夜の終わりー6ー
溜息で間を開けてから、改めて俺は「エレオノーレ」と、名前を呼んだ。
「なに?」
不満そうではあったが、ちゃんと呼びかけには応えてくるエレオノーレ。
「これを失くしてしまったら、生きている意味がない、そういうモノを人は持つものだ」
さっきまで俯いていたせいで上目遣い……と言うには不景気で、起きたての亡者のような目を向けられ、自然と苦笑いが浮かぶ。
それを見ていて、鼻の奥がどこかツンとするのは気のせいだ。
「だが、それさえも移ろいゆくモノだ」
寝台で膝を抱えて三角に座り口元を膝の陰に隠している姿が、叱られている小さな子供のようだと思う。膝を抱いている指が白んでいることだけが、反抗心の表れか。
「ラケルデモンにいた頃の俺は……、不自由じゃなかったといえば嘘になるが、あの施設において俺は、全てを支配していた。いつか、王になる事を目指していた。マケドニコーバシオなんて、取るに足りない田舎の蛮族の国だった」
女奴隷に下がれと指示し、その後に空いていたはず右手がいつのまにか椅子の肘掛を握っていたことに気付いたのは、みしり、と、木の軋む音がしたからだ。
エレオノーレばかりを笑ってもいられないな。
それが何に対する苛立ちかも分からないまま、ゆっくりと強張った指を開いてゆく。
「自分の限界を知った?」
直截過ぎる言葉に鼻で笑ってしまうが、それを認めるつもりはない。俺は、ここで終わるつもりもない。
否、俺が勝つか……死ぬまで終わりはない。
「似ているが違う。王として名を残すか、帥として名を残すか、兵として名を残すか……それとももっと別の理由で自分の人生を戦い抜くのか。自分という人間の才能と意志、それらを把握した上で、生き方を選んだんだ。
「…………」
「なのに……なぜ、お前は変わらないんだ? 楽になれ。ここには、昔お前が渇望した安全があり、不安のない生活がある。楽をして良いんだ、お前は充分に頑張った。誰かを助けたいんなら、今のお前には視界にあるだけの人間を助ける程度の金と権力を与えている。したいようにしろ」
変な話かもしれないが、やろうと思えばたいていの望みはかなうのだ、今のエレオノーレは。奴隷船を丸ごと買い上げることも、気に入った人間を友人とすることも、その友人の気に入らない部分を矯正させる事も自由自在だ。昔みたいに、たまたま近くにいただけの金持ちのチビの傲慢さに思い悩む事も無ければ、悲しい顔をした奴隷を見過ごす事も無い。単に、昔俺にそうしていた様に、強請ればいいだけだ。難しい事なんて無い。お飾りとはいえ、メタセニアの新しい女王なんだから、その程度の金も権力も与えている。
本来は、マケドニコーバシオの他国のいち将軍の俺とは格が違うのだ。
唯一の共通事項は、互いに自分の役割から逃げることが許されていないという事だけで。
「そんなこと言って!?」
何に対して逆上したのか分からなかった。ただ、唐突に寝台の上のエレオノーレが跳ねたと思った瞬間、二人分の体重を支え切れなくなった椅子が大きな音を立てて壊れた。
あまりに急だったせいと、今、エレオノーレを害したら全てが台無しになるのが分かっていたから――、切っ先が鈍った。柄に掛けた手が迷う内に、肩を掴まれ仰向けに押し倒される。
殺意は感じなかった。しかし、戦士としての本能が反射的にエレオノーレの首を左手で掴み上げ、エレオノーレの腕が俺を害するのを防ぐ。
細い首筋だった。ほんの少しでも力をこめれば、折れてしまいそうなほど。指先に感じる肌の柔らかさと体温、呼吸の動きが煩い。
どっか既視感のある光景だ。馬乗りになったエレオノーレの表情込みで。
「私が、なにが欲しいのか、解ってる癖に! どうして、こんな時ばっかり!」
どうして、と、何度も訊ねるようにエレオノーレの力の無い拳が俺の胸を打った。
脅威ではない。そう分かってしまえば、左手の力も自然と抜けてしまう。
もはや敵にもなりはしないエレオノーレに向かって、もう何度目かも分からない溜息をつく。
こんな場所で大事にされていたせいで体力が落ちたエレオノーレは、程無く息を荒くして俺を叩くのを止めた。
「俺にとって大切なモノが、ラケルデモンからマケドニコーバシオへと変わったように……。お前の感情も、いつか変わってゆく。もう、過去の一瞬に拘るな。俺と出会う前のお前は、俺を欲していたか? いや、それを言えば、会った後もぶつかることは多かったが――」
昔を思い起こせば思い起こすほど、嫌われていた自分自身の姿が思い出されて苦笑いが浮かぶ。そうそう、最初の夜は俺の寝込みを襲おうとしたんだよな、コイツ。それだけではなく、逃げている俺達を密告した奴隷連中を殺そうとする時も、俺を憎悪のこもった目で見ていた。
エレオノーレが俺に殺意を抱いた数なんて、両手の指で足りるのかも怪しいだろう。
「二人ぼっちでいた日々も、あれはあれで楽しかった。だが、それは過去だ。前を向け、自分の足で歩け。お前にも、いつか、俺じゃない誰かに惹かれる日は来る。その時は、迷わずに進め。俺ももう、かつての俺じゃない」
他の人間を想う、という所で具体的に誰かを意識したわけじゃなかった。単純に、お互いに疎外されていたあの環境下で、初めて人として触れ合ったことが始まりだったのだとしたら、ただ出会うのが早かったというだけの事にいつまでも拘るなと言い聞かせるつもりの台詞だった。
だが、エレオノーレの目尻が釣り上がった事から、エレオノーレが誰を思い描いたのか気付いてしまった。
俺自身の中では、いつのまにか自然と受け入れてしまい、動かし難い事実に変わっていたんだが、これだけの時間が過ぎてもエレオノーレの中ではまだ瘡蓋にもなっていなかったのかもしれない。
アデアも、今日までエレオノーレのことを口にはしなかったので単なる相性の悪さ以上になにかあったのかもな。……もっとも、どっちかぶった斬って終わりって問題でもないので、首を突っ込めはしないが。
深く息を吸い込む動作から察して、俺自身は短く息を吐く。
視線を逸らし、罵倒を遣り過ごそうと思った。
「もう……。もう、はっきり、私が邪魔だって言ったら!? アデアちゃんと結婚するのに、私が邪魔だって」
しかし、エレオノーレを押さえていた左手を外していたせいで、羽織るようにして巻いていた紅緋のクラミュスの襟首を掴まれて顔を上げさせられては、正面から向き合うしかなかった。
「……ッチ」
ひどく苦い舌打ちだった。
なんで、こんなにも分かり合えないのかなぁ?
乱暴にエレオノーレの腕を振り払えば、相変わらず痩せ過ぎの身体はあっけなく後ろ向きに倒れ、上体を起こした俺が今度は見おろす体勢になった。エレオノーレの肩を掴むが、怯えた様に身を竦ませられ……。お互いに、もう信用もなにもあったもんじゃないのに、ここから挽回なんて出来るはずも無いのに、今、こうして二人きりにさせられている状況に、なにかが切れた。
「どうしようもないだろ⁉ いつまで我侭言ってんだよ! ……俺は、俺なんだ! ここまで来たんだ! 今更変われないんだ! もうすぐなんだ! そもそもお前が――」
エレオノーレに釣られて俺も、意識せずにだが、激していくのが分かる。早くなる口調も、大きくなる声も。でも、一度箍が外れたら止まらなかった。
それが分かっていたから、我慢してたってのに。
「戦うな、殺すな、なんて、あの時これまでの俺を否定せずに戦場で並び立っていたなら! 目が合った瞬間の感情に、身を委ねられたんだ。なぜ、出会ったあの夜に、賢い選択をしたはずのお前は、俺と王を目指さなかった! 最初に拒絶したのはお前だろ! 違うのか!」
考えた言葉じゃなかった。
俺自身、自分の言い草に驚いていた。こんな気持ちが、これだけ沢山のモノが自分の中で抑えられていたなんて……。
「いっつも、俺の足を引っ張りあがって。邪魔して、楽しかったか? お前は、いつまでもお前の理想を俺に押し付けてたよなぁ? なんで殺して奪うことが必要なのか、なんて考えなかっただろ? 全部俺が、考えて、実行してたもんな。汚れ仕事も、なにもかも」
目の前に、愕然としたエレオノーレの顔がある。
しかし、出てくる言葉が自分でも気付かぬ内に溜め込んでいた本心だったせいで、もう止まらなかった。
「こんな結果、望まなかった? ふざけんな、全部テメエで望んで好き勝手した結果だろ? 最後まで俺のせいか? ア?」
ただ、どうせエレオノーレは、俺の行動の理由なんて、全く考えてなかったんだろう。単純に、ラケルデモン人だから粗暴なんだと考えていた節もある。戦場から俺を遠ざけて、小さな、自分だけの世界を作りたかったこいつには。
強いて言うなら、なんとかなり過ぎてたのが悪かったのかもな。
どんな状況でも切り抜けられるって、甘えていいんだと変に確信させてしまった。
「変われるんだ。もう少しで、内乱に明け暮れた時代が終わるんだ。お前はメタセニアの象徴になるんだ。俺は
こんなこと、今更言って何になる? 男なんだから、弱みなんて他人に見せたくは無い。
全部頭の中では分かってるんだが、結局最後まで吐き出してしまった。
「他人を思いやっていたお前が、それが分からないわけじゃないだろ。俺に他にどうしろって言うんだ! 答えろ!」
「私、は、……一度も、そんなこと、望んじゃ……」
意地になったようにそれを繰り返すエレオノーレだったが、泣きそうな顔に、もうこれ以上追い詰めるべきではない、と、理性が警告する。
ただ、激情を前に理性は無力だった。
「まだ言うか! 俺達の目的地が違うことなんて、最初から解っていただろ? あの時の俺が、英雄になることを、時代の変革者になることを! どれだけ渇望していたか、お前に分かるか! 挫折と苦悶の中、ようやく見つけた答えを――皆が最大限の幸福を手にする道を、今更お前が否定するのか⁉」
「なんで、なんだよう。私は、ただ、アーベルの事が……好きになってしまっただけなのに……」
怒鳴りたかったわけじゃない。そして、こんな形でそれを聞きたくも無かった。
だって、結局はなにもかも無駄だって事じゃないか。あの夜、真っ直ぐに見詰め合い――惹かれた感情は、実を結ばずに全部無駄になった。
いや、違う、最初から実を結ばないことなんてわかっていた。
でも、だからこそ……なにかひとつぐらい、意味を持たせたかった。俺達が、特別だと信じたかった。神話の神々や英雄の恋のような、鮮烈ななにかを魂に刻み付けたかった。
具体的にどうしたいかなんてなにも無かったけど、それでも、恋だと言い切ってしまえば途端にそれがどこにでもある、ありきたりな感情になってしまった気がしていた。
ああ、もしかして、だからエレオノーレと結婚するということも避けてたのかもな。
人は簡単に誰かを好きになって、そして忘れるから。
青臭い感情だが、他人と比べて、その程度にしたくないって理想ばっかりが高くなって……いつの間にか、エレオノーレをお姫様扱いしていたのかもしれない。
なんだ、結局は俺の責任じゃないか。
それを認めるというだけのために、こんな大掛かりなことが必要だなんてお笑い種だ。
「俺達は、やっぱり、あの村で殺しあっていた方が良かったのかもしれないな。二人ともが生き残ったから、こんなに辛いんだ。片方だけなら、きっと、上手くいった。……そんな、気がする」
「……アーベル」
「お前じゃ、ないんだ。邪魔になった、もう、それで良い。それも嘘ではないからな」
言いたいことを言い終えてしまったからか、途端に全身から力が抜けた。エレオノーレがそう解釈するなら、それでいい。現実は変わらないのだから。
憎むのは楽だ。ずっとそうしてきた俺だから、良く解る。
憎んで前向きになるのなら、もう、それで良いと思った。もう他に出来る事なんて、きっと何も無い。
「俺は、進みたいんだ。でも、お前は、不安定な今だけで良いと言う。どちらかの夢を叶えれば、どちらかの夢を殺すことになる。……お前は、俺に死ねというのか?」
最後に贈るのが憎しみだなんて、ラケルデモンのアーベルにはぴったりじゃないか。
俺をかつて教育したレオだってそうしたのだから。
「……俺は、アデアと進む。お前も自分の夫と会え、拒否は許さん」
椅子の壊れた大きな音は外にも響いていたと思うが、誰も入ってはこなかった。
だから、少々間抜けではあったが自分の足で立ち上がり、俺はドアへと向かって歩き出した。
「アーベル!」
「幸福になれ。末永く、健やかにあれ」
強い呼びかけにも、俺は振り返らなかった。
最後は言い逃げするとは、結局、男という生き物はどこの誰であれそんなに変わらないのかもしれない。それに気付くだけでこんなに時間がかかった。
閉まりゆく扉を背に、するべき義務はこれでもう果たした、と、心の中で自分に言い聞かせていた。
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