夜の始まりー2ー
あの和約以降、家に居る時間が増えざるを得なくなっていた。
各都市の独立自治の維持、領土の維持なんかが盛り込まれていたせいで、北部のトラキア方面の蛮族相手の戦線さえも消滅――もっとも、それ以前から北部の拡張は限界に来ていたんだが――したせいだ。
別に、それが嫌だというわけではない。
嫌だとまで言う程の事ではない。
事実、平和や安全を喜ぶ声も大きかった。
元々
荒廃した農地に、海賊の跋扈による物流の不安定化。成人男子が不足しているのに、不安定な政情から兵士を減らせず、困窮していく都市財政。
特に主戦域であった
その時の俺は理解しきれていない部分もあったが、あの和約は、どこにとっても旨味があったのだと思う。
ヴィオティアは、勝ってはいたがあれ以上の戦争継続は国力的に不可能だった。ラケルデモン陣営は、最終局面でエスパメイノンダスを殺りはしたが、それ以外の戦場では負け続きで戦場の王さえも失い、国家の立て直しが急務だった。
直接的な被害は少なかったマケドニコーバシオにとっても、広がった国土の運営に力を裂く必要があったし……
そう、メタセニアの統治は――エレオノーレの受諾により、事態は速やかに進んだ。……かに見えたんだが、実際、即位させるための試算を行えば、経済難のメタセニアにおいて新王を迎える行事の金がまるで足りない。こっちが金を出してもいいし、実際ミュティレアの海上交易による儲けで過剰な金もあったが、マケドニコーバシオが金を出して即位させた女王という風聞が広まるのは拙い。マケドニコーバシオは戦勝国側であり、かつ、どの国家も和約の違反を理由に戦争を吹っかけてこれる状況ではないとは思うものの、わざわざその口実を与えてやる意味は無い。
そもそも、メタセニアは元々豊かな土地であり、ラケルデモンの経済基盤のひとつでもあったんだから、基礎さえ上手く作れば時間が解決してくれる。
ああ、そういえば、特に俺は何かを態度に出していたつもりはないんだが、
ただ、唯一アデアだけが――。
「もしワタシにも同じようなことをするのなら、あの女の倍以上、魂の奥まで深い瑕を残してやる」
と、俺を噛んだ。
……そう、本格的に一緒になってから知ったんだが、アデアは噛み癖があるんだよな。機嫌が良くても噛むし、怒らせても噛んでくる。
家に居る時間が増えるという事は、必然的にアデアと過ごす時間も増えるという事でもある。そうしていると、あれでも昔は少し遠慮があったんだな、と、理解できる程度にはアデアの態度は露骨で、かつ自由奔放になっていた。何かと引っ付いてきて、頬を摺り寄せてきたり、口付けたり……俺が新たな軽装歩兵の運用論のまとめに集中している時に、寝台に寝転がったまま何度も『我が夫よ! 妻になにも思わんのか! こうして待っておるのだぞ! 甘えさせるとか撫でるとか色々あるだろう』と呼び掛けてきたりな。
その態度に苛々して、頭ではなく尻を撫でたらその手を掴まれて噛まれるというな。
……まったく女ってのは、何を考えているのかちっとも解らん。仕事してる時に邪魔すんなってのに。
そんな風に午前中はアデアと過ごし、午後に自身と兵の鍛錬そして政務を行い、夕刻になれば数日おきに行われる饗宴に参加する。一般的な貴族の生活だと思う。自由市民より裕福で、政治的な仕事のために自由市民より多少は働く生活。
かつての様な不測の事態なんて起きはしない。不意にどこかで戦争が始まったり、どこかに侵攻されたり、逆に攻め奪ったり。何日も、何ヶ月も戦場で過ごすことも無ければ、糧秣の調達に頭を悩ませることも。
もっとも、簡単な問題は常にどこかで起こっているんだが、それがかつて俺が部隊を率いて各地を転戦するような規模のモノではなく、地域の部隊で処理可能な程度で収まってしまっているってだけだがな。
大都市での日々は、豊かで安全で文化的だった。
ただ――。そんな決まりきった日々に、どこか不全感を感じていた。いや、不全感と言うのも正しくは無いのかもしれないが、自分の居るべき世界じゃないような気がしてしまう。惰性で特に考えるまでもない話をしている時にふと訪れる沈黙や、書類仕事にひと段落がついて顔を上げた時、……もはやいつも通りとなったアデアとの日常の中でも、な。
俺は何をしているんだろう、これは俺がすべきことなんだろうか、俺はこんな日常を望んでいたのだろうかといった疑問が頭を過る。
そして、家で過ごす時間が増える内に、アデアとの衝突も――これまでとは別の部分で増えた。
広がっていく部屋……いや、家そのものが大きくなり、部屋数も増えてゆき、部屋が増える度にその空間を埋めるように世話役の奴隷や高価な調度品が増えていく。
時折、それに苦言を呈したりもするんだが。
「金なら心配せずとも良いぞ。我が夫も、武具を増やせばよいではないか。他国の剣などどうだ? 丁度、叔父殿の所に来ていた東方の商人が変わったコピスを持ち込んでいてな、我が夫にもどうかと思っていたのだ」
そう言ってアデアが取り出したのは、黒い変わった片刃の剣だった。だが細くてとても実用に向くとは思えない。
いや、まあ、そういった品々を珍しいとは思うし、面白いとは思うし、集め出したらきっと俺の事だから部屋の一つぐらいは埋まるとは思う。
ただ、俺が言いたいのはそういう事じゃないんだが、それが上手く伝わらない。
過去にエレオノーレとの一件があったので、こうした住みやすい環境を整えてくれるのもアデアの気遣いであったり、愛情表現であったり、良かれと思ってしてくれているのだとは解る。だが、どこか有難迷惑にも感じてしまうんだよな。
別に、それが嫌だというわけではない。
嫌だとまで言う程の事ではない。
強いて言えば、しっくりこない。
既に足りている部分が過剰に供給されているのに、なにか一つが絶対的に足りずに渇望し続けている状態が続いているように感じる。都市での生活には、人が望むたいていの物はあるのにな。
多分、俺がおかしいんだとは思う。その自覚はある。戦争の中で生きてきて、それだけしか俺は知らないから。
未だに慣れていないんだと思う。
安全な都市に住む事も。安定した地位も。食うに困らず、娯楽まであり……。当たり前に仲間がいて、昨日の続きに今日があって、今日の続きに明日がある――そんな、未来が見通せてしまう日常も。
「ようやくだ」
と、今度は独り言ちる。
昔ほど俺は子供ではない。だが、誰にでも何にでも限界はある。
その前に戦争が訪れてくれたんだ。僥倖としか言いようがない。
備えは、万全だった。当然だろう。備える事しかできなかったのだから……。
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