夜の終わりー8ー

「……済んだのか?」

 穴を掘って埋めるのも手間だったので、離岸流を使って死体を海に流し、血の匂いを磯風が洗った頃、暗闇から王太子の声が響いた。

「ああ」

 松明の明かりを頼りに数歩踏み出せば、王太子と……その横には先生もいた。

 島での体制が確立したため、マケドニコーバシオとの教育制度の調整を理由に今回の船団には先生も同行していた。というか、先生の場合は追放というよりは自発的にミュティレアへと来ていただけで、当初からマケドニコーバシオ内外の諸都市からの招聘の要請は山程あったようだが。

 先生が同船しているからこそ、あのエレオノーレでさえも、俺がキルクス達を皆殺しにするとは予見しなかったんだと思う。

 見通しが甘いと言ってしまえばそれまでだが、確かに先生の前では、殺戮に迷いが生じる。

 でも、俺は――。


「なあ、兄弟」

 俺が兄弟と呼んだことを少し訝しむような顔をした王太子が、不安や戸惑いを隠すような笑みを作って小首を傾げて見せた。

「ん?」

「善を知るためには、不善がなにかを知る必要がある。それなら俺は――、最強にして最凶の王の友ヘタイロイでいい。他の王の友ヘタイロイに王太子、皆が道を踏み外さないために存在する悪の見本だ。これからの俺は、罪業のアーベルとして、皆と歩み続ける。ずっと、な」

 それが、マケドニコーバシオへと流れ着き、撤退戦で祖国の軍隊と戦い、自らの在り処を決めた俺の答えであり、これは決意表明でもあった。


 漂泊の日々は終わったのだ。

 俺は、俺がいて良い場所をようやく見付けた。どこへ向かったとしても、皆の元へ帰りたいと思える自分の心に気付いた。


 ただ、俺の言っている内容が内容だからなのか、王太子が複雑そうな顔をしていた。祝福すべきか否かを迷っているんだと思う。だから俺は、無邪気に笑って王太子の胸を軽く叩いた。

「俺だから出来るんだ。これまでの人生を振り返ってみても、俺はどんな環境でも決して屈することは無かった。諦めなかった。これからも、罪を抱えながらも堕ちずに生きていけるはずさ。皆とな」

 それに……、と、俺自身の軍団兵の顔を思い描き、そして、他の王の友ヘタイロイやその部下を思い起こす。

 素直なのから、ふてぶてしいのから、腹黒いのまで、色んなヤツがいて――だからこそ、毎日が面白くて仕方が無い。

王の友ヘタイロイは、一色で染め上げなくて良いんだ。皆が皆、自分自身の道を自分の足で歩んでいる。俺には俺の役割があり、そして今まで培ってきた信念と意地がある。俺が皆を糧に更に強くなるように、俺の歪んだプシュケーが誰かの糧になれるのなら……そして、同じような煩悶の中に居る人間の希望になれるなら、それに勝ることはない」

 しかし、王太子はあくまで俺を善の道に戻したいのか、困った顔のまま右手で自分の髪をくしゃっと掻き揚げた。

 松明の炎の色を映した王太子の右目。

 それは、夕焼けの色に輝いていた。


 そこで、俺と王太子を黙って見守っていた先生が、ずいと――いや、先生はいつもこうだったか――鼻がぶつかるかと思うほど顔を近付けて、俺に訊ねてきた。

「では、貴方は、自身が永久に完成せずとも良いと考えているのですか?」

 一呼吸の間を置き、俺は先生の目を真っ直ぐに見詰め返して答えた。

「いいえ」

 先生は、不思議そうに首を傾げ、目を皿のように大きくして俺が言葉を続けるのを待っている。その仕草は、どこか梟に似ているな、なんて思ってしまい、つい微かな笑みが浮かんでしまった。

「人は、完全無欠の存在ではありません。無論、正しい行いをし、尊敬を集め、自らのエンテレケイアを成す事は素晴らしいことだと思います。ですが、人は道を間違うものなのです。その一筋の傷によってその者のプシュケーは、永遠に損なわれるのでしょうか?」

「人は、失敗から学ぶこともあります。より良い道を探す事と、罪を重ねるということは同じではありません」

 ぴしゃりと言い放つ先生に、授業で答えを間違えたような生徒のような気持ちになりながらも、それでも変化しない自分自身の考えを胸に俺は答えた。

「……そうですね。ですが、生まれながらに黒く染められたプシュケーは、はたしてどうなのでしょうか? 強制的にとはいえ、血で汚れ続けたことで殺戮に快感を覚えたプシュケーは、二度と浮上することはないのでしょうか?」

 先生からも王太子からも答えはなかった。

 いや、解っている。

 この質問に是とも非とも答えてはいけないのだ、この二人は。

 だから、少しの間を空けたものの俺は自分から続きを話し始めた。

「……先生が、昔、ミエザの学園で俺に伝えた危惧を、前よりもっとはっきりと俺は理解していると思います。さっき始末した連中と俺は行動を共にしていたこともありますが……今、すごく、気分が良い。高揚感が消えない。肉を斬る感触も、骨を断つ手応えも、悲鳴も、怨嗟のこもった眼差しも、全てが心地よい。大事だと思った時期もあった、だが、だからこそそれをこの手で壊すことに快感も感じている」

 先生は微かに眉を顰め――。

「兄弟?」

 王太子が、少し不安そうな声で俺を呼んだ。

「大丈夫だよ。俺は俺だ」

 再び普段通りの表情へと戻し、王太子に軽く微笑んでから、視線を王太子から先生へと向ける。

「ミエザの学園で英知を学んだ俺も、俺自身です。王の友ヘタイロイや王太子、皆の事が好きな俺も。そして――、それと同じだけの劣等感と羨望、殺人や破壊の衝動を抱えているのもまた俺自身です」

 先生は静かに俺の話を聞いているようだった。先程のような問い掛けや相槌はなかったが、先生の瞳にはっきりと俺自身の顔が映っている。

「相反するように思えるかもしれませんが、その二つを併せ持つプシュケーが俺の本質なのです。どちらかの俺が勝って終わりというわけではないのです。それに、屈辱と闘争の中、数少ない選択肢を選び、生き延びてきた俺自身の過去を俺は否定したくありません」

 そして、同じように、失敗で挫けてしまった者や、最初から持たないせいで諦めてしまった者、ひとつの失敗で挫けてしまったが故にどうすれば立ち上がれるかを悩む者。

 そうした、堕ちてしまった者を救いたい。

 軍団兵を選ぶ際に、命を惜しまずに戦えるだろうと後が無い者を選んだ。

 しかし、もしかしたら、あの時既に、勧誘した兵士達の中に俺自身を見ていたのかもしれない。王太子の周りに王の友ヘタイロイが集ったように、自然と俺自身が仲間となれると者と引き合っていたのかもしれない。

「今、俺は自分が何者なのかを理解しています。俺の人生は、傍から見れば間違いだらけかもしれません。でも、その過ちさえも不可分な俺自身なのです。先生から見た場合、哀れだろうが、醜かろうが、俺の血肉となった過去なのです。悔いることも、恥じることも、捨てることもせず、全てを抱えて俺は歩み続けます」

「……それにより、貴方自身や、大切な人を破滅へと誘う事になってもですか?」

 真摯な先生の表情。

 最初に懸念を伝えられた時、余所者である俺を排除したいと言う思惑があるのではないかと勘繰っていた。だが、それは間違いだったと、今、はっきりとわかる。

 先生は俺を見て、懸念を告げている。俺に向かって、不安を伝えている。他の誰に向けてでもなく。


 だが、それは少しだけ論点がずれているとも思ってしまい、つい言い返してしまった。

「先生。生意気を言うようですが、王太子も王の友ヘタイロイも皆、子供ではありません。自分自身の人生を自分の足で歩いている。もし、俺が取り返しがつかないことをしでかすのなら――必ず、俺の命を絶ってくれるはずです。大切な仲間なのですから。お互いに」

 ふと、心中にエレオノーレの顔が浮かんだ。そう、今のアイツに、俺が道を誤ったら、殺してでも止めるような昔の強さは無い。きっと、一緒に破滅へと向かってしまう。だから、俺が妻に選ぶべきなのは……。


 王太子も先生も少し戸惑ったような顔をしていたので、俺は微かに口元を緩めた。

 笑顔を作ったわけじゃない、むしろ、なんの作意もない、自然な表情を二人へと向けただけだ。


 王太子は、少しだけ泣きそうな顔をしていた。本当は王太子は俺を覇道へと導きたかったのかもしれない。本気で。だから、王太子が俺を勧誘した物語の帰結がここであるということに責任を感じてしまっているのかも。

 そして、先生は――。

「……わたしの生徒達」

 王太子と軽く目を見合わせてから、二人で先生の方へと向き直る。

「「はい」」

「歩み続けなさい。わたしは、わたしの持つ知恵を授け……最後の時まで見守り続けます」

 皺の刻まれた先生の表情からは、その心中を読むことは出来なかった。

 普段通りのようにもみえるし、喜んでいるようにも悲しんでいるようにも見える。教わった期間は長くは無かったが、先生は間違いなく俺の先生でもある。もしかしたら、この表情は、俺達自身の気持ちが映る鏡なのかもしれない。

「「はい」」

 俺と王太子はもう一度はっきりと返事をしてから、お互いに向き直った。

「その時は頼むぞ、兄弟」

「そんな日が来るものか」

 拳を突き合わせるが、気持ちを上手く言葉に出来なくて、どちらからとも無く額をぶつけ――。

「お前さんは己で、己はまたお前さんでもある。本質は同じだ。違うのは演じ方だけだ」

「ああ、綺麗ごとだけの世界じゃないんだ。俺はアンタだ、揺れ動く心の両端が俺達だ」

 ――抱擁を交わした。

 三つ年上の王太子の方が体格が良いようにも感じるが、常に最前線に立つ俺の方が硬く引き締まった肉体を持っている。

 鼓動の熱さが聞こえていた。

 まるで、心の在り処が、言葉に出来ない感情を伝えたがっているようだ。

「共に歩み続けよう、兄弟」

「ああ、二人で歩むその道こそが覇道さ」

 アデアと婚約していたのはずっと前で、その時点で既に俺は王太子の身内だった。だが、今、本当の意味で王太子を兄のように感じていた。

 もう、迷いは無い。


 夜空を見上げれば、満天の星空を二分するように星が流れ、一瞬の煌めきを残して消えていった。

 他の星々は、何事も無かったように瞬いている。

 その一瞬の輝きは、死という定めを持つ人である俺自身を映し、そして尚、導くために誰かが流した――。途方も無く大きななにかの啓示のようにも思えた。



  ――Celestial sphere第六部【Virgo】 了――

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