夜の始まりー4ー
灌漑用水路の用地の測量、そして、人員と資材の手配と管理で二日が過ぎ、いざ工事が始まろうというその日。
「いや、待て」
「なんだ?」
俺と王太子が、工事の監督に出発しようとししたまさにその時、アデアが何食わぬ顔で俺の隣に並んできたので、その頭を捕まえて天幕の中へ押し留めた。
「お前は、土木工事に参加するな」
つい頭ごなしに命じてしまったからか、アデアは歯を見せて言い返してきた。
「なにを!」
いや、俺もアデアの扱いはわかってきていて、アデアと話す際にはああしろこうしろと命じるとかえってめんどくさくなると知っていたんだが、どうしても、意識しないとこんな言い方になってしまう。
やっちまったよ、と、軽くした唇を噛む俺の肩に手をぽんと乗せ、王太子がアデアに向かって俺の代わりに返事をした。
「いや、察してやれよ」
察す? と、首を傾げたアデア。顔は王太子の方へと向けているものの、視線は俺から外さずに、睨んだままだ。
「妻が荒くれ者に混じって、水路を掘ってるなんて、夫としては気が気じゃないだろ」
王太子が楽しそうにそう告げ、軽く俺の後頭部を小突く。
いや、若干、意味合いが違うんだが――。
アデアは目を大きく見開いた後、ん? ん? と、楽しそうに首を左右に振りながら俺に詰め寄ってきたので、そういうことにしておくことにした。
「ええい、煩い」
が、アデアがしつこく俺の顔を下から覗き込んでくるので……顔を左に向けて向けられる視線から逃げた。
そういえば、いつからだろうな。
左目は怪我で失っているので常に眼帯をつけているから、顔を背ける時は必ず左に逸らすようになっていた。意識していたわけじゃないが、本能的に向き合っている相手が、完全に視界から消えないようにするためなのかもしれない。
そして、王太子はそれを知ってか必ず俺の右に陣取る。いや、王太子だけでなく、仲の良い
そしてアデアは――。
「我が夫は素直ではないな」
俺の左肩に右手を乗せ、軽く体重を掛けて跳ねるようにしてくっついてくる。
「お前には負けるっつの」
飛びついてきたアデアの腰を左手で支えて、ゆっくりと降ろし「ここは田舎なんだから、外出の際には護衛をちゃんと連れて行けよ」と、王族の癖に落ち着きのないアデアに注意しておく。
アデアは、はいはい、と、生返事を返しただけなので「絶対だ」と、念を押してから俺は王太子と共に天幕を出た。
……だが、横を歩いている王太子のからかうような気配のせいで、身体のそこかしこが痒くなるような変な居心地の悪さを感じる。
こういう言い合いでは勝った例が無いので、我慢して気付かないふりをして歩くが、一歩、二歩、三歩――。三歩が限界だった。
俺は横を向くと同時に一気に捲くし立てた。
「いや、ほら、アデアは普段着の絹の服だったろ? 監督っつっても俺達の場合は後ろでただ見てるだけってのは性に合わないんだし、汚れるなら軽装がいいだろうし。ただ、アデアがその辺の奴隷や無産階級の連中に混じって薄着で汗を流すってのも、外聞が悪いだろ」
今日は、俺も王太子も工事の監督という仕事上、普段よりも薄着で臨んでいる。
流石に王太子は亜麻布をエクソミス――右肩を露出したヘレネスで一般的な着こなし――で着ているが、それでも普段よりも丈の短い衣装で、外套の類は身につけていなかった。ヒラヒラした服は、杭や置石なんかに巻き込まれると危ないから。
そして俺の場合はもっと作業しやすいように、上を肌蹴易いように腰を革のベルトで縛り、丈夫なウール布を……一見するとエクソミス風ではあるが、身体に巻きつけるのではなく、肩に掛けて腰回りだけを二重に巻いた形で雑に身につけている。
得物も普段の長剣ではなく、下草を刈るのにも役立つハルパー――切っ先が鎌のように湾曲した短剣――と、手斧だ。
盾も長剣もないが、この格好で戦場に出ろといわれても、俺ならばなんの不足もない。ラケルデモン時代には、もっと貧弱な装備で戦ったこともある。
一頻り俺の言い訳……ってか、正論だが、それを聞いた王太子はにっと笑って一言だけ答えた。
「そういうことにしておこうか」
もう少し言い返したかった部分はあるが、兵士や村からの人足が集まっていたので――。ほら、やっぱりこうなるんじゃないかと思い、口を結んだまま実務へと移っていった。
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