夜の始まりー6ー
村争いを収め、近くの城塞都市セレトルムで周辺状況に関する最終的な報告を受け取り、内容をまとめてから新都ペラへの報告の伝令を出す。状況報告後には、遠征軍を離れる前に王太子とアデアの護衛を、連れてきていた若い世代の
まあ、若い連中の技量をそこまで信用しているわけではないが、現状、ラケルデモンはエーゲ海東岸都市の帰属問題でアカイネメシスと小競り合いがあり、こちらの国境への動員の情報は届いていない。
いくらあの国の軍隊が、必要最低限の装備だけを持ち、糧秣を現地調達し、進軍速度を上げられるとはいえ、兵を集めるのに三日ないし四日、テレスアリアと国境を接するラケルデモン同盟国に移動させるのに二日、仮に一日で国境線を突破されたとしても、それだけの日数があれば、ここから新都ペラまで余裕をもって帰還できる。
この周辺の賊相手なら、若い世代の連中でも後れを取ることはまず無いだろう。兵力だって充分にある。
今回の遠征の最終的な評価と報告書作成を終え、窓の向こうを見ればいつの間にか日が暮れていた。
さしものアデアも、必要最低限は配慮してくれる。軍務や政務が忙しい時をわきまえ、そういう時は比較的素直に待っててくれたり、勝手に護衛兵や小間使いの奴隷を連れて遊びに出たりする。
今回は後者のようだが……、いや、だからこそ、ここを出発する前にはアデアの散策に付き合う必要もある、か。
アデアの配慮に甘えるだけでいると、すぐに拗ねて忙しい時でも絡んでくるし。
くあ、と、欠伸交じりに伸びをすれば、肩や腕がコキコキと鳴った。
仕事はまだ終わりじゃない。レスボス島の運営に関して、王太子と相談しておかないと。
春とはいえ、夜は少し冷える。何度か編みなおしたり、染め直して修繕しつつ使っている……かつてアデアから贈られた最初の品である紅緋のクラミュスを羽織って、俺は王太子の部屋へと向かった。
丸々一件借り上げている、この都市一番の宿。
アゴラの周囲にある権力者の家や、この都市に派遣している政務官の家、もしくは円堂の宿泊施設を使えなくも無いんだが、王太子は辺境に向かえば向かうほど、都市の宿屋を使いたがる。
人や喧騒が好きって王太子の意向もあるが、次期マケドニコーバシオ王の選定の際に民衆からの支持――マケドニコーバシオでは、単純な世襲ではなく王位継承には民会の意向も反映される――を取り付けるという意味もある。
世界は単純には出来ていない。人の心も。
「お疲れさまです」
「おう」
宿の廊下で今日の宿直の二人の兵士と振り返り様、ミュティレアへの旅の準備として町の商人から贈られたゴマと干し果物の無醗酵のパン……まあ、ちょっと高価な焼き菓子だが、やや過剰分のあったそれを一枚ずつ渡した。
「ちょっとしかないからな、硬貨のように口にパッと放り込んでしまえ。代わりに、ちゃんと働けよ。明日の夜に俺は発つんだから、今夜は安眠させてくれ」
一般人は、そこまで大金を持ち歩かないし、布も高価なので財布は持たない者が多い。そういう連中は、賃金の数枚の貨幣を口の中に放り込んで舌先で転がしたりしながら持ち歩く。ちょうど、大きさも一口大の焼き菓子だったので少しからかうようにそう言えば、二人の若い世代の連中の軍団兵は、はにかんで返事をした。
「はい」
軽く笑って、再び歩き出す。
偉くなった、というとなんだかまだ素直に納得できない部分があるが、王太子の右腕として活動するようになってから、事務仕事の割合が増えた。訓練を怠っているわけじゃないが、今回のように軍の威容を見せ付けたり、実際に戦ったりすることの百倍近くは、地味な書類――各都市の納税状況や、作付け状況の確認、物流の管理、他国の調査報告――と向き合ったり、こうして兵士との信頼関係の構築に努めたり、後は、王太子とアデアの後ろ盾があるのでそこまでの苦労は無いが、マケドニコーバシオの
昔と違って、そこまでその作業に不満は無い。時折胸に去来する、上手く言葉に出来ない虚無感に似た気持ちがあるぐらいで。
「まだ起きてるか?」
部屋の扉を開ければ、テーブルの上でさっきまでの俺と同じように木片や書類に目を通していた王太子は苦笑いで応じた。
「そんなに遅い時間でもないだろ」
まあ、それもそうなんだが、王太子は時折――多分、疲労が溜まった際だとは思うんだが、熱を出すことがある。そこまで不安視することでもないが、その左右で色の違う瞳が、神の嫉妬を買っていると噂する信心深い連中も少なからず居る。
だから、俺や
王太子も、俺の予定を把握しているのか、すぐに実務の話に切り替えてきた。
「ラケルデモン統治下のアテーナイヱに対し、どの程度の徴税を認めるかだが……」
そう、レスボス島は帰属を曖昧にしているので、一番の揉め事である課税に関してはアテーナイヱ新政権の要求を呑んでいた。その代わりに、島の軍事や実権はこちらが握り、税以外の内政干渉や兵権の行使に関しては、どんな要請があっても無視させている。
「冬の間の物流次第だな。エーゲ海東岸では、アカイネメシスとラケルデモンがにらみ合ってるままだから、それなりの収入源だろう」
あくまで推測でしかないが、常識の範囲内――経済活動に対する一割の課税――程度なら、そう問題にはならないだろう。
戦闘が実際に起ころうが起こるまいが、兵を動員している以上糧秣は必要になるんだし。ラケルデモンが直接支配しているアヱギーナや、傀儡政権を樹立させたアテーナイヱ本国の商人を使ってはいるだろうが、アカイネメシスに近く比較的大きな島であるレスボス島を利用しないわけはない。
むしろ問題は……。
「正直な所、現在のアテーナイヱがラケルデモンと同道し、エーゲ海東岸を攻めた場合、どう動かす?」
王太子は、下唇を噛んで、少し考えている様子で、俺に質問を返してきた。
「どのぐらいの可能性と見る?」
「一緒さ。読めない、ので困ってる」
昨年のはじめ――一応の戦後処理を終えたラケルデモンがアカイネメシスと本格的に敵対しはじめてからの頭痛の種ではあるが、未だに結論が出ない問題でもある。最近再び
が、いざラケルデモンとの戦争になった際に、現在島に配備している
「プトレマイオスは怒るかな?」
王太子が、どこか疲れた笑みを向けたので、俺は肩を竦めて応じた。
「まあ、それを宥めに俺がいくんだろ?」
ミュティレアは、現状維持。ラケルデモン統治下のアテーナイヱには金は出す代わりにそれ以外の分野ははぐらかし、ラケルデモンが出れば謝罪外交。アカイネメシスにはエーゲ海東方植民地問題に関して口を出さないことで、攻撃の矛先を逸らす。
各勢力の衝突回避に努める。
……言うのは簡単だが、相当に
「頼むぞ兄弟」
「任せろ兄弟」
こん、こん、と、手の甲を打ち合わせてあい、王太子は俺に言質を与えた。
「なにかと理由をつけ、兵は出さない。収入の面では、軍事拠点としての維持を第一に。利益は無理にマケドニコーバシオに引っ張らなくていい。どうせ、現国王と折半だしな」
島には長ければ一ヶ月は滞在する予定なので、口頭で伝えられるとは思うんだが、一応、王太子はなにも掛かれていない……ちょっと悩んでから、木片ではなく輸入品のパピルスを手に、葦ペンに墨のインクをつけ、簡単な書状を書いて俺に渡した。
奮発したな、と、目で告げる俺に王太子は――。
「パピルスは、もう少しなんとかしたいな」
マケドニコーバシオは畜産も盛んなので、羊皮紙も使えるが、品質の面ではまだ安定していない。羊皮紙を採るためには屠殺しなければならず、自然と荷役出来ない老獣が選ばれるせいだ。
「旧古代王国の特産品だからな、まあ、木片は丈夫なんだし、使い分けていこうや」
丁寧に書面を懐に収め、建材の余りでもある不揃いな木片をコンコンと叩く。
さっき若い兵士に渡した焼き菓子に使われているゴマもそうだし、染料なんかにも北アフリカの旧古代王国由来の品は多い。もっとも、それだけのモノがあったからこそ発展したと言い換えることも出来るかもしれないが。
軽く笑った王太子が、ふと表情を変えて訊ねてきた。
「出発は明日か?」
「ああ、海は落ち着いてるし、あんまり遅いと、向こうの
だから、と、アデアの事でなにか言いたそうな顔をしていた王太子の機先を制して「プトレマイオスたちへ手紙があれば明日の昼に預かるし、今日はそんなに無理するなよ」と、続けた。
王太子はやや不満そうな顔をして見せたものの、分かったよ、とでも言いたいのか、俺の腕を二度軽く叩いて頷いた。
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