。レイのピアノは軽快で自由なタッチで、それでいて彼の人生の重みの分だけの幅のようなものを感じさせる音だった。弾き慣れた感じがまた一層曲の物悲しさをよく表現していて、夏は胸がいっぱいになった。


 夏はなぜそうしたのか自分でも分からないがぽつりと小声で告白した。


「私、結婚してるんです」

「……」

「夫は音楽家で私の先生だった人です」

「……」

「私はずっと彼の生徒だったけれど、彼は一度も私のピアノを認めてはくれなかった」

「……」

「私に才能がなかったから」

「……」

「夫は今新しい恋人とニューヨークにいます」

「……」

「若くて美しい……才能のある人と」

「……」

「彼はもう私を愛していない……」


 ずっと胸の中で燻っていたこれらの事をはっきりと言葉にしたのは初めてだった。認めたくなかったわけではない。もうこれらの事実は認めるしかないものとして目の前に突きつけられていたのだから。でも、夏はそのことを誰にも言わずにきた。サラにも他の友人にも。


 あんなに愛されたのにそれすらももう幻のようになってしまった。マエストロは変わらず夏に優しく、決して嫌いになったというわけではなかったしそんな態度は微塵も見せなかった。が、夏をかつてのように愛していないのも明白だった。夏はマエストロの新しいミューズが彼の指揮したオーケストラの一人であるのも知っていたし、決定的な瞬間を目撃もしていた。


 目を閉じると今も瞼に焼きついた残像が赤く明滅する。それは彼らが夏の外出中に、あの、夏がさんざんマエストロにしごかれたピアノの部屋で肉体的な陶酔を味わっている場面だ。たまたま予定より早く帰ってしまいそんな場面を見てしまった夏は目の前が真っ暗になり、運命の残酷さを呪った。と同時に、これでもう自分は何もかもを失ってしまったと思った。ピアノも、夫の愛も。夏が誰にも内緒でニューヨークを離れたのは、その日からきっちり一週間後だった。


 マエストロは二人のこれからについても、彼女との関係についても何も言わなかった。夏は混乱していた。マエストロは離婚を持ち出すものと思っていたし、弁護士がすぐにやってくると思っていた。が、実際には何も起きなかった。マエストロはいつもと同じようにスタジオでの録音や楽団との練習、打ちあわせや雑誌の取材、撮影などに出かけていき、夏のいる家に戻ってくる生活を続けた。変な言い方だが、夏は引導を渡されるのを待っていたようなものだった。


 夏はハリウッドスターがやるような婚前契約のようなものは交わしていなかったが、離婚による財産分与などにも関心はなかった。そんな風に金銭の損得を考えることはできなかったし、考えたくもなかった。無一文でここを追いだされても仕方がないと覚悟していた。もともと自分はマエストロの生徒にすぎなかったのだから、またただの貧乏で無名のピアニスト志望に戻るだけだと思った。それが辛いとは思わなかったし怖くもなかった。不思議なほど自分の境遇の変化については受け入れる準備ができているような気がした。ただ悲しいのはマエストロが自分を愛さなくなったこと、それだけだった。


 マエストロにインスピレーションを与えるミューズだったのも、おとぎ話のようなものだったのだ。夏は美しく着飾ってマエストロに伴われて行った数々のパーティーを思い返し、まさしく今は魔法が解けてしまったのだと思った。


「もともと私には才能も美しさもなかったけど……。今はもう本当になにもかもをなくしてしまった……」


 夏は唇の端に痛ましい、ともすれば自嘲的ともとれる薄笑いを浮かべ小さな声でピアノマンの一節を歌った。歌ってくれよ、ピアノ弾きだろ? 今夜は歌ってくれ。何か聴きたい気分なんだ。分かるだろ? 任せるから。


 この独白にレイは驚いたが、夏の顔を見ると言った。


「君には才能があるよ。それに、自分では知らないかもしれないけど君は美人だよ」

「……ごめんなさい、私また変なこと言ってしまったわ……」


 夏はレイの目を見て微笑もうと努力した。が、それはできなかった。微笑みは脆く崩れ、泣きだす寸前の歪んだ表情しか作れなかった。


 それを見たレイはたまらなくなって立ち上がり、夏を抱き寄せた。


 この娘は謝ってばかりいる。何か言ってはすぐにそれを打ち消そうと謝る。謙虚なのか、それとも気が弱いのか、またはそんなにも自分に自信がないのか。いや、それよりも怯えているようにさえ見える。誰も責めたりはしていないのに。


 レイは夏の細い体をすっぽりと腕にいれて思った。この娘は自分を責めているのだ、と。夫の愛を失った自分を責め、才能がないと自分を責めているのだ。なんてかわいそうなことだろう。夫を失って傷ついているのは自分だというのに。


 この時レイは確かに夏をかわいそうに思っていた。自分の息子ともそう年の変わらないであろう娘をいたたまれない気持ちで抱き取ったにすぎなかった。が、腕の中の夏の顔を間近に見た瞬間、何か言おうとしたのに唇が自然と彼女に口づけていた。


 夏は自分が慰められているのだと思った。憐れまれているのではなく、労られているのだ、と。そう思えば口づけは自然なものだった。


 レイの手はピアノ弾きらしく力強く優しかったし、夏の腕は思いがけなく筋肉質で固く滑らかだった。二人はお互いの悲しみを交換しあうように体を重ねた。


 二人にとって陶酔と恍惚は久し振りだった。夏は事がすんでしまってから初めて何か重大な過失を犯してしまったような気がちらとかすめたが、それは頭の中でなり続けているピアノマンの旋律にすべてかき消されてしまった。


 ソファに横たわりろくに服も身につけないでレイの胸によりかかるようにしていたが、ひどく眠かった。それでも頭がピアノマンの旋律を追い、指がぴくぴくと痙攣するように勝手に動くのが自分でも怖いぐらいだった。弾きたい。たまらなく弾きたい。何もかもを解放して。しかし今はどうしようもなく眠い。


 こんな風に深く眠りにからめとられていくのは久し振りだった。行かなくてはと思いはするもののとても体を動かすことができないし、瞼を開けることもできない。


「ごめんなさい、少し眠らせて……。すぐに帰るから……」


 マエストロの不倫な事実を目撃して以来眠れない日が続いていた夏はレイの言葉をおぼろげに聞くと、電気のスイッチを切るように意識が完全に途切れてしまった。


「もう謝らなくていい。なにも。好きにすればいい。ゆっくり眠っていいから」


 寝入ったのを見届けるとレイはそっとソファを離れて寝室からブランケットを持ってきて夏にかけてやった。寝顔の無防備さがなんだかおかしくて、レイは少し笑った。



 翌朝、夏は頭がすっきりとして実によく寝たという爽やかさで目が覚めた。そしてすぐに昨夜のことを思い出し、顔を赤らめた。


 まだ人の妻であるという身分から考えると本来感じなければならないはずの罪悪感はまるでなく、大胆なセックスをしたなという照れくささがあるだけだった。


 足もとに散らばった衣服を拾って身に着け、ピアノの前に腰かける。テラスには朝の光が燦々と降り注ぎ芝生の緑が美しかった。


 レイはひどく優しく、一挙手一頭足に押し隠した情熱のようなものがあって官能的だった。あんな風に抱かれなければ夏は身を任せたりはしなかったかもしれない。まだ胸がどきどきする。こんな感情は大人になってから初めてだった。


 無論、頭ではいけないことなのだと思っていた。彼の妻がすでに亡くなっているとはいえ、こんなことをするにはまだ早すぎると。いや、こんな時だからこそしたのかもしれないが。


 ……よそう。言いわけばかり考えるのは。夏は夢の中にまで入り込んで頭の中で五線紙に音符を連ねさせたピアノマンをそっと弾き始めた。レイが弾いたものとは少し違ったアレンジで。もう少し静かに。ギターで弾き語るようなシンプルなメロディで。


 幾度かそうして曲を仕上げていると、気がつくとレイがドアのところに立って黙って夏を見つめていた。


 やっぱり美しいじゃないか。レイはそう思った。酔っていたわけでもないのに、娘といってもおかしくない年齢の女性とセックスをするなんて。いや、まだ「できる」ということがレイには奇妙に新鮮な発見のような気がした。妻の死によってもう二度と女性とそういうことはできないと思ったが、なんのことはない。人間なんてげんきんなものだ。これも明けない夜がないのと同じで、悲しみもいずれ終わりが訪れるということなのだろうか。なんにせよ、夏とのセックスは素晴らしい一時だった。


「おもしろいアレンジだな」


 声をかけると夏は手を止めてレイを見た。


「ドラマチックな感じも素敵だけど、こんな風にシンプルなソロで弾くのも歌詞の感じがせつなくていいかなと思って」

「この曲、ジェイミーが好きな曲だったんだ。週末、よく店で弾いてた。私のアレンジはジェイミーが教えてくれたものなんだよ。でも妻はピアノマンは男っぽすぎてロマンチックじゃないって言ってたな」

「奥様は何が好きだったの?」

「彼女のお気に入りはボズ・スキャッグスとエルトン・ジョン。ジェイミーにもよくリクエストしてた。時には息子たちにまで歌わせたりしてね」


 懐かしそうに、愛しそうに思い出を語るレイが夏は愛しく感じられた。このままこうしていられたらいいのに。こうして恋が始まるのに身を委ねていられたらどんなにいいだろう。でも、そうするわけにはいかないのもよく分かっていた。


 夏は立ち上がり、何もなかったようにするのもそれはそれで不自然かと思い、レイの首に腕をまわしそっと口づけをした。レイもそれをすんなり受け入れ夏の腰を抱くと「朝食を食べに行こう」と言った。


「どこへ?」

「ジャンのところ。それともマリーのところがいいかな」

「……どっちでも。でも、そうね、ジャンのところのコーヒーが飲みたいわ」

「オーケイ」

「マリー、私が帰らなかったから心配してるかしら」

「……大丈夫。メールしておいた」

「マリーに? なんて?」

「うちでレッスンするから一晩預かるって」

「……そう。マリーはなんて」

「分ったって」

「それだけ?」

「私たちは大人だからね。そんなにプライバシーに口を挟むことはないさ。ただ、君は外国人の旅行者だし、マリーが心配して警察にでも通報したらいけないと思ったから」

「……」


 外国人の旅行者。夏は危うくそのことを忘れるところだった。そうだ、自分はよそ者なんだった。留学生としてこの国へ来た時から、当たり前だけれど外国人で、今はまさしく旅行者としてここへわずかな日数を滞在しに来ただけの通りすがりなのだ。


 夏はマエストロと結婚してからもずっと心のどこかで自分は「よそ者」なのだと思っていたし、いい加減住み慣れたはずのニューヨークも決してホームタウンには成りえないと思っていた。かといって故郷を求めるようなセンチメンタルもなく、ただ漠然とした寂しさのような、物足らなさを感じていた。遠くへ来てしまったと思うのは結局どこにいてもそこが通過地点でしかないような足もとの定まらなさ故だったのだろう。


 にしても、こんな短い期間で、こんなにも人と繋がることがあるとは思いもしなかった。夏はレイの車に乗り込み、ジャンの店に向う途中で、

「ダニエルのことだけど」

 とそっと切り出した。


「うん」

 レイは前を向いたまま返事をした。


「こんなこと私が言うべきではないんだろうけど」

「謝らなくてい」

「え?」

「君は何か言うたびに謝るだろう。謝ることなんて何もないのに。ダニエルのことで君に迷惑かけたのは悪かったと思ってる。心配してくれてるのも有難いと思ってるよ」

「……」

「今夜、ダニエルと話してみるよ」

「レイ」

「うん?」

「あの、もし嫌じゃなかったら、もし仲直りできたら……」

「なんだい?」

「……三人でセッションしましょう」


 レイは驚いて夏を見た。夏は真面目な顔で正面を見据えている。自分の思いつきがほとんど祈りのように真剣なものであるかのような顔で。レイはほろ苦い気持ちで「ダニエルがいいと言ってくれたらね」と答えた。


 車をジャンの店の前に停めると二人は並んで店に入っていき、窓際の席に腰かけた。ジャンはいつものように忙しく立ち働き、アルバイトの女の子が客の注文をさばいている。この店は朝が一番忙しい。

 カウンターの中の女の子はこの町ではほとんど当たり前と言っていいのだがレイの教え子で、そばかすがチャーミングで「先生」とレイに呼びかけ「いつものやつですか?」とにっこり笑った。


「ああ、頼むよ。エスプレッソを二つ。それからクロワッサンとパン・オ・ショコラだ」


 ジャンもレイに挨拶をしに出てきたが、夏の姿を見ると驚いた顔で思わずレイと見比べた。一体どうなっているんだという顔だった。


 夏は恐らくジャンが記憶しているであろう過去の自分、それも華やかな自分と今の自分とを引き比べてみた時にやはり今の姿をみすぼらしく落ちぶれたと思うだろうと考え苦い気持ちになった。パリを訪れたくさんのフラッシュを浴び、着飾ってオペラ座の階段を上ったのは自分にとっても夢のようだった。


 ジャンがエスプレッソを運んできてくれ、

「あなたの演奏見ましたよ。トミーが撮影したやつ」

「まさか動画撮ってるなんて思わなかったわ」

 夏は額に手を当ててがっくりと項垂れた。

「一晩で町の有名人になってしまったな」


 レイがカップに口をつけて笑った。目の前のエスプレッソはやっぱり濃密ないい匂いがしていて、夏は俄かに緊張がほぐれるのを感じた。砂糖をいれ、かきまぜないで一口啜る。サラのやり方だ。苦いけど、最後は痺れるほど甘いあのインスピレーションの源。それから焼きたてのパンをちぎる。


 夏はこの時買い物に訪れる人々のいちいちが夏の姿に目を止めるのにまだ気が付いていなかった。彼らは皆一様にレイに、即ちこの町のみんなの「先生」に挨拶をする為に声をかけたり手をあげたりするのだと思ったが、次第にどうも様子がおかしいと感じるようになった。


 確かにみんなレイに声をかける。が、次に視線は夏の顔の上をじろじろと凝視し、意味深な顔をする。


 夏は自分がレイと一晩過ごしたことがすでに町中を駆け巡っているでは思うと顔から火が出そうだった。


 居心地悪そうにしている夏に気がつくとレイは言った。


「ここは田舎だからね。よそ者にはみんな目を向けるし、何か少しでもいつもと違うニュースがあればあっという間に駆け巡る。誰もが退屈で刺激を求めてるからね。その割には変化を嫌うという矛盾したところもあるんだけど」

「ニュースって私のこと?」

「そうみたいだね」

「ただの旅行者なのに」


 夏が肩をすくめて見せると同時に、店の扉が開きサングラスをかけた男が入ってきて、夏とレイに目を止めるとぴたりと立ち止った。


 ジーンズに白いTシャツ。でもシャツがたくましい体にぴたりと張りつくタイトフィット。左の耳にはピアス。


「ダニエル」


 レイが声をかけた。夏はびっくりして小さく声をあげた。ゆっくりした動作でサングラスを外したのは、確かにダニエルだった。


「いやだ、ダニエル。誰だか分らなかったわ」

 夏は笑ってダニエルの為に椅子をひいた。

 が、ダニエルは険しい表情で夏とレイを交互に見て唇を固く引き締めたまま立っていた。


「……どうしたの? ダニエル」

 ダニエルがどうやらひどく不機嫌なのを見てとると夏は恐る恐る尋ねた。自分がレイと一緒にいるのが、やはりまずかっただろうか。


 険悪な様子を心配したジャンがダニエルに親しげに近寄り、肩に腕をまわしながら「おはよう、ダニエル。君もエスプレッソでいいんだろ? 朝食はもうすんだのか? なにか食べる?」とにこやかに話しかけた。


 しかしダニエルは依然としてむっつりとしているだけでジャンの言葉にもなにも返さず、レイを睨みつけていた。


「……みんな見てるじゃないか。ダニエル、座りなさい」

「……」

「ジャン。エスプレッソを頼むよ。ダニエル、いいから座って話を聞きなさい」


 ジャンは頷くと、ダニエルの肩をぽんぽんと叩いて促した。夏も懇願するように言った。


「ダニエル、お願いだから座って話を聞いてあげてよ。あなた達ずっと会ってなかったんでしょう。なにか感情の行き違いがあるんじゃないの?」


 夏の言葉にダニエルはいくらか驚いたような顔を見せたが、またすぐに憮然とした表情に戻ってしまった。けれど、ジャンがエスプレッソを持ってくると仕方ないといった様子で椅子に腰かけた。


 周囲の人々の好奇の視線はますます激しく、テーブルの三人を見つめていた。

「ダニエル、ずっと帰って来なかったのに突然帰ってきたのには何か理由があるのか」

「理由が必要?」

「母さんはお前に帰ってきて欲しがってた」

「……」

「何度も電話やメールでそう言ってただろう。母さんもアレックスもお前に帰ってきて欲しいと思ってたのに」

「兄さんが? 兄さんがそんなこと思うわけないだろ」

 ダニエルは片頬を歪めて吐き捨てるように言った。

「お前たち、小さい頃から仲良かったじゃないか。アレックスはいつもお前をかばってくれただろう」

「ガキの頃はね。でも、兄さんは俺を嫌ってた」

「そんなことはない。それは誤解だ」

「誤解? なにが誤解? まあ、今さらこんなこと父さんに言っても信じないだろうけどね。エミリー・ジョンソンが俺にレイプされて妊娠したとか大騒ぎした時、父さんは俺を信用しなかったけど、本当はあんなでっちあげをしたのは兄さんのせいだったんだからな」

「アレックスが?」

「兄さんがエミリーに金を渡して俺のニューヨーク行きを潰そうとしたんだよ。エミリーが今どこにいるか知ってるか? ニューヨークだよ! あの女、ダウンタウンのダイナーでウェイトレスしてるよ。もちろん子供なんていやしない。妊娠なんてしてなかったんだからな。それで俺に教えてくれたのさ。父さんは息子よりも自分の生徒の方を信じたみたいだけど、あの女とんでもないビッチだよ。昼はウェイトレス、夜は娼婦みたいな真似してやがる」


 この親子の会話は声をひそめるわけでもなく、実に公然と交わされていて、店内に居合わせた客たち即ちこの町の人々は素知らぬ顔をしながら耳だけはアンテナのようにそばだてて、この衝撃的なニュースを聞き洩らすまいとしているようだった。


 ダニエルはコーヒーを啜ると、まるで馬鹿にするような口調で続けた。


「俺はこんなクソちっぽけでなんにもないくだらない町にはもう戻らないと決めて出て行ったんだ。エミリーもクソだし、アレックスもクソだ」


 レイが怒りに大きく目を見開き、目の前の息子を殴ろうと右手が動いた。が、それより早く立ち上がってダニエルの頬を叩いたのは夏だった。


 夏は真赤に上気した顔でぶるぶる震えながら怒鳴りつけた。


「死んだ人のことをそんな風に言うなんて!」


 叩かれたダニエルはびっくりして頬を押さえながら夏に見入っていた。興奮のあまり声が上ずり、目には涙までたまっている。こんな顔を見たことがある。ダニエルは思った。


 レイも思った。こんな表情を自分は知っている、と。


「若い頃についやってしまったことでしょう?! あなたにも問題があったんじゃないの?! 自分は全然悪くなかったとでもいうの?! 兄弟だったんでしょう?」

「なんであんたが怒るんだよ」


 ダニエルは不貞腐れたように呟き、そしてはっと気がついた。母さんだ。この顔。怒る時はいつも興奮のあまり涙目になり、怒るよりは子供の不始末が悲しくて最後は決まって泣き出した。泣かれると謝らざるをえなくて、自分が悪かったと認めさせられ、二度としないと誓わされた。あの顔だ。


 レイもまた感情的になるといつも涙がでて、怒っているのか悲しいのか分からなくなる妻の表情がありありと浮かんできて、夏の顔をに見入っていた。


「お兄さんはあなたに嫉妬してたんじゃないの。あなたの方が才能があって、悔しかったのよ」

「才能があったのは兄さんの方だった」

「違うわ。才能があるからあなたはニューヨークに行ったんでしょう。才能のある人間は奢りたかぶることがあるわ。無意識かもしれないけど、尊大な態度をとることがある。あなたもそうだったんじゃないの。お兄さんがしたことはやりすぎかもしれないけど、あなたがそうさせたんじゃないの?」


 夏は自分の言葉に、マエストロのことを重ねていた。才能があるから、自信があるから、彼はいつも越えられない壁だった。妻になっても並ぶ立場になったとは思えなかった。それは自分が卑屈だったせいもあるのだろうけれど、もしも彼に思いやりがあれば、嘘でも夏を認めてくれていればこんな風には思わなかったのに。でも、そう思うことの卑小さが伝わってしまうから愛されなくなったのも今は認めなければならない。


「お兄さんも後悔していたはずよ。仲直りするチャンスを待ってたはずよ」

「……」


 レイは夏の手をとった。

「ダニエル、彼女の言う通りだ。お前が言うようにアレックスが仕組んだことならそれは勿論責められることだ。進路を決める時、アレックスは私に聞きにきた。音楽でやっていけるのは自分とダニエルのどちらだ、と。私はお前だと言った。お前に才能があるのはアレックスだって分かっていた。私が悪いんだ。そんな事を言った私が。お前は私が信用していないと思っているみたいだけどな、子供を信用しない親なんているはずないだろう。お前はいつも自分のことばかり。自分のことしか見えていない……。一度でもアレックスや母さんの気持ちを考えたことがあったのか」


 夏はレイに右手をとられたまま、脱力するように再び椅子に腰をおろした。もうコーヒーはぬるくなってしまっていた。


「なぜお前はいつも自分のことしか考えられないんだ……。今まで一度も帰ってこなかった理由も、そして今突然帰ってきた理由もなんの説明もしないで。なぜ本当のことを言わないんだ」


 本当のこと? 夏ははっとした。ダニエルもその言葉に追及されたくない痛いところがあるのかぎくりと体を強張らせた。


 夏はレイの手が自分を守るように握っているのに、昨晩この同じ手が自分に愛撫をくれたことを思い返し頬が赤らむような気がした。


 親子が睨みあうような形で黙っていると、レイのポケットの携帯電話が鳴った。レイは電話をとると低い声で話し始めた。


 ダニエルはぷいと立ち上がるとカウンターのジャンのところへ行き何事か話しかけた。夏だけが突然ぽつりと取り残される格好になり、所在なくあたりを見回した。


 目の前で携帯電話で話しながらレイの目が夏に何か困惑したような表情を投げた。夏は首を傾げてみせた。


「ナツ、マリーから電話だ」

「マリーから?」

 夏は驚いて携帯電話を受け取った。

「もしもし?」

「ナツ、レイと一緒なの?」

「ええ。今、ジャンの店で朝ごはんを食べてるの」

「あなたの携帯電話に電話したんだけど、ずっと電源が入ってないから」

「私に急用なの?」

「それが私にも訳が分からないのよ! 今朝から急にお客がいっぱいやって来て、あなたの演奏は今度はいつあるのかって大変な騒ぎなのよ!」

「ええっ」

「この町だけじゃない、あちこちから来てるのよ。電話もひっきりなしだわ。あなたが何者なのかっていうのも問い合わせが殺到してるの」

「そんな、どうして? 私はちょっと一度弾いただけじゃない。それがどうしてそんなことに?」

「なんだかみんなネットで見たって言うのよ!」


 ネット! トミーだ!! 夏は瞬時にまだ少し幼さの残る顔をした青年が浮かんだ。


 自分でも知らぬうちに夏は泣きそうな顔になっていたのだろう。レイは夏の手から携帯電話を取り上げると、


「動画を撮ってたのはトミーだろう。私も見せて貰ったから。トミーには私がすぐに電話する。とにかくそっちはなんとかしのいでくれ」

 それだけ言うと電話を切った。


「大丈夫かい?」

「……一体どうしてこんなことに……」


 夏はまだ呆然として頭の中を整理できずに呟いた。トミーが動画を撮ったのは聞いた。でも、それをそんなにたくさんの人が見たなんて。今や動画を投稿なんて当たり前すぎるぐらいに当たり前のことなのだろうけれど、こんなことってあるだろうか。一夜にして有名になり、こんな小さな町まで多くの人が自分を追ってくるなんて。


 もしこれがもっと昔の、それこそ結婚する前のことだったら。それは夏には大きなチャンスを意味しただろう。でも今は違う。


「レイ、あなたはトミーが撮った動画を見たんでしょう?」

「ああ」

「顔は? 私の顔は映ってた?」

「そんなこと気にしてるのか?」


 レイは思いつめた表情の夏に驚いた。が、夏は首を振った。


「違うの、そんな意味じゃないの。私……私、顔を知られたくないの。困るのよ」

「……。トミーにすぐに動画を削除するように言うよ」


 レイが動揺している夏を落ち着かせるように頷いた。が、席に戻ってきたダニエルが、

「なんで?」

 と眉間に皺を寄せ、不審そうな顔で立っていた。

「それ、俺も映ってるだろ。俺のパフォーマンスでもあるだろ。いいじゃないか。このままアクセス数があがればニュースにもなるし、いい宣伝だよ。俺にとっては有難いことだよ」

「私は困るのよ」

「だから、どうして」

「どうしても。どうしても、よ。私は自分が誰だか知られたくないの」

「君だって大学まで行って音楽をやって、ピアニストを目指したんじゃないのか? いいチャンスじゃないか。このままにしておけよ。で、今夜またマリーの所でやろう。業界の人間に目にとまれば僕たち明日にはスターかもしれないんだぜ」

「いやよ。私は弾かないわ。歌いたいならレイに弾いてもらって」

「ナツ、こんなことって二度とないのに」


 口論とまでは言わないまでも押し問答のようになっている二人を見ながら、レイは無言で携帯電話を握りしめていた。


 内心息子のいうことも分かるし、これがチャンスというならこの勢いをつかむのは彼にとって重要なことだというのも十分理解できる。トミーが見せてくれた動画は確かに素晴らしいものだった。二人は息のあったパフォーマンスをしていたし、とてもぶっつけ本番のアドリブとは思えないほど完成度は高かった。才能のある者が揃うとこんなにも音楽は違って聞こえるのかと、改めて感動するほどに。でもナツは怯えたような顔をして頑なに嫌だと言っている。レイはナツに何か事情があるのだと察した。


 それはもしや彼女が昨晩話した結婚しているということと関係があるのだろうか。夫は音楽家だと言っていたからそのことだろう。


 レイはまだしつこく夏に言い寄っている息子に、

「とにかくうちへ帰ろう。マリーのところには人が集まりすぎているらしいから。彼女にも迷惑がかかってしまう」

「父さんだってチャンスだと思うだろ? 動画を削除なんてやめてくれよ」


 夏はかわいそうなほど体を固くしているが、ダニエルも悲しくなるほど切実な声を出した。レイはすっかり困ってしまい、しかし、この場合傷つく方の者を即ち夏を守ってやるべきだと考えた。


 それにしても。レイはダニエルが一方的に自分の利益のことばかり言うのに飽きれていた。それほど切実だということかもしれないが、いや、さっきも言ったようにダニエルは自分のことで精一杯で、悪気はないかもしれないが自分勝手で我儘になっている。そんな風にしたのも親の責任かと思うと胸にずっしりとした重いものが圧し掛かるようだった。


 もっとああしておけば、もっとこうしてやればと言い出せばきりのない後悔が頭をもたげてくる。そしてどうしたって考えずにはおけない妻の不在。彼女がいてくれたら、息子になんと言うだろう。


 高校を卒業して以来一度も戻ってこない息子に何度も帰ってくるように言っていたが、とうとう会わないで別れてしまった。レイは妻がダニエルにほとんど懇願するようにメールしていたのを知っているし、電話で幾度も繰り返し愛していると言っていたのを聞いていた。


「行こう」

 レイは二人を促した。

 ジャンが心配そうな顔で彼らを見送り、出て行く間際に夏の腕を後ろからとってそっと囁いた。


「まだ誰も君のことには気づいていないよ。心配しないで」

「……ありがとう」


 夏は頷くと先に出て行った二人を追って、小走りに店を出た。


 車に乗り込むと家に戻り、レイは夏とダニエルを下ろすとトミーに直接会って話してくると言ってそのまま発車した。


 ダニエルは憮然とした表情で家に入ると冷蔵庫からジンジャーエールを取り出してプルトップを引き抜き、ソファにどっかりと腰をおろした。夏は仕方なくソファの端にそっと腰掛けたがどうしても落ち着かなくて、何度も立って部屋をうろうろと歩きまわってみたり、また腰かけたりを繰り返していた。

 このまま大きな問題を引き起こすのではないかという不安と、もうここにはいられないのだという不安が灰色の雲のように頭上を埋めていく。


 ダニエルはそんなこと一向に気にならないらしく、雑誌をぱらぱらとめくり鼻歌を歌っていた。そして所在なげな様子の夏に向って、言った。


「なあ、ナツ。考えてみろよ。マリーの所でまたパフォーマンスすればまた話題になる。それだけチャンスが増えるってこと、分かるだろ」

「あなたにとっては、でしょ。私には関係のないことだわ」

「君はチャンスが欲しくないのか?」

「……。ねえ、あなたはもう成功してるのにどうしてそんなにこだわるの?」

「……」

「舞台で主役を張れるほどなら別にもういいじゃない」

「上を目指したいと思うのはいけないことなのか」

「そんなことは言ってないわ。ただ私はあなたがそんなにも注目されたがる理由が分からないって言ってるのよ」

「より多くのチャンスを手にしたいと思うのがショービジネスだ」


 そこまで言うとダニエルはぷいと立ち上がり、レッスンルームへ入って行った。


 子供みたいな人。夏は思った。自己中心的というより、単純に子供のような我儘を言う人だわ。自分のことばかり言うのは利己的なせいではなくてただ夢中なだけで悪意はないのね。きっと。こと音楽に関しては。だから気づかないのだろう。自分の才能も、才能ゆえに人を傷つけることも。


 しばらくするとレッスンルームからピアノの音が流れ始めた。夏は本当のことを言うべきか迷いながら部屋へ入り、ピアノの脇に立った。


 昨晩この部屋で酔いしれた美しい陶酔が今では幻のように感じる。レイがここで自分を抱いたことなど現実のことではないような気がする。ほんの一瞬互いに心を通わせたような気がしたのも夢だったみたいだ。夏は無意識に自分の胸に手を当て、レイの口づけの感触を自分の中に蘇らせようと試みた。恋というにはあまりにも静かな感情がそこには横たわっている。


 ダニエルは鍵盤を叩く手を止めると夏に向き直った。

「注目されてるのは本当は俺じゃなく、君なんだ」

「え?」

「俺の歌が話題になってるんじゃない。君のピアノが話題なんだよ」

「そんなことないわよ。どうしてそう思うの」

「俺なんて大したことないから。世の中にはもっと上手い奴いっぱいいる。俺ぐらいじゃあ話題になんてならないよ。君の腕がすごいからみんな飛びついたんだ」

「その言葉そっくり返すわ。私程度の腕なんてどこにでもいる。話題になるほどのこともない。それよりもあなたよ」

「俺のなんて……」


 ダニエルは唇の端で自嘲的に笑った。夏はぽんとひとつ鍵盤を押さえて音の余韻に静かに耳を傾けた。


 外に車のエンジン音が聞こえ、レイが帰ってきたのが分かった。


「あなた、いつまでこっちにいるの? いつニューヨークに戻るの?」

「……」


 夏の質問には答えないでダニエルは玄関へとさっさと向かい、ばたんと音をさせて外へ出て行った。


 車のドアを開け閉めする音。夏はそれらを聞きながらもう二度、三度と鍵盤を叩く。


 レイがレッスンルームに顔を覗かせた。

「ナツ」

「……」

「君、携帯電話持ってたんだね」

「えっ……」

「まあ最近は持ってない人の方が珍しいんだけど。君が携帯電話を持ってるのを見たことがなかったから」

「ほとんど使わないから……」


 夏はぎくっとしたができるだけ平静なふりをして微笑んで見せた。レイが何を言わんとしているのかおぼろげに分かっていた。こんな騒ぎになって携帯電話に色んな人から連絡がこないかということを言っているのだ。はっきり言うならば「夫」から。


 マエストロが動画サイトなんて見るとは思えないけれど、周りの誰かが気付いて彼に告げたらと思うと夏は一気に内臓を抉りとるような痛みを鳩尾あたりに感じた。不安や動揺を通り越して「怖い」とさえ思う。自分のピアノを認めてはいなかったマエストロが、今こんな状況であの動画を見たらなんと思うだろう。考えるだけで恐ろしいことのような気がする。


 夏はこの心もとなく震える心を扱いかねて、レイを見つめた。今やレイだけが自分の弱さを許し、抱きとめてくれるような気がして。


 夏は長らく自分の弱さを他人にも自分にも許してはこなかった。だから甘え方も分らないが、レイの前では素直に子供のように何もかもをぶちまけられるように思う。それはレイが人生の苦渋を十分に知った大人の包容力を身につけているからだし、それ以上に彼自身の持つ優しさと男らしさが夏の胸を溶かすのだ。


 ダニエルが戻ってきて顔を出すと、

「君が考えなおしてくれないなら、今晩俺一人でマリーのところで歌うよ」

 と言った。


 夏は無言でテラスの窓を開け中庭へおりた。


 夏の旅行鞄には携帯電話が入っている。今それを確かめる気持ちはないし、パソコンのメールをチェックする気もおきない。むしろ見たくない。といって自分はこれからどうしたらいいのだろう。傷つくことに耐えられなくてニューヨークを離れてこんなに遠くへ来たのに、またこれからどこかへ行かなければならないのか。でもそうやって最後にはどこへ辿り着くというのだろう。そして自分は何からそんなにも逃げなくてはいけないのか。


 ダニエルも中庭へ出ると芝生の隅に置かれたベンチに腰をおろし、白い百日紅の枝が枝垂れ、不思議な影を作るのを見上げた。


「君みたいには弾けないけど、俺にも弾ける曲はある。それで歌うよ」

「ダニエル、いい加減にしないか」

 レイが眉間に皺を寄せながらやっぱり中庭に出てきた。


 三人はそれぞれの物思いの中で庭の日差しに照らされ、芝生の青い匂いを吸い込んだ。


「ナツに頼まなければいいんだろう」

「……」


 レイが夏をちらと見る。夏は静かに、

「私を巻きこまないなら、いいわ。それを止める権利なんてないもの」

 と答えた。


 ダニエルは子供がゲームに勝ったように鼻を鳴らした。ふふんという笑いにレイのため息が重なる。

 風もないのに百日紅が揺れるのは枝先の花が重いからだろうか。それとも揺れているように見えるだけで、自分の不安定な気持ちでそう見えるのだろうか。花の周囲を小さな蜂が戯れるように飛んでいる。


「何を歌うの?」

 夏が尋ねた。

「なにがいいかな」

「……ダニエル」


 レイが重い口調で息子を呼んだ。夏ははっとしてレイの顔を見た。その顔には悲しみがいっぱいに広がって、眉間に皺を刻んでいた。


「母さんが生きてたら、今のお前になんて言うだろうな」

「……どういう意味……」

「自分のことばかり言うお前の態度になんて言うだろう。自分の利益ばかり主張して、人の気持ちを省みないお前を見てどう思うだろうな」

「必死になってなにが悪い? 俺は兄さんみたいに人気者じゃないし、才能もないからな! 俺だってアレックスみたいに男前で歌も上手くて頭もよくて、スポーツもできてればこんなにチャンスにしがみついたりしなくても今頃スターになって、この町にだって帰ってきたりしない! 母さんは分かってくれる! 母さんだけが俺を信じてくれてたからな! 俺がきっと成功するって信じてくれたのは母さんだけだった」


 最後の方は夏には聞き取りにくかった。ダニエルの言葉の一つ一つが激しい興奮に揺れ、悲痛な叫びとなり、それからレイの拳がダニエルの頬にインパクトすると英単語がばらばらに飛び散ってしまった。


 夏は小さく悲鳴をあげた。当たりどころが悪かったのか衝撃が強すぎたのか、ダニエルの頬はみるみるうちに赤く腫れ、鼻血が垂れていた。


 手の甲で鼻血を拭ったダニエルは血を見たことで一気に頭に血が上り父親に殴りかかろうとした。が、それを阻止したのは夏だった。


 夏はダニエルにしがみついて叫んだ。

「やめて! お願いだからやめて!」

 痩せた夏の体が暴れるダニエルに振り回される格好になったが、夏は決して手を離さずがっちりとダニエルに食らいつき、大声で叫んだ。


「喧嘩するなら警察呼ぶわよ!!」


 レイは獣のように荒い呼吸で全身に怒りのエネルギーを湛えて爆発しそうなダニエルの胸倉をつかむとぎりぎりと締め上げた。


 夏はまだレイが息子を殴ろうとしているのかと思い、ますます悲鳴にも似た叫びをあげた。


「やめてってば! 喧嘩したって何にもならないでしょう?!」


 ダニエルは父親のぐいぐいと締め上げてくる無骨な手と、腰にしがみついて泣き声をだしている夏のどちらもを振りほどこうと一層もがき、気がつくとこんなこと言うはずなかったのに長年胸の中で燻っていたものが鼻血と共に噴出し、父親に向って喚いていた。


「どうせ俺には才能なんてないよ! でも夢ぐらい見たっていいだろう! 父さんは俺なんて何をしてもダメだと思ってるんだろうけど、俺だってチャンスがあればやり直すことできるんだ!」


 またそれだ! 才能という言葉に翻弄される魂に夏はたまらなくなって、ダニエルとレイの間に自分の体を無理やり押し込むようにして割って入り今にも激しく殴り合いそうな二人の間で、もはやどちらにともつかず怒鳴りつけた。


「いい加減にして! 才能が一体なんだっていうのよ!! 他に大事なことってあるでしょう? 才能がなくたっていい音楽はやれるって言ったわね? レイ? そうでしょう? ダニエル! どうしてあなたは誰も信じられないの? 父親も、自分も!」


 ダニエルとレイは一瞬我に返り互いの顔を見合った。


 才能がなくても音楽はやれる。なのに音楽を遠ざけてしまった自分。サラや友人たちが信じてくれていたのに、諦めてしまった自分。夏の言葉はそのまま夏自身への罵声だった。


 夏の剣幕に気圧されたのか親子はそろそろと後退し、夏は芝生に崩れ落ちた。肌に触れる芝生がしっとりと柔らかかった。二人は次第に冷静になり始めていた。


 最初に行動したのはレイだった。レイは夏のそばに膝をつくと、そっと言った。


「そうだったね。そうだよ。才能なんて誰にも決められない」


 レイは夏が自分たち親子にシンパシーを寄せる理由がはっきり掴めたような気がした。そして自分たちの争いに彼女を巻きこんで不必要に傷つけていると思うと、昨晩のように細い肩を抱きしめたくてたまらなくなった。


「ダニエル、母さんもアレックスもお前を信じていた。もちろん、私も。信じないはずがないだろう? お前に音楽を教えたのは私なんだからな。私はお前にとって厳しい教師だったかもしれないが、いつだって、どんなことがあっても、信じているに決まっている」


 レイはダニエルを見上げた。ダニエルは奥歯を噛みしめるようにして拳を固く握りしめていた。もう父親に殴りかかる気はないようだった。


 これで終わりにしておけばよかったのかもしれない。ただ愛していると言えばそれで長い空白を埋めることはできたのかもしれない。が、レイにはどうしてもそうはできなかった。


 息子への愛情を忘れることなど絶対にない。それが親というものだ。が、だからこそ信頼に対する嘘や裏切りをそのままにしておくことはできない。第一、このまま何もなかったかのようにして関係を修復するのはダニエルの為にならないとレイは考えていた。だから、もうずっと長いこと、それこそダニエルが出て行った時から今日までたった一人で胸に抱えてきたことをレイは初めて口にした。


「お前は必ず成功すると信じていたのに、どうして嘘をついていたんだ」


 レイは労るように夏を支えて立ち上がるとまっすぐにダニエルの目を覗き込んだ。ダニエルの目は母親と同じ色をしている。見つめるほどにレイはこれから明らかにしなけれなばらない真実の前に、自分が妻を傷つけようとしているような錯覚を覚え一瞬躊躇した。


 ダニエルは父親の言葉にぎくりと体を固くし、再び自分の固い殻を閉じようと険しい目つきで父親を睨んだ。


「嘘ってなに」

「……学校を出て、今日までのことを一度でも母さんに本当のことを言ったことがあったか?」


 この言葉に驚いたのは夏だった。

「私が何も知らなかったと思っているのか?」

 レイの言葉は静かだった。責めるような口調ではなく淡々としていて、ただ事実を明らかにしようとしているだけの冷静さが漂っていた。しかし、それが一層ダニエルを頑なにしようとしているのにレイは気づいていなかった。


 もう過ぎたことで争うつもりはなかった。ダニエルを責めることもしたくはなかった。けれど、レイはダニエルの口から本当のことを聞かなければとても息子を許すことができないような気がしたし、何よりも自分が妻に嘘をついていたことの言い訳がつかないと思っていた。


 レイは妻がダニエルに会いにニューヨークへ行きたがった時、それを決して許さなかった。連絡を取り合うのはいいが、会いに行くのは許さないと申し渡し、行くなら離婚するとまで言って妻を悲しませた。会いたければこの家で。そうでなければ許さないと申し渡し、従わせた。その結果とうとう会わずじまいで妻は逝ってしまった。


 どれだけ会いたかっただろう。レイは後悔に苛まれ、あの事故以来自分のしたことは間違いだったかと何度も思い返した。でも、真実を知らせることの残酷さを思うと結局なにが正しかったのかはいくら考えても分らなかった。


「私はお前に会いにニューヨークに行ったことがある」

「え……」

「お前のアパートにも訪ねたことがあるんだ」

「……」

「お前は母さんに教えた住所には住んでなかったな? いたのはお前の友達だった。それに、お前の職場にも訪ねたことがある。だから、私は母さんがお前に会いに行きたがった時に絶対に許さなかったんだ」


 言葉を詰まらせたダニエルはぱっと踵を返すと「マリーのところへ戻るよ」と言い捨てるといきなり室内に駆け込んだ。


「待って、ダニエル!」

 突差に呼び止めたのは夏だった。そして追いかけようとした夏を引きとめたのはレイだった。

「追わなくていい」

「でもっ……」

「いいんだ。ダニエルには今のがどういうことか分かっているはずだから」

「レイ」


 庭に二人取り残され、夏はレイに向き直った。やはり悲しい色の目をしている。夏は思った。外国人だからその透明感のある瞳にそういう印象を受けるのかもしれないが、これだけはまぎれもなく事実だ。なぜならレイの目には涙が浮かんでいたから。夏はおもむろに両腕を広げてレイの長い悲しみをしっかりと抱きしめた。即ち、レイ自身を。


「泣かないで」

 長身のレイを抱きしめるのに幾分不格好な体勢をとりながら、夏は囁いた。


「何もかもを一人で背負わなくてもいいのよ」


 夏はレイの頬に手を当て、もう一方の手で背中をそっと叩いた。唇が癒しを求めるように降りてきたのを自然と受け止め、抱き返す腕に力がこめられるのもそのままにして夏は何度も繰り返した。


「たった一人の家族でしょう? 話せば分かりあえるはずよ」


 外の空気はもう十分に熱く温められ、抱きあっていると夏はシャツの下の肌がじんわりと汗ばんでくるのを感じていた。


「すまない、みっともないところを見せて」

「謝らなくていいって言ったのはあなたよ」


 レイは体を離すと木漏れ日を眩しく見上げた。それから涙を拭うと二人並んで家の中へ戻り、ピアノの前に腰かけた。


「ダニエルが出て行く時に激しくやりあったからね。卒業式にも出なかった。妻は行ったけど、私は行かなかった。その後、妻がどうしても一度話し合ってほしいと頼むからニューヨークへ行ったんだ。ダニエルはオーディションに受かったとか、スカウトがきたとか言ってきてたからね。妻としては、まあ、成功した息子となら和解して話し合うことができるだろうと思ったんだろうね」


 レイはポケットから煙草を取り出すと火をつけ、ゆっくりと吸いつけて煙を長々を吐き出した。その味わうというよりは苦渋に満ちた眉間の皺で夏はダニエルが口にするには憚られるようなことをしていたのだというのがおおよそ見当がついた。


「……でも、実際は違った。オーディションに通ったのは嘘。スカウトも嘘。妻に知らせていたアパートは友達にまた貸しして、恋人と同棲して、クラブで働いてた」

「……そう」

「驚かないんだね。じゃあ、言ってる意味は分かるね? 恋人は女の子じゃなくてマッチョな男で、クラブはスイートベイジルやブルーノートじゃなくてクリストファー通りのレインボーフラッグを挙げた店だって」

「……あの」

「うん?」

「ダニエルがゲイだってことを怒ってるの……?」

「まさか」


 恐る恐る尋ねたが、レイの方がかえって驚いた顔で夏を見返した。


「君はゲイに対して何か思うところでもあるの?」

「ないわ。私にもゲイの友達がたくさんいるし、今どき珍しくもないし、彼らが特別でもなければ特殊でもないってことは分かってるつもりよ」

「私だってそうだ。こんな保守的な田舎でも、私だって教師だよ。そう言う悩みを抱える子供は年々増えている。私は彼らがアイデンティティを模索するのを差別の目で見ることはないし、阻止しようとも思わない。誰であれ他人を愛することの方が大事だと思っているし、生徒にもそう教えてきた。この町では生きにくいかもしれないけれどね……。ゲイだからなんだって言うんだ。誰も愛せないよりいい。誇りを持って生きてほしい。それだけだ」

「いい先生なのね。あなたがみんなに好かれている理由よく分かるわ」

「いや、いい教師なんかじゃないよ。自分の息子ともうまくやれないんだから、教師失格だ」

「ダニエルは優しい人だと思うわ」

「わがままな奴だよ」

「そうかもしれないけど、優しい人に育てたのはあなたでしょう?」

「……妻にはダニエルの成功が嘘だってことも、ゲイだということも、クラブで女装して歌っていることも言えなかった」

「……それじゃあ、そういう意味ではあなたもダニエルを責めることはできないんじゃない……?」


 夏はレイの視線が壁に掛けられた写真に向けられているのに心づき、恐る恐る述べた。壁の写真は家族のものであり、幸福の記録だった。


「ダニエルが嘘をついていたこと、それはやっぱりいけないと思うわ。でも、そんな簡単に言えることでもないと思う。カミングアウトって勇気がいるもの。それに、あなたが嘘をついたのは奥さんの為だったかもしれないけど……、ダニエルと同じ嘘をついてたことは事実だわ」


 嘘には二つある。自分を守るための嘘と、相手を守るための嘘だ。彼らはその二つを使ってそれぞれに嘘をついてきた。真実の告白は容易いものではないだろう。けれど、嘘をつくことをやめなければ彼らは絶対に互いを許すことができない。今がその時なのだと夏は思った。


 壁にかけられたレイの妻の写真にはチェロを抱えて微笑むものがあった。彼女の音楽はどんな旋律を奏でたのだろう。か弱く可憐な音だったろうか。それとも母親としての強さを秘めた温かい音だったろうか。


 手厳しいことを言っていると夏は理解していたが、嘘というものがなんの有効な手段でもないことを身を持って知っていたから、こんなことはいい加減やめさせたかった。彼らが周囲を欺くように、夏は自分自身をもうずいぶん長いこと欺いてきたから。今一番「嘘」というものから逃れたいのは自分かもしれない。夏は鍵盤に手をのせて、しかし、ためらって手を膝に戻した。もう自分に嘘をついたまま弾くことはしたくない。膝の上で軽く拳を握る。この次に弾く時は嘘のない自分で弾きたい。


 夏は強い風が心を吹き抜けてたちこめた黒い雲が掃われて行くのを感じた。


「君を最初に見た時」

「え?」

「クールな印象だった」

「……」

「でも今はそう思わない」

「……」

「君は美しくて強い、情熱的な人だよ」

「私をそんな風に言うのは、たぶん世界であなた一人だと思うわ」


 夏はにっこりと微笑んで見せた。その笑顔にレイは軽い衝撃を受けた。これまでに何度か見た彼女の頬笑みがその印象をがらりと変えていたから。どこか暗い瞳も怯えるような気ぶりも、笑っているのに泣いているような感じも取り払われ、そこにはただ単純に朗らかな笑みが浮かんでいるだけだった。


 実際、夏は自身を覆っていた目隠しのようなものを脱ぎ去ったように感じていた。それはひとつの決意。そしてレイへの恋に似た感情故だった。


「レイ、ダニエルの為にピアノを弾くことはできないの?」

「私が?」

「仲直りすることはそんなに難しい? 嘘を受け入れてやることはできないの? 嘘つくにはそれなりに理由があったんじゃないの?」

「それは……」

「彼の口から謝罪の言葉を聞きたいから?」


 レイは戸惑い、夏から視線を逸らした。自分でもどうしたいのか分からなかった。今さらダニエルの口から真実を聞いたところでそれが一体なんになるというのだろう。妻はもういないというのに。謝罪に意味のないこともレイは分かっていた。が、気持ちの整理ができないのもまた事実だった。


 夏はそんなレイの逡巡を察したのだろう。すっと立ち上がり、レイに右手を伸ばした。頬に触れると痩せて少し乾いた皮膚が指先に枯葉を拾うような感覚を与えた。


「少し昼寝でもしましょうか。ちょっと休んで、先のことはそれから考えましょう」


 意味深な流し目にレイは少し笑った。夏のいたずらっぽい目つきはセクシュアルな誘いと相反していて、却ってどきりとするものがあった。


 レイは夏の腰に手をまわし、二人はぴったり寄り添って二階の寝室へと上がって行った。



 官能的な昼寝の後、先に目を覚ましたのは夏だった。ベッドルームにはまだレイの妻の持ち物が多く残されており、一瞬夏を姦通者のような気持ちにさせた。けれど、夏は罪の意識をはねつけるようにレイに情熱的に挑みかかった。


 レイもまた妻が死んで間もないのに寝室に別な女を招じいれる自分に驚き、貞操というものについてふと考えたりもした。


 人生には悲しみもあれば苦しみもある。しかしその分だけ喜びがあるはずだ。妻と息子、それにあんなにかわいかった孫まで瞬時にして失ってしまった時、レイはこんな苦しみをチャラにするほどの喜びなど絶対にないと思った。もう永遠に喜びは訪れないような気さえした。でもそれは違っていた。人は生きていくのだ。また新たに人と出会い、別れながら。ダニエルが戻ってきたこと、そして夏に出会ったこと。苦悩と恋の予感とがレイを満たそうとしていた。


 夏は眠っているレイのそばをそっと抜け出し、窓に寄って庭を見下ろした。裏庭の芝生の美しい緑。それに隣家との塀につたわせている見事なピンクのバラ。ぽってりと丸く、大きく、可憐な花びらといいそれは綺麗でなんともいえず可愛らしい雰囲気を醸し出している。夏はレイの妻がそんな人だったのではないかと想像した。


 私は違うわ。夏は思う。私は可憐でもなければ繊細でもない。そしてもう十分に傷つくことを知り、耐えてきた。だからもうなにも怖くはない、と。


 階下に見下ろすバラを眺めているうちに夏はマリーのところのバラを思い出した。雪のように降りかかる白バラ。長い年月が育てた立派な木。夏は自分がこの町を訪れたことをよかったと思った。美しいものを見て美しいと素直に思える心が蘇ってきたようだった。


 夏は手早く服を身につけると、物音を立てないように寝室を出て、そのままレイの家を出て行った。頭上に照り輝く熱い太陽に帽子をしっかり被って歩き出す。歩道の照り返しが汗をかかせるけれど、夏はそれを舞台のフットライトのように感じていた。ステージはすぐそこだ。頭の中で音楽が鳴り始める。指がぴくぴくと痙攣する。もう何からも逃げたりはしない。夏はそう心に決めていた。



 途中でタクシーを拾ってマリーズゲストハウスに戻った夏は、すぐに食堂に入りカウンターに腰かけた。


 エレンが飛んできて、

「大変なことになったわね」

 と眉間に皺を寄せながら言った。


「迷惑かけてごめんなさい」

「迷惑なんて、そんなんじゃないわ。あなたがもうここから出て行くのかと思うと残念で」

「マリーは?」

「……呼んでくる」


 エレンが厨房へ顔を覗かせるとマリーがすぐに出てきた。マリーの体からは相変わらず美味しそうな匂いがしていた。夏は俄かに空腹を覚えた。


「マリー、心配かけてごめんなさい。それにずいぶん迷惑かけたわね」

「ナツ、あんた大丈夫なの?」

「私は平気。それにしてもインターネットってすごいわね。一晩で有名人よ」

 険しい顔のマリーに夏はおどけるように言った。

「私はなんだか怖くてね」


 マリーは溜息まじりにこぼす。そして夏の手を握ると、

「あんた、来た時にすごく悲しい目をしてたね。それが気になってたんだよ。きっと都会で辛い目にあってきたんだろうと思った。だからここにいる間はせめてお腹いっぱい食べて、バラを見て、ゆっくりさせてやりたいと思ったんだよ。私はあんたを見てると子供の頃のサラを思い出すよ。あの子もいつも傷ついた顔をしてた。いい子だったのにね。私はそういう子を見るのが我慢ならないんだ。誰だって幸福になる権利がある。そして誰にもそれを奪う権利なんてない。ナツ、あんた、このままここにいたらまた嫌な目にあったりするんじゃないの? インターネットで見たっていう連中は今晩わんさかやってくるよ。私はどうしたらいいんだい?」


 夏カウンターの上に体を投げ出すようにすると、太ったマリーの首ったまに抱きつき力強く囁いた。

「ありがとう。マリー。私はもう大丈夫よ。マリーの料理で元気になったわ。なんだか強くなったような気がする。だから平気なの」


 マリーは夏を抱きしめると涙ぐみながら言った。

「あんたみたいな娘が欲しかったわ。あんたみたいに強くて優しい子が」


 夏はスパイスやソースの匂いの染みたマリーの抱擁を受けながら、なんだか急におかしくなってくすくす笑ってマリーの耳元に、

「マリー、お腹がすいたわ。ポークビーンズとコーンブレッドをちょうだい」

 と頼んだ。


 マリーは夏から離れてのけぞって笑いだすと、

「すぐに用意するから待ってなさい」

 と、のしのしと厨房へまた入って行った。

「ダニエルは戻ってる?」

「ええ、部屋にいると思うけど。今晩また演奏するの?」

「……それはダニエル次第だわ」


 エレンは夏が急に明るい顔をするようになったのに驚いていた。何がこんなに急に彼女を変えたのか不思議だった。暗い目をしていたのに、今はまるで別人だ。これが音楽の力なのだろうか。それともダニエルの力? それともレイの力?


 どちらにしても、エレンは夏の為によかったと思った。ここへ来たお客が悲しい顔でいるのを見るのは気持ちのいいものではない。


「ナツ、ビールを飲む?」

「ええ、ありがとう」


 運ばれてきた料理とビールを夏は旺盛な食欲でたいらげ、食後にはコーヒーと温かいジョージアピーチコブラまで胃袋に収めて満足げに溜息をついた。


「それで、なんの曲をやるの?」

「……それもダニエル次第よ」


 夏は食堂を出る時にまたマリーを呼んで今晩のことを打ち明けて言った。観客が集まれば演奏するかもしれない、と。だからマリー達はかつてジェイミーがいた頃のように、レイがいる時のようにライブのある夜だと思って仕事をしてほしい、と。マリーは深く頷くともう一度遠いところからやってきたこのか細い、弱々しい、そのくせ意思の強い目をした娘を抱きしめた。


 夏は部屋へ戻るとパソコンのスイッチを入れた。自分たちの動画を見るためでもあったが、メールをチェックするためでもあった。そして旅行鞄からニューヨークを出て以来初めて携帯電話を取り出し、電源をいれた。


 サラからはメールの返事が来ていて、そこにはダニエルのことやレイの事が書かれていた。


 ナツ、あなたがそこを気に入ってよかったわ。ダニエルのことならもちろん覚えてる。彼、私の先生の息子さんよ。高校を出てニューヨークへ行ったのは知ってるけど、彼成功してたのね。舞台は見たことないけど、彼は昔から歌が上手かったのは覚えてるわ。先生自慢の息子さんだったのよ。コンクールでも賞をとったことがあるはずよ。懐かしいわ。それはそうと、あなた、そこへ行くのにマエストロに無断で出かけたの? 昨日マエストロから電話がきてびっくりしちゃったわよ! 夫婦の問題に首を突っ込むつもりはないけど、一体何があったの? マエストロが私に電話なんてよっぽどのことだと思うの。心配してたわ。もし連絡してないならすぐにしてあげて。だいたいあなた携帯電話をずっと切ってるわね? 私、何度も電話したのよ。お願いだから私にも電話してちょうだい。バカンスもいいけど、早くニューヨークに戻ってきてね。いつでも力になるから。


 パソコンに置いた携帯電話がいくつもの不在着信を浮かび上がらせる。サラから、エージェントから、友人から、弁護士から、そしてマエストロ本人から。


 夏はマエストロに意趣返しするつもりでひっそりと家を出たわけではなかった。無論、彼を傷つけるつもりもなかった。ただ、自分があれ以上傷つくことに耐えられなくて家を出たに過ぎなかった。問題を大きくするつもりもなければ騒ぎを起こすつもりもなく、自分さえ消えてしまえばいいのではないかと思っただけだった。マエストロが自分以外の女を愛するようになり、自分にはもう用がないのだと思うと夏はあのニューヨークのマエストロの豪奢なアパートメントで息を吸うことも許されないような気がしたし、今さら彼のピアノを弾き、彼の教えを請うこともできなかった。あるのは絶望だけだった。

 マエストロがせめて言い訳でもしてくれればよかったのに。夏はぼんやりとパソコンの画面を眺め、それが次第に滲んでくるのもそのままに奥歯をきつく噛みしめていた。


 あんなに愛し合ったのに。私は彼を尊敬し、愛していたのに。そして彼が私をミューズとして崇めてくれることに誇りを感じ、また、彼の教え子として自身の音楽を研鑽してきた事実にもプライドを持っていたのに。彼が私を愛さなくなり、性急で情熱的なセックスも失われて久しく、何の関心も持たれていないのだと肌で感じるようになり、しかしどうしていいか分からず右往左往する間に、あの場面だ。

 他の女を抱くマエストロを見てしまい、ちらほらと聞こえ始めたマエストロの新しいミューズの噂にますますどうしていいか分からず逃げ出してきたけれど、彼が何か言ってくれたなら私はここへは来なかった。または、自分から何か言う勇気があればあのままニューヨークにいたに違いない。誇りを失ったまま、愛されもしないで。


 どうするのが正しかったというのだろう。夏は涙がいっぱいたまった目を幾度かしばたたかせ、頭を振った。


 噂には加速度というものがある。マエストロの噂が自分にさえ聞こえ始めたということは、もうそろそろゴシップ誌に取り上げられ始める頃かもしれない。それこそ情報の早さですでにインターネットではその名が挙がっている頃なのではないだろうか。夏の名前が再び鮮やかに人々の前に浮上するということ。屈辱よりも恐怖を覚える。


 前に夏の顔写真や名前がニュースを賑わせたのはそれこそマエストロのミューズとして世界中へ帯同し、セレブリティの仲間入りを果たしたラッキーな女性として紙面に彼女のルーツからつやつやとした黒髪の美しさ、衣装持ち物まで注目された交際から結婚までの頃で、やがて沈静化したものの今でもマエストロの名声が高い故に夏の存在が人々の間に蘇るのも時間の問題だった。


 夏は携帯電話のメールも確認すると、再び電源を切ってしまった。着信のもっとも多かったのは、マエストロの弁護士だった。


 それから夏はインターネットで自分とダニエルのパフォーマンスの動画を検索した。それは確かに一日でかなりのアクセス数にあがっており、多くのコメントが寄せられていた。夏はそれを順番に読み、動画を再生した。


 音質は荒かったが、店の雰囲気や興奮と共にダニエルと夏の演奏がしっかりと聞きとれ、尚且つ荒々しく胸に伝わってくる空気までもが録画されていた。夏はこうして客観的に見るダニエルの歌や体の動かし方に確かに華があると思い、特に声量と音域はかなりのものだと思った。才能だ。これが彼の才能なのだ。


 対する自分はアップライトのピアノが壁に寄せてあるので顔はほとんど映っていないが、時々一瞬ながらもアップで捉えられる横顔は夏その人だと分かるだけの鮮明さがあり、どきっとした。と同時に、真剣な顔をしているなと思った。我ながらなんてむきになった子供みたいな顔をしているんだろう。ああ聞き苦しいったらありゃしない、ミスタッチの連発だわ。全然クールじゃない。あ、また音外した。夏はこぼれそうだった涙を指で祓った。こんな乱暴な即興しかできないなんて、いかに練習していなかったかがよく分かる。


 そう考えて夏はレイが最初に言った言葉が脳裏に浮かんできた。練習だけが自分に勇気を持たせてくれる。そうだったわ。忘れていた。練習は自分を裏切らない。結婚生活に敗れても、練習は私を傷つけない。まだ自分はやり直せるだろうか。


 繰り返し動画を見て、それから夏はパソコン内に保存されていた自分の譜面を開いて真剣に読み取り始めた。頭の中でピアノの音をなぞり、テーブルの上で指を動かす。そうやって自分の音楽を頭に叩き込むと、立ち上がり部屋を出てダニエルの部屋のドアを叩いた。


「ダニエル、私よ。話しがあるの」

 返事がない。もう一度叩く。


「お願だから聞いてほしいの、開けてよ」

 やっぱり返事がない。また叩く。今度は強く。

「ダニエル! ピアノのことよ! ちゃんと話をさせて!」


 夏がドアに向って怒鳴ると、ようやくそろりとドアがわずかに開きダニエルが顔を覗かせた。


「結論から言うわ」

「なに」

「今夜、私があなたの伴奏をするわ」

「本当に?」


 暗い顔をしていたダニエルの表情がほっとしたように明るくなり、大きくドアを開け放し夏を部屋の中に入れてくれた。


 夏は窓辺によりカーテンをさっと開け、さらに窓も開けてどこか淀んだ空気を追い払うように風をいれながら、話し始めた。


「ただし条件があるの」

「ギャラ払えとか言うんじゃないだろうな」

「まさか。私はプロじゃないからお金なんてとれないわ」

「自分だけが主役になるっていうのかい」

「私は伴奏をするって言ったのよ。主役はあなたでしょう。そんなことじゃあないの」

「それじゃあなに」

「本当のことを話して」

「……」

「レイに、じゃなくて。私に」

「なんで君に」

「話してくれないなら伴奏はしないわ」

「本当のことって一体なんだよ。父さんに聞いたんだろ。そうだよ、俺はクラブでパフォーマンスしてるいかがわしいゲイだ」

「そんな言い方しないで。あなたがゲイだなんてこと初めから分かってるわ」


 夏はわざと突き放すような口調で言った。ダニエルは急に雰囲気の変わった夏にいくぶん戸惑い、黙って次の言葉を待った。


「なんで分かったかなんて聞かないでよ。私だってニューヨークにいたんだから、分かるに決まってる。そういえば納得できるでしょ。それに私が聞きたい本当のことはあなたの履歴じゃないわ」

「なんなんだよ、一体。俺になにをしろって言うんだ」

「お母さんのこと愛してたんでしょう?」

「当たり前だろ」

「じゃあお兄さんは?」

「……」

「お父さんは?」

「……」

「レイがあなたに会いに行った理由、分かる?」

「……」

「愛してるからよ」


 夏の言葉ははきはきと強くダニエルにまっすぐに向ってくる。窓に寄りかかっていた夏はダニエルの前に立つとしっかりダニエルの視線を捉えた。ダニエルはますます追い詰められたような気持ちになり、思わず後ずさりしかける足をどうにか食い止めていた。


「レイはあなたの才能を信じ、あなたを愛していた。だからあなたが成功してるなんて嘘をついたことも、クラブで歌ってることも、彼氏と住んでることも一人で受け止めてお母さんには話さなかったんだわ。お母さんに嘘をつくのは悪いと思うけど、でも、ニューヨークに会いに行かせなかったのはあなたの為じゃないの? もしバレてたら、あなたどうしてた? あなたがずっと嘘をついてこれたのは誰のおかげ? 直接お母さんを傷つけずにすんだのは?」

「……」

「嘘はいつかバレる。必ずね。バレなかったのはたまたまお母さんが亡くなったからで、それであなたの嘘がチャラになるわけじゃあないでしょう」

「……母さんは優しくていい人だったけど、保守的でね……。俺がゲイなんて事実を知ったら到底受け入れられなかったと思うよ……」

「だから言えなかったのね?」

「それともう一つ」

「なに?」

「……自分には才能なんてないんだってこと、言えなかったんだ……。分かるだろ? ニューヨークには才能のある奴なんて山ほどいて、自分なんて全然大したことない、田舎で大きな顔してただけなんだって。母さんの期待にこたえられないことが辛くて……」


 ダニエルの目からぽろりと一粒涙が零れ落ちた。夏は墓地でダニエルが泣くのを見た時と違って、今度はためらうことなくしっかりとダニエルを抱きしめた。抱きしめたといってもレイの時同様に背の高い彼にしがみつくような格好だったけれど、夏は腕を伸ばして彼の頭を撫でて言った。


「レイが私に言ったわ。才能なんて誰にも決められないって。大切なのは音楽で人を感動させることだって」


 ダニエルは反射的に夏の体を抱き返しながら、肩に顔を埋めて泣いていた。大勢の才能ある者たちと競い、負け、劣等感に苛まれ、といって大口叩いて町を出てきたからやすやすと故郷に帰ることもできず、楽な方へと逃れて行った結果昼間はギャラリーやブティックの店員として働き、週末の夜はクラブでパフォーマンスをしたりする生活へと堕ちていったこと。何度もオーディションを受け、何度も落ち、その度に自分の才能のなさに気持ちがささくれていく毎日だったこと。


 夏はダニエルの告白を聞きながら、何度も頷いて返した。夏には彼の気持ちがよく分かった。それは夏自身が幾度も味わった苦い味だったから。


「私もね、あなたと同じ気持ちを何回も味わったわ。誰も認めてくれないのは辛いわ。本当に辛い。自分のすべてを否定されるような気がするわよね。でももう逃げるのはやめにしましょう? あなたも、私も。このまま一生他人にも自分にも胸を張れないで生きていくなんてできない。今晩、私は一生懸命弾くわ。才能なんてなくてもいい。聞いてくれる人が感動するような演奏をする。一緒にやりましょう。レイも、まだあなたを信じて、愛していてくれてる。その証拠に、あなたが帰ってきたことを責めなかったでしょう」


 ダニエルが夏の肩で頷くのを感じると、夏は今晩やる曲を告げた。ダニエルはそれを聞くと弾かれたように顔をあげ、夏をまじまじと見つめた。泣きぬれた瞳はやはりレイと同じ色をしており、夏は改めて彼ら親子がよく似ていると思った。



 その夜のマリーズゲストハウスの食堂は近年まれに見る混雑を見せていた。マリーは厨房で忙しく立ち働き、エレンも店中を駆け回っていた。


 テーブルは満席、カウンターにもぎっしりと人々が詰めかけ、席が足りなくなり結局その夜のカウンターは椅子を取りのけてスタンディングとなってみんな体を幾分斜めにしてグラスを傾ける格好になった。


 二階では夏が鏡に向っていつもよりずっと濃い化粧を施し、真赤な口紅を塗っていた。黒いワンピースにエナメルのヒールを履きダニエルの部屋をノックすると、ダニエルは黒いパンツに白いシャツの胸をはだけ、シルクの帽子を頭に乗せた出で立ちで、夏を見るなり、

「君、そうして見ると美人だったんだな」

 と言った。

「ありがとう」

 夏は素直にそれを受けて、ダニエルの耳で煌くプラチナのピアスを眺めた。


「その帽子、派手ねえ」

「これで派手? 冗談だろ。地味な方だよ」


 ダニエルのソフト帽のぐるりにはシルバーのスパンコールが施されていて、それを目深に被ったダニエルには都会的な色気が漂っていた。


「こんなことって滅多にないんだけど」

 ダニエルが指に嵌めた大ぶりのリングをくるくる回しながら言った。

「緊張してる」

「やめてよ。私だって緊張してるわ」

「君が? よく言うよ。そんなクールな顔しといて」

 夏はその言葉を聞くや突然ダニエルの手を掴み、自分の胸に持っていった。ダニエルは驚いたが夏の胸に触れた手に強く脈打つ拍動を感じると「ほんとだ」と呟いた。

「でしょ」


 緊張するのは自信がないからだとマエストロが言っていたのを思い出す。だから自信を持つようにと言っていたことも。でも、かつて夏はマエストロが自分を認めてくれない以上、自信など絶対に持つことはできないと思っていた。が、今は違う。自信は人に持たせてもらうのではない。自分の力で勝ち得るものなのだ。自分を信じるって書くのだから。自分が自分を信じなければ、せめて自分だけでも信じてやらなければ可哀そうすぎるではないか。練習は裏切らないというのはこの事でもあるのだ。やるだけやったと言えるから、自信になり得るのだ。


「行こうか」


 ダニエルがカフスを嵌めてドアを開けた。


「ああ、そうだ。ねえ、先に行って庭でバラを切ってきてよ」

「バラ?」

「あなたのお母さんのバラでしょ? 髪につけるわ。あなたも胸にさしたらいいわ」

「……オーケイ」


 ドアが閉まりダニエルが階段をきしませて階下へ降りるのを確認すると夏は窓から庭を見下ろした。ダニエルが芝生を突っ切ってバラの下に立つのを見つめ、そうしておもむろに携帯電話をバッグから取り出した。


 コール音が2回、3回。4回目で、レイが出た。

「もしもし、レイ? 私よ」

「ナツ、急にいなくなってるから焦ったよ……」

「ごめんなさい。今ね、マリーのところよ」

「そう」

「レイ、今から来て」

「え?」


 窓からはダニエルがバラを切っているのが見える。ランタンに照らされダニエルの帽子のスパンコールがちかちかと光っている。


「今晩、私とダニエルでパフォーマンスするわ。あなたに聞いてほしいの。私たち、あなたの為に演奏するわ」

「それどういうこと? 君とダニエルが?」

「もうお客さんいっぱいで席がないから立ち見だけど、すぐに来て!」


 それだけ言うと夏はぶちっと電話を切り、再び電源をオフにしてバッグに戻した。


 階下では人々はマリーの料理ですでに十分満たされつつあり、誰もがダニエルと夏の登場を待っていた。


 食堂の入口で夏はダニエルが切ってきたバラを髪に差し、ダニエルのシャツのボタンホールにもバラを差してやった。


「まだ緊張してる?」

「まあね。でも、いつも通りやるだけだ」

「そうね。ニューヨーク仕込みのパフォーマンスを見せてやりましょう」


 すると先に行きかけた夏をダニエルは引きとめ、握手の手を差し出した。夏はダニエルの手を握り、怪訝な顔で彼の目を覗き込んだ。


「ありがとう」


 ダニエルは力をこめて夏の手を握った。夏は頷いて、同じく力強く握手を返した。そして二人は手を繋いで食堂へと足を踏み入れた。


 彼らの姿を眼にした客たちが途端にどよめき、たちまち拍手と歓声が波のように端から一番向こうの席まで順に沸き起こり、カメラのフラッシュが無数にたかれた。


 カウンターにはトミーの姿があった。夏は彼に向って声をかけた。


「トミー、動画撮っておいてね」

 と。

 トミーは幾分驚いた顔をしたが、すぐに頷いて返した。


 夏は客席に向って微笑み、手を振り、それからピアノの前に座った。ダニエルも同じく歓声に応え、夏が鍵盤に手を置くのを横目で見守った。


 夏は深呼吸し、ダニエルを見上げた。ダニエルと視線を合わせ、タイミングを確かめる。ダニエルが唇でカウントをした。


 二人が選んだのはレディ・ガガやアデル、ケイティ・ペリーといったダニエルがクラブで女装して派手に行っているおなじみのパフォーマンスの曲だった。


 「バッド・ロマンス」のイントロを夏とダニエルは二人で声を揃え少しコミカルに歌い始めた瞬間、客席は驚きと歓声と数多の笑いに包まれた。


 夏のピアノは力強く伴奏をこなしダニエルの歌を盛り上げる。ダニエルもまた踊りながらその魅力的な歌声を聞かせた。


 こんなアレンジをステージでやったことはないけれど、夏の頭にはちゃんと楽譜ができあがっておりミスタッチもなくそつなく弾きこなしていく。二人が昼間のうちに相談したのはドラマ「Glee」のイメージだった。ダニエルはあのドラマならクラブの客たちにも人気があり、アレンジもほとんど覚えていた。夏のアイディアを聞いた時、ダニエルは思わず「自分たちも負け犬だからね」と笑った。


「あのドラマ、負け犬から這い上がったじゃない」


 パソコンで動画を見ながら曲を確認して行く二人の間には今では単なる行きずりの旅人の出会いではなく、昔から知っているような同志のような気持ちが芽生えていた。


 ピアノの伴奏だけで弾くシンプルな「ポーカーフェイス」、低音で弾く「スムースクリミナル」。合間にはミュージカルのナンバーやジャズも加え、二人のパフォーマンスは充実し、それを聞く人たちは二人の才能に目を見張った。


 トミーは動画を撮影しながら思った。こんなに上手かったとは。ここまでやれるとは思わなかった、と。彼らが素晴らしかったから軽い気持ちで撮ったものをインターネットに投稿したけれど、まさかこんなに反響があるとは思わなかったし、一度目の演奏よりも今の方が数段上で、一体どこにそんな時間があったのか彼らは息があっていてどの曲もまるで何度もやりこんだかのように慣れた雰囲気があった。でもそれ以上に、昨夜のように互いを痛めつけ合うような激しいパフォーマンスではなく、今夜のそれはダニエルと夏が互いを確かめあうような穏やかで安定感に満ちたもので、時々二人が目を見かわして笑い合うのが本当に楽しそうで、見ている者まで気持ちが明るくなるのを感じた。


 才能ってこういうことなんだな。トミーは夏の顔をアップで捉え、その艶やかな唇に見惚れた。


 二人はステージを二度に分け、一度目を終えるとエレンから飲み物をそれぞれ貰った。人々が二人を取り囲み握手や写真を求めるのにいちいち応じた。

 ダニエルの歌と踊りはさすがクラブでやっているだけあって客の喜ぶツボを心得ていたし、夏はそれにうまくついて行き、引き立てるだけの技量をぞんぶんに発揮した。


 店を終えたジャンも駆けつけてダニエルに抱擁し、訛りのある英語でプラチナのピアスや胸に差したバラを褒めた。


 マリーが厨房から出てくるとエプロンで手を拭い、

「ジェイミーがいた頃だってこんなにお客は入らなかったわ」

 と笑った。


 夏は今では緊張より喜びと興奮で胸が高鳴り、頬が上気するのが自分でも分かった。ダニエルもマリーも、ジャンやトミーもそんな彼女を本当に美しいと思った。黒い瞳が輝きに満ち、口紅の効果以上に笑顔が鮮やかに見えた。


 この時夏もダニエルも知らなかったが、お客のそれぞれが動画を撮影し次々とリアルタイムでインターネットに投稿し、写真をインスタグラムに掲載していた。そう、二人の預かり知らぬところで世界が彼らに向って歩み寄ろうとしている最中だった。

 二度目のパフォーマンスでは静かなメロディを強調してTLCの「アンプリティ」を二人で歌い、セリーヌ・ディオンをやりダニエルの男性離れした音域を発揮させた。これには見ている人々は思わず立ち上がり歓声をあげた。高音の伸びといい声量といい圧倒されるほどだった。


 その最中だった食堂の入口にレイが立ったのは。レイはダニエルの歌声を聞き驚いたが、黙って食い入るように二人を見つめていた。無論、胸に差したバラにも注目していた。


 もし彼女が生きていたら。もしも真実を知らせていたら。それでも息子のすべてを受け入れ、愛していると言ってやっただろうか。この田舎町でゲイの息子を持つというのはいくら世の中がリベラルになったといってもまだ偏見の目は避けられない。差別というものが今だになくならないように、自分たちもどんな目で見られるか分からない。それでも自分は構わなかったのに。レイは苦い水を飲んだようにむっとする後悔の味が広がるのを感じた。どこで何をしていようと構わない。信じて、愛するだけでよかったのだ。妻にもそのことをちゃんと伝えていればよかった。


 バラを咲かせるのが得意だった妻は、今こうしてもう一つの大輪を咲かせたじゃないか。


 トミーがレイに気づくと、彼の為に自分の立っていた場所を開けた。レイはカウンターに寄りかかり、ダニエルの才能を確かなものとして受け止めていた。


 父親が来ていることに気づいたダニエルは夏を省みた。夏は知らぬ顔で鍵盤を叩いている。ダニエルはどんな顔をしていいか分からなかった。父親に向って笑いかけてもいいのか、それとも顔を背けるべきなのか。


 歌い終わって拍手を浴びている中、

「最後の曲です」

 夏が客席を振り向いた。

「ダニエル?」

「……」


 ダニエルは迷っていた。こんな自分を父さんは許してくれるだろうか。でももう逃げることはしたくなかった。


 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。ダニエルは意を決したように帽子をとるとピアノの上に乗せた。


「みなさん、今夜はありがとう。喜んでいただけてよかったです。最後の曲は僕の母と兄に……、それから、僕の尊敬する教師であり、最愛の父レイ・ブラックウィングに捧げます」


 長く喧嘩別れしていた親子の邂逅に、町の人々は目を見張った。マリーもエレンもすでに涙ぐんで彼らを見守っていた。


 夏が決めた曲はボズ・スキャッグスの「ウィーアーオールアローン」だった。夏がダニエルに出した条件はこの曲を最後に歌うことだった。


 部屋で話し合った時、夏は言った。

「あなたの家族に捧げる歌にしましょう。この曲、とてもいい曲よね。また立ち直ろうとする歌よ」

「それ、母さんの好きな曲だったよ。懐かしい曲だな」

「ならちょうどいいわ。心をこめて歌えば天国のお母さんやお兄さんにも届くわ」

「……いいけど」


 ダニエルは今こうしてみて初めて夏の言葉の意味が分かったのだった。彼女がチャンスをくれたということが。


 レイもまた夏が自分たち家族の絆を再び結ばんとしていることが分かり、ダニエルを見つめながら目に涙が浮かんでくるのを止めることができなかった。


 いかにもゲイっぽく女性の曲ばかりを歌っていたけれど、ボズ・スキャッグスをカバーするダニエルの声にはしっかりとした男らしさが漂い、レイはそれを懐かしい気持ちで聞いた。子供の頃から歌ってきた彼の声だった。レッスンルームで何度も聞き、学校の舞台やコンクールでも賞賛された彼の素直で、熱のこもった歌声。レイの目からとうとう涙が一滴零れると、ダニエルは間奏の合間にレイに歩み寄りいつの間にか会わぬうちに年老いていた父親を抱きしめた。


 ダニエルの歌は見ている者の涙を誘い、間奏が終わり、父親の目の前で彼の目を見ながら歌う姿にまた人々は泣いた。


 やり直せる。夏は確信していた。彼らはまたやり直すことができる。割れんばかりの拍手が彼らに盛大に降り注いだ。


 演奏を終え夏は立ち上がり、客席に一礼した。ダニエルはレイに、

「父さん、ごめん」

 と呟いた。


 レイはダニエルが小さかった頃にいたずらの果てに叱られて泣き、こうやって許しを乞うてきた時のことが思い出された。泣き顔は子供の頃と変わらない。そう思うと自然と笑みがこぼれる。


「電話したんだ。母さんが事故にあった時に。けど、お前の携帯電話、繋がらなくなってたから知らせられなかった」

「……」

「ダニエル、金に困ってるなら言いなさい」

「父さん、ごめん。本当にごめんなさい……。俺に才能があればよかったのに」

「あるさ。あるに決まってるだろう。見なさい、こんなにたくさんの人がお前に拍手をくれる」


 レイはポケットから小切手を取り出すとダニエルに手渡した。


「とりあえず持って行きなさい。指輪は、今のお前にはまだ渡せない。渡したら売ってしまうだろ? でも、いつか渡せる日がくると信じているよ。母さんと約束したんだろう? もうしばらく預かっておく」


 夏は握手を求められ、写真撮影に応じ、飛び交う質問や賛辞にも丁寧に答えながら彼ら親子の様子を眺めていた。こんなに満ち足りた気持ちはいつぶりだろう。達成感というか、単純に充実した気持ちは。清々しく、幸福な気持ち。


「エレン、咽喉が渇いたわ。ビールをちょうだい」

「素晴らしい演奏でしたね」


 そう声をかけられ、夏はお礼を言いながら振り返り、次の瞬間その場に凍りついた。


「ミセス・グレイン」


 きちんとスーツを着て眼鏡の下の目を皮肉っぽくほころばせて立っていたのは、弁護士のターナーだった。そして、なんということだろうか、その後ろに立っているのは夏のマエストロだった。


 彼らは夏の演奏をステージの最初から一番奥まったテーブルで聞いていたのだった。ターナーは職務をまっとうすべく夏に歩み寄り、声をかけたに過ぎなかったのだが、驚いた夏はあれほど幸せな気持ちだったのが一瞬にして奈落の底に叩き落とされるような感覚を味わい、本当に足元から崩れ落ちてしまいそうになるのをかろうじて気力を振り絞って持ちこたえていた。


「どうしてここが……?」

「話題の動画にあなたが映っていたので。あなたのこんな演奏、初めて聞きましたよ。素晴らしかった」

「どうも……」


 火照っていた頬がみるみる青褪めていく。夏はターナーと言葉を交わしつつ、しかし視線は彼を通り越してマエストロに注がれていた。


 輝きに満ちた夏の目がまた湖の静かな黒い水面のようになるのを隣に立っていたトミーが気付いた。

 トミーはレイとダニエルを突いて彼らの注意を喚起した。


「なんだか様子が変だよ」


 トミーが二人に言った。何事かと視線を向けたダニエルは、その瞬間驚きのあまり叫び声をあげそうになった。夏の前に立っているのはあのウィリアム・グレインではないか。


 世界的に有名な彼の姿はレイも見過ごさなかった。愕然として言葉を失っているダニエル同様に、レイもまた彼らの様子を信じ難い思いで見つめていた。


 茶色い髪が額にかかり、眉は気難しくひそめられ、瞳はただまっすぐに夏を見つめていた。それは緊張感に満ちた、しかし静かな眼差しだった。レイはまさかと思った。まさか、彼が夏の?


 夏は不意に髪に挿したバラの香りが鼻先をかすめていくのを感じた。甘い、柔らかな香りだった。そしてようやく大きく深呼吸し、口を開いた。


「まさか来るとは思わなかったわ」

「私が君を探さないとでも?」


 ダニエルとレイは二人から少し離れたところでひたすら様子を窺っている。夏は自分が嘘をついたことを釈明しなければならないと思い、けれど、言葉を見つけられずにいた。


 周囲の興奮を帯びたざわめきは未だ収まらず、カメラのシャッター音がまるでこの瞬間を切り刻むように執拗に続いている。夏はその無数のシャッター音が記憶から蘇るのを感じていた。かつてパパラッチに追われ、いくつものカメラを向けられたマエストロのミューズとして世界から羨望の眼差しで見つめられた日々を。


 奇しくも弁護士のターナーも同じことを考えたらしく、

「今ここで話すのもなんですから、また明日にでも」

 と二人に促した。夏はこくりと頷いた。


 何か訳があるのだろうことは二人の気配で察しられた。そしてそれは他人が簡単に踏み込んでいいものではないということも。けれどジャンが彼を崇拝しているように、ダニエルもまたマエストロ・グレインを敬愛していた。彼と直接口をきくチャンスが目の前にある。そう思うとダニエルは矢も楯もたまらず、二人の間に飛び出した。


「マエストロ・グレインですよね? ダニエル・ブラックウィングです。昨年のカーネギーでのコンサートは本当に素晴らしかったです」


 ぎょっとしたのは夏だった。ダニエルは自分がついた嘘を忘れているのだろうか。ウィリアム・グレインから指名を受けたという嘘を。そう、夏は初めから知っていた。ダニエルが嘘をついていたことを。マエストロはどんなスターでも指名などしない。必ずオーディションを行う。彼は常に新しい才能と可能性を模索しているのだ。既存のものに用はない。無名の新人だろうと機会さえあればいつだって登用すると公言しているのだから。そして、そのチャンスを与えるのは自分だとも。だから夏は最初からダニエルが成功したスターだなどとは思っていなかった。きっとそう思わせなければならない理由があるのだろうと思い、騙されたふりをしただけだった。そして自分もその嘘に乗っかることで、自分の素性を隠そうとしたのだ。


 夏ははらはらしながらマエストロの反応を窺った。今ここで自分が間を取り持ってやるべきなのだろうか。ダニエルに才能があることは分かっている。それは嘘をつくことのできない、明確な事実だ。マエストロにもそれは分かるはず。しかし、夏は自分が招いた事態とはいえ目の前のマエストロがどんな気持ちなのかまるで分らなかった。


 無断で行方をくらました妻に対して怒りを感じているとしたらそれは当然のことだろう。見知らぬ土地で見知らぬ男とセッションしているというのが愉快なことではないとしたら、それも当然の感情だ。

 夏は自分のせいでダニエルに怒りの矛先が向いてはと思い、無理に微笑んでみせ、マエストロに言った。


「彼、ニューヨークでミュージカルを勉強してるの。たまたまここで出会って、意気投合してね。ちょっとしたお遊びで演奏してみようってことになって。まさか動画がアップされるなんて思ってなかったわ。ウィリアム、彼、ダニエル・ブラックウィング。あなたも見たら分かると思うけど、素晴らしい声だったでしょう」


 マエストロは音楽に対して厳しいが、人間として冷淡なわけではなかった。妻がこの場を取り繕うようにあたかも何事もなかったかのように振舞うのを無視するつもりはなかった。


 マエストロは紳士的に右手を差し出し、ダニエルと握手を交わした。


「いいパフォーマンスだったよ」

「ありがとうございます」


 ダニエルは素直に感激しながら、父親を振り返った。


 レイは彼女が結婚していて、尚且つその婚姻が破綻していることを聞かされていたので心配そうな面持ちで成り行きを見守っていた。


「リア・ミシェルばりの音域だったね。最後の曲は気持ちがこもっていて、本当によかったよ。久しぶりに感動した」

「ありがとうございます。あなたに聞いてもらえただけで、嬉しいです」

「こちらこそ、君のおかげで妻のピアノを久しぶりに聞くことができたよ」

「え……?」


 マエストロは穏やかな笑顔を作りつつ、妻という単語を強調するように言った。まるで夏が自分のものであるとはっきり顕示するように。同時にダニエルをはねつけるように。


 ダニエルは夏を見た。夏はもうあの熱を帯びた目はしておらず、暗く沈んだような陰鬱な表情で黙ってマエストロを見つめていた。


「ナツ、ここに泊まってるんだろう。部屋で話そう。ターナー、君はホリデイ・インに戻っていい」


 ターナーは何か言いかけたが、自分の仕事はマエストロの権利や財産を守ることであって夫婦の問題までは守備範囲外と思い直し、あっさりと「わかりました」と答えた。もちろん、夫婦の問題が離婚に発展し法廷で争うことになれば自分の出番なのだが。


 ターナーは銀縁の眼鏡を人差し指で押し上げた。神経質そうな、潔癖そうな仕草だった。


「何かあったらすぐにお電話を。ああ、それから、くれぐれもパパラッチには気をつけてください。彼らにゴシップを提供するようなことはしないでください」

「分ってるよ」


 夏はターナーの懸命な忠告がマエストロではなく、自分に向けられているのだと感じた。彼だって知っているのだ。マエストロに新しいミューズが現れ、夏はもう彼の寵愛を受けた女ではないということを。そして警戒しているのだ。夏が不倫な事実を盾にしてマエストロの地位を、財産を脅かすことを。


「行こう」


 マエストロが夏の背に手をまわした。慣れた仕草だった。それもそのはずで、夏はずっと彼のエスコートを受けてきたのだから。彼の腕がどのようにして夏の体にまわされ、手がそっと背中や腰のあたりに添えられる感触を夏は生々しく思い出すことができる。守られていると感じていた日々のことを。

 しかし、夏はマエストロの手が黒いドレスの開いた背中の肌に触れるより早くくるりと身を翻した。


「先に行っていて」


 マエストロと対峙する格好になった夏はピアノの上に置かれたクラッチバッグからキーを取り出した。


 マエストロはキーを受け取ると、夏とダニエルを交互に見た。二人の関係を疑うつもりはなかった。夏が真面目な女性であることは自分が誰よりも知っている。


「部屋に何か飲み物はあるかい」

「いいえ……。持って行くわ」

「頼むよ。ダニエル、それじゃあ」


 まだ呆然としているダニエルに片手をあげてみせ、マエストロは食堂を後にした。夏はその姿を傲慢で嫌味だと思い、俄かに胸の中にどす黒い苛立ちの雲が湧き上がるのを感じた。才能ある者の栄光に満ちた姿と、そうでない者のひがみと言えばそれまでかもしれないが。


 夏は泣きたいような気がして、すぐにはダニエルに顔を向けることができなかった。


「ナツ、説明してくれないか……」


 ダニエルは信じられない気持でいっぱいだった。只者ではないとか、訳ありだろうとは思っていたけれど、まさかウィリアム・グレインの妻だとは想像もしなかった。当たり前かもしれないが、本当に、考えもしなかった。そしてダニエルはようやく自分が夏についた愚かな、恥ずべき嘘を思い出した。


「ナツ・グレイン。ウィリアム・グレインは彼女の夫です」


 口を挟んだのは弁護士のターナーだった。


 夏はもう絶望で目の前が真っ暗だった。これですべてが終わるのだと思うとやりきれなかった。終わるといっても何が始まっていたのかは分からないけれど。


「ナツ……、君がここへ来たのは夫から逃げるため? 暴力でも?」

「まさか! マエストロがそんなこと!」

 ターナーが声をあげた。やむなく夏は俯きながらぽつりと漏らした。

「いいえ、そんなんじゃないのよ。主人がもう私を愛してないっていうだけで……。私がそれに立ち向かう勇気がなかっただけで……。ちょっと、どうしていいか分からなくなって……」

「……ナツ?」


 夏の目にはいつしか涙が浮かんでいた。本当のことを話すのが辛いのではなかった。この旅を終わらせることを考えると悲しく、そして旅の終わりはレイとの別れを意味していて、それが殊のほか辛かった。


「……さぞ滑稽だったろうな。僕は。マエストロの舞台に指名されたなんて見え透いた嘘。君は本当は僕を笑ってたんだろう」

「なんてこと言うの? ひどいわ。確かに嘘だというのは最初から分かってた。でも、だからって嘘だって言える? それに、私だって本当のことなんて言いたくなかったんだもの。あなたの嘘は……私にとっても都合がよかったのよ。あなたを笑う権利なんて私にはないわ。あなたこそ、私を笑うでしょう。夫に愛されなくなったみじめな女を」

「……帰るの?」


 ダニエルは胸に挿したバラを抜き、すべすべとした滑らかな花弁に鼻先を埋めた。夏に意地悪や嫌味を言うつもりではなかった。ただ、自分の嘘が恥ずかしかったに過ぎなかった。バラの香りを吸い込むうちにダニエルはようやく落ち着きを取り戻し、今にも泣きそうな夏の頬に手をやった。


 悲しい顔をした暗い女だと思ったのはそういうことだったのか。ダニエルは夏を哀れともみじめとも思わなかったが、打ちひしがれた様子だけはかわいそうでならなかった。


「ミセス・グレイン。私は明日お迎えにあがりますので、マエストロにもそう伝えてください」


 ターナーが夏の代わりに答えた。


 夏とダニエルのパフォーマンスを存分に楽しんだ客たちは余韻を楽しむようにそれぞれのテーブルで談笑し、グラスを傾けている。動画を見て駆け付けた野次馬の客たちも、今この瞬間にも自分たちが目撃した演奏をそれぞれが次々とソーシャルネットワークや投稿サイトにアップしていく。誰にも止めることなどできはしない。夏はそうやって一人歩きしていく噂や情報を、自分とマエストロとの結婚生活のようだと思った。


 マリーとエレンは忙しそうにカウンターで立ち働き、夏たちの様子には気づいていないようだった。

「ターナーさん、こんな遠くまで来てもらってご苦労さまでした。今晩はゆっくり休んでください」

 もう行けとばかりに夏が命じる。その態度にダニエルははっきりと、夏がセレブリティの妻なのだという事実を垣間見た。


「行かなくちゃ」

「帰りたくなければ、帰らなくてもいいんじゃないか」


 口を挟むべきでないと思ったはずだったのに、前に出たのはレイだった。ここにいればいい。レイはそう言いたかった。が、しかし、今そんな風に彼女を引きとめられる立場ではないと自分でも分かっていた。ここに残ったとして、一体なにをどうするというのだ。ましてや自分に何ができるというのだろう。彼女を愛しむ気持ちは芽生えつつあるものの、それを表だって言えるような状況ではない。レイは自分の中にある分別というもの、体面というものが憎らしかった。


 レイの気持ちが夏には通じたのだろう。夏はひっそりと笑って頭を振り、言った。


「大丈夫。もう何からも逃げないって決めたから」

「……そう」

「いいの。逃げたところでどうにもならないんだから。本当は分かっていたの。何からも逃げることなんてできないって。彼からも、自分の人生からも」


 二人は見つめあい、痛ましいような微笑を交わした。


 夏の言葉は心からのものだった。強がりではなく、諦めでもない。ただ素直に、そう思えた。これまで「逃げてきた」事実からも目をそむけたかったけれど、どんな言葉を駆使したところで逃げたことには変わりはないし、また、これも始めから分かっていたことだけれども逃げたって事態は変わらないのだ。傷つくことを恐れるあまりに心に蓋をして、耳を塞いできた。


 練習だけが確かなものであり、自分を救ってくれる。そう、自分を救うことができるのは自分だけなのだ。夏はレイに「ありがとう」と言った。レイは軽く頷くと夏の肩をぽんと叩いた。


 ダニエルにはそれがなんのことだか分らなかったが、子供ではないので夏と父親の間に漂う空気には気がついていた。二人には男女の何かがあるな、と。が、父親を責める気はしなかった。母親が死んだばかりなのにと思いもしたが、ダニエルは父親が夏に惹かれた理由も分かるし、また、そうやって気持ちが慰められるのならそれもいいと思えた。無論これが夏以外の女ならまた違っただろうけれど。


 夏には自分たちと同じ空気がある。ひどく傷ついた者の悲しい魂。それは呼応し、慰め合う。彼女に惹かれない方がおかしいのだ。ダニエルは夏の瞳や髪の色艶を美しいと思い、生真面目な表情の凛とした佇まいには視線を奪われると思った。彼女が自分の魅力を知らないのは、そのまま彼女の純粋さだとも。


 店の中はまだ興奮冷めやらぬ人々が引きも切らずダニエルたちの元へやってくる。もう物思いに囚われている暇はなかった。夏はその場を離れ、エレンにワインのボトルとグラスをもらうとそれを手にして部屋へ続く階段を上って行った。


 夏はこの期に及んでまだ迷う理由はマエストロに叱られるのが怖かったせいだった。黙って家を出てきたのは確かに感情的で軽率だったと我ながら思うから。


 それにしてもまさかマエストロがこんな南部の田舎町へ出向くとは考えもしなかった。彼はプライドの高い男だ。夏は自分がマエストロに愛される前に、彼の女たちを見聞きしてきたが、マエストロが女に熱中することはなかったし、ましてや追いかけるような真似など絶対にしなかった。想像だってできなかった。それが今、ここにいるということ。それは夏をひどく怖気づかせた。


 夏はマエストロと争うことなど到底できないと思っていた。なぜなら、結局彼が夏の夫である以前に尊敬すべき師でもあるからだ。いや、それよりも争うとしても何を争っていいのか分からない。マエストロの浮気だか本気だかを責めるのは簡単なことかもしれないが、夏はそのことを考えると悲しいばかりで怒りや腹立ちはほとんど起こらなかった。


 思い出すのはマエストロが自分をいかに愛してくれたかだけだった。彼のミューズとしてちやほやされ、注目を浴び、ピアノを弾くことよりも彼の仕事を手助けすることに力を注ぎ、満足していた。彼の妻としてできることは全部したと思う。そういった意味では夏自身は結婚生活において自分に後悔はないと言えた。あるとすればピアノを弾かなくなったことだけで、けれどそれと夫婦の生活は直接関係がないので、やはり妻としての自分をやりきった感があった。


 弁護士を伴ってきた理由はおおよそ想像がつく。離婚と、慰謝料や財産分与についてだろう。この国の離婚はとにかく裁判で何もかもをきっちり白黒つけなければならない。皿一枚から1セント玉にいたるまで所有権をはっきりさせるのだ。夏が別にそんなことしなくてもいいと思っても、そうはいかない。結婚の際に交わす誓いや口づけが婚姻の儀式なら、離婚に関する膨大な手続きは離別の儀式と言える。


 夏は何も惜しいとも欲しいとも思わなかった。高級アパートメントも、高価なドレスも宝石も全部置いていってかまわない。それらは自分には必要のないものになったのだ。マエストロに夏が必要なくなったように。


 夏は大きく溜息をつき、それから意を決してドアを開けた。マエストロは窓辺に腰掛け、ランタンに浮かぶ庭のバラを見下ろしているらしかった。階下からはまだ賑やかな人々の話声や笑い声が漏れ聞こえてくる。あたかも音楽のように。


「ワインでいい?」


 夏は答えを待たずに白ワインのスリングキャップを捻った。テーブルに置いたグラスにワインを注ぐ時、緊張のあまり手が震えた。


「見事なバラだな」


 マエストロが口を開いた。


「ええ。ここはサラが教えてくれたの。食事が美味しくて、素晴らしいって」

「サラ・コナーズは南部の出身だったな」

「そう。ここが彼女の故郷」


 夏は立ったままグラスを掴み、気持ちを落ち着けようと口をつけた。冷たく、華やかな香りのする液体が咽喉をするすると流れ落ちて行く。グラスに真っ赤な口紅がつく。夏はマエストロの前でこんな風に装っていることがひどくみじめなことに思えた。


「いい演奏だったな」

「……黙っていなくなったのは悪かったと思ってるわ。でも、あのまま家にいることはできなかったのよ」

「別に責めてるわけじゃないよ。ただ、君のピアノを久しぶりに聴いたからね」


 マエストロは窓辺を離れてワイングラスを取り上げると、ベッドに腰をおろした。


 ウィリアム・グレイン。彼は自分が音楽の世界で成功したと言えるであろうことを自覚していたが、夫としては決して「優秀」であるとは言えなかった。


 目の前でこちらの顔色を窺い全身で緊張している夏を見出した時のことを、ウィリアムは思い出していた。そもそも短期間とはいえ大学で教えるという仕事を引き受けたのは、自分の恩師に頼まれたからだった。高齢となり体調を崩した師の代打にすぎなかった。もちろん代役だからといって手を抜くようなことをするつもりはなかった。が、自分はそもそも教師ではないという気持ちもあるには、あった。教え導く術など持たない、と。しかし才能を見分けることはできるという自負はあった。ウィリアムは自分のもとへやってくる学生達に徹底的に厳しく立ち向かった。かつて自分がそうであったように、音楽に対し真剣に研鑽し、また、不屈の闘志を持っているものがチャンスを得るから。結果としてマエストロ・グレインは鬼だと学生達から言われ、恐れられた。


 ウィリアムは無論そんなことは歯牙にもかけなかった。山のような課題を出し、実際に演奏させ、これでもかと言わんばかりにけなしつけ、彼らの持つ技量を上回る要求をした。それが自分にできる最大の「指導」だと思ったのだ。


 その厳しさに泣きだす学生もいた。逃げだす者も。ウィリアムは夢を抱く若者達の軟弱さを笑い、同時にそれも若さ故だろうと許した。自分だって学生の頃は同じだったのだから。


 才能を求め、あがき、ひたすらに走り続けた日々は今も懐かしく思い出すことができる。成功した今では誰も想像だにしないだろう。マエストロ・グレインが学生時代は場末のバーでピアノを弾き、ジャズクラブのセッションでは古参のバンドメンバーに舌打ちされ、オーディションでは洟もひっかけられずにいたなんて。オリジナルの楽曲にブーイングをくらっていたなんて。貧乏で、いくつもバイトをかけもちし、それでも音楽への情熱だけは失わずにきた。諦めようとは一度も思わなかった。愚かで、愛おしい日々。


 だからこそ、ウィリアムは学生達に同じものを求めていた。世の中はもっと厳しいのだ。こんな程度のことでついてこれないなら、初めから夢など語るべきではないのだ。


 そんな中、あまたの学生達の中で唯一、泣きごと一つ洩らさずに課題をこなし、けなされても叱られても休むことなく、ウィリアムの要求に応えられるまで何度でもトライし続ける不屈の精神の持ち主がいた。


 ナツ・ワタナベ。アジアからやってきた留学生。小柄で瘠せていて、黒い瞳と黒髪が印象的だった夏は、ウィリアムがどんなに罵倒しても唇を噛んで耐え、次のレッスンまでには修正してきて、ウィリアムの望むピアノを弾いた。


 彼女が授業のない日でも個人レッスンの為にスタジオを押さえ、一日中練習しているというのは耳に入っていた。寮でも勉強ばかりしているし、楽譜を睨みっぱなしで学生にありがちな夜遊びだのはほとんどしないのだということも、他の学生達から伝え聞いた。


 ウィリアムのレッスンが鬼と恐れられるのと同様に、夏のピアノにかける情熱とたゆまぬ努力もまた「狂気」と言われていた。必死の形相でマエストロのレッスンを受ける、ちっぽけな小娘。ウィリアムは夏の頑なな姿勢と、思いのほか力強いピアノに一目を置くようになっていた。


 その頃のウィリアムにはニューヨークで活躍するモデルの恋人がいた。音楽とは無縁の恋人だ。ウィリアムの作りだす音楽を聴くことを専門とし、自身は「仕事」でもある肌の手入れと永遠のダイエット、ファッション誌の要求に応えられる表情やポージング、ランウェイを歩く為のトレーニングのみにおいて真剣な恋人。もちろんその成果があって十分に美しい恋人だった。


 成功者の自分。裕福な暮らし。地位と名声。美しい恋人。ウィリアムは、もはや自分はなんでも持っていると思った。しかし、まだ未熟な多くの学生達と対峙していくうちに、自分のキャリアに言いようのない不安を覚えるようになったのもまた事実だった。


 新しい才能に怯えるとか、そういうことではない。そんなものを恐れていては何もできない。新たに世に出る者が現れた時、自分が必要のない人間になっているとしたらそれまでというだけのことだ。ウィリアムが焦燥を覚えるのは、夏を見ている時だ。この小娘は自分と同類だ。この小娘の姿はかつての自分だ。泣き顔を見せないで、ひたすら自分の夢を追う姿。ピアノさえ弾いていられればそれでいいのだという、無欲で、情熱に満ちた眼差し。そう、夏の姿はひたすらに純粋で、ウィリアムはかつての自分と重なる部分があると思いつつも、もはや自分はその頃には戻れないのだとひしひしと感じさせられた。


 不思議なもので、自分はなんでも持っているはずなのに、夏を見ていると実際には成功を手に入れるために「引き換えにした」ものや「失った」ものがあると思わされる。次第にウィリアムは夏に対して、ある種の羨望を抱くようになった。彼女は持っている。自分が失ったものを。即ち純粋さを。


「ウィリアム?」


 どのぐらいそうしていただろう。夏にとって沈黙は永遠のように長く感じられ、マエストロの顔を覗き込んだ。


 今目の前にいる妻は、もうあの頃の小娘ではなく、一人の大人の女性になっている。女優やモデルのようではないけれど、独特の魅力を持った美しい女性だと思う。しかし、もう夏にはかつてのようなひたむきな眼差しはない。ウィリアムは、それが自分のせいだというのもとうから理解していた。


「今日のピアノは君のアレンジ?」

「……ええ、まあ……」


 夏はこんな場面でもピアノのことを何か意見し、指導しようとするのかと愕然とした。今、それ、重要なの? と言いたかった。が、言えなかったのは、夏はマエストロの前でことピアノに関してだけは絶対に師弟関係を覆すことができないからだった。二人の間にピアノがあるということは、二人の距離は永遠に縮まらないということなのだ。夏はこの際こんな場面でピアノを持ち出してほしくはなかった。それだけでもう彼との夫婦関係が決して対等ではないと思わされるから。


 確かに自分たち夫婦は対等ではないかもしれない。そもそもの始まりからして。けれど、対等ではないことで相手に対する尊敬を持ち続けたのも事実だ。


「長く弾いてなかったのに、あれだけやれるなんてさすがだな」

「ウィリアム」

 夏はマエストロの言葉を遮るように口をはさんだ。

「私のピアノの話はやめて。私に才能がないのは分かってるし、ずっと練習してなかったから、あなたの耳に耐えるような演奏はできなかったのも分かってるわ。嫌味はやめて。それよりも他に話すことがあるでしょう」

「嫌味なんて言ってないよ。僕は音楽に関して嘘や嫌味や媚の介入することを一切許していない。それは君が一番よく知っているはずだ」

「……ねえ、ウィリアム。あなたがここへ来た理由はなんなの」

「……」

「弁護士まで連れてきて」

「それは彼がどうしてもついて行くと言うから」

「彼がなぜそう言うのか分かってるんでしょう」

「……君が家を出て行ったことの責任は、僕にあると思っているよ」

「……」


 ああ。とうとうこの瞬間を迎える時がきた。夏はワインを注ぎ足した。もう嘘をついたり、つかれたりするのはやめて、真実を白日の下に晒さなければいけない。夏は胸の内で呟く。ずいぶん遠くまで来てしまった、と。


 夏が決定的な言葉を、結論を覚悟しているのに対し、ウィリアムはまだ幾分逡巡を続けていた。


 ウィリアムに新しい恋人ができたのはもはや隠しようもないことだった。それを最も残虐な形で夏に知らせてしまったのは、我ながらひどいと思う。


 夏を愛していないわけではない。愛し始めた時のことを思えば、彼女に対する憧れは今も忘れえない。けれど。


「浮気していたことは認める。でも、誰も君の代わりになることはできない」

「彼女、新しいあなたのミューズだって、もう噂になりはじめてるわね」

「……それは僕にとって事実ではない。彼女は少なくとも君のように僕を刺激したりはしない」

「そうでもないんじゃない? 彼女の為にコンチェルトを書き下ろすとかいうのも聞いたわ」

「嘘だよ。ナツ、君が言わんとしていることは分かってる。けど、彼女とはもう終わる」

「終わる? 終わって、また、誰か違う人を?」

「……そんなことしないと言っても、君はもう僕を信用しないだろう?」

「……そうね……。いいえ、もしかしたら、私は初めから信用してなかったのかもしれない。だって、私、結婚前のあなたを知っているもの」

「そう言われると言葉もないよ」

「けど、信じたい気持ちはあったんだと思う」


 ウィリアムはグラスに口をつけ、窓の外に目を向けた。自分にとって夏は「憧れ」であり、世間がさんざん話題にしたように確かにミューズだった。彼女に恋をしたのは、自分の方だった。が、心のどこかでいつも思っていた。夏は自分よりもピアノを愛しているのではないか、と。


 師弟関係を暗黙のうちに解消してしまったことも、それが本当に正しかったのかという不安が常につきまとった。マエストロ・グレインの妻という肩書は夏から挑戦する機会を奪ったも同然だった。セッションに出たり、伴奏をしたり、オーディションを受けたり。それらのチャンスの前にマエストロの妻という立場は公平さを欠いたし、夏を不自由にした。


 夏が少しずつピアノから離れていき、その分だけ自分との距離が縮まると思えばウィリアムは嬉しかったが、やはり夏からピアノを取り上げたのだと思わずにはおけなかった。この恋は、成就させるべきではなかったのだ。夏の為にも。


 しかし、夏自身はピアノを続けるだけの気概をなくしたことを夫のせいにしたりはしていなかった。考えもしなかったことだ。夏の心に重く圧しかかっていたのはマエストロから認められたことのない、才能のなさだけだった。


 部屋の明かりがグラスの金色の液体の中に浮かぶようにして光っている。夏はそっとグラスをゆする。光がさざめく。もしも彼が私を認めてくれていたなら、私は自分を信じることができただろう。彼を信じる以上に、自分を信じ、自分の道を諦めたりはしなかっただろう。それは言い訳だろうか? いいや、違う。現実を生きる上で手放さなければならないものは必ずあるのだ。自分にとってそれがピアノだったのだ。では、一体なにをこんなにも苦しまなければいけないのかというと、その原因はやはりピアノに関して「やるだけやった」と言うことができないからだった。


「私、あなたを愛していたわ。過去形で言うのはおかしいわね。私はずっとあなたを尊敬し、愛してきた。……ああ、もう、どうしても過去形になってしまうわね」


 夏は困ったように微かに笑った。それはウィリアムには泣き出す寸前の顔に見えた。


「僕はピアノを弾く君が好きだった。どんな厳しいレッスンにも食らいついてくる君の情熱を尊敬していた。君が僕のミューズなのは、君の情熱に憧れていたからだ。君が弾かなくなったことに、僕は責任を感じている。もっと君を自由にしておくべきだった」

「それはあなたのせいではないわ。私に、マエストロの妻という立場に相応しいだけの才能がなかっただけよ」

「才能?」


 ウィリアムは頓狂な声をあげた。立ち上がり、夏の前に胸が触れそうなほどに近くに寄る。夏はみじろぎもせず、ウィリアムを見上げた。赤く塗られた唇は固く引き結ばれ、そこにはかつてクールだと称された、あの虚勢を張るような緊張した表情があった。


「今日集まっていた観客たちに聴く耳がないと思っているのか?」


 夏は無言でウィリアムを見つめている。細い顎先をウィリアムの手が捕らえたかと思うと、思いがけない乱暴な力で夏の顔を揺すぶった。


「聴衆は馬鹿じゃない」


 ウィリアムはほとんど吐き捨てるように言うと、今度は夏の手首を掴み、引きずるようにして窓を大きく開いた。階下の明るいざわめきと、マリーの好む古いジャズが庭に流れ出している。


 夏は掴まれた手首が痛かったが、されるがままになって窓辺に体を押しつけられていた。


「君は私に才能があると思っているかもしれないが、それを誰が決めると思う? 一体誰が証明してくれる? 観客だ! 観客だけが、才能を信じさせてくれる! 私じゃない。君自身でもない。自惚れるな! 彼らこそが、君の才能を知っているんだ!」


 こんな風に激しく声を荒げるウィリアムを見るのは初めてだった。夏は一瞬殴られるのかとひやりとした。が、奇妙な懐かしさが同時にこみあげてきて窓から身を乗り出すようにして外気を浴び、かすかな風に頬がなぶられるのを清々しく思った。


 日頃感情的にならないウィリアムが激昂するのは、レッスンの場だけだ。そして自分はそれをいやというほど見てきた。むしろ罵倒と激昂が思い出といっていいほどに。


 夏の目から涙が溢れ、頬をつたったかと思うとそのままぽたりと庭へ落下した。

「離婚しましょう」

 その言葉は自分でも驚くほど静かに、まるで器から水が溢れ出るようにこぼれた。


 夏は頭を垂れた姿勢で窓からぽたぽたと涙を落としながら、それでも淡々と言葉を継いだ。


「財産分与も、慰謝料もいらない。もちろん裁判を起こしたりもしない。私はなにも欲しくない」


 ウィリアムは驚いて掴んでいた夏の手を今度は自分の方へと引き寄せた。糸の切れた人形のように夏の体は軽々とウィリアムの体にぶつかった。


「待ってくれ」


 焦ったのはウィリアムだった。自分のしたことを考えたら離婚話が浮上するのは当然だし、そう言われても仕方がないのは十分承知していた。が、心のどこかでタカを括っていたのだ。夏との結婚生活に不安を抱きつつも、彼女があのマエストロ・グレインの妻という立場をやすやすと手放すとは思えないと。その程度には自分の地位は有効な力を持っていると思っていたのだ。


「待ってくれ」


 ウィリアムはもう一度言った。

「僕が悪かった。考えなおしてほしい。さっきも言ったけど、君の代わりは誰にもできない。僕は今も君を愛している」

「あなたを嫌いになったわけではないの。今も愛しているし、尊敬しているわ。でもね」

「でも?」

「……もう、続けていくことができないのよ」

「そんなこと言わずに、もう一度チャンスをくれないか。愛してるんだ。本当に」


 ウィリアムの言葉は真実だった。浮気の事実はさておき、夏を愛していることに嘘はない。彼女を失いたくないのも本当だ。ウィリアムは夏を強く抱きしめた。


 夏はその腕の中でもがくように何度も頭を振った。きちんとまとめた髪がばらばらとほつれていく。


「僕は君を連れ戻しに来たんだ。別れたくない」

「やめて。放して」


 次第に二人は攻撃と防御のような様相で、ウィリアムは夏を離すまいと力をこめ、夏はウィリアムから逃れようと暴れ、窓にぶつかり、テーブルにぶつかりしながら声を荒げるのを止めることができず争う格好になっていった。


「もう他の女と会ったりしない。約束する」

「そんな約束に意味なんてないわ。あなたにとって婚姻の誓いに意味がなかったのと同じことよ」

「感情的になるのはよそう。落ち着いて、考えなおしてくれ」

「私は冷静よ。もうずっと前から冷静だわ。放して。痛いわ」

「いや、放さない。絶対に。離婚なんてしない」


 ウィリアムが言い放ち、一層強く力をこめて夏を引き寄せようとした瞬間、それを拒もうとする夏の脚がテーブルにぶつかりワイングラスが床に落ち、甲高い音を立てて割れた。


 夏はその音に弾かれたように、叫んだ。


「やめて! 私はピアノを弾きたいのよ!!」


 それは自分でも思いがけない、魂の咆哮だった。口にして夏ははっとして、ウィリアムを見た。ウィリアムは弾丸となって放たれた夏の言葉を受け、唖然としていた。


 ウィリアムの手を逃れた夏はそのままの勢いで椅子にぶつかり、それがまた大きな音を立ててひっくり返った。


「マエストロ・グレインの妻という肩書がなければ私にはなんの価値もないかもしれない。でも、私は、他の誰でもない私自身をもう一度やり直したいのよ」


 床に飛び散ったガラスの欠片に目を落とす。ワインの芳香が部屋中に満ちていく。夏はもう泣いてはいなかった。


 完璧に装った化粧は今や無残なありさまで、髪も乱れていたが、興奮に上気する頬や瞳は夏の持っている美しさの本質を表わしていた。それは精神の強さが醸し出す美しさだ。ウィリアムはここ数年一度も見ることのなくなっていた、妻の情熱的な瞳を久しぶりに目の当たりにし、こみあげてくる感情にもう一度夏に手を伸ばそうとした。


 が、それをさせなかったのは扉を無遠慮なまでに強く叩く音だった。二人は驚くと共に我に返り、ぴたりと動きを止めドアへ視線を向けた。


「ナツ? 大丈夫か? ナツ、開けて」


 声の主はダニエルだった。夏はウィリアムの顔を見た。ウィリアムの険しい表情は「開けるな」と言っているのが分かったが、夏は分かるからこそそれを振り切るようにさっと扉へ歩み寄った。


「ナツ、開けるな」


 ウィリアムが止めるのも無視して、夏は扉を開けた。そこにはダニエルが心配そうな顔で立っていた。


「ナツ、今の音は? ケガはない?」

「大丈夫よ」


 ダニエルは室内の荒れた様子を見逃さなかった。マエストロ・グレインは難しい顔で部屋の中央に立っていて、こちらにはちらとも視線を向けなかった。


「大きな音がしたから」

「ああ、うるさくしてごめんなさい。なんでもないのよ」

「なんでもないわけないだろう」


 確かになんでもないわけは、ないのだ。けれど、夏はウィリアム・グレインの立場を考えるとこの状況を世間に洩らすわけにはいかなかった。


「ちょっと酔ってグラスが割れちゃっただけ。本当になんでもないのよ」

「……ナツ、それを信じるほど僕は馬鹿じゃないつもりだけど」


 ダニエルは半開きだったドアを大きく開けると、夏を押しのけるようにして自分の体を部屋の中へ差し入れた。ダニエルの肩や背中からは緊張が漂い、表情は真剣そのもので夏の制止などなんの意味もないのが、声をかける前からびりびりと伝わってきた。


 男女のトラブルから犯罪になるケースがこの国にはどれほど多いことか。トラブルがあれば近隣住人が警察を呼ぶことだってあるだろう。ダニエルが立ち入るのもそのせいだと夏は思った。


 しかし、ダニエルはそんな当たり前の、習慣めいた行動でそうしたのではなかった。夏をマエストロから引き離したかった。階下で夏が夫であるマエストロ・グレインと相まみえた時の表情の変化。あれは決して幸福な夫婦のそれではなかった。ダニエルの中で、夏がこんな片田舎へたった一人でやってきた理由や傷ついた暗い瞳が符号しはじめていた。


「マエストロ、プライベートなことなんでしょうけども……」


 ダニエルは無言で立っているマエストロ・グレインに向って言った。


「彼女を傷つけるのはやめてください」

「君には関係のないことだろう」


 ウィリアムはその時初めて微かに笑みを浮かべた。それは皮肉と、まだ無名の若者を嘲るような見下した笑いだった。夏はそれを目にした瞬間、これまでのどんな時よりも傷つく自分をはっきりと自覚した。


 今やダニエルは自分にとって言葉を尽さずとも分かりあえるような、魂の触れあうことのできる貴重な友人のようだった。それを、確かにマエストロ・グレインにしてみれば取るに足らない者かもしれないけれど、冷たい視線を向けられるのは耐えられなかった。


「確かに関係のないことかもしれません。でも、彼女が傷ついた顔でここへ辿り着いたことを無視することはできませんから」

「君はナツとどういう関係? たまたま知り合ってセッションをしただけだろう?」

「そうです。偶然会っただけだ。でも、あなただって音楽家だ。分かるでしょう。セッションをすることのできる間だからこそ、心が通じることってある」

「だとしても、夫婦の問題に立ち入ってほしくはないね」


 ダニエルにとってウィリアム・グレインは雲の上の人だった。それを前にして喧嘩腰で立ち向かうことになるなんて、想像もしなかった。


 もう夜遅く、庭に灯されていたランタンの火が消され、階下のざわめきも帰路につく人々の残すエンジン音と共に次第に静かになっていく。夜が深まるほど、庭のバラが匂いたつ。


「ナツ、君の友人に帰ってもらってくれ。何も問題はないんだから」


 ウィリアムはこれ以上の問答はうっとうしいといわんばかりに顔をそむけ、ベッドの端に腰をおろした。


 ウィリアムは高をくくっていた。夏が自分の命に逆らったことなど一度としてない。学生の時はもちろん、結婚してからも。従順な姿勢は日本人の国民性かと思うほど、夏はマエストロに異議を唱えることがなかった。だから、今の言葉にも夏が従うと信じて疑わなかった。


 しかし、実際に夏がとった行動はウィアムの考えていたものとはまるで違っていた。夏はウィリアムに向きなおると、固く拳を握りしめ、奥歯で言葉を噛みくだくようにして言った。


「問題がないと思っているのは、あなただけだわ」

「ナツ、さっきも言っただろう。君を愛していることに変わりはないんだから」

「愛してるって意味が私には分らないわ!」


 それは横にいたダニエルも一瞬どきっとするような、意外なほど力強い攻撃的な叫びだった。


 ダニエルは夏がマエストロに殴りかかったりはしないかと心配になり、戦闘体制の猫のように肩を怒らせている夏を制するように背中に手を触れた。


 夏はもう自分を止めることができなかった。我慢できなかった。もうずっと我慢してきたのだ。ピアノに向き合うことをやめ、心に蓋をして、ただ夫であるマエストロ・グレインにつき従ってきた日々は夏にとっての「幸福な結婚生活」ではなかった。それではいったい自分の幸せはどこにあったのかというと、それは単純なことだ。たった一つ、大事なもの。それさえ守られていたなら、夏は幸福な妻でいられた。


「あなたが昔のように私を愛さなくなったのを、無視することはできないわ。あなたが私を愛しているというのなら、教えて。どうして私を抱かなくなったのか。私ではない他の女を抱くのか。惰性でするキスもセックスも、そんなのは愛ではないわ。あなたが忘れても私は忘れない。あなた、情熱的だったわね? 私はあなたに恋されていると思うと、あなたから求められていると思うとそれだけで幸せだった。でも、もう違うわ。あなたは私をそんな風には見ていないもの。あなたは手に入れたものにはもう興味がないのよ」


 ウィリアムは夏の剣幕にあっけにとられていた。ひたむきでおとなしやかだと思っていた妻の言葉とは到底思えなかった。


 愛さなくなったのではない。愛を失ったわけでもない。ウィリアムは自分という人間に致命的な欠陥があると思った。浮気な性分といえばそれまでかもしれないが、一度手に入れたものに固執し続けるには、自分は良かれ悪しかれクリエイティブすぎる。常に刺激を求め、進取的であるには一人の女では満たされないのかもしれない。言いわけにもならないが、一般的に言うところの結婚という形に自分を当て嵌めることができないのだ。


 夏を自分のものにし、生涯愛すると誓ったのは嘘ではない。でも、同じ情熱を注ぎ続けるには結婚生活というものが平板すぎた。今も彼女を愛しているのも事実だ。しかし、もう、夏に「秘密」を感じないのだ。自分は夏のすべてを手に入れてしまった。あれほど切望した恋の成就は、そのまま恋の終わりだったのだ。そのくせ、一度手にしたものを手放すのが惜しいだなんて。


 ウィリアムはほろ苦い顔でひっそりと片頬を歪めた。夏はそれを見逃さなかった。


「離婚しましょう。もし、今もあなたが私を愛しているというのなら、私の為に離婚してほしいの。私は……人生をやり直したい……」

「離婚して、それからどうするっていうんだ」

「……分からないわ」


 帰る場所はもうないのだ。夏はこの旅の間に何度も呟いた言葉を、再び胸の中で唱える。ずいぶん遠くへ来てしまった。


 夏のそばに控えていたダニエルが、夏の体を捕まえるように抱き寄せた。


「ピアノを弾きます」


 答えたのはダニエルだった。


「えっ」


 夏はダニエルを見上げた。ダニエルはまっすぐにマエストロを見据え、言った。


「夏はまたピアノを弾く。彼女は素晴らしい才能を持っている。それはあなたが一番知っているはずでしょう。彼女を埋もれさせていたのはあなたのエゴだ。でも、これからは違う。彼女はピアノを弾くんだ。……僕と一緒に、夢をかなえるんだ」

「ダニエル……」

「いいだろう? 僕らはうまくやっていけるよ。僕には君の痛みが分かる。必要とされたい。認められたい気持ちが。僕は知っているよ。君は失うということを知っている人だ。だから君は僕らの気持ちが分かるんだろう。ナツ、一緒に人生をやり直そう」


 ダニエルはマエストロから夏を奪おうという気持ちで言っているのではなかった。夏の才能が惜しかったし、夏の不幸が悲しかったのだ。


 生意気な言い方だったかもしれない。相手はあのマエストロ・グレインだ。けれど、このゲストハウスの一室で、今、彼はただの男であり、夏も一人の女だった。ダニエルはゲイである自分は絶対にその性的嗜好を変えることはないと信じていたし、実際そうなのだけれど、この時夏に対して恋に似た感情を覚えていた。夏の才能への憧れとも言えるかもしれない感情だった。


「私がそれに応じるとでも思っているのか?」

「彼女は物じゃないんだ。あとは彼女が決めることでしょう」

「それじゃあ君はナツのピアノで、今夜みたいなセッションをやるつもりなのか? ナツのピアノと君の歌で、この世界で勝負しようっていうのか?」


 ウィリアムはいらいらしていた。目の前の、若い、荒削りな才能に。かつて自分もそうであったはずなのに、今は失ってしまった青臭い情熱。世界が可能性に満ちていると信じていた頃。自分もこんな風な目をしていた。そして初めに焦がれた夏の魅力こそが、夢にかける情熱的な姿勢だった。それを今、自分から奪おうとする者がいるということが我慢ならなかった。夏に最初に目をつけたのは自分だという自負心が頭をもたげ、しかし、今まさに手の中から飛び去ろうとするミューズに、ウィリアムは呪いたくなるほどの怒りと憎悪を感じていた。


「そんなことはさせない。絶対に。離婚なんてしないし、彼女は渡さない。君に何が分かる。ナツにピアノを教えたのは私だ。彼女は私だけのものだ。それに、君がナツを利用しようとしているのを止めないわけにはいかないな」


「利用ですって?」


 ダニエルはあまりの言われようにあっけにとられた。


「ああ、そうだろう。僕の妻であるナツとコンビを組むことでショービズ界にコネで入ろうなんて、厚かましいにもほどがある。君は自分の成功のためにナツを利用しようとしているんだろう。冗談じゃない。ナツをそんな奴と組ませるわけにはいかない。君が言うように、ナツには才能がある。それは君と釣り合うようなものじゃない」

「やめて!」


 夏が怒鳴った。瞳が怒りに燃え、拳を固く握りしめていた。


「もうこれ以上話したくない! なんでそんなひどいことが言えるの? あなたを嫌いになりたくないのに!」

「ナツ、彼が君を利用しようとしているのがどうして分からないんだ」

「やめてってば! もう帰って! タクシーを呼んでもらえばいいわ。それともターナーを呼ぶ? 」

「帰らない。君が騙されるのを黙って見てることなんてできるもんか」


 次の瞬間、夏はダニエルの腕を振りほどいたかと思うと夏はウィリアムに駆け寄り、彼の横っつらを殴りつけた。


 ダニエルが慌てて夏を再び捕まえた。夏は激情のあまり肩で息をし、言葉もでなかった。


 驚いたのはウィリアムで、自分の優秀で従順な生徒だった夏が、妻となってからはひたすら自分につき従ってきた夏がまさか手をあげるなんて。


「よせ、ナツ。暴力は君にとって不利だ。相手が誰だか分かってるだろ」

「分ってるわよ! ウィリアム・グレイン! マエストロ・グレイン! 世界的な音楽家で、最低の女ったらしよ!」


 夏はダニエルの腕の中で喚いた。


 この騒動が階下に漏れないはずがなかった。一連の騒動を聞きつけたマリーが階段をきしませ、二階へあがってきた。


 マリーはかつてこのゲストハウスがいつでも満室の全盛を誇った時代に遭遇した、いくつものトラブルを思い出していた。不倫の末の逃避行もあれば、痴情のもつれも、自殺未遂でさえ目撃してきた。夫のジェイミーと二人でそれらに対処し、最終的にはいつも事を収めてきた。今では見る影もなくすっかり太って、年をとった体でマリーは夏の部屋の前に立つとノックもせず、いきなり合鍵を取り出した。


 プライバシーなどクソくらえだ。暴力沙汰になったり、怪我人が出る前に止めるのも自分の仕事だ。昔は夫の仕事だったけれど。


「なんの騒ぎなの? あんた達、声が大きいよ!」


 マリーは部屋に入ると瞬時に室内の様子を見渡し、三人の表情を素早く確認した。最悪の事態というわけところまではいってないらしい。それを確認すると幾分ほっとし、暴れる犬を押さえるようにダニエルに捕まえられているナツに歩み寄った。


「酔ってるの? どうしたっていうの。化粧も髪も台無しじゃないか」


 マリーはナツが興奮状態にあるのを承知でわざと気安い物言いで、ナツの乱れた髪をかきあげてやった。


「マリー、店はもう終わったのかい?」

「ああ、もう閉店だよ。もう遅いからね。ダニエル、あんたももう寝る時間だよ」

「子供扱いはよしてくれよ」


 ダニエルはむっとした顔で反論した。が、マリーはそんなものは無視してマエストロ・グレインに向きなおった。


 マリーは彼が著名な音楽家であるのもちゃんと知っていた。ジェイミーとレイが二人してデビューした頃のウィリアム・グレインを褒めそやしていたことも覚えている。しかし、ここに来た以上マリーは彼を特別扱いするつもりはなかった。ここに来れば客はみな、同じ「客」にすぎない。辿り着いた者に等しい安らぎを。それがジェイミーと作り上げたゲストハウスだ。だから敢えてマリーは太った腰に両手を当て、困ったように頭をふりふり、マエストロ・グレインを知らぬ体で言った。


「宿泊者以外は部屋に泊めないのがルールなんだけどね」

「……それでは、もう一名追加を……」

 マエストロが口ごもる。


「急には駄目よ。だってこの部屋はシングルだもの。ツインやダブルの部屋は急には用意できないよ。悪いんだけど、うちは予約がないと引き受けないのよ」


 異様な空間だった。荒れた空気の中、ささくれた三人。それを全部ひっさらって、まとめて窓から放り出すかのようなマリーの冷静な態度。まともな精神の持ち主なら到底反論などできはしない、正当な言い分。


 夏はマリーに泣きながら縋りつきたい衝動に駆られた。幼い子供が母親に泣きつくように。実際、マリーの頼もしい様子は母親のそれを思わせるものがあった。夏は久し振りに、心から「帰りたい」と思った。日本へ。即ち、家へ。


「夫婦喧嘩なら帰ってからやってちょうだい。冷静になってからね。こんなところまで来てご苦労だったけど、女ってのは追えば逃げるもんよ。ここで暴力沙汰はごめんだよ。何かトラブルを起こそうっていうならすぐに警察を呼ぶからね。それじゃあ、あんたが困るだろ?」


 マリーはわざとそうするのだろう気安い態度でマエストロの胸をぽんと叩いた。それが無礼だと思わせない押し出しの強さが、マリーにはあった。経験がそうさせるのだろう。悲しみも憎しみも、愛することも、知っていればこそできる技だった。


 ウィリアムはすっかり気勢を削がれ、大きく溜息をついた。張りつめた風船の空気が一息に抜けるような、そんなため息。夏はまだダニエルに捕まえられたままだったが、もうマエストロを殴ろうという気はなかった。むしろ、マエストロに初めて楯ついて、しかも手をあげたということが我ながら信じられなかった。なんてことをしでかしたんだろう。今さらながら動揺し、胸が震える。が、不思議と後悔はなかった。むしろ気持ちは澄んで、昂ぶりはまるで聴衆の前に出る寸前の緊張と高揚にも似ていた。期待と不安の入り混じった気持ちだ。しくじったらどうしようという心配と、いい演奏ができるし、しなければならないのだと自分自身を勇気づけてステージへ出て行く時の、あの感覚。新しい人生に踏み出すような感覚だ。


「ホリデイ・インまでエレンに送るように言うから」


 マリーはおもむろにダニエルの手から夏を解放し、一瞬肩をぎゅっと抱き寄せた。夏はそのささやかな抱擁に涙を絞り出されるような気がして、鼻の奥が痛んだ。


「……お騒がせしました。申し訳ない」


 ウィリアムはようやく言葉を思い出したように、連れだって部屋を出て行くマリーと夏の背中に小さく呟いた。


「プライベートなことに口出しするつもりはないのよ。でも、ここは私のうちだからね。悪く思わないでちょうだい」

「……」

「ああ、そうそう、あなたがどう思ってるか知らないけど、ナツはいい子よ。素晴らしい才能がある。美人だし、かしこいわ。大事にしないと、他の男にさらわれちゃうわよ」

「……そうですね」


 驚いたことにウィリアムは素直に頷いた。夏はマリーに背中を押されながらも、夫であり師でもあるマエストロ・グレインを振り返った。そこには苦い顔で自嘲気味に微笑むウィリアムが、自分たちの後ろから部屋を出ようとしているところだった。


 夏はあのプライドの高いマエストロ・グレインがこんな風に屈辱的に追い出されるのを、自分のせいでもあるとはいえ、我がことのように悲しく思った。そして見るべきではないと思いすぐにマエストロから視線を逸らした。彼が傷つき、また、傷つけられるのを見てはいけない、と。


 マエストロの威厳を損ねることをしてはいけない。彼のキャリアを傷つけてはいけない。夏はもうずっと長いことそう思っていた。彼を愛しているからというよりは、彼を尊敬しているから。その時点で気付くべきだったのだ。自分たちの恋愛はフェアではなかったことに。無論、愛していなかったわけではないのだけれど、夏にとってマエストロとの関係の間にピアノを置いていたことからどうしても切り離せなかったのだ。


 今、手を放せば自分はすべてを失うのだろう。階下に降りるとマリーは食堂で帰り仕度をしていたエレンを呼んだ。


「エレン、帰りにちょっとホリデイ・インに寄ってくれない?」

 エレンは神妙な面持ちで一同を見渡し、さっきまで派手にやらかしていた階上の物音も合点がいき、

「いいわよ」

 と、すんなりと頷いた。


 マリーはマエストロを仰ぎ見ながら、

「彼女が送ってくれるから、今夜のところはゆっくり休んでちょうだい。心配しなくてもナツを逃がしたりしないから」

 と言った。


「ナツ」

 マエストロが夏の名を呼んだ。夏は長い睫毛を一度ゆっくりと伏せてから、返事をした。


「うん?」

「ニューヨークへ帰ってきてくれるね?」

「……そうね」

「僕が君のピアノを好きだというのは分かってほしい」


 あなたが私のマエストロであることに変りはないわ。夏は心の中で呟く。愛が消え去ってしまっても、ピアノは残るんだもの。厳しいレッスンに耐えたこと、数多の学生の中から見出されたこと、スタジオでの演奏、コンサート、どれもマエストロがいたからこそだ。


 夏はその場に立ち尽くし、マエストロとエレンが出て行くのを見送った。マリーは後ろからついて、玄関を出て見送るらしく、のしのしと彼らの後を歩いて行った。ダニエルは横に立って黙って彼らが去っていくのを見つめていた。


 扉が閉まると夏はほっと溜息をついた。安堵ではなく疲労による重い溜息だった。そして何の気なしに食堂に足を踏み入れ、一番手前のテーブルに腰掛けて、ぎくりとした。食堂のピアノの前に、亡霊にようにレイが立っていてこちらを見ていた。


 驚いた夏は椅子に座りかけたのをぱっと立ち上がり「レイ!」と小さく叫んだ。外からはエレンの車のエンジン音がし、走り去っていくのが分かった。

 遠ざかるエンジン音を聞き届けると、レイは無言でピアノの椅子に腰をおろした。


「父さん、帰ったんじゃなかったの?」


 ダニエルも入ってきて尋ねた。夏はマエストロと乱闘寸前だったのを聞かれたかと思うと、恥ずかしくてたまらなかった。馬鹿げた痴話喧嘩みたいなの、知られたくなかったのだ。少なくともレイには。気恥かしさと苦い気持ちが交錯する。


「ダニエルを待ってたの? ダニエルは家に帰るの?」

「……」

「色々、知られちゃったわね。恥ずかしいわ」


 夏はダニエルにはかろうじて苦笑いを見せたが、レイを直視することはできなかった。


 レイはぽんとひとつ鍵盤を叩き、その響きに耳を澄ませ、今はもう静まり返った食堂の空気を呼吸した。夜が深まり、すべての感情があるべき場所へ帰っていくような気がした。


「父さん、どうかしたの?」


 静寂に耐えかねたのかダニエルが声をかける。こんな風に暗く沈んだ表情を見るのは久し振りだと思った。自分が町を出て行った時にも父親はピアノの前に座り、無言で鍵盤を見つめていた。その時の横顔と同じだった。ダニエルは父親がひどく苦悩し、悲しんでいるのが分かった。妻や息子を亡くしたこともそうだし、今、才能ある女性との束の間の出逢いと別れを前にして成す術もないことも父を苦しめているのだろう。でもそれが分かったからって一体なにができる? ダニエルは秘かに自問する。妻を失ったばかりのところへ現れた、同じ痛みを分け合える人。互いの傷を埋めあうのに時間など必要ないだろう。しかし、夏は若く、父はそれに釣り合うだけの年齢とはいえない。夏がそんなことを気にするとも思えないが、父との恋愛は夏からまたチャンスを奪うことになる。ダニエルは父親が夏を引きとめるなら、自分もまたそれを止めなければならいと思った。


 一方、レイは懐かしい思い出のピアノの前でかつて自分が若かった頃のことを思い出していた。ジェイミーとマリーと三人で過ごしたこと。ジェイミーのピアノ。妻にプロポーズしたのもこの店だった。自分の人生にはいつもピアノがあった。音楽が人生を彩り、慰めてくれた。レイは夏を恋し始めていたが、彼女の才能に対する敬意とそれとどちらが上回るだろうかと考えると、おのずと答えはもう出ているように思った。彼女に慰められたと思ったのは、実は彼女のピアノに慰められていたのだと。


「ナツ、ここへ座って」


 レイは椅子から体をずらし、夏に座るよう促した。


「三人でセッションしようって言っただろう?」

「レイ……」

「父さん……」


 ダニエルと夏は互いの顔を見合わせた。レイは二人の若者を見上げると、そっと微笑んだ。


「私たちは、なにも失ってはいない。妻も息子も私の中にいる。ダニエル、お前がどこで何をしていても愛していることに変わりはない。ナツ、君と出会えたことは神様がくれた奇跡だった。感謝しているよ」

「……」

「二人とも、ニューヨークへ帰りなさい」

「……」

「心配いらない。まだ若いんだ。何度だってトライできるさ。人生を恐れてはいけない」


 夏はレイの隣にそっと腰をおろした。レイの体にぴたりと体をつけるようにして、鍵盤に手を乗せる。そして小さく呟いた。


「ありがとう」


 レイと夏のピアノの音が重なって、ゆるやかに流れ出した。その上をしなやかに流れにのるかのようにダニエルの声が響く。三人のセッション。奇跡の調べ。観客は、マエストロを見送ってきて食堂の入口に立っていたマリー一人だった。


 やり直せない人生などない。マリーは胸の中で呟く。傷ついた人々が辿り着く場所がここなら、立ち直って再び歩き出すスタート地点もここなのだ。まだまだ店を閉めるわけにはいかない。マリーは壁にもたれながら、眼を閉じて彼らの音楽に聴き入っていた。


 レイは帰り際に夏とダニエルをそれぞれ抱きしめ、キスをした。彼らは「さよなら」ではなく「おやすみ」と言い合って、その夜を締めくくった。

 夏はマリーズゲストハウスの二階の部屋でバスタブに浸かり、顔にはパックをした。そんな風に自分をケアするのは久し振りだった。そんな気力もなかったことを思うと、この数カ月でうんと年を取って醜くなったような気がしていた。


 でも。夏はふとおかしくなって一人笑う。ここの人たちだけが私を美しいと言ってくれた。見慣れないアジア人だからだろうか。エキゾチックな雰囲気に新鮮な魅力を感じるからかしら。ニューヨークでは誰も私を美しいなどと言いはしない。夏は単純に美しいと言われることが嬉しくて、この町の人たちは素晴らしいわとくすくす笑った。そんな風に笑えるようになるなんて。人生をやり直せると思えるようになるなんて。自分はこんなに遠くまで来てしまったけれど、遠くまで来た甲斐があったのだ。人生には無駄なことなど何もないのだ。たぶん、きっと。


 ダニエルもまた自分の部屋でベッドに腰掛け、早速世界に向けて発信されている自分たちの演奏の動画を見ていた。荒削りで完成度は低い。でも、歌っている自分もピアノを弾く夏もなんて楽しそうなんだろう。そう、楽しかったのだ。こんな気持ちをずっと忘れていた。二人で見交わす眼差しにはいたずらっ子のような気配があり、なにがそんなに嬉しいのかと思うほど明るさに満ちている。子供の頃、父親の伴奏で歌った時、母親も兄も手放しで喜んで、褒めちぎってくれた。特にアレックスは誇りに思うと言ってくれていた。子犬がじゃれるように仲良かった頃。自分たち兄弟は嫉妬も羨望もなく、ただお互いを愛していた。もうずっと忘れていた。兄弟にとって音楽は喜びでり、悲しみであり、すべてだったことを。あの気持ちのままにいられたならよかったのだ。単純なことだ。愛すればいい。許せばいい。奇しくも二人はこの夜に人生におけるそれぞれの真理を見出していた。


 翌朝、夏は鞄に荷物を詰めてから食堂で朝食をとった。手元には電源をいれた携帯電話を置いていた。


 エレンがコーヒーをいれてくれ、夏は今ではすっかり親しいものとなったその薄くて熱いコーヒーをゆったりと飲んだ。


「夕べは悪かったわね。あの人……彼は何か言っていた?」

「いいえ。丁寧にお礼を言われただけ」

「そう……」

「昨晩はこの町が生き返ったみたいだったわ」

「どういうこと?」

「なんの事件も起きない退屈な、死んだような町なのに、あんなにたくさんあちこちから人が来てあなたとダニエルの演奏に熱狂してた。色んな人がネットでこの町を検索して、この場所を探して、関心を持ってくれたんだわ」

「……」

「こんな田舎には若い人や才能のある人は留まっていないから、残るのは年寄りとつまらない平凡な人たちばかりよ。観光地でもないし、後は廃れていくだけの町。そこにあなたは刺激を与えてくれた」

「大袈裟よ」


 夏が困って首を振った。しかしエレンはカウンターの上で夏の手をとると続けた。


「ダニエルとレイが仲直りできてよかったわ。あなたのおかげよ」

「私はなにもしてないわ。本当はあの二人もずっと仲直りしたかったのよ。チャンスがなかっただけ」


 本当にそうだ。きっかけさえつかめればもつれた糸をほぐすのはそう難しいことではないのかもしれない。だって憎み合っていたわけではないのだから。愛する気持ちを覚えていればやり直すことはできる。


 穏やかな顔で朝食をとる夏をエレンは突然現れた天使のようだなと思った。マリーがベーコンエッグの皿を持って厨房から出てくると夏の前に置き、

「どうして今朝は化粧してないの?」

 と尋ねた。


 夏はマフィンとベーコンエッグ、豆の入ったスープというたっぷりした食事を楽しみながら、答えた。


「だってこれがいつもの私だもの」

「昨晩はとっても綺麗だったわ。もっとお洒落しなくちゃダメよ。綺麗でいること、素敵でいることは心を明るくするもの」

「マリー」

「なに?」

「私、ニューヨークへ帰るわ」

「もう? 本当に? そんなに急がなくってもいいのに」


 夏はこくりと頷いた。咄嗟に聞き返したもののマリーには夏がそう言うだろうことが分かっていた。夏の顔からはここへ初めて来た時の暗く悲しい雰囲気は取り払われ、その代り落ち着きに満ちた穏やかな微笑が浮かんでいたから。元気になったのね。マリーは心の中で呟いた。ここへ来たことで彼女が救われたのなら、それは本当によかった、と。


 実際、夏はここへ来て救われていた。でもそれはレイとの出会いや音楽への深い愛情を再確認したことだけが理由ではなかった。マリーの料理。マリーの慈愛に満ちたこの美味しい料理たち。これがなければ夏は到底立ち直ることができなかっただろう。今食べたものが即座に体と心を温め、はっきりと力となって全身にいきわたるようなこんな食事をしていなければ、夏は何をする気力も起きなかっただろうし、誰に目を向ける意力も出なかっただろう。


「マリーのお料理は本当に最高ね。サラが言ってただけのことはあるわ。私、また戻ってくるわ。あなたの料理なしでこの先やっていく自信がないもの」

「嬉しいよ。いつでも戻っておいで。あんたに食べてもらいたい料理がまだ他にもたくさんあるんだから」

「ありがとう、マリー。エレンも、本当にありがとう」


 夏の目の端に食堂の入口に立つターナーが映っていた。


 ターナーはつかつかとカウンターへやって来ると夏の隣に腰掛け、コーヒーを頼んだ。


「おはようございます。ミセス・グレイン」

「おはよう。ずいぶん早いのね。心配しなくても私はどこへも逃げたりしないわ」

「ここの食事が美味しいと聞いたので」

「ええ、最高よ」


 そう言ったけれど、ターナーは飲み物の他になにも注文せず夏の横顔に向って淡々とこれからのことを告げた。


「マエストロとニューヨークへ戻ります」

「……そう。あなたにも面倒をかけたわね。わざわざ出向いてもらって」


 マリーもエレンも彼らの前をそっと離れた。夏は手元の携帯電話に視線を落とした。


「昨晩のあなたの演奏」

「……なに」

「本当に素晴らしかったです。さすがマエストロの秘蔵っ子だけのことはある」

「あなた、知らないの? 彼は私を認めていないのよ」


 夏は頭を振り振り、肩をすくめるジェスチュアをした。


 しかし、ターナーは意外だというように驚いた顔で、

「知らないんですか? マエストロがあなたをボストンから連れて来た時の賛辞を」

「なにそれ……」

「ファビュラス! あなたについてマエストロが話す時「ファビュラス!」を聞かなかった者なんていないんじゃないですか」

「嘘よ」

「嘘じゃありません。嘘ついて何になります。誰に聞いてもいいですよ。私が嘘をついていたら、訴えてくれてもいいですから」

 ターナーはそう言うと初めて笑った。


 ……マエストロが、褒めた……? あれほど欲しいと願った言葉が、すでに与えられていた……?


 マエストロは女を容易に愛し受け入れることはしても、才能と呼ばれる種類のものを安直に容認することはないと他の誰よりも夏は知っていた。でももし本当なら。その言葉を信じることができたなら。夏は柔らかく微笑を浮かべた。いや、もういいのだ。そんな風に世界を疑ってかからなくても。自分が信じたいものを、信じればいいのだ。そうして前に進んでいけばいいのだ。


「もっと早く聞けばよかったわ」

「……私はマエストロの弁護士ですが……」

「分ってる」

「あなたの弁護士でも、あります。そのことを忘れないで下さい」

「……ありがとう。帰ったらすぐ連絡します」


 夏はターナーに右手を差し出した。ターナーはその手を握り返し、やはりマエストロの秘蔵っ子であり、最愛の女性だっただけはあると思った。今までの他の美しいマエストロの恋人たちとまるで違う。自分はマエストロの弁護士で、彼らの離婚問題をこれから進めていかなければならない。が、マエストロに不利益を蒙らせないのと同じように、彼女を不幸にはすまいと思った。願わくば二人が別れないでくれればいいのだが、とも。


 ターナーがマリーズゲストハウスを出て行くと、夏も表へ出た。真っ白なバラが降り注ぐようなポーチを出て敷石を踏む。心の中で呟く。ファビュラス。夏にとっては魔法の呪文ような言葉。


「ナツ!」


 名前を呼ばれて夏は顔をあげて声のした方角を見た。通りの向こうにダニエルがいて大きく手を振っていた。


「ナツ、こっちに来て!」

 ダニエルはもう一度叫んだ。


 夏は陽射に目を細めながら片手をあげ、通りを渡った。南部の熱い太陽と百日紅の影の下、ダニエルは耳に3つもピアスをして笑っていた。


 なんてゲイっぽいの。夏は苦笑いしながらダニエルに近づき、

「おはよう。早起きね」

 と言った。

「もう行くのかい?」

「ええ」

「僕も戻ることにしたんだ」

「本当? いいの?」

「いいんだ。父さんとはまたいつでも会える」

「そう……」


 よかったわね。夏がそう言いかけると、ダニエルは夏の肩に手をまわし自分の体にぴったりと引き寄せた。


「なに? どうしたの?」

「最後に母さんの墓参りをしていくから、つきあってよ」

「……いいわよ」


 ダニエルからはずいぶん女性的な甘い香水の匂いがしていて、これが彼の本来の姿を象徴するものなのだろうと思った。


 夏はダニエルに肩を抱かれながら教会の敷地へ足を踏み入れた。芝生の緑と教会の白い壁が眩しかった。


「昨日の動画のアクセス数、見た?」

「いいえ」

「すごい数になってる」

「あなたの才能よ」


 ダニエルの体に腕をまわして抱き返すと、夏は不意に温かいものが胸に湧き上がるのを感じた。まるで小さな子供を抱きしめるような、愛しい気持ちだった。


 夏は愛しさの分だけ申し訳なさが頭をもたげて、視線を芝生の鮮やかな緑に落としながら言った。


「私、嘘ついてた」

「……」

「ごめんなさい」

「……嘘なんてついてないよ。君は俺と違って、嘘をついたりしてはいない。ただ本当のことを言わなかっただけだ」

「……言えなかったの。言いたくなかったの。誰にも。サラにもずっと黙ってたのよ。私は彼に見出されて、愛されるようになって、セレブリティに仲間入りしたラッキーな女性として注目されたけど、現実はそう甘くはないわ。シンデレラストーリーが永遠に続くのはお伽話の中だけ。夫が他の女の人と火遊びを始めて、私から離れていくのを私は黙って見てた。どうしたらいいか分からなかったのよ。誰に相談したらいいかも分からなかった。だって、そうでしょう? あんなに世間を騒がせたのに、やっぱり捨てられたと思われるのは悔しいじゃない?」


 ダニエルは夏の声が湿り気を帯びるのに感づくと立ち止り、彼女から体を離して細い両肩をがっしりと掴んで向かい合う格好になった。


「それ、サラが聞いたら傷つくだろうね」

「どうして」

「だって、サラは君の友達なのに。友達が悩みを打ち明けてくれなかったなんて、信用されてないみたいだろ」

「……」

「君のこと、心から想ってくれてる人はきっと他にもいるはずだよ」


 目印のハナミズキが見えてきた。


 夏は墓の傍の人影を見るや、思わず立ち止った。そこにはレイが立っていて、墓には新しいバラの花が手向けられていた。


 ダニエルが夏を勇気づけるように肩を叩くと、もはや何からも逃げられないという決意を思い出し夏は再び歩みを進めた。


「どうしてここにいるの?」

「妻と息子の墓にいちゃ悪いのかい?」

「……いいえ」

「ダニエルがニューヨークに戻るっていうし、君にもお別れを言わないといけないしね」


 レイは夏を抱きしめたいのを我慢して、ただ微笑むにとどめたのは妻の墓の前だからというだけではなかった。


 レイは自分が年老いていて夏に相応しい相手ではないのを自覚していた。若さだけでなく、彼女の才能に見合うだけの自分ではないことも。今も見交わす目には恋に似た甘さがあり重く心をからめとろうとするけれど、レイは振り切るように視線を逸らした。


 夏も同じ気持ちだった。年齢差のことも、彼が妻を失ったばかりだということも理由にするなら簡単だけれど、それ以上に夏は今ここに留まってはもう二度とあんな満ち足りた恍惚を連れてくる演奏はできないと思っていた。自分は、自分の人生に落とし前をつけなくてはいけないのだ。捨ててしまったピアノを取り戻さなければ、本当の人生を生きることはできない。夏は拳を握りしめた。


 ダニエルとレイに並んで夏は芝生に膝をつき、そっと両手を組み合わせた。祈るという行為は心に平安をつれてくる。夏は一心に祈った。神に祈るのではなく、ほんの少し前までこの世にいて、今は人々の心にのみ生きる天使となった人に。


 あなたのご主人に手を出してしまったこと、どうか怒らないでください。彼はあなたがいなくて傷ついて、寂しかったんです。私はその隙間をちょっと埋めただけ。許してください。それから、ダニエルのこと、彼はゲイだけど優しくて、素晴らしい才能の持ち主です。あなたはそれを誇りに思っていいと思うわ。彼ら二人ともあなたを愛してる。どうか、安らかに。


 夏があまり熱心に祈っているからレイとダニエルは思わず顔を見合わせた。これではまるで自分たちの方が家族でありながら愛情が不足しているようではないか。


 祈りを捧げた夏は立ち上がり、しっかりと芝生を踏みしめていた。抱きつけば抱き返して貰えるのは分かっている。そしてそれが自分を温かく解放つことも。甘えることを許され、泣くことを許されることがどれほど心地よいか。しかし、夏は誘惑にも似た感傷の中で顔をあげて前を向いていた。


 レイとダニエルは夏の佇まいに圧倒される気持ちだった。もう簡単に触れることはできないと思うほどに。


「さよならは言わなくてもいいのよね?」

「もちろんだよ」

「……じゃあ、また」

「ああ」

「二人とも、ありがとう。あなた達に会えてよかった」


 夏は空を仰ぎ、深く息を吸い込んだ。新鮮な空気で自分の中をいっぱいにするように。


「私、もう行くね」


 レイとダニエルは軽く頷く。もう誰も、何人たりとも彼女を止めることはできないだろうと確信しながら。


 二人を後に残し、夏は歩き出した。太陽は今日もまた頭上に照り輝き、容赦なく降り注ぐ。夏はすでにじんわりと汗ばみながら、この町へ辿り着いた時と同じく、ずいぶん遠くへきてしまったと思った。そしてこれからさらに遠くへ行こうとしている自分に、ひっそりとエールをおくっていた。


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さよならのかわりに 三村小稲 @maki-novel

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