夜の終わりー3ー

 アデアにあそこまで言われてしまうと――。

 逆に、そのままエレオノーレの部屋へと向かう気にはなれず、先に王太子の顔を見ておこうと思ってアゴラをフラフラと歩くことにした。んだが、今日はそういう運の日なのか、王の友ヘタイロイや政務担当者の集まる将軍詰所や円堂に王太子はいなかった。付属している食堂か迎賓館の方かとも思ったが――。

 たった今、そちらに向かうわけにも行かなくなった。

 目が合った以上、無視するわけにもいくまい。言われる事は分かっていても。かつては俺のお目付け役だったんだし。


「ただいま」

 うむ、と、プトレマイオスは頷き、ポンポンと、俺の身体を叩きながら「もう少し、身を守ることも考えて欲しいものなのだがな。最早、独り身ではないのだし」と、腕やら頬、耳の新しい傷を確認しながら小言を合間に挟んできている。

 ミュティレアの事実上の支配者を長年やっているせいか、口調は昔よりも少しゆっくりになっている。ただ、一般的な権力者連中と違って、髭は伸ばしていないが。

 元々丸顔の美男であり、髪質から察するに髭自体も細いせいかもしれないが、マケドニコーバシオから追放された事が影響しているのかもしれない。ギリシアヘレネスでは、ひとかどの者になれば髭を蓄えているんだから。

 もっとも、王の友ヘタイロイ」においては俺やネアルコスのようにまだ二十の代になったばかりの者や、そもそも王太子自身が髭を伸ばしていないせいもあり、現国王の臣下だった事のある年長組以外はあまり伸ばしてる者もいないんだが。

「俺の結婚は、まだ先だろう」

 アデアの事、そして、エレオノーレの事を言われるのが分かっていたので、最初のその探りの台詞にも肩を竦め、余裕を持って返す。

 確かに結婚してしまうには、今回の講和が好機といえば好機だったんだろうが、俺自身の年齢的な問題――明文化された決まりではないんだが、自由市民や富裕層、権力者なんかは三十の代になってから結婚する場合が多い。特に軍人は、功績を上げてからより上流家庭の息女を狙うのでその傾向が顕著だ――もあってか、新都ペラからそういった伝達はなかった。で、ある以上、こっちから催促するってのも、立場的に難しい。

 そういえば、新都ペラにおいて、小規模ながら合同結婚式があったらしいとは聞いているが……。


 ふ、と、軽く溜息を漏らす。

 エレオノーレの説得もそうだが、似た問題としてアデアの扱いもそろそろ改めるというか、考えなくてはならないな、とは思ってる。婚約と結婚の中間みたいな状態で、長い事だらだらと……。

 ……あ。

 さっき、アデアの声色が変わった瞬間に言おうとしたのは、そういう事、だったのか? おそらくは新都ペラでのその式典に立ち会っていたはずなんだし、そこで羨む気持ちが生じたとか。

 ……女って、めんどくせえ。

「『俺の』と言えると言う事は、港でアデア様には会ったのだな」

 今度は俺が頷けば、ネアルコスが言った通り、王の友ヘタイロイの言では俺は動かないという共通認識があるのか、プトレマイオスはあっさりと話を切り上げた。

「なら、そういうことだ」

 が、あっさりと踵を返す態度が、どこか見捨てられたように感じて、つい追い縋ってしまった。

「いや、悪かったって、忠告を聞き逃してたのは」

「今日は素直だな」

 怪訝な顔で振り返るプトレマイオス。

 プトレマイオスとの付き合いは、王の友ヘタイロイの中では一番長い。だからなのか、俺が素直な場合にはなにか頼み事があると気付いているようで、既にどこか身構えている。

 てか、俺は普段そんな無理難題ばかりを押し付けてたか? 能力的に考えて、プトレマイオスなら大丈夫だろうって事しか頼んでないと思ったが。


 表情はともかくとして、視線を合わせたままでは言い難かったので、自然な動きで斜め下に目だけを動かし。

「……エレオノーレに、なんて言えば良い」

「甘えるな」

 即答だった。

 言い難いのを無理して教えを請えば、これだ。まったく、ほんとに過去俺を教育するつもりがあったのか、この男は。

 一言答えたきり、俺に背中を向けて執務へと戻っていくプトレマイオス。なんとはなしに、そのままプトレマイオスに後ろから付いて行くと、振り返らずに言葉だけを投げられた。

「なんだ? エレオノーレ殿の所へ行くんだろう?」

 確かに神殿に行くには一度円堂を出る必要がある。それには方向が違う。

 無論、行かない、という選択肢は残されてはいない、が、今すぐという気にもなれない。

「……台詞ぐらい考えさせてくれ」

 項垂れる俺を、プトレマイオスは苦笑いで自身の執務室へと招き入れた。


 俺の執務室の倍以上あるその部屋で、適当に椅子に腰掛けてみるが、敷物が上等過ぎて尻が落ち着かなかった。肘掛けのわけのわからない競技会を意匠化した飾りも、腕を乗せたら取れそうで怖い。華美な椅子は苦手だ。

 背凭れだけ付いている古い椅子を引っ張り出して座りなおせば、プトレマイオスは机で書類と向き合っていた。パピルスは外交文章で、羊皮紙はマケドニコーバシオ本国とのやり取り、木片は都市市民からの報告だろう。

 今は戦時ではない。

 が、だからこそ商売圏を巡る争いは熾烈を極めている。ヴィオティア――というか、それに加担したアカイネメシスが、海軍力を期待してアテーナイヱを支援し、急速に立ち直らせたせいだ。

 海運とエレクトラム貨の造幣が基盤のレスボス島としては、アテーナイヱ銀貨への対策や航路の保持で忙しいんだろう。

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