夜の終わりー5ー

「よお」

「……うん」

 毛皮の敷物に、壁の豪華なランプ。落ち着いた色味の木材の家具に、神話の時代を描いたレリーフ。神殿の奥まった場所ではあるが、建築士が優秀なのか、角度のある天窓のおかげで部屋は明るく、柔らかな春の西日が部屋を金に輝かせていた。

 これが元奴隷の部屋だなんて、誰が想像できるだろうか。


 しかし、立派な部屋と水瓶等を持ったお付の女官――まあ、要は身の回りを世話させている奴隷だが、エレオノーレに配慮し、呼び方だけは神殿付きの女官としている。元々、長旅をする巡礼者を持て成すために神殿に女奴隷がいるのは普通のことで、エレオノーレの性格のせいか志願者が予想以上に多かったぐらいだ――を側にしては、話は一向に進まなかった。

 一言の挨拶の後、続かない会話に、ひとつ溜息を吐き、プトレマイオスの部屋の椅子以上に尻が沈んで座り難い椅子に浅く腰掛け、膝の上に肘を乗せ、手の甲に顎を当て横にした顔でエレオノーレを見る。

「素直に結婚しろ、お前に合いそうな相手だぞ?」

 俺以上に、とは付け加えなかった。周囲がそういう事だろうと言った所で、俺は別にエレオノーレを守る以上の約束をした覚えはない。自惚れんのも、性に合わない。

 感情、なんて曖昧なものを当てにはしない。

 感情、なんて曖昧なものは変化し続ける。

「なにそれ」

 顔は笑っていたが、声には非難の色がある。淡いグリーンの瞳は伏し目がちながら、挑むように俺を見つめていた。夕日の中では、エレオノーレの今や十分に長くなった金髪は、純白の絹の服とも相まって、いっそう輝いていた。

 真顔で俺はエレオノーレの視線を受け、特になんの感慨もないままに見詰め返し続けると――。

「なにそれ……」

 繰り返された言葉には、非難するだけの強さはなく、もう俺の顔を真っ直ぐに睨み返すだけの気概も無いのか、俯いてしまった。

 吐きたくも無い溜息を吐き出し、ここからは言い合いになるのが解っていたから女奴隷を右手で虫でも払うように部屋から追い出す。気の利く者がいれば、プトレマイオスなりネアルコスなり程々で仲裁できる人間を呼んでくるだろう。こんな態度をする事で、時間に制限を持たせなければ、俺の方も持ちそうにない。逆上して殴りかかるか、エレオノーレの暗い空気に呑まれて俺まで気鬱になりかねん。メタセニアに関する本来の報告と仕事が、このバカのせいで手付かずのままだってのに。

 ……気が急く。

 他の連中と話している時はなんとかなりそうだとか、きちんと話そうと思っているのに、いざ本人を前にすると、最初の出会いの頃の姿と今の姿との違いに苛立ちが先立って、さっさと会話を打ち切りたくなる。

 なんで、コイツにだけこうなるんだよ……。


 テレスアリアの穀倉地帯とは違い、元々は果樹の生産性の高かったメタセニアは、今後、重要になってくる。ギリシアヘレネス特産のワインの一大生産地化させられれば、アテーナイヱとの商業戦争で優位に立てる。王太子の母君の祖国、エペイロスからの航路を確立させれば、イオニア海の海域支配にも繋がる。内海のエーゲ海でアテーナイヱと競合している以上、他の海へと手を広げなければいけない大事な時期だってのに。

 エレオノーレの、いや、俺の不始末で戦略上の失態を犯すことは、断じてあってはならない。

「結婚なんて、特に何が不自由になるわけでもないだろうが。お前が、気が向けば旦那の国王と演劇でも音楽でも楽しめばいいし、気が向かなきゃ女官にでも追い払わせれば良いんだ。外出に制限もつけねえよ。難しく考えるな」

 アデアの件で散々及び腰だった俺が言うのも変だが、別に結婚っつってもラケルデモンやマケドニコーバシオにおいては、そこまでの強制力があるわけではない。

 メタセニアの制度をどっちよりにするかって問題はあるが、元にするのがその二国のどちらかである以上、馴染み易く両国の良いとこ取りの様な形で落ち着くはずだ。そして、この二国は他国よりも結婚後の女の束縛は弱い。アテーナイヱのように女を家に閉じ込めとくわけでもないし、テレスアリアのように他の男との面会に制限や規制があるわけでもない。

 そもそも、エレオノーレは女王だ。一般の扱いとも違う。エレオノーレと娶わせる男も側室を持たせることになるだろうし、浮気を勧めるわけではないが、公務における最低限の体裁だけ整うなら、他に口を出す気は無い。個人的にも、王の友ヘタイロイとしての俺でも。

「ふざけてるの?」

 凍て付くような言葉に、鼻で笑って返す。

「俺の台詞だ」

 先に爆ぜたのはエレオノーレの方だった。

「贅沢したいなんて言ってないんだよ!」

「甘ったれんなよ。お前が、してきたことの結果だろ? 考えろって俺が言った時は聞きもしないで、ここにきてそれを口にするか!」

 だから、返す言葉が荒くなる。

 口論がしたいわけじゃない。頼まれているのは説得だったはず。しかし、向けられた怒りに怒りを返すこと以外の対処法を俺は知らない。自然と、習慣で、なってしまう。


 しかし、怒鳴り返すと思っていたエレオノーレは、再び沈黙を挟むと――。

「ねえ? 私は、もう、一番大切なものを間違えないと思うよ。なにも知らなかった頃とは違う。優先順位を分かってる」

そうだとしても、そんな些細な我侭を優先できる立場に居ないだろ、お互いに」

 不貞た顔のエレオノーレの口が象った『だから』の続きは、口にさせなかった。

 過去は、変わらない。あの時こうしていれば、なんて考え始めれば切が無い。

 それに、前提条件が違うのだ。

 エレオノーレが、自分の為にしてくれたと思っている忠告も、二人で過ごしたかったからとかそんな女々しい理由ではなく、俺は俺の目的を持って動いていた。その手段として、最適とはいえなかったから踏み止まらせようとしただけだ。


 それでも――。

 戦争に、多くの人間に関わる切っ掛けとなったあの日を思い出して、あの日には言えなかった言葉で補足する。

「悪いが……お前は、幸せになるべきだ。俺は……もう、お前に巻き込まれるのも、お前を巻き込むのもごめんだ。約束は、果たされただろ?」

 俺は、本当の意味で誰かのためになにかをすることは不可能なのだと悟っている。そういう風には出来ていない。王の友ヘタイロイの仲間とは共に歩んでいるのであって、一方的になにかをしてやるわけでも、してもらうわけでもない。

 俺がいなくても、アイツ等はきちんと歩いてゆける。

 変な話かもしれないが、そのある種の関係性の薄さが安心できるのだ。

 動機はそれぞれの内なる理由にある。

 逆に、エレオノーレのように、俺が居なくなっても困らないというのに、拘られる方が居心地が悪い。居心地の悪さを感じていても、目を付けとかないといけないから顔を出さなければならない。周囲もそれを強要する。義務になればなるほど……余計にうっとおしく感じる。

「口付けをしたのは、そんな契約の意味じゃなかった」

 そうか、と、心の中だけで返した。

 あの海へと続く坂道でのことを否定しない。事実だからだ。確かにあの場所で俺達の道は交差した。が、重なった一瞬が終わった時、俺達はまた別の方向へと進みだした。それだけのことだ。

 破滅の予兆なら、最初からあっただろうが。

 せめて、どちらかがもう少し大人しければ良かったんだろうが、生憎自己主張は強い者同士だったし。

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