夜の始まりー8ー

 将軍詰め所に着いた後、すぐに自分の仕事で――いや、もしかすると、プトレマイオスの勘気のとばっちりを嫌がってなのかもしれないが――アゴラへと引き返して行ったネアルコス。

 ここも、変わった、と、思う。

 来る度に人が増えていて、忙しなさが増している。

「久しぶりですね!」

「アーベルさん、お部屋の掃除はできてますよ」

 バタバタと駆け出していくのは、島に来た時は少年従者だった連中で、その内のひとりはかつて俺の少年従者をしていたこともある者だ。かつては俺自身についていた方の見習いも、プトレマイオスにしごかれている影響か、それとも年月が経ったことで気まずさが薄れたのか、突っかかられることや顔を背けられることはもうなくなっていた。……時間ってのはそういうものなのかもな。

 そして、この島で複雑な国際情勢の中で実務を担当させているせいか、相応の落ち着きも出てきたように見える。安易には出来ないが、本国側の若い世代と交代制で、覚えが悪いのはこっちに放り込んでみるのもありかもしれない。


「おーう、おーう」

 適当に、ふたつ返事をしてその背中を見送り、背後から駆けて来た伝令に道を譲る。一つ前の角からラオメドンの少年従者が出てきたので、ラオメドンの所在を訊いたが生憎と北部の都市メテュムの方らしく、これからそっちへと向かうソイツに王太子からラオメドン宛の手紙を渡し……。

 ついに、貫禄と言うか、重厚な雰囲気を湛える扉の前へと着いてしまった。

 プトレマイオスの前ではめんどくさいことになるから、まずはここで一度深く溜息をついて、呼吸を整え、覚悟を決めてから室内に向かって呼びかけた。

「プトレマイオス! アーベルだ。今、いいか?」

「ああ、入れ」

 返事はすぐだった。

 まあ、テレスアリアの村争いの威力調停に出る前に、大凡の予定は伝わっていたはずだし、向こうでの仕事が終わってからも城塞都市セレトルムで数日使っている。交易船は常に忙しく出入しているので、水夫や商人から到着予定日がしっかりと伝わっていたのかもしれない。

 ……こりゃ、長引きそうだな、と、心の中だけで思って扉を開けた。


 部屋にはプトレマイオスだけではなく、レオもいた。

 将軍詰め所では一番大きな部屋で、かつて俺が使うことを提案されたこともあったが、俺は人が隠れられる物陰が嫌だったので、断った部屋だ。

 だが、こうして見てみると、支配者の威容を見せ付ける上では良い部屋なのかもな、と、思う。地図に書籍に、来客用の椅子、敷物、簡単な胸像など、物は多いが整頓されている。調度品の質もいい。

 こういうのは、本人の感性だよなと思う。

 俺はラケルデモン式の簡素な部屋が落ち着くし、武器防具は嫌いじゃないが収集癖は無い。ラオメドンや、その兄貴は見かけによらず長さや意匠の違う槍を大量に買い集めてたりしたな、そういえば。

 部屋を見渡した後、視線を向ければ、椅子に座ったままのプトレマイオスが、うん? と、小首を傾げて俺を見上げた。

 この島に来てから三年が経つと言うのに老けた感じはなく、軍人っぽさがやや薄い二重瞼も丸顔も出会った時のそのままだ。コイツは歳をとらないんだろうか?

 一方――。

「じいさん、意外と馴染んでるな」

 まず、軽い挨拶として、以前の面影が消えつつあるレオにそう軽口を叩いてみる。

「アーベル、失礼だぞ」

 だが、プトレマイオスに普通に叱られてしまい、レオは特に表情を変えないままだったので、どこか気まずさを感じて頭を掻くはめになってしまった。

「いや、お前が俺を叱るのかよ」


 レオは、現役復帰……と、言っていいのかは分からないが、旧アテーナイヱ植民地であるエーゲ海東岸諸都市における諸問題、及び俺が独断という進めているに対応するため、ミュティレアへと移って貰っている。無論、ここでラケルデモン人と接触することは要らぬ反感をもたれる可能性もあるため、都市内部でのレオの自由は制限されているが、ラケルデモン国内と比べれば不自由を感じるほどじゃない。

 レオも、俺の育ち方で教育者として不向きだと自覚したのか、異母弟との接し方に迷ってたらしかったので、こっちで仕事を与えたら相変わらずの無表情で、しかし、正確かつ確実にその任務をこなしおり、表情には出ていないがここでの生活も満更でもなさそうだ。

 残された体力はアルゴリダで使い果たしたのか、もうすっかり老け込んではいるものの眼光の鋭さだけは衰えておらず、老獪さはまだまだ現役だしな。


「健康か?」

 老人は冬と夏に死にやすい。まあ、あっさりくたばるような爺さんでもないが、色々と心配するような年ではある。

 ラケルデモン式に短く問えば、同じように短い返事が返って来た。

「無論」

 まあ、それで充分と言えばそうだな、俺とレオの間の挨拶は。


 そんなこんなで、舌を湿らせるための雑談はあっという間に終わってしまい……プトレマイオスが表情を引き締めたので、俺も本題へと入った。

 現在のマケドニコーバシオの状況は、予定通りでもあるので、そのわかりきった説明を軽く流す。領土や軍事力の変動、日和見や静観している都市への接触や勧誘、全て予想の範囲で進んでいる。

 勢力図の変化も無い。

 王太子派と現国王派間の争いは、ラケルデモンに対する脅威論のため、水面下での駆け引きが続いている。

 次いで、他国の動向だが……島における外交は、特例を認めず。現状の維持に努め、全面衝突は避けることの要請。他国の挑発に乗ることも厳禁で、不必要に刺激することも厳に控えること。

 かわりに、ミュティレアでの予算や徴税に関する権利の拡大を文章でしっかりと明示し、気持ちを宥めさせ。

 そして最後にテレスアリアの作付けや作柄の変化という、些細な遠地の吉報を滑り込ませることで機嫌を伺ってみるが……。

 プトレマイオスは、俺の話を全て聞いた後で深い溜息を吐いた。

「お前は、ここの状況を正しく伝えているんだろうな?」

 話を理解していない、ということではないのだと解る。プトレマイオスはバカじゃないし、独善的でもない。だからこそ、現在島の全てを任せているんだし。

 自分自身が本国にいたのなら、どんな判断をするのかを理解しているし、納得も出来ているのだと思う。

 その上で、島を実質的に統治する立場上、素直に納得できないし、してはいけない部分がある。簡単に俺に折れたのでは、納得してくれないのだ。島に追いやられている王の友ヘタイロイも、兵士連中も。

 それだけでなく、レスボス島の市民からの反発も出ないように、なんらかの譲歩を引き出すか、理解が得られるに充分なほど、俺にごねておく必要がある。


 ただ……、いや、そういうのを解った上でだが、もっと、効率的な、感情論ではない、無駄のない政治機構を作れないのかな、とも最近は思う。

 しかして、ひとつの無駄も無い政治は、はたして政治と呼べるのか、とも。

 って、いつから俺は哲学者になったんだ。

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