夜の終わりー12ー

 いつの間に、エレオノーレが帰ったのかは覚えていなかった。

 あの一言が届いてから、瞬きをしただけのような気がしたんだが、陽が落ちた後の紫の空にはちらほらと星が瞬きだしている。夕凪も終わったのか、海風が吹き抜けて空へと還っていく。

 自分が今まで何をしていたのかが、上手く思い出せない。いや、何もしていなかったのに、いつのまにか一日が終わっていたのだ。

 今、ここに居るのは俺一人だ。王の友ヘタイロイの誰かが意地悪く物陰からこちらの様子を窺っている、なんてことも無ければ、どこかからアデアが現れて喧しく騒ぎ立てるわけでもない。

 溜息を吐けば、徒労感というか喪失感? 表現するには言葉が足りないが、なんだかそうした、疲れて全部がめんどくさくなったような感覚がした。……ものの、まだ寒さの残る春の夜風が吹き抜ければ、我に返った後では肌寒さを感じて――、くしゃみが出た。

 帰るか、と、どこか間抜けな感じがしてしまうものの現実的に思考し、地面に根が生えたような尻を浮かせる。一応、ベルトに括り付けてある腰回りの品を確認するが――背負っている長剣以外になにを持って家を出たのかの記憶さえ曖昧だったし、そもそも大したものを持ち歩かない主義なので、途中でめんどくさくなって灯の方へと歩き始めた。


 頭の後ろで手を組み、ここまでこじれた責任は、無関心で放置していた自分も悪いとは思うが――、それにしたって、他の部分では十分に働いているんだし、ここまでエレオノーレに責められる程だろうか、なんて思考の天秤を左右に揺らしがら漫ろに歩くも、答えは出ない。


 終わったはずなのに、なんだかすっきりしない。

 結局はこちらの望む形に落ち着いたってのに、どっか負けた気がする。


 もう一度溜息を吐いてみるが、惨めな気持ちは消えずに、気が付けば家の扉が目の前にあった。

 ともかくも、出迎えるアデアの反応からエレオノーレの一件が落ち着いたのかがわかるだろう、と、扉を開ければ――。

「よく帰ったな、我が夫よ」

 ……わっかんねー。

 いつも通りのような気もするし、なんか良いことあった顔のような気もするし、逆に怒ってこんな台詞を吐いているようにも思う。

 一度疑い始めれば、なにもかもが疑わしく見える。人間とは、なんてめんどくさい生き物なんだ。

「どうしたのだ?」

 多分、アデアが最初に小首を傾げて訊ねたのはのは態度に関してだったと思うが、アデアの視線は最終的に俺の肩の爪痕で止まった。

 そのせいで、今日の一件が思い起こされ、一拍遅れて、ああ、とか、適当な返事をして肩を左手で押さえる。

 だが、その反応が遅れた間で察したのか、アデアのまなじりが一瞬で吊り上がった。

「あの女か!」

 怒っているのは解る、し、怒られる理由もなんとなくなら解る。

 怒声を浴びせ、バカ正直に真正面から飛び掛かってくるアデアを――避けないのには、多少の自制心は要ったが。

 殴られるな、と、思ったが衝撃は頬には来なかった。

 アデアもアデアで学習しているのか、俺の胸に飛び込んできた上で大きく口を開けて……肩を噛みあがった。

「い……っつ」

 いや、思わず声は漏れてしまったのだが、さほど痛みがあるわけではなかった。軽く血が出ていたようだったが、そもそも爪が食い込む深さなんて、たかが知れている。皮一枚なんて怪我に含まれない。

 驚いたってのが一番の理由のような気がする。傷口に舌をねじ込まれて抉られるとは、思ってもみなかった。

 アデアも傷から口を離していたが、俺の反応に反射してしまっただけのようで、悪びれもせずに上目絵遣いに俺の表情を盗み見たかと思えば、軽く目を伏せて今度は傷口を刺激しないように軽く肩を舐めている。

「なにがしたいんだ、お前は……」

 呆れを隠さずにそう呟けば、アデアに歯を立てられた。

「悪い女の呪いを解いているのだ」

 ふんす、と、鼻息も荒く言い切るアデア。

 だが、態度や口調程は視線に力が無く、なんだか気の強い子供が無く前のはち切れそうな雰囲気を感じた。ものの、こちらが喋ればまた噛みそうだとも思ったので、嘆息し、好きにさせていると……不意にアデアに尋ねられた。

「惚れてんだろう? ……エレオノーレに」

 惚れるを過去形にするあたり、アデアらしいな、と、思った。

 ただ、今日だけは、違うと答えずに「そうかもな」と、俺は告げた。

 うん、多分、認めるのはなんだか癪な部分はあるが、惚れていた。だからこそ、上手くいかない関係性や、もっと上手くやれるはずの事をエレオノーレがしない事に憤ったり、俺の生き方を強制させようとすることに反発していた。

 ……ああ、そうか、エレオノーレを勝手と言い続けてはきたが、俺自身もそうだったのかもな。俺の理想をエレオノーレに押し付け、それが絶対的な正義だと信じていた。都市国家がそうであるように、其々が独自性を持つ事を知っていたはずなのに。

 そして、お互いにそれを修正するには、遅すぎた。

 二人ぼっちの時間は、案外すぐに消えてしまっていたから。

 人が増えて、役どころが決まり、それに応じた立ち居振る舞いをしていくうちに溝は深まって――、一度、マケドニコーバシオで全てが崩れたが、それでも遅過ぎたんだと思う。

 気が付いて、振り返ってみれば、俺達のしてきたことは……。

「だから言っていたのだ」

 力を抜き、軽くアデアにもたれ掛かる俺を、顔を上げたアデアが頭突いてくる。

「我が夫は、女を甘く見過ぎなんだ。女には、女の戦い方があるのだ」

 アデアの言っていることは正しい。もっとも、今、傷に塩を塗り込まんでも良いじゃないかとは思うが。

 ……認めたくは無いが、軽く傷心に浸っていれば、アデアに預けていた重心を逸らされ、更にアデアに体重を掛けられて仰向けにひっくり返ってしまった。

 コイツは本当に雰囲気を台無しにするな、と、胸の上に乗っているアデアへと視線を向けるが、アデアの方は雰囲気を一変させて俺をブルーの瞳で見下ろしてきていた。

「……そして、私は、誰にも負けたくはないのだ」

 逃げようとしてみたが、馬乗りになったアデアに両手で肩を抑え込まれた。

 正直、力と体格の差を考えればここから抜け出すのは難しくは無いが、その為には姿勢的に無理をするのでアデアに怪我をさせる危険はある。

 王族らしい嗜虐的な視線を向けるアデアに、まずは説得を試みてみる。

「おい。……ちょっと待て」

「待たぬ。我が夫の待て、待ってみて良かったことなどひとつもないからな」

 一言で言い返されてしまった、し、否定も出来んな。

 アデアの栗色の髪が顔に掛かって、くすぐったい。元々育ちの悪くなかったアデアだが……、こう、腹の上にしっかりと尻を乗せて馬乗りになられては、色々と意識もしてしまう。出会った頃の印象のせいで、子供だ子供だと未だについバカにしてしまうが、ごたごたの中でアデアも結婚していても不思議じゃない歳になっているのだ。


 ただ、状況としてこれはどうなんだ、と、思って躊躇っていたら、ニィっと笑ったアデアが口を大きく開けて俺の鼻を噛んでから唇を重ねてきた。

 キスの後、柔らかい頬が摺り寄せられ、耳に息が吹きかけられる。

「我が夫は、ワタシだけのものなのだ……ずっと」



  ――Celestial sphere第七部【Corona Austrina】 了――

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