夜の始まりー10ー

 石畳を歩く自分の歩調が乱れているのを、耳に響く足音のせいで誤魔化せない。

 早く会いたいというよりは、早く終わらせたいと言うような妙な焦燥感がある。

 会いたくないような、しかし、約束が無いのに会いにいくのは、エレオノーレのことが……おそらく気になるからであって、なのになんだかそれを嫌だと感じていることに少し苛立つ。

 決着をつけると心を決めたってのに、こんな事態になるんだからな……。

 ふ、と、短く鼻で溜息を吐き、柱廊の隙間からアゴラの様子を見つめる。

 ……昔から、エレオノーレを見ていて苛立つことは多かった。でも、それは、今みたいな重荷に感じることとは違っていて、エレオノーレが本気になればもっと上手く立ち回れるはずなのにという、もどかしさに近く――。

 この言葉の範囲に俺の感情は入っているのかは分からないが、義務感やここまで連れてきてしまったことへの罪滅ぼしで会いにいくを、本当は良くは思っていない。

 行き着く先が袋小路と知って、歩みを緩めることはただの時間の無駄だ。だが、今、俺までもがエレオノーレの手を離してしまったら、本当の意味でアイツの心の寄る辺がなくなってしまうんじゃないかって、そんな不安がある。

 こんな時、昔の俺ならきっと迷わなかった。

「まったく」

 一言呟いて、短く溜息を吐いてから俺は扉に向かって呼びかけた。

「エレオノーレ、入るぞ!」

 エレオノーレは返事をしたのかもしれないが、ドア越しなのもあって声がくぐもっており、なにを言ってるかまでは分からない。

 ただ、押し留める声ではなかったので、そのままドアを開けると、エレオノーレは椅子に若干慌てた様子で座っており、姿勢や表情にどこか間の抜けた感じがあった。だから、つい、少しだけ噴出してしまった。

 だが、それによって重い空気がどこかへいってしまったのも事実で、いつも通り、とまでは言えないかもしれないが、気安く挨拶ができた。

「よう」

「久しぶり」

 はにかむエレオノーレには、それ相応の威厳は感じ――ないな、都市のお飾りとしてだけではなくメタセニア人の象徴にもしてやってるのに、軽率な言動が未だに目立つので、必要最低限の事しか政務をさせていないからかもしれない。

 もっとも、既に二十歳を過ぎているので、もう痩せすぎの少女の面影はない。ありがちな王侯貴族の息女のように長い髪を冠のように編み上げ、絹の一枚布をラケルデモンで一般的だったドーリア式に着ているのがかつての名残だ。ただ、狩りの女神であるアルテミスを髣髴とさせていた以前のような丈の短い動きやすい着こなしではなく、踝に掛かるほどに丈を伸ばし、複数の帯でそれを留めている。

 痩せすぎだった体型もそれなりには見れるようになった。多少は女らしくなってきている。

 ただ、老けたって感じはないものの、昔感じたような強さ……というか、信念というべきか、上手く言い表せられる言葉が思い浮かばないが、我の強さのようなものは表情から感じられない。

 もしかしたら、長く会わないでいたら、エレオノーレと気付けなくなってしまう日も来てしまうのかも知れない。

 とはいえ、そんな本音を口に出せるはずもなく――。

「秋に会ったろ」

 苦笑いで概ね予定通りの帰島だとアピールしてみるが、エレオノーレからしょげたような顔を返された。

「うん。でも、冬には会えなかったから……あ、いや、いいんだ、分かってる。そう、アーベルには、することがあるんだって。忙しいんでしょ? いいよ」

 慌てて、早口で捲くし立てたエレオノーレ。

 溜息は吐きたくなかったんだが、秋に本国へ戻る際にも冬に海が荒れる影響で帰島まで時間が掛かることや、この冬をマケドニコーバシオで過ごす理由に関しても充分に説明していたし、なによりエレオノーレの話が自己完結してしまっているので、反論の機会さえ見つけられずに、飲み込んだ言葉を吐き出すように溜息を吐いてしまった。

「……どう?」

 溜息の直後だったから、エレオノーレがどんな顔でそう訊ねたのか、そして、なにに関してどうなのか、全く分からなかったが、詳しく聞き返せば『だって』と、返って来るのが目に見えていたので、さっきプトレマイオスのところでもした話を、もう少し軽い感じで――血生臭い部分は抜きに――俺は話し始めた。

「ああ、トラキア方面への拡大は限界だな。アカイネメシスが危機感を感じている」

 エレオノーレは、どこか困ったような顔で首を傾げていたが、息継ぎの間を長く取ってみても、話を止めたり、別の話題を振っては来なかったので、俺はそのまま話し続けた。

「この島が緩衝地帯で、プトレマイオスが頑張ってくれているが……。ん、場合によっては、遠方の殖民都市建造を視野に入れる必要があるな。今はミュティレアによる海上交通網も十分に機能しているんだし」

「うん」

 うん……。

 うん、か。

 一言で終わらされちまったよ。

 気のないヤツに喋り続けてもしょうがないので俺は口を閉ざしたが、エレオノーレの反応が聊か不満で――違う話が良いならそう言えば良いし、この話題が嫌ならそれを言う間も与えたんだから――そのまま沈黙だけが延びていく。

 今日に限ったことでもないが、エレオノーレといると、言葉に詰まることが増えた。昔、エレオノーレが、ただ話したいとだけ言っていた頃は、まだ反応があった。喜怒哀楽が表情から読み取れた。

 だけど、今はなんだか、無理矢理話につき合わせているような心ここに在らずという雰囲気が見て取れる。

 そして、なにが不満なのかを訊いてもだんまりだ。

 だから、弾まない会話に溜息が増えていく。


「でも、それだけ国が大きくなったなら、もう大丈夫だよね?」

 唐突に、もしかしたらエレオノーレとしては、独り言のように呟いた一言が不意に大きく響き、俺はつい訊き返してしまった。

「は?」

 エレオノーレは、また『だって』と、言うのかと思ったが、少しだけ不満そうに唇を尖らせて答えてきた。

「だから、もう、国が大きくなったから、不安はないんだろうなって」

 二~三度瞬きをして考えてみるが、エレオノーレがなにを言いたいのかは分からなかった。アカイネメシスもラケルデモンも脅威には変わらないし、それを倒したところで、すべての問題の片がつくわけではない。

 内政に関わって理解したが、平時であっても問題は多い。属領化した都市国家の不服従の是正、農奴の反乱もあれば、村争いもある。

 悩みが尽きる日なんて、決して来ない。

 敵を倒しても、新たな敵は必ず現れる。

 そういう道を望んで進んでいるんだ、俺達は。簡単じゃないが、それでもその生き様が自らの完成に繋がるのだと信じて。


 嘆息して見せ、心底呆れたようにエレオノーレを見おろす。

「お前は、なにを言ってるんだ?」

「え?」

「これから始まるんだろう? 俺達、マケドニコーバシオの時代が」

 全く理解していない顔を向けられたので、最初から説明する必要があるんだと理解した。……つか、エレオノーレとしても、世話役の雰囲気やこちらに引きこんだメタセニア人から多少は、繁栄の中で次の戦の準備が急速に進みつつある空気を感じ取っているんだと思ってたんだがな。

 良し悪しは別として、本当にもう、コイツは戦いを忘れてるんだろう。

 もしかしたら、ラケルデモンでの日々さえも。

「いいか? ラケルデモンとアテーナイヱという、南部の先進国がこの戦争で疲弊した。そう、両国共に疲弊したんだ。敗北したアテーナイヱだけでなく、ラケルデモンも」

「だってラケルデモンは……!」

 エレオノーレの口を指で制して黙らせる。

 それが、先の戦争に勝ったということであれ、単純な強さに関することであれ、最早、我々にそれは通用しない。

 エレオノーレが予想出来る程度の事は、どの王の友ヘタイロイでも、いや、見習いでさえも気付いている。

 そして俺は、話の邪魔をされるのは嫌いだ。

「そもそも、ラケルデモンは農業と軍事力を軸とした国家だ。しかし、アテーナイヱは、オリーブ以外の作物が育たない不毛の地。現に、今回の和平条約でも、ラケルデモンは、ほとんど領土を奪ってはいない。確かに、アテーナイヱの指導部を解体し、ラケルデモンの傀儡とはしたが、これはメタセニアとの戦争で全土を占領した事と比べれば、はるかに軽い処置といえる」

 うん、と、頷いたエレオノーレに対し、そのまま「なぜだか分かるか?」と、質問を重ねてみるが、今度はエレオノーレは首を横に振った。

「アテーナイヱ人の戦死者は多いが、ラケルデモンの被害も少なくは無い。アテーナイヱ人の全てを奴隷としたとして、それを支配するだけの市民の人口がいない。土地を奪っても、ラケルデモンには価値が無い。なので、多額の賠償金と傀儡政権の樹立で和平としたが、それが問題なんだ」

 ふと、エレオノーレが目を皿のようにして俺を見つめる姿に、どこか既視感を感じた。

 ああ、そうか、ずっと昔には、俺がエレオノーレにこうして常識を教えていたんだったな。


 随分と昔の話で――、そして、おそらくは、教育係をいくらでも手配できる今の現状では、もう二度とそんな機会は訪れないんだろうなと思う。

「ラケルデモンは、あまりに商工業を軽視しすぎた。金を得ても、金を使って金を増やすという視点がないんだ。一時的に贅沢をして、物が溢れてそれで終わり。持続性の無い繁栄だ。しかもそれは、飢餓感を覚えさせる少年隊教育の破綻をも意味している」

 目を細め、漏れ聞こえてくる情報頼りではあるが、ラケルデモンの現状をかいつまんで話す。

 当時の俺自身の境遇に不満はあったし、ラケルデモンの国政も完璧なものではないと既に理解しているが、俺の知っているラケルデモンが自壊しつつある現状には、どこか寂しさも感じていた。

「俺達の知っているあの国は、もう、なくなるんだ。それが誰も望まない形であったとしても、な」

 いや、ラケルデモンには未だに充分な数の戦士はいるし、これまでの数多の戦場で得た知見も有る。楽な相手と見ているわけじゃないが……。

 俺は既に大きく舵を切った今のラケルデモンにはなんの愛着も抱いていなかったし、マケドニコーバシオ軍が劣るとも思っていない。

「これから、始まるんだ。王太子と王の友ヘタイロイによる、新しいヘレネスの歴史が。満たされることなんてあるはず無いだろ? 世界の全てを喰らい尽くすまでな」


 エレオノーレは、なにも答えなかった。

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