Alphekka Meridianaー40ー
強く大地を踏みしめた一歩、左足がそれを追い抜いて着地すれば、サンダルの鋲が土に食い込んで獣の爪のように引っ掻き始め、距離はぐんぐんと縮まっていく。
雑魚には構わない。
と、いうか、エスパメイノンダスとの間にある障害物以外の雑魚はもう視界にも入っていなかった。反射だけで左右の攻撃を避け、身体の軸をぶれさせない様に、腰を捻って最小限の動きで首か目を狙って撫でる様に斬る。守りを固めた敵はそう簡単には殺せないんだが、狙われているのが大将とあっては、俺に向かって来ざるを得ないんだろう。攻めて来る敵を殺すのは、そう難しいことでもない。
「はっ! はは」
前へと踏み出す足は緩めない。雑魚は、所詮雑魚だ。ここじゃない、こいつらじゃない。こいつ等相手には、業の全てを出す許可は下りない。マケドニコーバシオ辺境での拡張政策は金勘定優先の戦場で、結果は集めた兵の数と陣形でほぼ決まり、戦うのはあくまで予定に沿った内容でしかなかった。それを言い訳にするつもりもないが、この前のテレスアリアでの戦いも得られる利益から勘定して兵力を割り振っただけ。
勝っても負けても、窮屈さを感じていた。
なんのしがらみもなく、ただ、相手を殺すためだけに全てを費やす。敵を食らい尽くすために戦う。先生が俺のそうした部分を危惧している事を知っている。今の俺は。
しかし、どうにも気分がいいんだ。
純粋な敵意と殺意だけがあるこの瞬間だけは、本当に。余分なものはなにもない。煩わされるものはなにもない。そんな事は生き延びれる前提であることだからだ。
今、この瞬間だけ。目の前の現実だけ。たったひとつだけを思えるこの瞬間が――。
アンタもそうだろ? と、最優先で殺すように命じられているエスパメイノンダスに、視線で訊ねる。
ヤツの情念は見えない。ただ、俺自身へと突き刺さるヤツの視線をはっきりと感じる。敵とは認めているようだが、奇妙なほどに殺気は感じない。ただ、観ている。別にいい。向こうがそのつもりなら、一騎打ちのお膳立ては俺がしてやるだけだ。
コイツ相手なら、全てを賭けてもなにを失う戦い方をしても言い訳が効く。古風ではあるが『イーリアス』にもあるように……!
戦列を抜け、エスパメイノンダスの護衛へと斬りかかった瞬間、唐突にエスパメイノンダスが消えた。
横!? と、とっさに死角側へと意識を向けるが、一撃も来なかった。そして、そこで足を詰まらせたのが決定的な遅れになっていた。
「手前!」
伝令を集め指揮を出すためなのか、敵陣中央よりやや後ろの少し開けた場所。エスパメイノンダスは俺の突進を防ぎきれないと判断したのか、味方を盾に後退を始めていた。あと、数人で届くはずだった敵将が逃げていく。
興醒める、どころの話ではなかった。
恥もなく退がっていく敵に、一周回って怒りが込み上げて来る。
「ふっざけんなよ⁉ ここまで来て、ここまでやらかした癖に最後に逃げるってのか!?」
路肩の石でありたくなかったからこそ、この時代、この時期に喧嘩を吹っかけてきたはずなんだ。
その己の欲望に国家を賭けたはずだ! 分の良い悪いじゃない。この男も、自分という存在意義をそこに見出したはずなのだ! この時代という舞台で少しでも良い役を勝ち取るために。
違うとでもいうのか、と、エスパメイノンダスを睨み付けるとあらん限りの声で叫んだ。
「勝負しあがれ! 殺し合おうぜ、なあ! お前も、どうしようもなかったんだろ? その全部をぶつけたんだろ⁉ なのに、なんで退くんだ! このまま終わることでそれが果たされるのか? 他人の命を使って、それで仕舞いか!? 手前自身を賭けてみろ!」
叫びながらも、怒りに任せて敵を叩き斬る。長さも重さもある長剣だ。一撃で絶命させ、吹き飛ばし、急く気持ちに押されるように足を前に出す。
味方はついてこれてはいない。だが、投擲による多少の援護が、加速する一歩へとつながってはいる。
しかし、……ダメだ。敵の増援が次々に割って入り、間が空けられる。ここにきて、数的な劣勢の影響が響いている。
エパメイノンダスが、遠く離れていく!
ヤツを逃せば、ラケルデモン王を失った事実から敗北は確実となり、戦後の講和を引っ掻き回される。そんな状態で戦後交渉をすれば、この戦域にある各国の我が出る。しかも、マケドニコーバシオは王太子派と現国王派の反目もある。そこを衝かれたら――、いや、確実にそこを衝く。これまでの戦略を見る限りエスパメイノンダスはそれが出来る男だ。
……他に手段はない。
さっきのエパメイノンダスの動きは見ていた。投擲武器で確実に仕留めるには、味方の投擲によってエスパメイノンダスを誘導する必要がある。
これまでの戦いのような、確証は手に無かった。
しかし最早それしか手は残されていなかった。
「聞け! 我が兵士たちよ! 俺への援護を止め、斉射の準備に入れ。槍も石も全部ありったけくれてやれ! 俺を巻き込んでも構わん! 敵将の背中にたらふく食わせてやれ!」
俺自身、命令を叫んだ後、近くの敵兵の死体から槍を拾い上げる。
命令は既に発せられている。俺へと向かった殺意は、一瞬の躊躇の後、盾に遮られたようだった。
おそらく、俺の動きからエスパメイノンダスを狙っている事に敵も気付き、また、位置的に俺が突っ込んでもヤツには追いつけないと判断し、かつ、投石や投槍で応射し掣肘を加えるよりも守りを固めた方が耐えられると判断したんだろう。
間違ってはいない。
だからこそ、読みやすい。
戦闘は既に長時間に及び、いずれにしても一度立て直す必要がある。この攻防が、組織的な戦闘の最後だろう。
味方の攻撃が敵の陣列に突き刺さると同時に、俺は槍を握って助走を始めた。
追いかけっこじゃなかなか追いつけなくとも、投げられた石や槍より人は早く走れない。エスパメイノンダスが動きを止めること、それが味方の攻撃に期待した唯一の事だった。
ぎりぎりまで俺の槍は放たない。エスパメイノンダスが俺を無視して再び逃げるのか、それとも向き合うのか、まずはそれを見極める。
また、視線がぶつかった。と、同時に凌いだ槍のひとつを手にエスパメイノンダスも駆け始めた。ようやく、真正面から殺意がぶつかる。口の端が緩む、笑みが浮かぶ。
互いに槍を後方に引いて大きく一歩を踏み出すのは同時。
エスパメイノンダスの投槍の動きに合わせて、絶対に姿勢を変えられない、ほんの一瞬めがけてその未来位置へと槍を放つ。
ただ、それは俺自身の回避行動の制限をも意味していた。エスパメイノンダスが応じたのも、それを狙っての事だったのだろう。この敵をここで殺す。同じ事を思ったはずだ。
避け切れる、とは、端から思っていない。しかし、命までくれてやるわけにはいかない。なんとか致命傷を……。
槍を放った右腕の余勢をそのままに、右肩から前転するようにして、低い姿勢で立て直してエスパメイノンダスの槍を探す。が、見つからない。どこだ?
……分かっていたはずだった。自分自身の死角は。しかし、どうしても一瞬反応が遅れる。
槍は、目を失っている左から迫っていた。風を切る音がする。唐突に現れたようにも見える鈍色の青銅の槍の穂先が、眼前に迫る。
左に倒れるように飛びながら顔を逸らす。考えての行動じゃない。反射であり、今の姿勢から最速で動ける横行を選んだだけ。槍を見切るも何もなかった。
金属の冷たさと同時に痛みを伴った熱が耳朶から入り頬を上に向かって切り上げていく感触の直後、長く引き伸ばされたほんの一瞬の間の後、頭――いや、額を思いっきり殴られたような衝撃と、最早音とは呼べない衝撃と圧力が耳を叩く。
つ、と、顔を伝う血の感触。
視界が揺れ、浮遊感と酩酊感を感じる。
意識は失っていない、と、思う。だが、いつの間にか肩を掴まれているらしい。引き摺られている? 背中がごつごつした何かの上を滑っているのを感じ――歪んだ青の視界から仰向けであることを理解すれば、そのまま手足の感触を確かめる。金縛りのように、頭で思っても最初の一回は体が動かなかった。が、一度瞳を閉じて深呼吸してから全身に力を入れれば、今度は跳ね起きる事が出来た。
眩暈を感じながらも、俺を引き摺っていたヤツに向けて腰の短剣を抜くも「味方です!」の一言にすぐさま踵を返して敵へと向き合う。
が、敵は追っては来ていないようだった。エスパメイノンダスを連れて下がっている、のか?
敵陣に視線をめぐらせながら、短剣を腰に戻してそのまま左手で顔に触れるが、重症って程でも無さそうだ。耳の形は……まあ、縫うかきちんと切るかして整えるとして、頬の傷も骨には届いていない。場所が場所だけに出血は仕方ないとしても、いつも通りの怪我ってところか。
王太子がくれた眼帯は、成程、特注品と言うだけはあったようだ。額当も兼ねていたそれに槍が当たって弾かれ……無傷とはいかないが、命は拾えた。まあ、眼帯はひしゃげてもう使い物にならないだろうがな。
捨てようかとも思ったが、素の材料が良い金属だし叩き直せるかも知れないと思い、眼帯を外して腰のベルトに適当に引っ掛ける。
顔に涼風を感じた。
「どうしますか?」
背中から尋ねられても、若干ふわふわしたような眩暈が抜け切れていない頭では虫みたいにうごめく敵の中から再びエスパメイノンダスを見つけることは、自力では出来なさそうだった。
「エスパメイノンダスは?」
素直に尋ねるも――。
「不明です。傷は負ったようですが」
命に届いたかは分からない、か。
まあ、それも当然だろう。
戦場は混乱の極みにある。この戦場を指揮していたラケルデモン王は死に、エスパメイノンダスも少なくとも指揮が出来ない状態に陥っている。戦場は滅茶苦茶だった。
夜の迫る黄昏の中、文明人の戦いではなく、野蛮人がするような、個々に剣を振るい槍を合わせ……またあるいは手近な兜や石で殴り合っている。敵味方の区別すらついているか怪しいものだ。
「目的は達した、退け。この隙に撤退する」
命じたのは自分のはずなのに、どこか寂寥感を感じてしまう。
夏の終わりと秋の始まり。昼と夜の境目。
死にたいわけじゃない。生きる理由はある。
だが、それが今はどこか煩わしくもあった。
終わって始めて気付いてしまったが、結局は、この事態を招いたエスパメイノンダスでさえ、俺とは別の狂気で動いていたに過ぎないんだろう。そう思えば、無理に敵陣もしくは敵の都市に侵入してまでエスパメイノンダスを探す気にはなれなかった。
一撃は与えた。もし死んでいなくとも、すぐに復帰できるわけでもないだろう。
時代も戦い方も大きく変化しているのを感じる。自分自身も、それを少し寂しく思いながらも、その流れの先端にみんなといるんだという自覚はある。
だが……。
遊び相手は、減る一方だな。
自嘲気味に笑みを浮かべ――、最後に残された敵。いや、今だけは味方であるラケルデモン軍を見ながら、俺は、自分に付き従うものだけを引き連れ、戦場からの離脱を決めた。
ラケルデモン軍はまだ頑張るつもりなのか、撤退中も背後から敵味方の悲鳴が聞こえてはいたが、夕闇の中でその音も徐々に塗り潰される様に消えていった。
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