夜の終わりー10ー

 潮風が吹いていた。

 不思議なものだよな、と、思う。元々はラケルデモン内陸部のアクロポリスに生まれ、山で囲まれた詰め所で育ったのに、今じゃ水平線を眺める時間の方が長い。王の友ヘタイロイの中でも、個人的な戦強さは認識されているが、大別すれば海の専門家の一人に数えられている。

 ただ、最初の頃こそ驚愕し、感動を覚えた水平線も、いつのまにかそこにあるのが当然の風景に変わっている。結局はラケルデモンの山々と同じモノなのだ。人は、慣れるのだ。善かれ悪しかれ。


 かつて王太子と語り合った事もある島民から忘れ去られた神殿は、レスボス島の立地からかポセイドーンの神殿へと建て替えられたようだった。

 ただ、高台の立地で周囲を広く見渡せるというのに、相変わらず閑散としている。実質の支配者であるマケドニコーバシオ系の祖とされているヘーラクレースがゼウスの子孫であるためか、それとも元々あった神殿を改装した事を知る者が避けているせいか。

 そう、あの日も冬が終わったばかりの春だった。

 夜の闇の中に、ニヤニヤ笑いの三日月が浮かんでいた。マケドニコーバシオから、王太子と一部の王の友ヘタイロイがこの島へと移った事の宴席の後で、二人で誓ったのだどこまでも歩み続ける事を。そのために、お互いが必要な事を行う事を。


 そして――。

 この場所は、どこか似ていた事に気付いた。夜には解らなかったが、陽がある時に来た今は、既視感を覚える。

 もっとも、記憶のその場所に吹いていた風は暑く、神殿でもなくただの広い丘で、夏草が風に揺れていた。港も、こんな立派な埠頭ではなく木の桟橋で、三段櫂船は少なく、大型の船体に櫂の少ない輸送用のガレーばかりだった。

 その丘の上は旅の終わりと始まりの場所で、俺達は剣を向け合っていた。


 いや、こうして考えてみれば季節も何も似ていないんだが、見渡す海にどこか近しいものを感じる。港を見下ろしているだけ、なのに。

 適当に神殿の端、海砂と火山灰を固めたコンクリートの終わる場所に足を投げ出して座る。海へと吹き降ろす風が、クラミュス――秋冬用の短めの外套――や腰当を揺らす。

 感傷に浸っている場合か、と、自分で自分を嘲ってしまうが、こういう問題には対峙せずに逃げるばかりだったので、正直もう手詰まりだ。他の部分で補えるから、表面上上手くいっているように見えていて、気づけばもう手遅れになっている。一番最悪のパターンだ。

 背凭れは無いが、上体の重心を後ろに向け、腕を地面に衝き、軽く息を吸い込んで――。

 溜息を吐こうとしたら、背後から小石? 小枝? なんだか分らんが、それなりに硬くて軽い何かが背中にぶつかり、溜息になるはずの息で啖呵を切っていた。

「ああん?」

 肩越しに振り返ると、なぜか真顔のエレオノーレがいた。

 いや、真顔っていうか、無の表情って言った方が正しいかもしれないが。

 ガキの悪戯を適当に脅してやり過ごす程度の寛容さは持ち合わせているつもりだった――アデアなら呆れ顔で迎え、王の友ヘタイロイなら遊び半分で殴りあって、軍団兵ならその気概は褒めるがぶちのめす――が、予想だにしなかったその不景気な面に、喉まで出かかった怒声が全部消えた。

 俺が呆気にとられていると、最初こそ何の表情も浮かべていなかったエレオノーレの方にも迷いが生じたようで、最終的にはどこか恥ずかしそうに呟いた。

「あ、その……ネアルコスさんが」

 変なとこだけ気を回し過ぎる仲間に、額を手で覆った上で天を仰ぐ。

 心理的にも、それ以外でも、なんの準備もしてねーよ。クソ。

「そうか」

 と、取り合えず場を繋いではみるものの「なんの用事?」と、さらに続けられては苦笑いを浮かべるしかない。

「お前を呼んだ理由を聞いてるなら、俺ではなくネアルコスに訊け。まあ、俺の用事は昨日の話の続きをしないといけないってことなんだが……てか、反応から察しろ」

 エレオノーレは困ったように笑ってから、俺の隣に――座らずに、俺の横で柱に背を預けて海を眺め始めた。

「風が気持ちいいね。ラケルデモンじゃ、こうはいかなかった。……多分、メタセニアでも」

 思いっ切りエレオノーレに先手を許してしまえば「海沿いにアクロポリスを建造しても良いぞ?」なんて、月並み以下の言葉しか出ない。恨むぞ、ネアルコスめ。

「そんな意味じゃない」

 と、はっきりと言い返されるのも、聞くまでもない事だった。


 あーあ、と、全く上手くいきそうもない会話に、足を投げ出す。と、不意にさっきの俺の心を読んだかのようなエレオノーレに告げられた。

「似てるよね、ここ」

 外だからか、エレオノーレは神殿の中に居る時よりも表情が明るい。こちらが少し、戸惑う程に。もしかしたらこの場所は、エレオノーレがお忍びで使っているから人払いでもしているのかもしれないな。

「……ああ、あの丘の上での約束が――って、なんだその顔は」

 真面目に話してるってのに、エレオノーレが途中で困ったような苦笑いを浮かべるから、最後までは言い切れなかった。

 言い切ったところで、こんな事になるなんてな、という在り来たりな話なんだから、別にいいけど。


 不思議なものだよな、この世界は。

 当時の俺達は、何でも出来る気でいた。この世界の王で、神で、世界は自分の物のように感じていた。今の地位も簡単に手に入っるって思っていた。通過点のひとつに過ぎなかった。

 そして、そんな当時の自分達を振り返る今の俺は、そんな子供じみた感覚でよく此処まで来れたもんだな、と、呆れと感心が綯い交ぜになった感傷におそわれる。


「あ、違う。いや、違わないけど。私が言ってるのは、アーベルが、その、私達を捨てていったあの夜にってことで」

 ああ、と、自治都市でエレオノーレと別れた夜が頭に過る。確かに、あれは冬が例年よりも早くに終わった春の事で、季節は似ていた。

 が、山間の村で感じたのは咽せ返るような春の花の香りで、ここでは葬式以外でニオイスミレの香りを感じることはない。ずっと、海の――磯の香りが街を包んでいる。

「柱廊と季節以外には、どこも似ていないだろうが」

 鼻で笑って返す俺。

 祭る神の像も、確かあの時の神殿は未完成で、商業の神をまつる土台だけがあった気がする。ポセイドーンの像もなければ、建築様式もイオニア式でもない。

「それを言うなら、なにもなかったあの丘とも似ていないじゃないか」

 笑われたのが気に障ったのか、むきになってエレオノーレが言い返して来る。

 違いない、とは思うものの、エレオノーレの前ではそれがなんだか負けた気になってしまうので、余裕ぶった笑みで受け流すに留めた。

 多分、そういうことなのだろう、俺達は。

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