猫と死神(一気読み版)

三村小稲

第1話猫と死神(全編)

あゆむが自転車に乗っていて車と激突し、頭を強打して入院したのは一学期の期末試験の始まる少し前のことだった。


 怪我は右側頭部の強打とこめかみから右頬にかけての大きな擦過傷。打撲と肋骨の骨折などいろいろあり、意識不明は三日間続いた。


 信号のない交差点での出会い頭の事故で、あゆむの体は映画のワンシーンのように空中を吹っ飛びアスファルトに叩きつけられたけれど、その瞬間まで意識ははっきりしていた。


 スローモーションのように世界がゆっくり回転し、車を運転していた男の人の青ざめた表情も、自分の赤い自転車のホイールがひんまがって転がるのも、たまたま犬を散歩させていた通りすがりのおばさんの悲鳴もすべてが鮮明だった。

 あ、死ぬ。あゆむは直感的にそう思った。


 それから救急車が来て病院に担ぎ込まれたわけだが、そこから先の記憶はなかった。まさに空白の三日間である。


 目が覚めるとベッドに寝ていて腕やら鼻やら色んなところから管が突っ込まれ、身動きはとれず、全身がひどい痛みに晒され、頭の中ではヘビメタが熱演しているようだった。


 しかし、それでもあゆむは死ななかったし、数々の検査の結果、頭の中身も「異状なし」ということで二週間後にはもう退院することができた。


 そうして肋骨にはサポーター、顔には仰々しいガーゼを貼り付け「奇跡の生還」を果たして帰宅したあゆむに、飼い猫の板橋が言ったのだった。

「なに、その顔」

 と。


 板橋は東京に就職した姉がその居住区であった板橋区で拾った猫だった。灰色に黒い縞でよく光る丸い目をしていて、鼻先はいつも生意気そうに「ふふん」と笑っているような格好をしていた。


 板橋は東京で姉と二年暮らしたが、姉が結婚し夫の転勤についてアメリカへ行ってしまった為、あゆむのうちへやってきたのだった。


 当初、板橋は見知らぬ人間と新しい環境に怯えていたのか家族の誰にもなつかず、呼びかけるといつも物影に走って行き一定の距離をとりつつこちらを窺うような、警戒心剥き出しの猫だった。


 けれど次第に慣れてくると今度は我がもの顔で家中を闊歩し、勝手に外へ出て行っては町内を歩き回り一丁前に縄張り争いに参戦したりしていた。


 生意気そうだと思った顔にはますます拍車がかかって、あゆむは鴨居の上や塀の上からこちらを見下ろしてくる板橋にいつも馬鹿にされているような気にさせられていた。


 見た目はかわいい小さな、いたいけない生き物だ。けれどあゆむの前を行き過ぎる時、板橋は必ずと言っていいほどあゆむにちらりと一瞥を加える。物言いたげな顔とはまさに板橋のことを言うのだと、思う。


気がつくとあゆむは板橋と目があうと「なによ。なんか言いたいことでもあるの」と睨みかえす癖がついていた。


 あゆむは居間のソファに座っている板橋をまじまじと見つめた。板橋が自分の顔を見て喋った。それも怪訝な顔で。


 自分の顔の傷は痕が残るだろうことを、あゆむはすでに知らされていた。


 怖くて自分では傷の様子をまともに見ていないのだが、「骨が飛び出そう」なほど深い傷で「皮がずる剥け」になったというから、確かにそれでは痕が残るのは避けられないだろうことは想像できた。


 その事実はあゆむの心を顔の傷同様に傷つけた。病院のベッドであゆむはまだたったの一七歳で、特別綺麗でも可愛くもない容貌ではあるけれど飛び抜けたブスでもないと自負する自分の将来を思いやり、密かに泣いた。


 それでもあゆむは「顔の傷がなんだというのだ、死ぬよりマシではないか」と思うことで自分を鼓舞しようとしていた。死んだり、頭がおかしくなったりするよりは、いい。顔の傷なんて整形するという手もある。だから気にしないでおこう、と。でも、これでは話しが違う。


 あゆむは板橋と対峙する格好で立ち尽くしていた。

「それ、痕が残るって?」

 板橋がまた言った。


 母親が台所でお茶をいれている。事故の連絡を受けてアメリカの姉も電話をかけてきた。あゆむは今回のことで家族に、恐らく生まれてから最大の「心配」をかけてしまったことや、そして今目の前で猫に話しかけられているということでさらなる心配をかけなければいけないと思うとじわじわと涙が滲んできた。


 娘の顔に傷が残るだけでも残酷なことだというのに、頭までおかしくなったとあっては母親はきっと泣くだろう。


 好物のエクレアを冷蔵庫から取り出している母親の気遣い。あゆむは唇を噛んだ。


「運が悪かったな。日頃の行いが悪かったんじゃね?」


 言われた途端あゆむはいきなりテーブルの上にあったテレビのリモコンを掴み、板橋に向かって力一杯投げつけた。

「日頃の行いって、なによ!」


 しかし相手はなんといっても獣である。板橋はあゆむの攻撃を敏捷にかわし、ソファから食器棚の上に一連の動きで飛び上がった。


 あゆむは尚も攻撃の手を休めようとせず今度はクッションを掴んだ。

 驚いたのは母親で、一人で猫を相手に暴れているあゆむに、

「どうしたの?!」

 と、飛んできた。


 あゆむは怒りのあまり肩を震わせ、拳を握りしめて部屋の真ん中に仁王立ちになり返事をすることもできずに板橋と睨みあっていた。


 その光景は母親からしてみれば単なるヒステリー。ただの動物虐待である。が、板橋がいつもの生意気そうな目を丸く、それはもう丸く大きく見開き、

「……なんで言葉通じてんの」

 と呟いた時、あゆむはとうとう堪えていた涙を溢れさせてしまった。


 あゆむが投げたリモコンはその怒りの度合いを表すかのように、ばらばらになって部屋の真ん中に転がっていた。


ああ、もう、自分は本当に頭がおかしくなってしまったのだ。それは十七歳のあゆむには死を意味するも同然のことだった。


 期末試験の終わった学校は試験休みに入っていたが、あゆむは補習を受けるために登校しなければならず、試験休み中に各教科担任からレポートなどの指示を受けて、少しでも試験の穴埋めをすることになっていた。


 本来なら試験を受けていないのだから評価は0なのだが、レポートをこなすことで試験に相当するような「見込み点」を採点してくれるというのが学校の温情なのだけれど、あゆむは成績がどうなろうと本当はどうでもよかった。


 制服を着て家を出ると夏の太陽が容赦なくあゆむの脳天を焼く。玄関を出る時あゆむは自然な動きで門柱の脇に停めた自転車に乗ろうとしたが、ポケットの鍵を探って初めて自分の自転車が事故で「廃車」になったのを思い出した。


 自転車はあゆむが高校入学の時に通学用に買って貰ったものだった。あゆむはため息をおさえることができず、暗く沈んだ顔でバス停へと歩いて行った。


 バスを待つ間、あゆむは人々の視線が自分に注がれていることが叫び出しそうになるほど苦しく、悲しいよりは怒りにも似た感情で痛いほどだった。


 無理もない。実際あゆむの顔に貼られたガーゼは清潔に白いが、白さの分だけ怪我のひどさを暴露しているようなもので、結果、視線は顔のみならず手足の痣や絆創膏などにも順に移行していった。


 あゆむは怪我のことはもはやさほど気にはしていなかった。ただ、ひどく孤独な気持ちだった。


 季節はあゆむが意識を失っている間に梅雨明けし夏へと替わっていたし、自転車は失い、友達はみんな試験をすませて休暇への期待とのびやかな気持ちで今頃は遊ぶ計画でも立てているだろう。


 無論あゆむだって補習さえ受ければみんなの元へ行くことができるし、いくらでも遊ぶことができる。自転車だってまた買えばいい。けれど、なぜだろう。あゆむにはもう二度とあの呑気でなんの悩みもなかった幸福な自分には戻れないように思えた。


 まるでやる気がでない。あゆむは自分がずいぶん遠くへ来てしまったような、もしくはあの事故の瞬間に取り残され、そこから一秒たりとも時間が進んでいないような気がしている。


 意識が戻ってICUを出て一般病棟へ移ると、仲のいい友達がすぐに見舞いに駆けつけてくれた。


 彼女達はあゆむの枕元で、あゆむの為に号泣した。あゆむの生還を喜び、安堵で泣いた。


 しかしあゆむはどんなに泣かれても、喜ばれても、それがまるで他人事のように思えてならなかった。


 こんなにも親身になってくれる友達がありがたかったし、嬉しかったのだけれど、どうしても対岸の火事を見るような気持ちを拭うことができなかった。

 誰も嘘など言っていないのに、言葉はすべて予定調和のシナリオのように感じられ、涙は安っぽいドラマのようだった。


 そう思った自分をあゆむは恥じた。そして思った。自分は奇跡的に命をとりとめたかもしれないが、精神的には死んでしまったのだ、と。


 少なくともかつてのあゆむは人の親切や好意を素直に受け取るだけの明るさを持っていたし、こんなにも愛されている自分を知れば感謝や感激できる謙虚さを持っていた。


 助かってよかったと口々に言われ、泣かれながら、あゆむはぽつりとつぶやいた。「ごめん」と。それは何も感じないことの申し訳なさによる謝罪だった。


 学校へ着くとあゆむは職員室へ行き、先生の間をまわっていちいち大丈夫かとか無理するなとか調子はどうだとか言われながらレポートの指示を聞いた。


 ある先生は教科書を何十ページも丸写ししてこいと言い、ある先生は問題集のコピーを渡してそれをやって来るようにと言い、またある先生は指示されたテーマで何か書いてくるようにと言った。


 校内には人気がなく、グラウンドでは野球部が練習する声が高く響いていた。

 あゆむは大量の「課題」を抱えて図書室へ向かった。


 図書室は渡り廊下を挟んで本校舎の向かいの建物にある。中庭には園芸部が植えたひまわりがバカバカしいほど派手な色彩を振りまいて咲き誇っていて、あゆむはその黄色を憎たらしく思った。今のあゆむには世界のどんな美しいものも白々しく感じるだけで、心を動かしはしなかった。


 図書室の引き戸をがらりと開けると、勉強したり暇つぶしに友達と集まったりしていた生徒たちが不躾な視線を入口へ走らせ、そしてあゆむを見るとぎょっとした顔になった。


 あゆむはまっすぐに空いている席へ向かい、腰を下ろした。無遠慮な視線とひそひそと囁かれる声が背中へ波のように押し寄せてくる。あゆむはつんと取り澄ました顔で鞄からノートや教科書を取り出して机に広げた。


 見たければ見ればいい。いっそこのガーゼを取りはらって傷を見せてやってもいい。見れば黙るというのならば、見ればいいのだ。血を流すということがどういうことか、その目で知ればいいのだ。そうしたらもう二度とくだらないゲームやドラマに熱中する気はしなくなるだろうし、精神的にも肉体的にも他人を傷つけたりできなくなるだろうから。


 あゆむはペンを握り一心不乱に指示された課題を遂行していった。文字を書けば書くほど、計算をすればするほど、心は静かに凪いでいく。あゆむは集中することですべての物思いを頭から追い出そうとしていた。


 板橋にリモコンを投げつけたことを母親は叱らなかった。と同時に、何があったのかを問うこともしなかった。


 板橋は食器棚を飛び降りて廊下へ駆けだして行き、どこへ行ったのか夜になっても戻ってこなかった。


 あゆむは姉が板橋を連れてきた時のことを思い出していた。


 姉の自転車の前かごに捨てられていた板橋。まだ眼も開かないぐんなりした生温かい塊が全部で4匹。病院に運び込み、助かったのは板橋一匹だけだったこと。


姉は板橋を育て、共に暮らしてきた二年間を泣きながら語り、アメリカに連れて行くことができないことを話してさらに泣いた。板橋がいかにかしこく、いかに可愛く、どれだけ良い猫か、幼い頃の写真を見せては自慢し、その後にまた泣いた。


 東京からキャリーにいれて連れて来られた板橋は生意気な顔をしていて、そのくせ姉にだけは甘えた声でにゃあんと鳴いて擦り寄っていき自分の主が姉一人であることを主張するかのように誰にも手を触れさせず、敵意さえ剥き出しにした。


 こんな調子でここで飼うことなどできるのだろうかと母親はひどく不安がったけれど、他に方法があるでなし、板橋は「うちの猫」になった。


 あゆむも最初は板橋に慣れて貰おうと腐心した。言いかえれば手なずけようとおもちゃを買い、文字通りの猫撫で声で板橋を呼んでは遊んでやろうとしたり、煮干しを与えたりもしたのだが、板橋はあゆむに呼ばれてもちらっとそちらを見るだけでおもちゃなどには目もくれず、むしろ馬鹿にするような顔をし、煮干しはひったくるようにして咥えて逃げて野良猫のように圭角だった。


 一度あゆむは板橋を可愛がろうとしてとっ捕まえて抱き上げたことがあるが、強烈な攻撃をくらって思わず悲鳴をあげてしまった。


 腕に滲んだ血を見ながらあゆむはその時思った。もうこいつと慣れ親しむことは無理だ、と。以来、あゆむは板橋に近寄ることを諦めた。


その後母親だけが、その母親としての役割のせいか熱心かつ根気強く板橋に歩み寄り続け、板橋を征服した。


今では呼べばやって来るし、時折台所に立つ母の足元に顔を擦りつけたりする。あゆむはそれが羨ましくはなかったし、嫉妬する気もなかった。ちょっとばかり「なにさ」という気持ちになりはしたが、すぐに「こいつは私の猫じゃないから」と言い訳のようなことを考え、もはやその存在さえも「ああ、そういえば猫がいましたっけね」ぐらい無関心に成り下がっていた。


 実際、小動物が嫌いなわけではないのだがあゆむには猫にかまけるより他に関心事が沢山あり、学校生活という社交で忙しかった。それで結局同じ家にいながら顔もあわせないような、互いに無関心を決め込んだ「冷えた関係」で今日まで来たのだった。


 その板橋が。あゆむはぱたっとペンを置き大きくため息をついた。すでにいくらか埋められた問題集に視線を落としながら思った。馬鹿になったわけではないのよね、と。あゆむはそんなに成績の悪い生徒ではないのだ。だからこその「見込み点」という恩情だし、できると思われているからこそのレポートだった。


 集中することをやめたあゆむの耳に図書室の隅のひそひそ話しがその静けさの分だけ強調されて聞こえてきた。


「あの子? 事故の?」

「そうそう」

「マジで。あの顔、かわいそー」

「だよね。でも、助かったんだからいいじゃん」

「それはそうだけど……」

「まあ、確かにかわいそうだけど」

「けどよく学校来れたね。私だったら無理」

「ねー」


 来なくてすむなら、来ないわよ。あゆむは心の中で呟く。助かったからいいだなんて、他人事も甚だしい。確かに自分だってそう思いはしたけれど、それは自分のことだからこそそう言えるのだ。他の誰にもそんなことは口にして欲しくない。ましてや傷一つなく、頭がおかしくなったわけでもなく、今もこうして呑気に図書館で暇つぶしにエアコンで涼みながらこっそり本に隠してお菓子を食べるようなくだらない平和の中にいる奴らになんて、それこそ死んだって言われたくはなかった。


 あゆむは壁の時計をちらと見上げた。ひどく疲れていた。思えば昨夜はほとんど寝ていない。


 無理もない。猫が人間の言葉を話すなんて妄想。幻覚。あゆむはそっと自分の頭に触れてみた。


 あんなにも地面に叩きつけられたのに、あゆむの頭部に外傷はなかった。外傷がない方が危ないということで、検査は精密なものだったし、それはもう念入りに行われた。脳の機能のすべて。神経から運動能力から、なにもかも。その結果「どうもない」ということだった。


 医者も驚く奇跡の「無傷」だった。あゆむは病院のベッドで担当医から自分がいかに幸運かを聞かされた。「君が助かったことよりも、死ななかったことが奇跡なんだよ」と。助かる確率よりも死ぬ確率の方が高かったことから、あゆむは初めて自分の空白の三日間がどれほど重い時間であったかを知った。


 意識不明の三日間はあゆむには電源をオフにしたようなものでしかなかったのだけれど、実際には生死の境を彷徨った三日間であり、三途の川を渡る寸前だったのだ。といっても、彼の岸でまだ来るなと誰かが言ったとか向こう岸が花畑とかそういった夢は見なかったけれど。


 しかし、あゆむはもはや「助かった」とは思えなかったし、「死ななかった」とも思えなかった。一体、誰に事実を打ち明ければいいのだろうか。顔の傷はもちろん、肋骨も折れたままだ。まだ何度も病院に通わなければいけない。あゆむはその治療の他に精神科とか心療内科とかいった診察を受けなければと思った。


 時計を見ると針は昼食時を指していた。あゆむは本やノートを鞄にしまうと、静かに席を立ち図書室を出た。


 職員室へ寄って担任に帰宅することを伝えるとあゆむは学校を後にした。

 炎天下のバス停は色褪せた日除けと陽に焼けたベンチが侘しく、埃っぽい空気に晒されていた。


 これまでバスなど利用したことがないだけに、あゆむにはバスを待つ時間がひどく長く感じられた。昼間のバス停には人気がなく、道行く人もなければ目の前の道路も車一台通りはしない。


 不意にあゆむは鼻の奥がつんとして涙がぽろりと零れた。世界中が死に絶えてしまったかのように、自分は一人きりだ。そんなわけはないのだけれどそう思えてならない。もう自分は誰とも分かりあうことはできない。永遠に一人なのだ。


 なぜそんな風に思ったのだろう。あゆむは厭世的で孤独で、やりきれなかった。自転車を失ったこと。顔の傷。両親を号泣させてしまったこと。他の生徒の噂話。板橋。一体どうしてこんなにも背負いこんで、どうやって自分の中で処理すればいいというのか。


 あゆむは決して心弱い女の子ではなかったけれど、やはり自分が思う以上にダメージを受けていて、ベンチに座って太陽にじりじり焼かれるアスファルトの照り返しを浴びながら汗を掻き、しくしくと一人泣いた。泣いている間も汗が首筋を流れ、スカートの下で腿がじんわり濡れるのを感じていた。


 どのぐらい泣いただろうか。あゆむは泣き疲れ……というよりは、泣くことにも飽きてポケットからハンカチを取り出し、汗と涙を拭って大きく息を吐いた。

 と、そこへ背後にある民家の塀から、猫がしゅるんと出てきてベンチのあゆむを見るとびっくりしたようにぴたりと動きを止めた。あゆむは無視して洟水までハンカチでぐいぐい拭ってポケットに戻した。


「あら、ひっどい顔」


あゆむはぎくっとしてハンカチをおさめた手をポケットにいれたまま猫を省みた。

 猫は赤い首輪をしていて、茶トラで、すでに充分成育しきったような大きさで、あゆむを見て怪訝な顔でもう一度言った。


「眼が真っ赤よ」


 返事をするべきだろうか。あゆむは一瞬悩んだ。


 が、問題はそこじゃないとすぐに思い直し、やおら立ち上がるとバス停を離れて大通りへ向かって歩き出した。


 病院へ行こう。今すぐ。今すぐだ。とにかくなんでもいいから、病院へ行ってみてもらおう。こうなったら恥も外聞もあるものか。


 さっきまで気弱に流れていた涙はもう乾ききっていて、あゆむの胸には「死ななかった」ことのみが渦巻いていた。


 少し歩いてからそっとバス停を振り返ると、猫は通りの向こう側へ歩いて行くところだった。


 あゆむが担ぎ込まれそのままお世話になった病院は海の側にあり、車寄せにはわざとらしい棕櫚の木が植わっていて、日射しを受けて勢いよく空へ向かって伸びていた。


細い路地を抜ければ向こうはすぐに小さな砂浜になっているが、そこは遊泳禁止区域になっている。線路が海沿いを縫うように敷かれ、病室にいても潮風と電車の音が聞こえてくるので、あゆむはここは天国ではないはずなのに天国のようにひなびたのどかさに溢れていると思っていた。無論、あゆむは天国がどのようなところであるかは知らないのだけれど、もしあるならばこんな風に静かな、遠い場所なのではないかと思えた。


 あゆむが汗を拭きながら受付で診察券を示すと、受付の事務員は「おや?」という顔をした。事故で担ぎ込まれ新聞にまで載ってしまい、尚且つ顔に傷を残したことからあゆむは自分がいかに有名になっているかを知っていた。


 事務員はパソコンのモニターを見ながら、

「今日は予約が入ってないけど……具合でも悪いの? 担当は外科の田辺先生よね?」

「いえ、今日は違うんです」

「え?」

「予約はしてないけど……、心療内科を……」

「ええ?」

 事務員は驚いて顔をあげた。

「予約がないと駄目ですか?」

「……ちょっと待ってね」


 この時あゆむは真剣な顔をしていたのだろう。制服のまま汗だくになってやってきたことも尋常を欠いていて、事務員は気圧されるように席を立って内線電話をかけにいった。


 あゆむは縋るように受付のカウンターにしがみつき、俯いていた。


 待ち合いロビーに並ぶソファは老人がほとんどの席を占め、備え付けのテレビからはNHKのお昼の番組が流れていた。


 事務員はすぐに戻って来ると、あゆむにことさら優しくにっこり微笑んだ。

「今ちょうど心療内科の田中先生が手が空いてるそうだから、話しは聞いてくれるって言ってるけど。カウンセリングみたいなものね」

「……」

「お部屋は3階。心療内科5番ね」

「はい」


 カウンセリングという言葉にあゆむは白けた気持ちになった。最近なにかというと学校にカウンセラーだのなんだのが派遣されてきて、生徒の悩みを聞いたり不安を取り除いたり、心の傷とやらを癒したり守ったりしようとする傾向にあるが、自分のはそんな甘っちょろいものではないと内心むっとした。


 あゆむの学校にもいじめによる心の傷だの、地震などの天変地異による不安感だのを緩和または改善するためにカウンセラーがやってくることがある。それらは放課後の保健室で行われ、当人の希望で相談することができる。しかし、あゆむはこれまでそういった相談を安易に受けてさも救われたような、安心を授けられるような、または癒されたり、ましてや理解者を得て喜ぶようなそういった輩を軽蔑していた。心の傷だなんて言葉を口にするのは簡単すぎる。しかもそれを見ず知らずの他人に打ち明けて安心を得るなどあゆむには考えられない。あゆむだって傷つくこともあれば辛いこともある。学校生活に問題のない生徒など、本当は一人としていない。でもそれが一体どうして部外者である、しかも「大人」に分かるというのか。


 それでも話せば楽になるというのは本当かもしれないが、あゆむは今話すことよりも本質的な「治療」を求めていた。即ち、猫と言葉が通じるという妄想を払う治療を。その為の心療内科であって、必要なのは処方箋であり「相談者」ではないと思った。


 あゆむは階段をあがって指定された部屋の扉を叩いた。すぐに中から男の人の声で「どうぞ」と返事があった。


 するするとスライド式の扉を開けると、そこには思ったよりも若い医者が白衣を着て座っていて、あゆむを見ると「こんにちは」と会釈をした。あゆむも反射的に頭を下げ「こんにちは」と小さく返した。


 先生は机に広げたカルテをクリアファイルに戻し、それから、パソコンをかたかたと操作した。


「えーと……鈴木あゆむちゃん?」

「はい」

「外科の担当は田辺先生だね。怪我の具合はどう? 体調でも悪いの?」

「……いえ、体は大丈夫です」

 あゆむは静かに答えながら、子供扱いされているなと思った。でも仕方ないとも思った。自分が子供なのは事実なのだから。

「心療内科を受けたいそうだけど、なにか心配ごとでもあるの?」

「……」

「今日は学校の帰り? もうすぐ夏休みだね」

「……」

「なんでも話してくれていいんだよ」

「……」


 ……だめだ。あゆむはこのカウンセリングをすでに後悔していた。

 若い医者は親切そうに笑っているが、あゆむの目にはそれがおためごかしにしか思えなかった。


「あの」

「うん」

「そういうんじゃないんです」

「え?」

「心配とかそういうんじゃなくて。私、幻聴が聞こえるんです」

「……え」

 医者はあゆむの言葉が意外だったのか、よほど突拍子もなく聞こえたのか、きょとんとした顔であゆむを見つめた。

「頭を打ったせいだと思うんですけど、この前退院して家に帰ったら猫が喋るんです」

「……」

「……信じてもらえます?」


 あゆむはもう目の前の医者に縋りたい気持ちは失せていた。


 年若い心療内科医は経験こそ不足していたもののその分だけ熱意は持ち合わせていて、目の前の女子高生の言葉を神妙に聞くだけの気概はあった。受付から連絡を受けた時は顔に傷を負った少女の嘆きを聞くものと思っていたのでその為の言葉は用意していた。が、実際に現れた女子高生は難しい顔をして真剣な口調で幻聴が聞こえると言う。それも、猫が喋るのだ、と。


 彼は大きく息を吐き椅子の背にもたれ腕組みをした。さて、どうしたものだろう。彼女がわざわざ嘘をつきにここまで来ているとは考えにくかった。なぜなら彼女はすでに充分な時間をこの病院で費やしている。怪我の痛み以上に精神的苦痛も味わっている。その場所へ舞い戻って来てなんの楽しいことがあるだろう。


 心療内科医は考えを改めることにした。これは本当に「診察」の域である、と。

「家で猫を飼ってるんだね。一匹?」

「はい」

「いつから飼ってるの?」

「一年ぐらい前から。前は姉のところにいたんだけど、アメリカに行っちゃったから、それで」

「それまでに動物を飼ったことは?」

「ありません」

「初めてのペットなわけだね」


 ペット。その言葉にあゆむは違和感を覚えた。板橋が飼い猫であるのは間違いないのだが、ペットというのはもっと愛玩動物とでも言おうか、可愛がられているものに対する言葉に思える。板橋がそうではないとは言わないのだが、それでもあゆむにとって板橋はペットなどという愛らしいものではなかった。


「で、猫は君になんて話しかけるの」

「……なに、その顔って」

「……」

「痕が残るのかって」

「……それから?」

「運が悪かったなって。日頃の行いが悪いんじゃないのかって」

「……」


 質問に答えながらあゆむは怒りが再燃してきて、声が震えるのを止めることができなかった。


 日頃の行いだって? なにが悪くてこんな目にあうというのか。こんな大きなバッドラックに見舞われるほどの悪事を働いた覚えはない。もしも「補習があったから」と言って嘘をついて帰宅が遅くなったことや、参考書を買うはずのお金で新しい靴を買ったりしたことの代償がこの事故だというなら、世間にのさばる詐欺だの横領だの、殺人だの放火だのは法が裁くより先に強烈な罰で死んでいるはずだ。

 事故は、事故だ。過失割合があるにしてもそれは偶然のはずだ。あゆむは膝の上で拳を固く握りしめた。


 その様子を見ていた心療内科医はこの痛ましい怪我を負った女子高生が泣きだすのではないかと身構えていた。


 彼の診断は、こうだった。猫ではないのではないか。イマドキの女子高生がどんなものかというのを医学的に説明することはできないが、系統立てることはできる。口さがない年頃の少女たちが集まって彼女の顔の傷についてなにか言ったのだろう。それがこの女子高生の精神を傷つけないはずはない。即ち、彼女の言うのは同級生の意地悪な発言を猫になぞらえて、苦しい現実から目を背けたいが故に自分の頭がおかしくなったのだと言うのではないだろうか。


 無論それは彼の仮説にすぎない。精神という分野に断定はないのだ。彼は注意深く女子高生を見守った。


 しかしあゆむは泣かなかった。その代わり真剣な目で、

「治りますか?」

 と尋ねた。

「……治るよ」

「本当ですか?!」

「うん。心配ないよ。時間はかかるかもしれないけど、大丈夫。ちょっと落ち着いて整理してみようか」

「はい」

「退院して、家に帰ったら猫が喋りかけてくるんだね?」

「はい」

「それは何度も? ずっと?」

「いえ、一度だけ……。うちの猫、しょっちゅう出かけてるから。あ、でも今日来る途中でも学校の近くの猫が喋ってて……」

「ということは、家の猫だけじゃなくて他の猫も喋るんだね?」

「はい」

「猫だけ? 犬は?」

「犬には会ってないから分からないです」

「退院したのは……」

「一昨日です」

「そう。まだ二日だ」

「はい」

「今、君に必要なのは休息だよ」

「え?」

「退院したばかりだし、疲れてる。心配ごとも色々あるだろ。それだけで君の頭がおかしいとは言えないよ。もうちょっと様子を見て判断した方がいい。猫が喋るならそれもいいじゃないか。無視していればいいよ」

「……」

「それがあまりに頻繁になるとか深刻になるとかしたらまた手段を考えよう」

「信じてないんですね」


 あゆむは顔に傷が残ると告げられた時よりも絶望的な気持ちになり「来るんじゃなかった」と一言呟いた。


 突然さっきまでまるで気にならなかった医者の前髪が額に落ちる様子が鬱陶しく眼につき、消毒薬の匂いが鼻をさした。窓の外ではわずかな命を全力で燃やして蝉が鳴き叫んでいる。


 あゆむは立ちあがり、医者に向かってくっきりと言い放った。


「医者はなんでも様子を見ましょうばかりで、治療もしないでお金をとるって死んだおばあちゃんが言ってたわ。本当にそうよね」


 若い心療内科医は少女の目が怒りに燃えるのをなかば呆然と見つめていた。そんなにはっきりと言われるとは思いもよらなかった。自分は医者として、また、大人として順当と思われる回答をしたつもりだったのだが。


 医者のその考え方は傲岸だが、確かに常識的な発言ともいえた。しかし今自らが少女を傷つけたとは考えもしなかった。でもそれも無理からぬことだった。いかんせんあゆむの告白は唐突すぎた。いや、荒唐無稽と言ってもいい。無論、心療内科を受診する患者の中にはもっと突飛なことを言う者も多いし明らかに「神経に異常をきたしている」状態なのだが、「猫が喋る」と言う少女の瞳の中には狂気はなかった。彼は医者として、自分の診断を信じたに過ぎない。ただ読み違えたのは、彼が思うよりも少女が聡明で冷静だということだった。


あゆむは乱暴に扉を開け、荒い足取りで病院を後にした。


 帰宅するとあゆむはまず最初に部屋中をまわって板橋の姿を探した。


以前は応接間のガラス戸や縁側の障子、和室の襖も居間の扉もきちんと閉めてあったのに、板橋が来てからというもの母親が「自由に行き来できるように」とわずかに隙間を開ける習慣になっていた。板橋はそのおかげで家中のどこへでも自由に出入りすることができるた。無論、勝手口の扉には猫ドアが取り付けられ、外出だって自在だ。


 あゆむはすべての扉が少しずつ中途半端に開けてあるのをだらしなく思っていたし、母親がそこまでして板橋を優遇する理由が分からなかった。そもそも板橋は姉と暮らしていた時は狭い1LDKの「家猫」だったはずなのに。


 板橋が来てからというもの母親は板橋を積極的に可愛がり、面倒をみている。それはほとんど「献身」といってもいい。母親がそんなに猫を好きだなんてあゆむは知らなかった。そう言うと母親は笑いながら「まあ、いいじゃないの」と笑うだけだった。


 部屋中を順番に見て回りながらあゆむは小声で「板橋」とその名を呼んだ。返事があったらどうしようと思いながら。


 しかし板橋は留守らしかった。あゆむは安心したような、残念なような気持ちで二階の自分の部屋にあがった。そこだけはドアがぴっちりと閉じられていて、板橋が勝手に入れないようになっていた。


 部屋に入ると熱気が籠りむうっとした空気が押し寄せてきて、瞬時に全身に汗を噴き出させる。


窓を一度大きく開けてからエアコンのスイッチをいれる。低い動作音。その後に訪れる奇妙な静寂。あゆむは鞄を放り出してベッドに腰を下ろした。


 課題やレポートのせいではなく、暑さのせいでもなく、ひどく疲れていた。まだ身体が本当ではないせいもあるのだろうけれど、ため息ばかりがこぼれる。


 携帯電話にメールの着信音。たぶん友達からだろう。心配してくれているのは分かっている。でもメールを見る元気もなければ、返信する気力もない。なにもかもがどうでもいいような気さえする。


 あゆむはゆっくりとそのままベッドに横になった。すると、閉め切ったドアをがりがりとひっかく音がするのに気がついた。


 板橋だ。はっとしてあゆむは起き上がり、ドアを開けた。


 而して板橋はそこにいた。ちんまりと足元に鎮座し、あゆむを見上げている。

「……なんか、呼んでなかった?」

「……」

 聞こえる。やっぱり。


 あゆむは壁にもたれて腕組みをした。今日二度目の絶望感。

「なんの用?」

「……あんたと言葉が通じるかどうか、確認したかったのよ」

「……ああ」

「でももう分かった」

「なにが」

「やっぱり私の頭がおかしくなってるってこと」


 言いながらじわじわと涙が滲んできて、目の前の板橋が歪んで見えた。


 そら見たことか。そうあの医者に言ってやりたかった。様子を見たところで聞こえるものは聞こえるし、話すものは話すのだ。だから言ったのに。それを子供と思って馬鹿にして。


 涙の粒が足元に落ちた。ぱたっと大袈裟な音で。板橋はその滴の匂いを嗅いだ。あゆむは手の甲で涙と洟水を拭った。


 板橋は涙にくれるあゆむをしばらく見守ると、ついぞ入ることのなかったあゆむの部屋にすたすたと入って来た。それを潮にあゆむも部屋の中に入り、ベッドに腰をおろしてティッシュで洟をかんだ。


「お母さんに言った?」

「言えるわけないでしょ!」

「……」

「顔に怪我して、その上頭までおかしくなったなんて……」

 板橋はあゆむの足元に座り何事か思案するように黙った。それはわずかな時間だったがあゆむが落ち着くには充分な時間だった。

「まあ言ってもどうせ信じてくれないだろうしな……」


 板橋は小さく笑うように、労るように、呟いた。


 その通りだった。少なくとも心療内科医もまるっきりあゆむの言葉を信じず、頓珍漢な診断を下した。


 奇妙なことに、今、自分はこの小さな生き物と言葉が通じているだけでなく、気持ちまで通じている。そのことに気付いたあゆむは俄かに慰められた気持ちになった。


「ああ、明日も補習だわ……」

 呟くとあゆむはベッドにごろりと横になった。

 携帯電話が鳴っている。あゆむは心の中で夏休みなんてクソ食らえと思った。


 翌日も馬鹿馬鹿しいほどの青天で玄関を出るなり日射しに眩暈がした。

「いってらっしゃい」

 振り向くと塀の上に板橋がいた。


 もう驚く気力もない。あゆむは「いってきます」と返してバス停へと歩き出した。


 昨日からしつこく着信があったのは、同じクラスの山元綾子や本田美香といった仲のいい友達からだった。


 補習のない彼女達はすでに夏休み気分で、あゆむを気遣いつつもそうとは知らず無神経に楽しい空気を振りまいてあゆむを疲れさせた。


 彼女たちが補習を受けるあゆむを取り残さないために遊びに誘ってくれたり、報告してくれたりする気持ちは分かる。それが彼女たちの友情なのだということも。でも夏休みの話題など今のあゆむには無用だし聞きたくもなかった。


 けれどそれは彼女たちのせいではなかった。ただあゆむから精気が抜かれてしまって、かつては自分も同じように持っていて共有しあっていたはずの明るさも健康も、無邪気さもあゆむには今はうっとうしいばかりで電話に出るのも面倒だし、絵文字だらけのメールに同じくデコって返す気力もなかった。


 携帯電話の小さな画面から否応なく放出される好奇心の塊。なぜそれを素直に善意と思えないのか。あゆむは自分を卑屈だと思うし、まさかとも思うけれど彼女たちが「心配」という言葉を隠れ蓑にしてあゆむの心に踏み込んでくるような気がしてならない。


 放っておいてほしいと思う。でも、そう思ってしまうことも申し訳なくて自分がいやになる。綾子も美香も、早苗もゆかりも、みんな病室であゆむの為に泣いてくれた友人たちだ。あゆむが生きていたことを喜び、泣いてくれた。なのにどうして自分には対岸の火事のようにしか感じられないのだろう。


 学校に着くと、あゆむはこれといって親しい子のいない教室で補習を受けるべく席についた。


 昨日の図書室がそうであったように、ここでもあゆむは好奇の視線に晒されていた。


 窓の外では野球部が声を張り上げている。バットがボールをぶっ飛ばす小気味よい音が時折響く。


 あてがわれたプリントを埋めながら、世界が平和であることに思いを馳せる。少なくともあゆむ一人残してこんなにも世界は健やかで、中庭の日向葵も伸びやかに空に向かっている。


 夏休みが本格的に始まっても自分には夏休みなんてものはなくて、虫ピンで留めつけられたように一つ所に留まっていなければならない。それはつまらないとか、自分だって休みたいとかいう我儘を言う気も起きないほど強い力だ。


 あゆむは補習のことを考えているのではなかった。この憂鬱な物思いとあの事故の瞬間。自分の時間はそこで止まってしまっている。明日の終業式には嫌でもみんなに会わなければいけない。猫が喋ると言えば彼女たちは信じてくれるだろうか。頭の隅を「友達なら信じてくれるかも」などという痴れごとがよぎったが、すぐに掻き消えた。


 そういえば板橋には友達はいるのだろうか。あゆむは考えた。自由に外へ出かけて喧嘩傷を作ったり近所の猫といるのを見かけたことはあるけれど、彼らの関係は友達とかカノジョだったりするのだろうか。もしそうなら板橋も誰かに話しているんだろうか。人間と言葉が通じるようになった、と。それともそんなこと誰に話しても信じて貰えないから黙っているだろうか。


 小柄な板橋は近所の大きな猫とも喚きながら取っ組み合いの喧嘩をする。あの大声はいつもなにを怒鳴り合っているんだろう。


 プリントを提出するとあゆむは速やかに教室を出て中庭のベンチに行き、そこから順番にメールの返事を返し始めた。


 レス遅、ごめーん。補習マジ疲れる。やばい。帰ったら速攻で寝ちゃってた。今もまた補習。まー、しょーがないんだけどさー。これ全部片付かないと夏休みがこないよー。とりあえず、明日。


 風のない真昼だった。あゆむは自販機で紙コップで出てくるコーラを買うと、氷をがりがりと噛み砕きこのまま時間が止まればいいのにと思った。


 生死の境を彷徨った三日間。そして覚醒。あの時最初に見たのはICUの天井とものものしい機械の類いと、看護師。担当医を呼ぶ声。「あゆむちゃん、分かる? 聞こえる?」そう言われてあゆむは頷いた。「手、動く? ちょっとでいいよ。指は? うん、そう。動くね。じゃあ、足。そうそう。うん、大丈夫。もう大丈夫だよ」言われるままにあゆむは指先を動かしたりし、「すぐにお母さんたち来るからね」って一体なにが大丈夫なのかまるで分からず、ひたすら三日間の記憶を探るのに必死だった。


 なにも覚えていない。当然だがそれはあゆむをひどく不安にさせた。


「あの……」

「なに、どうしたの?」

「今日、何日……」


 担当医がベッドの脇に腰かけ、あゆむの手を握りながら事故にあったこと、その後三日間眠っていたことを簡単に教えてくれた。その時も医者は「でも、もう、大丈夫。心配ないからね」と言った。


 それから両親が到着し、二人はあゆむを見るなりそれはもう筆舌に尽くし難いほど号泣した。


あゆむは父親が泣くのを生まれて初めて見た。姉の玲奈が結婚する時だって泣かなかったのに。父親は「よかった…よかった…」と何度も嗚咽まじりに唸るように言った。


 あゆむは両親が自分のために、いや、自分のせいで泣くことに気恥ずかしさや有り難さよりも罪悪感が勝って、ただ悪いことをしてしまったと思った。だから、彼らに向かって最初に発したのは「ごめんなさい」だった。


 それからICUを出て一般病棟に移るまでの間。あゆむはその治療室の特殊性と、緊急性と、まさに命の現場といえる場面に晒されていた。


 実際あゆむのいる間にそこで二人の人が亡くなった。あゆむはそれを見たわけではないのだが、ベッドに横たわりながらすべてを感じていたし、また、見ずとも消えて行く命の気配は怖いぐらいに鋭敏に感じられた。


 死ななくてよかった。あゆむは、他の患者が死ぬと心の底から自分の奇跡に感謝できた。そういう自分をあさましいと思ったけれど、それが真実だった。誰だって他人の命よりは自分の命に価値を置いている。それだけのことだ。でもそう思う事がひどく悲しい。


 あゆむは紙コップを握り潰すとゴミ箱に投げ込んだ。空っぽのゴミ箱に軽く乾いた音。退院してからのあゆむはため息ばかりだった。


 翌日の終業式、あゆむは何度も行くのをやめようかとためらった。友達たちに「行く」と言ってしまった手前、行かなくてはいけないと思うのだが、この顔を、いや、自分の存在そのものを晒すことに抵抗があった。


 そういうあゆむの物思いを母親は素早く察知するのか、朝食の目玉焼きを焼きながら、問題の深刻さをそうとは感じさせない気遣いでくるみこんですんなりとした調子で言った。


「あゆむ、どうせ毎日補習なんだから、今日ぐらいサボってもいいんじゃないの? 通知簿だって明日行けばくれるんだしねえ」

「……まあね」

「だいたい試験休みもなかったわけだしね」

「まあね。てゆーか、試験受けてないんだけどさ」

「それは仕方ないでしょ」


 まあね。事故じゃあね。命の重さに比べたら試験如きがなんだっていうのよね。でも、だからといって助かって、試験を受けなかったことがチャラになるかというとそうでもないんだから、学校って私よりも試験が大事なのかもよ。


 あゆむは母親に反抗する気など毛頭ないのだが、わざわざそんな皮肉を言いそうになって、それを堪えるべくコーヒーを啜った。


 板橋が台所の隅で餌を食べている。その後ろ姿のちんまりと丸い姿は綿埃のかたまりのようでもあり、毛糸玉のようでもあった。母親が立てる物音にかき消されてはいるが、カリカリぽりぽりと口を動かし肩を揺らすのが分かる。


 目玉焼きとトースト。ヨーグルト。その後に病院で貰った薬を何種類も。朝食をすませるとやっぱりサボること自体も気が滅入るのでとりあえず登校することにした。普段なら絶対にサボったらなどと言わない母親にそんなことを提案されるのがいかにも過保護でわざとらしくて嫌だと思ったせいもあった。


 あゆむは友達の涙を他人事のように思ったことに罪悪感を感じていた。でもあの時は尋常ならざる事態だったわけだし、それに今なら素直にみんなと会って、明るく朗らかな空気に接して自分を取り戻すことができるかもしれない。


 あゆむは出がけにリビングのソファに寝転んで丹念に毛づくろいをしている板橋に声をかけた。

「板橋」

「なに」

「……なんでもない。いってきます」

「いってらっしゃい」

 板橋はちょっと体を起してあゆむを見上げている。あゆむはそっと近づいて、恐る恐る手を伸ばした。

「なに」

「……」

 板橋は一瞬怪訝な険しい顔をしたけれど、あゆむの手がびくびくしながら不器用にその頭を撫でるとぷっと小さく笑った。しかし、笑った分だけもう一度、今度はひどく優しい口調で言った。

「いってらっしゃい」

「うん」


 あゆむは板橋が自分の気持ちを察していることが、言葉が通じることよりもよほど不思議だった。母親もあゆむを気遣っているけれど、板橋の方があゆむの心を見透かしている。その小さな体で、毛皮で、あゆむの指先から放たれる不安と混沌を感じている。


 板橋の毛皮は滑らかで、ふんわり柔らかだった。あゆむはほとんど初めて板橋に触れたような気がした。この家に来てから互いに反目しあっていたような暮らしだったけれど、言葉が通じればなんのことはない。通じさえすれば、理解できるのだ。なんと単純なことなのだろう。それなのに人間同士では言葉を駆使しても通じない。こんな馬鹿なことってあるだろうか。あゆむは海辺の病院の心療内科医を思い出していた。目下、もっとも「通じなかった」人。


 学校は案の定、いよいよ夏休み本番を迎えるにあたって浮かれまくっていて、ざわめきと熱気で余計に暑苦しい空気が充満していた。


 あゆむが教室に入って行くと、その場にいた全員が思わず小さく「あっ」と声をあげた。


「あゆむ! 大丈夫なの?」

「大変だったねえ。もう、体はいいの?」

「補習なんだって? 事故だったんだから、それぐらい免除してくれればいいのにねえ」


 クラスメイトが口々に言い募り、あゆむが席につくまでのわずかな距離が花道の如く包囲される。あゆむは彼または彼女たちに曖昧な微笑のままで「うんうん」と頷いた。そうして自分の席に着くと懐かしいような気がして、ほっと溜息をついた。


「あゆむ!!」

 教室の後ろの扉から入って来た美香と早苗はあゆむの姿を認めた瞬間大きな声で叫んだ。

「あゆむ!! もー、マジ、大丈夫なのー?!」

 二人は口々にあゆむの復帰を喜び、気遣う言葉を発しながら駆け寄って来て、ひしと抱きついた。


 あゆむは二人を座ったままの格好で受け止め、髪からこぼれるシャンプーの匂いを吸い込み、ああ、これが自分の日常の匂いだったと思いだしていた。


 清潔で、そのくせどこか媚びた甘くて強い匂い。日焼け止めと称して重ね塗るファンデーション。ばさばさの睫毛。瞼の際の内側まで塗り潰すアイライン。ポケットから垂らした携帯電話のストラップの、馬鹿げて大きなぬいぐるみ。


「ね、帰りどっか行こうよ! みんなでさあ。あゆむの復活祝いしよーよ」


 二人は大はしゃぎでカラオケだの、プリクラだの、デザートバイキングだのプランを喋りまくった。どれもほんの少し前まではあゆむが友達たちと好んで出かけたことばかりだった。


 眩しい。あゆむは単純にそう思った。二人の姿が眩しくて、ほとんど直視できない。だから、早苗が指に嵌めている彼氏から貰ったとかいう指輪ばかり見つめて微笑んでいるより他なかった。彼女たちとも「通じない」上、期待していた明るい空気も圧力を伴って自分を押し出そうとしているように感じる。


「ごめん、今日は駄目だわ」

「補習?」

「そうじゃないけど……」

「具合悪いの?」

「んー……、ほら、顔もこんなだし。それに、あたしまだ肋骨折れてんの」

「マジで! あゆむ~、ほんと大丈夫? 今日も休めばよかったのにー」

「だって今日来ないとみんなに会えないじゃん」


 早苗が子供にするようにあゆむの髪を撫でる。

 半分は、本当だった。大仰なガーゼの張り付いた顔や手足の痣は隠しようもないし、街へ繰り出して人々の好奇に晒されるのも決していい気分ではない。そしてもう半分はみんなの朗らかさと明るさについて行くことができそうにないからだった。


 あゆむは懸命に片頬を歪めるようにして笑顔を作った。そんな作り笑いをしなければならない自分がいたたまれなかった。


 始業のチャイムが鳴り響いた。救いの音だった。それを潮に早苗たちはお喋りをやめて自分の席に着き、あゆむも座ってため息をついた。


 もうここは自分の居場所ではないのだ。担任が教室に入って来て夏休みの訓戒を垂れ、冗談を言い、講堂へ場所を変えて終業式で校長先生の長い話しを聞かされる間も、再び教室に戻って通知簿を配る間もあゆむの心は遥か遠くへぶっ飛んでいた。


「鈴木、呼ばれてる」

 後ろの席から肩を叩かれ我に帰ると、教壇で担任があゆむの通知簿をひらひらと振っていた。

「あ」

 あゆむは立ち上がり前へ進んだ。


 自分の席から教壇まで2メートル。歩数にすればほんの5~6歩。なのにあゆむはこのわずかな距離を行く瞬間、教室がコンマ1秒ほどしんとし、それは息を呑むような緊張で、視線のすべてが背中に突き刺さって来るのがはっきりと感じられた。


 無理もない。あゆむはまた片頬を歪める。今自分がなんと思われているのか、いやというほど知っている。


「鈴木、補習もあとちょっとだからな」

「はい」

「体調の悪い時は連絡しなさい」

「はい」


 担任は通知簿を開き、試験を受けなかったけれど学期の前半頑張っていたし、実力はあるのだから二学期に巻き返せると気休めにもならないようなことを言い、但し、もともとあまり芳しくなかった数学についてはもうちょっと頑張るようにと言い添えて寄越した。


 あゆむは通知簿を受け取り席に戻ると、ろくに見もしないで鞄に突っ込んだ。

開け放された窓を見上げると、怖いぐらいに青い空が広がっている。太陽は真上、校庭のポプラはむせかえるような濃い緑色をしている。


 ここではないどこかへ行きたい。こんなに単純な逃避願望ってあるだろうか。一学期最後のホームルームが終わる頃にはあゆむはもう二度と自分は学校へ来ないような気にさえなっていた。


 隣りのクラスのゆかりたちがやって来て、やっぱりあゆむの退院祝いに出かけようと言いだすのが、もはや聞くのも面倒だった。それでもみんなに謝って、肋骨がくっついたら遊べると言い、みんなも口々に残念がって、でもまた絶対遊ぼうと約束し、電話すると言って別れた時には心の底から安堵した。


 あゆむは更衣室のロッカーから置きっぱなしになっていた体操服や幾冊かの教科書を取り出し鞄に入れた。途端に鞄は重くなり、同時にあゆむの気持ちも重くさせる。


 自転車、欲しいな。あゆむは心の中で呟いた。事故でぶっ壊れた赤い自転車はとっくにゴミになってしまった。自転車があれば鞄が重くても平気だし、学校に来るのにわざわざ遠回りになる不便なバスなんかに乗らなくてもいい。しかしあゆむは少なくとも今の時点で親に自転車が欲しいなどとは言えないのを分かっていた。


 なにも電動アシストだの、ブランドの馬鹿高い自転車を買ってくれというわけではない。ホームセンターの安売りで、一万円もしないようなのでいい。なんなら、貯金していたお年玉。あれを崩してもいい。そうすれば自分の買い物だから親に断る必要もないのだけれど、あゆむは今、両親に「自転車を買う」なんてことがどれほど心配の種かと思うととても言い出すことはできなかった。


 この顔の怪我。ガーゼを取り替えてくれる母親の手が小さく震えるのもあゆむは知っている。自転車に罪はなかったと分かっていても、自転車にさえ乗っていなければ。あゆむでさえもそう思うのだ。親が思うのは当然のことだった。


 あゆむは肩に鞄を担いだ。と、その時だった。更衣室の前の廊下を女の子たちが賑やかに、それはもう結構なボリュームでお喋りしながら歩いて来るのが聞こえてきた。


「そりゃ、遊べないよねえ」

「顔の傷、ひどいんでしょ」

「あれ、ガーゼの下ってどうなってんの」

「あー、なんか、めちゃめちゃなんでしょ。肉がえぐれたらしいよ」

「なにそれ、マジで。グロい」

「なんで知ってんの」

「目撃情報、あんた、知らないの?」

「知らないよー」

「そういう噂、聞いたなあ」


 あ、私のこと。あゆむは咄嗟にロッカーの影に身を潜めた。声はどんどん近くなってくる。


「てゆーか、ほんと、遊べないよ。そりゃ」

「藤井くん、まだ意識ないってほんと?」

「らしいね」

「それってやばくない?」

「やばいよ、そりゃあ。だって、もうあのまま植物かもしれないんだよ」

「マジで」

「それ、ほんとキツいわ」

「重すぎる」

「自分だけ助かるのもねえ……」

「そういう意味ではさ、あの子、よく学校来れたね。アタシだったら無理」


 声が早苗たちであるのは分かっていた。もう、疑う余地もないほどにくっきりと。だってさっきまで一緒にいただけでなく、これまでずっと一緒だったのだから間違うわけがないのだ。


 自分のいないところで噂されるのは仕方ないと思っていた。するなという方が無理なのだ、と。特に事故にあってからは自分の名前が、存在がいかに独り歩きしてしまったかをあゆむは知っている。実際、補習の時も図書室でも、誰もがあゆむを見てひそひそと囁きを交わしていたではないか。


 声が遠ざかって行くとあゆむはおもむろに更衣室の窓を開けた。窓は一階の中庭に面していて、窓の下は花壇になっている。あゆむはそのまま窓によじ登るとまず鞄を先に地面に放り投げ、それから花壇めがけて飛び降りた。


 ローファーで花を踏みつぶしたまま、あゆむは数秒その場にしゃがんでいた。大した高さでもないのに着地の衝撃が肋骨にじんと響いていた。が、それよりもさっきの言葉が体中を駆け巡って、今にも嘔吐してしまいそうだった。


 泣いてはいけない。あゆむは自分を奮い立たせると鞄を拾い上げた。そして速やかに学校を出ると、まだバス停でうじゃうじゃとバスを待つ制服の群れから一秒でも早く離れるために、行き先も確かめないで一番最初にきたバスに乗り込んだ。


バスは海岸沿いを通る路線で、狭いシートに腰をおろすとあゆむは窓から陽炎の揺れる通りを眺めた。


ジブンダケタスカルノモネ。口の中で飴玉のように転がしてみる。海沿いの国道と電車の線路が馬鹿馬鹿しいほどなだらかに伸び、どこまでも行けるような錯覚を起こす。今は夏の日差しに焼かれて海がぎらぎらと光って見える。


岬が見えたらそこには灯台。海釣りをする人の影がぽつりぽつり。浜に面したお洒落なカフェの冷たいココア。ガラス窓から見える、夏の景色。水着の色。自分にとって慕わしく身近なものであったはずが、今は車窓から眺めるだけのまるで絵ハガキのような風景だった。


あゆむは小さな漁港のある町でバスを降りた。そこは古い民家が立ち並び漁師の網が軒先にぶら下がっているような一画で、あゆむがその周辺を散歩するようになったのは今年の春に隣りのクラスの藤井晴夫と付き合い初めてからだった。


 藤井晴夫は剣道部で、背が高くてりりしい眉の下の切れ長の目が涼しげな男前で、どちらかというとモテる部類に入る男の子だった。しかしあゆむ自身はそういう骨っぽい男らしいタイプよりも前髪がさらさらで線が細くてジーンズにボートネックのボーダーシャツが似合うような子が好きだったのだけれど、去年の冬の球技大会でたまたま藤井と実行委員をやったところなんだか急速に仲良くなってしまい、藤井の顔に似合わない優しい物腰やおっとりした態度が大人びてみえて「あ、こういうのも、いいな」と思っていたら、次の春には藤井の方から告白してきた。

 冬の間メールしたり、クラスが違ったけれどすれ違えば「よお」とか「寒いね」ぐらいな言葉は交わして、たまにオススメの漫画の貸し借りもして、距離を縮めるには充分な時間を過ごし、あゆむは藤井が男ばかりの三人兄弟の末っ子であることを知り、藤井もあゆむのところに姉が連れてきた猫がいてまるで懐いてないことなども知るようになっていた。


 なにが恋の決定打だったのかは分からない。でも春になって藤井は放課後に自転車で帰ろうとするあゆむを自転車置き場で待ち構え、それも部活の前だから袴を穿いて竹刀まで持っていて、喧嘩でも売られるのかとあゆむは驚いたが、藤井は決闘の申し込みではなく交際の申し込みを、いつもそうであるように低い落ち着いた声で言った。


 この時あんまり落ち着いているからあゆむはなんの冗談かと思ったのだが、実は緊張のあまり声が出なかったのだと後になって藤井から聞いた時は笑ってしまった。


 ともかくあゆむは素直にそれを受けた。嬉しかったのだ。酸っぱいものを食べた時のようにきゅんと胸が窪むのが分かって、次いで、甘い気持ちで指先まで痺れるようだった。


 具体的にはその瞬間から恋が始まったと言えるかもしれない。あゆむの目に藤井はもうただの同級生の男の子には映らなかった。特別で、大切な男の子になっていた。


 藤井との交際はあゆむがそれまでに経験した短いいくつかの恋の連鎖とはまるで違っていた。藤井はあゆむを名字で呼んだし、あゆむもこれまで通り「藤井くん」と呼んだ。部活があるから放課後は別行動で、電話も短い世間話、メールは淡々として不必要に浮かれた戯言を連ねたりはしなかった。


 そういう性格だったのだ。たぶん、あゆむも。あゆむ自身はこれまで自分がそうだとは知らなかった。闇雲に好きだの永遠だのを言い合うことや、しなければ何も始まらないかのような性急なセックス、束縛というにはあまりに幼い嫉妬も。今までの恋愛はよく言えば刺激的で悪く言うなら子供っぽいものだった。でもそれに対して疑問を感じたこともなかった。あゆむは恋とはジェットコースターのようなものだとさえ思っていた。しかし藤井との間にはそんな一時的ですぐに冷めてしまうような熱狂はなく、穏やかで淡々としていて、自然で、安心を伴う空気があるだけだった。例えるなら、彼は観覧車のようにちょっと怖いような、でもゆったりと空を横切って行くような優しい存在だった。


言葉にせずとも繋がっていると思えること。帰りが遅くなれば当たり前に心配し、試合があれば真面目に、祈るように健闘を願うこと。会えば磁石が引き合うように手を繋ぎ力をこめて確かめる。見交わす眼に胸が痛いような恋情が溢れているのを無視することはできない。こんな恋愛があるなんて。あゆむは初めての感情を味わっていた。


 藤井とあゆむは日曜に映画を見に行ったり、買い物に行ったりというごく普通のデートもしたけれど、一番好んだのは「散歩」だった。


 なにをするでもなくただぶらぶらと歩く。山手の住宅街の瀟洒な家々を縫って美しいレンガの塀を横目にバラの花を眺める。坂を下って下町でお好み焼きを食べる。それから藤井の家の近くの、海辺の街。


 ひなびた空気と静けさ、磯の匂いというよりは生臭いような風が時折吹きつけるけれど、迷路のように入り組んだ板塀の間を歩いているとまるで異世界に連れて行かれるような秘密めいた気持ちになり、胸がどきどきした。


 家並みの間を抜けて海へ出るとなぜかいつも「辿りついた」ような気分になった。目的地がそこであったわけではないのに。舫われている小さな船と沖を行く大きな船と。二人で手を繋いで眺め、キスをした。


 あの日、藤井は試験の前で部活がないから一緒に帰ろうと言ってあゆむを待っていた。


 海辺の街からバスで通っている藤井は、あゆむの自転車のサドルの高さを上げて、校門を出るとすぐに後ろに乗るようにと言った。


 試験前だというのに夏の暑さのせいか二人は妙に浮かれていた。普段一緒に帰ることがないので、せっかくだからちょっと寄り道していこうと言って藤井は軽快にペダルを漕いだ。藤井の背中につかまりながら、あゆむは世界が自分達のためにあるような気がして大笑いしたいほどだった。


 恋とは常にそういうものなのだけれど、とにかく二人ははしゃいでいて、藤井もまっすぐ前を向いて風を受けながら試験の範囲やレポート、提出しなければならないノートのことをあれこれと喋った。


 確かに浮かれてはいたけれど、二人は暴走していたわけではなかった。藤井は律義に信号を守ったし、少しでも長くこの痛快な気分を味わっていたくてスピードも出していなかった。


 事故はそういった意味で本当に「事故」だった。


 信号のない交差点。路肩にステーションワゴンが停まっていて、向こう側は見えなかった。あれがなければ。あそこに車が止まっていなければ、交差点に軽トラックが侵入してくるのは見えていたのに。


 恐らくそれは車を運転していた建築屋のお兄さんもそう思っただろう。あそこにワゴンが停まっていなければ、自転車の二人乗りが直進してくるのが見えていたのに。


 しかし今更そんなことを言ってもどうにもならない。現実にはお互いの姿が見えなかったのだから仕方がない。あっと思った時にはもう二人は弾き飛ばされるように空中を舞い、道路に叩きつけられていた。


 あとのことは説明するまでもない。あゆむは顔面に大きな傷を残し、入院。そして「自分だけ助かってもね」というのは、藤井のこと。


藤井は全身を強く打ちまだ意識のないままだった。そのことで誰もあゆむを責めなかった。二人乗りをしていたことも、あゆむだけが意識を取り戻し退院したことも、誰も何も言わなかった。あゆむの両親だって、ただあゆむの回復に泣いただけで藤井のことは一言も口にしなかった。


 けれどあゆむは感じていた。周りがなんと思っているのか。言葉にせずとも誰よりも一番に。痛みのあまり心臓が押し潰されてしまいそうなほどに。


 一体誰が悪かったというのだろう。あゆむは一秒たりとも後悔しない瞬間はなかった。あの時二人乗りをしていなければ。あの交差点で停まっていたら。あの道を通らなければ。いっそ付き合っていなければ。


 目が覚めた時、あゆむは自分の身になにが起きたのかすぐには理解できなかったけれど、ともかくICUの看護師に尋ねた。


「藤井は……?」


 マスクをかけた看護師は目だけでやんわり微笑んで見せ「大丈夫。心配ないのよ」と言った。即座に嘘だと分かった。


 校内であゆむに向けられる視線。あれは怪我のことや奇跡の生還への好奇ではなく、あゆむだけが助かったことへの非難なのだ。それは誰よりも分かっていた。なぜなら他ならぬあゆむ自身が一番自分を責めていたから。


 生きていることがこんなにも怖いことだなんて。あゆむは両肩に自分だけではなく他人の、それも好きだと思う人の命までも圧し掛かかるのを感じ重くてたまらなかった。


 二人で歩いた道を今あゆむは一人で歩いている。舗装されていない砂埃の立つ路地に自分の影が落ちている。あゆむは宛てもなく路地から路地へ歩き続けた。首筋を汗が伝い落ちる。古い家屋の塀越しに覗く山茶花が暑苦しく生い茂っている。

 ポケットのハンカチを取り出して汗を拭く。藤井が自分を好きだと言ってくれたことが申し訳なく、罪悪感が胸に広がる。


 板塀の足元のわずかな隙間から、猫が、猫とは思えぬのろのろとした動きで這い出してきた。そして立ち尽くすあゆむを見ると「おや」と呟いた。


 また、だ。あゆむはなげやりな気持ちでじっと猫を見つめた。猫は黒い皮毛に、口のあたりから胸にかけてと、手先が手袋を嵌めたような白で、瞳は金色だった。


「これはこれは……」

 猫は言った。


「……なによ」

 あゆむはふいと顔を背けた。拗ねたように、うんざりしたように。そんなあゆむに猫はふふと小さく笑った。


「死神に会いなさったね」


 あゆむはぎょっとして猫に視線を戻した。猫はまたふふふと笑った。

「死神ってなによ……」

「魂を迎えにくる神様のことじゃよ。知らんのかね」

「知ってるけど、だって私死んでないし」

「死にかけたことがあるんじゃろ」

「……なんで分かんのよ」

「影がつくんじゃ」

「影?」

「死神に会ったら、影がうつる」

「なにそれ。それって猫ならみんな見えるの? それともあんただけ?」

「あんたじゃない」


 猫は塀に沿って歩き出した。

「儂にも名前はある」

「……」

「あんたにも名前があるじゃろ」

「……あゆむ」

「あゆむさん。儂は服部文左衛門じゃ。心配せんでも死神に会ったからって死ぬわけじゃない」


御大層な名前を名乗って、猫は三軒先の家まで行くと「じゃ」と塀の下へと潜り込んだ。


「待ってよ」


 あゆむはしゃがみこんで塀の下を覗き込んだ。が、猫の姿はもう見えなかった。

 服部文左衛門。あゆむは地面に手をついた。焼けた砂が熱い。夏休みが始まる。藤井のいない夏。立ち上がろうにも眩暈がする。涙で目の前が滲む。猫が喋るという妄想と幻聴。あゆむはしばらく動くことができなかった。


 うちに帰ると板橋が台所の床に寝そべり、その傍では母親が電話をしていた。

 母の話しぶりで電話の相手が姉の玲奈であることが分かった。


 姉の玲奈とあゆむは年が離れているせいか喧嘩らしい喧嘩をしたこともなく、かといって離れているあまり却って親密な姉妹らしさもない、まるで少し離れたところにいる親戚のような仲だった。


 玲奈の方ではあゆむをいつまでも小さな妹のように思いはなから相手にしていないようなふしもあり、あゆむの方でも玲奈が大人なので自分とは遠くかけ離れていて理解を得られるとは考えもしないで育った。


 といって仲が悪いわけではなく、あゆむはあゆむなりに玲奈を慕っていたし、玲奈もまたあゆむを可愛がっていた。玲奈は東京へいる時からあゆむに洒落たアクセサリーや小物の類いを送ってくれたし、帰省すればお小遣いもくれた。あゆむは都会の暮らしを身に付けて洗練されていく姉が眩しくもあり、憧憬の眼差しがないでもなかったけれど、やはりそれはテレビや雑誌の中のもののようで、生活を共にしていないだけにどこか浮世離れしたものに感じていた。


 あゆむは玲奈に呼びかける「お姉ちゃん」という言葉の中にだけ姉妹を感じ、ついぞ思春期にありがちな反抗的な内容の相談も恋愛の相談もかけたことはなく、今だって藤井のことを玲奈に話すつもりはなかった。


 玲奈が結婚する時、あゆむはその挙式ならびに披露宴に出席するためのワンピースを玲奈自身に買ってもらった。あの時玲奈はあゆむにホコモモラのシャンタン地の「よそいき」なワンピースを買ってくれ、これから結婚する相手のことよりも板橋のことばかり喋っていたのを覚えている。板橋のかわいい様子や、かしこさについて。拾った当時の瀕死の状態から奇跡の回復と、元気に育っていった過去について。


 母親と姉は世帯の切りまわしや、アメリカと日本の違い、旦那さんの仕事のことについて喋っている。

「おかえり」

 母親が素早くあゆむに声をかけた。

「ただいま」

 あゆむも答えたが、すぐに母親は姉との会話に戻り、

「そうそう、そうなの。え? そう、今、あゆむが帰って来たところよ」

 と姉にも告げた。

 あゆむは冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎ、立ったまま飲み干した。

「通知表もらった?」

 ふと気付くと足元の板橋が顔をあげて、あゆむを見ていた。

「ふん」

「どうだった?」

「別に……」

 板橋はふうんと言うと、再び寝そべり前脚に顎を乗せて視線だけは母親の方に向けた。


 あゆむがその場を離れかけると母親が、

「あゆむ、お姉ちゃん」

 と、受話器を差し出した。玲奈と話すのは退院後二度目だった。


 退院してすぐに話した時、姉の玲奈は遠い国から涙声で「よかった」と言い、「もう、どうもないの? 大丈夫なの?」とあゆむを気遣ってくれた。


 無論、姉にもあゆむの怪我のことは知らされていたし、藤井のことも母は話しているはずだった。けれど姉はそれには触れずに、体調がよければ夏休みに遊びに来るように言い、もちろん飛行機代は出してあげるし夏中こっちにいたってかまわないと言いもした。


 これまでだって何度も姉から遊びにおいでとは言われていたけれど、こんな風に世界から隔離するかのような、現実からの逃避行のようなバカンスの誘いは初めてでかえってあゆむの立場を思い知らせるようで返事のしようがなかった。


 そう思う自分をやっぱり卑屈だと思いはすれど、ただ実際に補習はいつ終わるとも知れず、いや、それよりも意識不明の藤井を残して自分だけは呑気らしく国外逃亡…じゃなくて海外旅行とはあまりにもひどい。そう考えるのは当たり前だった。


 あゆむは自分が助かったことがとんでもない幸運だと分かっているし、生きていてよかったと思う。でも藤井が未だに死の淵にいることを考えると、一体、どうして喜ぶことができるのかと拳を握りしめずにはおけなかった。


「あゆむ?」

「うん」

「今日、終業式だったんだって?」

「うん」

「補習に行ってるそうね」

「うん」

「いつ終わるの?」

「分かんない。まだ日程聞いてないから。見込み点とかついた分はいいけど、試験受けなかったから穴埋めとかあるらしいし」

「そう。でも、事情が事情だから、そんな長引かないでしょ」

「たぶんね」

「夏休み、どっか行くの?」

「別に……」

「今年はお父さんもお盆休み長いんでしょ」

「……さあ?」

「そしたらね、私も今年はそっち帰ろうかなって思ってるの」


 大きな声ではなかった。普通の声で、普通の会話だった。なのになぜ聞こえたのだろう。動物とはそういうものなのか。寝そべっていた板橋が突然起き上がり椅子に飛び乗ってテーブル脇に立っているあゆむの方へぐんと首を伸ばすようにし大きく眼を見開いて、

「れいちゃん、帰ってくるって?」

 と、尋ねた。


 当然、嬉しげな期待に満ちた口吻はあゆむにしか聞こえておらず、あゆむは一瞬板橋に視線を走らせると、受話器の向こうの姉に、

「帰ってくるの? お盆っていつからだっけ?」

「お盆は混むから、その前か後ぐらいに考えてる。啓一郎の仕事の都合もあるから、まだ分からないんだけど」

「啓一郎さんも一緒に帰ってくるの?」

「そりゃあそうよ」

 あゆむは板橋に目配せをする。


「それはそうと怪我の具合どうなの? お母さんは順調だって言ってたけど」

「うん……」

「お母さんとも話してたんだけどね、整形外科ならこっちの方が発達してるんじゃないかって」

「なに言ってるの。高いよ。無理だよ」

「だって、一生の問題よ。程度によってはどうにかならない額じゃないと思うのよね。調べてみないことには分かんないけど。だからその為にも今年は帰ろうと思うの」

「それって私の顔の傷を見にってこと?」

「あゆむ、別に好奇心で言ってるんじゃないのよ」

「……分かってる」

「まだ痛むの?」

「痛くはないよ」

「お金のこととかね、気にしなくていいのよ」


 そう。そうだろうとも。あゆむは両親の会話を病院のベッドでまどろむ時にも幾度か漏れ聞いて知っている。この事故で、この怪我で、多額の保険金が支払われるであろうことを。


 こんな風に実に具体的に自分の血や肉に値段がついていくのだと思うと、ならばこの抉りとられてしまった顔の血肉と見事な風穴を開けた自分の内部の傷とではいったいいくらほどの違いになるのだろうかと考え、それでは果たして藤井の命には幾らの値がつくのかと思うといたたまれなかった。


 あゆむは思い切って、言った。

「おねえちゃん」

「なあに」

「私、顔の傷なんて治さなくていいよ。このままでいい。一生の問題ならそれでもいい」

「なに言ってるの。女の子なんだから……」

「女の子だから顔に傷があったらお嫁にいけないとかそういうこと? だったら、心配ないよ。私結婚しないから」

「あゆむ」

「誰も好きにならないし、誰にも好かれなくてもいい」

 二度と。もう二度と。藤井でなければ。二度と。

「あゆむ。そういうことじゃないのよ」

「分かってる。心配してくれてるの分かってるよ。でも顔のことはもういいから」

「……」

「帰って来る日が決まったら教えてね」


 あゆむはそばで呆然としている母親に受話器を押しつけると、そのまま自分の部屋へと駆け上がった。


「そんな言い方しなくてもいいだろ」

ドアを閉めようとすると同時に板橋がすべりこんできた。

「れいちゃんだって心配してるんのに」

板橋はいきなりあゆむを詰るような口吻で、ベッドに飛び乗った。

「分かってるよ」

「なんであんな言い方すんだよ」

「あんたに関係ないでしょ」

 あゆむは鞄をぼんと放り投げた。

 板橋は一瞬驚いてぴょんと後ずさったが、すぐに背中の毛を逆立てて、

「怪我した自分が悪いんだろ」

「そうよ、だから分かってるって言ってるじゃない。事故った私が悪いのよ。でも、だからなんなのよ。放っておいてほしいのがなんで分からないのよ」

「分かるわけないだろ、そんなことお前言ってないじゃん」

「言わなくても分かるでしょ。この状況考えたら、分かるでしょ」

「分かんねーよ」


 ああ、まただ。またこんな風にまともに猫と言い合いをしてしまうなんて。どうして幻聴はこんなにもはっきりと気が狂っている自分を思い知らせてくれるんだろう。


 板橋は小さな口を三角にしてささやかな牙を見せ、しゃーしゃーとあゆむを威嚇している。あゆむもまた仁王立ちになり、板橋を睨みつけた。両者一歩も引く気配はない。


「れいちゃんに謝れ」

「なんでよ」

「いいから、謝れ」

「いやよ」

「謝れっ」

「うるさいっ。お姉ちゃんが帰ってきたら謝ればいいんでしょ」

「いつ帰ってくるんだよ」

「だからお盆の前か後だって言ってたじゃない」


 そこまで言ってあゆむははっと気がついた。もしや板橋は姉を待っているのではないか、と。と同時に、あゆむは板橋が姉のことを「れいちゃん」と呼ぶのに初めて心づいた。


その呼称は板橋にとって姉の玲奈が自分よりも、今でこそ懐いている母親よりも親しい存在であることを表していて、あゆむは戦意を消失し、そのまましおしおと椅子に腰かけた。


 窓の外は暑苦しい日射しが燃えていて、庭の木蓮の分厚い葉をぎらつかせている。


 椅子の背に体を預けるようにし、脚を投げ出すとあゆむは呟いた。

「お姉ちゃんは知らないのよ」

「なにを」

「私が……どれだけ藤井を好きだったか」

 四足を踏ん張っていた板橋はゆっくりと尻尾を垂れると、その場にちんまりと居ずまいを正すといったように座り直した。

「あんたの言う通り怪我した自分が悪いんだろうけど、でも、今は本当にそんなことどうでもいいの」

「そんなに大事な人?」

「……」

 あゆむは無言で頷いた。


 板橋はあゆむと眼を合わせないように顔を横向けると、拗ねたような口調で、

「れいちゃん、俺の事なんにも言わなかったな。お前の方がよっぽど大事なんだな」

 動物は涙を流さないとかなんとか言わなかっただろうか。それが本当かどうか定かではないにしても、あゆむは板橋が泣いているのかと思い、「泣かないでよ」と声をかけた。

「泣いてないよ」

 板橋はすんなりそう答えたけれど、あゆむの方を見ようとはしなかった。

「お姉ちゃん、忘れたわけじゃないよ」

「……」

 板橋はふんと鼻先で返事をすると、ベッドの上に小さく丸くなった。


 あゆむは制服を脱ぐとジーンズとTシャツに着替え、板橋の横に同じように寝転んだ。


 二の腕のあたりに板橋の柔らかな毛皮がふかふかとあたっていて、じんわりと熱い。


 二人は同時に大きなため息をついた。これまで並んで寝たことなど一度もない。この突然で、奇妙な心昜さはどうだ。あゆむははっきりと感じていた。今自分達が同じ種類の孤独と絶望を味わっている、と。


 言葉にせずとも気持ちが確かに通じている。それがあゆむにはどうしたって奇跡としか思えなかった。言葉を尽くしたところで誰とも分かりあうことなどできないと思い、だからこそ誰にも何も言わずにきた。でも、今、この小さな猫と通じ合っている。


 あゆむは板橋に手を伸ばした。そうっと触ると板橋の皮毛が指先に優しい。

「今日ね、海の近くでね、変わった猫に会ったのよ」

「ふん」

 板橋の柔毛を掻きわけながら、言う。板橋は鼻先で返事をする。

「だいぶ年いってるみたいで、おじいちゃんみたいなの」

「ふん」

「でね、私を見て変なこと言うのよ」

「なに」

「死神に会っただろって」

「へえ」

「それで、どういう意味だって聞いたら名前を名乗れって言うの」

「ふん」

「で、私が名乗ったら、向こうも名乗ってね」

「なんて」

「それが、服部文左衛門だって。すっごい名前でしょ。サムライかっての」

「えっ」

「え?」

 板橋がびっくりして顔をあげた。

「なに? 知りあい?」

「それ……」

 板橋は丸い眼をさらに丸く大きく見開いて愕然とした表情をし、とても信じられないという調子で言った。

「おじじさま……」

「え?」

 きょとんとするあゆむに、板橋は起き返り真剣な口調で、

「それ、おじじさまだ……」

 と、今一度呟いた。


 服部文左衛門。それは海辺の町に住む猫たちの長老で、板橋の言葉を借りると「なんでもご存知」で「不思議な力がある」「偉いひと(猫)」だそうだった。


 夏休みの退屈な夜を扇風機の風にあたりながら、あゆむは板橋と縁側に並んで背後のテレビから聞こえるナイタ―中継を聞くともなく聞いていた。


 クーラーが苦手だという板橋はなるべく冷気のこない方へと体を避けながら、いくらか興奮した口調で服部文左衛門、通称「おじじさま」のことを話してくれた。


「噂ではもう百年ぐらい生きてるらしいんだけどさ、それはもうかしこくて、なんでも知ってて、あの辺一帯からずうっと遠くまで縄張り中の猫を束ねてるんだから」

「百年はないわよ」

「いやー、分かんないよ。百年ぐらいいってるかも」

「いや、ないない」

「だって仙人みたいなんだから。未来のこととか分かるんだよ」

「というと、例えば?」

「魚がどれぐらい獲れるとかー」

「……」

「生まれてくる子供の性別とかー」

「そういうのって、経験とか勘って言わない?」


 あゆむは傍らに置いた麦茶を一口飲んで笑った。しかし板橋は真面目な顔でもう一つ付け加えた。


「誰がいつ死ぬかも分かるんだから!」

「え」

「他にも色々……」

「ちょっと」


 あゆむはいきなり板橋を捕まえた。

 板橋は思いがけないあゆむの動きと、腕にこめられた力に軽い恐怖を覚えた。それは肉食動物の捕食の力のようで、無論あゆむにそんなつもりはなかったのだけれど板橋には自分が「小さき生き物」であることを知らせるものだった。


 しかしそれはほんのわずかな瞬間で、すうっと冷えた心もすぐにあゆむの目の中にある真剣な、ともすれば今にも泣き出しそうな色を見てとると、

「なに? どうした?」

 とそうっと尋ねた。


「それは猫のこと? 人間のことも分かるの?」

「なんでも、だよ。生き物のことはみんな分かるらしいよ」

「本当に?」

「ふん」

「見れば分かるのね?」

「そうらしいよ」

「いつ、どこに行ったら会えるの?」


 死期が分かる。見れば分かる。あゆむはその言葉に希望と絶望を、血の味に似た金臭さを舌の裏に感じていた。


 あの猫はあゆむが死神に会ったと言った。影がある、と。あの猫は死神に会ったからといって死ぬわけではないと言ったが、仮に死神が自分の魂を迎えに来ていたとしても、即ち自分が死ぬのだとしてもあゆむは怖いとは思わなかった。それよりあゆむが知りたいのは、いつ死ぬのか……いや、厳密には「助かるのか、どうか」だった。そう、藤井。今も死の淵にいる藤井の生命の行方を知りたかった。


「聞きたいことがあるのよ」

「おじじさまに?」

「そう」

「……」


 板橋は体をよじってあゆむの手からすりぬけた。背後のテレビからは先程からヒットの連続で観衆の沸く声が中継されており、その熱狂が二人の間を流れては消えていく。


 母親が板橋と差し向かいになってぼそぼそ呟いている娘の姿に怪訝な視線を向けていることも、あゆむは気付かなかった。


「お願い。知ってるなら教えて」

「海の近くで会ったんだろ」

「うん」

「あの辺におうちがあるって聞いたことある」

「飼い猫なの?」

「名字、服部って言っただろ」

「それ飼い主の名前なの?」

「だって、鈴木板橋」

「……」


 服部文左衛門。会わなければ。なにがなんでも、会って聞かなければ。


「あゆむ? どうかしたの?」

 母親が声をかける。あゆむは答えない。

「板橋、おいで。猫草買ってきたよ」


 母親が板橋を呼ぶ。板橋はにゃあんと猫らしく一声鳴いて、母親の方へ小走りに駆け出した。


 母親が誰にともなく「ホームセンターの猫草はぼうぼうに伸びてるのばっかりだけど、花屋さんで買うとまだ新しいのよ」と話している。


 明日、会いに行こう。暗い庭を見つめながらあゆむはそう心に決めて立ち上がると、野球を見ている父親に並んだ。画面の中ではすでにヒーローインタビューがなされていた。


 補習をサボることはできなかった。無断で欠席すると即座に保護者に連絡がいく。それでも以前のあゆむなら平気でぶっちぎっていた。叱られることなどなんとも思いはしなかった。でも、今は違う。うっかりしたことをすればまた事故を疑われる。あゆむはそう考えて自嘲気味に笑った。いや、違うわ。事故じゃないかなんて心配よりも、自殺でもするんじゃないかと思われてる。


 配られた課題をこなしながら、あゆむは蝉の声を聞いていた。一週間の命と分かっていれば、なすべきこともある。けれど、たった一週間で何ができるんだろうか。


 十七年の人生を一週間で清算することができるんだろうか。また、一週間で思い残すことなくやりたいことを全部やるなんてことも、できるんだろうか。

 たぶん無理だ。だいたい諦めることができない。九〇歳や百歳にでもなっていれば違うのだろうけれど、一体誰に残る何十年分もの命を諦めることができるんだろうか。


 死は何もかもを捨て去ることだ。ここではないどこかへ追い立てられるように旅立つこと。惜別の思いは果てしない。奪われるのではない。死にゆく者は自分の人生の今までもこれからも捨てて自らをゼロにする。


 もしも自分に未来を予知する力があったなら。予知した上で避けられない運命であると分かっていたなら。あの事故までの一週間をどう過ごしただろう。きっと何をどれだけ満たしても、失うと分かっていればすべては虚しいことだったに違いない。藤井を失うと分かっていたら心のすべてを彼に傾けたりはしなかった。そう思うのと同時に、知らないからこそ好きでいられたし、今も好きなのだと思える。

 あゆむは課題のプリントをめちゃめちゃに破り捨てたい衝動が湧き上がるのを感じた。


 こうしている間も藤井の持ち時間はカウントされているかもしれない。それなのに自分は無為に過ごしている。この痛烈な虚無感ときたら。


 教室を見渡すと、気だるい空気の中誰もがうなだれてペンを走らせている。みんな各自の受けるべきペナルティを甘んじて受け入れ、滑稽なほどの真面目さでこの時間を過ごしている。


 もはや自分の顔の傷も絶望と同じく親しいものになりつつある。猫と言葉が通じていることも、すでに血や肉になるかのように自分の一部となっている。あのインチキ心療内科医は様子を見ようとかなんとか言ったけれど、そんなこと言ってる間にも狂った頭で猫と心を通わせている。


 深く息を吸い込む。吐きだす。そしてまた吸い込む。狂っていても、人生に絶望していても、今は残された時間がどれだけあってなにができるのか知りたい。例え自己満足であっても何もせずに無益に過ごすよりはいい。そう思う一方であゆむは自分になにができるのかは考えもつかなかった。


 課題をやり終えて補習から解放されると、あゆむは海辺の町へ向かうバスに乗った。真昼のバスは閑散としていて、ガラス窓の向こうはアスファルトから陽炎がたつほどだというのに車内は冷房が効いて寒いぐらいだった。


 海沿いの国道を通ると人で溢れ返った海水浴場が見える。ヒットチャートとFM。裸のくせに色彩豊かで、どうしようもなく馬鹿馬鹿しい能天気な空気が満ちている。世界中のどこよりも明るい場所だ。手を伸ばせば届くほどの距離なのに今のあゆむには世界の果てのように遠い。


 きっと友達はみんなあそこでかき氷とやきそばと、ビーチボールと見知らぬ男の子を楽しんでいるに違いない。彼女たちの中にはもうあゆむという存在はいないだろう。生き残ってしまったことで罪を背負うような重い存在など彼女達には所詮迷惑なだけの代物なのだ。


 あゆむはそれも構わないと思った。誰からも省みられない存在なら、息をするのも苦しいような日々だってひっそりと耐えていける気がする。密やかに生きることを許されるならどれだけ心穏やかに暮らせるだろう。


 藤井と幾度も来た海辺の町でバスを降りると、あゆむは迷宮のように入り組んだ路地を歩き始めた。


 板塀や石垣を横目に玄関の表札を一軒ずつ確かめていく。荷物でごたごたしたガレージや門の向こうで老人が小さな椅子に腰かけて網を修理する姿も見られる。藤井の家もこんな家々のうちの一つだった。磯の匂いがぷんぷんしていて、庭には洗濯物と一緒に魚が干してあるような家。一度、お土産にと干物を貰ったことがある。あの時藤井はカルシウムが他の子よりも足りているから歯も骨も丈夫だと言っていた。虫歯にもなったことがないし、骨を折ったこともない、と。いくらカルシウムが足りていてもあの事故で無傷というわけにはいかなかったらしいけれど。


 古い漁師町はひなびた雰囲気で、午後の凪のせいもあってか異様なほど静かだった。


 あゆむは服部という家を探すと共に、板橋が言うところの「なんでもご存知」の「おじじさま」と呼ばれる猫を探していた。


 道の先に幻のように一瞬姿を現して、じっとこちらを見つめてはぱっと走り去る猫たちにも、あゆむは駆け出していちいち「待って」と声をかけた。しかし、あゆむが近づこうとすると猫はことごとく逃げ去ってしまう。あゆむの姿を認めると一瞬は立ち止まり確認するかのように顔をじいっと見つめ、それから素早く駆け出す。なんて忌々しい猫たちなのだ。あゆむは舌打ちをした。言いたいことがあるなら、言えばいいのに。


 それにしても猫が多い町だな……、そう思った時だった。煤けた板塀の先に他の家のどこよりも一際古い家があり、黒ずんだ表札に「服部」と記されているのをあゆむは発見した。


 その家は石の門柱の脇に自転車を停め、玄関は時代がかった格子戸で、ひょいと覗けば板塀沿いに家をぐるりとまわって庭へ抜けられるようになっていた。

 格子戸の内は暗く、しんとしていて人の気配がなかった。あゆむは小声で格子戸の隙間や庭先へむかって「文左衛門」と呼びかけてみた。


「おーい……、すみませーん……」


 自分が滑稽で不審者まがいであるのは分かっていたので、あゆむは時々後ろを振り返り人が来ないかを確認した。


「文左衛門、いないのー……?」


 声をひそめると体も小さくなるのはなぜだろう。あゆむは膝と腰を曲げて、家に向かって猫の名を呼び続けた。そしてそろそろと板塀と家の間を侵入し、庭へと入って行った。


 本来猫は夜行性だ。板橋も昼間は寝てばかりいてまるで動かない。食べるも遊ぶもほとんどの活動は夜になってからで、外出だって基本的には夜だ。だからあゆむは文左衛門が家にいると信じていた。


 然して不法侵入を果たしたあゆむは庭に面した縁側に目当ての猫が寝ているのを発見した。


表向きの玄関の古さと同様に日に焼けた縁側は白っ茶けていて、今時珍しくアルミサッシではなく木製の建具が嵌まっていた。


 家の中に人がいる様子はなかったけれど、ガラス戸は開け放されていて縁側に面した二つの部屋は奥まで見通すことができた。


 一つは畳に卓袱台、茶箪笥、小さなテレビ。もう一つは板敷きの部屋で物置の如くごたごたして書棚から本が溢れ床に積み上がっていた。


 それにしても。あゆむは思った。この日盛りにあんなにもかんかんと日の照る縁側に寝ていて暑くないんだろうか。あゆむは朝顔の鉢を並べた庭を猫へと突き進んで行った。


「文左衛門」


 犬に熱中症は聞くけれど、猫はどうなんだろう。


「文左衛門?」

 もう一度、呼んでみる。


 すると文左衛門はゆっくりと眼を開けて首をもたげた。

「おや……」

 文左衛門は目覚めたばかりの顔つきで、意外そうに、しかし、そう驚きもせずに、

「あゆむさんか。どうかしたんかいの」

 と、あくびをしながら言った。


「文左衛門、そこ、暑くないの?」

「……ふん……」


 靴脱ぎ石の上には庭下駄が揃えてある。あゆむは下駄の黒ずみに目を落としながら、

「おうちの人、お留守?」

 と尋ねた。


 文左衛門は起き上がり、質問には答えずに、

「よくここが分かったのう……。あゆむさん、なかなかの探偵じゃな……」

「うちにも猫がいるのよ」

「ふむ」

「板橋っていうんだけど、知らない?」

「ああ……東京から来たとかいう……」

「そう」

 文左衛門は欠伸をひとつして、ふむと息をついた。

「聞きたいことが、あるの」

 あゆむは我知らず手のひらに汗を握っていた。

「文左衛門はなんでも分かるって板橋から聞いたの」

「なんでもなんてことはないがの」

「誰がいつ死ぬかも分かるって」

「……」

「この前、死神がどうとか言ってたでしょ」

「あゆむさん、まあ、落ち着いて座ったらどうかね」


 よほど切迫していたのだろう、いつの間にかあゆむは文左衛門に詰め寄るように前のめりになっていた。


 文左衛門はちらと視線で自分の隣りを示した。あゆむは喘ぐように深呼吸をし、陽に焼けた縁側に腰を下ろした。


「余計なことを言うてしもうたかのう……」

「……」

「気にしとったんなら悪かった」

「……」

「この前も言うたじゃろ。死神に会ったからといって死ぬわけじゃないんじゃよ。あんたは死にはせんよ」

「私のことじゃないのよ」

「む?」

「……私の……好きな人……」


 言葉にするとそれだけで胸が苦しく、涙が嗚咽を伴ってこぼれそうになる。怖いと思うのは知りたくないからではない。むしろ知りたいから怖いのだ。


「私、ちょっと前に事故にあったの。この顔の傷。これ、その時できたのよ。死ぬかと思った」

「でも死ななかった、じゃろ」

「私が死ななかったのは奇跡なんだって言われたわ」

「寿命じゃなかったんじゃな」

「寿命?」

「あんたら、年取って死ぬのが寿命と思ってるじゃろ? それは違うんじゃよ。子供の時に死ぬのも、百歳になって死ぬのもおんなじ寿命なんじゃ。みんな、いつ死ぬか決まっとる。それが寿命というんじゃ」

「それ、分かるの?」

「儂には分からんよ」

「でも、誰がいつ死ぬか分かるんでしょ?」

「あゆむさん、なにを聞いたんか知らんが、儂にはそんなことは分からんよ。儂はただの、年取った猫っちゅうだけじゃから」

「……事故った時、彼氏も一緒だったの」

「……」

「まだ意識ない」

「……」

「まだ生きてる」

「……」

「……まだ死んでない」


 呟きは涙まじりに震えて、地面に吸い込まれるようにか細く消えた。


 今度は文左衛門が深呼吸のようにため息をつく番だった。


「寿命が分かるのは、死神だけじゃよ」

「文左衛門、死神が見えるの? 話せるの? だから分かるんでしょ? 誰が、いつ死ぬか、分かるんでしょ?」

「……知ってどうするんじゃ」

「お願い」

「その人が死ぬかどうかを知って、あんたはどうするつもりなんじゃ」

「ねえ、寿命って絶対なの? 変わることないの?」

「……」


 凪の時刻が過ぎたのかすうっと風が庭を渡り、軒先の風鈴をちりんと鳴らした。

 文左衛門はあゆむをじっと見つめた。あゆむもまた文左衛門を真剣に見つめていた。あゆむは全身全霊で、ほとんど祈るような気持ちで文左衛門の言葉を待っていた。


 しかし、文左衛門の片耳がぴくっと動いたかと思うと、

「いかん」

「え」

「人が来る」

「えっ」

「あゆむさん、ここにおってはいかん。不法侵入じゃ」

「えええっ」

「早く、早く出るんじゃっ」

 あゆむは慌てて立ち上がった。耳を澄ますと、確かに塀の向こうに話し声が聞こえてくる。

「ど、どうしよ……」

「いかんいかん、そっちから出て行ったら人目につく」


 玄関に通じる通路へ駆け出そうとするのを文左衛門は急いで制して庭先へぱっと飛び降りた。

「こっちじゃ」

 文左衛門はそう言うと先に立って玄関とは反対に家と塀の間へ走った。


「そんなとスリルに笑いだしたい衝動に駆られた。もう狂っているなんて不安もどうでもよかった。誰がなんと言おうと今こんなにも「通じている」のだから、自分にはそれが事実なのだからもう仕方ないじゃないか。


 制服の汚れをはたきながらあゆむは言った。

「ねえ」

「ふん」

「お願い。どうしても私はそれを知らなくちゃいけないの」

「なんの為に」

「今のままでは生きていけない」

「……」


 文左衛門は黙っていた。黒い毛皮に金色の目が思案げに、そして、少し悲しそうに見える。


 あゆむはしゃがみこむと文左衛門へと手を伸ばした。文左衛門は黙ってされるがままになっていた。


 指先でそっと触れると文左衛門の毛皮はしんなりとして柔らかく、板橋のそれとも少し違っていて、毛皮の下の肉も板橋よりは痩せて頼りないようだった。そういえばこいつが百年生きているとか板橋は言っていたなと思いだす。


 喋ったりしなければ文左衛門はただの丸い目をした可愛い猫だ。手足の先が靴下を穿いたように白く、口元から胸のあたりも前掛けをしたように白い。その絶妙なコントラストが文左衛門の顔に表情を与えている。まるで人間のように。でもあゆむにはもう文左衛門は可愛いだけの猫には見えなかった。


それは今頃家で寝ているだろう板橋も同じで、自分にとって彼らだけが心を許せるような、または縋りたいような存在になりつつあった。


「また来るから」

「……」

「絶対来るから。教えてくれるまで毎日でも来るからね」


 時間がないかもしれないのだ。あゆむは最後に一言こう付け加えた。

「教えてくれないと、痛い目にあわせるわよ」

 文左衛門は驚いたような丸い目であゆむを見上げた。まさかあゆむも本心ではなかったけれど、そんな脅し文句も言わなければいけないような気がして「わかったわね」と念押しまでした。

「本気だからね」

 あゆむの言葉に文左衛門は鼻先で「ふん」と気のない返事をし、くるりと向きを変えて今来た板塀の破れ目をひょいと飛び越えて行ってしまった。


 家に帰ると母親は留守で、エアコンの消された室内はむっと熱気がこもっていた。

 あゆむは一度大きく窓を開け空気を入れ替えた。

「板橋」

 そこが冷たくて気持ちいいのか、板橋は台所の床にだらしなく伸びきって寝ていて、あゆむが呼ぶと無精たらしく尻尾だけぱたぱたと動かして返事をした。

「お母さんは」

「買い物」

 冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いで一息に飲む。板橋は一向に動く様子がない。


 以前の板橋はこんなにも無防備ではなかった。人の気配に敏感で、熟睡していようとも即座に飛び起き臨戦態勢をとった。人のそばで寝ていられるような猫ではなかったのに、今はどうだ。言葉が通じるとこんなにも心許せるものなのだろうか。


 あゆむは板橋がこのうちに来た時の、野良猫のように敏捷で警戒心の強かった頃を思い出していた。あの頃板橋は絶対に誰にも心許さぬ顔をしていた。なにが彼をそうさせていたのだろう。警戒心が本能なら、今の板橋からは本能は欠如していることになる。


 コップを流しに置くとあゆむは窓を閉め、エアコンのリモコンを手にした。

「ねえ」

「ふん」

「文左衛門に会ったよ」

「えっ」

「会いに行ってきた」

「……何しに会いに行ったわけ?」

「なにって……」


 エアコンの吹き出し口から冷たい風がひゅうと流れ出す。板橋がむくりと起き上がった。

「聞きたいことがあったからよ」

「聞きたいことって?」

「あんた、知ってるでしょ」

「……彼氏のこと?」

「……そうよ」


 板橋は大きな口を開けてあくびをし、前脚を舐めて顔を洗った。そういう動作が猫らしく、あゆむはふっと小さく笑った。


「聞いてどうすんの」

「それ、文左衛門にも言われた」

「彼氏、死ぬの?」

「分かんない」

「知りたい?」

「あんたにも分かるの?」

「分かるわけないだろ」

「だよね」

「……もし死んだらどうする?」

「……藤井がいなくても生きていける自信がない」


 あゆむはそう口にするとしゃがみこんで板橋を抱き上げようとした。


 すると板橋はさも不愉快そうにふんと鼻を鳴らしてあゆむの手を逃れた。人間のように感情を露わにして態度を変える板橋にあゆむもまた驚きと軽いショックを感じて、出した手をひっこめた。


 板橋は怒っていた。以前は感じたこともない板橋の感情というものをまざまざと見せつけられて、と同時にその激しい感情の潮流の気迫に気圧されるようで、あゆむは戸惑っていた。


「そんなわけないだろ」

「……」

「人間一人いなくなったところで、それがどんなに大事な人でも、腹は減るし眠くもなるし、結局は今までと変わらずに生きて行くに決まってるじゃん」

「なんでそんなこと言うのよ」

「お前がなんも分かってないから」

「じゃあ、あんたには何が分かるのよ」


 板橋の言うことも正論に思えたあゆむは、怒りと悲しみのないまぜになった気持ちで、それでも自分が人間であるという誇りにかけて板橋を睨んだ。


 あゆむは気持ちが通じると思えてもやはり自分と板橋は対等ではないと心の底では思っていた。いや、思わざるえないのだ。彼が猫であり、自分が人間であるということも一つの理由だが、それよりも、頑なな態度を誇示しなければ自身を保つことができない。あゆむは自分の不甲斐なさを自分よりも下と思える存在によって正当化しようとしていた。


 板橋はむっとした顔で同じくあゆむを睨みかえしていたけれど、その動物らしい聡い聴覚でぱっと玄関へ続く廊下へ顔を向けた。


 そのわずか数秒後に玄関で物音がし、ドアの開く音が聞こえた。次いで、母の呑気らしい声。ただいま。あゆむ帰ってるの。今日も暑いわねえ。ごはん食べたの。あゆむ、いるの。


 母が部屋に入って来る。ああ、暑い。あゆむ、麦茶ちょうだい。母は買い物袋をテーブルに置きながら汗を拭っている。


 板橋はにゃあんと小さく鳴いて母の足元へ駆けて行くと、悲しいような、蔑むような、または憐れむような目であゆむを一瞥した。


母が「あら、板橋どうしたの」とひょいと抱き上げる。板橋は黙って母に抱かれている。あら、あなたお昼寝しないの。どうしたの。


 あゆむは板橋が母に媚びているように思えて忌々しく、ぷいと台所を後にした。

 自分の部屋に引き揚げたあゆむは、なぜ板橋があんなことを言うのだろうと考えていた。確かに自分達はもともと仲が良かったわけではない。でも、どうして言葉が通じるようになった今あんな意地悪なことをわざわざ言わなければいけないのだ。あゆむには板橋の気持ちがまるで理解できなかった。


 母にだけは心許して甘える板橋も、あゆむに辛辣な板橋もいずれも同じ板橋だが、あゆむの目にはまるで別な生き物に見える。


 所詮は畜生ということなのか。あゆむはふとそんなことを思う。自分なら、こんな風にわざわざ人を傷つけるようなことは言わないだろう。それは自分が人間で、相手に対する配慮ができるということだ。動物にはそれはできないのだろうか。一度は優しく通じ合ったと思っただけにあゆむは物悲しく、ベッドに寝転ぶと嵐が過ぎるのを待つかのように、じっと息をこらしていた。



 夏休みに入ってから一度も友達の誰からもメールや電話がないことはあゆむに死を連想させた。


 健やかな彼女たちと関わることが面倒に思ったのも事実だけれど、こんなにも簡単に忘れ去られてしまうのだなと思うとあゆむは自分の存在の軽さを考えずにはおけなかった。


 忘れられるというのはある種の死なのだ。もう彼女たちの中に自分はいない。

 それでは藤井はどうだろう。彼を省みる友人たちはどのぐらいいるだろうか。意識のない藤井には誰も会うことができない。しかし、噂されているだろう。彼の生命の行方について。そういった意味では藤井はまだ生きているし、その存在は鮮やかだ。


 あゆむは知っている。藤井の友人たちの間で自分が生き残っていることが取り沙汰され、時として残酷な言葉で糾弾され、同時に憐れまれていることを。その瞬間あゆむの存在も色濃くなる。今やあゆむは藤井の死線によってのみ、生きることを許されているようなものだ。


 文左衛門と藤井が同じ町内に住まうのは偶然なのだが、それではあの「なんでも知っている」という仙人みたいな猫は藤井のことも知っているだろうか。少なくとも飼い主の「服部さん」は知っているかもしれない。


 あゆむは昼間に自分が行った不法侵入を思い返し、なんだかおかしくなって一人笑った。


 もしもあの時家に戻って来た「服部さん」があゆむを発見したらどうなっていただろう。しかもそれが不幸な事故で未だ意識不明の「藤井さんの末っ子」のカノジョだと知ったらなんと思うだろう。……頭がおかしくなったと思うのだろうな。あゆむはもう一度自嘲的に笑った。


 あゆむはその夜もう一度文左衛門のところに行くつもりだった。こうしている間にも無益に時間が過ぎ去って行くのを黙って見ていることはできない。

 それに。それに、夜が長すぎる。静けさがあゆむを絶望へ誘う。暗闇があゆむに見せる終焉のイメージ。それらの苦痛に一人で耐えるよりは、あゆむは何度だってあの猫にかけあうつもりだった。


 時計の針が午前零時をまわったところで、あゆむは階下のソファで寝ている板橋を起しに行った。


 あゆむが近づくと板橋ははたと目を覚まし、一瞥をくれ、

「……どこ行くの」

 と尋ねた。


 あゆむは夕食後に自室に引き揚げてからパジャマ姿だったのを、ジーンズに着替えていた。

 父親も母親も夜が早い性質なのですでに寝ている。リビングはしんと静まり返っている。

 あゆむは小声で、言った。

「文左衛門のところに行ってくる」

「……今から?」

「うん」

「……」

「一緒に行ってほしいの」

「……」

「あんた達って夜行性でしょ。出かけてるかもしれないし、板橋がいないと探せないよ」

「他の猫に聞けばいいじゃん」

「そんな都合よく猫と遭遇できるか分かんないし、他の猫なんて探してる時間ないよ。それに、いちいち事情を説明しなきゃいけないじゃないの」

「それもそうか……」

「お願い、付いて行って。一緒に文左衛門探してよ」

「……こんな時間に出かけたらお母さんに怒られるよ」

「あんた、しょっちゅう出かけてるじゃないの」

「こっちじゃなくて、そっちが」

「……だから早く。早く行ってバレないうちに帰ってこないとまずい」

「……分かったよ」


 板橋はしょうがないといった体でひょいとソファを飛び降りると、前脚で顔をごしごしこすった。その仕草が眠気を祓おうとする人間のようだった


「心配しなくてもすぐ会えるよ。居場所は分かってるから」


 こんな時間の無断外出を両親が許すはずないのは分かっていた。知れればどんなに叱られるか、考えなくても分かる。しかし今はそんなことどうでもよかった。

「早く、行くよ」

 板橋があゆむをせかす。あゆむは物音を立てないよう慎重に家を出て、板橋について歩き始めた。


 深夜の住宅街とはいえ人通りが皆無かというとそんなことはなく、時折背後から皮靴の足音がし、車のライトがあゆむを照らし出した。板橋は道の隅を暗がりに紛れるように音もなく歩いて行く。あゆむは板橋に従って同じく静かに歩く。


 これまでに無断の夜間外出が一度もなかったかというとそういうわけではなかった。今までにも幾度か友達との夜遊びに、彼氏との密会にこっそりと出て行き、ひっそりと戻ったことがある。それらが一度もバレなかったかというと物音に気付いた母親が寝室から出てきてなにやら煙草臭いあゆむを廊下で発見したり、玄関ですでに待ちうけていたりした。当然その度にひどく叱られ、時には父親まで出てきて横っつらに平手打ちをくらったりもした。でも、もう二度と父親は手をあげたりしないだろう。例えあゆむが何をしても、この顔を殴ることはできない。しかしあゆむはそれを決して良しとは思わなかった。


いつか彼らの受けたダメージが癒えれば、かつてのようにあゆむを殴ることができるだろうか。そうだといい。壊れもののように扱うのではなく、もはや壊れたものとしていくらでもぞんざいに扱ってくれればいい。あゆむは今こうしてこっそり家を出ていることはさておいても、両親の気持ちを思ってせつなかった。自分は両親を傷つけてしまったのだ。悪気はないにせよその事実は消えない。


「ねえ、板橋」

「ふん」

「お姉ちゃんも昔こっそり夜中に遊びに行って、見つかって、お母さんと大喧嘩になってさ」

「ふん」

「その頃のお姉ちゃんったら血の気多いっていうか、もー、すごい反抗的だからお母さんに怒鳴り返して大変で、近所迷惑つーか、何の事件ですかってな勢いで警察に通報されそうで、お父さんが止めに入って」

「へえ」

「そしたらお母さんが繰り出したパンチがお父さんに当たって、お父さん鼻血出ちゃって、今度はお父さんが激怒してお母さんとお姉ちゃんが両方怒られて家から閉め出されたのよね」

「れいちゃん怒ると収集つかないとこあったなあ」

「あの人、キレたら物壊すからね」

「知ってる。彼氏と喧嘩してケータイぶっ壊してた」

「マジで」

「彼氏が週末部屋に来てたけど、なんかすごいしょーもないことで喧嘩すんのな」

「へえ」

「カレーの温め方とか、卵焼きに砂糖を入れるとか入れないとか」

「しょーもな」

「あと、猫にばっかりかまって、無視するとか」

「…へえ」

「彼氏がやきもち」

「板橋に?」

「そう。笑っちゃうよな」


 住宅街を抜けて川沿いの公園へ入る。桜並木が今は街燈の灯りも透過させないほど厚く生い茂り、暗闇が濃い。川は干上がり水の匂いはしなかった。


 小さな橋を渡りながらあゆむは自分が姉の思い出を持っているように、板橋にも板橋だけの思い出があるのだということを悟った。暗くて表情が読めなかったけれど、板橋の口吻には姉への愛情があった。


「あそこ」

「え」


 板橋は立ち止まると目的の場所をくいと顎先で示した。よく光る目の先を辿ると、通りの先には権現神社の鳥居があった。


 入り口には大きな楠がそびえ、境内へは石畳が続きその背後には御宮の森と呼ばれる木々の群れがある。縁結びにご利益があるとかなんとか言われているが、あゆむにはこの神社の夏の縁日が子供の頃から慣れ親しんだもので、その縁日もそろそろ近づいているのを思い出した。


 金魚すくいやヨーヨー釣り、かき氷、たこ焼き。花火。夏に相応しいものがすべて揃う懐かしい場所。藤井がいたらきっと一緒に来ようと約束したに違いない夏のイベントのすべて。


「あそこで集まって、おじじさまにいろいろ相談とかすんの」

「猫集会があるのね」

「みんなおじじさまに聞きたいことがあるから」

「……」


 猫たちの相談が何かは知らないが、文左衛門はそれらに適切に応えてやるのだろうか。そして彼らの納得のいく答えを見出してくれるのだろうか。


 あゆむは自分の願いを聞き入れなかった文左衛門に、どんなことをしても必ず質問の答えを出させてやると決意を新たにした。


 誰のどんな難問にも答えを出し、知らぬことは何もないという仙人のような猫長老。生き物の死に時が分かるという神にも等しい力。今こうして猫と言葉が通じる以上は絶対に聞き出してやる。でなければ猫と言葉の通じる意味などないのだ。


 板橋が先に立って参道を突き進む。夜の神社なんて気持ち悪い所に来たくはなかったが、石畳に散る砂埃をざりざりと踏んであゆむも続いて拝殿へと進んで行った。


 境内は暗く、風のない夜だけに空気はしんと静まり返りその蒸し暑さの分だけ重く圧し掛かってくるようだった。あゆむはじっとりと汗をかいていたが、それが暑さのせいなのか緊張によるものかは判別がつかなかった。


「ほら、みんないる」


 板橋があゆむを振り仰いだ。

 あゆむは水銀灯が投げるぽっちりとした光に目をこらした。いると言われてもどこにいるのか分からなかった。板橋が「ほら、あそこだってば」とじれったそうに言う。


「どこよ、見えないよ」

「あの賽銭箱の手前」

「だから、どこ」

「よく見ろよ」


あゆむは眉間に皺を寄せた。次第に暗闇に目が慣れてくると、確かに拝殿の軒先に置かれた煤けた賽銭箱の前、ちょうど影になっているあたりに猫がちんまりと座っており、さらに目を凝らせば軒下にもいくつかの光る目玉がちらちらするのが分かった。


 いる。猫だ。あゆむは迷いなくいきなり彼らに向かって一歩を踏み出した。


 と、途端に集まっていた猫たちが一斉にあゆむと板橋を凝視した。なにか怪談じみた光景だった。数匹に見えた猫も実際近寄って見ると無数に散らばっていて、それが一斉にあゆむを見て、口々に「なによ、なにしに来たのよ」とか「なんで人間が来るんだよ」とざわめきあった。


「こんばんは」


 あゆむは怯む自分を鼓舞して、わざと胸を張り快活に挨拶をした。


 すると軒下で寝そべっていた薄汚れた、鼻のあたりに間抜けな黒いまだら模様のある白黒の猫がいかにも挑戦的な口調で、

「なにしに来たんだよ」

 と、ずいと起き出してきた。


 ほとんど吐き捨てるような調子にあゆむはむっとした。が、鼻クソをくっつけたような柄のその猫が畳みかけるように、

「よそ者が来るところじゃねえだろ」

 と言ったので、初めてその言葉が板橋に向けられていることに気がついた。


 あゆむは何か言い返そうかと思ったけれど、板橋が東京から来たのは事実で「よそ者」であるのに間違いはなく、先住猫たちのルールがあるのならばそれも尊重せねばならないような気がして、板橋にちらと視線を移した。


 板橋は黙って鼻クソ猫を睨んでいた。それはまるで子供が喧嘩する時のような、今にも殴りかかっていきそうな緊張を湛えた沈黙であゆむはどうしていいか分からなかった。


「誰でも来ていい場所じゃないって前にも言ったよなあ。それなのに、なんで来たんだよ。それも人間なんて連れて来て。だからお前は空気読めないってんだよ」

「……知り合いだから連れてきたんだよ」

「知り合い? 誰が、誰の?」

「……」


 鼻クソ猫はいつの間にか軒下を出てこちらへひたひたと歩みを進めてくる。板橋は反射的に戦闘態勢になり、身を低くした。


 まずい。こんなところで猫の喧嘩を見物している場合じゃない。あゆむは二匹の間に割って入ろうとした。すると、例のおっとりまったりした声が、

「あゆむさん、こんなところまで来たのか。あんた本当に執念深い性格じゃのう」

「文左衛門」

 文左衛門は静かに参道の真ん中を歩いてくるところで、彼の出現に不穏な空気を立ち上らせていた猫たちが一斉に飛び出してきた。


 あゆむは驚いて小さな悲鳴をあげた。足元を何匹もの猫が文左衛門に駆け寄って行く。

「おじじさま!」

「おじじさま、お待ちしていました!」

「聞きたいことがあるんです!」


 猫たちは文左衛門を取り囲むと我先にとわいわい言い出し、なるほど文左衛門が猫たちの尊敬を集める特殊な存在であることが披露され、あゆむはその迫力にごくりと唾を呑んだ。


 しかし、それでも鼻クソ猫は忌々しげに板橋とあゆむを交互に睨み、

「お前ら、おじじさまとどういう関係なんだよ」

 と詰め寄った。

「どうって……」

 あゆむは返答に困り、文左衛門を振り返った。文左衛門は賑やかに多種多様な猫たちにまつわりつかれながらゆっくりこちらへやって来る。


「おじじさま、うちのご主人が近頃急に胸を押えて動かなくなったりするんです。痛いらしいんです」

「ふむ、医者には行ったんかの」

「行きたくないって言うんです」

「そりゃいかん。無理にも連れて行かねばならん。介護の人は来とるんかな」

「はあ、時々様子を見に来る人が」

「電話してみなされ。なあに、喋らなくてもいいんじゃ。心配せずともボタンを押すだけで猫でもできる。黙っていれば不審に思って、高齢者のところにはすぐに来る」

「はい!」


 そんな馬鹿な。いや、でも、そうかも。


「おじじさま、この子。この前生まれましたの」

「おお、かわいい顔じゃのう」

「長生きしますか」

「車に気をつけるんじゃな。信号を教えてやらねばのう。夜も車道に出ちゃいかん。そうすれば長生きするさな」

「はい! ありがとうございます!」


 そりゃそうだよ。あゆむは思わず吹き出しそうになったものの、でも、猫たちの訴えにのらりくらりといった調子で答える文左衛門の回答のいちいちがもっともといえばもっともで、彼が適当に相槌を打っているのではないのがなんとなく分かった。


 文左衛門は猫に囲まれたままあゆむの前までやってきた。

「あゆむさん、こんな時間に出かけて叱られやせんかのう」

「こっそり出て来たのよ」

「ふうむ」

「そんなことより、私の質問にも答えてよ」

「あんた、本当に執念深いというか根気強いというか……」

「聞いてくれないと痛い目にあわせるって言ったでしょ」

 あゆむはずいと凄んで文左衛門に手を伸ばそうとした。その瞬間、二人を取り巻く猫たちが、

「お前、ふざけんな!!」

「罰あたり!!」

「なんてこと言うの!!」

と、ものすごい勢いであゆむを罵倒し、そのうちの数匹はあゆむ目がけて飛びかかってきた。


背中や肩に駆けあがられてびっくりしたあゆむは、悲鳴をあげ猫を振り払おうとした。が、彼らの鋭い爪がシャツを突き破ってあゆむの肌をがっちり刺しており、その痛みにあゆみは「痛い痛い!!」と叫びをあげた。


「お前らやめろ!」

 板橋が猫に襲われてもがくあゆむを助けんと躍りかかった。

「離れろ!」

「なんだ、よそ者のくせに! 帰れ帰れ!」

 猫たちが今度は板橋に怒鳴る。ふうふう、しゃあしゃあ、猫たちの鋭い威嚇の声が響き渡る。どの猫も全身の毛を逆立て、尻尾をそそり立て怒りを露わにしている。


「これこれ、やめなさい」


 あゆむが痛さと怖さで石畳に膝をつくと、文左衛門が全員を見渡して言った。

「争いは好かないよ」

「でもおじじさま……。こんな無礼をお許しになるなんて……」

「無礼かどうかは儂が決めることじゃよ。儂はなんとも思うとらん」


 あゆむに噛みついていた猫が後ろ脚であゆむを蹴りつつ、地面に飛び降りた。シャツには血が滲み、爪の貫通した箇所は点々と穴が開いていた。


「あゆむさん、大丈夫かいのう……」

「いたたたた……」

「その傷、消毒せんといかん」

「……」

「猫の口の中には黴菌がいて、放っておくと大変な感染症を起こすこともあるんじゃよ」

「詳しいのね」

「テレビで見たんじゃ」

「……ああ」


 板橋が足元で心配そうにあゆむを見つめている。


 あゆむは猫たちの敵意剥き出しの視線からかばうように、板橋を抱き上げた。

「ここに来ると危険じゃよ」

「……」

「いくらあんたが猫と言葉が通じるといっても、誰もがそれを受け入れるわけじゃない」

「……」

「猫同士だって、みんながみんな仲間というわけでもなし」

「……」


 文左衛門は板橋にも諭しているようだった。それはここへあゆむを連れてきた板橋の責任を問うかのようでもあり、板橋は黙っておとなしく文左衛門の言葉を聞いていた。


 猫同士がみんな仲間というわけではないというのは特に板橋が東京から来た事を指しているのだろう。同じ町内で生まれ育っても縄張り争いがあるのだから、よそ土地から来たのなら尚のこと。板橋が猫たちに疎まれているのも仕方がない。しかし、それを押してもあゆむをここへ連れて来てくれたことに、あゆむは底知れぬ感動を覚えていた。


 猫たちが言うように、あゆむは完全アウェーの招かれざる客なのだ。彼らが神聖視する集会の場にあつかましく押しかけてきたのだから反感を買うのも当然だし、無礼というなら、あゆむこそが猫たちに対して無礼を働いたことになる。文左衛門を脅したことよりも、あゆむは彼らに対する礼を欠いたことを反省しなければならなかった。


 言葉が通じることをただ便利なだけにしか考えておらず、所詮畜生と侮った結果がこれだ。彼らには彼らの世界。彼らのルール。彼らの正義。物を尋ねるのにあゆむは自分が人間であるという理由だけで傲慢な態度に出ていたと思うと、板橋を抱きしめ、その柔らかな毛皮を撫でつつしゅんと沈み、

「ごめんなさい」

 と小さく呟いた。


 その言葉に文左衛門はおや?と目を見張った。

「急にお邪魔してごめんなさい。来るべきではないのは分かってる。それは本当に悪いと思ってる。でも私も真剣なのよ。お願い、分かって」

 あゆむは周囲の猫たちを見まわし、

「別にこの人をいじめたり、傷つけたりするつもりはないの。ただ、どうしても聞きたいことがあるのよ」

 猫の目が暗闇に光りながらあゆむを見つめている。その光のひとつひとつに意思があると思うと、あゆむはわずかに背筋がひんやりした。


 猫たちは文左衛門が制止したせいもあってか、黙ってあゆむの言葉を聞いていた。いいも悪いも言うことはなく、ただ黙って。それは最高権力者であり、長老であり、神様みたいな文左衛門の出方を見守っているらしく、緊張の糸が張り巡らされてそれぞれを数珠つなぎに繋ぎとめているようなものだった。


「……あゆむさん、儂は確かに人の死ぬ時期が分かる」

「……」

「でもそれは儂自身が分かるわけではないんじゃよ」

「死神ね?」

「そうじゃ。儂には死神が見えるんじゃよ……」

「会わせて」

「あゆむさん……」

「死神は死ぬ人のところに来るんでしょう? 会わせて。話しをさせて」

「……」

「お願い。このお願い聞いてくれたら、なんでもする」


 根負けとでもいうのか、文左衛門は天を仰いでふうと大きく息を吐いた。

 相変わらず風の死んだ境内は御宮の森の緑がむうっとした匂いを放ち、猫臭さと毛皮の暑苦しさに一層体感温度が上昇するようだった。


「……ついてきなされ」


 文左衛門はそう言うと、歩いて来た参道をまたゆっくりと元へ戻り始めた。


 文左衛門に会う為に集まって来ていた猫たちもそろそろと道を開ける。

「なにしとるんじゃ、来なされ」

 あゆむは板橋を地面におろすと、文左衛門に従って小走りに駆けだした。が、すぐに立ち止まって境内の猫たちを振り返ると、無言で頭を下げた。猫たちは一様に面食らったような顔をしたが、何も言わず、さりとて頭を下げ返すこともなくあゆむの礼を受けた。


 そうしなければならないと思ったのではなかった。人間同士ならば当然のことをあゆむは自然に行っただけだった。もうあゆむにとって猫は猫ではなくなりつつあった。


足音もなく文左衛門は歩いて行く。淀みなく、まっすぐに。あゆむはそのまま文左衛門を追って夜の神社を後にした。


連れて行かれたのはあゆむの家の近くの一軒の家だった。芝生の植えられた広い庭を取り囲むレンガ塀。洋館じみた古いお屋敷で、子供たちが独立してしまった後を老夫婦が静かに暮らしているのはあゆむも知っていた。


「ほれ、あゆむさん。そこの塀の角から登って中に入れるじゃろう」

「そんな泥棒じゃあるまいし」

「うちには勝手に入って来たくせに何をいまさら」

「あれはあんたを訪ねて行ったのよ」

「一歩中へ入れば不法侵入は成立しとる」

「見つかったら警察行きだよ」

「そんな心配いらん。ほら早く」


 言っている間にも文左衛門は年寄りくさい口調からは思いがけない身軽さで塀の上へと駆け上がった。

「大丈夫、見張ってるから」

 戸惑うあゆむに板橋は言うと、曲がり角の方へ走って行ききょろきょろと辺りをうかがった。そして誰もいないのを確認すると、

「いいよ。早く登って」

「……う、うん……」


 いちかばちか。こうなったら運を天に任せるよりほかない。自分が死ななかったことの奇跡によって運というものを使い果たしていないことを祈るのみだ。あゆむは古いレンガの脆く崩れた箇所に足をかけて塀をよじ登り、庭へと飛び降りた。


 屋敷内に灯りはなかったが、テラスに敷き詰めたテラコッタのタイルの端に常夜灯がぽつんと灯っていて、微かに庭先を照らしていた。


 二階の窓へ這い上がるつるバラが沢山の花をつけている。ちょうどタイルの途切れるあたりに木製のロッキングチェアが置かれ、小さなテーブルには紅茶茶碗がそのままにされていた。


「静かに、音を立てないようにな」

「うん」


 文左衛門はテラスの扉へと歩いて行く。あゆむは芝生に膝をつき、身を低くしながらそれに続く。こんな事態にいながら草いきれがひどく懐かしいもののように感じられるのは、今を盛りに伸びてゆく植物の生命力のせいだと思う。あゆむの匍匐前進に驚いたバッタが目の前を飛んでいく。今家の人に見つかって警察を呼ばれたらなんと言い訳しよう。昆虫採集に忍び込んだとでも言おうか。緊張のあまり息が苦しい。


「こんばんは」


 文左衛門はテラスの扉に嵌められたガラスの一枚を覗きこみながら、家の中へ声をかけた。


 この家にも猫がいるのだろうか。あゆむはタイルの上でうずくまってじっと文左衛門を見守っていた。


「こんばんは」


 文左衛門がもう一度声をかけた。すると二階の窓が開き、ベランダの手すりから身を乗り出して一人の男が現れた。


「こんばんは。久しぶりじゃないですか」


 あゆむは心臓が口から出そうなほど驚いて、慌てて飛び上がり、脚は反射的に逃げようとレンガ塀へと走り出していた。


 しかし、文左衛門が、

「これこれこれ。待ちなさい」

とそれを制止しようと走ってきて、塀に登ろうとするあゆむの前に立ちはだかった。


「人が……! 人が!」


 あゆむは動転し、喘ぐように文左衛門に小さく叫んだ。

 そんなあゆむを落ち着かせるように、文左衛門はことさらおっとりと、

「あゆむさんは執念深いが、ちょっと慌て者じゃなあ。まあ、よく見れば分かるから。あれは、人間じゃあない」

「だって……!」

 言っている間に、今度はすうっと音もなくテラスのガラス扉が開き、さっき二階から顔を出した男が庭へと出てきて、あゆむに目を留め言った。


「おや……。君はこの前事故にあった……ええと、名前はなんだったかな……」

 男は眉間に皺を寄せ、人差指を振っている。あゆむはレンガ塀の前に植えられているオリーブの木にすがるように半身を隠しつつ、まだ動悸を鎮めることができずにいた。


「あゆむさん、大丈夫かいの」

「あ、そうそう。スズキアユムさん、一七歳」


 男は思案に束ねられていた眉間の皺も、しかめた顔もすんなりほどいて納得したように口元を緩めた。


 この暑いのに黒いスーツをきちんと着てネクタイを結び、眼鏡をかけている。見た目は若いサラリーマンといったところだろうか。でもどんなに見つめても文左衛門のいうような「人間じゃない」ところは見当たらない。


 いや違う。人間では、ない。でなければなぜあゆむの名前を知り、事故のことを知っているというのだ。


 あゆむは見つめるほどに何かを思い出しそうなじれったいような感覚に襲われた。懐かしいような、またはいつか見た映画のタイトルが喉元まで出かかってどうしても言葉にならないような、遠い噂のような、知っているような知らないような。


 あゆむは声をひそめながら尋ねた。

「あの、前にどこかでお会いしましたか?」

「ええ、会いましたよ。事故の時に」

「……じゃあ、あなたが……」


 死神なんですね。言いかけて、あゆむは口をつぐんだ。というのも男が二階のベランダを見上げ、静かにと指を唇の前に立てたので、あゆむも文左衛門も思わず彼の視線を追いかけた。


「仕事です」


 男は一言そう言うとおもむろにスーツの内ポケットに手を差し入れて黒革の手帳を取り出した。


 それからページを捲り腕時計を見て、胸に差したボールペンで何事か書き込む。文左衛門は黙ってその様子を見守っている。あゆむだけが緊張の嵐の中で心臓を早鐘のように打ち続け、所在なく彼らの様子を窺うだけだった。


 耳元を蚊が掠め飛び、あゆむは手で空気ごと蚊をなぎはらう動作をし、腕にとまった一匹をばちっと叩きつぶした。


「ここのご主人が、今、お亡くなりになったんじゃよ」

 文左衛門が囁いた。

「え」


 あゆむは緊張こそすれ不思議と怖いとは思わなかった。ただ静かで風のない夜のネバついた空気に汗をかいているだけで、その汗は冷汗でもなければ鳥肌も立たず、夏の夜の中にぽつりといるだけだった。


 しかし、それでも、次の瞬間テラスのガラス扉が再び開いて中から麻のジャケットを着た老人が出てきた瞬間、今度こそ塀によじ登ろうと足をかけた。


「ちがうちがう。あゆむさん。また慌てる。いいから落ち着いてなされ」

 文左衛門がまたあゆむを制止した。

「だって……」

「逃げることはないから」


 老人には見覚えがあった。あの麻のジャケット。どんなに暑い日でも糊の効いたジャケットを着て、杖をつきながら歩く姿をよく見かけた。冬は洒落たコートに帽子をかぶり、同じく身嗜みのいい上品な奥さんと一緒に出かけるのが映画のワンシーンのようで、見るともなく視線を吸い寄せられるような人だった。


 無論、人となりまで知るわけではないのだけれど、いかにも紳士然とした様子があゆむはなんとなく好きだった。そうか、死んだのか。


 老人は庭で息をひそめながら様子を見守っているあゆむと年老いた猫など眼中にないらしく、ロッキングチェアに腰を下ろすと大きく息をついて宙を仰いだ。


 スーツの男はその老人の前に立つと丁寧に一礼をした。その姿が何かに似ているなと思ったら、去年、大叔母が亡くなった時に見た葬儀屋の人のようだった。


「おつかれさまでした」

 スーツの男が言った。

「僕は斎藤といいます」

「……」

「僕の仕事はこれからあなたを別な場所へ正しく連れて行くことです」

「……」


 あゆむが文左衛門に小声で「別な場所ってどこ?」と尋ねると、文左衛門も「あの世じゃないのかね」と小声で答えた。


 死神の仕事というのはこんなにも役所の窓口のように淡々としていて、こんなにも事務的なものなのか。あゆむは脚にとまった蚊をまたばちっと叩き潰した。


「その前に確認することがあります」


 老人は黙っていた。


 あゆむは不意に息苦しくなった。あの人は自分が死んだことを知っているのだろうか。たった今死んだところでもう自分の死を受け入れて、ここではないどこかへ行く準備ができているのだろうか。


 もしもこれが自分だったら。あの時、瀕死の目にあって死ななかったのは文左衛門が言うような寿命じゃなかったからだとして、では死んでいたら、あんな唐突な人生の幕切れに納得することなんてできるだろうか。無理だ。無理に決まっている。


 スーツの男は手帳を開き、ペンを片手に口を開いた。

「磯崎雄一郎さん。享年八十五歳。死因は心不全」

「……心不全。癌じゃないのか」

「いえ、もちろん原因は末期の食道癌ですが、年齢的にももう外科手術はもちろん抗がん治療もできず自宅療養ということにですね……。それで、決定打は最終的には臓器不全ということに」

「まあ、そんなに苦しまなかったのが幸いだったな」

「最後は奥様の判断でかなりのモルヒネ投与を」

「そうか。そうだったな。うん」

「ご納得いただけたようですね」

「斎藤くんと言ったかな」

「はい」

「この年になればだいたい覚悟はできているもんだよ。自分が末期癌だってことも知っていたわけだし」

「そうですか。それでは、確認したいのですが」

「ああ」

「心残りなことや心配なことがあれば承っておきます。できる範囲でこちらで善処しますので」

「……」

「急には思いつきませんか?」

「……」

「これは、こちらにあまり心を残さない為の手続きです。心残りがあればあるほど、あなたを正しくお連れすることができないのです。迷いがあるなら出来る限り今の時点で取り除いておきたいのです。これは事故防止の為と思って頂ければ結構です」


 なんて会話なんだろう。あゆむは軽い眩暈を覚えると同時に胸の中にふつふつと憤りが沸いてくるのを感じた。そりゃあ年寄りは自分の死期を悟っていても不思議じゃないかもしれないけれど、なぜそんなにも淡々としてられるのだ。あのスーツの男もどうかしてる。心残りや心配なんて、ないわけないだろう。だいたい善処ってなんだ。なにをどうしてくれるというのだ。マニュアルに乗っ取っただけみたいなやり方まで役所然としていて腹立たしい。


 あゆむはイライラと足元の草をぶっちぎっては、すでに蚊に喰われてしまった足首をがりがりと掻きむしった。


「家内は私が死ぬと分かっていたわけだが……」

「はい」

「だからといって悲しくないわけでもないだろう」

「そうでしょう」

「あれが、あまり悲しまずにすむようにしてやってほしい。そんなことは無理かな」

「……できるだけ配慮します。例えば……、お子さんたちが同居してくれるとか。弔問客が毎日来るとか、遺品の片づけが大変だとか」

「ああ、ヒマだとボケるからな。一人の時間は短い方がいい」


 男は手帳に何か書き込んでからスーツの内ポケットに収めてから、静かに右手を老人の顔の前にかざした。


「それでは目を閉じてください」


 その時、老人が瞼を伏せるまでのほんのわずかな時間。一秒もなかったが、あゆむの視線は老人と確かにぶつかった。老人の目は静かに澄んでいた。確かにそこにはあゆむの姿が映っていたはずなのに、まるで意に介さず、ただ鏡のように透明な池の面のようだった。


それからあっと思った次の瞬間には、デッキチェアの老人はスーツの男のかざした手に黒い渦となって砕けるように消え失せてしまった。


 あゆむは思わず声をあげた。老人はなんの痕跡も残さず完全に消滅し、ついさっきまでそこにいたというのに気配すらなく、スーツの男がこちらを振り返っているだけだった。


 あゆむは老人が後に残す自分の妻のことを気にかけたことがせつなかった。彼は一体どこへ消えてしまったのだろう。あゆむはその時初めて「怖い」と思った。死神が、死が怖い、と。人はあんな風に死神によって消滅するのか。木端微塵に砕け散り、塵のような消え方をするのか。死神は老人を「連れて行く」と言ったが、どこへ連れて行ったのだろう。消えてしまった魂はどうなってしまったのだろう。


「ところで、一体、なんの用だったんですか」

 スーツの男が口を開いた。


 男を見つめながら唇を噛んでいるあゆむを、文左衛門がとんとんと柔らかな肉球のついた手で叩いた。


「聞きたいことがあるんじゃろう?」

 文左衛門はあゆむの気持ちを察するかのように優しく言った。


「聞きたいこと? なんですか?」

 スーツの男が草を踏みながらまっすぐこちらへやって来る。あゆむは立ち上がると、動悸を鎮めようと深く息を吸った。


「前に会ったって言いましたよね」

「ええ。あなたが事故にあった時に。この近辺は僕の管轄なので」

「あなた、死神ですよね」

「……まあ、そういうことになりますね。斎藤です」

「斎藤さん……」

「それにしても不思議なことです」

「え?」


 斎藤と名乗る死神は人差指で自分の眉間を押えるようにし、難しい表情で続けた。


「あなた、どうして猫と話しができるんですか。事故の後遺症でしょうか」

「そんなことこっちが聞きたいわよ!」

 あゆむは斎藤の呑気な言い方にかっとなって思わず大きな声を出した。

「しっ! 声が大きいっ」

 文左衛門が慌ててあゆむを制した。


 斎藤は見ているこちらが熱中症で倒れそうなスーツ姿に汗ひとつかかず、じいっとあゆむの顔を凝視した。


「……ふむ」

「なによ……。聞こえるんだからしょうがないでしょ。猫の言葉が、分かるんだからしょうがないじゃないの。私、なんにもしてないわよ」

「頭の打ちどころが悪かったんでしょうか」

「知らないわよっ」

「声が大きいっ」

 文左衛門がまたしても焦って口をはさむ。

「まあ、そのうちね。聞こえなくなりますよ。たぶん」

「……あんたのせいじゃないの」

「と言いますと?」

「死神なんかに遭遇したせいで、ワケ分かんない能力ができちゃったんじゃないの」

「そんな力、私にありませんよ。だいたいあなたね、ちょっと死にかけたぐらいでいちいちそんなことになってたら、世の中不思議な人間だらけですよ」

「……ちょっとってなによ……ちょっと死にかけたって、こっちは大ごとだったんだから」

「あゆむさん、落ち着いて話しなされ」


 ここで落ち着いていられるぐらいなら、誰も苦労はしない。こっちはまだたったの十七歳で、さっきの八十三の老人みたいに達観なんてしていないのだ。


「猫と話しができるのは、まあ、いいわ。それよりも、あなた」

「斎藤です」

「……斎藤さんの仕事は、その、死神として死んだ人を迎えに来ることなのよね」

「まあ、そういうことです」

「私のところにも来たのよね」

「死にかけでしたからね」

「なんで死ななかったの?」

「……若いのにそんなこと考えてるんですか。別にいいじゃないですか。死ななかったんだから。そんなこと考えなくてもいいでしょう」

「若いとか、そんなこと関係ないわよ」

「医学ですよ、医学。医学が発達してるんです。だから、死ななかったんですよ」

「寿命じゃなくて?」


 背の高い斎藤はまるで役所に非常識なクレームをつけに乗り込んできて窓口で大騒ぎする女を見るような、困惑まじりの苦笑いを浮かべて、

「だから、医学だと言ってるでしょう。そりゃあ、寿命というものもありますよ。でもね、それだって変化するんです」

「だって文左衛門は初めからみんな寿命は決まってるって言ったわよ」

「ですから、決まってても変わることはあるんですよ。あなた達の好きな言葉でいうなら運命というやつです」

「バカにしてんの?」

 あゆむは斎藤を睨んだ。


 運命なんて言葉に翻弄されているからこんなことになったのだ。ただ襲いかかる波を待ち受けて、その流れに流されるだけが運命ならば、こちらから挑みかかることだってできるはずだ。


 そんな風に思うのはあゆむの若さ故だが、同時に無知であることの証明でもあった。若い頃は誰だってそんな風に運命を自分の力で切り拓いていけるものと信じている。しかし、傍らで聞いていた文左衛門は思う。一体、誰にそんなことが可能だったのだろうか、と。


 文左衛門は老齢な猫で、これまで多くの人間を見てきた。でも、寿命に立ち向かって死を回避した者はまだ一人もいない。


 それでも文左衛門は、この必死な、泣きそうな顔で迫って来る小娘を嗤う気持ちにはなれなかった。彼は、こんな懸命さをかつてどこかで見たような気がしていた。


「じゃ、あなたの姿が見えるのはどうして? それも後遺症? それとも、実は私の死期が迫ってる?」

「あなたじゃなくて、斎藤です。別に特別なことじゃないですよ。あなたみたいに死にかけたことのある人は誰だって私の姿見えますよ。ただ見る機会がないだけ。私がいつどこにいるか分かっていれば、見えますから。だから私はこうして誰に見られてもおかしくないように目立たない格好をしてるんです」

「……」

「動物はね、また別ですよ。特別なカンとか、あるんですよ。猫は夜目も効くし」

「だから文左衛門はあなた……斎藤さんがどこにいるか分かるのね」

「そういうことです。彼は特別です」

 斎藤は腕に嵌めた時計に目を落とした。

「ああ、もう、こんな時間じゃないですか」

「ちょっと待って。まだ肝心なこと聞いてない」

「なんですか、一体。こっちも忙しいんですから」

「あの事故の時」

「はい」

 あゆむはごくりと唾を呑み、慎重に言葉を継いだ。

「もう一人、いたでしょう。死にかけた人」

「……」

「あの人は?」

「……」

「死ぬの?」


 何度口にしてもこの言葉は胸に突き刺さる。あゆむはすでに涙目になっていた。知りたい気持ちと知りたくない気持ちが再びあゆむを揺さぶる。


「どうかのう……ちょっと教えてくれると助かるんじゃがのう……」

 いよいよ哀れに思ったのか、文左衛門が横から口をはさんだ。


「なに言ってるんですか」

 斎藤は驚きの声をあげた。そして憤慨したように、

「だいたい、知ってどうするっていうんですか。あなたねえ、人間の生き死になんていうのは本来は人間が勝手に決めていいものじゃあないんですよ。生活水準の向上、外敵もなく、医学が発達し、人間はずいぶん自分達の生命を守れるようになってきた。それは、いいですよ。ええ。あなた達の努力の賜物と言うこともできるでしょう。けど、私の仕事の領分に入って来るのはお門違いもいいとこです。知的好奇心といえば聞こえはいいかもしれないけど、知らなくていいこと、触れなくていいこと、開けなくていいドアは絶対にあるんです」

「大事なことなのよ」

「そんなこと私には関係ありません」

 斎藤はぴしゃりと言い捨てた。

「あの少年があなたの何であっても、彼の生命についてどうこうする権限はありません。そして、あなたがその行方を知る必要もありません。それは人間の関知することではないからです」


 あゆむはすでに踵を返して家の中へ入って行こうとする斎藤の背に飛びつくと、スーツの上着を掴んで叫んだ。


「お願い、殺さないで!」


 遠くで、どこかのうちの飼い犬があゆむの声を聞きつけたのか甲高い鳴き声をあげている。


 あゆむは必死だった。斎藤を逃がすまいとがっちりと彼の腰にしがみつき、顔を背中に押しつけてくぐもった声で訴えた。


「連れて行かないで。決まってても変わることってあるんでしょう。なんでもするから、殺さないで」


 斎藤は黙ったまま動かなかった。背中であゆむがぐずぐずと泣いて、鼻水をこすりつけ、ひたすら「お願い」を繰り返している間中、髪の毛一筋ほども動きはしなかった。


 と、その時、見張りをしていた板橋が塀の上に姿を見せ、あゆむ達に向かって大きな声で叫んだ。

「人が来るよ! もう行かないと!」

 はっとして文左衛門が二階の窓を見上げると、暗かった部屋に灯りが灯っていた。恐らく老人の死に家族が気がついたのだろう。


 この時あゆむにはそうとは感じられなかったが、あたりの空気がざわざわと動き始めるのを板橋も文左衛門もはっきりと読み取っていて、

「あゆむさん、ここにいてはいかん」

「あゆむ、早く!」

 と二匹はあゆむをせかした。


 斎藤は腰に巻きついていたあゆむの腕をゆっくりとはずすと、静かに向き直り、細い肩をぽんとひとつ叩いた。

「捕まっても知りませんよ」

「あゆむ!」

 板橋がもう一度怒鳴った。


 斎藤は文左衛門に会釈をすると、もう、今度はあゆむにも感じられるほどにざわめき始めた室内へゆっくりと戻って行った。


 救急車のサイレン。人々の嘆き。あゆむは庭を駆け抜け、一気に塀をよじ登って二匹の猫と共に暗がりの歩道へ飛び降りた。


 開けなくていいドアと斎藤は言った。あゆむは家のすぐそばまで逃げてくると息を切らしながらよろめき、壁に体をもたれさせた。


 体中が痛かった。緊張と緩和。そして折れた肋骨の鈍い痛み。頭重感とこめかみを流れる汗。


 ぜいぜいと荒い呼吸に目を閉じていると、板橋が心配そうに足元に身を寄せて、

「大丈夫?」

 とあゆむを気遣った。


 開けなくていいドアなら、もうとっくに開けてしまった。あゆむは板橋に頷いて返しながら、たった今逃げてきた道を振り返った。


「あれっ……、文左衛門は?」

「あ、いない」

「……」


 開けなくていいドア。あゆむはもう一度強く思った。開けてしまったドアを閉める術など知らない。知るわけがない。

 道の向こうに二つ、きらりと光るものが見えた。あゆむはその瞬きに片手をあげてから、板橋と一緒にそっと家の中へと入って行った。



 家を抜けだしたことはバレていなかったらしく、翌朝、あゆむはいつも通り母親の出す朝食を食べながら朝のニュース番組を見て「この暑いのにご苦労様ね、いってらっしゃい」と補習へと送り出された。


 昨夜の活躍のせいか板橋はまだリビングのソファでぐうぐう寝ていて、顔を覗き込んでも微動だにしなかった。疲れたのだろう。あゆむは今やこの小さな生き物だけが自分の友人のような気がしていた。


 今日は補習がすんだら病院へ行くことになっている。が、それは藤井を見舞うのではなく、顔の怪我の治療と経過観察の為だった。


 ふとあゆむは病院で心療内科医があゆむの訴えに対し休息が必要だとか様子を見ようと言ったことが思い出され、苦い気持ちで笑った。


今でも自分が狂っていると思う瞬間がある。今度こそもう一度、真剣に診察を受けようかと考えることも。でも、そうすることは板橋や文左衛門を裏切ることに思えて踏みとどまる。彼らと言葉が通じることが自分の狂気だとしても、昨夜自分が見たものを否定することはできないし、文左衛門が自分を憐れむように、労るように尽くしてくれたことをそれこそ無視することはできない。一体、今、誰があんなにもあゆむの為を思ってくれるだろう。誰にあゆむの気持ちが分かるだろうか。


 学校に着くとあゆむは校舎内の静けさにほっと息をついた。グラウンドでは部活の連中の張り上げる声がこだまのように響いている。


 補習を受ける生徒が教室で怠そうにに汗をかきながら、せっかくの休みに登校しなければならないこと不満をたらたらと言い合い、それが蝉の声に重なる。


 午前中、真面目に課題に取り組み数学のプリントを埋めていく。途中、分からないところがあれば監視役として教壇でこれも面倒そうに腕組みをして座る教師に尋ねにいく。提出して、採点して、また間違いを直して。そうして時間は静かに、確かに流れて行く。


 今この世界で確かなものは時間だけだ。悲劇的な怪我さえも日常に取り込まれていく自分自身でもなければ、変わらぬ愛情を注いでくれる家族でもなく、友人でもない。こうしているだけで確実に一秒ずつ刻まれていく時間だけがあゆむには信じられるものであり、同時に逃げ出したくなるほどの恐怖でもあった。


 事故からもうすぐ一カ月になろうとしている。いつの間にそんなにたってしまったのだろう。あゆむは軽い衝撃を覚える。意識不明だった時間が三日間だったことも驚いたけれど、意識があってもなくても時間が確実に過ぎて行くことが今更恐ろしく思えた。


 昨夜、死神は言った。藤井の生き死にを知ってどうするのか、と。それは文左衛門にも言われたことだった。しかしあゆむには彼らがなぜそんな質問を返すのかそっちの方が分からなかった。


 どうするのか、だって。どうにかできるなら、どうにかしたい。それだけのことじゃあないのだろうか。それとも死神が言うようにどうにもならないと彼らが知っているからこその「どうするのか」なのか。


 なんとかしなければ……。あゆむはペンを握る手に我知らず力をこめた。こうしている間にも死神は藤井のところのいるのかもしれない。そして聞いているかもしれない。心残りはないか、と。


 藤井は子供の頃から剣道をやっていて、部活での活躍も目覚ましく、あゆむは付き合い始めてから一度試合を見に行ったことがあった。


 県営の体育館で行われた試合は他校の生徒や観戦の父兄でざわめきに満ち、あゆむは二階席から一人で藤井を見ていた。


 袴に防具をつけ、竹刀を手に床を静かに進む藤井は表情こそ分からないものの、気迫というか、真剣さを漲らせていて、それはあゆむが知っている藤井とはまるで違っていた。


 あゆむの知っている藤井は決して饒舌ではないけれど、ちゃんと自分の考えや意思を伝えようとするだけの言葉は持ち合わせていて、そのくせ不意に自分が喋りすぎたのではと気恥ずかしくなるのか無口になって、照れた笑いを浮かべる男の子だった。あゆむは藤井のそういう側面がおっとりした口調と相反して幼いように感じ、男らしい無骨な手や逞しい肩も相まって、なんだ実はかわいい人なんじゃないかと思っていた。


 でも、眼下に見下ろす藤井は違っていた。手にしているのは竹刀であることに間違いはなく、しっかりと防具で鎧っているにも関わらず、藤井の背中からは真剣を手にしているような殺気があった。


 それは見ていて背筋がぞうっとするような、冷ややかで、静かな青い炎のようだった。


 試合開始の声と同時に素早く打ちこむ、その足運び。飛び退き、振りかざし、また打ち込み。彼らの発する声と竹刀のぶつかり合う音にあゆむは鳥肌がたった。


 まるで命のやりとりをするような集中力。あそこにいるのはあゆむの藤井ではない。あの手はあゆむに繋がれた優しい手ではない。気がつくとあゆむは息を殺し手に汗を握っていた。まだ知らない顔がこの他にどれだけあるのだろう。


 鮮やかな快進撃。響き渡る竹刀の音。面、一本。旗があがった。あゆむは咄嗟に立ちあがった。


 あゆむはもっと藤井に近づきたいと思った。あの防具の下に隠されている彼自身に触れたいと、心から思った。


 ああ、そういえばあの時、藤井に想いを寄せる女の子たちも応援に来ていたっけ。藤井が勝ち進んでいく様子がどれだけ誇らしく、また、愛しかったことか。そして他の誰でもない自分が藤井に選ばれた女の子だということがどんなに嬉しかっただろう。


 あの時、嫉妬と羨望の視線を感じていた。でも、今はそれらすべてが憎悪となっているのをあゆむは知っていた。けれど彼女らも「どうにか」できるならどうにかしたいと思っているだろう。その点においてだけはあゆむは彼女たちと共有できるものがあると思った。


 教壇で先生が腕時計を見る。あゆむはその動作にペンを置いた。終わりだ。カリキュラムの終了が告げられるとプリントを提出し、速やかに学校を出て病院へ向かうバスへ乗った。


ちょうど昼食時で空腹だったけれど、近くのファストフードですます気はしなかった。夏休みのファストフード店がどれだけ混み合っているか想像できたし、踏み込めば好奇の視線に晒されるのは分かりきっていた。


 鞄に入れていたペットボトルのミネラルウォーターを飲み、窓の外を眺める。ああ、また、この海沿いの道。あゆむはこの道が好きだった。藤井と何度も歩いた道だ。


 あゆむは緊張していた。病院に行けばそこには藤井がいる。意識のないままに。そして、もしかしたらその隣りには死神がいるかもしれない。


 そうでなくても病院という場所は死に溢れている。まさに隣り合わせ。今のあゆむには死神の姿が見える。あの公務員みたいな七三分けに眼鏡の男に会えるかもしれない。


 人間が踏み込んでいい領域ではないと、死神は言った。仮にも「神」と名がつくものの領域なればこそ、たしかに人間はその采配に任せるしかないのかもしれない。人間の無力さだけがあゆむに圧し掛かる。


 病院は午後の予約の診察で、待合のベンチはだるそうに腰かける人で埋まっていた。


 ちらと中庭を見やると相変わらずわざとらしい棕櫚の木が暑苦しい日射しに葉を広げている。


 あゆむは受付をすますと外科の待ち合いロビーへまっすぐに歩いて行った。そこには処置を待つ人、診察を待つ人、検査待ちの人とさまざまで、それぞれに包帯をしていたり松葉杖をついていたりといった怪我を負っていたが、顔面にガーゼを貼り付けているのはあゆむ一人だった。


 怪我と同時に制服姿も目立つ原因なのか、誰もが一様にあゆむに視線を投げた。あゆむは今ではすっかり顔なじみになってしまった看護師に会釈する。藤井は地下のICUにいる。あゆむは空いたベンチに腰を下ろすと、そっと睫毛を伏せた。


「あ、鈴木だ」


 不意に名前が呼ばれた。反射的に顔を声の方に向けるとそこには同じ学校の生徒が五人ほど立っていた。


 彼らの姿を認めた瞬間、あゆむはぎくりとした。名前こそ知らないが、彼らが藤井と同じ剣道部であることだけは、知っていた。女の子の姿があるのは誰かのカノジョなのか、それともマネージャーかなにかだろうか。


 思わずあゆむは彼らから顔をそむけた。なぜ、ここに。まさか見舞いではあるまい。藤井に面会できるのは家族だけだ。それも決まった時間、ほんの一時間だけ。あゆむでさえも一度も顔を見ていない。


 そういえば最後に藤井を見たのはあの事故だった。前を向いてペダルを踏む藤井の顔は無論見えなかったのだから、最後に見たのは乗る前、だ。あの時藤井は笑っていた。すごく楽しそうに。


「なにやってんの、鈴木」


 彼らはこちらへやって来ると、あゆむの前に立ちはだかるように並んだ。

「なんで、制服?」

 あゆむは俯いたまま、小さな声で答えた。

「補習あったから」

「ああ、そっか。期末受けてないんだっけ」

「……」

「俺ら、部活で怪我してさあ」

「……」

「鈴木は?」

「検診」

「ふーん」


 ひどくそっけない受け答えだった。でも、あゆむは彼らが決して自分を快く思っていないことを感じていた。それは悪意より、敵意のようなもので、言葉から、吐息から滲み出るような感情であり、彼らの健康で強靭な肉体から靄のように溢れて向かってくるものだった。


「怪我、どうよ」

「どうって、別に……。変わりないけど」

「ふーん。鈴木さあ、藤井に面会とかしてんの?」

「……してない」

「なんで」

「なんでって……」


 知っているくせに、わざと言っているのだ。彼らは何があゆむを傷つけるかを的確に知っている。そして実際あゆむは言葉を失い、黙って膝の上で指を組み、祈るような気持ちでこのせつない地獄をやり過ごそうとしていた。


 彼らはあゆむに怒りをぶつけたいのだ。藤井が多くの友達に慕われていたのは知っている。彼らも事故の責任があゆむにあるとは思わないまでも、あゆむ一人が助かっていることに理不尽な気持ちになっているのだ。それこそあゆむが今こうして生きていることが罪であるかのように。彼らの気持ちも分らないではないが、あゆむは身の縮むような思いだった。


「それにしてもさ、お前よく助かったよな。ラッキーだったな」

「……」

「その顔の怪我、ひどいらしいけど」

「……うん……」

「そういう意味ではラッキーでもないか」


 横に立っていた女の子が口を開いた。

「やめなさいよ、そんな言い方」


 あゆむははっとして彼女の顔を見た。しかし、彼女が決してあゆむを庇ったのではないことは瞬時に分かった。彼女の目があゆむを見ながら笑っていた。まるでおかしな冗談を聞いたかのように。


「自分だけ助かったんだから、ラッキーじゃないよね」

「……」

「でも、藤井くんはもっと可哀想だわ」

「……」

「カノジョの顔に傷ができたんだから。ねえ、それ、痛むの?」


 余計なお世話だ。この傷に関心があるのなら今すぐ見せてやってもいい。この恐ろしい傷跡を。見ても尚、あゆむが生きていることに憤りを感じていられるのならば。


 彼らには想像力が足りないのだ。それは平和で安穏な暮らしがほとんど約束されているからだとも言える。よほどのことがなければ彼らは普通に学校生活を送り卒業し、進学し、就職して、結婚してまっとうな人生を歩くだけだろう。即ち、人を傷つけることも自分の身にふりかかる災厄についても、考えもしないで。それを無知と言えばそうなのだけれど、今のあゆむには半ば羨ましいことに思えた。


 これといった事件も起きないで、ただ平坦な生活が続くと信じていられるのが羨ましい。当たり前の幸福が奇跡であるなんて考えないですむのだから。だから人を傷つけても平気でいられるのだ。自分達は誰からも傷つけられないですむと思っているから。


 反撃したらどんなに気持ちがいいだろう。声を荒げて、頬のガーゼをひきむしり、彼らに喰ってかかったらどんなにすっきりすることか。なんなら泣きじゃくってもいい。大袈裟に声をあげて、彼らに殴りかかってもいい。自分が生きていることがそんなにいけないのか、あんた達の言葉で傷つかないとでも思っているのか、私が藤井をどれだけ好きかあんた達は知っているのか。そうしたら彼らはどんな顔をするだろうか。


 できるはずもないそんな想像があゆむはおかしくなって、唇の端で微かに笑った。


 それは皮肉っぽい微笑だった。彼らの無知と無神経を嘲るような薄ら笑いでもあり、いくら考えたところで実行することなどできない自分の気弱さへの笑いでもあった。


 しかし彼らはそれを見過ごさなかった。途端、むっとした表情で、

「なに笑ってんだよ」

 と、あゆむの肩を突き押した。


 あゆむの身体はいくらか傾いだが、それによって初めてはっきりと顔をあげ、彼らの顔をまっすぐに見上げた。


 その時あゆむはどんな顔をしていたのだろう。ポケットに手を突っ込み、眉を吊り上げて詰め寄ろうとしていた少年があゆむの視線にぶつかった瞬間ぎょっとしたように怯んだ。


 あゆむはゆっくり立ち上がった。彼らは一歩、後退りする。

「部活、戻らなくていいの?」

「えっ」

「もう部活終わりなの?」

「……戻るけど……」

「そう。練習頑張ってね」

「……」


 思いがけない言葉に、彼らは唖然としているようだった。あゆむはことさらに彼らに微笑んで見せる。彼らの焦りと戸惑いがじんじんと伝わってくる。


「鈴木さん。鈴木あゆむさん」

 あゆむの名前が廊下のスピーカーから濁った音で呼ばれた。

「じゃあね」

「……」


 あゆむは彼らの前をすんなりと通り過ぎた。いや、通り過ぎて、もう一度振り向いて言った。

「怪我、お大事に」

 すたすたと廊下を進んでいく背中に彼らの視線が集まるのが分かる。今更なんと思われようと、なんと言われようと構いはしない。あゆむの背中はぴんと伸びていた。


 診察室に入るとあゆむは担当医に会釈をし、丸椅子に腰かけた。

「こんにちは」

「……こんにちは」

「あれっ、もう夏休みじゃなかった?」

 担当医はあゆむを見ると言った。

「なんで制服着てるの」

「補習です」

「そうか、補習か。そりゃあ大変だ」


 声の調子からは本当にそう思っているとは思えなかったが、あゆむにはどうでもいいことだった。


 担当医はカルテを見ながら、

「怪我はどう? 痛いとか、ない?」

「ありません」

「脇腹が痛むとかは?」

「いえ、特には」

「ちょっとガーゼとるから」

「……」


 すでに色々な器具や薬の類いが用意されていて、看護師があゆむの横に来ると「それじゃあ、はずしていきますよー」と声をかけた。


 ガーゼを止めているテープを剥がし、いくらか汗のしみたガーゼを取り去るとあゆむは恐ろしい縫合のされた頬に新鮮な空気が触れるのを感じた。思わずほっと息をつく。


 担当医があゆむの顎先を捕えながら傷の具合を見る。傷の周辺の肌を押えては「痛くない? 違和感とかは?」と尋ねる。あゆむはその度に「いいえ」と答えた。


「心療内科を受診したいんだってね」

「えっ」

 傷に薬をつけたり、新しいガーゼに取り換えたりといった処置の後、担当医は言った。


 あゆむは思いがけない言葉に驚き、それから、無断でカウンセリングめいたことをしたのを詫びなければいけないのかと思い「すみません」と言おうとした。


 が、それより先に担当医はカルテに書き込んでいた手を止めてあゆむに向き直った。

「傷のことは気にしなくていいんだよ。今はまだ大きな怪我だけど、整形の専門を紹介するし、ちゃんと元に戻るんだから」

「……」

 あゆむは医者が気休めを言っているな、と直感した。この怪我がかなりの傷跡を残すことをあゆむが知っているのも医者は承知しているはずなのに慰めのつもりなのだろうか。


 気持ちがささくれているのは分かっている。人の優しさを素直に受け止められないほどに。でも、もう、何度も繰り返し思ったことだ。誰にも自分の気持ちを推測されたくもないし、理解されたくもないと。


「私のことは、いいんです」

「え」

「私の怪我とか、そういうのはどうでもいいんです」

「……」

「先生」

「うん」

「あの、私の彼氏は、藤井は」

「……ああ、君の彼氏」

「死ぬんですか」


 あゆむの言葉に医者は目を見開いた。目の前の女子高生は真剣な目をしている。彼女の気持ちは、分かる。この年齢でこんな目にあえば不安や傷ついた心を癒したいと思うのも当然だ。それが医学の手を借りてでも。


 しかし、担当医はあゆむに違和感を覚えていた。一緒に事故にあった少年がICUにいるのは分かっている。ずっと意識が戻らないことも。もしかしたらこのまま植物状態になるかもしれないということも。でも、可能性という点ではまだ五分五分なのだ。


 普通は「助かるのか」と聞くだろう。似たようなものかもしれないが、口にすると大きく違う。言うなれば、助かるのかという質問は生に対して前を向いているのに対し、死ぬのかというのは生に対し背を向けているようなものだ。ましてや自分の彼氏だというのに。


 担当医はあゆむの目を覗き込んだ。十七歳にしては落ち着いていると思う。受け答えもしっかりしているし、丁寧だ。入院中も看護師たちから聞いたところによると、頭のいい子だということだが……。彼はふむと一息ついた。


「正直に答えた方がいいんだね」

「はい」

「そうか。じゃあ、言うよ。死ぬかもしれない」

「……」

「でも、助かるかもしれない」

「え……」

「頭を強く打っているんだ。脳っていうのはね、その機能はまだ医学では半分も解明されてないんだよ。出血はほとんど止まっている。脳圧も下がっている。生命反応としてはむしろ落ち着いていると言ってもいい。でも、意識が戻らない。無責任な言い方に聞こえるかもしれないけど、なぜ目が覚めないのか分からないんだ」

「……」

「だから、可能性はあるということだよ。僕はその可能性を信じている。医者というのはそういうものだから」


 もしあゆむが死神の存在を知らなければ、医者の言葉は信じられただろう。いや、彼が嘘を言っているわけではないのは、分かる。しかしあゆむが確かめたいのは可能性の有無ではないのだ。


「会えますか」

「え?」

「面会」

「……それは……」

「ちらっと覗くだけでもいいんです。駄目ですか」

「……」


 ICUへの入り口ががっちりとガードされているのは知っている。特別な受付を通らないとそこへ立ち入ることはできない。けれどちらとでも覗き見れば、今のあゆむには知ることができるのだ。医者が言うところの可能性を。


 医者が困惑しているのはありありと見て取れた。出入りしていた看護師もどうしたものかと思案しているのが分かる。


 駄目なのだな。あゆむはため息を吐きだしながら、わずかに微笑んだ。


「すみません。もう、いいです。無理言ってごめんなさい」

「……」


 今度は黙りこむのは医者の番だった。あゆむは新しいガーゼを頬に貼り付け、立ち上がった。

「ありがとうございました」

 そう言って一礼すると、診察室を出た。


 医者とてあゆむを可哀想に思わないわけではなかった。会わせてやれるものなら、見るぐらいならと思わないでも、ない。でも、決まりは決まりなのだ。


 それに、あの気の毒な、孤独な目をした少女は自分が彼氏の家族から憎まれていることを知っているだろうか。医者もICUの前で少年の親兄弟が涙まじりに、やり場のない怒りを滲ませて少女の回復をなじっていたのを聞いた。それだって心情は分かるのだ。同じ十七歳の子供のうち、一人は助かり、一人は死に瀕するというのを運命だとか仕方ないだとかでいきなり受け止めろというのが無理なのだ。でも、しかし。


 医者はカルテをファイルに戻しながら、眼鏡をはずして机に肘をつき大きく息を吐きながら両手で顔を覆った。背後で看護師が同じくため息まじりに、

「先生、あの子……」

「可哀想だとは思うけど……」

「ですよね」

「僕の立場でこんなこと言うべきじゃないのは分かってるけど、でも、二人とも助かるんじゃないなら、生き残るのも酷かもしれない……」

「彼氏が死んだら、あの子、自殺だってしかねませんよ」

「……」

 看護師はガーゼや脱脂綿をゴミ箱に捨てながら窓の外に目を向けた。そこにはあの制服の少女が病院を出て、炎天下を早足に歩いて行く姿があった。



 病院で自分が大人たちを思いがけないほど悩ませたことも知らず、あゆむは文左衛門の家に向かっていた。正確には文左衛門のうちではなく「服部さん」の家なのだが。


 不法侵入に慣れたとでも言おうか妙な度胸がついてしまって、あゆむはちらちらと周囲を見ただけで初めて来た時と同じように人の気配のない服部家の塀沿いの通路を通って庭に出た。


「文左衛門」


 不用心に開け放されたガラス障子。あゆむは縁側で寝ている文左衛門の隣りに腰を下ろした。


 文左衛門はちらと顔をあげ、あゆむを一瞥すると大きな欠伸をした。

「文左衛門、昨日はありがとね」

「寝不足じゃよ……」

「猫って夜行性じゃないの?」


 室内は今日も薄暗く静かだった。茶箪笥やテレビに埃がうっすらと積もっている。洋間の方を覗くと乱雑に散らかっていて、ここも床には埃の塊がほわほわと転がっていた。


「たいして役に立たなかったのう……」

 文左衛門は寝そべったまま、顎を縁側の焼けた床板にぺったりとくっつけて呟いた。

「そんなことないよ」

「肝心なことには答えてくれんかったのう……」

「それは、まあ……」

「企業秘密なんじゃろうか」

「いや、企業じゃないでしょ」

「融通がきかんよ、まったく」

「頭固いのよね、きっと」

「そういうところが役所と同じじゃよ」

「文左衛門、役所行ったことあるの」

「ご主人がよく言うとった」

「ねえ」


 あゆむは縁側から脚を垂らしたまま仰向けに寝転んだ。陽に焼けた木の匂いが懐かしかった。空は瑞々しい青で、吊りしのぶの鉢の濃い緑がよく映えて綺麗だった。


 他人の家に勝手にあがりこんで手足を投げ出しているのがスリルを通り越して開放的だった。


「文左衛門のうちっていつも誰もいないのね」

「そんなことありゃせん。いつもは人がいっぱいじゃよ」

「へえ? 何人家族?」

「お客が多いんじゃよ」

「ふうん」

「友達がのう」

「ふん」

「毎日毎日来て、なにやら絵を描いたり、泥をこねくりまわしたり、飲んだり食べたりして騒ぐんじゃよ」

「なにそれ、学生?」

「そうじゃ」

「でも、なんかこの前も静かだったじゃない」

「夏休み。じゃろ」

「どっか行ってんの? 旅行? じゃあ、その間、文左衛門のごはんとかどうすんの」

「隣りの人が来て、いろいろ面倒みてくれとる」

「へえ。うちなんて絶対無理だよ。お姉ちゃんも板橋がいる時は外泊しなかったって言ってたし、旅行なんて絶対無理って言ってたもん。動物を飼うってそういうことよね」


 そう言ってからあゆむは、なのにお姉ちゃんは板橋を置いて行ったのだと思うと板橋が気の毒で、また、姉を無責任だと思った。


 あんなにも可愛いだのかしこいだの溺愛ぶりを披露しておきながら、結局自分の都合で飼えなくなって置いて行ったのだから、考えてみたらひどい話だ。そのことに板橋が傷つかないわけがないじゃないか。


 今まではそんなこと考えもしなかった。板橋が傷ついているとは。言葉が通じなかったせいもある。でもそれよりも想像もしなかったのだ。板橋には人間の事情なんて関係ない。あるのは姉から「捨てられた」という事実だけだ。


 姉は捨てたという言葉を否定するだろう。しかし板橋は置いて行かれてどんな気持ちだったろう。どれほど悲しかっただろう。うちに来た頃の攻撃的で圭角な様子も無理ないことだ。板橋が人間を憎んだとしても、それも仕方ないと思う。それなのに自分はなつかない板橋を憎たらしく思っていたのだ。それは板橋にとってどれほど理不尽なことだったろう。


「おうちの人いつ帰ってくるの」

「さあて、いつだったかのう……」

「いつも開けっぱなしで不用心じゃない」

「盗るようなものはなんもありゃせん」


 あゆむは寝転んで空を見上げたまま、文左衛門の頭を撫でた。熱中症になるのではないかと思うほど、文左衛門の毛皮は熱くなっていた。


「死神、今はどこにいるの」

「どこって……」

「今度は誰が死ぬの? 死ぬ人のところにいるんでしょ」

「まあ、そうじゃが……」

「文左衛門、なんで人が死ぬのが分かるの?」


 ごろりと横を向いて文左衛門の顔を覗き込む。スカートから突き出した脚で靴脱ぎ石をとんとんと蹴る。


「まだ生まれて間もない頃に死にかけたことがあってのう……」

「え? 病気?」

「儂は捨て猫じゃったんじゃよ」

「捨て猫? 野良猫じゃなくて?」

「いや、確か家はあったように思うんじゃが……。生まれたのは、どこかの家の床下で、兄弟が他にもおった」

「お母さんもいたわけね」

「あまり覚えておらんがのう」

「昔のことでもうあやふやじゃが……。気がついたら段ボールに入って寒くてひもじくて死にかけとったんじゃ」

「ああ、なんか、捨て猫のパターンね……」

「口べらしかもしれん」

「かもねえ」

「だから」

「え?」

「結局ここのうちに拾われたわけじゃが、一度死にかけたせいかもう物ごころついた時からずっと死神が見えるし話せる。あんたも一度死にかけて見えるようになったじゃろ。あれは、なんというか、死神の影がうつるようなもんだと思うんじゃよ。ただ、人の姿をしているから近くにいても気づかないし、彼らも別に用事がないから口をきくこともない」

「彼ら? 死神って何人もいるの?」

「あゆむさんよ、世界にどれだけの生き物がいると思ってるんじゃ。一人でまかないきれるわけがなかろうて」

「それで地域ごとに管轄があるのか……」

「今の担当は、固ブツでほんに融通がきかん」

「あ、前は違ったの」

「前はもうちょっと気の効くやつが担当じゃった。移動になったのは残念じゃったなあ」

「移動……」


 本当にサラリーマンみたいなのね。そう言いかけてあっと思った時にはもう遅かった。庭に一人の男の人が入って来て縁側でパンツ丸見えになって寝転んでいるあゆむに困ったように立っていた。


 くつろぎすぎたのか文左衛門も動物の聴覚を発揮せず「あ」と呟いた。

 焦ったのはあゆむだった。慌てて飛び起き、スカートの裾を引っ張り、逃げるには退路は塞がれているし、この前のように塀の隙間に入り込んで逃げるようなことできるわけもなし、あゆむはパニックに陥って金魚が口をぱくぱくさせるように喘いだ。


「あゆむさん、大丈夫じゃから落ち着きなされ」

 文左衛門が起き直って、言った。

「儂の言う通りにするんじゃ」


 パンツを隠したせいか男の子はほっとした顔になった。

「こんにちは」

「こ……こんにちは」

 あゆむはかろうじて挨拶を返すも動悸が激しく、口から心臓が飛び出そうだった。


「この子はうちの者じゃない。言ったじゃろ。友達がしょっちゅう来るって」

 男の人はこちらへやって来ると、肩にかけていた鞄を下ろした。

「大胆に寝てるから焦ったよ」

「あはは……」

「服部さんは?」

「あ、えっと……旅行中で……」

「まだ帰ってないのかあ」


 あゆむはその人に場所を譲るように立ち上がって縁側から一歩後退した。


 青年はあゆむがいることになんの疑問も感じないらしく、なるほど文左衛門が言ったように人の自由な出入りが当たり前になっているのがよく分かった。


「課題も手つけてないのにいつ帰ってくるつもりなのかねえ、あの人は」

言いながら、鞄を開けて中からカメラを取り出す。立派なレンズが装着してある、重そうなカメラだ。


「あれ? 君、高校生だよね」

 次々と鞄からファイルやら本を取り出していた青年が、はたと手を止めた。

 まずい。あゆむはぎくりとして文左衛門に視線を投げた。


「リカの後輩だと言うんじゃ」

「リカさんの後輩なんです」

「ああ、そうなんだ。リカさんも服部さんと一緒に旅行してんじゃなかった?」

「そうじゃ」

「そうです」

「今日は他に誰か来た?」

「いいえ、誰も……」

「リカさんの後輩ってことは、コウゾウさんの後輩でもあるわけか」

「そうじゃ」

「そうです」

「コウゾウさんって、昔からあんなん? オープンなゲイ?」

「あんなって……」


 文左衛門が縁側から飛び降りた。あゆむもその動きに伴ってまた一歩後退する。

「コウゾウのカミングアウトは高校を出てからじゃ」

「あの、コウゾウさんのカミングアウトは高校を卒業してから……」

「へえ、そうなんだ。あの人いつもガーリーだから昔からそうなのかと思ってたよ」

 

あゆむはふふふともへへへともつかない間の抜けた笑いを浮かべて、さも愛想よさそうに振る舞いながら、その実、腋が冷たい汗でびっしょり濡れるのを感じていた。


「あの、私、もう帰るところだったんで」

「あ、そうなの? え? もしかして俺が来たから?」

「いえ、そういうわけでは」

「ならいいんだけど……。このうちに誰もいないなんて珍しいから」

「ええ、まあ……」


 怪しまれることはなかったらしい。本当に、知らない人が出入りするオープンな家なのだなと思った。でもこれ以上いるわけにはいかなかった。これ以上いれば必ずボロが出る。あゆむは「それじゃあ」と頭を下げると小走りに玄関へ駆けて行った。


 その時、咄嗟にあゆむは、

「文左衛門、行くよっ」

 と、他人のうちの猫をまるで自分の猫のように、または忠実な犬のように呼びつけた。


 すぐにしまったと思ったものの、口をついて出たものは仕方がない。後ろを振り向くことはできなかった。振り返れば青年がきょとんとしているのを見ることができたのだが、そんな勇気はなかった。


 あゆむと文左衛門は通りを走って、路地を抜け、小さな漁船が係留されている船着き場に出た。


 息を切らして脇腹のあたりを押さえる。まだ少し痛む。でもその痛みよりも心臓がどうかなってしまいそうで、脚はまだ震えていた。


 打ち寄せる微かな波が船を揺らしている。

「びっくりしたのう……」

「焦ったわ……」

「油断しとったのう」

「ほんとに……」


あゆむと文左衛門は顔を見合わせ、ぷっと吹き出した。一体なにをしているんだろう。猫と二人で。人の家に侵入し、訳の分からない嘘をつき、冷汗たらたらで逃げ出して。

 笑いながら、あゆむは今日病院で出会ったひどく不愉快な出来事も、内臓を抉り出すような痛みも薄れていくのを感じていた。


「変に思われなかったかしら」

「大丈夫じゃろ。あの家にはしょっちゅう色んな人が勝手に出入りしとるから」

「ねえ、服部さんってどんな人なの」

「絵を描く学校に行っとる」

「美大なの」

「浪人した上に留年までしとる」

「駄目じゃん」

「そうじゃのう」

「でも、いい人みたいね」

「なんでそう思うのかね」

「いい人じゃなかったら、友達集まってきたりしないよ」

「……そうさのう……」

「羨ましい」


 あゆむは小さく呟くと防波堤に沿って歩き始めた。文左衛門も隣りをついて来た。


 こんな風に藤井と散歩した。あの時、藤井は子供の頃のことや部活のことを話していた。あゆむは藤井に手をとられながら海ばかり見ていた。照れくさくて、藤井が眩しくて目をそむけてしまったのだ。でも、はっきりと思いだすことができる。瞼に残る残像よりも鮮明に。藤井の表情だとか声だとか何度だって巻き戻し再生できる。


 また二人でこうして歩くことができるのだろか。あゆむは胸苦しい不安に息が詰まりそうになり、気を紛らせるように文左衛門に話しかけた。


「文左衛門、いい人に拾ってもらったんだね」

「いや……、儂を拾ったのはその子じゃないんじゃよ」

「え? 違うの?」

「儂のご主人はじいさんなんじゃよ」

「え、どういうこと」

「瀕死の儂を拾ったはいいが、自分の家では儂を飼うことはできなくてのう。じいさんが儂を家に置いてくれたんじゃよ」

「じゃあ、あのおうちは」

「じいさんの家」

「そこに勝手にみんな集まってんの? それって、いいの?」

「いいんじゃよ」

「オープンな家なのねえ……」

「ご主人は海の男じゃったからのう」

「あ、漁師?」

「そうじゃよ」

「藤井のうちと一緒ね」


 歩きながらあゆむは鞄からミネラルウォーターを取り出し、一口飲むと「暑いね」と額の汗を拭った。


 防波堤の切れ目にくると二人はまた家並みの路地に入りこみ、宛てもなく歩き続けた。


「あゆむさん」

「なに」

「死神にまだ会うつもりかね」

「いけない?」

「人間が知るべきことじゃないと言うとったが」

「そうね。あの人の言うことも理解できないわけじゃないのよ。でも、それとこれとは別問題よ」

「……」


 文左衛門は少し思案するように黙り込んだ。あゆむは尚も真っ直ぐに前を向いて歩いて行く。シャツから出た腕が陽に焼けて、熱を持っている。それでもあゆむは帰ろうと思わなかった。このまま歩き続けていなければ思考のすべてが死へと束ねられてしまう。自分に与えられた生命よりも、死の側のことばかりを考えてしまうのだ。


 死神の影がうつるというのはそういうことなのかもしれない。未来へ向かうものの事は何も考えられないし、自分の時間が前向きに進んでいるとも思えない。自分も含めて世界のすべては滅びに向かっているとしか考えられないし、それが当然のことに思える。


 怖いのはそれを絶望とか厭世的とか考えるのではなくて、初めから希望と名のつくようなものは世界には存在しないと思うことだった。


 生まれたものが死に向かうのは当然のことだ。とすれば、死は悲しむべきことではないのかもしれない。死を避けることはできないのだから、死神が言ったように人間が関知することではないのも当たり前だし、関知しようもないことだ。


 それでは、なぜ、なにを恐れ、悲しむことがあるのか。それは、一人じゃないからだ。


 もしも人間が一人きりで誰とも心通わすことなく生きていれば、死は誰の何も奪いはしないし、恐れることもないのではないだろうか。死ぬのも死なれるのも耐えがたいのは、自分以外の人間のことを思うからだ。


 あの洋館の老紳士。彼に心残りを尋ねた死神。あれは、そういうことなのだ。あゆむはぱっと脳裏に閃く老人の最後の姿を反芻する。死神が正しく人の魂を導かんとするのも、相手が人間だからではないだろうか。それほどに人間は弱い生き物なのだ。


「この先の大森さんのお宅に死神が来とる」

「え」

「おばあさんが明日亡くなる」

「病気?」

「……突然死ということになるんかのう」

「分かるの? 文左衛門、それ、死神に聞いたの?」

「ふむ」

「今日ももう来とるはずじゃ」

「この先ね? 大森さんね?」


 あゆむは方向を確認すると急いでそこへ向かおうとした。が、文左衛門はその場で足を止め、もう着いてこようとはしなかった。


「どうしたの?」

「行ってきなされ」

「文左衛門は……」

「あゆむさんには見えるんじゃから、儂はいなくてもいいじゃろ。あんまり年寄りを働かせるもんじゃない」

「……ごめん」

「儂は帰ってもうちょっと寝させてもらうよ」

「文左衛門」

 言うが早いかすでに歩き始めた文左衛門の背中にあゆむは声をかけた。

「ありがとう」

 文左衛門はちらと振り向き、訳知り顔に頷いた。


 板橋は文左衛門を百年ぐらい生きているとか仙人のようなことを言ったけれど、実際彼が何年生きているのか知らないが、死に出会う回数で言うならあゆむよりも文左衛門の方がより多くを知り、多くを経験している。文左衛門があゆむを見る目には憐れみがある。彼は自分が猫であることを充分に理解し、同時にあゆむがあくまでも人間で自分とは対等ではないのを知りながら、彼女の方が小さくか弱い生き物であるかのように振舞っている。そしてあゆむはそのことに微かな安堵を覚えていた。


 あゆむは今、文左衛門の前で心弱さを許されている。どんな悪意や非難を浴びても泣くまいと背筋を伸ばしていなければいけないようなせつない緊張を文左衛門の前ではしなくていいのだ。それがどれほどあゆむを慰めているか文左衛門は知っているのだろうか。


 そこを通るのが近道なのか、文左衛門の姿が民家の塀の下に消えてしまうと、あゆむは示された方向へ歩き出した。


 慎重に表札の名前を読みながら前進する。時々、家の様子を窺ったりもして。あゆむは空き巣が盗みに入る家を物色しに来ているようだなと自分がおかしかった。

 而して、あゆむは大森さんの家がちょうど路地の突きあたりに位置しているのを見つけ出した。


背の高い夾竹桃が塀の上から何本も覗いて赤い花を咲かせ、文左衛門のうち同様に古い家だった。玄関にはクレマチスの鉢が置かれ、玄関の引き戸は風通しの為か細く開けてあり、中を窺うと上り框に建てた仕切り障子も少しだけ開けてあった。


 表札をもう一度確かめて何の気なしに玄関先から家を見上げたら、控え目に未生流家元と書かれた看板があがっていて、なるほどお花の先生かとあゆむは納得した。


 もうこんな風に他人の家を覗いたりうろうろと様子を窺うことに慣れてしまって、あゆむは人気のない路地ではあるけれどもあたりに気を配りながらその家にいるであろう死神の姿を探そうとした。


 大森さん。明日自分が死ぬとは思いもよらないんだろうな。あゆむは自分が見知らぬ人の死を知っていることが申し訳ないような気がした。と同時に、教えるべきなのかと考えた。


 こうして看板をあげるぐらいだから生徒もいくらかいるのだろう。何歳だか知らないけれども働けるぐらいなら元気に違いない。それを突然死。気の毒なことだ。しかも、それを赤の他人のこんな小娘が知っているなんて。けれど、仮に明日に忍び寄る「死」を知らせたところで信じるとは到底思えない。それではいったいこの事を知る自分にはなにができるだろうか。……そうだ、誰かのために自分は一体なにができるというのだろう。


 玄関が開いているのだから留守ということはない。あゆむは辺りを憚りながら、小声で家の中へ呼びかけた。


「おーい……、いるんでしょー……? 来てるんでしょー……?」


 返事は、ない。あゆむはもう一度呼びかけた。


「斎藤さーん……」


 両腕に鞄を抱きしめるような格好で、一歩一歩玄関へと忍び寄って行く。


 人の生死の行方など確かに人間の関知することではない。するべきではないのも、分かる。大森さんの死を聞いて決していい気持ちはしなかったし、むしろ知っていながら何をするでもないことがまるで命を弄んでいるような気さえしている。

 いや、待てよ。あゆむははたと気がついた。寿命は変化すると言っていた。決まっていても変わることもある、と。それではあゆむが大森さんに突然死の危険性について注意をしたとしたら? 明日に迫る死を回避することもできるのか?


 あゆむの胸の中に言いようもなく荒い風が吹き始めていた。興奮した動悸が熱い呼吸となって口から漏れる。


 人間の関知することではないのは、関知することで運命を変えることができるから……? それは神の領域、即ち運命を侵すことになるから……?


 だとしたら。それならば。あゆむは死神に真っ向勝負を挑むことになる。あの融通のきかない役人みたいな死神に。いや、あの死神ならば勝負ではなく業務妨害とでも言いそうだけれど。


 あゆむはおもむろに呼び鈴に手を伸ばした。今呼ぶのは斎藤さんではない。大森さんだ。


 そう思った瞬間だった。半分空いた引き戸ががらりと全開になり、斎藤があゆむをじろりと睨んでいた。


 あゆむは驚きのあまり飛び上がり、小さく声をあげた。それと同時にしまったと思った。


斎藤はやはり黒いスーツ姿で三和土に立ち、あゆむを見下ろしていた。あゆむは負けてはならじと平静を取り戻しつつ、同じように斎藤を睨みかえした。


「文左衛門ですね」

「……」

「文左衛門に聞いて来たんでしょう」

「いけない?」

「あなた、しつこい性格ですね」

「悪かったわね」


 斎藤は呆れたようなため息をつき、玄関を出て後ろ手に引き戸をぴたりと閉めた。

「ここではなんですから」

「……どこ行くの」

「お茶でも飲みましょうか」


 お茶! 死神とお茶! さっきまでの張りつめた空気がしゅうと音をたてて風船が萎むかのように、あゆむは拍子抜けしてしまった。


 斎藤は国道へ抜ける道を歩き出しながら、まだ大森さんの家の前でぐずぐずと迷っているあゆむを振り返り、

「なにしてるんですか」

 と、手招きをした。


 従うのが運命なのだろうか。あゆむは死神の手招きに意を決して後をついて行った。


 斎藤の黒いスーツは見ているこっちが鬱陶しくなるほどで、この強い日差しの中普通なら耐え難いだろうと思うのだけれど、着ている本人は汗ひとつかいていなかった。


 国道沿いのスターバックスに来ると斎藤は「ここでいいですか」と尋ね、けれど返事はまたずに扉を押し開けて中へ入った。


 店内は軽快なボサノヴァが流れていて、談笑する人々で混み合っていた。斎藤はあゆむに、

「何にしますか? 買ってきますから席を取っておいてください」

 と言った。


 妙なことになったな……と思いつつ、あゆむは窓際の席が開いていたのでそこに鞄を置いて腰かけた。


 ガラス越しに臨む国道は車の行き来が激しく、時折轟音を響かせてトラックが駆け抜けて行く。排気ガスに満ちた濁った空気がそこにある。


 斎藤はあゆむのモカフラぺチーノにストローを突き刺してテーブルに置くと、自分も腰かけた。斎藤は炎天下のスーツが暑くないばかりか、飲み物まで熱いコーヒーだった。


「この暑いのにそんなスーツ着て、さらに熱いもの飲むの?」

 思わずあゆむは尋ねた。

「暑いからといって冷たいものばかりとってると体を冷やしますから」

「……」


 あゆむは文左衛門が言った「融通がきかない」という形容を思い出した。ほんと、融通がきかない。あゆむは鼻白んでストローを咥えて、勢いよく半分凍った液体を啜った。


 斎藤はテーブルに両手を軽く組んで思案げにあゆむを見つめていた。それからおもむろに、

「あゆむさん」

「なに」

「あそこで何をしてたんですか」

「……なにって……」

「大森さんとお知り合いですか」

「……」

「文左衛門から聞いたんでしょう」

「……」

「大森さんが明日死ぬって」

「大森さんに華道習おうと思って」

「は?」

「大森さん、お花の先生でしょ」

「……」

「だから」

「だから?」

「だから、よ」

「……あなたねえ……」

 斎藤は呆れたように椅子の背に体を預け、大仰なため息をついた。

「人間が関知することではないと言ったでしょう」

「別に何もしてないわよ」

「……」

「私、何かした?」

「……いいですか、あなたがしていることは人間の領域ではないんです」

「……」

「仮にあなたが本当に大森さんにお花を習いに来たとしましょう」

「……」

「でも、大森さんが明日死ぬことに変わりはない」

「……寿命は変わるって言ったじゃない……」

「だから」


 不意に斎藤が厳しい口調でテーブルをどんと叩いた。あゆむはびくっとして軽くのけぞった。


 斎藤は眉間に皺を寄せ、

「あなた一体何様のつもりなんですか。神様ですか。それとも大森さんが死ぬと知っているからそれを助けてやるなんて思ってるんですか。あなたのしていることは傲慢でひどく身勝手なものなんですよ」

「まだなにもしてない」

「寿命が変わる。それは確かに本当です。でもその変わるというのは偶然の重なりであって、それこそ天の配剤です。人為的なものじゃない。医術だってすべてが人間の手によるものじゃなく、奇跡の側面もあるでしょう。私が言った寿命が変わるというのは、そういうことなんです。いいですか、私は変わると言ったのです。変えられるとは言ってないし、変えていいとも言ってない」

「……」

「あゆむさん、世界はね、そんな単純なものじゃないんですよ」

 そう言って斎藤は紙コップに口をつけ、外へと目を向けた。


 よく考えてみたら、今、斎藤の姿は周囲の人にも見えているのだろうか。死に近く接した者だけが死神を見ることができるようになるのだと言っていたけれど、こうしてスターバックスでコーヒーを買い、普通の人と変わりない姿で座っている。

 人間の姿をしているのになぜこいつには分からないのだろうか。あゆむは斎藤と同じようにガラスの向こうを睨んだ。


 死を回避したいと思うのは当然じゃないのか。なぜその気持ちが分からないんだろう。失うことの辛さや恐ろしさをどうして察してくれないのだろう。それとも知ったところで職務に忠実である為には無視しなければいけないのだろうか。


 テーブルの上であゆむは拳を握りしめた。斎藤は外を眺めながら続けた。


「生き物にとって死は必ず訪れるものです。誰にも止められない」

「じゃあ、もし、私が大森さんを助けたらどうなるの?」

「助けるってどうやって?」

「例えば……、注意するとか。すぐ病院に運ぶとか。ううん、今からすぐに病院へ行かせるとか……」

「……それで大森さんが助かったとしましょう」

「……うん」

「それだけですむと思ってるんですか?」

「どういう意味?」


 斎藤は再びあゆむに向き直った。

「大森さんが死ぬという事実を知った上で、あなたが大森さんを助けるというのは神の領域を侵す行為です」

「……」

「あなたが大森さんを助けると、大森さんの代わりに誰かが死ななければならない」

「……そんな……」

「もしあなたが本当に大森さんに純然たる目的で、そう、華道を習いにやって来て、たまたま大森さんの健康状態を気遣ったとしましょう」

「……」

「その結果、大森さんが心不全を回避したならそれが偶然の重なりであり、寿命が変わるということです。あなたにはもうその資格がない」

「じゃあ……それじゃあ……」

 あゆむは喘ぐように、

「私が藤井が死ぬかどうかを知ってしまったら……」

「あなたに彼は助けられない」

「……」

「それとも彼の命と引き換えに誰かを殺すんですか」

「殺すなんて、そんな!」

「あなたのしようとしていることは、そういうことなんですよ」

「どうしても誰かを連れていかなければいけないの? そうやって命の均衡を保っているの? あなたが言ってる単純じゃない世界ってそういう意味なの?」

「あなたじゃなくて、斎藤です」

「斎藤さん」

「なんですか」

 斎藤はコーヒーを飲みながら睫毛を伏せた。思いのほか長い睫毛が彼の頬に影を落とす。


「それならどうして私の前に姿を見せたりしたの」

「……」

「斎藤さんには、黙っていることだってできたはずよ。今も、そう。私が身勝手で傲慢だって言ったわね。だったら、斎藤さんだってそうじゃない。人間が関知することじゃないって言ったわね。でも、あなた、私に何もかもを喋ってるじゃないのよ。それを聞いて無視することなんてできるわけないでしょう。斎藤さんが関知させてるんじゃないの」


 逆ギレしているのは分かっていた。でも言わずにはおけなかった。悔しくて、腹が立って、声が震える。


 二人の様子にちらちらと周囲の視線が集まり始めていた。まるで痴話喧嘩を演じているかのような二人を好奇の目が盗み見て行く。斎藤は困惑しつつ、しかし、憮然とした表情を崩さずに、

「これ以上話すことはありません。諦めてください」

「逃げるの」

「あなたは、あなたの人生を生きて行く。それでいいじゃないですか」

「バカにしないでよ!」

 あゆむは勢いよく立ちあがった。その反動で椅子が音を立てて倒れる。あゆむは興奮のあまり肩で息をし、涙声で怒鳴った。


「よくそんなこと言えるわね! あんたは人の気持ちを考えたことないの?! この前、あんたは磯崎さんのおじいさんに心残りはないかって聞いてたわね? そんな無神経な質問よくできたもんだわ。いつ死ぬにしても、どんな終わりがきても、後に何も残さないような人いるわけないでしょ。生きてる人間なら尚の事、なにもできないで黙って見てるなんてできるわけないじゃないのよ。人間が関知することじゃないなんてよく言えるわね。あんたに人間のなにが分かるのよ? 人の気持ちのなにが分かるの?」


 あんまり大声だったせいか、カウンターからグリーンのエプロンをかけた店員がこちらへ近寄ってくる。


 斎藤がそれを制するように片手をあげ「すみません、なんでもないんです」と忽然とした態度で言う。あゆむは溢れる涙を堪えることができず、それでもしゃくりあげるのだけはどうにか我慢して唇を噛みしめた。


 二人のコーヒーは半分かた残っていたが、斎藤は立ち上がり、

「出ましょう」

 と、あゆむを促した。


 あゆむは自分が倒した椅子を起こし、鞄を掴んだ。

「あなたみたいな人、初めてですよ」

 斎藤はそう言うとポケットからハンカチを取り出し、あゆむに差し出した。


 再び炎天下の屋外へ出た二人は、無言でどこへともなく国道沿いを並んで歩き始めた。


 あゆむは斎藤のハンカチで涙を拭き、ついでに思い切り洟をかんでからぐしゃぐしゃにしてハンカチを突き返した。

「大森さんを助けたいですか?」

「……」

「だったら、あなたが代わりに死にますか?」

「……」

「あなたの彼氏がどうなるか、知りたいですか?」

「……」

「あなた、彼氏の代わりに死ねるんですか?」

「……」

「命を大事にしてください。私が言えるのはそれだけです」


 斎藤はあゆむの洟水と涙のついたハンカチをポケットに押し込むと、その場に立ち止まった。あゆむの背中を見送るために。


 あゆむは今一度なにか言いかけたが、言えなくて、無言でバス停へと歩いて行った。


 今死神に見送られているこの命は偶然という奇跡で助かったものなのだ。それがどれほど幸運で尊いものかあゆむだってそのぐらい分かる。でも自分以外の人間の命だって同じように尊く大切だと思う。


それでは結局自分になにができるのか。あゆむは胸の潰れるような思いで一杯だった。死神を振り返ることはできなかった。振り返れば自分の無力さを見せつけられるようで。バスを待つ間、あゆむは奥歯をきつく噛みしめ、苦痛に耐えるように眉間に皺を寄せていた。その姿は傍目にはものものしい顔のガーゼの下の傷が痛みでもするかのようで、行き過ぎる人誰もがあゆむを気の毒そうに横目に見て行った。しかしあゆむはそんな視線少しも気にならないほど思いつめていた。



 うちに帰ったあゆむは憔悴しきって、まっすぐに自分の部屋にあがるとベッドに倒れ込んだ。


 大森さんは明日死ぬ。でもあゆむには何もできない。人が一人死ぬというのに、どうすることもできない。その無力さがあゆむを深く傷つけていた。


 ようするに人間には過去にも未来にも触れることは許されないのだ。SFじみた話しだけれど、もしもタイムマシンがあったなら。過去に干渉すれば歴史が変わってしまうというではないか。それと同じく、未来に干渉するならばやはり同じく重大な何かが変わってしまうのだ。時間も人の生き死にも神の領域で、人間が直接手を下していいものではないのだ。


 斎藤が言ったように世界がそんなに単純ではないというのは、恐らく、あゆむにはとうてい想像もつかないような大いなる力が森羅万象すべての均衡を量りつつ世界を守っていて、なんの宗教観だか知らないけれど、人が死んだり生まれたりすることのサイクルも、いつどこで誰と出会い、何が起きるかもすべて神様が複雑で込み入ったスケジュールを組んでいるのだろう。運命とか奇跡と呼ばれるものもすべて、神様の予定調和の中にあるのだ。


 だから、あゆむごときが触れていいはずもないし、触れられることでもないのだ。


 世界の秘密を知ってしまったあゆむは、今度こそ本当にどうしようもない絶望感で押し潰されてしまいそうだった。


 結局、斎藤と会ったことは生命の秘密に迫ることであったのと同時に、何もできずに事態を見守り、受け入れるより他ないという事実を知らされたに過ぎない。

 あゆむはここへきて、まだ斎藤に食らいついて藤井の生命の行方を聞くことに初めてためらいを覚えていた。


 あんなにも痛烈に知りたいと思ったのは、一体なぜだったのだろう。知ることが怖いのと同時に、知らずにはおけなかった理由はなぜだったのか。


 あゆむは今まで考えようとして避けていた結論が自分の中に浮かび上がるのを、もう抑えることはできなかった。


 藤井が死ぬのかどうかを知りたかったのは、死を待つ恐怖から逃れたかったからだ。死ぬかもしれない、助かるかもしれないという振れ幅の中を嵐の中の羽ように翻弄されるのに疲れたせいもあるし、希望は次第に絶望に浸食され、もう内心藤井は助からないものと思い、ならばその死がいつ訪れるのかを知って安心したかったのだ。


 安心。その言葉にあゆむは自分で愕然とした。自分は藤井の死を決して望んでいるわけではない。あの優しい手にまた触れられるならと思うと、考えるだけで鼻の奥がつんと痛み涙がこぼれる。でも、こうして一人で藤井の死を受け止めるべく身を小さくして時が来るのを待つのは拷問にも等しい。あゆむは藤井を失う恐怖に晒され続け、すっかり疲弊していた。早くこのせつない地獄から抜け出したかった。

 死んでほしくないのに。生きていてほしいのに。それなのに、どうしてこんなにも藤井の死を待っている自分がいる。


 吐き気のような嗚咽が襲ってきてがばりと起き上がると、あゆむは自分の膝をがっちりと抱きしめて絞り出すように泣きだした。


 気が狂う。耐えられない。ただひたすらに死なないでと祈っていたいのに。なぜそれができないのだろう。


 どのぐらい泣いただろう。ふと気付くと部屋のドアをがりがりと引っ掻く音がしているのに気付いたあゆむは、涙を拭い耳をすませた。


「開けろー。開けろよー」

 声の主は板橋だった。


 あゆむはのろのろと立っていってドアを開けた。

 苦悶のあまり憔悴しきったあゆむを見るなり、板橋は「なに一人で泣いてんだよ」と怒ったように言うと中へと入ってきた。


「なんだよ。どうしたんだよ」

 板橋はあゆむの目を覗きこんだ。

 いつのまにこの猫は自分の友人になったのだろう。あゆむはベッドに腰をおろした。


 今、心配そうに温かい目で自分を見つめる小さな瞳は、かつてあんなにも反抗的で警戒心を剥き出しにした野生の瞳ではなかった。


 あゆむはティッシュの箱を手繰り寄せて洟をかむと、

「死神に会ってきた」

 と、呟いた。


「えっ、どこで」

「文左衛門に居場所聞いてきた」

「……それで……?」

「……」

「……彼氏、死ぬの?」

「それを私が知ったらいけないのよ」

「なんで。知らなきゃどうにもできないじゃん」

「知ってもどうにもできないんだって」

「なんで」

「……」


 板橋は腑に落ちないという表情であゆむの足元に座った。


 二人は向かい合うような格好になり、あゆむはあゆむでなんと説明していいのか黙り込み、板橋もまた泣き腫らした目のあゆむが哀れそのもので黙っていた。


 結局どうにもできないのだという結論だけが黒い雨雲のように胸いっぱいに広がり、今にも大粒の雨を涙に変えて降り出しそうだった。


「どうにもできないって死神に言われたのか?」

「そう」

「本当にどうにもできない? 死神だからわざと意地悪言ってるんじゃないのか?」

「……」

「死神がなんて言ったか知らないけど、お前は死神の言う事を信じてるわけ?」

「死神が嘘つく理由ってあるの?」

「だって、相手、死神だろ」

「なんで死神だったら嘘つくのよ」

「死神って、いいヤツなの?」

「……やな感じであることは間違いないわね」


 そこまで言ってあゆむは自分がスターバックスで飲んだ飲み物の代金を払っていないことに気がついた。


「ほらー! だったら嘘かもしんないじゃん! 死神って人の魂を連れて行っちゃうんだろ? お前がそうやって彼氏助けようとするのが邪魔なんだよ、きっと!」


 板橋は憤慨したように叫んだ。そしてそのままの勢いで興奮して部屋中をぐるぐると歩きまわり始め、

「やっぱ死神だもんな! 悪いやつなんだよ」

「でもコーヒー奢ってもらったわ」

「コーヒーぐらいで騙されんなよ、返してこい!!」

「怒らなくてもいいじゃないのよ」

「怒らない方がどうかしてんだよっ」

 あゆむはふと板橋の怒り方が前にも見たことがあるような気がして、はっとした。


 この口吻。前にあゆむはこうして板橋に責められたことがある。あれは、姉の玲奈と電話で話した時だ。


 尻尾を怒りにそそり立て、しゃあしゃあと鋭い息を吐きながら、ぶつぶつ文句を言っている板橋。あの時も板橋は姉の為にあゆむに怒りをぶつけてきた。姉をかばう為に。心配してくれた姉に反抗的な言葉を返したあゆむに、謝れと息巻いた。あれは板橋が姉をどれだけ大切に思っているかの表れだった。そして、今、板橋はあゆむの為に死神に対して怒りを露わにしいる。


「おじじさまにもう一回相談しよう!」

「え? 文左衛門に?」

「おじじさまならどうしたらいいかお分かりになるよ」

「……」

「夜、また会いに行こうよ」

「でも猫集会に行くと迷惑かかるし、みんな怒るよ」

「家知ってんだろ」

「……」


 そういえば、文左衛門は知っているのだろうか。人の死期を事前に知ってしまうと、その運命に手を出すことはできないということを。


 板橋は熱心にあゆむを説得し、文左衛門のところへ行こうと繰り返した。


 二人は夜を待った。時計を睨み、暮れてゆく空を睨み、台所で食事の支度をする母親のところへ行き、まだかまだかとわざとらしくうろついて、あゆむは普段はしたこともないような手伝いを買ってでて、板橋は先にそそくさと自分の餌皿から餌を食べた。


 不思議に思ったのは母親だった。あゆむが台所を手伝うことが皆無ではないにしろ一年に数回のことだったし、なによりもあの事故以来塞ぎこんで無口になり、不機嫌な顔をしていたのに今は明るさを取り戻したとは言わないまでもとりとめもなく喋り続けている。


 補習のこと、テレビのこと、庭で作っているトマトの成長、アメリカの姉のこと。でもそれは朗らかさではなく、あゆむのいてもたってもいられないはやる心の現れだった。


 文左衛門にもう一度聞きたいことがある。あゆむは皿を食卓へ運びながら、沈黙が怖くてぺらぺらと次から次へと話題を変えていく。そして先日亡くなった町内の磯崎さんのおじいさんのことをあゆむは口にした。


「磯崎さんのおじいさんが亡くなって、おばあさんはどうしてるのかな」

「あら、なんで磯崎さんが亡くなったの知ってるの」

「えっ。なんでって。……お母さんが言ったんじゃない」

「言わないわよ。そんなこと」

「言ったよ。忘れてるんじゃないの」

「……なんで急に磯崎さんのことなんて心配してるのよ」

 母親は挙動不審な娘に視線を向けた。


「なんでって、時々見かけてたし。仲良さそうだったじゃない。だから、おばあさん気の毒だなと思って」

「……」

「あっ、お母さん、板橋の猫草がもう枯れてるじゃない。新しいの買ってきてよ」

 いつもなら父親の帰宅を待つのだが、あゆむは「お腹すいたから先に食べるね」と言いおいてそそくさと自分の茶碗にごはんをよそって席についた。

「いただきます」

 テレビのリモコンで夜のニュース番組にチャンネルをあわせ、著をとった。


「あゆむ、いつからそんなに板橋を大事にするようになったの?」

「え? なに言ってんの。私、前から可愛がってるよ」

「よく言うわよ。ぜんぜん世話してないくせに。板橋、なつかないから可愛くないって言ってたじゃないの」

「そうだっけ?」

「そうよ」

「それは、あれよ、最近板橋も心開いてきてるしさ。仲良くなってきたからよ」

「なんで急に仲良くなるのよ」

「知らないわよ。板橋に聞けば?」


 あゆむは味噌汁をずるずると啜った。板橋は部屋の隅で知らん顔をして、水を飲んでいる。


 母親は尚も不審な顔で、あゆむの向かい側に腰かけた。


 何度見ても心の痛む大きなガーゼ。この下の傷を見た瞬間、母親は貧血のように目の前が真っ暗になった。が、娘を傷つけない為にかろうじて正気を保って、倒れることだけは免れた。


 年齢を問わず娘の顔に傷ができるなんて親としてはとても耐えられないし、悲しくてやりきれなかった。娘のうち、姉の玲奈は近所でも褒めものの綺麗な顔をした娘で、あゆむはどちらかというと平凡な娘だった。が、黒目勝ちの澄んだ美しい瞳をしており、母親はあゆむはきっと将来姉よりも聡明で美しい娘になると信じていた。それをあたらみすみす無にしたと思うと娘を直視することが辛かった。


 整形外科で傷を目立たなくさせることはできると聞いたけれど、それでも拭ったように元通りにはいかないだろうと考えるとため息が漏れる。それに、一緒に事故にあった男の子。あゆむに付き合っている男の子がいるのはうすうす分かっていたけれど、こんなことになるなんて。


「板橋がなついてきたなら、それはよかったわ」

「ふん」

「やっぱり、なんと言っても板橋はお姉ちゃんに置いて行かれちゃったんだものね」

「……」

「なつくわけないのよ。お母さんは最初そう思ってたわ。仕方ないこととはいえ、板橋は大事な人を失ってしまったわけでしょう?」

「……でも、お母さん、なつかせようとしてたじゃない」

「当たり前でしょう。でも、それはお母さんの為じゃないのよ。板橋がかわいそうだったからよ」

「……」

「根気強く可愛がってやればいつか心開いてくれると思ったし、板橋だってこのうちで家族になついて仲良くやっていかないとかわいそうじゃないの。あんたは気付かなかったかもしれないけどね、板橋、最初はずいぶん悲しそうな顔してたわ。お母さん、それが辛くてね。お姉ちゃんが恋しいんだろうなと思って」

「そりゃあ、板橋の飼い主はお姉ちゃんだもん」

「だから、よ。大事な人がいなくなる悲しさは猫だって同じなのよ」

「……」


 母親は急須から湯呑みにお茶を注いで、熱い湯気をふうふう吹きながらいい匂いのする緑茶を飲んだ。


「あゆむ」

「なに」

「磯崎さんのおばあさん、亡くなったのよ」

「え!!」

 あゆむは驚いて茶碗をひっくり返しそうになった。

「いつ?!」

「今日の夕方にね。町内会の芹沢さんが知らせにきたのよ」

「なんで!」

「おじいさんが昨晩亡くなったあとにね……。自殺らしいわ」

「……そんな!!」


 そんな馬鹿な。あの時、死神はおじいさんから託された言葉があったはず。おばあさんが悲しまないようにしてやってくれと頼まれていたのに。なぜ。どうして。


 衝撃のあまり言葉を失ったあゆむを、母親は、母親の勘とも言える鋭さで見つめていた。


「あゆむ、あなたやっぱりおかしいわよ。磯崎さんが亡くなったのは昨夜で、お母さんだって今朝聞いたとこだったのよ。それもあゆむが学校に行ってから、電話で聞いたのよ」

「……」

 あゆむは母親の目を避けるように著を置いた。

「ごちそうさま」

「あゆむ」

「……」

「磯崎さん、ご夫婦仲良かったわね」

「ふん……」

「だから、きっと、おじいさんが亡くなって耐えられなかったのね。ううん、もしかしたらおばあさんは初めからそのつもりだったのかもしれない」

「……」

「でもね」

 母親はすでに腰を浮かせかけているあゆむの目を強く見つめ、一言ずつ重く吐きだすように、

「死んじゃ駄目なのよ。絶対に。そんなことしたらおじいさんがかわいそうよ。いくら辛くても、おばあさんはおじいさんを看取ってその後にまだやることはいくらでもあるのよ。なのに。自殺なんて」

「……」

「人は絶対に、神様がもういいよっていうまでは生きなくちゃいけないの」

「……」

「あゆむ、覚えておきなさいよ。いいわね。何があっても、絶対に生きなくちゃいけないんだからね」


 お母さんの言う神様っていうのがどんなものか分からないけども。あゆむは母親の泣きそうに真剣な眼差しに射られながら、心の中で呟いた。神様は人の気持ちも知らないで生き死にを勝手に操作して、死神なんてやつはもっとひどくて、残酷なのよ。神様に縋って一体なんになるっていうの。神様が何かしてくれると思ったら大間違いだわ。自分の命も大事な人の命も、救うことはできない。神様とやらに翻弄されるだけなのだ。そんな権利、神様にあるのか。


「分かってる」

「……お姉ちゃん、来週帰ってくるって」

「来週? お盆前後とか言ってなかった?」

「とりあえず、自分だけ先に帰ってくるんだって」

「なんで」

「あんたが心配だからでしょう」

「……」

「あゆむ。そういうことも、忘れちゃダメよ」


 あゆむは曖昧に頷いて食卓を立った。今食べたものがお腹の中でめちゃくちゃに渦を巻いているようで気持ちが悪かった。


 のろのろと自分の部屋へ引き上げると、板橋がその後に続いて走って行く。その様子を母親は見守った。板橋があゆむになついたなら、その心を癒す存在になってくれるといいのにと密やかに願う。母親は顔の傷以上にずたずたになったあゆむの心の方が心配だった。


 部屋に入るとあゆむは即座に板橋に言った。

「死神はやっぱり、悪いやつなのよ」

「やっぱりか!」

「あいつ、嘘つき野郎よ。磯崎さんのおじいさんを騙したのよ」

「おばあさんまで連れて行くなんて話が違うよな」

「そうよ」

「あゆむ」

「なに」

「まさか、彼氏が死んだらあゆむも……」

「……そんなわけない」

「行くなよ」

「え?」

「絶対に、彼氏と一緒に行くなよ」

「……」

「そんなことしたら、みんな泣く。れいちゃんも泣く」

「……分かってる」


 あゆむは板橋から視線を逸らしジーンズのポケットに財布をいれ、腕時計を嵌めた。今の今で家を出て行くのは母親に余計な心配をさせるのは分かっている。でもここで夜更けを待つことはできない。


「行こう」


 あゆむは板橋にそう言うと再び階下へ降り、居間を素早く通り抜け、テレビを見ている母親の背中に、

「お母さん、早苗たちからカラオケの誘いきたからちょっと行ってくるね!」

「えっ?!」

 久しぶりに口にする友達の名前、遊びの誘い。無論嘘だったけれど、あゆむはわざと明るい声を出し、母親が何か言う前に玄関を飛び出した。


 磯崎さんのおばあさんが自殺。死神はなぜおじいさんにあんなことを言ったのだろう。いや、それよりも死神なら知っていたはずだ。おばあさんが死ぬことを。なのに、どうして。おじいさんの魂を正しく導く為の方便だったのか。それこそ自分の職務を滞りなく遂行するためにあんなことを言ったのか。ひどい。ひどすぎる。生きている者への冒涜。生命への冒涜だ。あらかじめ決まっている運命だからといって自らの命を絶つものをそのまま逝かせるなんて。


 あゆむは奥歯を噛みしめバス停に立った。板橋が追ってきてあゆむの横に立つ。

「文左衛門、まだ家にいるよね」

「たぶん」

 通りの向こうからバスが来るのが見えると、あゆむは板橋を抱き上げた。

「おとなしくしててよ」

「分かってるよ」

 あゆむは板橋をしっかり抱きかかえ、バスの後ろからこそこそと運転手の目に触れぬように開いている座席に座った。


 帰宅途中のOLやスーツ姿の中年男が猫を抱いているあゆむを不審そうに見る。板橋はぬいぐるみのふりでもしているつもりなのかあゆむの腕の中で息をこらして体を固くしていた。


 今日二度目の海辺の町。海岸沿いの国道から見える夜の海はドス黒く広大な闇で、波の気配も感じられない。


 バスを降りる時、運転手が何か言いそうに、咎めるような目であゆむを見たがあゆむはその視線を振り切るように乗降口から板橋を抱いて飛び降りた。

 板橋を下ろすと二人は小走りに路地へ入って行き、板塀に囲まれた服部さんの家へ向かった。


 夜ともなれば文左衛門の飼い主も家にいるかもしれないが、そこは板橋がいるから大丈夫だと思った。自分が不法侵入しなくても、板橋を送り込むことができる。

 あゆむは服部さんの家の前に来ると「ここだよ」と板橋に言った。


「家の人はいないのかな」

「家の中、暗いね」

「見てこようか」


 板橋はそう言うと玄関の格子戸の奥を窺っているあゆむを残して塀の下から庭へとごそごそと入りこんだ。


 室内に灯りはなく、玄関灯の黄色い光だけがあゆむを照らし出している。静かな、静かな夜だった。


「あゆむ」


 暗い庭から声がした。板橋があゆむを呼んでいる声だった。


 あゆむが真っ暗な庭へ入って行くと、そこにはやっぱり開け放された縁側に文左衛門が座り、靴脱ぎ石の上に板橋がいて、どちらも目を宝石のようにきらりきらりと光らせていた。


「一体なにごとかね」


 文左衛門が欠伸をしながら言った。


「よかった。文左衛門いてくれて」

「おじじさま、聞きたいことがあるんです」

「二人揃ってなにを、そんな……」

「あの死神、嘘ついてない?」


 あゆむは庭に立って文左衛門と向かい合ったまま、口を開いた。


 部屋の中には洗濯物を干すロープが渡っていて、そこには何枚もの白黒写真がぶら下がっていた。昼間の学生が撮ったものだろうか。今どき白黒とは珍しい。卓袱台には缶ビールが一本取り残されている。


 文左衛門は不意を突かれて丸い目をさらに丸くし、

「どういう意味かいのう……」

 と板橋とあゆむを交互に見比べた。


「昨日死んだおじいさんの奥さん。自殺したそうよ」

「……」

「文左衛門も聞いてたでしょ。あの時、死神のヤツはおじいさんの遺言を聞いてたじゃない。おじいさんは、おばあさんが悲しまないですむようにしてくれって頼んでたでしょ。で、死神は善処するとかなんとか言ってたじゃない」

「ふむ……」

「でも、おばあさんが死ぬなんてそんなの話し違うじゃないのよ」

「まあ、待ちなされ待ちなされ。死神は嘘をつけんよ」

「どこがよ、嘘ついてるじゃないのよ」

「おばあさんが死んだのはさておき……。死神はその仕事の内容はともかく、神と名がつく以上嘘はつけんようにできとる。彼らのいうことは全部本当のことだけじゃ。おばあさんが死ぬことは知っていたかもしれんが、方法はともかくおばあさんの苦痛は死をもって取り除かれたことになる」

「そういう理屈って、アリなの?!」

「あゆむ、声でかい」


 板橋があゆむの足元で牽制するように、うろうろとまつわりつく。

 なるほど確かに死神は直接嘘はついていないかもしれない。が、本当のことも言っていない。それとも失う辛さに耐えることはできないから死がおばあさんを救ったというのか。


「おばあさんが死ぬことも、初めから決まっていたの? 文左衛門は知っていたの?」

「そんなことまで儂は知らんよ。分かるはずもないじゃろう。寿命だったんじゃないのかね」

「自殺は寿命じゃない」

「原因は関係ないんじゃ。その人が選択するなら、それだって寿命じゃよ。そういう運命だったんじゃ」

「寿命は変えられるって話しだった」

「あゆむさんよ」

「……」

「一体、死神に会ってなにを聞いてきたのかね」


 なにを聞いたか。あゆむは昼間の出来事を思い返し、息苦しさを感じて空を仰いで深呼吸をした。夜空には黄色い月が浮かんでいた。目を閉じると微かに潮の匂いがするような気がした。


「……私には誰も助けられない。大森さんが明日死ぬのも分かってても、どうにもできない。藤井が……藤井が死んでもなにもできない」

「……」

「文左衛門は、そのこと知ってたの?」

「……」

「ねえ」

「……」

「知ってて、私に死神を会わせたの? 死ぬと知ったら、私には助けることができないって」

「……そんなことまで話すとはのう……」


 文左衛門はため息まじりに、困ったように、前脚を舐めて毛づくろいをし始めた。


 その呑気たらしい様子にあゆむはかっとなり、思わず怒鳴りつけた。


「なんで教えてくれなかったのよ!!」

「あゆむ、声が大きいってば」

 板橋がぴょんとあゆむの膝に飛びついた。


 しかしあゆむは昂ぶる声を押えることができず、

「どうにもできないなら、なんで教えてくれなかったの? 人の生き死にはどうにもできないって、なんで言ってくれなかったの? 寿命は変わるとか運命は変わるとか可能性だけ見せといて、期待させて、本当はどうしようもないなんてひどすぎる!」

「あゆむさんよ、あんた、全部聞いてしまったんじゃな」

「そうよ、死神は嘘つかないんでしょ? 嘘つかないまでも、黙ってることはできないわけ? 全部本当のことを言うのが正しいとか思ってんじゃないでしょうね? 冗談じゃないわよ。必要悪とか、人を傷つけない為の嘘ってものもあるんじゃないの?」

「……まさか、死神があんたに話すとは思わんかったんじゃよ……」

「……」

 文左衛門はそう言うと毛づくろいをやめて、がっくりとうなだれた。


 その姿はいつもよりぐんとしょぼくれて小さく見え、これまでそうとは思わなかった文左衛門の老齢を露わにしていた。


「あんたの言う通りじゃよ……。すまんことをしたのう……」

「……」

「でも、わざとじゃなかったんじゃ。儂はあんたが可哀想になってしもうて。だから死神に会わせてやったんじゃ。でも、まさか、本当のことを言うてしまうとは思わなんだ……」

「なんで……」

「あゆむさん、儂もあんたの気持ちがよう分かるんじゃ」


 文左衛門は力なく呟くと、「まあ、座りなされ」とあゆむを縁側に誘った。

 あゆむは気が抜けたように縁側に腰をおろすと、洗濯ロープの写真を見上げた。月灯りと街燈だけでは写真の内容までは見えず、それらは黒い不吉な蝙蝠のように闇の中を吊り下がっているだけだった。


 板橋は激昂をやめたらしいあゆむにほっと胸をなでおろし、自分は靴脱ぎ石のひやりとした感触の上に落ち着いた。


 文左衛門がほうとため息をついた。


「儂は子供の頃からずっと死神が見えとった。だからいつ誰が死ぬのかも、知っとった。けど、儂にとってそれは大したことじゃあなかった。最初から死神と話しができとったし、世界は死で溢れとる。どんな生き物も死から逃れることはできんということを、当たり前のものとして知っとったんじゃ。だから、なにも感じたことはなかった」

「……」

「まあ、儂も若かったということかのう」

「私には無理だわ。平静でいられない。大森さんのことも、全然知らないけど、やっぱり死ぬと分かって平気ではいられないわ」

「それはあんたが優しいからじゃよ」


 優しい。それは違う。あゆむは思った。他人が死に瀕するのを無視できないのは、無視することで罪の意識を背負うことになるからだ。


 風が出てきたのか、縁側に吊るした風鈴が微かな音を立てた。板橋の視線が風鈴に下げた短冊の揺れるのを追っている。


「みんないつか死ぬ。儂はそれをずっと知っとった。分かっとった。悲しいこととも思わんかった。けど、あゆむさんよ、あんたなら分かるじゃろう? 大事な人のこととなると、話しは別じゃということが」

「……」

「儂はここのうちへ来てから、そりゃあもう幸せじゃった……。大事にしてもろうて。儂のご主人は漁師で、夜中のうちに起き出して漁へ出て、朝に帰ってきてまず風呂に入る。冬は儂を抱いて湯船に浸かる。ちゃあんと耳に水が入らんように注意しもってなあ。肩まで浸かれ言うて笑うんじゃ。それから、御寮人さんと朝ごはんを食べる。朝だけど、仕事は終わったから酒を飲む。そりゃあもうたんと飲む。儂を膝に乗せてくれてなあ。お猪口を舐めさせてくれたりもしたもんじゃ。御寮人さんは猫にお酒はええことないからやめるよう言うとったけども、酒というのはなかなか旨いもんでのう。儂は好きじゃったよ」

「ごりょうにんさんて誰」

「なんじゃ、知らんのか。奥さんのことじゃよ」

「ああ、おばあさん」

「若い頃は美人だったとかで、年をとっても品のある人じゃった。仲のいい夫婦で評判じゃった」


 板橋が目を輝かせながらあゆむに訴えかけた。

「あゆむ、俺もお酒飲んでみたい」

「飲まなくていいよ」

「だって旨いんだろ」

「体に悪いんだよ」

 二人のやりとりに文左衛門はふふと笑った。


 なんとも不思議な娘さんに出会ったしまったと文左衛門は思った。猫と言葉が通じるとかではなく、この傷ついた少女は文左衛門がもうとうに忘れていたような昔のことや、忘れたいとも思っていたせつない事を思い出させる。そして、忘れ難い大切なことをも浮き彫りにする。


 恋人の生死の行方を知りたいと懇望した時のあの真剣な眼差しに文左衛門はかつての自分を見たような気がして、死神に引き合わせる決心をしたのだった。


 近隣の猫たちはみな自分を神のように崇め奉り、尊敬してくれている。しかし、文左衛門自身は決して彼らの言うような猫ではないと思っていたし、言われれば言われるほど心のどこかで重い責めを負っているような気がして申し訳ないような気がしていた。


 確かに多くの生命の行方を見つめてきた。でも、それに対して自身が何かをしたことは一度もなかった。ただ傍観しているだけで、それこそ猫たちが言うような神のような力を奮うことなどあるはずもなく、いや、初めからできるわけがないのだから仕方ないのだけれども、そんな期待をこめたような目が文左衛門を息苦しくさせていた。自分はただの年老いた猫。それだけだというのに。


 文左衛門は改めて目の前の少女をまじまじと見た。顔に傷はあれども、この少女は美しい目をしている。真摯な目だ。文左衛門は初めてそのことに気が付き、

「あゆむさん、あんた、猫みたいな目をしとるのう」

 と言った。


「なにそれ」

「あゆむ、暗いとこでも見えんの」

「見えないわよ」

 板橋とあゆむは顔をおかしそうに笑いあった。そして笑ってからあゆむははっとした。


「待って待って。文左衛門。おじいさんの話し」

「なにかね」

「さっきから、なんで全部過去形なの?」


 思い出が過去形なのは当然だが、文左衛門の言い方ではまるですべてが遠いもののようだとあゆむは心づいた。まるで、そう、まるで失われたもののようだと。


「文左衛門。その、あんたのご主人と御寮人さんはなんで家にいないの」

「……」


 文左衛門の目が人間のように悲しい色に曇り、人間のように瞼を伏せた。それはあたかも耐え難い痛みが去来するかのように。あゆむと板橋はまさかという気持ちで息を呑んだ。


「それはのう、二人とももうこの世にはおらんからじゃよ」

「なんで教えてくれなかったの!」

 あゆむはまた同じ叫びをあげた。


 文左衛門は涙をこらえる時のように口元を微かに歪めて微笑んだ。

「あんたはなんでもあらかじめ知っておきたがるんじゃのう」

「そういうわけじゃないけど……」

「初めから答えが用意されとるような人生は面白くないじゃろう」

「そんな話ししてるんじゃないわよ。……いつ? いつ亡くなったの?」

「御寮人さんが亡くなったのは、もう、七年ほど前になるかのう……」

「……病気?」

「ふむ」

「……おじいさんは?」

「去年に、な」

「去年……」

「ぽっくりとな」

「……」


 あゆむはこの雑然とした古い家に今一つ生活感を感じなかった理由が初めて飲みこめた。ここは主を失った家なのだ。出入りしている孫やその友達はここに生活感を与えるほどには馴染んでいない。まだ一年足らずでは。


「儂は、知っとった」

「……」

「御寮人さんが死ぬのも、ご主人が死ぬのも」


 文左衛門は金色の丸い目を懐かしい思い出を語るように細めた。


「その頃のこのあたりの管轄は定年を控えた中年の死神でのう」

「定年ってあるんですか」

 板橋が口を挟んだのをあゆむが「しっ」と制した。


「まあ、言うなればその道のベテランじゃった」

 今度はあゆむが口を挟んだ。

「ベテランって……」

 今度は板橋が「しっ」と制する。


 文左衛門は静かに続けた。


「御寮人さんが死ぬのは、ある意味、家族のみんなが知っとることじゃった。末期癌じゃったからのう。それでもご主人の嘆きようときたら、傍で見ていても辛かったよ。あの豪快で屈強な海の男だったご主人があんなに泣くとは夢にも思わなんだ」

「仲良かったんでしょう。無理ないよ」

「でものう、あゆむさん。ご主人は御寮人さんが死ぬことを知っておったはずじゃよ。儂とおんなじにな。それなのにあんなに悲しむなんて儂はびっくりしてしもうたよ」


 それは昨晩の磯崎さんのおじいさんの言葉を思い出させるものだった。末期と分かっていても、死はすべてを奪っていく。おばあさんが自殺したというのがあゆむの胸に突き刺さる。と、同時に、奥さんの死を嘆き悲しんだことに驚いたという文左衛門の言葉に苦いものを感じてもいた。


 それではあゆむはどうだろう。藤井が死んだら。自分の顔に残った傷痕を見る度に彼を思うだろうし、また、彼を思いだなさい日はないだろう。自分だけ生き残った罪悪感に苛まれ、後悔の念に駆られながら生きて行くことは想像に難くない。


 もし、自分が死を選ぶとしたら。それは悲しみに耐えられないからではない。もちろん、藤井を好きでこの恋を永遠にするためでもない。一人で生きて行くことから逃れるための死だ。今や生きて行くこともエゴなら死ぬこともあゆむにはエゴでしかない。


 胸の中に猛烈な砂嵐が吹き荒れている。


「ご主人は本当に急じゃったよ」

「……」

「死ぬ前の日までぴんぴんしとった。でも、夜になって死神が来てのう」

「どうにかできなかったの?」

「あんたも聞いたじゃろう? 初めから知っていたら、そこに触れることはできんのだと」

「……。私、それは死神が嘘ついてるのかと思って、それで……」

「嘘ではないんじゃよ。さっきも言ったが彼らは嘘はつけないんじゃ。でも、儂がそのことを知ったのはその時が初めてじゃった」

「え?」

「あんまり急にご主人が死ぬことになったもんだから儂はびっくりして、焦ってしもうてのう。どうにかして助けられんもんかと思って、それこそあんたみたいに死神に頼みこんだんじゃよ。どうしたらいいのか聞いたし、なんでもするとも言った。それこそ必死で頼んだんじゃ。けど、その時の担当者はどうにもできんの一点張り。とにかく急なことで、誰にもどうにもできんのだと終いには頭まで下げて勘弁してくれと言うてのう……。そこが今の死神の若造と違うところじゃ」

「……」

「ご主人は夜中に寝ている時に心筋梗塞で、そのままぽっくり逝ってしもうた。まあ、苦しまなかったのが幸いといえば幸いかもしれん」

「それで、死神はおじいさんに心残りはないか聞いた?」

「ああ、聞いたよ」

「おじいさんは、なんて?」

「……先に死んで申し訳ないと」

「……」

「動物より飼い主が先に死ぬのは申し訳ないと言いなさった。最後まで看取ってやる責任があったのに果たせなくて申し訳ない、と。後の事は孫のユキオに頼むから、長生きするようにと言うてくださった」


 文左衛門の言葉に思うところがあったのだろう、板橋は沓脱ぎ石の上に突っ伏すように体を小さく固くした。あゆむは板橋が何を考えているのか分かる気がしてせつなかった。


 夏の夜に涼風が立ったかと思われた風鈴の音が、次第にちりちりとうるさくトレモロを打つようになっていた。気がつくと風は雲を押し流してきて、月は隠れ、空気に湿った匂いが混ざりつつあった。


 雨でも降るのだろうか。あゆむは夜空を再び仰ぐ。低い雲に街の灯りが映り込み、不気味な暗赤色に染まっている。


「死神が本当のことを教えてくれたのは、ご主人の魂を連れて行ってしまった後じゃった。彼はなかなかいい人で、儂を気の毒に思ってくれとった。儂は、その死神に思いやりがあると思うたよ。彼は、儂が知らなくていいことを知っているし常に誰にもなにもしてやれないのだと思い知らねばならんのが可哀想で言えなかったのだと言うた」

「……文左衛門……私、どうしたらいいの」

「……」

「もし文左衛門が私と同じ立場だったらどうする? どうしてた?」

「……」


 文左衛門は黙り込んだ。簡単に答えられる質問ではないのは分かっていた。あゆむは文左衛門が自分の気持ちが分かると言ってくれた優しさに泣きそうだった。と同時に、あゆむもまた文左衛門の気持ちが痛いほど分かって彼を抱きしめてやりたかった。


 彼は失うということを知っている。彼の優しさはその経験によるものなのだ。大事な人を失うということ。それに対して何もできないということ。その喪失感は心に巨大な穴を穿つ。その傷が癒えることは永遠にないのだ。


 あゆむは板橋の言葉も思い出していた。どんなに大事な人を失ったとしても、腹は減るし眠くもなるし、結局は今までとは変わらずに生きて行くに決まってる。あれは、板橋が自分の事を言っていたのだ。板橋もまた失うということを知っている。


 あゆむだけが何も知らずにいた。ずっと。今日まで。あゆむは自分のことで手一杯で何も考えていなかった自分が恥ずかしかった。尊敬だとか思いやりなんて言葉は具体性がなければただの流行りの歌みたいなもので、上っ面だけの耳触りのいい言葉にすぎないのだ。優しさも、手段を持たなければただの綺麗事だ。自分はちっとも優しくなかった。誰にも、自分にさえも。


「死神は命を大事にしろって言ったけど、私は藤井の命も自分の命も大事だと思ってる。ううん、大事じゃない命なんてない」

「運命を受け入れるより他ないということかのう」

「……」

「あゆむさんよ、儂は思うんじゃが、生き物なんてのは無力なもんじゃ。人も猫も関係ない。生き物はみんなおんなじじゃよ。儂はご主人を尊敬していたし、大好きじゃった。儂があの時ご主人を助ける方法を知っていたら。その為に自分の命を差し出すことができたじゃろうか? 何度考えてみても儂には分からん。できると思うこともあるし、できないと思うこともある。何度考えても答えはでないんじゃ」

「……」

「でも、一つだけ分かったことがある」

「なに?」

「儂はそれまで考えもしなかった死ぬということが、どういうことかを分かるようになった。結局死ぬというのは、悔いなく生きるということなんじゃないかのう」

「文左衛門、お孫さんはよくしてくれてるの? 今は幸せ?」

「ああ、ユキオは小さい頃はずいぶんやんちゃでろくなことせんかったが、心根は優しい子なんじゃ。儂を大事にしてくれとる。ありがたいことじゃ」

「お孫さん、ユキオって言うのね」

「男のくせに長い髪して、何日も風呂に入らんこともあるけども、いい子じゃ」

「おじいさんの遺言が効いてるのね、きっと」

「そうさのう」


 庭の隅の八手の葉にぱさりと物音がしたと思うと、ぽつりと雨粒が縁側にシミを作った。

「雨だ」

 板橋が顔を上げた。


 あゆむはそれを潮に立ちあがった。もう文左衛門に何を尋ねることもできなかった。

「帰ろう」

 あゆむは板橋を促した。

「えっ? いいの? どうすんの? 死神にまた会いに行く?」

「もう会ってもしょうがないわ」

「でも……」

「今どうするべきか考えても分からないもん。たぶん、そういうことなのよ。その時がきたら、その時の判断に委ねるしかないのよ。そんで、後悔しないように今を生きるしかないんだわ。人はそういう風にしか生きられないのよ。そうでしょ、文左衛門」

「……」


 雨の匂いが濃くたちこめ、風はますます風鈴を打ち鳴らす。

「これ、うるさいね。はずしておくね」

 あゆむはそう言うとぱっと靴を脱いで部屋にあがり、茶の間にあった踏み台を持って来るとそれに乗って軒先の風鈴をはずした。

「文左衛門、ありがとう」

「……」

「何度も押しかけてきてごめん」

「あゆむさんよ」

「なに」

「儂はこの年になって、あんたみたいな娘さんに会うことがあるとは思わなんだ」

「うるさくしてごめんね」

「儂はずうっと密かに人間と言葉が通じたらええと思うとった。なんと言うても、儂らは猫であんたらは人間じゃ。言葉が通じるはずもない。儂は生まれて初めて儂の気持ちを分かってくれる人間に会うた。儂はもうずうっと誰かに言いたかった。誰かに聞いてほしかったんじゃ。ありがとうよ」

「……」

「それ、雨がひどくなってきたぞ。はよう帰りなされ。夏風邪はなんとかが引くというが、あんたはどうかのう」

「ね、また来てもいい?」

「ああ、またな」

「板橋、行くよ」

 次第に雨が庭の土を黒々と濡らしていく。

「おじじさま、ありがとうございました」

「ふむ」

「文左衛門、またね」

「ふむ」


 こんな風な結論はあゆむの心を平坦にはしなかったけれども、絶望よりはましは気持ちだった。前向きとも言い難いが、諦観はあゆむの心に芯をいれたようなものだった。


 人間の関知することではないのならそれも仕方がない。実際、自分には触れられない、見えざる力で動かされているのだから手の施しようもない。でも、ただ一つだけ確かに言えることがある。あゆむは藤井が好きだということだ。藤井の存在だけがはっきりとしていて、確かで、手を伸ばせば触れられる。そしてそれに触れたいと願っている。理由などそれだけで十分なのだ。


 あゆむは運命に真っ向逆らう気持ちだったのが、受け入れるよりは受け流すような強いものがあればと思った。しなやかで柔軟な力があれば。立ち向かうことができるのに。


 板橋を連れて雨の中を走りだす。バス停で濡れながらバスを待つ間、あゆむは雨に煙って見えるスターバックスの灯りにふと今からでも死神にコーヒー代を返しに行こうかと思いつつ、腕に抱いた板橋に「お母さん怒ってるかな」とその小さな頭に唇をつけながら囁いた。


「大丈夫だよ」

「そうかな」

「そうだよ」


 湿った毛皮のぐんなりした感触が気持ちよくて、あゆむは一度だけぎゅっと板橋を抱きしめた。板橋が腕の中でくすぐったいかのように笑っていた。



 結局、びしょ濡れになって帰って来たあゆむに母親は怒るよりも呆れかえり、しかし無事に帰って来たことに安堵して、

「早くお風呂に入りなさい。夏風邪はバカが引くものよ」

 と、あゆむを風呂場へ追い立てた。


「バカは風邪ひかないっていうじゃないの」

「なにしょうもない理屈こねてんの。いいから早く入って」

「お母さん」

「私、この怪我治らなくても平気だからね」

「えっ」

「お母さんも気にしないで。傷が残るのが運命なら、それに従って生きる道もあるんじゃないの」

「……なにをそんな急に……。誰かに何か言われたの?」


 母親の顔が急速に曇る。けれどあゆむはことさらににこやかに笑って見せた。

「別に、なにも。ただそう思っただけ」

 あゆむは背中を押してきた母親の手をするりと離れて、脱衣所に入ると扉をぱったりと閉めた。


 あゆむは顔の大きなガーゼをおもむろに取り外しにかかった。そうまじまじと見つめたことのなかった顔の傷を鏡に映す。縫合の痕が生々しい。まだ再生しきらない皮膚が生肉を連想させるような色合いで我ながら気色悪く、打撲の痕もまだ青く座取っている。


 この傷と生きて行くのだ。それは自分にとってひどく険しい道になるのは想像に難くない。でもあゆむはその道がいかに厳しくとも歩けないものではないと思った。


 風呂に浸かりながら、あゆむは意識不明の間に実は一度死んで底知れぬ運命の力で生き返ったような気がしていた。


 風呂場の窓を風ががたがたと鳴らし、ざあっと激しく雨音が鳴る。この天気では猫集会は中止だろう。あゆむは他の猫たちを差し置いて今夜文左衛門を独占できて幸運だったと思った。


 雨は深夜まで降り続けた。板橋はあゆむの部屋に来てごろごろとベッドに寝転び、久しぶりにくつろいだ気持ちになって漫画など読んでいるあゆむに、

「あゆむの彼氏ってどんな人?」

 と尋ねた。

「どんなって……。普通の人だよ」

「普通の人ってどんな?」

「だから、普通よ。剣道部で背が高くて、優しくて、真面目で、男らしいタイプ。普段は無口な感じだけど、仲良くなると結構喋ってくれる。人見知りするのかもね」

「ふうん」

「なんで急にそんなこと聞くの」

「れいちゃんと彼氏の好みは違うんだなと思って」

「お姉ちゃんの好み?」

「れいちゃんは、顔で男を選ぶようなところがある」

「嘘よ、そんな」

 あゆむは漫画を置いて笑った。板橋は寝転んだままあゆむを見上げ、

「本当だよ。男前で、エリートで、テニスとかするような奴が好きなんだよ」


 言われてみると確かに姉の結婚相手は背が高くて男前で、大手企業のエリートでテニスが好きだった。

「たぶんあゆむの方が男の趣味はいい」

「なにそれ。板橋、啓一郎さんに嫉妬してるの?」

「あゆむの彼氏、いいヤツなんだろうな」

「……そうよ」

「助かるといいな」


 事故のおかげというべきなのか、猫と言葉が通じるようになって、あゆむは初めて良かったと思った。友達の誰にも打ち明けることのできなかったことが、今、言える。言う相手がいる。一人ではないと思えることがこんなにも自分を支えてくれるなんて知らなかった。


 もはや夜が長いとは思わなかった。時間をもてあまし、暗闇に目をこらして嘆きの中でのたうちまわるようなことはなく、静かに過ごすことができる。それも、猫のおかげで。


 あゆむと板橋は遅くまでなんてことない日々のことや生活のあれこれを喋ったりして過ごした。


 あゆむは板橋が近所の猫たちから「よそ者」と言われ「ちょっと都会から来たからって気取ってる」とか「生意気」と言われていることを聞き、あゆむは猫と言葉が通じるようになって頭がおかしくなったと思ってこっそり病院に行ったことや、藤井と同じ剣道部の子から生き残ったことに対する嫌味を言われたりしたことを話した。


 その合間にあゆむは台所から容器ごと持ちこんできた麦茶を飲み、板橋はあゆむに持ってこさせた水の器からぴしゃぴしゃと水を飲んだ。あゆむは板橋の為にクーラーをつけず、窓を開けて扇風機をつけていた。


 あの嵐のような風はやんだが雨はまだ激しく降っていて、土の匂いと雨の匂いの入り混じった空気が部屋中に充満していた。


 湿気と暑さで皮膚がしっとりと汗ばんでいたが、それを不快には思わなかった。

 二人が喋りながら寝落ちしてしまったのは一体何時だったろうか。そして眠っていたのはどのぐらいの時間だったろう。あゆむは傍らに置いた携帯電話の着信音がしつこく自分を眠りの海から引き戻そうとするのに、唸りながら目を覚ました。


 一体こんな時間になんの冗談だ。あゆむは部屋の電気を煌々と点けっぱなしにしていたので、眩しくてすぐには目を開けられなかった。が、どうにか重い瞼をこじ開けて携帯電話を掴んだ。


 ディスプレイに表示されているのた知らない番号で、あゆむは途端に面倒になって電話を切ろうとした。が、天啓とでも言うべきだろうか、普段なら知らない番号からの着信に出たりしないのだけれども、あゆむは訝りつつも電話をとった。悪戯だとか間違いの類いに違いないと思いながら、不機嫌な声で。

「もしもし」

 着信音で同じく目を覚ました板橋が欠伸をしながら「誰から?」と尋ねた。


「もしもし? 夜分遅くにすみません、鈴木あゆむさんの携帯電話で間違いないでしょうか?」

「はい、そうですけど……」

「あゆむちゃん?」

「はあ……」

 声の主は男だった。


 あゆむはますます眉をひそめて、板橋に向かって首を傾げるジェスチャーをした。

「こんな時間に申し訳ない。えーと……中央病院の田辺です」

「あっ……」

 電話はあゆむの担当医からだった。

「寝てたよね……? 君の携帯の番号は心療内科の問診に書いてあったから……」

「はあ……」

「……落ち着いて聞いてくれるかな」

「……」

「君に連絡するのは本当は僕の裁量ではないんだけども」


 不意にあゆむの鳩尾にぐっと痛みが走った。咄嗟にあゆむは自分のシャツの心臓のあたりを鷲掴みにし、息を殺した。携帯電話を押しつけた耳の奥で、血流ががんがんと音を立てる。


「君の彼氏の容体が急変して、危篤状態です。今からすぐに来たほうがいい」

「……」

「彼の家族も今こっちに着いた。夜間の救急外来の入り口は分かるね?」

「……」

「受付で田中先生を呼んで貰って。君がカウンセリングを受けた心療内科の先生だよ」


 あゆむは息ができなかった。苦しくて、吸いこもうとしても咽喉を塞がれてしまったように空気が入ってこなくて、言葉を吐きだそうにもそれも叶わずただ胸が締め付けられ、手足がぶるぶる震えていた。


「あゆむちゃん?」

 医者があゆむの名を呼んだ。

「あゆむちゃん、しっかりして。今すぐに病院に来るんだ。いいか、タクシー飛ばして、急いで来てくれ。彼の為にも……君の為にも、来た方がいい」


 動物の優れた聴覚で電話の内容を聞いていた板橋が突然躍り上がってあゆむの腕をばりっと引っ掻いた。


「いたっ……」

「あゆむ、早く!」


 板橋に怒鳴りつけられたのと痛みで我に返ったあゆむは、担当医に向かって叫んだ。


「すぐ行きます!」


 あゆむは寝巻に着ていたよれよれのTシャツの上から椅子に放り出してあった不断着のギンガムのシャツに袖を通し、ボタンを嵌めるのももどかしく、ジーンズに足を突っ込んだ。


 あゆむが近づくよりも先に運命の方で近づいて来てしまった。藤井の命の行方が、今決まろうとしている。


「あゆむ、裏口から出て国道の方に行ったらタクシーすぐつかまるから」


 板橋が部屋を出て階段を下りるあゆむに言う。あゆむは返事をすることができなかった。もう涙で目の前が滲み、足を滑らせないようにするだけで精一杯だった。


「あゆむ、金持ってんのか。台所の引き出しにお母さんが封筒にお金置いてるから」


 あゆむは言われるままに暗い台所に入り、食器棚の引き出しから銀行の封筒を見つけ出してポケットに押し込んだ。


「早く、早く」


 板橋が足元でせかす。


 両親はすでに寝室に引き取って深い眠りの中にいる。が、あゆむは物音を立てないように注意を払うことはできなかった。手が震えて、どうしたって音を立ててしまう。板橋が寝室の扉の方を何度も見ながら、またあゆむをせかす。


 あゆむは玄関からサンダルをとってきて、廊下を走って裏口の小さなドアを開けた。

「あゆむ!」

 飛び出して行こうとするあゆむを板橋が呼び止めた。その声の切羽詰まった響きに、あゆむは板橋を振り返った。

「帰ってこいよ。絶対に。ちゃんと帰ってこいよ」

 あゆむは板橋の真剣な眼差しにまともにぶつかった。あゆむの目になみなみと湛えられていた涙がぼろっと零れ落ちた。


 返事ができなかった。あゆむはその時の判断に自分を委ねることにしたのだ。今約束はできない。何一つ明言することは、できない。そして嘘をつくこともしたくはなかった。友達に嘘をついたりしないのだから。


 あゆむは板橋の視線をふりきるように「行って来る」と言い捨て、表へ出た。


 外はまだ篠突く雨で、板橋に言われた通り国道へ出る道を走り、大通りを行く車の群れを前に息を切らせながらシャツのボタンをきちんと嵌めて、タクシーに向かって手を振った。


「中央病院まで。急いでください」


 転がり込むように乗車し、せきこむように行先を告げると、タクシーの運転手はちらっとバックミラーであゆむを見たなり、重い口調で「中央病院。夜間入口の方ですね」と言って目指す方向へアクセルを踏み込んだ。あゆむの様子が尋常ではないのは一目瞭然だった。


 雨に濡れて光る街燈や車のライトを見つめながら、あゆむはシャツの袖で顔を拭った。


 このまま行けばそこには死神がいる。あゆむが藤井を助ける為にできるただ一つの方法が、そこにある。


 車のフロントガラスをワイパーが規則的に拭う。道路は空いていてこのまま行けば病院まではあと十分もあれば着けそうだった。


 不意にあゆむは頭の中にこれまでの人生のハイライトシーンが映画のように流れ出すのを意識した。


 幼い頃のバースデーケーキ。蝋燭を吹き消すのが楽しくて、何度もしつこく繰り返したこと。自転車に乗れるようになるまで、姉の玲奈が根気強くつきあってくれたこと。小学校の絵画コンクールに入選したこと。初恋の男の子が転校していって号泣したこと。いじめの嵐が吹き荒れていた中学時代の殺伐とした風景。初めての告白と失恋。友達と盛り上がったカラオケ。ちっとも美味しいと思わなかった缶ビール。板橋がうちに来た日のこと。藤井と初めて話しをしたこと。好きだと言ってくれる時の熱っぽいかすれた声。制服の背中。そして、あの事故の瞬間、世界がスローモーションとなって破壊されていったこと。


 このまま自分が戻らなければ、両親も姉の玲奈も、友人たちもきっとあゆむという存在の喪失に泣くだろう。あゆむは自分がこれまで与えられる愛情を当然のように受けてきたことが悔やまれた。当たり前なことなどなにもないというのに。

 すべては小さな奇跡の積み重ねで自分へと繋がっている。あゆむはその奇跡を大切にすべきだったのだ。


 このまま藤井が戻らなければ。彼の家族も友人もどれだけ嘆き悲しむだろう。そしてあゆむを恨み、憎むだろう。誰も理性で考えればあゆむに責任を負わせることなどできはしないはずなのだが、そうでもしなければ気持ちに折り合いをつけることはできないに違いない。あゆむは生きていることそのものを否定されるだろう。

 学校で囁かれていたあの「自分だけ助かってもね」という言葉は永久に抜けないトゲのようなものだ。化膿した傷がじんじんと痛み、生涯あゆむを苦しめることになる。それもあゆむはすでに承知していた。


 あゆむは膝の上で拳を握りしめた。


 タクシーは病院の表玄関ではなく横手にある小さな入口の前に横付けになり、運転手はそこまでの金額を告げて後部座席の少女を振り向いた。


 運転手は少女の固く強張った表情に、思わず「大丈夫?」と尋ねた。少女はこくりと頷くと、ジーンズのポケットから銀行の封筒を取り出して一万円札を差し出した。


 こんな時間に一人で、泣きながら雨に濡れてタクシーに乗り込んできた少女にどんな事情があるのかは分からないが、彼にもそれが決して明るいものではないのだけは見てとれた。


 このまま走り去ってよいものか。そんな風に思ってしまうほど少女は思いつめた表情で釣銭を受け取り、車を降りて行った。運転手は一瞬間思案し、病院へ入って行く少女を見送ってからエンジンを切った。


 あゆむは夜間受付で、言われた通りに心療内科の田中先生を呼んでくれと申し出た。


 恐らく彼らの間ですでに連絡がされていたのだろう。守衛は頷くとすぐに内線電話で心療内科医を呼んでくれた。あゆむが小馬鹿にしていた、あの若い心療内科医を。


 あゆむはあの時の診断が今となっては正しいものだったなと思った。様子を見ようというのは間違いではないし、いい加減な回答でもなくて、本当に様子を見るより他なかったのだ。嵐が過ぎ去るのを身を小さくして待つようなものかとも、思う。ようするに医者は「大人」で患者であるあゆむは「子供」だったのだ。


 電話を受けて田中先生はすぐにやって来た。そしてあゆむを見ると薄暗い廊下へ手招きをし、

「ここからICUに行けるから」

 と、連れだって歩きだした。


 非常灯だけで歩く病院の廊下は肝試しじみた不気味さがあったけれど、あゆむは怖いとは思わなかった。ただ、どこに死神がいるのかをきょろきょろと見回しながら突き進み、その間にも田中先生が、

「急に血圧が下がって、心臓が弱ってる。脳波は正常らしいけども」

「……」

「今、家族の人が来てる」

「……」

 いくつかのドアを通り抜けたところで、二人は足を止めた。


「この向こうが、ICUになってる」


 言われずともあゆむはバタバタと行き来する足音や医者や看護師の緊迫した声、そして藤井を呼ぶ家族の泣き声でそこがそうなのだと知れた。


「田辺先生に知らせてくるから、ここにいて」

 田中先生はそう言うと、あゆむを残して仕切り一枚向こうへ出て行った。


 あゆむは奥歯を噛みしめ、わずか数秒の間、仕切りの向こう側で藤井の生命を救わんとする、神の領域へ踏み込む人間の仕業に耳を傾けた。


 それから、小さくその人の名を呼んだ。


「斎藤さん」


 何らかの計器の電子音が切羽詰まったような音を立てている。専門的な言葉がほとんど怒鳴るように交わされる。あゆむは静かに目を閉じた。


「あなたは本当に執念深い」


 さっき田中先生が出て行った仕切りの向こうから、死神が姿を現した。


 あゆむは目を開けた。そこにはもうお馴染みになった黒いスーツ姿があって、憮然とした表情であゆむを見下ろしていた。


「藤井を連れて行くのね」

「……」

「答えなくていいわ」

「……」

「あなたが言ったこと、たぶん正しい。生き物の生き死にを人間がどうにかするなんて、それは人間の驕りだと思う。でも、人間は神様の領域に踏み込むとかそういうんじゃなくて、もちろん挑戦しているつもりもなくて、ただ、弱い生き物なのよ。死ぬことが怖いし、大事な人を失うのも怖いだけなのよ。だって、私達には死んだらどうなるのかなんて分からないじゃない。分からないことは、怖いのよ」

「……」

「でもね」

「……でも?」


 斎藤は、あんなに昂ぶって頼りなげで、泣きそうだった少女がどうしてこんなにも変貌を遂げたのか理解できなかった。今日の午後に会った時とはまるで別人だと思った。まるで生まれ変わったかのように。そのぐらい目の前の少女は強い眼差しを澄んだ瞳に宿し、なんの邪念もなく、純粋な意思の塊となって立っていた。


「私は怖くない」

「え?」

「私は死ぬのが怖くない」

「……それは……」

「だから、私を連れて行けばいい」

「あなた、本気でそんなこと言ってるんですか」


 斎藤は驚きよりも戸惑いを隠せなかった。

「自分の言ってることの意味が分かってるんですか」

「分かってるわ」

「分かってるって……そんな単純なことじゃないでしょう」

「単純なことなのよ」

「私は命を大事にするように言ったはずです」

「してるわ。あなたの言ったこと、全部、本当だと思う。私は私の人生を生きて行く。それ、本当にそうよ。だから藤井の代わりに私を連れて行ってよ」

「それがあなたの生き方なんですか」

「……正直、生き方とかそんな難しいこと分からない。でも、やっぱり、私は藤井に生きていて欲しいの。そこに私がいなくても」

「なんでそんなことできるんですか。相手は他人ですよ。あなたにとっては今は彼氏かもしれないけども、自分の年齢も考えてみたらどうです。今の彼氏は来年もあなたの彼氏ですか? 三年後は? 五年後は? 十年後は? あなたは恋愛に酔っているだけなんですよ。それも、こう言ってはなんだが、恋人の生死を賭けたドラマチックな恋愛に。もうちょっと冷静になるべきだ」


 二人の会話、いや、死神の姿そのものが今ここでは他の人間には見えないようになっているのだろう。恐らくあゆむだけが一人でぶつぶつ呟いている姿があるだけで、それは仕切りの向こう側に微かに漏れ出し、田中先生が戻って来て顔を覗かせた。


 あゆむは他人には見えざる死神と対峙しつつ、田中先生をちらっと見やった。


「今、田辺先生がご家族と話してるから」

「……はい」

 あゆむは頷く。


 斎藤が、

「だから、命を大事にしろと言ってるんです。馬鹿なこと言うのはやめなさい」

 と叱りつけるように言った。


 が、あゆむも引かなかった。


「バカで結構よ。自分の命が大事だから使うんじゃないのよ。あんた、誰かを好きになったことある? 自分よりも大事だと思える人に会ったことある? 心残りはあるかもしれないけども、今、私にできることがこれしかない」

「それはエゴじゃないですか」

「そうよ、人を好きになるなんてエゴに決まってる。でも、だから、なんなのよ。人間ってそういうもんじゃないの」

「なんでそこまでできるんですか。彼があなたにそんなことさせるような、特別な何かをしてくれたんですか」

「私には神様のことは分からないけど、あなたも人間のことなんて分からないよ。分かるわけないよね。だって、あなたは人間じゃないんだから。人の気持ちなんて分かるわけない」


 あゆむは、きっぱりとした口調で言い放った。


 田中先生がまた戻って来てあゆむを呼んだ。

「入って」

 あゆむはもう斎藤を見なかった。すっと一歩踏み出して、招じいれられた明るい場所へ入って行った。


 深刻な状態に取り巻かれたベッド。田辺先生があゆむを見て、目交ぜをする。べッドサイドには藤井の両親と二人の兄。


 あゆむは彼らの視線を受け、猛烈な緊張に吐き気がするほど胃が痛んだ。藤井の母親はハンカチで口元を覆い嗚咽をこらえ、父親もまた涙目であゆむを見つめていた。二人の兄は藤井によく似ていて、あゆむの顔に貼られた大きなガーゼに視線を注いでいるらしく、言葉を失っていた。


 田辺先生がその場を切り崩すように口を開いた。


「お父さんお母さん、彼女もみなさんと同じ気持ちです。責めないであげてください」


 あゆむの視線はベッドに横たわる藤井に注がれていた。


 伏せられた睫毛があっと思うほど長く、呼吸器をつけられている姿はあゆむの知っている藤井からは遠いような気がした。でも、藤井だ。あの事故以来あゆむはどれだけ藤井に会いたかっただろう。会って、言いたいことが沢山あって、でも言葉にしようとすればするほど陽炎のように遠ざかってしまって、胸が苦しくてたまらなかった。


「呼びかけて」


 あゆむは田辺先生の言葉が自分に向けられたのだと気づくと、藤井の家族の顔にさっと視線を走らせた。


 なぜここにいるのか、なぜ呼ばれたのか、彼らは困惑と怒りを感じてはいないだろうか。あゆむの存在が彼らを傷つけてはいまいか。せっかく田辺先生が自分のために一肌脱いでくれたのに、それが仇になったりはすまいか。あゆむの怯えたような目が田辺先生に戻される。


 と、藤井の二人の兄のうち一人が、あゆむの背を押した。

「頼む」

「……」

「こいつがあんたのこと好きだったの、俺知ってる」

 あゆむの視線が今度はICU内を彷徨った。斎藤はどこへ行ったのだ。姿が見えない。


 電子音が藤井の心拍数を計測している。脈拍がグラフになって伸びていく。あゆむは藤井の側にかがみこんだ。


「藤井」


 呼んだ瞬間、涙が溢れた。その名を口にするのは久ぶりだった。声にするのが憚られて、ずっと喉の奥に塞がれていた大切な名前。会いたくてたまらなかったのだ。ずっと。


「藤井、起きて」


 堰を切ったようにあゆむに続いて家族全員がほとんど怒鳴るようにして名前を呼び始めた。


 誰もが必死だった。藤井の命を繋ぎとめようと、懸命に名前を呼んで意識を呼びもどそうとした。


 その中にあってあゆむは一人、藤井の耳元に囁くように、

「藤井、起きて。お願いだから。藤井」

 と訴えた。


 どのぐらいそうして名前を呼んだろう。あゆむは涙と洟水でぐしゃぐしゃになり、ベッドのシーツを鷲掴みにしていた。


 その時だった。藤井の閉じられた瞼が痙攣したかと思うと、指先が虚空を掴むようにごそごそと動いた。


 田辺先生が家族を押しのけるようにして藤井へ駆け寄った。


 あゆむは体を起すと、ベッドから後ずさった。意識が戻った。藤井が生き返った……!


「斎藤さん」


 手足がすうっと冷たくなるような錯覚が走った。


 間断なく処置が続き、家族が号泣する中、あゆむは一歩一歩ベッドから離れ、死神の姿を探した。


「斎藤さん、どこ?」


 辺りを見回しても斎藤の姿はなく、その場を離れて行こうとするあゆむを田中先生が保護するように背後から両肩を支えた。


「大丈夫?」

「……私、行かなくちゃ……」

「えっ?」

「すみません、私、行かなくちゃ」


 あゆむは田中先生の手を逃れると、まだ混沌の最中にある藤井の家族にぱっと頭を下げ、踵を返し、やって来た通路を猛然と駆け戻りだした。


「斎藤さん! どこにいるの!」


 あゆむは暗いロビーへ出ると叫んだ。


 備え付けの自動販売機の灯りだけが白々として、非常灯が緑の光をぼんやりと頭上から落としている。


目を凝らすとずらずらと並んだ待ち合いのベンチの一つに斎藤が座っているのが見えた。


 あゆむは激しく波打つ心臓に手を当てるようにしながら、斎藤へと近寄って行った。


 斎藤に話したように、怖くはなかった。このまま連れて行かれてたとしてもあゆむは覚悟ができていた。ICUを飛び出す最後の瞬間、藤井の目が微かに開いたのが分かった。


「ありがとう。藤井を助けてくれて」

「……」

「……さあ、連れて行っていいよ」


 斎藤の前まで来るとあゆむは足を止めた。


 心残りについて聞かれたらなんと答えよう。藤井が回復してまた剣道をやれるようになってほしいし、自分のように周囲の責めを負わないようにしてほしい。両親の為に姉の玲奈が帰国して同居してくれたらいいと思う。板橋も喜ぶだろう。形見分けなら、自分が大事にしていた服もアクセサリーも全部友達みんなで持って行ってくれればいい。そうして、いつか誰もが自分のことを忘れてそれぞれの人生を生きていけばいい。


 しかし、そんなあゆむの覚悟をよそに、斎藤はおもむろに立ち上がると思いもよらないことを口にした。


「あなたを連れて行くことはありません」

「えっ?」

「あなたの命に用事はありませんから」

「どういうこと? 藤井の代わりに誰かが死ななきゃいけないんでしょう?」


 斎藤の言っていることが分からなくて、あゆむは眉間に皺を寄せた。斎藤も険しい表情で、

「あなたの他に、魂の代替えが必要なことを知っている者がいるでしょう」

「……え……」

「誰がいつ死ぬかを知ることができる者がいるでしょう」

「……それ、文左衛門のこと言ってるの?」

「……」

 あゆむの全身からみるみる血の気が引いていき、ふうっと貧血のように眩暈が襲って来た。


 斎藤はスーツのポケットから手帳を取り出した。

「彼からの遺言があります」

「嘘!!」

 あゆむは両手で口元を覆い、愕然として、もう一度手のひらで言葉を受けるように「嘘……」と力なく吐きだした。


 まさか。そんな。文左衛門が。どうして。言葉にならない言葉が喉元からせりあがってくる。頭の中を疑問詞が激しく駆け巡るが、どれも声にならなかった。


 斎藤はぶるぶると震えだすあゆむには目もくれず、手帳を開くと静かに言った。


「服部文左衛門。享年十七歳。死因は骨髄性腫瘍……所謂、白血病です」

「……白血病……」

「あなたに自分と同じ思いをさせたくないとのことです。何もできない無力さと後悔の中で生きなければならないような、孤独で悲しい目にはあわせたくないと。あなたに会えたことは最後の奇跡だった。だから自分を責めないでほしい。最後に自分が人の為に何かできるというチャンスをくれたことに感謝している。できれば遺灰は主人と同じく海へ散骨してほしいそうです」

「……なにそれ……」

「文左衛門のご主人の遺骨はお墓に入っていますが、お孫さんが一部をこっそり散骨したようですね」

「なによ、それは!」


 あゆむは我慢できずに斎藤につかみかかった。


「なんで文左衛門が死ななくちゃいけないのよ!」


 斎藤はあゆむにスーツの襟を両手で掴まれ、体当たりで揺すぶられるのに抵抗することもなく、黙ってされるがままになっていた。


 あゆむは斎藤の胸を拳で殴り付け、

「幸せだって言ってたのに! 私、文左衛門に代わりに死んでくれなんて言ってない!」

「……」

「あんた、騙したのね?! なんで文左衛門連れて行くの! ひどいよ! あんたにそんなことする権利あんの?」

「……文左衛門が望んだことです」

「嘘!」


 斎藤があゆむの拳を大きな手のひらでがっちりと受け止めた。動きを封じられたあゆむは抵抗し、嗚咽を漏らしながら斎藤の脚を蹴った。

 二人は揉み合いになり、壁にぶつかり、自販機にぶつかりしながら、激しく格闘した。


 あゆむには到底信じられなかった。文左衛門が死ぬ理由など一つもないのに。また会う約束もしたのに。


「連れ戻してよ! 文左衛門じゃなくて、私を連れて行けばいいのよ!」

 そう怒鳴ったあゆむに、とうとう斎藤は渾身の力をこめてあゆむの両手首を捕まえロビーの壁にどしんと自分の身体ごと押しつけた。


「文左衛門は自分が死ぬことを知っていました!」


 斎藤の身体に抑えつけられひやりとした壁の固い感触を背にしたあゆむは、抵抗することをやめ、荒い呼吸をしながら激しくしゃくりあげた。


「文左衛門は、自分が死ぬことを知っていたんです」


 斎藤は同じことを、今度は静かに諭すように言った。


「……誰がいつ死ぬか分かるように、彼は自分の命がもう長くないと知っていた。そして、私に自分の死期を自分で決めたいと申し出たのです」

「……」

「彼は、あなたの中にかつての自分を見たのでしょう。大事な人が死ぬと分かっていても何もできない無力さが、どれだけ辛いか。その後に後悔を携えて生きて行くことがどれだけ苦しいか。彼は知っていた」

「だって、そうしたら、あんたも知ってたんじゃないの」

「斎藤です」

「……斎藤さん! 斎藤さん、ほんと、ひどいよ! 中途半端に本当のこと言って、人を振り回すなんて!」

「そんなつもりありません」

「つもりなくても、実際そうじゃないの。あなたが一番命を弄んでる」

「私にはなんの権限もありません。私は自分の職務を全うしているだけで、人を傷つけようなど思っていない」

「あなたはどうだか知らないけど、私達はいつか必ず死ぬわ。だから、命が大事で、守りたいんじゃないの。自分の命も大事な人の命も。どんな手段を使ってもそうしたいと思うに決まってる。あなたには仕事で、人の死がよくあることの一つだとしても、私たちにはかけがえのない一つだけの命なのよ」


 あゆむは斎藤の身体を押し返した。斎藤はあゆむから一歩退いた。


「文左衛門はどこにいるの」

「彼はもう……」

「死んだんでしょう?! だったら! 遺体はどこにあるのか聞いてるのよ!」

「……自宅に」


 斎藤はあゆむの厳しい口調に幾分気圧されるようだった。あゆむもまた、どうしてこんなに強く自分を保っていられるのか不思議なほどだった。


 行かなければ。あゆむはまだ眼の前に立ちはだかっている斎藤を押しのけるようにして、ロビーを大股に横切って行った。


「どこへ行くんですか」

「服部さんちよ」

「なにしに」

「斎藤さん」

「なんですか」

「あなたが馬鹿じゃないなら、分かるでしょう。それとも、本物の馬鹿なの?」


 イライラとあゆむは吐き捨て、夜間受付の前を通り斎藤を残して病院を走り出た。


 まだ夜は明けておらず、しかし雨は止んでいて街は静かな眠りの中にあった。


 通りの先にタクシーが一台停まっているのが目に着いたあゆむは「おや?」と足を止めた。あれはここへ来る時に乗って来たタクシーだ。


 あゆむはゆっくりタクシーへ近づいて行くと、運転席でうたたねをしていたドライバーを起こすべく二度ほど窓ガラスをノックした。


 運転手はすぐに目を覚まし、あゆむの姿を見ると微笑んで後部座席のドアを開けた。


 運転手は、来た時と違って何か糸の切れたような、それでいて傷ついた表情の少女をバックミラー越しに見た。そしてはたと気がついたのはこの少女の目が猫のようによく光る、美しい目だということだった。


 あゆむは行き先を告げるとシートに身体を預け、目を伏せた。あんな相談をかけなければ。しつこくつきまとわなければ。自分がしたことは一体なんだったのだろう。文左衛門の過去をほじくりかえし、傷に塩を塗り込み、自責の念でがんじがらめにして死へ導いただけのことではなかったか。


 国道沿いでタクシーを下り、慣れた足取りで服部家の門をくぐり庭へ侵入する。而して、縁側で文左衛門は死んでいた。あゆむは誰もいない暗い庭で、死後硬直の始まりつつある文左衛門を抱き上げて、その毛皮に顔を埋めた。涙が後から後から溢れて、文左衛門の亡骸を濡らす。自分を責めるなと言われても、責めずにはおけなかった。


 あゆむは文左衛門に向かって、何度も「ごめん」と呟いた。一人ぼっちで逝かせてしまうなんて。孫のユキオとやらが憎かった。看取ってやるのが飼い主の義務で、おじいさんの遺言だったのではなかったのか。でもそれ以上に腹立たしいのは自分だった。


 文左衛門はご主人を救えなかったことがずっと辛かったのだ。彼が言うように寿命だったにしても、目の前で失われることが痛すぎたのだ。そして、それを誰にも打ち明けることができず、なんの慰めもなく生きてきた。あゆむに出会ったことが奇跡だったのは、文左衛門にとって贖罪であり、たった一つの希望だったのだろう。


 あゆむは文左衛門から命を託されたような気がしていた。あの年老いた優しい猫は自分の命を差し出したのではなく、あゆむの中に遺していったのだ。


 文左衛門を縁側に横たえたまま、あゆむは幾度もその亡骸を撫でた。そうしているうちに東の空が明るくなり、朝焼けの海をかもめが飛来し始めていた。このまま文左衛門を連れ帰るわけには行かず、かといって誰を呼んでいいかも分からず、心は千々に乱れた。


 それでも文左衛門を置いてその場を去るより他なくて、あゆむは何度も心の中でごめんと呟いた。

 


 家に帰りつく頃にはすっかり夜は明けていて、あゆむはくたびれきって玄関のドアを開け「ただいま」と小さく言った。


 途端、居間から両親と板橋が飛び出してきて、ボロ雑巾のごとく疲弊したあゆむを見るや、

「どこ行ってたの!」

 と怒鳴った。


「夜中に勝手に抜けだして、なにしてたの!」

 母親が怒り狂ってあゆむに詰め寄ろうとしたのを、父親が割って入った。

「落ち着きなさい。あゆむ、あがって」

「……ごめんなさい」


 あゆむは両親の顔をまっすぐに見つめた。

「病院に行って来たの」

「病院?」

「藤井が危篤で」

「えっ……」

「でも意識戻ったから」


 その言葉をあゆむは両親を見つつも、板橋に向けて報告しているつもりだった。

「助かったのよ」

 両親は唖然として、怒りを忘れ、立ち尽くしていた。


 誰があゆむを呼んだのか、少年はどうなったのか、家族には会ったのか、責められなかったのか、病院であゆむは何をしたのか、膨大な質問が堤防を決壊させるような勢いで湧き上がって来る。


 しかし、あゆむはそのどれひとつ言わせなかった。恐らくは両親がこれまで一度も見たことがないような、厳しい目で彼らを一瞥し、

「心配かけてごめん。でも私は大丈夫だから。私、生きてるから。ちゃんと」

 両親はあゆむの言葉の意味が分からずきょとんとしていた。が、それに構わずあゆむは繰り返した。


「私、生きてるから」


 彼らは一体あゆむはいつからこんなにも物静かで力強い精神を湛えた娘になったのだろうかと、俄かには信じがたい気持で一杯だった。


 あゆむの背中には誰も寄せ付けないバリアのようなものがあり、父親と母親は顔を見合わせた。少年の命が助かったことが、もうあゆむを傷つけないのだと思うと安堵と共に、ではこの先の二人がどうなっていくのかという新たな心配が生まれ、知らぬ間に両親は手を握り合っていた。


 あゆむは二人の前をすっと通り過ぎ階段を上がった。


部屋に入ると真ん中に立ち尽し、しばし無言でいた。後を追ってきた板橋がその背中に向かって、

「死神に会った? なんで助かったんだよ? 運命が変わったのか?」

 とか、

「やっぱり医者のおかげ?」

 と性急に問いかけた。


「でも、良かったな! 彼氏助かって! 心配してたんだよー。あゆむがもう帰ってこないんじゃないかと思ってさあ」


 言いながら板橋はベッドに飛び乗った。そして「あっ」と小さく叫んだ。あゆむが黙ってぼろぼろと大粒の涙をこぼし、歯を食いしばって泣いていた。


「ど、どうした? どっか痛いのか? なに泣いてんの?」

「……文左衛門が」

「おじじさま?」

「……死んだよ」

「え!」

「遺言きいてきた」

「なんでおじじさまが……」


 板橋は驚きのあまり全身の毛が逆立ったようになり、訳が分からず喚いた。


「おじじさま関係ないじゃん! 死んだってどうして? 死神か? あいつ、やっぱり悪い奴だったのか!」

「……」

「どこで死んだんだよ! なんで死んだんだよ!」

「家で。死因は……白血病だって」

「病気だったの? おじじさまが?」

「そう」

「そんな……そんな……」


 あゆむは言えなかった。文左衛門が自分に代わって命を差し出してくれたということを。言えば板橋が自分を憎むようになると思ったのと、板橋がどれだけ傷つくかと思うととても本当のことは言えなかった。


 他の猫たちもどれほど嘆き悲しむことか。そしてあゆむを呪うようになることか。考えるほどせつなくてやりきれない。自分が憎まれるのはもう仕方ないにしても、彼らの大切な人が失われたことがどんなに大きな痛手かは嫌というほどよく分かるから、あゆむはそれ以上は何も言わずしっかりと唇を引き結んでいた。


 板橋は布団に顔を押し付け、咽喉の奥を苦しそうに鳴らし、時々「おじじさま」と嗚咽と共に漏らした。


 朝日が部屋中に満ちている。庭で蝉が命の限りを叫び始めている。昨夜の雨が嘘のような晴天で、空の色はどこまでも澄んだ美しい青だった。



 藤井の退院が決まった日。あゆむは連絡を受けて藤井の家に招かれていた。あゆむの補習は終わり、夏休みも半ばになっていた。


 あゆむの頬にはガーゼの形に日焼けがし、折れた肋骨はうまい具合に修復されたのかもう痛みはしなかった。


 あれから姉の玲奈は帰国してあゆむを見るなり泣きだしてしまった。あゆむは傷はいずれ治るだろうと姉に説明しながら、もう大丈夫だと言った。でも、傷は見ない方がいい、とも。


 姉は久しぶりの実家と久しぶりの日本をくつろいで過ごしている。板橋を懐かしく抱いて。


 あゆむは板橋が嬉しそうに姉に身を委ねているのに、ほっとしていた。

 猫と言葉の通じる不思議な力は消えそうもなかった。


あゆむは藤井の家に向かう炎天下の路地を、小さな花束を携えてこめかみから汗を垂らして歩いた。


 古い家並みと板塀がもはや懐かしく、それぞれに玄関先や家の周囲に並べた鉢やプランターに夏の花が鮮やかで、あゆむはそれを眺めながら目的の家に向かっていた。


 途中、路地の向こうから数人の中年女性グループが歩いて来るのに心づいたあゆむは、何の気なしにすれ違い、しかし、行き過ぎてから小さく「あっ」と声をあげて彼女たちを振り返った。


 その一団は皆新聞に包んだ花を抱え、明らかにお稽古帰りと知れる会話を交わしているのに気付き、あれはもしや大森さんのお弟子さんでは……と立ち止まって彼女たちを眺めた。


 賑やかに喋るのが、通り過ぎた後もまだ残像のごとく風にのって届く。


「先生が退院してよかったわ」

「あぶなかったわねえ」

「発見が早かったのがよかったのよ。今日もお元気そうだったじゃない」

「ほんとねえ」


 ……死ななかったのか? 大森さんは……。あゆむはじいっと彼女たちに目をこらした。新聞から突き出た長い枝ものがアンテナ線のように揺れている。


 寿命は変わる。運命は変わる。そういうことなのね。あゆむは彼女たちが見えなくなるまで待ってから、また歩き始めた。


 そうして訪ったのは藤井のうちではなく、服部さんの家だった。


 あゆむは一瞬迷ったが背筋をぴんと伸ばし、玄関のチャイムを鳴らした。黒ずんだ表札に格子戸。目を閉じて、庭の様子を思い出す。陽に焼けた縁側に吊りしのぶの鉢。ささくれた畳と古い卓袱台。時代がかった水屋。洋間の板敷きに積もる綿埃。文左衛門が幸せだと言った暮らし。


 五度もしつこくチャイムを鳴らしていると、ようやく家の奥から人の気配がし、格子戸にはまったガラスに人影が映った。


 それは緊張の一瞬だった。あゆむは自分が果たさなければならない使命を背負ってやってきたのだ。三和土に人が降り立ち、引き戸ががらりと開くまでのわずかな間にもあゆむは固唾を飲んだ。


「はい……」


 無愛想な声と共に、格子戸が開いた。


 中には背の高い若い男が立っていて、薄汚れたTシャツに破れたジーンズを履き、三和土に立つ足元は裸足だった。


 間違いない。この長髪。何日も風呂に入っていないような不潔な雰囲気と無精ひげ。こいつが文左衛門の話していた孫だ。


「こんにちは」

「……どうも……?」

「突然お邪魔してすみません。私、鈴木あゆむといいます」

「はあ……」


 部屋の奥にはまだ人がいる気配がしていて、なるほど文左衛門が言っていたように友達の集まる声が聞こえていた。


 あゆむはこの家に人間がいるのが初めてで、それは物珍しい新鮮な空気で、思わず中を覗きこみそうになった。


「あの……」


 さて、どう切り出したものか。あゆむは迷いながら言葉を継ごうとした。

 すると青年の背中で、

「ハットリさん、麦茶のパックってどこにあるんですかー」

 と、聞き覚えのある声がした。

 呼ばれた青年はくるりと振り向き、

「水屋の下の段!」

 と大きな声で返事をした。


「そこにないから聞いてるんすよー。なくなったら先に言ってくださいよ。来る時に買ってきたのにー」


 ぶつぶつ言う声がかぶさる。廊下から出てきたのは、庭で会った男の子だった。


 男の子は玄関に立っているあゆむを見ると、

「あれっ」

 と頓狂な声をあげた。

「今日は制服じゃないんだね」

「吉田、知り合い?」

「リカさんの後輩。だよね?」

「……リカの?」


 まずい。あゆむはこのまま嘘を重ねてもすぐにバレるだろうと思い、それ以上男の子が朗らかに、親しげに喋り出すのを阻止しようと「あの!」と切り出した。

「これを!」

 あゆむは持っていた花をずいと差し出した。


「……」


 孫のユキオは怪訝な表情を浮かべ、押しつけられた花に困惑というより怖いような様子で、あゆむをまじまじと見つめた。


「なに、これ。告白?」

「違います!」

「なになになに、どうしたの?」


 三和土に吉田と呼ばれた男の子が下りてくる。

「これ、お仏壇のお供えに」

「……なんで」

 ますますユキオは訳が分からないと言った顔になり、あゆむを探るように睨んだ。


 あゆむは一歩後退し、深呼吸をした。二人の男を前に、自分を奮い立てるようにことさらに背筋を伸ばし胸を張る。


「文左衛門の遺言があります」

「はあ?!」


 吉田がびっくりして声をあげ、ユキオの顔を見た。ユキオの表情がどんどん曇って行くのがわかる。


 あゆむもユキオが怒りだして、殴りかかってきはしないかとドキドキしていた。しかし、そこでやめたり逃げたりするわけにはいかなかった。


「文左衛門は……遺骨を、散骨してほしいそうです」

「……」

「海に」

「……」

「あなたが、おじいさんの遺灰を捲いたのと同じところにしてください」

「お前」

「……」


 逃げないと思いながらも、体が反射的に危険を避けるようにもう一歩後退した。ユキオは怖い顔で裸足のままあゆむに一歩迫って来た。そして深刻な声で、

「お前……じいさんの散骨のことなんで知ってんの」

「ハットリさん、散骨なんてしたんですか。あれ、役所の許可がいるでしょ」

 吉田も驚きと訳の分からない事態に目を丸くしている。

「だから」

「だから?」

「こっそり捲いた。なのになんでお前が知ってんの」

「……」


 文左衛門に聞いたから。そう答えようかと思い、あゆむは一瞬黙った。見も知らぬ小娘が突然やってきて猫の遺言だの散骨だの言いだして、不審どころじゃないのは分かる。頭がおかしいと思われてもしょうがない。でも、そうだ、おかしいと思うなら思えばいい。笑いたければ笑うがいいのだ。なんと言われても自分は文左衛門の遺言を執行する義務がある。少なくとも、彼の言葉を伝える義務が。


「幸せだったって」

「……」

「たぶん最期も苦しまなかったから」

「……」

「このうちで生きられて、幸せだったって……文左衛門が言ってました!」


 そう言い放った瞬間、ユキオの目にみるみるうちに涙がたまり、うっと小さく呻いたかと思うと、恥も外聞もなくぼろぼろと泣き始めてしまった。


 驚いたのは吉田で、二人の間をおろおろしながら、

「君、一体なに言ってんの? ハットリさんもなに泣いてんですか。大丈夫ですか」

「散骨してください、お願いします」


 あゆむはがばっと勢いよく頭を下げ、顔を上げると同時に路地へと駆け出した。

 走って、走って、走って。そして、文左衛門と来た海へ突き抜けた。


 いつか自分のところにまた死神が来たら。その時に自分は言えるだろうか。幸せだった、と。幸せな人生だった、と。と同時に、周りにの人にもそう言わせてあげられるだろうか。


 こんな小さな、無力な手で、誰にも何もしてやれなくても、それでも誰かを幸せにしてやることができるのだろうか。そしてその為に生きることが、この先にできるんだろうか。


 藤井の意識が戻り、さまざまな検査を経てICUを出て一般病棟に移り、許されて面会に行った時、あゆむは藤井の手に触れて泣いた。藤井が生きていて本当に嬉しかった。あれ以上の喜びはこの先絶対にないと思えるほど、嬉しかった。

 でも、その嬉しさは大切な命の代償を払っていると思うと喜んではいけないような気もした。


 藤井はあゆむの顔のガーゼにひどく傷ついた顔をし、あゆむに詫びた。自分のせいで申し訳ないと。あゆむは意外な言葉を聞いたようで、慌てて首を振った。


「藤井のせいじゃないよ」

「でも」

「事故だったんだよ」

「けど」

「いいの。私がいいと言ってるから、いいの」

「……俺、気持ち変わらないから」

「……」

「心配かけて、ごめん」


 病室のカーテンを引いてこっそりキスをして、二人はしみじみと生きててよかったなと互いの命を思い合った。


 そんなこともいつか遠い記憶になるんだろうか。死神が言ったように、彼は来年も、三年後も五年後も自分のものだろうか。もしそうでなくなったなら。あゆむはそれでも藤井を恨んだりはしないと思った。生きているだけで、それだけでよいのだから。


 海風があゆむの頬をなぶる。


 ふと思い立ってあゆむは携帯電話を取り出し、姉に電話をかけた。姉は家にいて、すぐに電話に出ると、

「どうしたの?」

「お姉ちゃん、板橋と代わって」

「は?」

「板橋、そこにいるでしょ」

「代わるってあんたなに言って……」

「じゃあ、いいわ。板橋を近くに……」

「板橋なら今膝の上に乗ってる」

「板橋、お姉ちゃんと一緒にアメリカ行きな」

「はあ?」

 電波の向こう側で姉の玲奈は意味の分からない電話にぎょっとしていた。


 あゆむの声が板橋の頭上に降り注ぐ。板橋は玲奈の膝で神妙な顔をし、あゆむの言葉を聞いていた。


「着いて行く方法あるよ、絶対。あんたの飼い主はお姉ちゃんなんだから」


 あゆむは本気だった。でも、声はなんだか妙に楽しげに弾んでいて、あゆむは自分が名案を言っていると思っていた。


「分かった? あんたはお姉ちゃんと一緒に行くのよ」


 最後にそう言って電話を切ろうとした。すると、聞き慣れた声が、答えた。


「いいよ」

 と。


「どこにも行かない。ここにいる。……死神がくるまで、ここにいるよ」


 水平線の先を行く船が汽笛を鳴らした。あゆむはそっと電話を切った。


 一際大きな船影が遠くに見える。遠すぎて停まっているように見えるが、じっと目をこらしていると確実に波をきって進んでいくのが分かる。あれはどこへ行くんだろうか。あゆむはしばらく太陽に焼かれながら、船の行き先を見つめていた。



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猫と死神(一気読み版) 三村小稲 @maki-novel

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