夜の始まりー7ー

 ミュティレアに着くと、港でネアルコスが出迎えてくれた。

 船から飛び降りれば、潮風の中にレスボス島の香りが混じる。

 短時間で長い移動を繰り返すせいか、いつのまにか土地の匂いに気付くようになっていた。マケドニコーバシオではなんとなく酪農というか、そうした牛馬の匂いが強く、テレスアリアは麦穂。ミュティレアでは、どちらかと言えば、マケドニコーバシオよりも都市の匂いを感じるような気がする。


「お久しぶりです、アーベル兄さん、今回こそご結婚の報告ですか?」

 人好きのする笑顔を向けたまま、いつも通りの毒を含んだ言葉を自然と掛けてくるネアルコス。

 まあ、言っている事は……いつものことの範囲内だし、これはこれで島の情勢が安定していることを証明するような挨拶だ。

 もっとも、同じ台詞をプトレマイオスが言えば皮肉に聞こえるし、無口なラオメドンが口にすれば事実としてそういう情報が流れているのかと不安になるが。

 身長差のあるネアルコスの頭をわしわしと無言で撫でつけ、アゴラの方へと足を向ける。

 埠頭からアゴラへと続く目抜き通りには、多種多様な人種がひしめいている。マケドニコーバシオ人だけでなく、アテーナイヱ人、アヱギーナ人、ラケルデモン人に、遠くはクレーテー人も。いや、ギリシアヘレネスだけではなく、アカイネメシスの東西の果ての属国――西の古代王国や、東のインド小王国群のひとつであるガンワール、その他聞いたことの無いような国の人間が往来を行き来している。

 皮肉と言うべきか、南部をほぼ支配下に置いたラケルデモンがアカイネメシスといざこざを起こしてくれているおかげで、レスボス島には戦災難民や脱走兵だけでなく、各国の非公式折衝のための使節や、旧アテーナイヱの取引先であった外国商人、そして――ラケルデモンの台頭を嫌うギリシアヘレネスの小国からの移民も集いつつある。

 活気と混沌。

 これだけ多様な人種と思惑が詰め込まれた小さな島で秩序が辛うじて維持されているのは、マケドニコーバシオを追放された王の友ヘタイロイやその精鋭部隊が駐留しているためで、均衡が崩れることがあれば、たちまち不可逆な混乱に島は包まれる。

 危うさを讃えた繁栄なのだ。


「どんなご様子ですか?」

 隣を歩くネアルコスが、特に表情を変えずに訊ねてきたので、マケドニコーバシオの冬の間の変化のどこから伝えるべきかを考えたが――、まずは悪い知らせを先にした方が良いなと思い、昨秋にマケドニコーバシオへと帰還した際に持ち帰った案件の返答を口にした。

「まあ、お前にも、プトレマイオスも……皆には、また苦労をかける」

 島の情勢は現状維持。

 領域の拡大も譲歩も行なわない。

 そして――、マケドニコーバシオ本国からの増援も出せない。現国王側の人間が島の中枢に入り込まれては困るのだ。

 プトレマイオスから飛んでくるであろう不平不満を予想して嘆息する俺に、ネアルコスは今度は苦笑いで言ってきた。

「そっちではなくて」

 あん? と、首を傾げて見せるが、下世話なサインを左手で出してきたのでその額を弾いて、さっきと違って呆れたように嘆息して見せた。

「結婚するなら呼ぶっての」

 いい加減飽きてきたネアルコスのからかに、最早動揺せずに返すが「できそうなんですか~?」と、若干嫌味な笑みで迎え打たれ。

 俺は、久々に頭を抱えて答えた。

「……どうなんだろ?」


 アデアとは、上手くいってるのかどうなのか分からない。

 いつものこと、といえばいつものことだ。ここに来る前に城塞都市セレトルムで昼過ぎ、ともすれば凪が迫る時間まで引きとめられ、町を連れ回された。

 隣り合って歩いてる時にじゃれつれたり、アゴラで哲学者の話を訊き、アデアが言い返したり、逆に言いくるめられるのを眺める。議論に飽きれば買い物――俺は邪魔になる装飾品は身につけないが、アデアがそうしたお守りとかを適当に買い漁り――をし、適当になにか摘まんで、王太子からの島の各個人向けの書状を受け取って船に乗った。

 それだけの事と言えばそれだけの事だ。

 ネアルコスがからかうような男女の事も無い。

 ……ただ、いつからか、そうしたことを、いつものこととだと感じていること、が、最大の変化なのかもしれない、けどな。


「驚きました」

 と、ネアルコスが、さして驚くほどの事も無い、ありふれたアデアとの日常に目を丸くしていたので、不思議に思って即座に訊き返した。

「なにがだ?」

 どちらかと言えば、アデアとの代わり映えのない話はほんのさわりで、クレイトスが酔っ払ってバカやった話とか、アルゴリダが再びラケルデモン支配下に戻ったものの前回の戦争の影響――まあ、俺等が……いや、より正確には俺がレオと異母弟を救出するために引っ掻き回したせいなんだが――で、政情不安に陥っている話や、冬の間の農閑期の拡大政策についての話にもっていくつもりだったんだが。

「アーベル兄さんが、意外と普通の恋愛をしていることに」

 ネアルコスは、演技が上手い。表情や態度に本音を出さない術を心得ている。なので、島では主に難しい交渉事に当たってもらっているのだが……少なくとも今のはにかんだ笑顔は本音だと感じた。


 普通、ねぇ。

 なにをもって普通というかは分からないが、少しだけ尻の座りの悪さを感じるような台詞に、俺は軽く首を傾げて見せ。

「なら、俺の恋愛の技が磨かれたのと同じだけの戦技を見せてもらおうか、挨拶の後で訓練場に来いよ」

 と、呟けば、ネアルコスはうひゃっと、短くおどけたような悲鳴を上げて、俺の斜め後ろを付いて来た。


 ……いつから、だろうな、と、ネアルコスほどに上手く表情を隠せているかは分からないが、心の中だけで呟く。

 島の王の友ヘタイロイ達が、エレオノーレと俺に関してからかいや苦言を言わなくなったのは。

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